AD 1275
空色の巻き髪をなびかぜて、少女が黄緑の馬を駆り、空を縦横無尽に馳せている。
「王サマ!」
頭を中心に縦に大きく一回転して、草原のフビライの横で急停止した。
「見た? 今の! 里でも出来るの、父様の他はアタシだけなの! スピードが乗らないとダメなのよ。エン……エン、ナントカ……」
「遠心力か?」
「そう、流石(さすが)王サマ!!」
娘はミソッ歯を見せて屈託なく笑った。
贅沢な絹を着せて室内に転がして置いても、この笑顔は見られなかった。
「アタシが大人になって、馬がもっと大きくなれば、王サマを乗せてあげられるよ!」
「いや、遠慮して置こう。心臓が幾つあっても足りん事になりそうだ」
「ふうん。シリギもおんなじ事言ってたなぁ。楽しいのに、勿体ない」
「シリギも?」
「うん、父様の馬に乗せて貰って目を回したのがトラウマになってるって」
「目を回した? あのシリギが?」
「子供の頃よ」
ユユが言い直したが、フビライはシリギの苦手な物を知って、ちょっと愉快な気分になった。
城の上階の一角が戦神の場所として、臣下も兵士も立ち入りが禁じられていた。
御一人での外出はお控え下さいと口喧しく言う側近達を振り切って、王は階段を登る。
重い扉を開くと、今窓から駆け戻った妖精の娘が、桃色の頬で息を弾ませている所だった。
「ああ、愉しかったぁ」
「今日は随分高く飛んだな」
「うん、渡り鳥の真雁の群れと会った。もうそんな季節なんだね」
真鍮の窓枠は大分前に取り外されていた。
籠の扉を開け放しても、小鳥は逃げ出したりはしなかった。
逆に、王の世界を生き生きと広げてくれた。
妖精の居室はユユの好みに段々と変貌させられていた。
ベッドのラシャの天涯には様々な植物の干からびたのが逆さに釣り下がって、『巣』のようだった。
天井や壁には色とりどりの石が星座の形に埋め込まれ、豪華な調度品は隅に追いやられた。
床だけは贅沢に羊毛の敷物が敷き詰められて、王が訪ねるとユユはそこかしこで好きにゴロゴロしていた。
シリギと子供時代を過ごしたのなら、見た目よりは年上なんだろう。
大人の妖精もいるようだが、成長しない種類の妖精なのだろうか。
一度そういう事を聞いたら暗い顔になったので、フビライは二度と口にしなかった。
どうでも良い事だ。この娘がニコニコと健やかに居てくれればそれで良い。
「草原大地の東の方ね……」
ユユは馬の鞍を降ろして部屋の隅へ運んだ。ペルシア製の細かい彫り物のあるサイドボードは、丁度鞍掛けにピッタリだった。馬は身軽になると、庭園へと降りて行った。
「兵隊が一杯歩いてた。空気も濁ってザワザワした嫌な感じ」
「ああ」
フビライは盃に葡萄酒を手酌し、トナカイの厚い毛皮にドカリと胡座をかいた。そこが王の定位置だった。
「オゴデイの子孫達の一派が勢力を広げている」
「オゴデイの……」
「草原大地は帝国の発祥の地、大切な土地だ。其処を好きにさせては置けない」
「仲良く出来ないの? オゴデイはトルイのお兄さんじゃない」
「血縁だから……血縁だから余計に厄介なんだよ、ユユ」
「…………」
ユユはそれ以上の口を挟まなかった。
妖精は人間のやる事に手出し口出ししないという理(ことわり)がある、と言っていた。
フビライも特にこの娘を戦に利用しようとは思わなかった。
そもそもあの有翼の妖精と約束している。破って連れ戻されたら嫌だ。
「王サマが出陣するの?」
「いや、王自らが動き回れる程、今の王都は安泰ではない。あちらの制圧は息子達に任せた」
「そう……」
ユユはちょっと残念そうだった。
王サマの隣で勇ましく出陣する自分を想像していたのかもしれない。
まあこの娘は戦が何たるかも分かっていないだろう。
「大丈夫だ、今回の隊にはシリギも加わる。碧眼の獅子が剣を抜けば敵は居ない」
「シリギ……」
「心配か?」
「………うん」
「なんだ、妬けるな」
「違うの」
ユユは座り込んだ床から天井の石の天の川を見上げながら言った。
「王サマは太陽だわ」
「むむ? 誉めてくれているのか?」
城の入り口で鐘が鳴って、来訪者の到着を知らせた。
フビライは眉をしかめたが、扉の前で切り替えて、王の顔になってから出て行った。
一人になってから、ユユは小さい声で呟いた。
「シリギは星なの。沢山の星の中の小さな星。太陽は自分の光が眩しすぎて、すぐ側の星を見る事が出来ないの」
