目無し足無し夢も無し 心を救う永遠の帝王   作:ルシエド

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「美しい女性を描くには、最も美しい女性を見る必要があります。しかし実際には美しい女性は極めてまれです。だから美しい女性を描くために私は心の中の理想の姿を描きます」

   ―――ラファエロ・サンツィオ


15 エキザカム ■■■■

 絵画と彫刻は、極めて近い世界である。

 かつてはそういう表現しかなかったというだけで、絵画は2D、彫刻は3Dの芸術表現の代表であったものであり、両者は技術や美的感覚において大いに交流のあるジャンルであった。

 "平面に落とし込む"のが絵画であり、"立体を掘り出す"のが彫刻である。

 ダ・ヴィンチやミケランジェロなど、歴史上名を残した名画の創り手は、彫刻にも手を出しているということが多い。

 

「え!? これセンセーが彫ったの!? こっちも上手いじゃん!」

 

「絵と比べると二段三段は落ちるけどね」

 

「よく描けるなあって思ってたけどよく彫れるなあって改めて思ったよ……」

 

「ああいや、彫刻は絵画より楽なんだよ、指先で触れておぼえた形を彫ればいいから」

 

「え? ああ、そっか、そういうこともあるんだ」

 

「古くはゴメッリ、新しくはレッドホーク。

 皆盲目の画家ながら、立体を創るのに長けていたね」

 

「へー……あ、じゃあこれボク!?」

 

「あ、いや、それはメジロマックイーンさん」

 

「なんで!?」

 

 よく見たらこれ木彫りのマックイーンっぽいじゃん!と少女は思った。

 

「そこはこう……ボクから彫り始めるとこでしょ! ボクが一番じゃないの!?」

 

「ひさしぶりだったから、練習したくて……

 きみを彫るならせめて感覚を取り戻してからにしたくてさ。美人にしたかったんだ」

 

「ぐぬぬぬ……ゆ、許す!」

 

「ありがとう」

 

 少女の気分はすっかりNTR(寝取られ)一歩手前のそれ。

 まあ、彼の宿業はNTRというよりはMTR(看取られ)かもしれないが。

 

「と、いうか、冷静に見たらこれ全然マックイーンじゃないね……」

 

「想像上の人だからね。足音から想像するにこのくらい」

 

「うーん、本物のマックイーンはもっとすらっとした美人だよ」

 

「そうなんだ。わたしの技量の問題もあるかもね。本物はどんな感じだい?」

 

「もうちょっと背があるし、髪は長いし、胸は全然無い。ぺったんこで板みたいな感じ」

 

「言うねお嬢さん……」

 

「子供みたいって言われるボクより無いもん、マックイーン」

 

「言うね……」

 

 少女に言われるがまま、木彫りのマックイーンは少年の手で胸を削られていった。

 

「おーマックイーン感出てきた出て来た……ところでなんで今日は彫刻?」

 

「ああ、いや……その、なんだ」

 

「?」

 

 少年が見たこともないくらい歯切れの悪い話し方をしていて、少女は可愛らしく首を傾げる。

 

「ええと……」

 

「……センセー、まだかかりそう?」

 

「ごめんね。あーっと、こう……言えば一言で済むんだけども」

 

「ボクあんま気が長い方じゃないよ。

 センセーの絵を静かに見てる時は自分でも珍しいって思うくらいなんだから」

 

 少女は腰に吊っていたホルダーから、大好物のはちみつドリンクを取り出し、飲みながら何やら死ぬほど言い辛そうにしている少年の次の言葉を待つ。

 

「……」

 

「センセー?」

 

「その」

 

「うん」

 

「きみの肌に触れてもいいかな」

 

 そして、はちみーを吹き出した。

 

「え? え? ええええ!?」

 

「あ、突然こんなこと言われてもこまるだろうから、断ってくれても」

 

「ま、待って、まず理由言って!

