八十八橋までが「昼夜」
渋谷事変は「夜」
「夜」の終わりは「夜明け」ではなく「赤い月」
――赤い月が近づくとき、人の境は曖昧となり、偉大なる上位者が現れる。
夏油によって放たれた呪霊の群れが方々へ散り、付近から物音が消える。
やることがあると言って高専の面々から離れた悠仁を、九十九が呼び止めた。
川岸の遊歩道へ向かう二人に、
周囲に呪霊の気配がないのを確認した九十九が立ち止まり、術式を解いてから口を開いた。
「すまない。あの時、迷った。ここまで事態が進んでしまったのであれば、一度泳がせて様子を見るべきなのではと……」
続いて自分は味方ではなく、世界から呪霊をなくすために動いていることを告げる。
二人を振り返れば、隣への殺気を隠そうともしない悠仁と、九十九の話に大した興味のなさそうな脹相が立っていた。
それを見た九十九が小さくため息をつく。長々と話すつもりはなかったが、より端的に説明しないといけないらしい。
自分の判断により危険にさらした高専の仲間は、責任をもって送り届けることを約束すれば、悠仁の目がこちらを向いた。
呼び止めた時の彼の様子から予想はつくが、あえて聞く。
「君はどうする?」
「俺、五条先生がいないと死刑でしょ? ここに残るよ。でも……」
自分のことは気にしなくていいと、特に問題がないように話していた悠仁の言葉が詰まった。
「……あと二人、送り届けてほしい」
悠仁は協力者
他者の心配という、狩人らしからぬ思考をしていることに気付いていない悠仁に、ずっと黙っていた脹相が声を掛けた。
「それは悠仁が輸血した血の持ち主か?」
「そうだけど……」
悠仁が脹相と戦った際に、
投げ捨てられて割れた注射器に微かに残っていた双子の血の香りを、脹相は記憶していた。
「その二人なら地下で保護した。今は
「……何のつもりだ?」
不審がる悠仁に、脹相は努めて落ち着いた声で返した。
「裏なんてない。弟の平穏につながるなら、その友人を守るのも兄の務めだ」
弟達を連れてくるという脹相を見送って、九十九が悠仁に向き直る。
「随分と毛嫌いしているようだけど、彼と何かあったのかい?」
「……別にないけど」
自覚がなくとも、悠仁が“上位者の血を引く”呪胎九相図を殺そうとするのは……狩人が“上位者狩り”を行うのは自然なことだった。
特に、脹相に流れる血は九相図の中では一番濃く、上位者の死血からは莫大な――宇宙悪夢的な血の遺志が得られるのだから。
悠仁の煮え切らない態度を見ていた九十九は、「血への執着が強く、血を浴びて戦う」という噂を思い出した。確かに、目の前に立つ悠仁は異様なほど血に塗れた跡がある。
先程の男が本当に“兄”だというなら、その血を浴びることで自身の血を濃くしたいのだろうか。
しかし……恐らくだが、この蠱毒じみた行動に、あの術師は関与していない。
「“兄弟”を嫌うのが、君の意思によるものでないなら……誰が意図したものだろうね?」
そう告げれば、悠仁が額を撫でるように、そっと頭を押さえた。
この“誰か”は存在しないのだろう。血を浴びる行為自体も、時間をかけて刷り込まれた習慣に見える。
ただ、共通の敵を持つ者たちが潰し合うのを避けようとして……そんな虚言を吐いていた。
血の香りと人の気配に振り返れば、あちこちに擦り傷や焦げ跡をつけた菜々子と美々子が歩いてくるのが見える。
先導するように歩く脹相や、あとの二人を怖がっている素振りはない。
悠仁たちの隣に並んで立つ人物――先ほど合流した、九十九と行動を共にしているというラルゥを見て、双子が数秒、足を止めた。
手の届く距離まで近づいた菜々子と美々子だが、うつむいたまま視線を合わせようとしない。
その様子を見て、仕方がないと言うように表情を緩めたラルゥが、穏やかな口調で話しかけた。
「二人とも、久々に家族そろって……“一緒にご飯を食べる”気はある?」
最後に会った時と変わらない声を聞いて、菜々子と美々子に、家族と別れた日のことが思い出される。
みんな“夏油様が大好き”なんだと思っていた。
