トルイは立ち上がって、黙って魔方陣の続きを描き出した。
オゴデイは今の言葉の意味を聞き直しはしなかった。
大昔に何らかの『掛けちがえ』があった、という事だ。
時間は戻せない。過去の事は追求しても始まらないのだろう。
「前の奴は、この何百倍もあった。草原全体、王都も帝国も壊滅させる力を十分持っていたって」
話題を変えるように、トルイが喋った。
「それを……防いだのか?」
「うん、妖精の何人かが力を尽くしてくれた。完全には防げなかったけれど、最小限で止められた。ほら昔、西の山で村が幾つか土砂に埋まったでしょ」
覚えている。
村は埋まったが、こいつが早々に住民を追い出していたので、人死が出なかった。
「あの時からお前の英雄伝説が始まったんだったな」
「英雄なもんか」
トルイは立ち止まって、一つ所から全体を見渡した。地面には複雑な模様が出来つつある。
「本物の英雄は、その時犠牲になってくれた一人の蒼の妖精だ。アイツはこんな魔方陣なんかに頼らなくても、素で、あの巨大な災厄を身を呈して止めた。本当に凄い奴だった」
少し荒れ気味にまた地面を引っ掻き出したトルイに、王はそっと聞いた。
「亡くなったのか?」
「まあそれに近い。何十年も昏々(こんこん)と床に臥(ふ)している」
人知無き場所で、妖精が命を掛けて土地を救っていた。
人の王の知る所とは、いったいどれだけの範囲なのだろう。
「王と国民は、彼に感謝を示すべきだろう」
地面を引っ掻いてた手を止めて、トルイは振り向いた。
「彼の事を人民に知らしめるべきだろう。王室は末々その英雄に感謝し、敬い奉るべきだろう」
「兄上、それ人間の発想」
トルイは苦笑いしながら作業に戻った。
「違うのか?」
王は素直に聞き返した。
「妖精は他者に何も求めない。基本的に欲が無い。有るのはどんな山よりも高い誇りだけ」
「難しい連中なんだな」
こいつと会話がこんなに続いたのは初めてだ。
もっとも会話らしい会話をしたのが初めてかもしれない。
「はは、そうかもな。でも慣れれば簡単なんだ。連中、『摂理』に殉じているだけだから」
「摂理?」
「これだけ色んな事が出来て、古い知恵がたっぷりあって、人間の何倍も生きて。そんな連中が欲を持ったらどうなると思う?」
「……たちまち世界に君臨するな」
王は、近くの岩に座り、腰を据えて話をしている。
「うん、その後はより色んな物を欲しがって、奪い合って、結局破滅に向かうんだ」
「………」
「だからね、この位が丁度良いんだって。人間が大勢で分担しながらこの世の業を背負ってくれて、蒼の妖精は世界の流れを見据えて、ちょっと助けたりする程度で。丁度バランスが取れている。それが、摂理に沿うって事だって」
トルイは魔方陣を描き終えて、中の小石や落ち枝を外に放り出し始めた。
「子供の頃、親父に妖精の里へ叩き込まれてさ、その辺を徹底的に教わった」
「だからお前も、王位の継承を拒むのか?」
王も立ち上がって、トルイの地味な作業を手伝い始めた。
「うん、そう。ヴォルテ妃との約束もあるし。何より半分妖精の俺が人間のトップに立つのは、違うでしょ、摂理に反する」
「そうか。妖精と同じで、欲が無いのかと思ったが」
「欲は、あるよ」
トルイは準備終わって、最後の棒をガランと放り投げた。
「ソルカに幸せでいて欲しい。大好きな蜜柑の木の元で末永く、子供達と平和に暮らさせてやりたい。これは欲だろ?」
王はちょっと止まって、トルイをマジマジと見た。
「欲……と言うのとは、ちょっと違う気がするな……」
「ふうん、じゃあ人間って、その他にどんな望みを持つっていうんだ? さあ準備出来た。離れてくれ。後でまた話の続きをしよう」
オゴデイは素直に退いた。
剣を抜き呪文を唱えながら一つ一つの魔法文字に光を与えるトルイを、随分遠くに眺める。
こいつの事、全く解っていなかった。
切っ掛けさえあればこんなに簡単だったなんて。
今晩話せて良かった。こいつと一緒なら、この先の王様稼業も、そこそこ楽しいかもしれない。
***
「兄上――!!」
トルイの叫び声で我に返った。
