初夏の緑の中に、黄色い花が帯のように広がっている。
北の草原の台地。
灌木の林にシリギの淡栗毛がのぞく。
隠れてるつもりで、上空からは丸見えなんだが。
一昨日の昼から、彼はずっとここで張っている。
ソルカ妃の記憶の中の、トルイが語った妖精の里。
色々繋ぎ合わせて、だいたいここだと目星を付けた。
割りと正解だったみたい。
日に何度も空に草の馬を見かける。
その度に葦毛を駆って追い掛けるのだが、どうしても途中でフイと見えなくなる。
「人間には近寄れない世界なのかなぁ? でも僕の取り柄って妖精が見えるだけだし……」
そう、シリギは今一度妖精との接触に挑戦してみる事にしたのだ。出来ればトルイの母親に。
だってやっぱりどうしても、自分一人では分からない事が多すぎる。
っていうか、何一つ分からない。
そもそも自分で考えろって、一人ぼっちの僕には無理くない?
お祖父様には妖精の母親がいたし、大ハーンはもっと多くの人外の知り合いに囲まれていた(らしい)。出発点が違うじゃないか。
ハンデがあるんだから、ヒントの一つぐらい求めに来たって、恥ずかしくはないと思うっ。
という訳で、シリギがここで張っているのは半分腹立ち紛れでもある。
自覚していないが彼がトルイから受け継いだ物は、『妖精が見える』以外に『頑固』というのもある。
だって放って置こうと思えば、祖母の言う通り、放って置く事も出来るのだ。
何もしないで、『役割』とか無視して生きた方が楽に決まっている。
(でも……)
月明かりの下の、羽根の妖精の怒りに満ちた目を思い出す。
自分はきっと、大切な事を知らないんだ。知って置かなきゃならない大切な事を。
「とにかく何が何でも、何かが進展するまで、蛇のように粘ってやる」
「そんなに粘られても困るんだけれど……」
こちらはシリギの後方の落葉松のてっぺん。
二本突き出た両側の枝に、二人の妖精。
「カワセミ長が、『あの子供の件はユユに一任しているから手を出すな』って通達しているもんで、苦情が殺到してんだ。目障りだって」
「…………」
一人は真っ直ぐな髪を肩で切り揃えた男の子。
もう一人は先日の空色の巻き髪の女の子。
顔立ちが微妙に似ているから兄妹っぽい。
「何とかしろよ、ユユが中途半端に構おうとしたせいだろ」
「だって」
「どうせあの子は妖精が見えるんだから、手っ取り早くユユが行って、何が知りたいのか聞いて教えてやれば済む話だろ」
「でもね、ナナ」
「『だって』と『でも』は無しにしなさいって、この間父上に叱られた所だろう」
「だってだってでもでもでもでも! はいどうぞって答えをあげる事は、あの子の為になるのかしら。あの子の望んでいるのはそんなのじゃない。ううん、あの子は言葉で言う答えじゃなくて、もっと別のモノを欲しがっているのよ」
「そんな悠長にやってたら、カワセミ長に貰った一週間なんてあっと言う間だぞ」
「うう……」
「僕はもう行くぞ。ノスリ長に呼ばれているんだ」
「待って、ナナ」
ユユは手を伸ばして、空中の馬を呼ぼうとしたナナの手首を掴まえた。
「要するにね、あの子は『自力で何とかする』って達成感が欲しいのよ。じゃあ、アタシが何か借りを作ってあげれば、アタシの助けを正々堂々受け取れるんじゃないかしら」
「……それで?」
ナナはイヤ~な予感がしながら、一応聞いた。
妹がこういう理屈をこね出す時は、絶対ロクでもない事に巻き込まれるのだ。
「例えばよ、か弱い女の子が悪漢に襲われている所を助ける、とか」
「僕、行かなきゃ」
「待ちなさいよ、ナナだってチョイと作れば悪者らしくなれるって」
「そんな下品な事出来るか! 離せ!」
「健気で可愛い妹がこんなに頼んでんのに!」
「そんな代物何処に居るんだ? はーなーせ――!」
二人はもつれ合って落葉松の枝から足を踏み外した。
「わっ!!」
「キャ!!」
風の妖精なら勿論その位平気だ。風で自分の体重を支える事が出来るから。
二人は同時に風を呼び……
そしてそれは丁度逆方向同士から来て、ぶつかってキレイに相殺された。
この双子は時々こういう天文学的確率のドジをやらかす。
「ユユ、このバカ~~!!」
「きゃゃあぁぁあ~~!!」
――ばきばきばきばき――どさ!!
