―――野見山暁治
いつも彼が絵を描いている近くの樹の下で、彼が寝ているのを少女は見つけた。
「ありゃ、珍し。センセーが寝てるの初めて見たよ」
今日は休日。
レース場の熱気がピークに達する日。
少女が知るかぎり、かの少年は一時間、数時間と描き続けても平然と描き続けていた。
17時頃に会った時にいつから描いているのか聞けば、「今が何時かは見えないけど7時くらいから描いてるかな」と平然と言う人間だった。
夜が見えていない・夜でも問題なく描けるからか、夜になっても描き続けようとしている彼を「夜の独り歩きは危険だから」と、少女が駅まで引きずって行ったことも一回や二回ではない。
休憩する時は大体の場合少女を気遣ってのことで、少年は疲れを見せたことも、休憩を必要とする素振りを見せたこともない。
彼女の中の彼は、放っておけばいつまでも描き続け、休憩なんて必要としない、細身の鉄人―――強靭で綺麗な、銀色の針金のようなイメージだ。
休んでいるところも寝ているところも、これまでイメージしたことすらなかった。
そんな彼が、樹の下で寝ている。
前日寝不足だったのか、今日が冬らしくない陽気の日であるからか。
……あるいは、もう
少女はひっそり歩み寄って、彼の隣に腰を降ろした。
少年の膝の上に乗っていたウマ娘の彫刻が揺れる。
「センセー」
少年は応えない。
少女が見つめる先で、楽しそうな表情で夢を見ている。
樹の影が二人を飲み込み、暖かな陽気の中、涼やかな風が草木を揺らす音が聞こえた。
「センセー、起きてる?」
木の葉がゆらり、ゆらりと、空中を緩やかなジグザグ軌道で落ちてきて、それが少年の顔に落ちてきそうだったので、少女は空中でそれを掴み取る。
大昔の剣豪のようなことをさらりとしつつ、少年の前髪を整えつつ左右にどけ、少女は少年の顔をじっと見た。
一分。
二分。
三分。
少女は己の肘と膝をくっつけて頬杖をつき、五分経ってもまだ見ている。
彼は目が見えないから、顔をじっと見ていても気付かれることはない。
けれど彼が起きている時、向き合っている時は、"彼がまっすぐな目でこっちを見てくるから"という理由で、少女は彼の顔をじっと見ていられない。
彼の眼が見えないことは分かっている。
なのにいつも、見えていないけど、見えている気がしてしまう。
心の奥底まで見透かしてきそうな、何よりもまっすぐな閉じられた瞳。
普通の人の視線は外せる気がするのに、心の眼で見ているようなその視線はかわせず、逃げられる気もしない。
盲目の彼にじっと見られていると、なんだか恥ずかしくて、大人しくしていられない、だからどうしていいか分からなくなる―――そう、少女は思っている。
だから、彼が自分を見ていないと確信できる今、思いっきり彼を見ていた。
"飽きないなあ"と思いながら、彼の頬をつんつんとつついてみたりする。
「……幸せそうに眠るんだね、センセーって」
そっと、少女の手が少年の首に触れる。
細い首だった。
肌色は薄く、肉も薄く、血管が浮いて見える。
少女はウマ娘の中でもかなり小柄で、背の高い小学生程度の体躯であったが、そんな少女と比べても少年の首は細かった。
ウマ娘の腕力なら、おそらく容易く折れる。
締めてもすぐに殺せる。
これだけ脆い細身の少年の首であれば、鍛えた成人男性の格闘家が足元にも及ばないほどの身体能力を持つウマ娘であれば、いとも容易くどうにかできる。
「……」
そっと、優しく、少女の手が少年の首に触れる。
ざわざわと、風に揺れる木の葉が擦れる音が鳴っている。
かつて夢破れ、敗北の味を知り、幼い頃からの憧れが色褪せた時、少女は死んだ方がマシだというくらいの苦しみを味わった。
味わった上で、笑顔を作って、周りに心配させないよう振る舞った。
表面上は平然としていても、心はずっとズタズタだった。
一番弱っていた時期は、「夢を見ている途中に死んでたらこんな気持ちを味わわなくて済んだのに」と思うことすらもあった。
だから、少女は知っている。
幸せな夢を見ながら死ねることは―――幸せなのだと。
幸せな夢を見ている最中は、夢以外何も考えられないくらい、幸せなのだと。
