「わかっているのは僕の命はいずれ終わるってこと」
「だから僕にとっては今が大切なんだ」
「命が終わるまでに出来る限りのことをことやりたい」
「人々の心に残るアーティストこそが本当のスペシャリストなんだ」
「僕は死ぬかもしれないけれど本当に僕が死ぬことはない」
「だって、僕はみんなの中に生きてるんだから」
―――キース・ヘリング
永遠などない。
この世の全てが永遠を保証されていない。
永遠に走り続けられるウマ娘はいない。
永遠に過去にならないウマ娘はいない。
永遠に忘れ去られないウマ娘はいない。
画家は死ぬ。
絵画は記憶から消え、記録に変わっていく。
そして、人は死ぬ。
いつか死ぬ。
永遠はない。
永遠に壊れない体のパーツがないように、命もまた、いつかは壊れる。
永遠が無い世界の中で永遠を求めるからこその人である。
帰りの電車には、気まずい空気が流れていた。
彼も喋らない。
彼女も喋らない。
四人用のボックス席に、沈黙を続ける二人が座っている。
車窓から見える景色は、夕日が残すほんのりとした赤の陽光、それに照らされる街、街に灯る光の群れと、黄昏時の美しさが詰め込まれている。
一日の終わりを間近にして、気の抜けた人々の声が、電車の内外から聞こえてくる。
だが少女は窓の外を見ず、彼も窓の外に耳を傾けてはいない。
今は二人共、互いのことしか考えていなかった。
「生まれつき眼が見えなかった。小児癌にかかってしまった。それから体に色々あってね」
「治せないの? ほら、手術とか!」
「『99%死ぬ手術なんてできない』と、お医者さんには言われてしまったよ」
彼女が薄々気付いていた彼の隠し事は、今日とうとう暴かれた。
「センセーって……思ってたよりずっと嘘つきだったんだね」
「ははは。本当はあの日、川に身を投げてしまおうと思っていたんだ」
「……え」
「誰にも迷惑をかけないで、誰にも見つからないまま、海まで行けたら……そう思ってた」
盲目の人間は、初見の場所では水辺を避ける。
最悪溺死、そうでなくても転倒や水落で汚れやすく、目が見えない人間にとって水辺周辺の滑りやすい足場は鬼門になりがちだからだ。
彼の杖が事故で川に落ちかけたのは偶然ではない。
彼が水場の近くに居たのは偶然ではない。
世界的に有名なジャン・アントワーヌ・グロも、クロード・モネも、その他にも名の知れた画家達も、自殺には川を選んでいる。
ルネ・マグリットに至っては、13歳の時に母が川で入水自殺し、その死体の姿が脳裏に焼き付いたためか、ずっとその死体をモチーフにした絵を描き続けたという。
少年の中で川と自殺のイメージが強く繋がっているのは、画家の職業病のようなものだろうか。
「ねえ、センセー」
「なんだい」
「じゃあ、なんで生きようって思ったの?」
数秒、沈黙。
少年が言葉を選ぶ間、ガタンゴトン、ガタンゴトンと、電車の走る音が流れる。
「いやになってたんだ、わたしは」
「嫌になってた……?」
「目はずっとこう。
病気は今の医学では治らないと太鼓判。
何かを残そうとしても空回り。
腕前は上がらない。
目が見えないから上達も遅い。
何を描いても前の焼き直し。
心が前を向いてくれない。
頭が新しいものを思いついてくれない。
世界が嫌いだった。
運命が嫌いだった。
自分が嫌いだった。
わたしはね、もう生きているのがつらくなってしまっていたんだ」
「……」
「そんな時にね、聞こえたんだよ」
「聞こえた? 何が?」
「きみが聞こえたんだ」
「……ボク?」
こくり、と少年は頷く。
「わたしはね、きみみたいに生きたことがなかったんだ」
「センセーは……ボクみたいにやんちゃしそうにないもんね」
「きみみたいに、上機嫌に歌いながら歩いたことがなかった。
きみみたいに、たのしそうに街を歩いたことがなかった。
きみみたいに、困っている人のために反射的に飛び出したこともなかった」
「えっ……あっ、あははっ、杖拾う前からセンセーに見られてたんだ、恥ずかしいや」
「恥ずかしくなんかないよ。
きみに恥じるところなんてない。
きみが聞こえた。
きみに聞き惚れた。
きみはわたしが知るかぎり世界で一番、たのしそうで、しあわせそうで、輝いていた」
少年が過去を思い返し、安らいだ表情で微笑む。
「きみに耳を傾けている間、嫌なことを全部忘れられた。
死にたいという気持ちも忘れられた。
"ああ、もっと聞いていたい"って思えた。
そのくらい、きみから生まれる音は全てがたのしそうで、きれいだったんだ」
「ふぇっ」
「きっと、きみの周りの人なら皆思ってるよ。
きみがたのしそうなら、こっちまでたのしくなってくるって。
