―――ミケランジェロ・ブオナローティ
空模様が少し怪しくなってきた。
雲が空を覆い、光量が下がる。
燦々と輝く太陽の下では美しく見える海も、曇り空の下ではどこか不気味に見えてしまう。
が、彼には関係ない。
潮の香り、波の音、流れる砂の旋律に五感を傾け、それらを絵に落とし込んでいく。
そんな彼の横で、少女がステップを踏んでいた。
ステップの音が彼の耳に入り、心地良い気持ちが生まれるが、彼が少女の方を向くと、少女は口笛を吹いてすぐやめてしまう。
少年が首を傾げて、少し考えて、答えに至る。
そう、これこそサブリミナルステップ。
彼の潜在意識に己の足音を擦り込み、自分が永遠に一番になれるようにしているのだ!
あまり意味はないが。
「負けず嫌いだね、お嬢さんは」
「は!? な、なにが!?」
「メジロマックイーンさんは知り合いなのかな?」
「ライバルだよライバル! マックイーンにだけは負けられないんだ! 絶対!」
拳を握ってぶんぶん振っている子供っぽい少女の動きを、空気の動きから肌身に感じ、少年は微笑む。
「いいね。うらやましい。わたしはライバルというものを得たことがないから」
「やー、センセーは得たことがないんじゃなくて欲しくないんでしょ。そんなカンジ」
「む……言われてみるとそうかもしれない」
「マックイーンは凄いんだよ。
史上最強のステイヤーとか言われてるんだ。
マックイーンが油断しなければ、ボク以外誰も敵わない。
誰にも影すら踏ませずに、皆に背中だけ見せて独走、そのままいつも一着でゴール!」
「それはすごい。優秀な子なんだね」
「それに、お嬢様ー、って感じがするんだよ。
細かいふるまいがなんかすごく綺麗なんだよね。
それなのに、たまーに世間知らずなだけの普通の女の子で……」
「きみみたいにかわいい女の子なのかな」
「そうそう! あ、いや、ボクが可愛いって言ってるわけじゃないからね?」
「わかってるよ。きみはかわいいけど」
「……うぅ。
そ、そういえば、男の人のマックイーンのファン多いんだよね。
女の人のファンも多いけど。
マックイーンは礼儀正しくて優しいから、皆大好きになるんだ。
ボクも何度も……何度もマックイーンに救われた。恩人なんだ。凄いんだよ、マックイーンは」
人が愛する家族に向けるような大きな感情、あるいはそれ以上の大きな感情。
ともすれば、彼女に愛する異性が出来て、結婚して、子供が出来たとしても、感情の大きさでは良くて互角かもしれない。
『勝負』に全身全霊をぶつける本能を持ち、『競走』に全身全霊をぶつける本能を持つウマ娘だからこそ持つ、ウマ娘の特徴と言っていいかもしれない特有で特大の感情。
「つまり、きみの大事な人なのか」
「ん。特別なやつ……特別なライバルだね。マックイーンにだけは負けられないんだ!」
「きみは何か負けてるわけではないと思うけど」
「ボク以外のウマ娘をセンセーが心底褒めてるのが、ヤ!
分かるんだからね、ボク!
センセー、マックイーンのこと走る音で結構気に入ってるでしょ!」
「……まぁ」
「流石だねマックイーン!
ここでも立ちはだかるのかマックイーン!
負けないぞマックイーン!