「兄上、あいつらお願い!」
地割れの上方の岩影に、ぼうっと薄赤に光る影が五,六個蠢(うごめ)いている。
「曲者か!」
オゴデイは剣を抜いて駆け寄った。
「俺、手が離せない! そいつら魔方陣に入れないで!」
「よし引き受けた!」
影は、動きは鈍いが人とは違う邪気をはらんでいる。
オゴデイの前に迫ると、いきなり立ち上がって王の側近の一人の姿になった。
「な……お前?」
――全く我が君は情けなや。今回の戦も弟御におんぶに抱っこ――
「!!!!」
王は剣を構えたまま凍り付く。
「地霊だ!!」
トルイが肩越しに叫ぶ。
「姿も言葉もまやかしだ! 兄上の心を探って喋っているだけだ。強い意思があれば斬れる!」
「そ、そうか。……おのれ化け物、謀りおって!」
オゴデイは目の前の部下に剣を振り下ろす。
部下は真っ二つになって散ったが、その後ろから更に別の家臣達が歩いて来る。
――我が王君は名ばかりのお飾り――
――先代の足元にも及ばぬ、ククク――
数体の地霊の化けた家臣に囲まれ、オゴデイは剣を振り上げたまま止まってしまった。
「う、るさい……うるさいうるさいうるさい……」
冷たい灰色の手が伸びてオゴデイの身体に触る。
王は意識が飛び、縛られたように動けない。
瞬間、翡翠の稲妻が走る。
地霊は退き、王の前にトルイが剣を構えて立ち塞がっていた。
「しっかりしろ! こいつら、兄上の心の澱を掬って言葉に出しているだけだ。自分をしっかり持っていれば負けない!」
途端、トルイの前の地霊が姿を変えた。
それは、オゴデイ含め三人の兄とヴォルテ妃だった。
――バケモノ……――
――王室に潜り込んだバケモノ……――
「失せろ!」
トルイはキパッとそれらを両断した。
「お、俺はそこまで思っていないぞ」
背中合わせでオゴデイが叫ぶ。
「分かってる。これは、俺の心の澱だ……」
間髪入れず、トルイの前に立ち上がったのは・・前王、テムジンだった。
「……!」
さすがに二人、一瞬躊躇する。
――お前は役に立ってくれた………――
「………」
――お前の母親も役に立ってくれた。俺になびいた妖精の娘がいたのは幸運だった――
「………」
――お前を得る為だけに妖精の娘を抱いた。人間が妖精を愛するなんてあり得ない。俺が愛しているのは人間のヴォルテだけだ――
「・・・・・・」
テムジンの偽物は真っ二つになった。
剣を降り下ろしたのは兄王だった。
「しっかりしろ! まやかしだって言ったのはお前だろ! 嘘っぱちだ! 愛情無い両親からお前みたいな奴が生まれるものか!」
トルイは銀の瞳を柔らかく細めた。
「ありがと……兄貴」
***
家臣の形の最後の地霊をオゴデイが斬り捨てて、トルイは慌てて魔方陣に取って返した。
「あっ……あ・あ・あ……」
しかし魔方陣はすうっと消え、地割れは不気味に唸り出した。
「まずい!」
「どうなるんだ!?」
「良くならない事だけは確かだ! 兄上、退いていて!」
トルイはだんだん口を開ける地割れに駆け寄って、両手を上に掲げた。
「風、風よ、来い、もっと・・・」
旋風が上がる。
空間がひしめき悲鳴を上げる。
何の知識もないオゴデイにすら、無理矢理な事をしているのが分かった。
火花を放ちながらトルイの両手に緑の槍が出来上がって行くが、不安定にガクガク震えている。
オゴデイは、見つめているしか出来なかった。
ただ祈るしか出来なかった。
「破邪・・・!!」
撃ち下ろされた槍は、裂け目に垂直に入った。
――――――――
――――――・・・
・・・・・・――・・・ ・ ・ ・
トルイは下からの光に照らされて、槍の行き先を見据えている。
オゴデイの所からは地割れの中は見えない。
やがて唸りが小さくなり、地割れが閉じ出した。
「やった……のか? 成功したのか?」
地割れが完全に閉じるのに目を奪われていて、弟が崩折れたのに気付くのが一拍遅れた。
「トルイ……?」
兄は慌てて駆け寄り抱き起こしたが、大嫌いだった銀の瞳はもう開かなかった。
「……なん……で……?」
***
もうすっかりトルイと同化してしまったシリギは、疲れきって、彼と一緒に沈んで行った。