 センセー女の子にセクハラしたいとかのキャラじゃないよね!?」

 

「ん……盲目の画家が描いた人物画を見たことはあるかな。わたしのもの以外で」

 

「センセーが描いたのしか見たことないけど、それがどうかしたの?」

 

「想像で他人の姿を頭の中に構築して描くというのは、実はそんなに主流じゃないんだ」

 

「へ? そーなの?」

 

「ほとんどの人は、その、あの……モデルになった人に触れて、その形を把握して描くんだ」

 

「………………………………あっ、ふーん」

 

 もにょもにょした表情で、少女は納得して頷いた。

 

 彫刻と絵画には通ずるところがある。

 彫刻は手で触れて形を把握して縮小版に落とし込むため絵画より盲目に向いている。

 彼は触れたものの形を正確に、加えて色をある程度把握できる。

 で、あれば。

 その人を正確に描くには、触れて知るのが一番だろう。

 彼の目は、その指先に在るのだから。

 

「あの、だね……色々思い直す機会があったから、描きたいものも、また増えて」

 

「想像上のボクだけじゃなく、正確なボクも描きたくなった?」

 

「ん……はい」

 

「センセーは、ボクに、触りたいの?」

 

「……うん」

 

 妙な空気が流れる。

 

「芸術的な意味だけで? 他意はない?」

 

「そういう……そういう気持ちが無いと言ったら、嘘になる。ごめんね」

 

 変な空気に、二人がむずむずとしている。

 

「謝らないでよ。……別に気にしないから」

 

「え」

 

「さわっ、触っても、いいよ? 別に? 芸術のためだしね? センセーがしたいなら」

 

「えっと、いいのかい? 女の子には気安く触れたらいけないと教わったけど」

 

「センセーは気安く触れないでしょ? それに……」

 

「それに?」

 

 彼の首や頬にベタベタ触っていた自分の手を見つめて、少女は続ける言葉に一瞬詰まった。

 

「いや……あの……ボクは拒めないというかどの面下げて拒むのって感じなので……」

 

「?」

 

「と、とにかくどうぞ! その代わり、ボクが嫌だって言ったらそこでストップね!」

 

「あ、ああ、ありがとう」

 

「……あと、優しくしてね。痛くしないでよ?」

 

「……はい、気を付けます」

 

 背負って運び・運ばれたことで、二人はボディタッチの壁を知らず識らずの内に越えていた。

 心の距離も近付き、引かれていた一線も無くなり、最大の隠し事も無くなっていた。

 更には、芸術に必要なことであるという免罪符。

 加え、少女が受け入れれば成立する案件に対し、少女の後ろめたさがあり、恋人でもないとしないようなことを友人同士でする流れが成立した。

 

 要約すれば、二人の間にある"このくらいまで許してくれるだろうか"という認識が、次の段階に進んだのだとも言える。

 

 彼の目は指先にある。

 

 彼に自分を見せるには、自分を理解させるには、触れさせるしかない。

 

 『触れられたくない』と思っている人間に体を許すほど、彼女はふしだらではない。

 

 だからこれもまた、『特別の証明』の一つだった。

 

 

 

 

 

 恐る恐る、けれど恥ずかしそうに、少女は少年の前に身体を差し出した。

 少年は少女に触れる手に失礼がないように、ウェットティッシュで念入りに手を拭いてから、少女に向けて手を伸ばした。

 

「ど、どうぞ! かもーん!」

 

「では、失礼して」

 

 まず彼の手が触れたのは首。

 奇しくも彼女が最初に触れた彼の部位と同じ場所。

 頸動脈に触れ、彼女の命の鼓動を感じる。

 彼の手付きは優しく、撫でるように少女の首の形を確かめていた。

 

「んっ」

 

「いやになったら言ってほしい。お嬢さんがいやだと思うことはしたくないからね」

 

「ちょっとくすぐったかっただけだから、へーきへーき! 続けていいよっ」

 

「ありがとう。首の太さは普通の少女並だけど……固定力が強いね。

 車より速く走るウマ娘が転んでも首が折れないのはそのためかな。

 足がとても速く動いても、足に血が集まって貧血にならない、ポンプのような血管……」

 

 首の肌触り、毛穴の一つ一つ、その奥にある首の内部構造すら把握する勢いで、彼の指先という名の目が少女を見透かしていく。

 触れて。

 押して。

 撫でる。

 体の奥の奥、自分の何もかもを見透かしてくるような感覚が、少女を身悶えさせる。

 

 ぞわぞわぞわ、と、少女の神経に未知の刺激が走っていた。

 

「んっ……」

 

 少女が小さな声を漏らして、指先は首を這い上がり、その顔に触れた。

 

 聖母の手付きのように優しく、探求者のように好奇心旺盛に、研究者のように理性的にずけずけと、少年の手は少女のカタチを知り、把握し、暴いていく。

 

「ああ、きみは思ったより童顔で、子供みたいで……思ってたよりずっとかわいかったんだね」

 