今のボクはそういう気持ち。
センセーによそ見をさせたなおのれマックイーン! ボクは負けないからね!」
「そっかぁ」
太陽のように熱い対抗心。
少女はしゅっしゅっとシャドーボクシングをし、されどその最中も少年が転んでどこぞへと転がり落ちたりしないよう、すぐに彼を掴み止められる位置に居る。
少女の見たことのない一面に少年は優しく微笑み、ライバルへの想いを熱く語っている最中でも気遣ってくれる彼女の優しさに、心底感謝していた。
海の風も心地良いが、それ以上に彼女の優しさが心地良い。
「海にも触れてみたいな……」
「え? センセー海に入ったりしたことないの?」
「おぼれたらどうするんだと親に言われていてね。あいにく、一度も触れたことがないんだ」
「そっかー、確かにそうだよね……よし」
少女はどこぞへと駆け出そうとして、一歩を踏み出す前にピタリと止まる。
「センセー、ボクが戻って来るまで動かないでね?」
「落ちないよ」
「落ちない、じゃなくて、動かないで、ね?」
「心配性だなあ。わたしはちょっと怪我するくらいなら平気なんだが」
「だーめ。ボクがセンセーを何からでも守るって言ったでしょ?」
「……きみ、かっこいいってよく言われない?」
「ふふふっ、分かる~? センセーにも分かっちゃうか~。
ね、センセー、そんなボクが心配してる気持ちも、ちょっとはわかってほしいな」
「ああ、わかった。動かないよ」
少女は風の中を舞う羽毛のように軽やかに、羽毛を吹き散らす疾風のように素早く、海へ向かって走り出した。
そして両手を器にして海の水を掬い、こぼす間もなく俊足で戻り、少年の眼前に差し出した。
少年は少女の気遣いを理解し、微笑み、少女の手の中の海にそっと触れる。
「ほらこれ海! 海だよー! バリバリ海!」
「わたしの手の平より小さな海は初めて知ったなぁ」
「センセー専用の海だよ~、どうだっ!」
「おや、それは嬉しいね。
それに冬の海は冷たいと聞いていたのにほのかにあたたかい。
きっと誰かの手と心があたたかかったから、その熱が移ったんだろうね」
「えへへ」
小さな小さな、優しさの海。善意の海。暖かい海。彼だけの海。
少年が嬉しそうにしていると、少女もつられて嬉しい気持ちになってしまう。
更に筆が入り、より『深い』質感になっていく海を見ながら、少女はぼんやり問いかけた。
「ねえ、今日はなんで海に来たの?」
「『青』に触れたかったんだ。海が青く見えることは聞いていたからさ」
少女は可愛らしく小首をかしげる。
「青? なんで? 絵の具に触れればいいんじゃないの?」
「あれは長年かけて皆が作った人工の青だから。天然の綺麗な青は難しいんだよ」
少女が腕に巻いた青色のスカーフ――馬と不死鳥――が、海風にはためく。
詠うように、されど淡々と、彼は語る。
「海は大海である内は青だ。でも手で掬うと、透明なただの塩水になってしまう」
青であり、青でない。
「空の青は、近づけば近づくほど消えていって、宇宙の闇色に近い黒になっていってしまう」
青であり、青でない。
「花の青色を作るアントシアニン化合物は、着色してもすぐに退色してしまう」
真なる青とは、かつて、真に特別な者のみに許された色だった。
「昔の人達は永遠の青を求めて、黄金と等価の青い宝石を砕いて絵に使っていたそうだ」
「ひえー、お金持ち」
「青は特別な色で、特別な人に贈るべき色だと、わたしも思っているよ」
海の青。
空の青。
青いウマ娘。
青い勝負服。
青いスカーフ。
色んな青の話をしてきた。
青は特別だという話をしてきた。
だから少女は、貰った時よりもずっと、このスカーフを贈られたことを、嬉しく思っている。
今、もう少し、踏み込んでいなかったところまで踏み込むべきだと、少女の心の奥底がひっそり呟いていた。
「あのさ、それって」
その時。少年が、むせこんだ。
ごほっごほっ、と咳が出る。
咳が話を遮って、少女は言いかけた言葉を引っ込める。
「ああ、ごめん、今何か言ったかな? お嬢さん」
「ううん、なんでもないや。言わなくていいことだし、聞かなくていいことだった」
「うん? そっか」
「それよりセンセー、体冷えてるんじゃない? 大丈夫? 海風結構冷たいもんね」
