今回は脹相戦だけ。
目的の一致しない特級呪霊たちと別れた
悠仁を探しに街へ出たいところだが、五条救出のために彼がここへ戻ってくることを考えると、入れ違いになることは避けたい。
月の香りで、俺達と血が繋がっていることには悠仁も気づいていると思うが……。
脹相が駅構内に留まることを決めて、フロア全体が射程に入ることを確認していれば、外に降りていた“術師を入れない帳”が解けた。
微かに血のにおいが下りてくるのを感じながら、上の階へ続く階段に意識を向ける。
いつでも戦闘に入れるように指を動かして慣らしていると、漂う血臭に芳しい月の香りが混じり、悠仁が階段を下りてきたのが見えた。
返り血と埃で汚れてはいるが、怪我のない姿を見て脹相は安心する。目の合った悠仁は立ち止まり、どこからかガラス製の注射器を取り出した。
血の入ったそれを慣れた手つきで脚に打ち込んだ悠仁が、空になった器を投げ捨てる。
割れた注射器から微かに香る血のにおいは、どこかで会った人間のものである気がした。
脹相が悠仁に声をかけようとすれば、霧となって消えた注射器と入れ替わるように、悠仁の手におぞましい気配のする棘のついた武器が握られる。
「悠仁、俺は――」
戦意に満ちた弟を止めようと慌てて発した脹相の言葉は、兄だと名乗る前に詰まって途切れた。
悠仁の握る武器――
悠仁は他の
初めて見る弟の暴挙に動揺し、硬直した脹相に、濃い月の香りと血を纏わせ、鋭利な棘状となった武器の先端が振り下ろされた。
瀉血の槌が床を叩けば、含み切れなかった血が零れるように跡を残した。
紙一重で横に跳んだ脹相は、赤黒く染まった悠仁の腹に傷のないことを見て、その力を与えた存在――“赤子”を愛する月の魔物の執着を確認する。
兄弟の中で一人だけ、人間として生まれ育った末の弟からの攻撃。
流血沙汰では済まないことになっているが、今まで会いに来なかったことに拗ねているのだと考えれば、可愛いものだと思えなくもない。ならば――。
「兄として、気の済むまで相手になろう」
呪力から血液を生み出した脹相は、そう呟いて握った拳を悠仁に向けた。
合わさった両手の先から射出された血を回避した悠仁は、先程からの脹相の動きに違和感を覚える。
体術も術式も、攻撃の全てに殺意が感じられない。
打撃は骨に響かない程度に加減されているし、血を撃ち出す術式――
しかし殺されるつもりはないらしく、近づけば周囲に浮かぶ血液を爆ぜさせた。
それにより距離が開けば、少しの溜めの後に、また穿血が飛んでくる。
近接戦に持ち込むには、あの浮かんでいる血液を先に潰すか、目眩ましでもしなければならないだろう。
ポケットに手を入れた悠仁は、星の光を宿す三対の角を持った手のひらサイズのナメクジ――彼方への呼びかけを取り出し、両手で掴んだそれを頭上に高く掲げる。
強く握れば空間が暗く歪み、手元に広がった小さな宇宙が星の小爆発を起こした。
放たれた強い光が隠れ蓑となった一瞬、脹相は悠仁の姿を見失う。
だが一直線に向かってくる足音を聞き、
光が収まれば、脹相の目が武器を振りかぶる悠仁を捉える。
先程より近いが、彼の反射神経ならば、この距離で撃っても難なく避ける。そう思って穿血を打ち出した矢先、悠仁の体勢が傾いた。
水のはねる音で、床の血溜まりに悠仁が足をとられたことを理解する。
悠仁の瀉血により撒かれた血液は凝固していない。脹相の赤血操術によって垂れた血液もまた、凝固しないよう調整されていた。
あの強い光の中を駆けてきたのだ。脹相の周りが、瓦礫に隠れた足元が血に濡れていることが、見えていたはずがない。
「悠仁!」
上体を後ろに反らした悠仁の身体が崩れ落ちるのを見て、脹相の構えが解かれる。
額を流れる血で赤く染まる悠仁に手を伸ばした脹相の瞳に、膝をつき両目を閉じた悠仁が瀉血の槌を握りしめているのが映った。
兄だと呟いていた相手が自分の名前を呼ぶのを聞きながら、悠仁は自分の失態に内心で舌打ちする。あのまま追撃されていたら危なかった。
相手に自分を殺す気はない。それどころか、膝をつけば心配までされている。
それならばと、悠仁は額から血が流れるのをそのままにして、血が入らないよう目を閉じ、相手が近づいてくるのを待った。
正確な方向は分からないが、十分に近づいた相手の動きが止まる。それを合図にして、瀉血の槌の先端を潰すように床に突き立てた。
飛び散る血と共に放たれる衝撃波に、構えを解いていた脹相の身体が吹き飛ぶ。
それは狩武器には珍しい、全方位に向けた攻撃。威力は申し分なく、予備動作も少ないが……使用者は発狂する。
額の血を乱雑に拭った悠仁は目を開き、身体が割れたようにして流れ出る血と酷い頭痛や眩暈――発狂状態を抑える鎮静剤を飲む間を惜しんで駆ける。
衝撃波でついた細かな傷から流れる血で、脹相へ近づくほど、彼の月の香りが強く感じられるようになった。
だが、体勢を整えるために床に手をつく脹相を射程に捉えたとき、悠仁の身体が、初めて月の魔物と対峙したときのように固まる。
自身に宿る月の魔物の気配が大きくなり、これ以上前へ進むことを拒んでいた。心なしか、眩暈も酷くなった気がする。
脹相を見れば似た現象が起こっているのか、彼も頭を押さえながら立ち上がった。
こちらを向いた脹相が一歩踏み出すのを途中で止め、持ち上げていた足を後ろに戻す。
「互いに怪我を負わせたことを、月の魔物は怒っているらしい」
脹相が言葉を発したことで、悠仁は殺す気だった自分と、そうではない脹相で強制力に差があることを理解する。悠仁は口も動かせない状態だ。
「……落ち着いたら迎えに来る」
ふらつく身体でそう言い残した脹相が見えなくなってしばらく経てば、悠仁も身体を動かせるようになった。
痛む腕を動かして輸血液を使用すれば、傷が塞がり、流れ出ていた血は止まる。
しかし、月の魔物の戒めのつもりなのか、脹相につけられた額の傷だけは治らなかった。
「
全方位攻撃を使用すると、“使用者に”発狂ゲージが溜まる狂った狩武器。
「彼方への呼びかけ」
聖歌隊の秘儀の1つ。星の小爆発を起こす。
かつて医療教会が精霊を媒介に高次元暗黒に接触し、遥か彼方の星界への交信を試みたものの失敗作。