目無し足無し夢も無し 心を救う永遠の帝王   作:ルシエド

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「私にとって作品とは、愛らしく楽しく、美しいものでなければならない。
 人生にはうんざりするものが余りに多いので、我々はそれと別のものを作り出す他はない」

「素敵な胸を見てドキドキしない奴は信用できない」

「もし女性のおっぱいと尻がなかったら、私は絵を描かなかっただろう」

   ―――ピエール=オーギュスト・ルノワール


18 アマ ■■■■

 少年の体力、気力は、日々摩耗していっている。

 本人は隠そうとしているが、一緒に居る時間が長く、彼をよく見ている少女相手にはまるで隠せていなかった。

 休憩の回数は増え――それでも、平均的美大生よりは少ないくらいだったが――椅子に座ったまま描く時間が長くなり、日が沈んでもなお描き続けようとすることはなくなった。

 

 なのに、一週間あたりに描き上げる絵の枚数は増えていた。

 

 筆が速くなっている。

 筆に迷いがなくなっている。

 筆が一回動くたびに絵に"乗る"ものの質と量が、爆発的に増している。

 

 以前から彼は盲目の限界点に近い描画効率を極めており、ほとんど『思う』と『描く』を一体化したノンストップの筆使いを身に着けていた。

 絵の具の乾き具合くらいしか、彼を止めるものは無かったほどだ。

 それが、更に加速している。

 速く、巧くなっている。

 盲目ゆえの限界はあるものの、凡百の画家よりはずっと速いだろうというレベルだ。

 

 まるで、燃え尽きる前に一瞬だけ強く輝くロウソクの火のようだ。

 死が迫っている。

 終わりが迫っている。

 描けなくなる瞬間が迫っている。

 その意識が、少年の潜在能力を引き出し、過大に強化し、焦燥が筆を走らせる。

 少女と出会うことで変化を遂げた少年の形質と、それが噛み合い、質・量・速度・感情に訴えかける力が、飛躍的に伸びていた。なのに。

 

 この世に生きた証を残す時間が、あまりにも残り少なすぎる。

 

 それでも、少年は描き続け、少女は見守り続けた。

 描いて、話して、描いて、笑って、描いて、休んで、描いて、贈って。

 少年が少女に贈った絵は、目も見えていないのに現実の彼女を見事になぞっていて、彼の独特な色彩が作り上げる世界に、そのままの姿の少女が降り立っていた。

 彼女と出会ったことで、彼の絵は段違いのレベルアップを果たしている。

 何枚も、何枚も、彼は彼女を描いていった。

 

「センセーが描くボクってさ、やっぱ他のウマ娘よりちょっとだけ気合入ってるよね」

 

「ま、そうだね。否定はしないよ」

 

「んふふー」

 

 それを眺めて、少女が微笑む。

 少女が嬉しそうな気持ちになると、少年もつられて同じ気持ちになり、焦燥は落ち着き、されど筆の速度は落ちず、前のめりな気持ちが無我の境地に昇華されていく。

 少女には、一人で描いているように見えるだろう。

 けれどその実、それらの絵は全て、二人で描いているようなもの。

 

 ただ描くだけで彼女の人生を変えていることに、少年は自覚がない。

 ただそこで笑っているだけで彼を変えていることに、少女は自覚がない。

 

「今日ボクさ、お弁当作ってきたんだ!

 それでさ、その……

 ああいや、無理にってわけじゃないんだけど。

 よければ……でいいんだけど。

 二人分作ってきたからさ、その、ええと。

 美味しいって言ってほし……じゃなくて。

 き、気が向いたらさ、後で、今日のお昼は、ボクが作ってきたお弁当食べない?」

 

「へぇ……きみがよければ、その厚意を受け取りたいな。

 このまえ、定食屋に行ったときに自炊がこわいって言ってたの、覚えててくれたのかな」

 

「ま、まーね! センセーが無理して自分でご飯作って包丁や火で怪我したら大変だし!」

 

 少年は柔らかに微笑む。

 少女はおそらく、少年の見ていないところで検索し、知ったのだろう。

 突発的な病気、持病の発作、症状の末期発症、それらを起こした者の死因には、事故が伴う。

 運転中の発作、油料理中に動けなくなって火事に、めまいがして手首に包丁、etc…

 自分で食事を作る機会が減れば、そういうリスクがほんの僅かにでも減らせる。

 専門家でないなりに彼女が考えた、彼の延命方法なのだろう。

 

「ありがとうね。

 それにしても、お嬢さんは料理できたんだ。

 これは本格的に、まんがに出てくる完璧ヒロインみたいなすてきな女の子だ」

 

「……ふっふっふ、そうかもね!