「……そう、かもしれないな。体が冷えて調子が悪いのかもしれない」
「も~、体は大事にしなきゃ駄目だよ。はいっ」
少女はスカーフを外してポケットに入れ、青い上着を脱ぎ、彼に羽織らせた。
先程まで走っていたのもあって、少年より明確に高い少女の体温が、上着を通して間接的に彼に伝わる。
心も体も暖かくなり、少年はにししと笑う少女に微笑みかける。
「ありがとう。きみは寒くないかい?」
「へーきへーき! もっと薄着でもっと寒い日に走ってたこともあったから!」
「そっか。ありがたいよ。きみはあたたかい女の子だね」
「うむうむ。センセーがあったまってるならよかった、よかった」
少年が少女の上着に身を包み、また筆を動かし始める。
彼の描く海は闇の父と宝石の母、その間に生まれた子のような色合いだった。
深海の吸い込まれそうな深さと、海の底なしの透明さと、海に降り注ぐ光が、独特の色彩感覚でコントラストを描いている。
光無き海の底、光注ぐ海の中、豊潤な青の有色と、透明で透き通る無色が入り混じっている。
そこに、青いスカーフを巻いた不死鳥のウマ娘が居た。
あいかわらず本物より美人で、スタイルが良くて、でも身長はちょっと修正されていて、太陽のような輝く笑顔は、彼に彼女がどう見えているかを如実に表す。
彼女がくれた思い出が輝いていたから、彼は今の自分のありったけで、『何よりも素晴らしいもの』として、それを描いた。
そこには笑顔の少女がいた。
学が無くとも分かる。
これは、"日の出"だ。
広大な海が広がり、その水平線から太陽が昇ってくるという人の心を動かす光景を、
江戸時代に生まれた、学の無い民衆にも理解できるよう、AをBに"見立てる"ことで、別物であるにもかかわらず本物以上の効果をもたらず技術体系―――『見立絵』の現代技術版。
『彼女は本物の太陽よりも太陽なんだ』と、彼が心の底からそう想っていることが、描きかけの絵を見ているだけで伝わってくる。
「うん」
周りの海の質感を調整することで、少女が太陽に見える。
少女が太陽に見えることで、色の味わいに苦味が出るほどの光量を書き込まなくても、見る人のイメージが自然と「光の少女だ」と印象に補正をかけてくれる。
飛び抜けた
青き黎明より生まれ出で、空を走り、赤き黄昏へと去って行く走行者。
太陽こそが、空模様最速の疾走者だ。
青き勝負服と赤き勝負服の間、青いウマ娘と不死鳥のウマ娘の間、朝の青と夕の赤の間、その中間点を疾走する太陽。
芸術の知識が無い者でも、この絵を見るだけで多くの理解と想像を胸に得るだろう。
彼が知った彼女の全てがそこにある。
彼女が彼に見せてきた自分の全てがそこにある。
だから、何よりも美しく、何よりも彼の想いを形にしていた。
少女の胸の奥に、ぐっと湧き上がる気持ちがあった。
「やっぱり、ボク、好きだな」
「気に入ったなら、お嬢さんが持っていってもいいよ」
「ううん、いいよ。完成品見れたら、多分それだけで一生忘れないからさ」
少女は、彼の絵が好きだった。
この絵を生み出す彼の心が好きだった。
幾度『好き』と言っても、満足することはない気がした。
星の数だけ『好き』と言えば、流石に満足するだろうと思った。
だから、少女は星の数ほど彼の絵の好きなところを言えた。
それは、星の数ほど彼の好きなところを言えることと同義だった。
きっと、彼も同じだけ彼女の好きなところを言えるだろう。
彼が描き、少女が見ている。
片方が話しかけ、もう片方が応える。
笑い合って、"ああ、好きだな"と互いに思う。
拳二つ分くらいの距離を空けて、もう少しだけ近寄ったら互いの肩が触れそうな距離で、海を見て、絵を見て、語り合った。
幸せな今が、幸せな思い出に変わり、心の思い出箱に収納されていく。
「そろそろ帰ろっか、センセー。日も傾いてきたし」
「おや、そんな時間か。きみのおかげで時間が経つのがとてもはやく感じるよ」
「家に持ち帰って完成させる感じ?」
「そうだね。海はじゅうぶんわたしの心の中に取り込めた。あとは……」
「あ」
帰ろうとした、その時。
夕日になる前の、ほんの僅かに橙色が混ざった太陽が、雲の合間から日差しを落とした。
普段は見えない光の線がくっきりと見え、雲の合間から海へと降り注ぎ、まるで空と海を繋ぐ光の階段のように見える。