その手首を、白い細い手が掴まえた。
「………起きて・・・戻って!」
原色の激しい逆流。
ハッと目を開く。
満天の星。
さっきまで星も無い、暗い過去の荒れ地に居た。
左隣の焚き火に、今しがた放り込んだ枝に火が燃え移った所だ。
時間は殆ど経っていない。
右隣を見る。
白い細い手が、シリギの手をしっかり握りしめていた。
「……ユユ……」
頬に張り付いた巻き髪を濡らして、女の子の両瞳から、雫が雨だれのようにこぼれ落ちている。
「ユユも、見ていたの?」
「貴方を通して、一緒に」
***
新王都。
新しい宮殿、明るい廊下。
四代目ハーン・モンテが、側近と共に闊歩する。
「父上!」
振り向くと、側室腹の四男坊だ。
身体も小さく惰弱なのであまり気に掛けていない。
見目は良いので、将来遠方の民族と血縁を広げるの位には役立つかもしれない。
「用事なら侍従に伝えておけ」
いつものように軽くあしらう。
「王よ、どうしても聞きたい事があります。足をお止め下さい!」
「……?」
珍しい事もある。
王はついつい立ち止まった。
兄達が不機嫌そうに弟を睨む。
しかしこの日の弟は怯まなかった。
「ソルカお祖母様が、古い後宮のあの場所に、住み続けて居られるのは何故ですか? 遷都の時、すべての王族は有無を言わさず移動の触れだったと聞きます。どうしてお祖母様だけ残れたのですか?」
「なんだ、そんな事か、後にしなさい」
「父上! 知りたいんだ!!」
本当に珍しい。
声の大きさまで今までと違う。
「二代前の王、オゴデイが作った決め事だ」
「……どんな?」
「『後宮の庭園のあの場所は、ソルカとその子孫の永遠の専住場所とする』……くだらない、意味の無い決め事だ。あんな廃虚」
「くだらなくない!!」
この弱い子供から出たとは思えない強い声だった。
「それ、聞けて良かった。とても大切な事だ。僕はそれに従います。お祖母様の所へ行きます」
踵を返して駆け出す子供を、父と兄達は呆気に取られて見送った。
***
蜜柑の花散る庭園に、葦毛が鼻面を覗かせる。
「まあ、シリギ殿」
祖母はいつものように揺り椅子から立ち上がる。
「僕はここで暮らしたい。お祖母様と一緒に暮らさせて下さい」
孫の願いに祖母は戸惑ったが、彼の両親が特に反対もしなかったと聞いて、その子の手を握って受け入れた。
多分、あの後、オゴデイ王は、トルイの遺志を出来得る限り守ったのだろう。
即ち、敬われも語られもせず、英雄にもならない。平凡に病死。
トルイもそれでいいと笑うだろう。
そうして兄(オゴデイ)は、ちょっとだけ嫌な噂を被ってくれた。
この弟を疎んじ続けた自分に対する懺悔。
蜜柑の木に風が立ち、庭園に白い花が舞う。
「お祖母様、迎えが来ました。少し出掛けて来ます」
シリギはお茶のカップを置いて立ち上がった。
「まあ」
祖母も立ち上がり、少女のような目になって、ワクワクと庭園を見回す。
「ねぇ、今ここに、蒼の妖精の方がいらっしゃるの?」
「はい」
と答えるシリギの後ろには、彼と同じ瞳のユユと、その父親・ツバクロが、草の馬から下馬して立っていた。
「トルイお祖父様の母君の……今の、お身内の方々です」
ソルカはちょっとの時間をかけて呑み込んだ。
「ああ、そう、そうなの。ではあの方は、今はお寂しくはないのね、幸せなのですね。良かった……良かった」
ユユが進み出て、婦人の差し出す手に触れる。
「暖かいわ。この子をどうかお願いします。迷わぬよう導いてやって下さいませ」
「お祖母様、妖精は……」
口を挟もうとするシリギを、ツバクロが静かに遮った。
「あっ、ちょっと待って、待っていて下さいね!」
ソルカは母屋に駆け去り、すぐに戻って来た。
「シリギ、これをあの方に」
清しい香りの小さな瓶。祖母自慢の蜜柑の蜂蜜漬けだ。
風が巻いてシリギも見えなくなり、白い花びらが舞い落ちる。
祖母は軽い足取りで、葦毛の鼻面を撫でに行った。
「私達平凡なモノは、大人しくお留守番をしていましょう」
葦毛はふるると頷いた。
「蜜柑の蜂蜜漬け、食べますか?」