死んだ……
間に合わなかった……
――違う。
頭の中で誰かがささやくように。しかし、その可能性に気付いてしまえば最後、考えないようにしようと思えば思うほど、その声は大きくなる。
――“間に合わなかった”じゃない、“間に合わせなかった”、だ。さらに言えば“死んだ”ではなく、“殺された”、だ。
全身から血の気が引く。心臓がまるで頭の中にあるみたいに響く。胃が引き絞られる。足に力が入らない。
――俺が、見殺しにした。
違う、俺は助けようとした!
――違わない。俺は、自分の一時の安寧と引き換えに、この惨状を忘れたんだ。
違う、俺は、この人が死にそうだなんて知らなかった…。
――違わない。すぐ隣だ、見に行けば簡単に知れたことだ。
違う……彼女たちと話すには、サーラさんと意思疎通ができなきゃ……。
――違わない。俺はいつもそうだ。やりたくないことから目を背け、忘れた振りをして、忘れていたからしょうがないんだと言い訳をして。例えやったとしてもギリギリまで何もしない。結果、いつも手遅れにする。小学校でも中学校でも高校でも大学でも、ずっとそうだった。“忘れました”が通用しなくなる歳になると、今度は“知らなかった”を使いだす。少し調べれば、誰かに聞けば、すぐに分かることを知ろうとしない。いや、知った上で素知らぬ風を装うから余計にたちが悪い。いつも言い訳をして楽な方に流される。
脱出の意思疎通? 地図を画いて見せれば、逃げる意志をサーラさんは理解しただろう。配置されている“ゴブリン”が言えない? 自分がいるだろ。適当に丸でもつけて、自分を指せばいい。通じないかも? ギーギー鳴き真似でもすればいい。なのに俺は会話することにこだわった。
そう、俺は人との会話に飢えていたんだ。飢えが満たされれば心地良いよな。だから1カ月も時間をかけた。だから他から目を背けた。自分に都合の悪いこと、辛いことは見ない、考えない。そうだろう?
母親かもしれないエルフから、自分が辛いからって理由で目を背けた、ゴブリンさん?
つまり、彼女の死はお前のせいだ。
「――ェラ、ニエラ!」
……う……サーラさんが、俺を揺さぶってる……。
寒い……気持ち悪い、吐きそうだ……。
気が付けば、あの獣人の女性からは引き離されて、部屋の中央あたりで、サーラさんと向かい合っていた。あの、心なしか頬が痛いんですが……気付にビンタでもされましたか。
…今日ほど酷いのは今までなかったけど、ゴブリンに生まれついてからというもの、感情の振れ幅が非常に激しい。怖いと思うと恐怖で体が動かなくなる、気が沈むと何もできなくなる。楽しいととことん楽しいんだけど……いや、これも言い訳だな……俺はぬるま湯に浸かったままでいることを望んでしまったんだ。
人間は感情の動物だが、感情の赴くままに生きていては社会を構成できない。感情を理性で律するからこそ、人間は動物から人間になれるんだ…。
手遅れにしてしまったけど、今はとにかく行動しよう。人間であるために。
今俺ゴブリンだけど。
サーラさんは俺のことをちゃんと伝えてくれたようで、人間の女性2人のこちらを見る目に恐怖や敵意はない。まぁ、俺の方が死にそうな表情をしているせいかもしれないが……あ、いや、人間だとこの暗さじゃ顔なんてほとんど見えないかな? ともかく、俺が攻撃されないならなんでもいい。
女性は2人。1人は小柄で、比較的健康そうに見えるが、おどおどした表情でこちらを見てくる。ゴブリンの度重なる暴力に心が折れかけているんだろう。ゴブリンに従順になれば少なくとも過度な暴力は振るわれない。
もう1人のやや浅黒い肌の女性は、こちらは……だいぶ調子が悪そうだ。すぐにどうこうとはならないだろうけれど……その代わりと言えるのか、瞳には強い意志の力が宿っているように見える。ゴブリンは反抗的な態度を取るとより暴力を振るうからなぁ……。
猶予はあまりない。この2人には今は待機することをサーラさんからお願いしてもらい、次の部屋に行こう。
