―――アルフレッド・テニスン
少年は目が見えないなりに、どこに何を置くかを綿密に意識し、動き始めた。
少女にあげた蜂蜜をひと掬いし、容器に入れ、何らかの黄色い液体を入れる。
ふわりと、爽やかな香り、甘い香りがして、僅かにローズマリーの香りが広がった。
少女の五感が反応する。
「!」
じっと見つめる少女の前で、少年はくるくるとそれをかき混ぜる。
そして、取り出したるは奇妙な形のコップ。
まるで、自分がコップだと勘違いしたまま育ってしまった花のようだった。
そのコップは透き通っており、赤・桃・黄・黄緑の四色による淡いグラデーションで、その側面に美しい模様が描かれている。
「!!」
少年がかき混ぜていた飲み物が、奇妙なコップに注がれる。
注がれた飲み物はコップの内側からその色合いを変化させ、少しだけ違う景色を見せた。
注ぐ前と注いだ後で、違う姿を見せるコップ。
まるで、朝方と夕方で違う姿を見せるステンドグラスのよう。
ステンドグラスは『ガラスの絵画』と呼ばれることもあるが、このコップはまさしくそれだ。
「!!!」
そして、このコップはステンドグラスではない。
それどころか、ガラスですらない。
少年はするりと、透明なシートを、コップの持つ部分に巻いた。
「コップに見えるのは飴細工。
中に入ってるのははちみつレモン+αのノンアルコールカクテル。
持ち手の部分に巻いてあるのは手が飴でべたべたしないためのでんぷんシート。
飲み終わったらコップごと食べちゃっていいよ。飴もはちみつの味にしてあるから」
「わぁ……なんか絵本に出てきそうなやつ! すっごい!」
少女は飛びつき、ぱぁぁぁと輝く笑顔を浮かべて、少年お手製のドリンクを飲む。
少女の喜びを肌で感じて、少年はとても幸せそうだった。
そう、これは、彼女のためだけに作られた、ステンドグラスの飴だった。
「美味しい! 面白い! すってきぃー! なんかセンセーっぽい!」
「気に入ってもらえて何よりだよ」
「これどうやって作ってるの!? すごくない!?」
「や、飴細工自体にはそんな高い技術は使ってないんだよ。
わたしの場合は側面の絵に手が込んでるだけ。
器が飴だから触れれば絵の形もわかるしね。
基本の形状はただのコップで、難易度は低いんだ。
この手の造形は総合力だから、わたしは絵でちょっとごまかしてるのさ」
事実である。
彼の技術は、浅草の工房に由来する。
浅草には名の知られた飴細工職人集団、及び飴細工の伝統技術保持を目的とする株式会社が存在しており、その内の数人から彼は技術指導を受けていた。
逆に少年も独自技術を提供しており、少年と工房は近い界隈の創芸技術を交換するような形になっていた……と、書けばご立派なもののようにも見えるが。
彼は、彼女にプレゼントするためのものを作りたかっただけである。
「いーや、すごいよ! センセーはすごい!」
「うん、よかった、喜んでもらえて。三月には渡せそうになかったからね」
「え? 三月? なんで?」
「ホワイトデーってのがあるらしいじゃないか」
「ああ、あるね。そういえばもう結構近いや。それより先にバレンタインだけど」
「そうそう、その準備で作ってたのがこれだったんだ。親愛を示すおかしね」
「バレンタインより先にホワイトデーのプレゼント渡そうとする人初めて見た……」
何気なく、少女は聞いて。
「三月どうしたの? 忙しいの? 何か用事あるならボクもしばらく来ないけど」
「ああ、いや、そこまで生きてられないかもしれないって言われてさ」
「―――」
何気なく、少年は言った。
「自覚症状としてはそんなに……って感じなんだけどね。
たぶん急に悪くなるだろうってさ。
わたしの気力次第で余命は伸びるかもしれないけど、夏は迎えられないだろうって」
「……そう、なんだ。大丈夫?」
「うん、まあね。
ひとの夢らしいよ。
苦しまずに、恐れずに、安らかに、眠るように死ぬ。
死ぬのがこわくなくてよかった。わたしは平然と死ぬことができそうだよ」
「ん、そうだね。センセーは……平気そうに見えるよ」
「ああ、よかった。そう見えてるなら、わたしはいまちゃんとそう思えてるんだろう」
「……」
少女は、絶対大丈夫だと、言えるものなら言いたかった。