落葉松の木の根元でもつれ合ってノビている三人…………
……ん? さんにん??
木の上で揉めていた二人は、地上の男の子にとっくに気付かれていた。
そして話し声を辿って木の根元に来た彼は、見事に枝を突き破って落っこちて来た二人の下敷きになった。
・・・
・・・・・
「う゛~~~・・」
シリギは意識を取り戻した。
頭がズクンズクンする。
「あ、あ、まだ動くな。頭をぶつけちまってるからな。もうちょい目を閉じていろ」
大人の男性の声がして、視界が大きな掌(てのひら)に覆われた。
払い除けて見たい衝動に駈られたが、ここは素直に従って置こうと思った。
どうやら柔らかい草の上に寝かされているようで、周囲に複数のヒトの気配がする。
「ユユがバカな事言い出すから……」
「うう、ごめん。でも、ナナだって……」
さっき樹上で揉めていた二人の子供の声。片方は西の森で会った子だ。
「だってもアサッテもない! キミら二人、おかしな力が働いて、ボクにも予知出来ない危険が起こるんだ。二人同時に魔法を使うなって口を酸っぱくして言ってあったろ!!」
これは、同じく西の森で会った、羽根のヒトの声だ。確か、名前は……
「おぉい、カワセミ、そっちは後で説教しておくから、この子の治癒を頼むわ」
「何でボクが……」
「大長の指示だろうが」
「チッ」
思いっきりの舌打ちが耳に入った後、シリギの頭に別の掌が置かれた。
最初の掌より小さくて骨張っていた。
「頭はコブ一個だな、問題無い。それよりこっちだ」
「ひぃいい!!」
右足首を掴まれた瞬間、シリギは痛みで身体が剃り返った。
「折れてるな」
「折れてるか」
「痛いです痛いですってば!」
「痛いか?」
「痛いから痛いって……あれ?」
足首の中がモニョモニョして、最初の鋭い痛みはマシになった。
「すごい!」
「調子に乗るな。キミの身体じゃ術が通らん。まあ骨を接ぐ程度まではやってやるから、後は人間の治癒力で治せ」
「はい、あのぉ……」
「ボクは何も知らん。知っていてもキミに答える筋合いは無い」
「お祖母様に聞いた、昔、お祖母様の村にトルイが来た時の話。村を助けたトルイにお礼を言ったら、『カワセミが予知を伝えてくれたお陰だよ』って言ったって。貴方、そのカワセミさんなの?」
「…………」
一同黙っている。
目を塞がれているので表情が見えない。
「だったらどうなの?」
つっけんどんなカワセミの声。
「お礼、言いたい」
「村を救ってくれて有難うって?」
「お祖母様を助けてくれてありがとう」
ふっ・・と、静かになった。
目を塞いでいた掌もいきなり消えた。
周囲には誰も居なかった。
今しがたまであんなに何人もの気配がしていたのに。
・・・なんなんだよ・・・
シリギは上半身起こした。
「痛!!」
右足を見ると、ズボンがまくり上げられ、足首に布がしっかり巻かれている。
何の膏薬を塗ってくれたか、凄い臭いだ。
「あーあ……」
折角妖精達に会えたのに、何も聞かなかった。
見当違いな事のお礼を言っただけ。トンでもないマヌケっぷり。
自分を蹴りたい、蹴れないけど。
背後で吐息がして、慌てて振り向いたが自分の馬だった。
