目無し足無し夢も無し 心を救う永遠の帝王   作:ルシエド

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「絵画は盲目の人の職業だ。彼は自分が見ているものではなく、自分が感じているものや、見たことがあるものについて自分自身に語りかけるものを描く」

   ―――パブロ・ピカソ


1 ハーデンベルギア ■■■■

 かつん、かつん、と杖が路面を叩く音がする。

 

 空は青。

 指で数えられるほどの雲が流れている。

 冬の風が心地良い冷たさを孕んで流れ、平穏な空気が満ちる街並みを少年が歩いていく。

 その手には杖。

 両の瞼が上がることはない。

 杖で進行方向に何もないことを確認し、道路として整備された地面の凸凹を頼りに真っ直ぐに歩き、杖で叩いて確認した部分を足で踏んで歩いていく。

 見る人が見れば、初めての土地をゆっくりと歩いている全盲の人間であることが一目でわかる、そういう危なっかしさがあった。

 

 そんな少年の耳に、道路を挟んだ向こう側を軽快に歩いていく"明るい旋律"が届いていた。

 

「~♪」

 

 鶏跛の如き独特のリズムで、頑丈な硬めの靴が路面を叩く音がする。

 はちみつが好きな女の子なんだろうか、と誰でも少し思う歌。

 音、歌、時々鼻歌は混ざって、耳に心地良い旋律が完成していた。

 

 杖をつく少年は、足を止め、その旋律に聞き入っていた。

 その足音が。

 その声が。

 その音の源であろう少女が、とても楽しそうだったから。

 太陽がある方向を向くヒマワリのように、その旋律を生む少女の方を向いていた。

 

 目も見えないのに、少女に見惚れた。

 生まれて初めて、彼は誰かに見惚れていた。

 

 横断歩道の前で足を止めていた少年だが、その間に信号の色が変わり、彼の前を少々不注意なバイクが凄い勢いで通り過ぎていく。

 バイカーのズボンの金属輪が、少年の杖の突起に引っかかり、杖を彼方へ弾き飛ばした。

 気付かないままバイクはどこぞへと走り去っていき、よろめいた少年が尻餅をつく。

 

「あっ」

 

 少年は近くを手探りで探すが、杖は少年の手の届く範囲にない。

 手に触れるのは路面の感触。

 砂の感触。

 日に照らされた熱い路面の感触、しかない。

 杖が見つからなければどこにも行けない。もう帰れないかもしれない。盲目が杖を奪われる不安とは、そういうものだ。

 

「すみません。近くにどなたかいらっしゃいましたら、わたしの杖を取っていただけませんか」

 

 近くを歩いていた男が軽く視線で杖を探してみるが、急ぎの移動中だったのもあってほどほどなところで去っていく。

 離れたところを歩いていた中年女性が少年の苦難に気付くが、巻き込まれることを嫌がってそそくさと去っていく。

 道路沿いのコンビニの店員が気付くが、助けに行こうにも店番が自分しかいないため助けに行くことができず、ソワソワし始める。

 

 誰もが暇ではない。

 誰もが時間に余裕があるわけではない。

 真っ昼間の人がいる往来であり、すぐ人が死ぬような事案でも無かったため、()()()()()()()()()()()という意識の下、誰もが彼を気にかけながら、本腰入れて助けることはない。

 "ぼんやりとした他人事"。

 皆が『かわいそうだから誰か助けてあげてほしいな』と思う程度に微妙な善人で、『俺は今ちょっと忙しいから』と思う程度に他人事だった。

 

 少年の手を離れた杖は、近くの橋の欄干の上に乗って、そこでぐらぐらと揺れていた。

 

「わたしは杖がなければ歩けません、どなたか助けていただけないでしょうか」

 

 杖はぐらりぐらりと揺れて、普段人が手を乗せる手すりの上で橋に落ちるか、落ちるか、落ちないかという境界線上を揺らめいている。

 橋の上に落ちればいい。

 川に落ちたら最悪だ。

 川に流されたらもう拾えない。

 