「ひゃっ」

 

「かわいいのは声や性格だけじゃなかったんだ。これはまわりの男の子を惑わせてそうだね」

 

「せ……センセーはさぁ……」

 

「目はぱっちりとしてて、美人の目だね。

 あ、まつげがながい。美人さんだ。

 眉は可愛らしい印象だけど、凛々しくきりっとしてる。

 小顔だね。他の女性がうらやましがってそうだ。

 形がよくて小さく収まった鼻が可愛らしい印象を作ってるのかな。

 名画の美人や、モデルさんみたいな唇をしているね。

 大人しくしていたら美人の艶やかさ、口を開けて笑えば少女のかわいさが感じられるような」

 

「せ……センセー! 5秒休憩! 深呼吸! 深呼吸! 深呼吸させて!」

 

 少女はたまらず離脱した。

 

 "たまらなかった"理由は、少女のみ知る。

 

「ああ、ごめんね。無神経に触りすぎたかな」

 

「い、いや……センセーは悪くないけど……ボクが……」

 

「ボクが?」

 

「すぅーっ、はぁー!」

 

 深呼吸して、顔を冷やす。

 理由不明に頬が熱を持っている。

 顔が赤くなっている。

 彼の指先がその温度に気付かないよう、はちみつのドリンクを当てて冷ました。

 

「はい、どうぞ! センセー!」

 

「うん、じゃあ最後に総まとめとして」

 

「んっ」

 

「……よし。これできみの顔の形はわかった。じゃあ、次は他のところも触れていいかな?」

 

「ど、どうぞ!」

 

 指先は顔を駆け上がり、髪の毛、頭部のウマ耳、髪を束ねたリボンに向かう。

 

「きれいな髪の毛だ。人間とすこしだけちがう触り心地で……ウマ娘はみなこうなのかな?」

 

「たぶん、そうだと思う」

 

「おもしろい生体繊維だね。強くて、しなやかで、柔らかで……このリボンは絹かな」

 

「うん。今日は明るいピンクのやつ!」

 

 頭を撫でて、髪を梳いて、髪先をつまんで、髪を折り曲げてみたりして、少年は丹念に彼女の髪の隅々まで知っていく。

 彼が彼女の頭を撫でる時、その手付きはとても優しくて、隠しようがないくらいに愛に溢れていて、それがなんだかくすぐったくて、少女ははにかんでいた。

 あるいは、普通の父が子を撫でるそれよりも遥かに愛のこもった撫で方だった。

 

「前髪の一部の質が……いや、これは色がちがうのかな。生まれつきだろうけどオシャレだね」

 

「おおっ! すごい、そこまで分かるの!?」

 

「色がちがうってことは成分がちがうってことだから。

 髪型は……ウマ娘さんたちの王道ポニーテールだけど、長いね」

 

「そっかな?」

 

 少女の後頭部から、"さらっと"ではなく、"ぐいっと"伸びている、リボンでひとまとめにされた長い髪に少年が触れる。

 

「うん。膝まで届くのは普通にすごいね。

 手入れもちゃんとしてて荒れてもない。

 髪をまとめたら活発な女の子、下ろしたらきれいな女の子に見えるんだろうなあ」

 

「え、えへへっ。そうでもあるかもねっ!」

 

「『毛を見てウマ娘を相す』とは言うけれど、その気持ちがわかるようになっちゃったな」

 

「毛を見てウマ娘を愛す? せ、センセー、流石にそんな基準で誰かを好きになるのは……」

 

「相対の相だよ。

 中国で生まれた言葉だね。

 毛並みを見てウマ娘の良し悪しを判断すること。

 転じて、表面だけを見て本質や価値を判断することだね。

 きみを見て、優しい女の子だと気付かずに、かわいい女の子とだけ思うことかな」

 

「……ふぅー! 深呼吸! 深呼吸! センセー、次顔触る時は触る前に言ってね!」

 

「? わかった」

 

 もうこっそりと顔の熱を下げられそうにないので、少女は赤くなった顔を彼に不意打ちで触らせない戦略を選んだ。

 もうずっと、よく分からない高揚のせいで心臓が早鐘を打ち続けている。

 少年は髪をかきわけ、耳に手を伸ばした。

 

「その髪の合間から出てるのが、ウマ娘の耳……」

 

「ひゃぅん」

 