 ちょっとは頑張って作ったよ! ちょっとは! ちょっとだけど!

 仮にそんなに美味しくなかったとしても本気出したらもっと美味しいからね?

 それだけは覚えておいて食べてね?

 あ、それでいて、お世辞じゃなくちゃんと美味しかったらちゃんと言ってね?

 ま、これからは会うと決まってる日は、ボクがお弁当作ってくるから、楽しみにしてて!」

 

「そこまできみに迷惑をかけるのは……」

 

「ボクがやりたいからそーするの! はい決まり!」

 

「……まいったな。せめて、食材のお金くらいは出させてほしいな」

 

 "褒めて"と彼に言いたいのに、"褒めてと求めなくても言ってほしい"と思って言えない。

 "本気出してないから"と予防線を張り、"本気を出せば"と前置きをする負けず嫌い。

 "不味い"と言われることを恐れ、"美味しい"と言われることを期待している。

 複雑なのに真っ直ぐで、とてもその少女らしかった。

 

 彼女らしさに、少年は笑い、気合いを入れ直す。

 

 十二時まで、あと二時間ほど。気合いが入る理由が出来たというものだ。

 

「さて、わたしももうひとがんばりしないと」

 

「頑張れー!」

 

 少年の絵は、間違いなく上手い。

 写真のよう、という意味での上手さではない。

 『この人にしかこれは描けない』という方向性の上手さがあった。

 

 ただし、一部。

 ごく一部だけ、正確でなかった。

 具体的に言うと、少年が最後まで触れることを許されなかった胸腰尻などの部分。

 そこが、オリジナルより凸凹がハッキリした体型になっていた。

 "まあボクもその内このくらいになるし……"と、少女は思い特に修正はしない。

 

 描いて、描いて、また描いて。

 

「センセー、そろそろ疲れて来たんじゃない? 休憩しようよ」

 

「ん……確かに、自覚してなかったけど、絵肌の仕上がりが無難だな……休憩しようか」

 

「あ、飲み物ないや。自動販売機で買って……いや、センセー、たまには一緒に買いに行こ!」

 

「おや、めずらしい。いつもはわたしが行くと言ってもひとりで行くのに」

 

「いつもはセンセーが危ないからあんま歩かせたくないじゃん?

 でもさ、こういうのも思い出かなーって。一緒に行って、一緒に買お!」

 

「よろこんで」

 

 二人は建物が立ち並ぶ地帯まで行き、最寄りの自動販売機を目指して歩き始める。

 

 ちょっとの移動でも、少女の手は少年の手を取り、優しく引いていく。

 

 最初は目が見えない少年への優しさだけで握られていた手が、今は別の想いを込めて握られていることに、気付けない少年ではない。

 

 少女は少年を気遣って休憩を申し出たのか。

 少年のハンディキャップを気遣い、その手を取ったのか。

 それとも、自動販売機に一緒に行くと理由をつけて、彼の手を握りたかっただけなのか。

 あるいは全部か。

 少女のみぞ知る。

 

「ん?」

 

「どしたの、センセー?」

 

 手を繋いで歩いて、優しく二人の肩が触れ合った時。少年は何かに気付き、少女の顔に自分の顔を近付けて、互いの顔がくっつきそうなくらいの距離で、集中した。

 

「せ、センセー!?」

 

「……お嬢さん、今日お化粧してる?」

 

「!」

 

「そっか。じゃあ、今日のお嬢さんはいつもよりきれいなんだ」

 

「よ……よく分かるね。分かんなくてもいいや、って思ってたのに。えへへ」

 

「気づくのに遅れてごめんね」

 

「いーよ!