 不意に風が吹いた。

 ぐらぐらと揺れる杖が一気に動いて、川の方にぐらりと傾く。

 川の中に、杖が真っ逆さまに落下して――

 

「どうか、お願いします」

 

 ――まるで翼を羽ばたかせた鳥のように跳んだ少女が、その杖を空中で掴んだ。

 

 路面を蹴り、跳び、欄干に触れるか触れないかの軌道を跳んで杖に追いつき、欄干の外側、橋の縁の突起に軽やかに足を乗せ、また跳び、橋の上に戻る。

 視界内の全てを常時把握する優れた眼、飛び抜けた生来の柔軟性、鍛え上げられた敏捷性(アジリティ)が生み出す芸術的な――もはや魔法にすら見える――身のこなしであった。

 

 まるで、彼女だけが重力に縛られていないかのような。

 この世界で彼女だけが特別であることを許されているのではと錯覚する一瞬。

 その奇跡のような瞬間を、少年は見ることができなかった。

 彼の目に光はなかったから。

 

 地面に膝をついて手探りに杖を探す少年の手に、少女は優しく杖を手渡す。

 

「大丈夫?」

 

 太陽のような声がした。

 太陽を見上げるように、少年は顔を上げた。

 太陽のような笑顔があって、その笑顔は少年には見えなくて、それでも少年はその少女を太陽だと思った。

 

 杖を受け取って、少年は少女に微笑みかける。

 目が見えない少年の微笑みは少しだけ方向がおかしくて、少女の顔の位置が分かっていなくて、笑む少女にちゃんと向けられてはいなかった。

 事情がよくわからないまま杖を拾いに飛び出した少女もそこで事情をある程度把握する。

 

「ああ、ありがとうございます。杖を拾っていただければわたしは大丈夫です」

 

「そう? それならいいんだけど……」

 

 杖を手にした少年は頭を下げて歩き出すが、やはりこのあたりの土地勘は無いようで、街路樹周りの石ブロックに躓き、一度見失った方向感覚を取り戻すために周りの路面を杖でコツコツと叩き始めていた。

 

 少女は見ていられなくなって、杖を右手で持つ彼の左手を握る。

 少年は背中に結構な大荷物を抱えていて、変に転ぶと盲目なのもあって大惨事になりそうで、とても放ってはおけなかったのだ。

 

「ちょちょちょ、危なっかしいなあもう」

 

「ありがとう。きれいな声のお嬢さん」

 

「えっ!? 綺麗な声!? 生まれて初めて言われたっ!」

 

「そうなのかい」

 

「変な声なのに歌上手いーとかはたまに言われるかなあ」

 

「わたしは目が見えないからね。

 声で他人を見分けるしかないんだ。

 特徴的な声で不快でないなら……

 それはほら、容姿で言うところの美人にあたるのではないかな」

 

「えへへ。美人も初めて言われた。あっ、可愛いとは結構言われるかな!」

 

「おや、きれいなお嬢さんだと思ったらかわいいお嬢さんだったか。これは失礼」

 

「いーよ! おんなじ褒め言葉だもんねっ!」

 

 少年の手を引き、少女は一旦道の端に寄り、他の人の通行の邪魔にならないようにする。

 

 少女は少年をまじまじと見た。

 歳は少女の一つか二つ上くらいか。

 瞼は上がらず、隠された瞳は何も見ていない。

 背負われた大荷物はよく見ると、キャンバスや絵の具入れなどといった、画家が傍らに備えるようなものばかりだ。

 

 少年に少女は見えない。

 見えているのは声と、手に触れる少女の掌の感覚だけ。

 気遣う声と、暖かな手が、目の前の少女が優しい娘であるということを教えてくれる。

 

「目も見えないのに一人でどこに行こうとしてたの?」

 

「ウマ娘というものを知りたくてね。ウマ娘さんたちが居るところに行こうとしていたんだ」

 

