AD 1264
見上げるような天井には豪奢な彫刻が施されている。
帝国の大ハーンに相応しい謁見室。全てが新しくきらびやかだ。
即位して一年足らずの急拵えとは思えない。
新ハーンの力が伺い知れる。最もそれを知らしめる為かもしれないが。
バヤンは自身の君主フレグ(その新ハーンの弟にあたる)の使者として、先程から謁見の間に控えている。
祖国の地を踏むのは十数年振りだ。
西方の制定に出陣したフレグは、自分の兄と弟が祖国で後継争いを始めるや、どちらにも介入せず、その地に独自の王朝を開き、根を下ろした。昔っから賢く要領の良い人だった。
バヤンの父や重臣は、その賢明な王を讃えた。
フレグの王朝は彼等に護られ、そこそこ繁栄して行くだろう。
しかしバヤンはそこに落ち着けなかった。
いつも飢えて渇いていた。
今回の祖国への定期連絡の使者に名乗り出たのも、『何か』を求めての物だったのかもしれない。
小さなざわめきが起き、者々の気配が変わった。
高い天井まで空気がシンと張り詰める。
目を上げると今現在の帝国の大ハーン・フビライが、玉座にも座らずそこに立って居た。
「そなたがバヤンか。火の国の百眼の闘将」
バヤンは息を呑んで、すぐに返事が出来なかった。
全身から立ち昇る王者の気。射竦めるような眼。
身体の部品一つ一つが特別拵えのように美しく均整が取れている。
存在その物が王、という人物は居る! ・・祖父にそう聞いた事がある。
自分は今まさにその人物に対峙しているのだ。
バヤンの闘将の血がそれを教えていた。
彼はたちまちこの王の虜となった。
城の客間も新しく、贅が尽くされていた。
バヤンはバルコニーから夜空を眺め、物思いに更ける。
西国の強い光の星よりも、この国の霞んだ天の川を見るとホッとする。
自分の心はやはりこの国にあったのだ。
――!!
瞬間、バヤンは腰の刃物を抜き、後方へ飛びすさった。
上方からバルコニーに飛び降りて来た者がいたのだ。いやここは最上階の筈!?
「何奴!!」
大ハーンの居城に曲者!? 背筋が張り詰める。
「しまってくれ。驚かせて悪かった」
両手を上げて月明かりに照らされるのは、波打つ細い淡栗毛の若者。
「……・・・シリ・・ギ・・様!?」
どんな大人になったろう? 常々思っていた子供は、バヤンの望み通り、そのまま大きくなっていた。
清しい表情も薄青の瞳も、大人特有の濁りに毒されず、相変わらず真っ直ぐバヤンに向けられている。
変わった所といえば、細身ながら無駄のない、逞しくしなやかな体躯だった。
剣の教え甲斐のあった身となったのだろう。
「無作法、許してくれ。一刻も早くバヤンの顔が見たかった」
「あ、ああ」
バヤンはやっと気を静めて剣を収めた。
その手を差し出す前に若者は、駆け寄って両手で握って来た。
見上げて歯を見せた顔は、子供の頃のままだった。
「久し振り! バヤン・・!」
「こんな真似をしなくとも、普通に会いに来て下されば」
「バヤンに良くない。僕の立ち位置、解っているだろ」
「…………」
数年前の、現王とその弟王の玉座争い。
シリギは弟王の陣営にいた。
この強者がいなければ、フビライが玉座を手にするのに五年もの歳月を費やさなかった。
『旧王都の碧眼の獅子』の噂は、遠く西方の王宮にも流れて来た。
結局、気弱な弟王が長引く争いに参ってしまい、フビライに屈服する形で戦は終焉した。
フビライは寛大な所を見せ、弟王はじめ、荷担した将達も殆ど罰せず、そのまま取り立てたのだ。
もっとも『碧眼の獅子』に関しては、フビライが欲しがった……というのが、大方の見方だ。
「僕、王に目を付けられているから。繋がりある素振りを見せたら、バヤンに良くない」
