◇
昼時のカフェに突然現れた本物の朝香果林。その登場には驚いたが、彼女は有名人ではあっても世間的に見れば普通の学生。この辺はお台場にも近いし、近辺の高校に通う学生なら誰だって利用する。だから、顔を合わせる可能性だってあったはず。なのに、この頼りにならない頭はそんな都合のいい解釈をしてくれるわけもなく、突飛すぎるこの現実に思考がついて行かなくなった。
動画を見て研究しようと思っていたのだが、リアルに現れた本物を無視するわけにもいかず、成り行きでお茶をすることに。朝香果林は一人でこのカフェに訪れたわけではなく、ちょうどさっき動画で見ていた虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の一人と一緒だった。
彼女たちはそれぞれ飲み物を買ってから席に戻ってきた。何か軽食でも頼んだのか、果林の隣に座る女の子のトレーには番号札が置かれている。
「えっと、確か」
「あ、わたしは虹ヶ咲学園のエマ・ヴェルデ。よろしくねぇ」
向かいの席に果林と並んで座る、赤毛を三つ編みにしたおさげの女の子に声をかけると、彼女はそう自己紹介をしてくれた。
青い目とチャーミングな頬のそばかす。おっとりとしたその見た目どおり、声音にも優し気な印象があった。そして、彼女は明らかに日本人ではない。なのに日本語がめちゃくちゃ流暢だった。外国人特有の訛りとかは全然ない。日本で生まれ育った、とかなのだろうか。
「この子はスイスからの留学生なの。ちなみにハーフとかじゃないわよ」
「マジか。じゃあ、なんでそんなに日本語上手なの?」
左隣に座る果林が疑問を汲み取って説明してくれる。俺がそう訊ねると、エマという女の子は柔らかそうな頬に人差し指を当て、何か考えるような素振りを見せてから答えてくれる。
「昔から日本のスクールアイドルに憧れてたんだぁ。他にもアニメとかを見てたらなんだか自然と覚えちゃって」
エヘヘ、と笑うエマちゃん。すげぇな。テレビとかじゃそういう外人を見たことはあるが、実際に会ったのは初めてだ。そんな軽い感じで世界的にも複雑で難しいと言われる日本語を覚えられるんだろうか。しかも、スクールアイドルなんて外国人からすれば異文化も異文化だろう。敢えてそこに挑戦するために来日するとか、顔に似合わず性格は相当アグレッシブなのかもしれない。
「それはそうと、君はもしかしなくても果林ちゃんのファンなんですか?」
エマちゃんは目をキラキラさせながら、俺にそう訊ねてくる。
あまりに唐突な質問だったので、もしかしたら日本語を間違っているんじゃないか、と思いながら果林の方をちらっと見たが、彼女の表情からしてどうやらそういうことではないらしい。
「なんでそう思ったの?」
「だって、さっきダイバーフェスの動画を見てたよね? それに、果林ちゃんが男の子に声をかけるなんて初めてだったから」
エマちゃんの言葉を聞いて、少し恥ずかしくなる。見られていたのか。しかも本人とその友達に。
そういうことは黙って流すのが日本人としてのマナーなんだよ、と諭してしまいそうになったが、おそらくこの子には悪気など一ミリもない。ただ、友達のファンかもしれない男がいたことが嬉しいんだろう。興味津々な表情を見ていれば、それは痛いほど伝わってくる。
隣の果林は黙ってこちらを見つめてくる。たぶん、彼女も俺の答えを待っている。本人の目の前で答えるのは超恥ずかしいけど、一番間違っているのは何も言わないことなので、羞恥心をぐっと堪えて俺は答えた。
「…………まぁ、そんな感じ、かな」
「わぁやっぱり~。よかったねぇ果林ちゃん」
言ってから顔が赤くなるのを自覚する。何故か向かい側を向けない。ぐいぐい食い込んでくるスイスの女の子につい辱められてしまった。穴があったら入りたい。ちょうど腹も減ったし、ドーナツでも買ってくるか。