***
AD 1276
その朝のユユは、胸騒ぎで目覚めた。
まだ外はほの暗い。
窓から草原を見ると、一頭の早馬が城門に入るのが見えた。
「……・・・・」
言い様のない不安に胸を押し潰されそうになった。
城中が叩き起こされ、あちこちで篝火が焚かれて、不穏にざわめいている。
階段を駆け昇る足音。
重い扉を乱暴に開いて、真っ赤な目を吊り上げたフビライが入って来た。
「居た! 逃げ出していなかった!」
「どうしたの? どうしてアタシが逃げるの?」
王はそれには答えず、大股で部屋を横断して、窓辺のユユの両肩を掴んだ。
「今、逃げ出そうとしていただろう!」
「逃げないわ、どうして?」
「お前も俺を裏切るのか! シリギのように、裏切るのか!」
「え?」
王の灰色掛かった黒い瞳の瞳孔は開いて、唇も頬もガクガクと震えている。
予感はしていた。
いつかこんな日が来ると。
シリギは敵軍と対峙した時、いきなり踵を返して味方に刃を向けたのだ。
しかも、アリクブケの息子達はじめ、連合軍の主力を抱き込み済みだった。
フビライ直下の僅かな軍勢は抵抗する間も無く襲霸され、皇子二人は捕らわれの身となった。
「シリギ……」
ユユは唾を飲み込んだ。
ユユだって、シリギがいきなり真正面から反旗を翻すとは思っていなかった。
「あれが、とうとう牙を剥いた。帝国の中心、草原台地を制し、俺の玉座を脅かしに掛かって来た」
フビライは声を震わせた。
ユユは肩を掴まれたままフビライの顔をじっと見た。
最初の日に両腕をネジ上げられた時より力が強くて痛いけれど、あの時と違って恐怖は感じなかった。
だってこの人は、こんなに傷付いて震えている。
この人の苦しみを取り除いてあげたい。その気持ちの方が強かった。
孤独も絶望もみんな取り除いて、自分に出来得る限りの事をやってあげたい。
「アタシは裏切らない!」
ユユは声を張った。
「アタシが王サマの側に居る。ずっと居るよ、王サマがアタシを必要としてくれる限り」
「……ユユ」
王の目に正気が戻った。
小さな肩に食い込んでた指を緩める。
「お前は……裏切らないよな……シリギから何も聞いてはいないんだよな」
「無いわ。言ったでしょう、あのヒト、アタシなんか相手にしている暇ないの」
何か知っているとしたらカワセミだ。
カワセミは彼を少年時代から気にかけて、暇さえあればソルカ妃の庭園を訪ねていた。
思えば、その頃から何だかユユの居場所もあやふやになって行ったのだ。
カワセミが目覚めてからずっと、水色の妖精の隣はユユだけの場所だったのに。
「ねえ王サマ、アタシが行く」
「どこ……へ?」
「シリギの所。妖精は人間の戦には手出ししない。でも、子供を想うお父さんの気持ちに応える事は出来る。アタシ、シリギに皇子サマ達だけでも返して貰えるよう、頼んでみる。断られても……」
ユユは目を閉じ……顔を上げてキパッと言った。
「こっそり救い出せる、と思う。アタシなら」
フビライはユユの申し出に素直にすがりそうになった。
しかし、拳を握り締めた。
「駄目だ、これは、人間の戦なのだ」
「王サマ?」
「奴が不穏なのは判っていた。俺の油断だ。ユユに擦(なす)り付ける訳には行かぬ」
この娘は自分の為に、妖精の禁を犯そうとしてくれた。
里へ帰れず独りぼっちの身にしてしまう。
自分より遥かに長く生きるのに……
「なに、人質とて皇子だ。今すぐどうこうされるような事にはならない」
フビライはユユの両肩に、今度はそっと手を置いた。
「お前は戦にそぐわない。大人しくしていなさい。何なら戦が終わるまで、何処か静かな所に移っているか?」
「何で! そんな事を言うの!?」
ユユの目に光が横切った。
「なら、アタシは何の為に王サマの横に居るの? 愛玩動物になる為じゃない。アタシを必要だって言ってくれる王サマの側に居れば、アタシが生まれて来た価値が見付かると思ったからよ!」
妖精の娘は窓に後退りして、後ろ向きに飛び降りた。
「ユユ!!」
一瞬消えた娘は、次に、乗馬した姿で視界に戻った。
「シリギの所へ行く! 王サマを苦しめるなら、あのヒトを敵にしたって構わない!」
巻き髪を頬にかけて叫ぶ娘に圧され、引き止める手が一拍遅れた。
ユユはフビライと目が合う前に目をそらし、旋風と共に消えた。