 センセーはボクのことちゃんと見てるんだなって思えたし!

 スカーレット……友達に貰ったやつつけてみただけだから。

 化粧品とかぜーんぜん知らないし、塗り方も検索して見ながらやったくらいで……」

 

 先日、ダイワスカーレットが置いていった化粧品があった。

 化粧品が分からない少女は、ずっとそれを放置していた。

 しかしふと思い出し、手を伸ばし、よく分からないまま少女は手に取ってみるも、よく分からないのでちんぷんかんぷん。

 ネットで検索して調べるだけの期間が随分長かった。

 

 検索して、答えを見つけて、「でも初めてだから間違ったやり方だったとしても分からない」と思って、また検索して、複数のサイトの情報を総合し、間違ってない化粧のやり方を見つけて、それでもなお「変じゃないかなあ」と練習するたび不安になって。

 

 今日の朝にようやく、鏡の前で化粧をする勇気を出せた。

 それがこの少女だった。

 塗ったのも唇のリップだけで、化粧と言うにはあまりにも可愛らしすぎる、とても幼気な一歩だった。

 

 目が見えない相手でこれだ。

 彼の目が見えていたなら、きっとどこかで「やっぱボクには似合わないよ!」と言って、化粧を拭って来ていたに違いない。

 少年が、目が見えないにもかかわらず気付いてくれて、その上で褒めてくれたので、少女はふんにゃりとした笑顔でにやけていた。

 

「香りがはちみつ……

 ホホバオイル……

 あとはワセリン……

 ああ、香り付けと乾燥割れ防止のリップクリームMDNかな?」

 

「! えええ、リップに塗っただけなのに商品名まで分かるの!?」

 

「分かるやつはね。

 ホホバオイルは油絵に使う人もいる。

 ワセリンは皮膚に塗って特殊なインクから肌を守ったり……

 京都芸大の受賞者が蜜蝋とワセリンで作品作ったりしてたかな。

 はちみつを表現に使う人もいたし。

 逆にエンカウスティークで使った蜜蝋を素材にした美容品もあるくらいだよ」

 

「へぇ~、センセーの鼻はやっぱすご……んんっ」

 

 少女が何かに気付き、咄嗟に口元を抑えた。

 

「……わたしは健康的で魅力的に感じるからいいと思うけど、朝食から餃子は気を付けようね」

 

「ぐえーっ! や、やっぱり、嗅ぎつけられてる!」

 

 唇のはちみつの香りである程度誤魔化せても、少年相手には誤魔化せない、少女が朝にたくさん食べた餃子の臭い。

 

 少女はぱっと手を離して、自動販売機に向かって駆け出した。

 

「さ、先に行って飲み物選んでるね! ゆっくり追いついてきて! な、何飲もっかな~!」

 

「お嬢さん、走るなら足元には気をつけ……ん?」

 

 少年が唐突に上を見上げ、柔らかな微笑みが一瞬で強張り、杖を脇に抱えて、少年は何も見えない暗闇の世界を転ぶ覚悟で駆け出した。

 ギギ、ギギッ、と電柱の上方で人が乗る足場が軋む音。

 ガキン、と足場の留め具が外れる音。

 「あっ」と小さく漏れる作業員の声。

 手の上を重い工具が滑り落ちる僅かな擦過音。

 シュルッ、と電線に落ちた工具がその上を滑り落ちる音。

 

 学校で、隣の教室で、誰かが机の上にスマホを落とした程度の音の大きさ。

 されど、少年は聞き逃さない。

 落ちていく工具の先は、自動販売機の前で立ち止まった少女の頭上。

 少年の見えない視点で、少女の足音が止まった地点と、工具が立てる僅かな音が、重なる。

 

 走って、走って、走って。

 少女を抱き締めるようにして引き寄せる。

 「えっ」と少女が顔を赤くして。

 少女が一瞬前まで居た場所を工具が通り過ぎ、落下した工具が路面を粉砕し、砕かれた路面の破片が二人の頭より高くまで跳び上がって、少女がぎょっとした。

 

「す、すまん! 大丈夫か坊っちゃん嬢ちゃん!」

 