「あと、俺は藤黄学園の星光。そうだな、英語で言うと」
自己紹介をしてなかったことを思い出し、いつも通りこのヘンテコな名前を分かりやすく説明しようと思ったのだが、エマちゃんは知っていた、というような表情を浮かべ、俺の言葉を遮って口を開く。
「あ~、君が果林ちゃんが言ってたカメラマンの男の子だったんだねぇ。うん、話は聞いてたよ」
「? そうなんだ」
思いがけないエマちゃんの言葉を聞き、俺はその隣に座る瑠璃色の女の子に視線を送る。
彼女のように多忙で、そのうえ様々な人との関わりがありそうな女の子に覚えられているのも予想外だったけど、友達にその話をするのはもっと意外だった。
朝香果林は手元に置かれたアイスコーヒーに口をつけ、それからこちらを向く。
「あんな風に出会ったら、話のひとつもしたくなるわよ」
「…………確かにな」
変な奴に勝手に写真を撮られ、名前を聞いたらもっと変な奴だったとか、俺ならしばらく忘れなそう。出会いに慣れていそうな彼女からしても、あれはインパクトのある邂逅だったらしい。
「二番の番号札をお持ちのお客様ー」
「あ、わたしでーす」
カフェの店員の声に反応して手を上げるエマちゃん。どうやら頼んでいた何かができたらしい。今は昼時だし、腹も減るだろう。果林は飲み物以外何も頼んでいないようだけど。
「えへへ~、久しぶりにここのパン食べるなぁ」
「…………」
「食べ過ぎて太らないようにね。スクールアイドルフェスティバルも近いんだから」
「分かってるって。今日はひとつで我慢するから。じゃあいっただっきまーすっ」
そう言って、届けられたパンを食べ始めるエマちゃん。しかし、俺はその姿を見ても何も言えなかった。彼女が食べているのはクソデカいフランスパンみたいなやつ。どう考えても女子高生が一人で食うサイズ感ではない。なんか恵方巻みたいな食い方で食ってんぞこの子。彼女の故郷にはこういう風習でもあるんだろうか。謎だ。
そんな感じで、食事(どう見てもフードファイト)をし始めたエマちゃんはそっとしておき、俺は果林に声をかけた。
「そういえばこの間のライブ、見てたよ」
「知ってる。歌ってる最中に見えたもの」
「やっぱ気づいてたのか」
あの時にウィンクをされたのは、どうやら気のせいじゃなかったらしい。よかった。もしかしたらこの子の魅力に毒され過ぎてそういう妄想を脳内で作り上げてしまっていたのかもしれない、とちょっと不安だったから。
果林はまだ残っているアイスコーヒーをストローで回し、からんと氷を鳴らしてから口を開く。
「私がスクールアイドルになったのを知って、驚いたでしょ」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、果林はそう言ってくる。
たぶんだけど、この子はあのステージで初めて朝香果林がスクールアイドルになったことに俺が気づいたと思っている。そりゃそうだよな。逆に知ってたらストーカーか何かにしか思えない。うちの学校に一名、それになりかけている美少女がいるけど、それは置いておこう。
ていうか、たまたまとはいえこうしてこの子と一緒にお茶をしたことを姫乃ちゃんに教えたらまたキレられそう。それか悔しがって発狂しながら床を転げまわるんじゃないだろうか、あの子。
「うん。正直、腰ぬかしそうになるほどビックリした」
「そうよね。私もなんでこうなったのか、今でも不思議だわ」
そう言ってから、隣に座るエマちゃんを見る果林。スイス人の女の子は口をモグモグしながらよく分からない、というように首を傾げる。
「前から興味があったのか?」
「そんなところよ。歌やダンスは有酸素運動にもなるし、モデルの仕事にも良い影響を与えるから」