辛さが分かるからこその優しさ、というものもある。
ここで幸せな夢を見せたまま終わらせてやるのも慈悲だ。
この後の彼の人生に待っているのは短命の死と、死の直前の絶望と恐怖しか無い。
しかも、その残り時間を少女に悲しみを残さないために使おうとしている。
最後の瞬間、後悔して死を迎えでもしたら……そう思うと、少女の体はぶるりと奮えた。
死ぬより辛いことがあることを、少女は知っている。
「センセーが一番辛かった時、泣いてた時に会えてたら、何か違ってたのかな……」
それでも結局、少女は彼に傷一つ付けることはしなかった。
この少女が意図的に他人を傷付けようとすることなど、できない。
彼女を『本当に優しい子』と見た彼の慧眼は正しい。
彼女は何があろうとも、決定的に選択を間違えることだけは無いウマ娘であったから。
そっと、首から手を離す。
首から離した手で、そっと彼の頬に触れた。
ずっと見つめていた顔に触れ、その感触を、まだ途絶えていない彼の生を確かめる。
冷えた手に、彼の頬はほんのりと暖かかった。
「一緒に死んであげよっか、センセー」
ちょっと冗談めかして、内心を読ませない曖昧な表情で、少女は言う。
「……センセーは喜ばないか、そういうの。死んじゃったら何にもならないしね」
別に、一緒に死にたいわけではない。
彼のために死にたいわけでもない。
心中願望など、この太陽の少女にはない。
ただ、やがて死ぬ友人を見ていると、少女はどうしても思ってしまうのだ。
"一人ぼっちであの世に行くのは寂しいんじゃないか"、と。
少女自身、一人ぼっちを忌避する性質を持つために、その優しい想いはとても強く在る。
少年の頬にふんわりと触れ、その顔をなぞり、少女は願いを口にする。
「生きていてほしいなあ」
叶わぬ願いを。
今、こうして触れられるのに。
こんなに暖かいのに。
ここに生きているのに。
やがて、それは終わるのだ。逃れようもなく。
「ボクが頑張ってどうにかなるなら、いくらでも頑張るのに……」
夢半ばで終わるのが一番辛いのか。
夢が完全に破れて終わるのが一番辛いのか。
夢が無いまま終わるのが一番辛いのか。
幾度となく得た新たな夢が全て潰えていくのが一番辛いのか。
あるいは、ろくな夢も見られないまま病死していく人間を見ているだけなのが一番辛いのか。
それは、人にもよるだろう。
苦しみは千差万別であり、この世界のどこにも満ちている。
"この世で自分だけが苦しいんだ"という悩みは、往々にして正しくはない。
誰もが大なり小なり苦しみを抱えており、苦しみ自体は珍しくもなんともないがために、人々は興味がない界隈の苦しみに興味を持つことさえない。
彼が死んでも、世の中の大半は悲しむことすらない。
知らないどこかの少年が死んだだけだからだ。
死後に評価されたタイプの画家のほとんども、死んだ時には誰も悲しまなかった。
ここではない世界であれば、競走馬が死んでも世の中の大半は悲しまない。
世間の大半にとっては興味も無いからだ。
競走馬の悲劇的な安楽死など、テレビのニュースにもならない。
だが、画家も競走馬も、死後ずっと後に大勢に評価され、その死を悲しまれることは多い。
死後に個展が開かれ評価される画家がいる。
死後に本やアニメで使われて認知度が爆発的に増した馬がいる。
生前に受けなかったような評価や称賛を受けることも珍しくない。
その画家やウマが死んだ時には興味も持たなかった、あるいは死んだ時には生まれていなかったような人間達が、後世の伝記や娯楽創作を見て知って、その死を悲しむのだ。
奇妙な話だ。
死んだ時は、ほとんどの人に悲しまれなかったのに。
後世になってその画家の絵が出回ってそれが楽しまれたり、そのウマに関する創作が楽しまれたりして、それでようやく大勢に死を悲しまれる。
まるで―――"嗜みの一環として死を悲しまれている"かのようだ。
それを、本当に"その者の死を悲しんでいる"と言えるのだろうか?
一度も会ったことのない過去の人、馬、その死を悲しむ死と。
生きている間に触れ合った大切な存在の死を悲しむ死と。
この二つは同じ線上に存在する悲しみなのだろうか?