 電柱の上から、顔を真っ青にした作業員が呼びかける。

 

「わたしは大丈夫です……お嬢さん、怪我はない!?」

 

「う、うん」

 

「よかった……本当に……よかった……」

 

「……センセーはさぁ」

 

 少年視点、少女が今どんな表情をしているかは分からないが、少女がにししと笑っていることだけは、音から察せられた。

 少年のとても心配そうな顔も、心底安心した顔も、少女には見えている。

 

「センセー運動不足で身体能力低いと思ってたけど、必死に走るとかけっこ並くらいだね」

 

「な、並……平均以下と言われないだけマシかな……」

 

「あははっ、センセーにしては上出来上出来!

 かけっこはボクが得意で、センセーはお絵描きが得意。

 ボクたちはそれでいいんじゃないかな。

 それに、なんかセンセーがすごい必死な顔で走ってきたの、なんか面白かったよ!」

 

「……そっか」

 

「ふっふっふ、"助けてくれて嬉しかった"って言ってほしかった?

 やだなーもー、分かってるよー!

 センセーありがと!

 ボク、割と天才だからね!

 センセーの顔だけじゃなくて、抱き締め方からも色々分かっちゃうんだよね、ボクは!」

 

「……ちょっときみの顔にふれて表情と温度を確かめてもいいかな?」

 

「ぜっっっっっっっったいダメ!!」

 

 そう答えた時点で、答えを言っているようなものなのだが、頑として少女は触らせない。

 

 電柱を降りてきた作業員は、すぐさま土下座しようとしていたのだが、「これ邪魔していいのか……?」と思ってしまい、止まってしまった。

 ちょっと声がかけられない。

 ちょっと邪魔をしたくない。

 オーラがある。

 雰囲気がある。

 空気がある。

 二人の掛け合いの間に入れない、不可視の斥力のようなものがあった。

 

 瞬間、作業員の脳内に溢れ出した、存在する記憶。

 十年ほど前。

 作業員は、学生だった。

 作業員が学生だったある日、学校の教室で仲の良い三人で話していたが、作業員以外の二人が最近付き合い始め、ラブラブカップルになっていてしまったため、作業員以外の二人だけで会話するのが熱烈に盛り上がってしまい、作業員は中々会話に入れなかった。

 邪魔できなかった。邪魔したくなかった。それでも楽しかった。

 "自分が会話に入れないほどの特別を持つ二人"を見ていて、なんだか笑顔になれた。

 作業員は二人を祝福し、"彼女欲しいなあ"と思ったが、結局卒業まで彼女は出来なかった。

 

 ―――かつての悲しくも楽しかった青春の記憶が、作業員の涙を誘う。

 

「俺は何を見せられてるんだ……おーい! 本当に怪我ないかー?」

 

 それでも、謝らないわけにはいかないので。

 

 勇気を出して、作業員は声をかけた。

 

 

 

 

 

 後日。

 

 少女は、その作業員が想像できないほど、変な声で変な大声を少年に叩きつけていた。

 

「センセーっ!」

 

「はいはいなにかな」

 

「これ……これなに!?」

 

「なにって……きみを描いたんだけど……」

 

「なんか……なんか体型がひんそーになってる! 凸凹が減ってる!」

 

「うん」

 

「いや、っていうか、正確なボクの体型になってる!?

 いつ触っ……あああ! この前センセーがボクを助けて抱きしめた時!?」

 

「うん」

 

「ばか! ばか! えっちー!」

 

「……それは、うん、ごめんね」

 

「くあー! あんな一瞬で完璧に把握されてる!

 他の所入念に触ってるとあんな一瞬で分かっちゃうもんなの……!?」

 

 少女は頭を抱えて、原っぱの上を右往左往する。

 

 少年は苦笑して、少女の絵ではなく、少女に向き合った。

 

「でもさ、お嬢さんはこれが正確な体型じゃ……」

 

「まだ成長期!

 まだ成長期だから!

 これからうーんと女性らしくなって会長みたいになるんだから!

 会長にボクは追いつくんだよ将来的に!