「ボクは絶対悲しまないから安心して安らかに眠ってね」と、言えるものなら、言っていた。
分かっていたはずの『絶対』が重い。
「センセーは絶対助かるよ」と夢のようなことも言えない。
『絶対』が重たくて、口に出せない。
必要なことを口に出せれば、たぶん、そこで一つ区切りがつくはずなのに。
彼の死を受け入れたい自分と、彼の死を受け入れられない自分が、少女の中で矛盾する。
彼のために受け入れて上げたくて、己の心が拒んでいる、二律背反。
その矛盾もまた、心ある生き物の証。
どちらも自分だと受け入れて、飲み込んで、少女は自分らしく振る舞った。
「センセー、もうお昼食べた?」
「あれ? もうそんな時間だったんだ。朝から描いていたから……」
「じゃあさ、一緒に食べに行かない? どこか、適当なところでも。思い出作りに行こうよ!」
「思い出?」
「そう、思い出! "あの日は楽しかったなぁ"って思える日、増やしに行こう!」
冬の、
太陽のような少女に手を引かれ、少年は駆け出した。
少女に手を引かれ、少年は歩く。
かつ、かつ、と杖が路面を叩く音が、少女の耳に心地良い様子だ。
ひと目でまだ大人でないことが分かる少年少女であるためか、街を歩く二人を赤の他人が視界に入れても、微笑ましいデートなのだと見る者ばかりであった。
"鼻が利く者"は、それ以上の何かを思ったりもしたようであったが。
「ど、こ、に、し、よ、う、か、な~?」
「どこでもいいよ。きみといっしょなら」
「んん。ぬ~、こういうのにいちいち反応するからボクは悪いんだよなぁ……
センセーの好きな食べ物出してるお店がいいんだけどなあ、むむむむむむむむ」
「ふふふ。いまならなにを食べてもおいしく感じるよ、きっとね」
「いつものセンセーは外食だとどこに行くの?」
「定食屋さんが多いかな。
みんなとおなじものがすきなんだ。
やっぱり他人がご飯を作ってくれると、自炊より事故も起きにくいし……」
「そっかぁ。普通が好きなんだね」
「特別もすきだけどね」
生まれつき"皆と同じ"に憧れる少年の気持ちを、理解できるものは多くない。
皆と同じものを食べても、皆と同じにはなれない。
それでも、無意味でも、皆と同じように生きてみたいと思う気持ちを捨てられない。
そう思い知らされる人生を同じように体験しなければ、理解できるようなものではない。
この少女は、なんとなく、理屈抜きに本能的に理解しているようだけれども。
「検索検索~。あ、評判いい定食屋さんがあるみたいだね、この辺に」
「じゃあ、そこにしようか。お嬢さんもいいかげんおなかペコペコみたいだからね」
「え゛っ……な、なんで分かるの……?」
「この前よく触れたから、きみの体温の基準がつかめたんだ。
生理的には、空腹と満腹は体温に微細な変化をもたらすものなんだよ」
「手を繋いでるとお腹具合が把握されちゃうってこと……!?」
「うん。食事の影響で一番下がってる時と上がってる時の差で0.3度くらいかな」
「風邪引いたら一瞬で見抜かれそう……」
「そうしたら看病かな。ゼリー買ってこなきゃ」
「ボクはちょっと濃い目のたまごのおかゆがいいな~」
二人で店に入ると、そそくさと少女が動き、空いている二人席を見つけ、椅子を引いてちょっとふざける。
「どうぞセンセー! お席にお座り下さい!」
椅子を引いてふざけつつ、少女は椅子の足で床をこつこつ叩き、椅子を引く音をちゃんと聞こえるようにして、音で自分が何をやっているか分かるようにしている。
だから、少女の気遣いで、二人は"目が見えている普通の友人二人のように"、ふざけられる。
「ははは。どうぞお姫様、お席におすわりください」
少年も合わせて同じようにふざけて、椅子を引く。
そして笑い合った。
自分が引いた椅子の方に座ればいいのに、両者共に示し合わせたように、相手が引いてくれた方の椅子に座る。
「何にしよっかなぁ」
「すみません、店員さんはいらっしゃいますか? 定食メニューがあったら教えてください」
メニューを見てウキウキで選ぶ少女に対し、少年は店員に定食を聞いてすぐそれにする。
「ボクさ、ニンジンとかはちみつとか大好きなんだ。
だからはちみつバニラとかいうデザートが楽しみ!