無論、どちらも悲しみであることに変わりはないだろう。
馬を世話してきた人間と、後世でアニメなどで知った人間。
画家と私生活で付き合いがあった人間と、後世の伝記などで知った人間。
これらは全て、その存在の死を悲しんだという点では同じである。
ただ、『悲しみの中身』だけが違う。
ゴッホの死が広く悲しまれたのは、後世の伝記や回顧展などで知名度が爆発し、その絵の価値が爆発的に上がってから。
競走馬の悲劇的な死が一般的に知られ、人の悲劇的な死のように悲しまれたのは、競走馬を題材にした創作が定着し、競走馬を人間に準ずる有人格のように扱った創作が流行ってから。
『記憶』になる悲しみと、『記録』から得た悲しみは、違うのだ。
きっと、根本的に。
この少年が死に、死後の絵を評価した人達は、『記録』から彼を知って悲しむかもしれない。
けれど、この悲しみを『記憶』にするのは、きっと数人で終わりだろう。
その数人の内の一人に、彼女はなるのだ。
彼を『記録』ではなく、『記憶』して、この先も生きていくのだから。
「なーんでセンセーは、自分が死んで悲しむ人を無くせるだなんて、思ってるんだか……」
この少女は昔から、『絶対』という言葉を言い続けてきた。
絶対に勝つ。
絶対に諦めない。
絶対に夢を叶える。
絶対に、絶対に、絶対に。
絶対という言葉を誓約のようにして、絶対という言葉の力で突き進み、自分で口にした絶対という言葉を、自分自身の敗北で裏切ってきた。
絶対に勝つと決めたレースに負け、絶対に叶えると決めた夢は破れた。
そうして、今の彼女がある。
"絶対にセンセーを助ける!"と言いたかった。
"絶対大丈夫!"と言いたかった。
"絶対に諦めない!"と言いたかった。
昔の自分なら言えただろうということが分かってしまい、少女は拳をぎゅっと握り締める。
『近い内に絶対に死ぬ』人に、残酷な気休めを言えるほど、彼女ももう無邪気ではない。
少女にできることは、頑張って生きている彼の頭を、優しく撫でてやることくらいだった。
「……ん」
「!」
と、そこで、彼が声を漏らす。
どうやら首やら頬やら頭やらを彼女が触ったせいで起き始めてしまっているようだ。
少女はそこで我に返る。
感傷的なことを考えつつ、愛おしそうに彼に触れていたが、よくよく考えれば寝ている隙を狙って異性の体をベタベタ触るというのはだいぶアウト。
男女逆であれば通報ものだ。
まして相手は全盲の人間。
抵抗できない社会的弱者。
罪状の重さが半端ではない。
"つい"触れたくなって、触れながら彼のことを考えていた自分を自覚し、少女は首をぶんぶん振って自分を取り戻す。
「やばやば、いくらなんでもベタベタ触りすぎたかな……というかボクなにやってんのさ!」
なんで自分がそうしていたのか、少女は自分でもよく分かっていなかった。
少年は目を覚まし、眼前の少女の呼吸音や少女の踏んでいる土の僅かな擦過音からそこに誰かが居ることを把握するが、少女が硬直しているせいでそれがかの少女だと認識できない。
「……誰?」
「……ボクボク、ボクだよ」
「……ああ、お嬢さんか。おはようございます」
「お、おはようございます? 今昼だけど」
「あ、そうか、なんだか無性に疲れて寝てて……触れられたような感覚が……」
「……そ、そっか」
少年は己の頭に触れ、皮膚ではなく髪だからこそ残る『人の手が触れた痕跡』、具体的に言えば人の手で撫でつけられた痕跡を指先で発見、彼女に自分が撫でられていたことを察し、そこに気付きを得ていた。
「ああ、なるほど」
「? 何納得してるの?」
「夢の中で怖い鬼が出てね。
わたしはきみを守ろうとしたんだけど……
きみがぱぱっと倒しちゃって、わたしを子供扱いしてなでていたんだ。謎が解けたよ」
「あー」
「ありがとう、お嬢さん。夢の中でもわたしを助けてくれて」
「センセーの夢の中に出て来るボクとか確実に本物より美人な別人じゃん!」
撫でてくれてたんだな、と少年は感謝する。
大して嘘が上手くもない少女は視線が思いっきり泳いで、ばれなくてよかった、と思う。
少年は夢の中の撫でられた感触を思い出して嬉しそうにしていて、少女は己が掌を見てベタベタ触った感触を思い出し、身悶えしている。
少女は可愛がられるタイプであるので、撫でられた経験は多くても撫でた経験が少なく。あまり真っ当な幼少期を過ごして無さそうな彼は、普通に撫でられた経験が少ないのかもしれない。
ざわざわと木の葉が揺れている。
まだ寝起きでゆったりとしている少年と少女は談笑を始めた。
普段から穏やかな少年であったが、寝起きも相まって普段以上にゆったりとしていて、最速を競うレース場に置いていたら蒸発して消えてしまいそうだ……なんて、少女は思った。
「あ、センセー聞いてよ聞いてよ! 今日の朝ね、すっごい面白いことがあったんだ!」
「へぇ、聞かせてくれるかい?」
「あのねあのね、マヤノトップガンって子が居て、その子が壁と一体化してたんだけど……」
なんでもない話で盛り上がっていると、少年の膝の上から彫刻が転がり落ちる。
それを拾い上げ、少女は首を傾げた。