それに、と果林は付け足すように言って言葉を続ける。
「やってみたら楽しかったのよ。思っていたよりは難しかったけれどね」
エマちゃんの髪を撫でながら果林は言う。その行動の意味は分からないが、そうされるエマちゃんは嬉しそうな顔をしながらパンを食い進めていた。仲いいんだな。
「そっか。でもすごかったよ、本当に」
主語を言わず、あの時の感想を述べる。もう会えないかと思っていたから、こうして直接言えてよかった。
俺の言葉を聞いて果林は少しだけ目を丸くし、それから視線を迷わせる。もしかすると、この子はモデルとしての自分を褒められるのには慣れているけれど、スクールアイドルとしての朝香果林を褒められるのにはまだ慣れていないのかもしれない。
「あ、ありがとう。知っている人に言われると、なんだか照れるわね」
「だって本当のことだからな。あの時の写真を姫────朝香さんのファンの子に見せたら、泣くほど喜んでたよ」
危ねぇ。うっかり名前を出すところだった。ダイバーフェスの時も共演してたし、いちおう面識はあるんだろうから、あの子が朝香果林の大ファンであることは隠しておくことにしよう。本人を目の前にした姫乃ちゃんが冷静を保っていられるかはまた別の話。
「私の写真も、撮ってたのね」
「あ…………うん。また勝手に撮ってごめん」
いちおう謝罪をするが、春の時と同じですんなり許してくれるものだと思っていた。しかし俺の予想とは裏腹に、果林はさっきと似た反応を見せる。彼女は顔を赤らめ、居心地悪そうにアイスコーヒーを啜っていた。
「…………まぁ、それがあなたの仕事だものね」
「うん。そうだな」
「じゃあ、はい」
「?」
果林はそう言って、手をこちらに差し出してくる。しかし、その意図が分からず俺は黙ったまま、その細くて綺麗な指を見つめていた。察しの悪い俺に苛立ったのか、彼女は少し頬を膨らませてにらんでくる。その顔を見て、そんな子供っぽい表情もできたのか、と変な感動を覚えてしまった。
「あの時の写真を見せてちょうだい、って言ってるのよ」
どうやらそういうことを言いたかったらしい。気づいてやれなかったのも悪かったけど、一言そう言ってくれればそれで済んだと思うんだが、と心の中で呟いた。
果林の頼みを聞いて、すぐにスマートフォンを操作してあの時の写真をディスプレイに映し、それを彼女に渡す。隣に座るエマちゃんも、果林と頭を合わせるようにしてその写真を見ていた。
「アイドルを撮るのは初めてだったから心配だったんだけどさ。その写真だけは完璧に撮れたんだ」
自分で言うのもなんだが、事実だから仕方ない。それくらい、いま彼女たちが見ている写真は理想に近かった。
数秒間、昼時で混み合っている店内の一部分に沈黙が落ちる。どんな感想を言ってもらえるのだろう、と考えながら待っていたら、やけにその空白が長いものに感じられた。
「…………ほえー。確かに果林ちゃんのライブは凄かったけど、写真だとこんな素敵に映るんだねぇ」
「ありがとう、エマさん。でも、これはたぶん」
パンを飲み込んでから褒めてくれたエマちゃんにそこまで言って、言葉を止める。この先を言ってしまえば、被写体となった彼女はまた照れてしまうかもしれないと思ったから。
「…………」
果林は黙ってスクールアイドルの自分を見つめている。他の誰かにどう思われるのかはコントロールできないが、これなら誰しもが良いと言ってくれる自信があった。たとえそれが撮られた本人だったとしても。いや、それが本人だからこそ、満足してくれるという確信がある。
だって、こんなに綺麗なんだから。
「良いなぁ果林ちゃん。わたしもこんな風に撮ってもらいたいなぁ」
「ああ、それなら今度のライブでエマさんも撮ってあげるよ」