がっかりしながらも、自分を気遣ってくれる鼻面を撫でる。
妖精は人間が嫌いなのか? そうでもないよな、手当てしてくれたし。
でも何か、僕らとは違った掟や常識がありそうだなぁ。
そんな事を考えながら葦毛を見て、ある一点に釘付けになった。
灰色の連銭模様の首の付け根に革ひもが掛けられ、見覚えのない金の鈴が付いている。
シリギは葦毛の肩に掴まって立ち上がり、その鈴を手に取った。
子供の拳ほどの大きさで、燻し金の表面一面に、見た事もない文字が細かくびっしり彫り込まれている。
「お前、これ、どうしたの?」
馬はいつもと変わらない瞬きで主を見る。そして前掻きをして、身体を前後に揺すった。
「……乗るの? お前、もしかして、『行き先』を教わったのっ?」
葦毛はまるで頷くように首を上下に振るった。
***
葦毛は文字通り飛ぶように駆けた。
一掻きが普段より遥かに大きく、景色が流れるように飛んで行く。
馬上のシリギは心踊らせながらその飛翔感を楽しんでいた。
鈴の音がチリチリ響き、馬の四肢に意思を伝えて何処かへ導いているようだ。
「何か教えてくれる、誰かの所へ運んでくれるのかしら?」
何だよ、やっぱり妖精、親切じゃん。勿体振るのが様式美なのかな。
何時間か駆けて辿り着いた場所は、しかしシリギの期待を満たしてはくれなかった。
「え……と……」
葦毛が止まって一歩も動かなくなった場所は、周囲に人家も無い荒野だった。
草原の外れの国境近く、すぐそこの山脈の向こうは隣国だ。
「お前、本当にここでいいのか?」
葦毛は真っ黒い目でシリギを見つめ、フルルと唸る。こいつが喋れたらいいのに……
じき夕暮れで真っ暗になる。
シリギは決意した。
足を引きずりながら、白蝋化した木切れを集めて焚き火を作り、馬が止まったその場所に座り込んだ。
何のヒントも無い。この場所に導かれたという事実だけ。
ならここに居座ってやる。
頑固者の本領発揮だ。
細々と焚き火を燃しながら、祖母が持たせてくれた干餅をかじる。
誰が来る訳で無し、何が起こる訳で無し。
「まさか」
考えたくなかったけどやっぱり……
(僕が目障りだから追い払っただけ?)
そう思うと、落ち込みと自己嫌悪がいっぺんに来た。
僕、何をやってんだろ。
誰も喜ばない。誰の相手にもされない。勝手に突っ張って、お祖母様に心配をかけて。
丸くなって地面に転がった。
「あーあ……」
目を閉じて、冷たい地べたが頬に触る。
次の瞬間、目の裏を上から下へ、原色の色彩が流れる。
意識がガクンと墜ちる。
眠りに落ちる?……のとは、違う、何か変?
真っ白な天井の立派な天幕。
戦の時に陣地に張られるようなアレだ。
え? ここ何処?
粗末な野営をしていた筈なのに。
シリギは一所懸命意識を整えようとした。
身体は立っていると思うのだが、何か高い。
目の前の葡萄酒の盃は、多分自分の右手が持っていて、ぼおっとそれを眺めている。
水面の揺らめきが収まった時、そこに映る自分の顔が見えた。
(だ、誰っ!?)
自分じゃない、大人の男の人!?
紫の液体の中、異様にランランと光る、銀・の・瞳・・
(ええええ――ーっ!!)