自然界に自然発生する、人の手では生み出せない自然の芸術であった。
「センセー、見て見……感じて! 雲の合間からシュッと線引くみたいな太陽光!」
「無茶を言うなあ……ヤコブの梯子か」
「やこ……え、なに?」
「西洋での絵画の人気モチーフだよ。
旧約聖書創世記28章12節。
ヤコブは夢を見た。
雲の切れ間から地上に伸びる光のはしごを。
そこを登り降りする天使たちを。
以後の時代で、雲の合間から差す光を人々は"そう"見た。
光のはしごで、天使たちは天と地を行き来している……と考えた。
それにちなんでそういう名前で皆呼ぶようになったんだ。
昔の西洋絵画は宗教に沿ったものでないと認められない時期があったしね」
「へー。あ、そういえばセンセーの今回の絵、夢の中で海の上に立つウマ娘の絵だっけ」
「そうだね。ヤコブが夢に見て、名を得た、ヤコブの梯子か……」
少年は置きかけた筆を取る。
「もうちょっと時間をくれないか。書き加えたいんだ」
まだ描きかけの絵であるならば、修正も追加も行える。
二人で海に来たこの日に顕れた奇跡を、彼は絵の中に書き留めておきたいようだ。
少女は呆れた風に、楽しそうに、嬉しそうに、肩を竦める。
「しょーがないなぁ」
呆れた声に、本人にもよく分かっていない感情の色が混ざっていた。
光は鬼門だ。
光は触れられない。
光には感触が無い。
繊細な光の塩梅は、盲目の画家のほとんどが苦手とする鬼門である。
他人が書いた繊細な光の表現を指先で覚え、タッチを模倣して覚えるしかなく、それでも覚えた光のパターン以外を出すことが非常に難しい。
盲目の筆が綺麗な陽光を描くには、それこそ才有る盲人が十年以上研鑽して練り上げた技術と、盲人に根気強く付き合い眼の代わりになってくれる誰かが要る。
「光のはしごはどんな風に降り注いでいるのかな」
「うーんとね、太いのが三本あって、それが真っ直ぐに伸びてて……」
日が沈むまでの残り少ない時間を使って、雲の合間から伸びる光の梯子を描きこんでいく。
彼女が見たものを、彼が描きこんでいく。
彼を理解した少女は彼に分かりやすいように説明することができ、彼女を理解した少年は彼女の言葉から正確なイメージを想像することができた。
一心同体、とはまた違う。
二心一筆、という方が正しい。
今ここで、一本の筆を、心で繋がる二人の想いが動かしている。
「そういえば、センセー」
「なんだい?」
「永遠にしたいものは見つかった?」
少年の返答が、一瞬気恥ずかしさからか、止まる。
分かりきった問いを、彼女はした。
「ああ、見つかったよ」
「そっか。よかった、ふふっ」
少女は笑顔を輝かせて、『彼が絵の中で永遠にした自分』を見つめる。
絵画の中に明確な明暗が作られ、空からの光が中央のウマ娘の周りに降り注いでいる。
少女は気付いた。
これは、
あの日少女が手を引き、手を引かれた彼が特等席で知ったウマ娘の勝利の先。勝利の結実。夢が叶った光の舞台。
あの日彼が耳と肌で感じたものが、自然のみで再現されている。
海と雲と光と風が、絵の中の世界の全てが、絵の中に立つウマ娘の全てを祝福していた。
海をステージとして。
ヤコブの梯子をスポットライトにして。
彼は再び、彼女を栄光のステージに立たせたのだ。
また、彼女が走れることを望んで。
また、彼女が栄光を掴むことを祈って。
また、彼女が新しい夢を追える日が来ることを願って。
「好きだなぁ」
少女は、心の底から、掛け値無しに、そう言えた。
辛い時にこの絵を見たら泣いていたかもしれないと、そう思った。
この日が。
彼と彼女の関係性を決定的に変える、境界線の日となった。
誰かが走っている。
夕日の中、走っている。
その男は、『彼』を見つけ、思わず走り出していた。
絵をしまう少年の横で、ウマ娘が笑っていたが、その男はウマ娘の方に目もくれない。
少年が足音から接近に気が付き、その直後、男は少年に飛びつかんほどの勢いでやってきた。
その男は少年の目の前で足を止め、息を切らして、涙ながらに声を吐く。
「先生!」
「……三浦さん?」
「そうですよ! 南青山の三浦です!」
「え? 何? 何何なんの何?」
少年の表情が強張り、少女は困惑し、男は今にも泣きそうだ。