俺がそう言うと、向かい側に座る二人の女の子は少し驚いたような顔でこちらを見てくる。何かあったんだろうか、って。
「どうしてライブがあることを知ってるの~? まだナイショにしてたのに」
エマちゃんがその疑問を口にしてくる。まずったな。これは姫乃ちゃんが裏ルートを通して知り得た情報だったはず。それを関係者でもない他校の男子が知っていたら疑いもするだろう。何とか誤魔化すか。
「えっと、うちの学校のスクールアイドルの子から小耳に挟んだっていうか、その」
「へぇ。なんて名前の子なの? その子は」
俺が焦っているのに気づいたのか、果林はテーブルに肘をつき、手の甲に顎を乗せて目を細めながら訊ねてくる。別に嘘が得意なわけではないので、ここで虚言を吐いても見破られる自信があった。なら、話が拗れる前に正直に言った方がいいかもしれない。そもそも俺のミスなんだし、その責任は自分自身で取ればいい。
「あ、綾小路姫乃ちゃんだよ」
ごめん姫乃ちゃん、と心の中で謝りながらその名を答える。すると二人はああ、と納得したような声を出す。
「あの子かぁ。うん、あの子から教えてもらったのなら納得だよ」
「そうね。彼女、よくうちの学校に来てるものね」
「あ、そうなの?」
「うん。果林ちゃんがスクールアイドル同好会に入った頃、くらいからかなぁ?」
「最初は遠くの陰から私たちが練習してるの見てたんだけど、最近はけっこう堂々と見学していくわよ? だから、知っていてもおかしくはないわね」
「研究熱心なのかなぁ? それともわたしたち、藤黄学園のライバルだと思われちゃってるのかもねぇ」
エマちゃんと果林の言葉を聞いて、俺は思わず頭を抱えた。何やってんだあの子は。もう推しのことが好きすぎて、歯止めがきかなくなってしまっているんじゃなかろうか。エマちゃんがそうポジティブにとらえてくれているところからして、現時点では不審に思われていないようだけど、度が過ぎると警察呼ばれんぞマジで。今度会ったらさすがに忠告しておこう。
ちなみにあの子が見に行ってるのは朝香果林のことだけだと思うのだが、その辺は本人には言わないでおこう。言ったことがバレたら俺が消されてしまう。
「そ、そんな感じで、綾小路さんから当日のカメラマンを任されたんだ。それで、虹ヶ咲のスクールアイドルを研究してたんだよ」
「ああ、だからさっき果林ちゃんの動画を見てたんだねぇ」
気を取り直して言うと、エマちゃんは嬉しそうな顔をして頷いてくれる。先ほどは照れていた果林も、今はまんざらでもない表情でこちらに視線を送ってくる。
「そうだったのね。でも意外だわ」
「なにが?」
果林の言葉に疑問を返すと、彼女はすぐに返事をしてくれる。
「あなたがスクールアイドルのカメラマンをするっていうのがよ。あの時、風景を撮るのが好きって言っていたでしょ?」
青い瞳が向かいに座る男を見つめてくる。そう言われて、俺は少し嬉しかった。あの春の日の会話を覚えていてもらえたという些細な事実が、この心を揺さぶった。
「正直、俺も意外だよ。スクールアイドルはもともと好きだったけど、写真に撮ろうなんて思ったことなかった。ダイバーフェスだって、依頼されてたまたま撮りに行っただけだったし、たぶん自分の意志じゃカメラに映そうとも思わなかった。けど」
言葉を切り、テーブルの正面に座る瑠璃色の女の子を見据えた。彼女は俺の表情が変わったのに気づいたのか、ジッと見つめ返してくる。
この記憶の中にある原風景。それはきっと、この地球上にあるどこかの景色でしか見つけられないと勘違いしていた。そんな俺の固定観念を木っ端みじんにぶっ壊した、一人のスクールアイドル。
彼女を撮れば、きっとまた
「あの夜、朝香さんのステージを見て────いや、あの公園で初めて会った時から、ずっと思ってたんだ」