子育て部屋にはゴブリンが常駐している。基本的には1匹だが、たまに2匹いたりする。こいつらはとにかく“人間”が子供に不用意に近づくことを嫌う。授乳の時は付きっ切りで見張り、終わればすぐに子供を一カ所に固めて面倒を見るんだ。そんな部屋にサーラさんを入れて大丈夫か?となるが、このゴブリンは子供から離れない。不用意に子供に近づかなければ大丈夫だろう。それにゴブリンが相手なら俺が会話ができる。距離を保てばどうにかなるだろう。
と、Y字の分かれ道まで引き返してきたところ、サーラさんは私室の方へと俺の手を引いて行きかけたので、踏ん張って止める。サーラさんはびっくりしたように振り向き、心配そうに俺を見つめてくる。大丈夫、今は動かなきゃならないときなんだ。
おっと、繁殖部屋に行く前に忠告をしておかないと。
「サーラ、近づく、ゴブリン、赤ちゃん、だめだめ」
うんと力強く頷いてくれるサーラさん。絶対にダメだからね、ここで下手に騒げば全てパーだからね。
とはいえ、部屋の中を覗いてみて、当番ゴブリンが2匹いたら回れ右しなければならないだろう。おそらく、2匹もいれば片方はこちらを排除しようとしてくると思う。そうなれば逃げるしかない。さすがに子育て部屋を出てまで追ってはこないと思う。思いたい。
というわけで、子育て部屋の中を覗いてみる。子育て部屋も俺の私室と同じように、それほど広くない四角い部屋だ。ゴブリンの子供は部屋の左奥の隅、簡素な柵が立てられたその中にいる。正直、人間がガチで壊しにかかったら素手でも数分で壊れそうな出来だ。ゴブリンどもはそれを防止するために、反抗的だったり体力的に余裕のある女性には頸枷を嵌めるんだ。
……あぁ、宿直のゴブリンが2匹になるときって、頸枷が足りないときなのかね……?
ともかく、柵の手前にはゴブリンが1匹。半分寝ているような状態かな?座りながらもこっくりこっくりと舟を漕いでいる。
部屋の右側に目を向けると、そこには女性たちが壁際に並んでいた。頸枷を嵌められた、獣人と人間の女性たち。頸枷に繋がる鎖が短いため横になることができず、座ったまま眠っている。彼女たちの手前にはエルフの女性が、奥には人間の女性2人が横たわっていた。
これで現在この巣に囚われている女性全員、繁殖部屋の3人……いや、2人を合わせて計7名である。この全員を助けるにはどうすれば……いや、結論を焦る前に、まずはコンタクトだ。サーラさん、お願いします、と言おうとして後ろを振り向くと、なぜかサーラさんの目が限界まで見開かれていた。しかも体が小刻みに震えていて……
「ティーラ!」
今度はサーラさんが、鬼気迫る表情で飛び出した。
『グゴ!?』
まずい、サーラさんの叫び声でゴブリンが目を覚ました。まだ何が起こったのか分かってないようで、きょろきょろと周りを見回していて、俺とばっちり目が合った。サーラさんも超気になるが、まずこのゴブリンを落ち着かせないと騒ぎが大きくなる。俺は俺でゴブリンの方にダッシュだ。
『ギギャ!? なんダなんダ!?』
『なんでもない。子供たちの数は合ってるか?』
俺が遠くから柵の中を見るように背伸びしてみせると、子守役は血相を変えて柵の中を覗き込んだ。
『ギ!? 1、2、3……大丈夫、全員いる』
『よし。ククは顔を見に来ただけ。あっちの女性は、子供には絶対に近づけない。大丈夫だ』
『……本当だナ?』
疑わし気な顔でこっちを見てくる子守役に、俺は仰々しく頷いてみせる。
『分かってる。起こしてすまん。子供たちが起きるから、静かにな』
『それはそっちだロ』
俺の肩越しにサーラさんを迷惑そうに見るゴブリン。ああ、うん、サーラさんを止めないと……とはいえ、事情が何となく察せられるだけに、止めるというのも気が引ける。
しかし、ふーむ……このゴブリン、ゴブリンにしては珍しく、職務に忠実なようだ。俺に飛び掛かってくる素振りもないし、とにかく子供を気にかけている。見たところあまり体格がよろしくないし、狩猟役とかから弾かれて子守役になることが多いのかな?