 スズカやマックイーンみたいにスットーンで止まってるわけじゃないんだよ、ボクは!」

 

「あ、圧がつよい」

 

「会長に……会長にボクが追いついてさえいれば……

 せ、センセー! ボクは平均だから!

 ボクより大きい子いっぱいいるけど、ボクで平均だから!

 比べてボクを下に見たりするのはちょーっと待って!

 いつか勝つから! 期待値込みで評価して! 今のボクは勝ちの途中!」

 

「……ああ、そういう心配なのか。

 大丈夫だよ、肉があればあるほど良いと公言してたルノワールじゃあるまいし。

 それに、常々思ってるんだけどね。

 "貧乳"とか、人の体を表現してるのに侮蔑的な意味合いが強すぎると思うんだ。

 たとえ、相対的なものでもね。

 人の身体は誰もが貧しくないと思う。

 豊かな身体は何かって話になるしね。

 小さいを貧しい、大きいを豊かと言うのは、そもそも時代の美的感覚に寄り過ぎて……」

 

「あーもーセンセー微妙にズレてるから変な会話になるぅー!」

 

 少女はウマ娘としては、成長の果ての究極系の一つとまで言えるレベルに到達していたが、女性としてはまだまだ発展途上。成長の途中である。

 

 子供らしく頬を膨らませた少女が、腕を組んで爪先で地面をじょりじょり踏んでいる。

 

「ボクはちょっと傷付きました」

 

「はい」

 

「よってセンセーに罰を与えます!」

 

「いったいなにが……?」

 

「ボクに対するご機嫌取りのデートを要求しまーす!」

 

「ごきげんとりの……デート!」

 

「ボク、ここに行きたいな~」

 

 少女がかばんから取り出した『美術展覧会』のチラシの説明をされて。

 ああ、と。

 少年は少女の演技、内心、企みを察した。

 

 "彼女が行きたいところ"なら。

 "デートしたい場所"なら。

 もっと少女らしい場所を選んでいたはずだ。

 商店街なり、遊園地なり、ゲームセンターなり、彼女らしい場所が提案されていたはずだ。

 これは彼のための、彼と思い出を作るための、彼の嗜好に合わせた提案だ。

 

 "館内で走るのは禁止の美術館"を、ウマ娘が好きな人の趣味に合わせてデートの場所に選ぶということ自体、ほんの少しばかり、特別な意味を持っていた。

 

「ふふふ。それ、罰になってないよ」

 

「罰だよ! センセーはちゃんとおめかししてくるよーに! デートだからね!」

 

「ああ、分かったよ」

 

「そうじゃないと、ボクばっかりおめかししてるのがバカみたいじゃん」

 

「……ふふふ。そうだね。お化粧できれいになったお嬢さんに見合うようにしないと」

 

 少女が塗っていたリップのことを思い出し、少年はくすりと笑った。

 

 最後の方、ちょっとばかり少女の声が裏返っていたのは、聞かなかったことにする。

 

 裏返った声すら可愛くて、少年は絵を描きながら、愛おしさで笑ってしまった。

 

 

 

 

 

 デートの約束の日。

 二人は"この展覧会で一番大きな絵の前で待ち合わせ"と約束し、少年は待ち合わせの時間よりずっと早くから、その絵の前に立っていた。

 駅前で待ち合わせて一緒に行くとか、美術館の前で待ち合わせとか、普通の待ち合わせをせず、二人だけの特別な待ち合わせをしようとするのが、この二人らしい。

 

 待ち合わせの絵は、趙無極(ザオ・ウーキー)の一品。

 宋朝の王族の名家に生まれ、中国美術学院で絵画を学び、パリに引っ越して絵画を学んだことで完成を迎え、ミロやピカソに称賛された画家。

 中国水墨画とフランス近代前衛芸術を融合させ、昇華させた人物である。

 美術館の壁に据え置かれ、横10m、縦2.8mというサイズで見る者を圧倒するその規格は、実際に近くで見なければその迫力の一割も伝わらないだろう。

 

「ふむ」

 