「…………何を?」
訊ねてくる声に反応し、間を空けずに答えた。
「もっと、君のことを撮ってみたいって」
するり、と理性のフィルターを通すことなく自然と零れ落ちていく、その言葉。吐き出してしまった声はもう取り戻すことはできない。他人に聞かれてしまった以上、上書きすることはできても、言ってしまった事実だけは消えてくれない。
俺の言葉を聞いた朝香果林は、大きな青い瞳でこちらを見てくる。その美しい両眼と視線を合わせていると、まるで他の景色が白く塗りつぶされたかのような錯覚に陥った。そこで俺たちは二人で向かい合い、互いを見つめ合っている。世界がそこで終わってしまっても、この視界にはきっと、美しい瑠璃色だけは残り続けるだろう。
「ほ、ほえぇ。可愛い顔に似合わず大胆なことを言うんだねぇ、星くん」
と、そんなエマさんの声が聞こえ、俺は正気を取り戻す。
そして、それと同時にめちゃくちゃ恥ずかしいことをカミングアウトしてしまったのだと思い知らされた。顔が高速で赤くなっていくのを自覚し、誤魔化すようにもう氷しか残っていないはずのアイスコーヒーを煽った。
「…………い、今のは別に変な意味じゃなくて、その」
何か弁明しようと言葉を探すが、それ以上の続きが出てこない。やべぇ、完全に詰んだ。俺としては本心だったのだが、それを聞いた側がどうとらえるかは操作できない。気持ち悪いとか思われたらどうしよう、とか後ろ向きな思考ばかりがどこかから溢れ出てくる。
いくら読者モデルをやっていて、他人から称賛されることが日常茶飯事の彼女だったとしても、俺のような人間にそんなことを言われたら嫌な気持ちになるのではないか。いや、間違いなくなる。
うぉあああああ、と心の中で今すぐ東京湾にダイブしてしまいそうなほど強烈な後悔の念に苛まれていると、ある声が耳に届く。
「そう。なら」
果林は言って、足元に置いていた学生鞄を開けて何かを探し始める。その一挙手一投足を眺めていると、彼女は小さな紙を取り出し、そしてそれを俺の前に置いた。
「? なにこれ」
訊ねると、果林は平然とした顔で口を開く。あれだけのことを言われたのに、どうやら彼女は何も気にしていないように見える。しかし、それはそう見えるだけ。心の中でどんな酷いことを思われているかは想像もしたくない。
「今、私の事務所でちょうどカメラマンを募集していたの。星くんが良かったらでいいんだけど、今度スタジオに来てみない?」
そう言われ、俺は彼女がテーブルの上に置いた紙に目を落とす。これはどうやら、朝香果林の名前と彼女が所属する事務所の情報が記された名刺だったらしい。
「カメラマン…………って、もしかして」
「そう。読者モデルの私を撮る仕事よ。さっきの恥ずかしい言葉からすると、そんなに悪い話じゃないと思うんだけど」
どうかしら、と大人びた微笑を浮かべる果林。畜生、やっぱ恥ずかしがってんのバレてんじゃねぇか。でも彼女自身に気にしている感じはなさそうだし、もうこの際、開き直ってしまおう。そんなことよりも、今は提案された件について考えるべきだ。
読者モデルとしての朝香果林を撮る。俺はこの子のことが撮りたくて、彼女の事務所もちょうどカメラマンを探していた。確かに双方の利は一致している。思いもよらぬ提案だったけれど、断る理由を探す方が難しい。だが。
「いいのか? 俺、まだ高校生だし、プロと比べたら腕は良くないと思うぞ」
せっかく誘ってくれた相手に残念な事実を告げる。でもそれは事前に言わなくてはならないこと。引き受けた後に幻滅されたら向こうもこちらも後味が悪くなり、絶対に良い結果にはならない。いくら写真を撮るのが好きでも、それで金をもらえるほどの領域には達していないことくらい、自分で分かっている。