「人間とはちが……だいじょうぶ? やめようか?」

 

「だ、大丈夫! ちょっとくすぐったかっただけ! これは勝ちの途中!」

 

「なにに勝つんだ……? わたしは負けるのか……?」

 

 敏感なウマ娘の耳に、少年は恐る恐る手を伸ばす。

 少女は顔を真っ赤にして、自分とは違って涼しい顔をしている少年を見て、ちょっと恨めしげな顔で彼を睨む。

 "人の気も知らないでー!"と思い、涼やかな彼の顔を正面から見た。

 "今だけは彼の目が見えてなくてよかった"と、彼の顔を見て少女は思う。

 彼の目が見えていたら、きっと何もかも隠しようが無かったから。

 

「ピンと立ってて……

 これは、筋肉が多いんだろうか。

 そういえば人間の耳の筋肉は退化してみっつしか残ってないんだっけ……」

 

「ひゃ、ひゃっ」

 

 緩やかになぞり、扇情的に感じられるほど綿密に、耳を擦り、撫で、押し、知っていく。

 

 敏感な耳を優しく愛撫されると、変な気になってしまいそうで、少女は気が気でなかった。

 

「10……13、くらいかな、ウマ娘の耳の筋肉は。

 なるほど……普段見えてないけど、見えてたら耳が動いてたのも見えたのかな……」

 

「んにゅっ」

 

 触れた手に耳の暖かさが伝わり、手の皮膚と耳の毛が触れ合って、僅かに擦れる音がした。

 

 足の裏を指先でなぞる感覚より、もっとこそばゆくて、もっと淫猥な感覚が、耳に走る。

 

「音を聞くため耳を色んな方向に向けられる……

 いや、感情の動きでも動くのかな。

 人間の顔の感覚器が、感情表現にも使われるように。

 おもしろいな……

 目が見えてるとウマ娘の心情も察知しやすいんだろうか……

 血管が外気に接しやすくて熱を放射しやすそう。

 耳毛が異物を防いで……なるほど、鼓膜にそう音が伝わるんだ。あ、軟骨もある」

 

「や、やんっ」

 

「……いやだったらちゃんと言ってね?」

 

「べ、別にへーきだし……」

 

 綿密なボディタッチなど、恋人でもないとしないようなことだった。

 身体の奥深くまで触れて知ろうなど、恋人でもしないことだった。

 仮に彼女にいつか普通の恋人が出来ても、その恋人にも知られないような部分まで、彼の指先は触れて覚えていく。

 皮膚に触れれば骨まで知る勢いで、彼女のことを知っていく。

 

 18世紀の伝説的ウマ娘画家ジョージ・スタッブスの絵が非常に上手かった理由として、後世の研究家達はこぞって「人もウマも解剖しまくったから」と言う。

 

 彼は画家に成り、画家になった後にヨークの病院で解剖学を学び、人間の解剖を熟知した。

 後にリンカンシャーの村落でウマ娘の認可を受けた上で、一年半をウマ娘の解剖に費やした。

 彼の解剖研究は後の医学の発展にも寄与したが、その研究が何よりも活かされたのが彼の絵画であり、当時の貴族やウマ娘達からも『彼の絵が最もリアルである』と評価されたほど。

 彼は解剖した全ての者達を無駄にせず、死するその年まで絵を描き続けたという。

 

 彼が彼女に触れることも、スタッブス同様無駄にはならないだろう。

 身体構造への理解は、絵のランクアップへと直結する。

 これは芸術。

 芸術に必要なことなのだ。

 先人も皆やっている。

 顔を赤くするようなことではない。

 ただただ、その過程がいささか思春期の者に破壊力がありすぎるだけで。

 

 少女自身も知らなかったことだが、耳の付け根を異性に触れられるという感覚は、足の付け根を舐められるようなむず痒く・気持ちが良く・気恥ずかしい感覚があった。

 少女の顔が加熱する。

 でも、別に嫌ではなかった。

 

「『ウマ娘の耳に念仏』なんて言うけど。

 よく聞こえそうでいい耳だ。

 お嬢さんはいつも人の話をちゃんと聞いているから、好ましいよ」

 

「センセー、ボクが何しても好きって言ってそう」

 

「いや……さすがにそんなことは……」

 

「じゃーボクの嫌いなところ言ってみてよ」

 

「……そういう、子供っぽくいじわるをするところかな」

 

「あははっ」

 