飲み物のはちみつレモンも美味しそうで楽しみだよね?
色鮮やかサラダは頼むつもりなかったけど、リハビリのために必要だから。
玄米ミックスにしたのは、仲間のウオッカがこの前良さを語ってたから。
照り焼きチキンにしたのは、友達のターボって子がこの前美味しいって言ってたから!」
「そうなんだ。知らなかった」
「センセーはなんでそのメニューを選んだの?」
「ええと……
大抵のお店だと、メニューが見えないから。
定食があるか聞いて、それを頼むかな。
熱いものが来るか慎重に確認して、温度を把握しながら指先で詳細を把握して……」
「そっか。やっぱセンセー大変だよね。今日はボクがセンセーの目で指だよ!」
「ふふふ、ありがとう」
支え合う男女、というにはあまりにも片方が片方に寄りかかっている関係。
けれど、少女は喜んで支え、少年は心からそれに感謝している。
少女は、それを当たり前だと思い、彼を助けられている今に喜んでいる。
少年は、助けてもらうことを当たり前だと思わず、少女の優しさに感謝している。
誰が見ても分かるような、二人の間にある『特別』を見て、一人の料理人が動いた。
「オホホホ、話は聞いたでございますよ」
「え、誰?」
「センセー、多分店主さんだよ、なんでこっち来たかはわかんない」
「メニューを上から説明して差し上げますわ、オホホホ。お好きなのを選びなさいませ」
「店長! 店長! 厨房から抜けないで!」
「今忙しいんですよ! カレー定食上がりました持ってって!」
「てんちょー!」
「黙らっしゃいな! 今この少年少女に心を尽くさないで飲食店の主は名乗れないですわよ!」
店長がメニューを上から下まで一つずつ、料理人視点の解説をしていって、目が見えなくとも「美味しそうだ」と思わせる空気が作り上げられていく。
常連の客が、楽しそうなものを見る目をして、くすっと笑っていた。
少年は店長の語調から一番自信のあるメニューを察しオムライス定食を選び、店長は特に明言もしていないのに一番自信のあるオムライス定食が注文されたことに、にやりとした。
「ありがとう! てんちょー!」
「ありがとうございます、店長さん」
「オホホホ! お気になさらず!」
セルフサービスの水を少女が取りに行って、床に少々ついていた油で転びそうになって。
「おっ、とっとっと」
「お嬢さん!」
「へーきへーき、転ばないよっ。あははっ、センセーすごく心配してる顔!」
「……今完璧にころぶ音だったのに、ころばなかったんだ。
いや、水が落ちた音もなかったから、水もこぼさなかった? すごいね……」
「ふっふっふ、
「へぇ……アラベスク……」
そろそろ来そうだから箸を出しておこうか、となって。
「あれ、お箸の箱どれだろ?」
「さっき席についた時、この箱の中で木がすれた音がしたから、ここじゃないかな」
「え、これ? 飾りの彫刻だと思ってた……おお! ほんとだ! さすがセンセー!」
「ふふふ」
駄弁って駄弁って、料理が来たら、食事開始。
料理が来て"もう来たんだ"と思ったところで、少年は気付いた。
いつもより、注文してから料理が来るまでが短く感じる。
いつもより、料理が来るまでが楽しい。
"まだ来なくてもよかったのに"とすら、来た料理に思ってしまうなんて、今まで無くて。
『注文してから料理が来るまでが楽しい』だなんて、彼には生まれて初めての経験だった。
「センセー、そのオムライス一口ちょーだい?」
「ふー、ふー。はい、どうぞ」
目が見えないと相手の口に入れられないから、オムライスをスプーンに乗せて、火傷しないように少し冷まして、彼女に差し出して、彼女が食べるのを待つ。
少年心の気恥ずかしさは、抑えて隠して。
「はい、お返し。照り焼きとごはんセットだよ~、ふーふー! センセー、あーん」
「……あ、あーん」
目が見えないと自分から食べにいけないから、口を開けて少女が入れてくれるのを待ち、先ほどを超える羞恥心に身悶えして、昔母がそうしてくれたのを思い出して、父と母が交通事故で死んだ日のことを思い出して、彼女がフーフーと冷ましてくれた料理を咀嚼した。
恥ずかしげもなくやる少女に、少年は照れに照れる。
……本当に恥ずかしげもなくやっているのか、少女の顔がどのくらい赤いのか、そのあたりが見えない彼が分かるわけもないのだが。
今日までの日々、互いが互いにしていたことが、両者無自覚に、ナチュラルに"羞恥の壁"を越えさせていた。
「あのね。ボクさ。
こうやって二人でご飯食べてると、マックイーンと二人で食べ歩きしてたこと思い出すんだ」
「たのしかった思い出かい?」
「うん!