 この美術館は、2017年2月1日からパナソニック汐留ミュージアムで導入された、最新式の『視覚障害者向け鑑賞ガイドサービス』をより昇華させたものを導入している。

 美術作品に彼が近付くと、高指向性ビーコンがそれを検知。

 ビーコンがスマホに信号を発信。

 スマホの専用アプリが受信した信号に合わせて、骨伝導ヘッドホンを通して、盲目の人間に絵画の詳細の解説をしてくれるのである。

 色彩、タッチ、大きさ、構図……事細かな解説は、盲目の人間の脳内に絵画を映し出す、盲目のための映写機である。

 

 骨伝導であるため耳を塞がず、盲目の人の目である耳を開けたままにできる。

 美術館の静寂を保ち、芸術堪能の邪魔になる音も出ない。

 盲目の人間が一人で楽しめる最新技術の塊だ。

 

「すごいなあ、回りやすい」

 

 少し歩けば、盲目向け芸術『マリス』などが集められた区画が現れる。

 マリスとは、2010年代後半から名が知られてきた、盲目の人間のための絵画技法である。

 人が触ることを前提としており、表面の触り心地を十段階に分け、色の種類ごとに個別の香りを設定することで、触覚と嗅覚で全ての色を識別することが可能という美術体系だ。

 まさに、絵画の点字である。

 この区画にはマリス、及び同系の盲目向け芸術がたくさん集められていた。

 

 盲目の人間に至れり尽くせりの美術館だが、決して一般的な美術館の仕様ではなく、またここがデート場所に選ばれたことは偶然では無いだろう。

 きっと、少女はたくさん調べたのだ。

 彼のために。

 彼に合わせて。

 彼が楽しめる場所を探した。

 普通の美術品では彼が触ることさえできないため、少女は彼が喜ぶデート先を考えるにあたり、頑張って調べ尽くしたに違いない。

 

 その気持ちだけで、少年の胸は暖かいものに満たされていっぱいになる。

 

「後でちゃんとお礼を言っておかないと」

 

 軽く、ぐるりと、大きな美術館をひとまわりする。

 

「うん。はやく来て内部を把握しておく必要はなかったかな。

 これならわたしが変なところでころんで絵にぶつかったりする心配もなさそうだ」

 

 まだ少女との待ち合わせ時間まで、時間がある。

 

 少年はぼんやり適当にふらふらして、マリス再現画のルノワールの絵の前で立ち止まった。

 

「人の性癖はそれぞれだなあ……」

 

 ルノワールと言えば、世界で最も有名な画家の一人に数えられる名画家である。

 印象派の先駆け。風景に卓越しながらも、女性に並々ならぬ興味を持った者。

 そして、世界一有名なデブ専画家の一人でもあった。

 

 ルノワールは、それはもうデブ専だった。

 評論家は口を開けば「ぶよぶよした脂肪の塊だろ」。

 「太くて肉を積みすぎだと思う」。

 「ごめん色まで変だと胴体が腐った肉の塊にしか見えん」。

 散々色んなことを言われてもなお、基本的にずっとデブ専だった。

 細い美人の恋人ではなくデブを選んで嫁にしたので本物の中の本物である。

 普通に細い美人を描いても桁外れに上手かったくせに、本当にデブが好きだった。

 

 そんなルノワールがずっと好まなかったもの。

 それが、ウマ娘であった。

 

 ウマ娘は現代基準での美人しかいない。

 いや、この世界においては、ウマ娘の容姿が美人の基準になっていった、という面も少なからずあるが……それは本題ではない。

 つまり、醜いデブがいない。

 ルノワールが好む、腹に階段が出来るほどのデブがいない。

 皆、細くてすらっとした美人なのがウマ娘。

 これはルノワールには憤慨ものであった。

 

 そんなルノワールが出会ったのが、現代でのオグリキャップやスペシャルウィークに並ぶ、希少な超大食いウマ娘―――デブるウマ娘であった。

 

 とにかく食って食って、腹は膨らみ体重は増える。

 そんなデブデブウマ娘を、ルノワールは愛した。

 大食いのウマ娘の中でも、体重がさして増えていないオグリキャップのようなタイプより、しっかり体重も増えてしまうスペシャルウィークのようなタイプを愛した。

 太れ、ウマ娘。

 走れなくていい、太れ。

 その姿こそが美しい。

 今ここにある一枚は、そんなルノワールの名画を模倣したレプリカの一つ。

 