「え、珍しい。今時ウマ娘を知らない人って居るもんなんだね」

 

「学術・芸術においてはある程度知っていたのだけどね。実物はさっぱりなんだ」

 

「へぇ~。あ、じゃあレースやってる所に連れて行ってあげる! いっぱいいるよウマ娘!」

 

「いいのかい? 是非お願いしたいが、迷惑じゃないかな」

 

「いいっていいって! あ、いつかボクのお願い一個聞いてくれたらそれでいいよ!」

 

「お願いか。わたしがお願いしてる立場だからね。わたしにできることであれば、なんでも」

 

「おっけーおっけー、じゃあいこっかっ」

 

 少女は少年の手を引き、橋を越え、盲目の少年の足でも短時間で歩いて行ける近場のレース場に向かい始めた。

 

「絵を描いてるの? ボクそういうのは全然詳しくないや」

 

「ああ。まだ無名だけどね」

 

「その……目が見えないのに絵って描けるの?」

 

「ありがとう、気遣ってくれてるのが分かるよ。それなり、といったところかな」

 

「ほえー」

 

「そんなに絵も売れてないしね。未成年だから個人の裁量も持てないし」

 

「え、売れてるんだ! すごい! センセーだ! 絵のセンセーだ!」

 

「うーん、むず痒い」

 

 この世界には、『ウマ娘』というどこかの世界の名馬の魂をなぞるような、そんな少女達が自然に生まれる。

 いつからかそうなっていたわけではなく、この世界は最初からそうだった。

 『馬』が存在しないこの世界で、『馬』に比肩する身体能力を持つ彼女らは、現代ではレースという形でその強さ、美しさ、努力の結晶を皆に見せてきた。

 それが、ウマ娘。

 

 馬が存在する世界で、芸術は馬と共に在った。

 しからばウマ娘が存在する世界では、芸術はウマ娘と共に在る。

 石器時代には既に、原始的な岩美術の中にウマ娘の姿はあった……そう、この世界の歴史には記録されている。

 ならば、人類の発展と共に、ウマ娘を描いてきた人々も存在したということになる。

 かつては壁画に。

 今は紙に、あるいは布に。

 走るウマ娘を描き、絵画として残してきた者達が居る。

 

 この少年もまた、その一人。

 

「こっちねこっち。あっちの三角巾みたいな塔が目印で……あ、ごめん」

 

「ああ、すまない。わたしは生来全盲なんだ。そもそも形状を言われても想像も難しいかな」

 

「ええ!? ずっと何も見えたことないの!?」

 

「ははは。使ったことがあるのも点字だけだ。ひらがなも漢字も見たことがないね」

 

「ひええ……大変じゃない……? それでよく画家さんになろうと思えたね……」

 

「絵が好きなんだ。絵なんて一度も見たことはないんだけどね。なぜかずっと好きなんだ」

 

「……すごいや。なんかよくわかんないけど、すごい」

 

「すごくはないよ。劣等なんだ。それは生まれた時からずっと変わってない」

 

 絵を一度も見たことがないのに絵が好きな画家。

 世界を一度も見たことがないのに世界を絵に書こうとする画家。

 画家に一番必要な眼を失っているのに画家でいようとする画家。

 何もかもが少女の知る常識の外側に居る少年だった。

 車輪の無い車のような現状であるのに、その状態で自然体だった。

 

「一番大事な部分が壊れていても、わたしはわたしだ。そう在りたい自分で居続けたいんだ」

 

「……一番大事な部分が、壊れていても……」

 

「きっとずっと絵を書いていたかったんだよ、わたしはね。生まれた時からずっと」

 

 車輪を失っても走り続けようとする車。

 足が壊れても走り続けようとするウマ娘。

 眼が動いていないのに絵を書こうとする画家。

 それらはきっと、同じ線上に存在するものたちだ。

 少年は気付いていなかったが、少女は少年に対して既視感と共感を覚えていた。

 

「そういえば、君の足音は独特だね。こうして手を引かれていると分かってくるな」

 