てんぷら食べてる時は、ボクのてんぷら勝手に食べたゴルシ思い出すし。
センセーのデザートのバナナ見てると小さな口で食べてたスズカ思い出すなぁ。
合間にゆっくりお茶飲んでるのは、センセーとネイチャくらいだなって思ったり。
こうやって照り焼き食べてると、食堂で美味しそうに鶏肉食べてたスペちゃん思い出すんだ」
「たのしそうだ。きっと……毎日がそうなんだろうね」
「うん!」
食事にまつわる楽しい思い出が全然無かった少年と、山程思い出を語れる少女。
幸福度の天秤は、過剰なくらいに傾いている。
けれどそこには劣等感も、優越感もない。
少女が食事にまつわる友達との楽しい思い出を話すだけで、少年は楽しい気持ちになれた。
「センセーがさ、クッキー食べてたじゃん?
それで、笑って食べられるようになったって言ってたよね?
誰かと一緒に何かを食べてて、楽しいと思うのって、そういうことなのかなって」
「そういうこと?」
「思い出が蘇ると楽しい。
思い出ができると楽しい。
そういうのなんじゃないかな、って。
あはは、前のボクならこんなこと思わなかったんだけどさ。
センセーと出会えたことで広がった世界が、いっぱいいっぱいあるんだ、ボクは」
誰かとご飯を食べて、その時間が楽しかったら、それは一つの思い出になる。
ふとした時に思い出す、なんでもない思い出に。いつまでも在る大切な思い出に。
そういう思い出も、そういう思い出の価値に気付ける感性も、人が人へと手渡す贈り物だ。
「……わたしも、きみの中にずっと残るものをなにか、きみにあげられたのかな」
「そりゃもう、数え切れないくらいだよ」
一緒にどこで食べるか考えたことも。
水を持ってきた少女が転びかけたことも。
少年がその聴力で箸を見つけたことも。
変な店長が居たことも。
あーんって、し合ったことも。
こうして、楽しく話し合ったことも。
これまで楽しく食事をしたことがなかったという少年への、幸せな贈り物であり。
そして同時に、少女が納得するための、割り切るための思い出作りでもあり。
「こうやって、楽しい記憶作ってさ。
幸せな思いを一つずつ増やしてさ。
それで少しでも、ほんの少しでも、幸せになれたらさ。
最後の最後に……"よかった"って、言えるかな……センセーは……」
死に行く少年に何を贈れるか、何を渡せるか、それをずっとずっと考えていた少女が考えた、彼女なりの『幸せになれる贈り物』だった。
少年は微笑む。少女の優しさに、筆舌に尽くし難い愛おしさを覚えながら。
「もう言えるよ。死の間際に。"よかった"って。きっと、何度も、何度だって」
頬杖をつく少女の頬が、柔らかく変形する。
少年が、姿勢良くテーブルの上で手を重ねている。
どちらからともなく、笑い合った。
少しだけ無理をして、笑い合った。
死の絶望を前にしても笑い合えるなんて人は、きっと自分の一生にこの人ひとりしか出会えないんだろうな、なんて、二人は思った。
その笑顔を見るだけで、お互いに幸せだった。
「もっと"よかった"って言えるようにしてあげる。だから見ててよ、ボクを」
「おや、自信満々だね。心の目で見て、たのしみに待ってるよ」
「楽しみにしててよ。いっぱい、楽しくて、幸せで、忘れられない日々にしてあげるから」
「ふふふ」
「あははっ」
何気なく語り合って、笑い合って、たまにつつきあって。
一つ一つ、思い出にして覚えておこう、と考えて。
ふと、少女は思う。
彼の気持ちを、少女は察している。