 少年の手が耳から離れ、指先が下りて―――少女が叫ぶ。

 

「ちょ、ちょっと待った! 待ってぇ!」

 

「やめるかい?」

 

「い、いや、そこまでしないでいいけど……お腹と背中以外の胴は嫌かな……」

 

 顔の赤さで、少年が一気に少女を上回る。

 

 彫刻に触れその形を知る時のように、無神経に、全身隅々まで触れようとして、その結果として『胸や尻』に触れるようなことがあれば、彼はまた自殺しようとしていたかもしれない。

 

「! ご、ごめんね。わたしには無いものだから夢中になっててついうっかり」

 

「腕、腕からにしよ、ね? センセー」

 

「あ、うん、そうだね」

 

「いやー! センセーもウッ……うっかりするもんだねー!」

 

「そっ……そうだね!」

 

 変な空気になって、変な会話になって、それを切り替えようとして何か言って、"うっかり"で済ませようとして、笑い合って、微妙に噛み合いの悪い会話で話を切り替えた。

 

「ちいさいね、お嬢さんの手は」

 

「へいへい、手合わせ~! センセーの手はボクよりおっきいよね」

 

「そうだね」

 

 二人の手を合わせて、指と指を合わせて、互いの手の大きさを比べる。

 少女が人差し指を動かすと、少年の人差し指も動く。

 少女が親指を押し込むと、少年の親指がちょっと反り返る。

 少年が薬指で押し込んできて、少女の薬指がちょっと反り返る。

 なんでもないことなのに、なんでか意味もなく楽しくて、少女はにへっと笑った。

 

「センセーの手、いつも油と絵の具の匂いがしてる」

 

「お嬢さんの手は、土と芝の……レースの匂いがするね」

 

「え、そんなにする?」

 

「ちょっとね。

 爪は綺麗に切り揃えられてる。

 わたしの爪より厚いね。厚み以上に頑丈だ。

 これなら転んだり踏まれたりしても割れにくそうだね。

 手を広げて押す手の筋肉じゃない……

 手内筋が幅広く発達してないから細かい作業もしてない……

 ダンベルとかかな。そのくらいの太さのものを握った筋肉だ。

 きみはまじめにトレーニングを繰り返してきた子なんだね、わかるよ」

 

「おお……すっごい……合ってる……んっ」

 

「腕は……

 腕で長時間物を持つタイプの鍛え方じゃない……

 押す筋肉も、格闘家が持つひねる筋肉もそんなに……

 腕を前後に振る筋肉が発達して……ああ!

 走る時に腕を振ってるのか!

 そのための筋肉! なるほど、腕の振りを推進力に変えてるのか」

 

「んんっ……そうだね、ここも大事な筋肉だってトレーナーに口を酸っぱくして言われたよ」

 

「いやもう、そのトレーナーさんは優秀なひとだね。会ったことないけど尊敬できるよ」

 

「尊敬なんかするようなやつじゃないと思うけどなあ。

 まあ、でも、そうだね……尊敬はできないけど、信頼はできるかな」

 

 ウマ娘とトレーナー。

 その関係は千差万別だが、それぞれの形の絆があると、少年は小耳に挟んでいる。

 この少女にもそれはあるのだろう。

 少年が知らないだけで、沢山の物語が、大きな物語があったに違いない。

 彼女の表情が見えなくとも――あるいは、見えないからこそ表情に惑わされず正確に――彼女からトレーナーに向けられる確かな信頼を、少年は感じ取っていた。

 

 腕を離し、少年がその手を下に向けたところで、少女はビクッとする。

 身構えた少女に対し、少年は改めて丁寧に確認を取りにいった。

 

「足は……どうする? ウマ娘さん達にとってはとても大事な部分だと思ってるけど」

 

「ぼ……ボクは全然平気だけど? マッサージの人とかによく触れてもらってるし?」

 

「ああ、そっか。リハビリ中のウマ娘ならそういうこともあるかもね。じゃ、遠慮なく」

 

 事実である。

 少女は足を四度も折っている。

 骨折後のスポーツマッサージはアスリート治療の鉄則だ。

 

 嘘ではない。

 彼女にはマッサージの経験がある。

 プロの女性に年単位でマッサージをしてもらい、足の治療に役立ててきた。

 