きみがはちみつの歌を歌ってるのを聞いてるだけで、ちょっとしあわせになるんだって」
「そ、そこまでのことは……ないと思うなぁー……」
「あるよ。わたしはそう思う」
「……うぅ」
「会ったこともないけどわかる。
きみの周りの人はきみを大切にしてるはずだ。
それはきみが愛される人だから。
足が折れてしまった時なんて、みんなすごくきみを心配してたんじゃないかな」
「見てきたみたいに言うじゃん、センセー」
「見えなくても分かることだよ、このくらいは。わたしは、君と出会ってからずっと……」
がたん、と電車が揺れる。
森を抜け、車窓から月が見えた。
月はいつでも、太陽を見ている。
きっと、月は太陽に恋をしているから、月はいつでも、太陽を見ている。
「楽しかった。辛くなかった。苦しくなかった。痛みまであんまり感じなくなっていたんだ」
絶望があった。
どうにもならない絶望だ。
治らない病、直らない傷は存在する。
彼の目も、彼女の足も、そして彼を殺す病も、どうにもなるものではない。
その中でも死に直結する病は、どんな心の持ちようをしても先が絶対に無いという点で、最も救いようのない欠落と言えた。
誰かが頑張ってもどうにもならない。
誰かが何かの勝負に勝っても何も変わらない。
ウマ娘のレースが勝者と敗者を決定するゴールに向かわせるものならば、治す方法の無い病とはゴールに死しか存在しないもの。
どうにもならない。
どうしようもない。
されど、古今東西、芸術家は作品にその答えを描き記してきた。
絶望に抗うもの。
人が生を手放すことを止めるもの。
それは、『希望』である。
「君のおかげで少しだけ思えたんだ。長生きすることだけが幸せじゃないって」
「――――」
「生きている間にどこまで行けるか。それも本当に大事なことなんだって」
たとえ、この先の人生がどうなるとしても、構わず進む。
恥を晒すとしても、もっと自分が壊れるとしても、何も成せなくても、構わず進む。
生きている限り、体が動く限り、前へ、前へ。
常人であればとっくに心が折れている人生を懸命に生きている少女の在り方が、ただそこに在るだけで、何よりも強く彼の心に希望をくれていた。
足が折れた少女こそが、心が折れていた画家の心を救ったのだ。
その命が辿る結末が、変わらなかったとしても。
「わたしだって生きたかったさ。
ほしかったものには手が届かなかった。
でもだからって同情してほしいわけではないんだ。
わたしは今、手が届かなかった星とはちがう、別の星に手を伸ばしているから」
「……」
「わたしはずっと沼ばかり見ていた。
わたしの足をとらえる、おおきくて深い沼だ。
きみがわたしに空を見上げさせてくれたんだよ、お嬢さん」
月はいつも、太陽に恋い焦がれ、太陽に手を伸ばしている。
「だから」
そして、太陽もまた、月の優しさに癒やされていた。
互いが互いを、"自分に無い物を持っている素晴らしい人"として尊敬し、親しみ、大切に想い、そして―――軽い気持ちでは口に出せない気持ちを持っていた。
「最後の時間をきみと共にすごして、きみに黙ってきみの前から消えて、死のうと思った」
「……センセー」
「きみを悲しませることはしたくなかったから」
彼女と居ると幸せだった。
彼女に幸せになってほしかった。
彼女に笑っていてほしかった。
彼女を悲しませたくなかった。
彼女と一緒に過ごすという幸福を少しでも長く感じていたかった。
だから彼は、何も知らせず、最後の時は一人で死のうと思っていた。
最期が孤独でも、それまでが孤独でないなら耐えられると、少年はそう思ったのだ。
彼は彼女を猫にして犬だと表現したが、彼もまた然り。
彼は本質的に犬のように従順で一途。
一度好きになればずっと好きなままで、付き従うように他者を愛する。
そして、猫のように、死ぬ前には付き従っていた者の前から姿を消す。
愛する者の前では死なず、どこかでひっそりと一人死のうとするのだ。
犬猫のような気質を二人共持ち合わせた上で、二人はこんなにも違う。
だから、憧れが生まれるのかもしれない。
「……ああ、そうか。そうだったのか。
これがわたしの今の夢で、願いで、希望になっていたのかもしれない」
「……え」
「きみを描いて、きみを絵に残して、きみに知られず、きみを悲しませず、死にたかった」
ウマ娘は、人に夢を見せるもの。
どんな夢を見るかは、人が決めるもの。
夢があれば、夢に向かって生きていれば、人は希望を持って生きていける。
絶望の中で自殺する運命にあった少年は、少女に幸せな夢を見せられ、残り少ない人生を彼女を描くことに費やし、ほどなく病死するという運命を選び取ったのだ。
