「ざるそば出るよ!」
風通しの良くない厨房の奥で、店の主が額を拭う。店主と店員の話し声は、テレビから流れる野球実況の声にかき消された。鮮やかな逆転ホームランを放ち、ガッツポーズでグラウンドを駆ける高校球児を映すテレビを横目に、ボクは空になったコップに水を注いだ。
「よいしょっと」「あ、どう……」
店員さんの声にどうも、と言いかけて固まってしまった。やってきたのはうどんだ。
「あ、おじさんのぶん持ってくるから少し待っててね!」
深い紺色の渋いエプロンに似合わない明るい髪色の店員さんが奥へ戻っていく。店員さんとうどんを交互に見ているうち、注文の品が運ばれてきた。
「はい、ざるそば。おじさん、隣いい?」
「隣は良いんだが、おじさんはやめてくれ。まだ23なんだ」
「なーんだ、私とそんな変わんないじゃん。あ、一味取って」
なんなんだこの子……と思いながらも一味を差し出した。今日は猛暑日だというのに、店員さんのうどんからは湯気が立ち上っている。
「ありがと。でも、そのカッコはおじさんだなあ」
白のタンクトップに、深い青の長ズボン。同じ色の長袖を腰に巻いて、いわゆる若者の恰好とは程遠い。
「しょうがないだろ、こういう作業服なんだ」
「ふーん。じゃ、いただきまーす」
こっちに興味があるのかないのかわからない。昼休憩くらい落ち着きたいのだが……とにかく、今はざるそばだ。いただきます。
麺をすする音と、高校野球の実況の声だけが店内に響く。セミもあまりの暑さに婚活を控えているようだ。
「おじさんさ、」
違う音が耳に入ってきた。
「アルバイトでしょ。そこの路地でやってる工事の」
「……よくわかるな」
「だって、ぜんぜん日焼けしてないんだもん。23てことは、大学の……延長戦?」
「大学はサヨナラしたさ。一度勤めてた会社をやめて、今は就活のために金貯めてる」
「そっか。じゃあ、新しくやりたいことが出来たんだね」
やりたいこと……やりたいことか。
答えに困っているボクを見かねたのか、店員さんが先に口を開いた。
「私とおんなじだね。……私もね、わからないの」
頬杖をつきながら、店員さんは壁に貼られたメニューを見ている。
「友達はさ、インターンだ~とか、カレシと沖縄だ~とか言ってさ。みんな将来のメニューを決めてるの。カレーとか、ハンバーグとかになるんだろね。今の私はかけうどん」
目の前のどんぶりを見下ろしながら、店員さんはつぶやく。その例えなら。
「じゃあ、ボクはざるそばというわけだ。一度茹でられたはいいけど、冷やされて─」
「でも、ちゃんと出てきたんじゃん。出ていこうという気持ちは冷めてなかった」
思わぬ反応に店員さんの方に向き直ると、今度はテレビの方を眺めている。
画面の中では、敗戦に涙を流す球児たちが球場の砂を袋に詰めている。
「野球一筋で生きてきても、それで生きていけるのはほんのひと握り。でも、それでも野球を頑張れる。高校球児は強いね」
この子は、人のことをよく見ている。人の立場を理解できる。人の想いを認められる。そして彼女の言葉に、何か救われたような思いがした。
「キミは──」「ん?」
「キミは、役者とか、いいんじゃないかな。これ、代金。ごちそうさん」
「えっ、あっ」
キミはかけうどんだ。だからこそ、これから何にだってなれる。天ぷらでも、きつねでも。月見なんかもいいな。ボクはかき揚げが好きだけど。
店を出ながら腰に巻いていた上着を羽織った。ボクも何になれるかわからないけど、もう一度やり直せる。だって、もう一度出ていこうとしてるんだから。
「あの!」
店員さんが外に出てきたようだ。
「ありがとうございました!頑張ってください!」
振り返らずに手を振った。
少し、ワサビを入れすぎたかもしれない。