俺が近づくと、サーラさんはエルフの女性を抱きしめたまま、うわ言のように“ティーラ”と繰り返していた。しかし残念ながら、エルフの女性の反応は何もない。
エルフの女性は、本当に、酷い状態だった。ほとんどの髪の毛は抜け落ち、頬はこけ、眼窩は落ち窪み、目は開いているがそこには何も映していない。全身に残る残虐の跡。古傷、かさぶた、真新しい傷。それどころか、欠けて足りない部分まで何カ所もある。そして、痩せた全身と比較して大きなお腹……ゴブリンの子を妊娠しているのだ。
サーラさんはこの人のことを“ティーラ”と呼び続けている。おそらく、この人の名前なんだろう。つまり、この人は最低でもサーラさんの知人ということになる。いや、サーラさんの様子を見るに、もっと親しい間柄の……。
サーラさんの気持ちも分かる。分かるんだけれど、今は静かに行動しないとならない。そっとサーラさんの華奢な肩に触れると、びくりと跳ねた。涙に濡れる瞳がこちらを向く。俺が手を自分の口に重ねると、サーラさんはゆっくりと頷いた。
サーラさんはしばらくの間エルフの女性を抱きしめていたが、やがて意を決したように立ち上がった。ちらりと見えた横顔の、泣き腫らした目と、固く引き結ばれた唇が、サーラさんの心情を物語っていた。
多少騒がしくしてしまったためか、他の女性たちは目を覚ましていた。だが騒ぐこともなく、ただこちらを凝視する4対の目に思わずたじろぐ。が、そんな俺の頭にサーラさんの手がぽんと置かれて、ぐしゃぐしゃと多少乱暴に撫でられた。
サーラさんが説明をしている間、俺はどうしていようか……と考えていたところ、子ゴブのいる柵の方で何やら泣き声がする。子守役が慌てて柵の中に手を差し入れ、抱き上げられたのはまだ小さな赤ちゃんゴブリンだった。産まれてあまり経っていないようだ。ということは、産後すぐの女性がいるのか。
子守役が何やら困ったようにおろおろしている。どうも赤ちゃんゴブリンはトイレではなく、お腹が減ったようである。が、今は女性たちの近くにサーラさんがいて、ゴブリンが近づけない。となれば、橋渡しをしないとな。
「サーラ。ゴブリン、ご飯」
「ん? なに?……ああ。はい」
俺が子守役の抱く、今や火がついたように本格的に泣き出した赤ちゃんゴブリンを指差すと、サーラさんも理解したようで、俺の方に移動してきた。念のため、サーラさんとゴブリンとの間に俺が割って入る。
『クク。大丈夫なのカ?』
『大丈夫。近づけない。それより、乳が出る女性はどれ?』
『左の2番ダ』
そう言って、左側の女性に近づいていく子守役。その手には赤ちゃんゴブリンと、子育ての場所にはそぐわなさそうに思える、棍棒が。いくら相手が女性と言えどさらに体格的に劣るゴブリンは、これで女性たちに睨みを利かせているんだ。
左の2番こと人間の女性は赤ちゃんゴブリンを受け取ると、乳房に近づける。すると本能に従って赤ちゃんゴブリンはすぐに吸い付き、母乳を飲み始めた。その女性の前で棍棒片手に仁王立ちの子守役。女性は子守役の方に怯えているようで、赤ちゃんゴブリンよりも子守役の方をちらちらと見ていた。ストレスで乳の出に影響しないんだろうか……。
成長の早いゴブリンの乳児期は非常に短いのだが、たとえ短くともゴブリン自身にはその乳を入手する術がないため、このように他種族の女性に母乳を貰うしかない。つくづく歪すぎる生態だ……これって本当に自然発生した種なのか……? それとも神様がこんな形にデザインしたのか? そうだとするとその神は相当に性根が腐ってるな。他種族にも、ゴブリンにも悲劇でしかないだろうに。
授乳が終わるまで手持無沙汰になってしまった俺たち。なので、今の間に女性たちの状態を確認しておこうと思う。と言っても、奥にいる女性2人はちょっと遠くてよく見えないが。
まず一番手前(エルフ女性を除く)にいるのは獣人の女性だ。犬?狼?のような外見で、三角形の耳が頭の上でぴこぴこと動いている。毛皮の色は黒が基調で、腹と末端になるにつれて白い。骨格は人間などと同じように直立二足歩行するものに見える。顔は…とても表現しにくいが、毛皮で覆われているし犬のような顔つきだが、完全に犬かと言われると、なんだか人間っぽさも垣間見えて……すまない、口では上手く説明ができない。そして彼女も妊娠しているようで、お腹が丸みを帯びていた。あと複乳ではなかった。なかなかの……すみません、ガン見はしてないんで許してください。
彼女、ゴブリンに反抗的なのか、生傷が絶えない。今もこちらを鋭い目つきで見てくる。牙をちらつかせられてはないので、ゴブ・即・斬!な考えではないようなのがまだ救いか。