ヒュウッと身体が引っ張られる。
目を開けると、天幕は消えていた。
元の荒れ地の細い焚き火。
心許なくマントにくるまる自分。
「今の……」
夢じゃないよな、リアル過ぎた。
もう一度、見られるだろうか。
頬を地面に付けてみたが、もうあの感覚には入れなかった。
「やっぱり夢だったのかな。そうだよな。そうそう都合よく何かが起こる訳ないって……」
――・・トルイ・・――
シリギは跳ね起きた。
まだ眠ってないよ、眠ってないってば。
視界に足が見え、いつの間に、焚き火の向こうに男の人が立っている。
「だだだ、誰だれダレ!?」
こんな荒野にいきなり現れるなんて、よく考えなくてもまともな人間じゃない。
身分はありそうな立派な胴鎧。
でも顔が土気色。
目は落ち窪んで光が無く、肩が不自然にユラユラ揺れている。
――トルイ……今回の戦、金軍を退けたのはお前の力、お前の功績だと、皆が称えるのだ――
読経を唸るような声。男性は一歩二歩とシリギに歩み寄る。
背筋が泡立った。
焚き火に照らされてそのヒトははっきり見えるのに、影が出来ないのだ。
――お前は何故王位を辞退した。埋め合わせに即位させられた俺の気持ちなど、お前には永遠に分からぬだろう――
「ちょっ、まっ……僕、トルイと違うし……」
――父上はいつでもお前を側に置きたがった。お前は兄弟の中で何もかも独り占めにしていたんだ。母上がどんな気持ちで居らしたか。もう沢山だ!!――
男性は速度を早め、躊躇無く焚火に足を踏み入れる。
何かが焦げる臭いがする。
しかし彼は表情ひとつ変えず、灰色の手をシリギの首に伸ばして来た。
「ひっ」
逃れたいのに足が動かない。
冷たい指が喉に触れた瞬間、爪先まで悪寒が走った。
あ、目の前真っ暗・・・
と思った瞬間、翡翠色の閃光が走った。一度経験した光。
喉の冷たい手は離れ、足の呪縛が解けた・・瞬間、すっ転んだ。
「ゴォホッ、ゲホゲホゴホ」
地面でひとしきり咳き込んで、目を上げると、白い二本の素足が立っている。
「下がってて!」
シリギに背を向けて、庇うように立ち塞がるのは、あの空色の巻き髪の女の子。
その向こう、吹っ飛ばされて立ち上がろうともがく、手も足も無い灰色の生き物。
さっきまでは人間の形だった。
女の子はもう一度杖を掲げる。
「ヒトの情念を餌にカタチを謀(たばか)ったモノ、清浄な風により塵へ還れ・・破邪!」
今一度、翡翠色が辺りを包んだ。
光が治まると、灰色の生き物は消えていた。
「んん?」
女の子はちょっと首を傾げて、杖を腰に差した。
「やっつけたの?」
「……と、思う……」
何だか自信無さ気だが、女の子は気を取り直すようにシリギに向き直った。
片手を胸に当て、両足を揃えてピョコンとお辞儀をする。
「アタシ、ユユ」
「あ、ああ……僕はシリギ。あの、ユユ……っって、痛ぁっ!」
安心した途端、足の痛みが全身に走って、シリギは尻もちを付いた。
化け物と対峙している時は痛みなんか感じなかった。
「ああ、そう、半端にしか治らなかったのよね。痛い? わよね」
女の子は屈んで、脚の布を外して丁寧に巻き直し始めた。
(優しそうなこの子なら、きっと色々教えてくれる、よし、まずは……)
「あっ、まずはお礼だわ!」
シリギが口を開きかけた所で、女の子が急に顔を上げた。
物凄く近くで目が合う。
睫毛も空色の、真ん丸な、澄んだ澄んだ瞳……
「あのね、アタシもナナも無傷なの。あんたが下敷きになって衝撃をみんな引き受けてくれたお陰で」
「あ、ああ、そう……」
ただ避けきれなかっただけなのだが。
「ありがとう、ナナの分もありがとう」
女の子は律儀に二人分のお辞儀をした。
「みんな、ノスリ様もカワセミ様も、感謝を示したかったんだけれど、何をするのがあんたに『良い』のか、分からなかったの」
「……そう……なの?」
分からないってどういう事? 僕はただ、色々教えて貰いたいだけなのに。
「それで、馬に、術の掛かった鈴を持たせたの。今のあんたに一番必要な場所に導くようにと」
必要な場所……この何もなさそうな荒れ地が?
「ここ、何処なの?」
シリギはこの地に来た時からの疑問をぶつけた。
「えっ?!」
女の子は意外な顔をした。
「あんたは、分かっていて、ここで野営を始めたんだと思ってた」
「知らないよ。馬が勝手に来たんだもの」
「そっか……あんたが何か確信を持って野営をしている感じだったから、邪魔をしちゃいけないと思って、隠れて待っていたの。でも、あんたはここが何処なのかも知らなかったのか」
「うん、知らない。ねえ教えてよ。ここ何処なの?」
女の子は息を吐いて、焚き火の炎を見据えたまま答える。
「昔、あの山の金軍を退けたトルイの軍が、兄王オゴデイの軍と合流した、野営地……」
「それって……」
「トルイの最期の土地」
女の子はシリギが座り込んでいる場所を指差す。
「そこでトルイは倒れていたの」