少女は知らないが、美術にはその地域における『集約地点』が存在する。
たとえば、エリート集団である中央のウマ娘達が通うトレセン学園は東京都府中市にあり、ウマ娘達もそこに住んでいるため、彼女らが縁を持つとなれば東京都内に限られる。
すなわち、日本橋・京橋・赤坂・青山・銀座あたりになるだろう。
現代において人気のジャンルである、東京での秋の天皇賞や安田記念などのウマ娘のレースを描いた絵は、これらのどこかの画廊に並ぶのが慣例だ。
それでいて、絵描きである少年と知り合いである。
で、あれば、マックイーンあたりは一瞬で気付いただろう。
この三浦という男が、それらの画廊の関係者であること。
ともすれば、この少年の絵を少年の代わりに売って回って世界を巡り、その収入を少年に支払う職業……『画商』であることさえ、マックイーンなら見抜けたかもしれない。
「よかった……まだ無事でいらしたんですね……絵はまだ描かれてる……みたいですね」
男はずっと、泣きそうだった。
少年は諦観を表情に浮かべ、何かを諦めていた。
「おかげさまでね。あなたが律儀に今でも売れた絵の代金を振り込んでくれてるおかげだ」
「戻りませんか?」
「いいよ、遠慮しておく。気を使ってくれたのは感謝してる、ありがとう」
「ただでさえ先生は知名度高くないんです、今皆に知られる画家にならないと……」
「評価される前に死ぬ?」
「……そうです! そうなる前に……」
「大丈夫だよ、永遠にしたいものは見つかったから」
「……先生、どうか御身をお大事に。もう長くはないのでしょう……?」
「うん」
その時。その言葉を聞いて。
「えっ」
少女の頭の中は、真っ白になった。
「……病院を抜け出すのは控えてください。これは自分の個人的な願いです」
「ありがとう」
何にも夢を見ていないような生き方。
未来に夢を見ていない生き方。
生への執着の欠片もない生き方。
何一つ楽しいことを知らないような、最初に見た透明感のみがある絵。
彼がしている隠し事。彼女が薄々気付いていた隠し事。
今日、唐突に出ていた咳。
『永遠』を求めていた理由。
盲目の彼が、今まで知らなかったものを探し、ウマ娘と夢の熱を知ろうとしていた理由。
『青いウマ娘』を描いたフランツ・マルクは、死の前に『立ち向かう不死鳥』を描いた。
全てが少女の頭の中で繋がり、顔色がさぁっと青くなる。
「悪いけど今日は帰ってくれるかな、三浦さん。最後の一枚を描いたら連絡するからさ」
「……あなたが絵を描いているならそれでいいです。どうか最後まで、満足できる人生を」
「重ね重ね、ありがとう。きみがいなければ、わたしは画材も買えなかったんだ」
「そんな……自分は……いえ、なんでもありません。それでは」
男が去っていく。
その場に残るは静寂。
口を開かず、言葉に迷っている少年の前で、恐る恐る少女が口を開く。
「せ、センセー……嘘、だよね?」
少年は唇を噛み、上っ面だけの微笑みを作って、少女に頭を下げた。
心底申し訳無さそうに、頭を下げた。
「ごめんね」
「なんで……なんで、謝るの」
「きみにそんな声を出させたくなかった。見えないけど分かる。そんな顔もさせたくなかった」
違う。
そうではない。
少女が欲しかったのはそれではない。
欲しかったのは"なーんて嘘だよ"という茶化した言葉。
騙してくれるなら、それでもいいとすら思えた。
正直者で、嘘をつかれることを好まない彼女が、『嘘』を求めたというこの矛盾。
彼が本当のことを言うことで苦しむというこの二律背反。
嫌いだから傷付けたのではない。
好きだから傷付けたくなかった。
嫌いだから嘘をついたのではない。
好きだから本当のことを隠していた。
けれど、永遠はない。
『永遠にバレない嘘』などない。
永遠に生きる命がないのと同じように。
「ごめんね」
少年はただ謝った。
嘘の代価は、永遠に笑っていてほしかった女の子が、自分のせいで笑顔を失うという今。
少年にとって、自分が切り刻まれるよりも。ずっと大きな苦痛に苛まれる罰だった。
調子に乗って書きまくった結果、日数とにらめっこして読みやすい更新頻度を考え、ここまでで前半部として一旦切ります。
一応最後までは書き溜めてあるので明日以降も毎日更新です。