その隣、頸枷をつけられているもう1人は人間の女性である。赤毛の髪が無造作に伸びていて、彼女が囚われてから相当の期間が経過していることが見て取れる。こちらはあまり反抗をしていないようで、体に傷が少なく、体調もかなり良いようである。というか、かなりがっしりした体格をしている。もしかしたら兵士とか冒険者の前衛職とか、そういった職業だったのかもしれない。そのせいで頸枷をつけられているんだろう。そして彼女の目には深い知性と、きっと脱出してやるという意志の強さが見て取れた。だからこそ無駄に反抗せずに体力を温存しているんだろう。
ただ、前にも言ったように頸枷はゴブリン作のお粗末なものではなく、ちゃんとしたものだ。これを女性を傷つけずに壊すというのは、道具もない現状ではかなり難しいと言うしかないようだ……。
なお、彼女も妊娠しているが、他の女性に比べて腹部がかなり大きい。臨月とまではいかないものの、おそらくそう遠くないうちに出産を迎えるものと思われる。
などと女性たちの状態を見ていたら赤ちゃんゴブリンの授乳が終わったようで、女性が手慣れた手つきで背中をぽんぽんと叩いてげっぷをさせていた。それが終わるとすぐさま子守役が赤ちゃんゴブリンを取り上げ、こちらも手慣れた手つきであやしながら柵の方へと帰って行った。
さて、だいぶ時間を取ってしまったが、ようやくサーラさんのコンタクトを始められそうだ。ここでも俺はサーラさんと離れて待っていることになる。理由の1つはもちろん、女性たちを刺激しないためなんだが、もう1つあって、というのも子守役は俺が女性に近づくのを酷く嫌がるからなんだ。ゴブリンどもは俺を子供にカテゴライズしているから、潜在的には敵である女性たちに近づけたがらない。ああ、サーラさんはもちろん例外である。1カ月も一緒にいて、攻撃なんかされないことを見てきているからな。
というところで、今回も暇になってしまった。子守役はこっちを捕まえには来ないとはいえ、さすがに近づき過ぎるのは危ういかもしれないし、そうすると柵の中の子ゴブたちを見ることも叶わない。結局、他のゴブリンが来ないかと外の様子に聞き耳を立てながら、各所と一定の距離を保ちつつ、所在無げに立っているのだった。
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今回は結構時間かかるな……普段なら寝てる時間だから、流石に眠くなってきたよ……ふあぁぁぁ……。
「ニエラ」
っと、サーラさんがお呼びだ。ようやく終わったのかな。と、眠気でしぱしぱする目をこすりながらサーラさんの方を見ると、なぜか手招きされている。えぇ、ちょっとそっちに行くのは気が引けると言うか…子守役が…って、こっちも舟を漕いでるぞ。子守役、お前それでええんかい。
ま、まぁ、こっちにとっては好都合だ。それにサーラさんが呼んでる以上、攻撃されることもないだろう。そろそろと近寄って行ってみると、サーラさんに抱き上げられた。目の前には獣人の女性の顔が。あー、首回りが頸枷と擦れたのか、毛が抜けて地肌が見えてるな……なんて関係ないことを考えていたら、ふんすふんすと匂いを嗅がれて、ついでべろりと頬を舐められた。ちょっとザラザラしてた。
味見……なわけないよな。つまりこれは、認めてもらえたということだろうか? 獣人さんを見ると、その目は最初よりもずっと優しいものになっていた。その隣の女性も、奥にいる2人の人間の女性も、俺をじっと見ていた。そこにはもちろん敵意なんてなくて、何だか力強さを感じる視線だった。何かしらの希望を見出したような。
だから俺は宣言する。
「助ける、皆、脱出する」
俺自身を追い立てるっていう後ろ向きな理由もあるけれど、それ以上に、彼女たちを助けたいと思うから。
すると獣人さんにもう一度頬をべろんちょされて、今回は完全に不意打ちだったもんで、びぇっとか変な声が出てしまった。そんな俺の反応に周りからくすくすと笑い声が漏れる。気恥ずかしくなった俺はやや八つ当たり気味にサーラさんの腕をぺちぺち叩くと、サーラさんも笑いながら俺を降ろしてくれた。
帰り際、サーラさんはエルフさんを抱きしめて耳元で何かを囁いていたけど、小声だったので俺には聞き取れなかった。
ひとまず、できることは全てやったと思う。あともう一押しの何かを手に入れられれば、脱出も夢ではないはずだ。
――そう思っていたんだが……。
次の日、陰険野郎が私室に来た。
――サーラさんを渡せ、と。
主人公の過去に触れずに来たから、内心の描写が完全になんのこっちゃ?である。前フリとか伏線って大事ですね。
21/7/27
サーラさんの華奢な方→肩
誤字報告ありがとうございます。