彼の人生の最後は、少しだけ長く、少しだけ幸せなものとなった。
それは間違いなく救いだろう。
だがそれは、如何に非凡なる少女であっても、素直に喜べることではない。
「どうか気に病まないでほしい。わたしが生まれて初めて見た太陽は、きみだったんだ」
「あ」
「きみはなにも悪くない。きみがわたしを救ってくれたんだ」
少年は屈託なく笑う。
その言葉は間違いなく本音だ。
彼は心底、"これ"を人生の結末にすることに満足している。
他にどんな感情があったとしても、この感謝に、この幸福に、この納得に、嘘はない。
それと同時に、彼は自分の死によって、彼女が少しでも悲しみを抱かないようにしていた。
探りを入れるまでもなく、少女にはそれが分かる。
彼は人生最後の仕事として、別れの瞬間に、涙も後悔もない終わりを作ろうとしている。
『こんなに辛いなら出会わなければよかった』なんて欠片も思わない結末を、望んでいる。
「わたしには見えない綺麗な世界の中で、ずっと笑っていてくれないか、わたしの太陽さん」
少女はぎゅっと、拳を握る。
彼もまた、少女を追い越し、少女より先に一着でゴールしてしまう。
死というゴールへと辿り着いてしまう。
"不屈の帝王"はまた、自分を置いて先に行く誰かの背中を見送ることになる。
彼が帝王に勝つためにではない。
彼は死という敗北の一着を運命付けられている。
『その一着』が、誰かに喜ばれることはなく、誰かを笑顔にすることはない。
かつて、足が折れた時、少女は置いていかれる恐れに苛まれていた。
置いていかれることの恐れを、少女は誰よりも知っている。
少年はそれを知らない。
「センセーはそうしてほしいの?」
「ああ……本当は、なんでもいいんだけどね。
きみがしあわせそうなら、それで。
たのしそうなきみに救われたのが私だから。
……どうだったかな。
父さんと母さんが死んだ時、わたしはどうしてたんだっけ。
あんまり思い出せない。覚えてるのは絵を描いていたことだけ。
大切な人が死んだ時、どうすれば一番悲しくないのか……わたしはあんまり知らないんだ」
「……そっか」
「ごめんね。本当に、ごめん」
「謝らないでよ。ボクだってさ、センセーには笑っていてほしいよ、ずっと」
「やっぱりきみはやさしいね。奔放で、自分のために生きてて、でもやっぱりやさしいんだ」
「あーもう、あーもう、センセーはさぁ!」
諦めないことで、人の心を揺さぶる奇跡を起こしてきたのがこの少女なら。
この少年は、生まれた時からずっと何もかもを諦める人生を送ってきた。
諦める以外の選択肢を許されない人生を送ってきた。
そんな彼が、『彼女にはいつまでも笑っていてほしい』という願いだけは、『彼女を悲しませたくない』という想いだけは、諦めることができなかった。
少年が得た生まれて初めての『諦めたくない』が、少女の胸の奥をきゅっと締め付ける。
少女は無理をして笑ったが、彼にその笑顔が見えることはなかった。
いつも通りの会話には戻らない。
戻れない。
それでも頑張って寄せていく。
これまでが楽しかったから、それをなぞろうとする。
「わたしもきみも永遠ではない。
でもわたしはロマンチストだからね。
永遠というものがあると信じてるんだ、ちょっとばかり」
「そうなんだ」
「わたしが死んでも絵は残る。
わたしの『先輩たち』がそうだったように。
どこかに絵でも飾って、気が向いた時にでもながめて癒やされてくれたら幸いだ」
少女は気付く。
この少年が仮に『死ぬのが怖い』と思っていても、『死ぬのは嫌だ』と思っていても、もうその本音を自分に明かすことは無いのだと。
彼は、人生最後の時間を、少女に悲しみ一つ残さないために使うことを決めている。
「そうして、たまに思い出してくれると嬉しい。
悲しい終わりなんてなにもなかったことを。
いつまでもきみの幸せを願っている誰かのことを。
きみに出会えてからずっと、笑顔でいられたひとりの人間がいたことを」
こらえるように、少女は笑った。
声色さえ整えられれば、彼には今の自分の顔がわからないはずだと信じて。
「おっもいなぁ。そんなんじゃ女の子にモテないよ?」
「それは大変だ。わたしも人並みにはモテたい人間だからね」
「うっそだー!」
「ふふふ」
「あははっ」
少女は、ずっとこんな時間が続けばいいと思っていた。
話すのが楽しかったから。
知らないことを分かりやすく教えてもらうのが楽しかったから。
一緒に居るだけで楽しかったから。
この楽しい時間が永遠に続けばいいと、心のどこかで願っていた。
この時間にゴールがあるだなんて、少女は想像もしていなかった。
ゴールはずっと、二人の目の前にあり、死の大口を開けていた。