 慣れている。

 足に触れられるくらいのことで今更恥ずかしがる理由なんてない。

 足はウマ娘にとって命であり、生涯を共にする肉体の最も優れた部分であり、赤の他人が気安く触れることを嫌がるウマ娘も多いらしいが、治療過程で見知らぬ人間に大いに触れられた彼女にとって、足に触れられることにハードルなど存在していない。

 

 なのに、何故、こんなにも落ち着かない気持ちになっているのか、少女には分からない。

 

 彼の手が足に触れて、愛する宝物を扱うような優しい手付きが、筋繊維の一つ一つすらも知って覚えようとする探究心の手付きが。

 "彼女の身体の知った部分"を全て愛おしく思う心根が、彼女の全てを愛せるという心情が、削られた薄い手の皮膚から伝わる体温と想いが。

 何か、とてつもなく、少女に変な気持ちを湧き上がらせる。

 

「あんっ……ご、ごほん。今日は空が青いね、センセー」

 

 変な声が出てしまって、少女は爆速でごまかした。

 

「……そうだね」

 

 少年も聞かなかったことにする。

 

 少女の足は、強く、柔らかく、しなやかで、それでいて美しかった。

 おそらく、彼が想像で描いていた彼女の体のパーツの中で、絵と現実の差異が最も大きかったのは、その足だった。

 絵の美しさが実物の美しさに完全に負けている―――そう、少年は己の絵の稚拙を恥じる。

 

 柔らかいのは、『伸縮する力』が非常に強いから。

 ゴムより柔らかく、ゴムより丈夫で、ゴムより伸縮する力が強い。

 疾走するのに特化した足の筋肉は人間と似て非なるものであり、人間と同じと言うには違いすぎて、人間と別種と言うには近すぎる。

 そんな"異なる肉体構造"における『最適解』のような筋肉配列。

 半ば、生来の資質。

 半ば、鍛錬の成果。

 先天性の美しさと後天性の美しさが相乗効果を生み出しているような足だった。

 違和感があるのは、少年も触れて理解した、折れた骨周りの不揃い具合だけである。

 

 少年は甘酸っぱい感情以前に、その芸術的な完成度に感動すら覚えていた。

 

 その間、少女は口を抑え、必死に変な声が出ないようにしていた。

 

「すごいな。芸術家の木っ端の自信すら無くしそうだ」

 

「え、なんで?」

 

「折れたのはわかる。

 これはそれが前提の足だ。

 でも……それでもなお、完璧だ。

 生体芸術、というよりは自然芸術かな……

 上泉華陽が見たような、自然とウマ娘の両方にある非人工的な美……うん、すごい」

 

「なんかやっぱおおげさじゃない!?」

 

「おおげさではないよ。

 きみは先天的にも後天的にも芸術なんだ。

 きみの身体が芸術なんだよ。

 『走る芸術品』なんだ。

 美しいもの、きれいな芸術、そういうものを生み出すのがわたしたちだから。

 人工品では結局、天然のもの、本物には勝てないんだろうか……なんて思っちゃうね」

 

 かつてウマ娘は『走る芸術品』と呼ばれ、一時は車に『走る芸術品』の名を取られ、やがて『走る芸術品』の名を車から取り戻した。

 

 フェラーリがそう称賛されるのと同じように、この少女もまたそう称賛されている。

 

「……ボクはボクより、センセーの絵とか、描いてる姿とかの方が、芸術っぽいと思うよ」

 

 けれども。

 ちょっと、この少女にも思うところはある。

 彼に褒められるのは好きだ。

 それは彼女の偽りのない本音。

 バンバン褒めて、どんどん褒めてほしいと、少女は思っている。

 

 けれど、"少年が自分を下げて少女を褒める"というのが……彼女はどうにも嫌だった。

 芸術の話であれば、なおさらに。

 彼を下げて自分を上げる言葉が、彼のことを遠回しに悪く言っているような言葉が、どうにも嫌だった。

 謙遜ではなく、彼が本気で言っていると分かるから、なおさらに。

 

 二人は、『互いの芸術が一番だ』と思っていた。だから、少女はちょっと膨れる。

 

 あまりにも真っ直ぐで、あまりにもひねくれてなくて、あまりにも純情で、他人の凄さを素直に認められるがゆえに、ちょっと不機嫌になる理由すら可愛らしい。

 心、技、体。

 全てに美がある、人間とは少しだけ違ういきもの。

 この心まで含めて彼女は完成された芸術なのだと、少年は、そう思った。

 

「ははは、ありがとう。"隣の芝生は青く見える"だね、これは」

 