だから、遺志を継ぐだとか言って、あの術師に夏油様の
分かれて過ごしているうちに、みんな嫌いになれると思っていたのに……。
――私達は、家族。いつかまた、どこかで……一緒にご飯を食べるのよ。
あの日には何とも思わなかった言葉が、今は暖かく感じられた。
ラルゥに付いて離れようとする双子が、悠仁を振り返った。不安げに揺れる瞳に、出会ってから随分と変わったものだと笑みを浮かべる。
「まだ終わっていない。……大切な人を弔うまで、これからも
悠仁が声をかければ、二人が唇を噛み締めて頷いた。
「ありがとう。虎杖」
それは、何に対しての礼だったのか。
誰かを心配するのも、されるのも、食事をしながら笑うのも、しばらく忘れていた感覚で……家族が恋しいと思えた。そんな時間だった。
今、悠仁を見上げる二人の瞳に映るのは、ほの暗い意志ではない。
少し震えた声で、菜々子が続ける。
「夏油様と家族と、その次に――」
数秒の間をおいて、二人の声が重なった。
「――大好き」
家族のもとへ帰る。どこか、ためらうように歩みを進める少女達を見つめる。
悪夢の中で見たかったものが、そこにある気がした。
「ありがとう……」
誰にも聞こえないように呟いて、白み始めた空を目に映す。……もうすぐ「夜」が終わる。
「さて、と」
軽く手を叩いて注目を集めた九十九が、殺気を抑えた悠仁と、九相図たちを見回す。
「みんな揃ったことだし、改めて聞こうか。……君たちはどうする?」
私と一緒に来るかい、と付け加えた九十九に、脹相は渋い顔をする。
悠仁は高専には帰らないと言っているが、「進化論を掲げる奴らはクソ」と言っていただけあって、九十九と行動する気もない。
壊相と
全員がここに残るのは
それに……悠仁を殺すために選ばれた術師を相手にするのは、壊相と
眉間に寄せたしわを増やす脹相に、壊相が声を掛けた。
「兄さん。私と
優先すべきは、一番危険な立場に置かれている末弟だと、移動中に聞かされた情報より導いた答えを告げる。
弟たちへの想いに優劣をつけられない兄には、時に口添えが必要だ。
兄を末弟のほうに押しやり、九十九に出発を促すため兄弟たちから目を離す。
「俺が殺すまで死ぬなよ」
物騒な言葉に振り向けば、悠仁が
「この弟、可愛くないなぁ?」
もっともな意見である。しかし、十人兄弟の兄は強かった。
「心配ない。悠仁は少し拗ねているだけだ」
「あれ本気だよ兄さん」
二人で行かせて大丈夫だろうかと、少し心配になりながら、壊相は
11月某日。立入禁止区域となった都内の片隅にある、ひとけのない広い玄関ホールに朝日が差した。
その光を背中に浴び、ホールの正面階段に腰かけた悠仁の呟く声が響く。
「……赤い月は近く、この街は獣ばかりだ。きりがない」
――もう何もかも手遅れ、すべてを焼くしかないのか。
そんなことを考えてから、ここ一週間ほど話しかけてこない宿儺に、悠仁が呼びかけた。
「宿儺はさ、久々に殺せて楽しかった?」
返事がないことには構わず、悠仁が言葉を続ける。
「別に責めてる訳じゃないよ。……殺された側からすれば、誰がどんな理由で殺したかなんて関係ない。俺もオマエも、やっていることは同じだ」
恨み、嫉み、愉悦、快感、報酬、愛情……。
そして遺志を継ぐという、弔いであり……力を得るための自己都合。
宿儺が愉悦のために殺したのだとすれば、自分は報酬のために殺したと言えるだろう。
改造人間――助からない相手だから殺したなんて、相手からすれば最悪の言い訳だ。
どんなに取り繕っても、自分の目的のために排除したことは変わらないのだから。
「それに……オマエの“殺し方”は優しいよ。……恐怖も痛みも、与える間もなく殺すから」
階段を下りてくる足音を聞いて、言葉を切った悠仁が立ち上がった。
今の協力者である脹相を振り返ることはせず、ホールの出入り口に向かう。
「行こう……。今はとにかく、呪霊を減らさないと」
信号機ひとつ点いていない道路に踏み出し、辺りを見渡せる建物を目指して歩みを進めた。