バヤンはこの賢い若者が何故勝ち目の無い戦に執着したか、疑問に思っていたが聞かなかった。
終わって結果の決まった事だ。
「これから私と共に帝国の為に働き、信頼を得て行きましょう」
「……ふうん」
シリギは手を離して数歩後退した。
「やっぱり誘われたんだ、王に。西方へ帰らず自分の元に留まるようにって?」
声に表情がなくなり、その眼から懐っこさは消えた。
「シリギ様……? 将なら、偉大な王の元で働きたいと思う物です。僭越ながら私は、人の器を見る眼は持っているつもりです。あの王は、お仕えして間違いのないお方です」
「うん……」
シリギは更に下がってバルコニーの手摺に背中を付け、両手を広げて縁に掛けた。
影になって表情が見えないが、その眼は人間の物かと疑う程、鈍く光っていた。
「バヤンの眼は正しい。さすが百眼の闘将。フビライは王たる器は充分過ぎる程だ。それは『みんな』認めている。……だけれど」
「だけれど? 何なのです? 貴方が愚かでない事位、昔っから知っています。何か、王の不備を私に伝えに来たのではないのですか?」
バヤンは焦れて少し声を上げたが、シリギは横を向いて視線を落としてしまった。
「いや遅かった。バヤン、もう決めちゃってるでしょ。王に心を奪われている。もう流れの外には出られない」
「遅いって、何が……」
バヤンが問い掛けの言葉を探す前に、シリギは両手を手摺に着いて、ふわりとその上に立った。
――!?
今、一瞬、体重が無いような動きだった?
「バヤンは自分の信ずる道を進め。いつか僕と、戦場で対峙する時が来ても」
そのままシリギはふぃっと後ろに跳んだ。
「バ、バカッ!」
ここは最上階だ。
バヤンはバルコニーに飛び出した。
手摺から身を乗り出して見下ろすが、水盤のある庭園が篝火に浮かぶばかりで、誰も見えない。
「…………自分は、ナニを見たんだ?」
バヤンは呆然とバルコニーに立ち尽くしていた。
***
バヤンは暫くバルコニーに佇んでいた。
今のは確かにシリギだった。あの動きは篝火の見せた目の迷いか?
それに……戦場で対峙するだって?
「そんな、バカな!」
「バカでもないぜ」
螺鈿(らでん)模様の天井板の隅の暗がりに、銀の眼が光る。
赤い狼が薄くそこに現れたが、今日は少したたらを踏んでいた。
「くわばらくわばら……だぜ」
「妖(あやかし)か、何だ、どうした?」
「まったく今日は何て日だ。危うく見つかりそうになる奴ばかり」
「ほぉ、お前が見える者が居たのか?」
「見つかったらヤバイぜ、あいつ」
「……フビライ王か?」
「フビライ? いや、あれはテムジンと同じだ。俺様の驚異にはならない。怖いのは、あの青い眼のガキだ」
「シリギ様?」
「ああ、イヤだイヤだ。イヤな血を継承していやがる」
「血?」
「お前さん、あいつに何も感じないか?」
「子供の頃から知っているが、どうとも……」
「まだまだだな」
「………………」
風に乗ってバルコニーから裏門まで飛び降りたシリギは、林間に隠れていた葦毛を呼び寄せた。
「バヤン、凄い立派になっていたな。男の僕でも、惚れ惚れしちゃう」
独り言を愛馬にゴチる。
祖母の尾花栗毛を母馬とした連銭葦毛の一粒種。こいつは連銭すらない真っ白だ。
「フビライの配下に収まるか」
彼には来て欲しくなかった。後ろにあんな怖そうなのまで憑けちゃって。
ざわつく胸を抑えて、葦毛を返して旧王都の自城へ向かう。
***
AD 1276
戦の陣はいつもシンと緊張に満ちている。
人生の殆どを戦場の野営に身を置いてるバヤンには、この方が落ち着く。