「芝生まで青いとは……本格的にボクはセンセーの青いウマ娘になってきたね!」

 

「はははっ」

 

 フランツ・マルクとエリック・カールがそうであったように、画家が絵に描き、その画家が死んでも世界に残るのが青いウマ娘ならば、彼女はきっとそれになれる。

 彼はそれを望んでいる。

 彼女はその望みを叶えられる。

 青いウマ娘から不死鳥のウマ娘へと至った彼女だけが、彼の死に満足を添えられるのだ。

 

 かつて、『皇帝』に憧れ『帝王』を目指す彼女に、青等高貴な色をあしらった勝負服を仕立てた人達は、何を思っていたのだろうか。

 足が折れた後の彼女に、何度倒れても立ち上がる不屈の『不死鳥』をイメージした勝負服を仕立てた人達は、何を思っていたのだろうか。

 彼女のトレーナーは、何を思っていたのだろうか。

 

 最近、少女は、いつもふざけている自分のトレーナーが普段何を考えているのか、考えることが増えてきた。

 足を折る前は、ほとんど考えていなかった。

 折った後は、心配してくれるトレーナーが自分を想ってくれていることを理解した。

 そして、『絵の向こうにある他人の意図を考える』という芸術の思考癖を得たことで、『行動の向こうにある他人の意図を考える』という技能が、少女に定着していた。

 

 "ああ、足を折る前からトレーナーに気遣われてたんだ"と理解できるようになった。

 "トレーナーはふざけないと優しくできないんだな"と分かるようになった。

 "トレーナーとして真面目なんだ"と汲み取れるようになった。

 少年の絵から少年の意図を把握する過程で、これまでぼんやりと感じられていたトレーナーの意図を、しっかりと把握できるようになっていた。

 昔以上に、少女は他人の気持ちが分かるようになっていた。

 

 少女が少年に与えたものは多い。

 少年が少女に与えたものもまた多い。

 ただただ、二人は自分が与えたものに無自覚であるというだけのこと。

 

「センセー、うちのトレーナーと話合いそうだよ。理由は言わないけど」

 

「えっ、なんで?」

 

「あんまり言いたくない……うちの恥部だから……」

 

「ええ……」

 

 少女のイメージの中で、少女の足に触れてその芸術性に感動している彼と、ウマ娘の足に触れてその可能性に感動しているトレーナーが重なって、少女は苦笑した。

 

「……」

 

 足に触れ終わった少年が、手を止めて考え込んだのを見て、少女は意を察し、声が裏返らないように気を付けて、必死にいつも通りの声色で言った。

 

「……ね、根本まで触れなければ、尻尾に触っても、いいよ?」

 

「! ……よくわたしの言いたいことがわかったね」

 

「ま、まーね! そうじゃないかなって! ま、そのくらいならへーきだから!」

 

 そうして。

 

 少年が、最後に残った部分に手を伸ばす。

 

「んむっ」

 

 声を漏らして、少女が身を捩った。

 

 ウマ娘の耳は、位置と構造こそ違うものの、人間の耳の代わりに付いているもの。

 基本用途は変わらない。

 言い方を変えれば、"形は違うが人間にあるもの"だ。

 だが尻尾は違う。

 これは人間にはないものだ。

 

 女性が胸を触られる感覚・タブーと、男性が胸を触られる感覚・タブーが違うように、知的生命体にはそれぞれの身体構造に即したタブーが存在する。

 尻尾が存在する知的生命体にとっての生理的タブーは、人間にとって未知の領域。

 それこそ社会生活の中で学んでいくしかないものであり、人間同様、そのタブーには個人差というものが存在する。

 頭を撫でられることを受け入れる女性、嫌がる女性。

 尻尾を触れられることを受け入れるウマ娘、嫌がるウマ娘。

 それらは個人差により、多様に世界に存在している。

 

 いや、個人差だけではない。

 

 "関係性"も、イエスかノーかを決定付ける。

 

 根本まで触れなければいいと、彼女は言った。

 『尻尾に触れるほど気を許している』と見るか。

 『尻に直結する根本には触れさせない程度の距離感』と見るか。

 見る人によって、その判断は違うだろう。

 

「尾の骨は細かい骨の集合体なんだね。

 関節が多い指みたいな。

 腰椎と仙椎……尾の骨を支える腰部骨格構造は人間に近いのかな。

 触れないと確定だとはわからないけれど。

 根本の方に筋肉が集中しててそれで動かしてるのかな?