だからこそそう言ったというのに、果林はすぐ首を横に振った。
「そんなことないわ。あなたが撮る写真はとても素敵よ。これは撮られた側だから分かるの。私だって、適当な相手を選んだりしないわ」
言いながら、真剣な眼差しを向けられた。そこに噓やからかい、依怙贔屓などの感情は含まれていない。彼女は本気でそう言ってくれている。なぜそこまで言ってくれるのかを振り返ってみたら、答えは意外とすぐに出た。
俺は朝香果林と出会ってから、これまでに彼女の写真を三枚撮っている。カメラマンとしての三枚など、廊下の隅に落ちた塵のようなものだ。本来であれば何十、何百枚の中から厳選して良いものを選び、それを見て納得する。これが写真という世界の常識。
だが、俺はたった三枚で自分自身と撮った本人を納得させている。もっと言えば被写体の大ファンと、その友達までもを。
朝香果林は写真を撮られ慣れている。だからこそ、彼女はそれが偶然ではないと判断した。たまたまが三回連続で起きるはずがない、と。つまり、彼女は。
「あなたのカメラの腕が欲しい。夏休みの間だけでもいいの。私を撮ってくれないかしら」
そして、切なげな表情で懇願される。
それが演技なのか本当の仕草なのかは判断できないが、この心を動かすには十分すぎる破壊力を持っていた。
「…………」
まさか、彼女の方から自分を撮ってほしい、とお願いされるなんてこれっぽっちも思っていなかった。そこまで言われて断れるほど肝は据わっちゃいない。モデルとスクールアイドルは違うけれど、被写体が同じならどちらにも良い影響を与えるはず。だったら、答えはひとつしかない。
「はえぇ…………か、果林ちゃんも積極的なんだねぇ。聞いてるこっちが恥ずかしくなっちゃうよぉ」
俺たちの会話を黙って聞いていたエマちゃんが顔を赤くしてそう言っていた。
言われてみれば、かなり直接的な表現でしか会話をしてないな、俺たち。途中からエマちゃんの存在を気にしていなかった。果林の目からはどう見えているのかは分からないが、おそらくエマちゃんからすれば俺は、ほぼ初対面の女の子にどストレートな思いを伝えるプレイボーイに見えたのかもしれない。その認識は間違っているので、全力で訂正しておくことにしよう。
「しょうがないじゃない。回りくどいのは嫌いなの。それくらい、エマだって知っているでしょう?」
果林は腕組みをしてそう言い放つ。俺はともかく、彼女はそんな性格をしていそうだ。まだお互いのことをよく知らないけれど、目的のためなら迷わず直球勝負をしたがるところとか、もしかしたら俺たちは少し似ているのかもしれない。
「う、うん。でも、良いなぁ」
「「?」」
エマちゃんの言葉の意味が分からず、俺と果林は同時に首を傾げる。そんな俺たちを見て、エマちゃんは温かな頬笑みを浮かべた。
「お互いがお互いを尊敬し合ってるのが、ちょっとうらやましいなって。きっと、二人は良い関係になるってわたしは思うよ」
「「…………」」
おっとりとした声とは裏腹なエマちゃんのストレートな言葉に、また顔が熱くなる感覚を覚えた。いや、大胆なのは君も同じじゃないかしら? そういうのは思ってても言わないでほしい。向かいに座る果林をちらっと見たら、彼女も若干ではあるが頬を朱に染めていた。うわ、超意外。ちょっと可愛いと思ってしまったのは仕方ないと思う。
そして、店内の一角に漂う微妙な空気。それはホイップクリームのように甘ったるいというかなんというか、今すぐ苦いコーヒーを一気飲みしたい衝動に駆られた。くそ、暑いな。もっと冷房きかせてくれ店員さん。
「もう、変なこと言わないでよエマ」
「え~? わたしは思ったことを言っただけだよ?」
「そういうことは私と二人でいるときに言いなさい。ほら、口にジャムがついてるわよ」