「実はボクもウマ娘なのでした。じゃじゃーんっ、ふふっ」

 

「おや、そうなのか。では優しさに甘えて練習の時間を奪ってしまったかな。すまない」

 

「んー……今は大丈夫。ボクさ、足の同じところを四回折っちゃっててさ」

 

 少女は今も少し痛む足を、ぽんぽんと叩いた。

 

 彼女は四度足を折り、そこが完全に"癖"になってしまっていた。

 ウマ娘は足で走り、それを生き様とする生き物だ。

 足が折れることが人間以上の致命に成り得る。

 少女は伝説の一歩手前で足を折り、不屈の心で復帰しライバルとの戦いでまた足を折り、三度目の骨折で引退を決意し、けれどファン達の応援で復帰し伝説を残し、そしてまた折った。

 紆余曲折を経て不死鳥の如く蘇り続けたこの少女は、終わりの際の前に居た。

 

「四回はね。流石に多すぎたみたい。今はすごくゆっくりリハビリ中」

 

「それは……心中お察しする。レースを見るのが辛いのであれば、今からでもわたし一人で……」

 

「もー、変な気を使わないでよセンセー。それさえ嫌なら最初から断ってるってば」

 

「いや、それもそうか。すまない」

 

 少年の手を引き、少女は苦笑する。

 

 少年の目が見えていれば、あるいは、その少女の形をした太陽の表情に差す僅かな陰りを見て取ることができただろうか。

 

「永遠に走り続けられるウマ娘は居ない……なんて、分かってるんだけどね」

 

「だれもが不老不死にはなれない。そういうものさ」

 

「次に折ったら日常生活でも歩けなくなるかもってさ。怖いよねえ、本当に」

 

「それは……」

 

 素直に引退を選ぶべきではないか、という言葉を発する前に、少年はその言葉を飲み込んだ。

 

「……いや、好きにするべきだな。きみの好きに、したい通りに」

 

「あれ。なんかこの話すると、もう流石に引退した方がいいって最近は皆言ってたんだけど」

 

「好きなことに打ち込んで人生が台無しになるなら、それはそれでいいと思う」

 

「それは……そう、かもしれないけど……どうなんだろうね。ボクはどうしたいんだろ」

 

「……」

 

「ボクはどうしたいのかな。ごめんね、話題に出しといてなんだけど、よくわかんないや」

 

 少女は少年の手を引いていく。

 生来全盲の、二度と眼を取り戻せない画家。

 多くの伝説と引き換えに、二度とかつての足を取り戻せないウマ娘。

 二人は出会った。

 互いが互いに、目の前にいるその人が永遠に失ったもの、蘇らないものを見つめていた。

 

「わたしがきみに不屈ゆえの破滅を勧めるのは他人だからだ。

 きみの周りの人がそれを止めてるのはきみのことが大好きだからだ。

 引退も間違いではないはずだよ。

 なにかを辞めてなにかと別れても、次の人生でもっと大事なものを見つけられることもある」

 

「うん。分かってる。分かってるんだけど、さ。ボクは……ううん、なんでもないや」

 

 少女は何かを言いかけて、それを飲み込んだ。口にはしなかった。

 

 これは永遠にどこまでもいつまでも、永遠などというものに成れない者達が、永遠を保証されなかったがゆえに何かを失った後に、それでもどこかに在る永遠を見つける出会いの話。

 

「それよりさ、なんで実物のウマ娘を知りたいって思ったの?」

 

「ああ、それはね」

 

 互いの傷を見て見ぬ振りなどできないまま、互いの傷に触れられるほど無神経になれないまま、二人は繋がりを持った。

 

「わたしは『夢』という、わたしの未知の領域に生きる者たちを、知りたいんだ」

 

 ともすれば、その出会いは、始まった時から既に終わり始めていた。

 

 

 

 

 

―――そうして、センセーとボクのおはなしは始まった。

 

 

 

 

 

 

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