 先端は骨も筋肉もなくて……毛並みもきれいだ。髪の毛とは違うんだね」

 

「んんっ」

 

 尻尾の毛並みを撫でる。

 毛並みの下の、尾の肌、すなわち女の子の柔肌をなぞる。

 尻尾に骨がある部分とない部分の境界を、ふにふにとつまむ。

 ちょっと敏感な神経の集中してる部分を、爪でカリカリと優しく掻く。

 そうするたびに、彼はウマ娘の尻尾への理解を深めて、彼女はひそかにビクッと反応する。

 少女の顔が赤くなって、口元を必死に抑えている。

 

 尻尾に触れられた時、尻を撫でられているように感じるか、第三の腕を撫でられているように感じるか、頭を撫でられているように感じるか、それはウマ娘次第である。

 尻尾の敏感さも、おそらくは個体差があるだろうから。

 

「見た感じ、付け根の、内側の方の毛が薄い……?

 いや、推測するに内側の根本の方にはもう毛がないのかな。

 蒸れるから?

 あるいは排泄の時に汚れにくいようになってるのかな?

 なるほど合理的……尻尾が垂れてれば全裸になってもここは見えないのだろうか」

 

「! そ、そこあんまりジロジロ見ないで! 禁止禁止!」

 

「え、ああ、ごめん」

 

 だがそこで、尻尾の裏側の方に手を這わせたところで、少女が飛び退って逃げた。

 

 これまでにないくらいに顔を赤くし、声を裏返らせて、腕をブンブンと振り、尻尾をショートパンツの中に逃げ込ませるようにして、尻尾を隠す。

 

 どうやら彼女にとって――あるいは、ウマ娘の生物的構造から生まれる羞恥心において――ここはアウトだったらしい。

 

「ストォーップ! ああぁーもぉー! 終わり終わり! 尻尾終わり!」

 

「……しまった、ウマ娘さん達の生理的タブーを見誤ったか、死にたい」

 

 そして理性的に探求する少年と羞恥心が爆発した少女という偏った熱量は、ちょっとの間を置いて、熱心に頭を下げる少年と頭が冷えてきて許そうとする少女という形に移行していた。

 

「ごめん。本当にごめんね。もうちょっと気を付けておくべきだった、わたしが悪いよ」

 

「あ……謝らなくていいよ。別に、許可出したのボクだし……」

 

 熱量の逆転である。

 会話をすればノリがよく、話を振れば響き、二人からちょっと目を話すと次に何を話しているかわからない。

 そんな親しい友人特有のノリが、二人の間にはあった。

 

「それでも」

 

「あーはいはいここで終わり! センセーは悪くない、ね?」

 

「……ありがとう」

 

 ちょっとラインを見誤っても、謝って、許して、それで終わりで元通り。

 この二人の間に友情以外の感情が何か生まれても、二人の関係が友人以外の何かになっても、きっと二人の間にこの友情は在り続けるだろう。

 友情があるから、許し合える。

 

「じゃあ、もう一周していいかな?」

 

「ええ!? もう一周!?」

 

「もう一周」

 

「ボクの身体でもう一周を!?」

 

「だめ?」

 

「……どうしよっかなぁ!」

 

「どんな名画の美女よりも、きみをただしく描きたいんだ」

 

「しょ……しょうがないなあ! センセーは!」

 

「ありがとう」

 

「言っとくけど、ボクだから許可してるんだからね? 他のウマ娘だったら断ってるよ!」

 

「うん、わかってる」

 

「ボクに心底感謝するよーに!」

 

「ああ、いつもしてるよ」

 

 結局その日は、一枚の絵も描かなかった。

 

 ずっと彼女に触れていた。

 

 途中からは、我慢ならなくなった少女がお返しで少年の全身に触れ始めた。

 

 バトルが始まり、少年と少女が互いに触り合う第一次タッチ大戦が始まった。

 

 第一次タッチ大戦はドイツの敗北に終わり、やがて第二次タッチ大戦が始まった。

 

 加熱する戦争は止まらない。

 

 第二次タッチ大戦で大日本帝国は敗戦し、二人は頭が冷えてから自分が相手のどこに触って、相手が自分のどこに触ってたかを思い出し、かくして戦争の愚かさを知ったという。

 

 戦争は、よくないということだ。

 

 

 

 


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