「むー、めずらしく果林ちゃんがお母さんみたい。いつもと立場が逆だよぉ」
「いいからジッとしてなさい。拭いてあげるから」
そんなやり取りをする二人を眺めながら俺は乾いた笑いをひとつ。エマちゃんのいつもと立場が逆、という言葉に引っ掛かりを覚えたが、今は流しておくことにした。
「あ。もうこんな時間。ほらエマ、今日は私のダンススクールの見学に来るって言ってたでしょ」
「ああ、うん。それじゃあもう行かなきゃだね」
果林は店内の時計を見てそう言い、彼女に口元を拭かれていたエマちゃんはそう言ってこちらを見てくる。
「じゃあ、わたしたちはこれで失礼するね。バイバイ、星くん。スクールアイドルフェスティバルの時、わたしのことも可愛く撮ってね」
「うん。最大限、努力してみるよ」
「やったぁ。えへへ、明日からも頑張って練習しよーっと」
なんて言いながら、エマちゃんはトレイを持って先に去っていく。そういえばあの超デカいパンはどこに行ったのだろう。いつの間にかどこかに消えている。これがエマちゃんマジックか。今度会うときは差し入れで俺イチ押しのコッペパンを買っていってあげよう。
そして、その場に残るのは瑠璃色の女の子。
そういえば、エマちゃんにいじられたせいであの提案には答えていなかった。もしかしなくても、彼女は俺の答えを聞くために立ち上がった状態のまま動かないのか。
俺は決心するために一度息を吐き、それから口を開いた。
「さっきの話、やってみるよ」
「え…………本当に?」
驚いたような表情でこちらを見てくる果林。むしろ、あそこまで言われて断れるほど、俺はできた人間じゃない。彼女はもう少し、俺のことを知るべきだと思う。彼女だけじゃなく、俺ももっと朝香果林のことを知るべきだ。
「ああ。俺なんかでよければ、ぜひ」
そう言ってみせると、果林は嬉しそうに笑ってくれる。そこにあるのは、何度も見たあの大人っぽい妖艶な笑みではない。年相応の女の子が浮かべる
「ありがとう。じゃあ今度の週末、それに書いてある事務所に来てくれるかしら。詳しい内容はそこで伝えるわ」
「了解。じゃあ」
そう言って、今度こそ連絡先を訊こうとスマートフォンを制服のポケットから取り出したのだが、それに気づいた果林は机の上にある名刺を指さす。
「私の連絡先、それに書いてあるから。知りたいことがあったら連絡してちょうだい。それじゃあね」
果林はそう言い残し、手を上げて俺の前から歩き去っていく。だが、俺は彼女の行動に違和感を覚え、その背中に声をかけた。
「なぁ」
「うん? 何かしら」
振り返る果林。彼女はよく分からないというような顔でこちらを見てくる。だが、俺の方がよく分からない。
「出口、あっちだぞ」
「…………」
果林はいま明らかに、明後日の方向へと歩いて行こうとしていた。出口の方を見ると、エマちゃんがこっちに向かって手を振っている。どうやら逆方向へ行こうとした果林を呼んでいるらしい。
「し、知ってるわよ。今のはわざとよ、わざと」
何故わざとで関係者以外立ち入り禁止、と書かれたスタッフルームへと向かわなければならないんだろう。
「じゃあな。今日は迷わずに帰れよ」
「あ、あなたに言われなくても分かっているわ。それに、今日はエマがいるから大丈夫よ」
あの子は母親か、とツッコミを入れそうになったが、プライドの高そうなこの子をいじめたら可哀想だと思い、言葉をぐっと飲み込んだ。
ふいっと顔を背けて歩き去っていく果林。あれは方向音痴というレベルの話なのだろうか。人には一つや二つ、どうしてもできないことはあるもんだ。どうでもいいか。
「…………よし」
その姿を見送ってから、俺は名刺の裏に書いてあった番号とアドレスを間違えないよう、丁寧にスマートフォンに打ち込んだ。
次話/読者モデルの彼女 ※7月5日更新