 少年が眺めるマリス再現画のルノワールは、めちゃくちゃに腹がデブったウマ娘を描いたというものであった。

 迫力だけは、桁外れに凄まじい。

 性癖が爆発している。

 胸腹尻、全ての脂肪が爆発している。

 

「……すごいなあ……」

 

「芸術なのは分かりますが、同じウマ娘としてはこうなりたくはないものですわね」

 

「やあ、おはよう」

 

「おはようございます。お久しぶりですわね、盲目の画匠の方」

 

 足音で接近に気付いていたが、彼女が声をかけるのを待っていて、それを承知の上で彼へと声をかけるウマ娘がいた。

 

 メジロマックイーン。メジロ家の令嬢、薄紫のウマ娘であった。

 

「きみも鑑賞に?」

 

「ええ。とはいえ、半分は仕事、責務のようなものですが。

 家名の冠を乗せて、少し感想を言って、それが広告に載る。

 それだけですわ。

 面倒でも、家名を背負う令嬢ならば成すべき責務というものです。

 メジロ家もこの展覧会も、"有名なメジロの美術感想"が出ると得になるのは同じですから」

 

「なるほど。たいへんだね」

 

「さしたる労力でもありませんわ。もう帰るところですし」

 

「そっか。今すこしだけ時間があるんだけど、出口まですこし話さない?」

 

「喜んで」

 

 杖をつき、ゆっくり歩く少年。

 目が見えない少年に合わせ、マックイーンもゆっくり歩く。

 手を繋いで、手を引くことはない。

 そんなことを自然にするほど、二人は仲が良いわけではないから。

 

「あとから名前を知ったよ、メジロマックイーンさん。有名なひとだったんだね」

 

(わたくし)も後から知りましたわ、貴方の名前。

 こんな大きな展覧会に絵が貸し出されて展示される方だったとは思いませんでした」

 

「普通だよ。盲目という付加価値があるからだね」

 

「ご謙遜を」

 

 マックイーンが上品に笑う。

 あの子とは違うな、と笑い声を聞き、彼は思う。

 明るさが、上品さが、そして何より楽しそうな度合いが、あの少女と明確に違う。

 人それぞれの笑顔の魅力を、少年は見えないままに感じ取る。

 

「わたしは永遠にズルをしているんだ」

 

「ズル、ですか」

 

「創作に一番はなく、それぞれのうつくしさがあるのに、なぜかみな比べたがるんだ」

 

「至言ですわね。その矛盾、(わたくし)も気にならないと言えば嘘になります」

 

()()()()()()()()()()()()()()()と絶賛される。

 どんなすごい絵がわたしの絵の横にあっても()()()()()()()()()()()()()

 そしてきっと、わたしとおなじくらいの出来の絵がわたしの絵の横に飾られたら……

 言われることはこうだろうね。()()()()()()()()()―――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……ええ、想像に難くないですわね。貴方の絵は、見えている人と遜色ありませんから」

 

「わたしが画商さんに売って。

 画商さんがだれかに売って。

 そのひとがここに貸し出した絵。

 だからもう、わたしの絵じゃないんだけど。

 わたしがなにか、とやかく言う権利はないんだけど。

 ……やっぱり、こういう色んな絵が並べられる展覧会は少し苦手かな」

 

「心中お察しします。ですが、拝見した貴方の絵は、素晴らしいものだったと思いますわ」

 

「ありがとう」

 

 ゆっくり二人は歩く。

 

 出口に向かって、並ぶ絵を一つ一つ眺めながら。

 

「足、よくなったんだ。よかったね」

 

「ええ、おかげさまで。

 医者からは精神的によい作用があったのでは、と。

 それでもレース復帰はするなと言われていますわ。

 まったく、こんなに生は上手くいかないというのに。

 神、そらに知ろしめす、すべて世は事も無し。ですわね」

 

「もっとよくなることを願ってるよ」

 

「ありがとうございます。嬉しく思いますわ」

 

 談笑して、なんでもないことも語り合いながら、二人は歩く。

 

 そして、ある一枚の絵の前で立ち止まった。

 

 

 

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