口に出さなくても、絵が雄弁に語っていたから、知っている。
どう思われているか分かっているから、からかったりできる。
だって、もう少女は"彼が自分を嫌うかもしれない"だなんて、微塵も思っていないから。
むしろその逆だと知っているから。
だから、ふと、少女は思う。
『彼の初恋』を、無かったことにせず、それを覚えておいてあげられるのは、その気持ちを少しでも永遠に近付けることができるのは―――自分だけなんじゃないか、なんて。
「ね、センセー」
「なにかな?」
「センセー、ボクのことどう思ってるの? 全部言ってよ~、ほれほれ」
「……絵で伝わってなかったのかな?」
「んー、伝わってるけど、本音は口でも言ってほしいなって。ボクはそういうウマ娘なんだ」
「……また今度ね」
「あ、逃げた!」
「きみがわたしのことをどう思ってるか、ぜんぶ言ったら答えよう。さ、どうぞ」
「ぬぐっ……せ、センセーが全部言ったら言うし……」
「きみね……きみは平気かもしれないが、そんな気軽にする話題じゃないと思うよ」
「こういう話題するの、平気じゃないんだよボク? 結構、ドキドキしてるんだからね」
「……わたしもだよ」
「あははっ」
顔を近付けて二人がひそひそ話していると、突如店主が襲来、テーブルにドンとはちみつソースがかけられた小さなパンケーキが置かれる。
「あらやだそんなにひっついて、オホホホ! これはうちの奢りよ、お代はいらないわ!」
二人はちょっとびっくりして、"店の中でするような話じゃなかったな"と思いつつ、少年は店主に恐る恐る話しかけた。
「あの、なぜそこまでよくしてくださるんですか……?」
「オホホホ!
だってお二人とも、体から同じ匂いがするんですもの。
おーんなじ、はちみつみたいな香り!
どこかでずっとひっついてたのかしらん?
フフフ、同じ香水か知らないけれど、同じ匂いがするカップルは初めて見たわ!」
「か、かかかかカップル! ボクらが!?」
「ふぁ……じょ、冗談がうまいですね、店主さん」
「隠さなくてもいいのよ! みなまで言わないで! ごゆっくり!」
スタコラサッサと、店主は煽るだけ煽って厨房に引っ込んでいった。
二人は顔を赤くして、自分の服の匂いを嗅ぐ。
加熱され、間接的に吹き付けられたエンカウスティークの香りが、二人に染み付いていた。
そう、ペアフレグランスである。
現代において人気な"香りのペアルック"、ペアフレグランス。
同じ服やセットの服を着るのがペアルックなら、同じブランド・同じ香水・高め合う二種のフレグランスを男女で着け、二人の絆や特別な関係を示すのがペアフレグランスである。
匂いは、意外と鼻につく。
ペアルックがそうであるように、ペアフレグランスは「ぼくたち付き合ってます」と周囲に宣伝しながら歩くようなものであり、同じ香りを身に着けた二人は普通そういう目で見られる。
同じ香りを身に染み付かせて、二人で手を繋いで街を歩いていたとは、そういうことだ。
二人とすれ違って、振り返って、二人を見た人間の何人が、"そういう"勘違いをしたことか。
「……」
「……」
二人して、顔を赤くしていた。
「……で、出よっか、お嬢さん」
「そ……そうだね!」
そして、食べ切って、ごゆっくりせず店を出る。
良いことも、恥ずかしいことも、辛いことも、全てひっくるめて人生だ。
これもきっと、忘れられない思い出の一つになる。
何があっても、少女はきっと、死ぬまで永遠に忘れない。