大ハーン、フビライの配下に収まり、その命で大陸の南方に出陣して、幾年経ったか。
バヤンももはや、壮年と言ってもいい風貌になった。
フビライが玉座争いに勢力を裂いて、その間に失ってしまった領土を取り戻すのは、百眼の闘将の実力を持ってすれば、そう時間は掛からなかった。
そのまま更に侵攻を続け、遂に大陸で一番の大国を降し、王の期待に応える事が出来た。
総て順調だ。帝国はやがてこの大陸全て……そして海を越えて東の黄金の国をも制覇して行くだろう。
この勢いは止まらない。
大きな力が働いている。大ハーンフビライの持つ王者の力。
自分はその波頭に乗っているだけだ。
そして隣には赤い狼が笑いながら駆けている。
今や、バヤンは狼と同化し、自身が炎のオーラをまとった戦神と成っていた。
「早馬です!!」
大将陣に息急ききった伝令が駆け込んだ。
「ほ、本国の……大ハーンよりの緊急の……詔(みことのり)に……」
使者は馬からまろび降り、バヤンの前に倒れ伏しながら書状を差し出した。
直後、馬は泡を吹いて絶命した。
ただならぬ様子に、急ぎ書状を開いたバヤンは、その場で凍り付いた。
「……何を……や・っ・て・い・る? ……シリギ様!!」
バヤンが大陸南部を侵攻している間、草原台地の東部で異変が起きていた。
オゴデイの子孫の一族が周辺部族を次々制圧して、フビライ王朝の驚異となっていた。
それらを退けるべく、フビライは自らの息子二人に大隊を与え、出陣させた。
そこまではバヤンにも伝わっている。
大隊の中には将としてシリギも加わっていた。
フビライの皇子達は若くて今一つ頼りないが、『碧眼の獅子』がおれば心強い。
あわ良くば、シリギには、ここで大きく功績を挙げて、フビライの信頼を得て欲しい……バヤンはそんな風に考えて、あまり心配していなかった。
しかし……!!
いよいよ敵軍と相対した時、いきなりシリギは反旗を翻した。
裏切ったのだ。
しかも、同じく出陣したアリクブケの息子達と結託して。
そう、既に根回し済みだった。
長年フビライの元に平伏(ひれふ)す振りをして、この機を待っていたのだ。
「シリギ、さ……ま……」
書状を握るバヤンの指が震える。
何て……事……
言いようの無い喪失感が襲って来た。
自分の仕える王を裏切られた怒りより……自分に、何も言ってくれなかったシリギに対する、胸が凍える程の怒り。
淡栗毛の少年は、自分が好く程に、自分の事を好いていてくれなかった。
アリクブケの子供達とは結託しても。
いや、当然だろう。
彼に謀反を誘われて、自分は乗っただろうか。その可能性は髪の先程も無い。
自分は大ハーン・フビライに、心底忠誠を誓っている。
初対面から心酔しているのだ。
あの夜バルコニーで、シリギは鋭くそれを見て取ったのだ。
だから、何も言わずに去ったのだ…………
「・・・・シ・リ・ギ・・・・」
書状の末尾を見て、バヤンの目は更に血走った。
反乱軍は王の息子達を捕らえ、有ろう事か敵軍に差し出したのだ。
皇子と共に捕らえられた側近の中に……バヤンの妻の兄が居た!
「シリギ!! シリギ!! 分かって……分かっていて、やったんだな!! 私の怒りを買う事を!! 私がどんな気持ちになるか!! 分かっていて・・・やったんだな!!」
書状を握り潰して百眼の闘将は顔を上げた。
その眼は憤怒の炎で燃え上がっていた。
西の果て、砂漠の地で何年も、あんなに焦がれていた少年。
共に王を支え、帝国を守り立てて行きたいと、思っていたのは自分だけだった。
裏切られた虚しさが憤怒を何倍にも増幅した。
身体の奥で赤い狼が狂ったように乱舞している。
「出陣だ!! 北の草原台地を目指す!!」