もし君が普通の才能しか持っていないのなら勤勉がその不足を補ってくれるだろう」
「人より秀でようとするならば起きてから寝るまでその事だけに全身全霊を傾けなければならない」
―――ジョシュア・レイノルズ
骨伝導での解説が、その絵がそこにあることを、盲目の少年に教えていた。
「日本でいまの時代に描く人がいるんだ、『グラディアトゥール』」
「メジロのおばあさまが主催に展示品のリクエストを聞かれ、求めたものだそうです」
「なるほど……企画時点で注文を出して、展示品集めてる間に描いてもらったのかな?」
「そう聞いていますわ」
それは、150年ほど前に書かれたウマ娘の肖像画を参考に、今になって描かれた新品のウマ娘の肖像画だった。
「『グラディアトゥール』。
フランス最強のウマ娘の一人。
エクリプスの再来。
ワーテルローの復讐者。
フランスウマ娘伝説のヒーロー。
展示品のモデルの要望を聞かれて、おばあさまはまず彼女の名を出したそうです」
「なるほど。そのおばあさまという方の、周りのウマ娘への願いが見えるようだ」
「かもしれません。グラディアトゥールは
「奇遇だね。わたしもすきなウマ娘だよ」
『唯一抜きん出て並ぶ者なし(Eclipse first, the rest nowhere.)』―――18戦18勝の伝説のウマ娘、エクリプス。
その再来と呼ばれ、当時世界最大のウマ娘激戦区イギリスでクラシック三冠馬となった、フランスの伝説的英雄ウマ娘が存在する。
名を『グラディアトゥール』。
"剣闘士のウマ娘"と、人は呼ぶ。
「フランス産のウマは資料が明確に少ない」と言われるように、栄光の規模と比較して資料が少ないものの、それでもなおよく知られた存在の一人。
先日マックイーンが見た少年の絵の元絵、マネが描いた"ロンシャンレース場"のモデルの場所には現在も、グラディアトゥールの銅像があるという。
「ふふ。残念ながら、いつも身内には苦い顔をされますわ。
『グラディアトゥールを真似ようとしたウマ娘は皆破滅する』と言われて」
「それはそうだろうね。わたしも知り合いがグラディアトゥールの名前を出したら身構えるよ」
「そうなれるとは思いませんが……憧れる怪物の一人ではありますわ」
グラディアトゥールは出生直後の事故で足を壊してしまい、これは一生治らなかったという。
事実上、先天性の障害を足に抱えた状態で、グラディアトゥールはデビューした。
デビュー一年目からグラディアトゥールは歩様が異常で、レースの直前もずっと咳が止まらなかったという。
しかしそこから、歴史上初のイギリス産ウマ娘以外による英ダービー制覇。
グラディアトゥールはまたたく間に伝説となる。
何度も足を悪くするが、なんのその、勝ち続けて二冠。
なんと片足が動かない状態でセントレジャーステークスに出馬、実質片足だけで走り、オークス優勝ウマ娘・レガリアに圧倒的な差をつけて一着。
でたらめな強さでイギリスクラシック三冠馬となった、と記録されている。
グラディアトゥールの足は一生治らず、常にその足には激痛が共存していた。
足が一本動かなくなるという致命的な症状はその後も現れたが、それでもグラディアトゥールは勝ち続けた。
グラディアトゥールを恐れたウマ娘が逃げ、単走で勝ったこともあった。
名ウマ娘ばかりが並ぶG1ゴールドカップでのレガリアとの再戦では、先頭集団から100バ身後方をまったり走り始め、終盤に本気を出して二着のレガリアに40バ身差をつけて勝っている。
1886年、イギリスのある報道誌が競馬関係者を対象にアンケートを取り『19世紀名ウマ娘ランキング』『最も偉大なウマ娘ランキング』などを作成した。
イギリスとフランスは仲が悪く、どちらも一位はイギリスのウマ娘が選ばれるだろう……と言われていたが、どちらも一位を取ったのはグラディアトゥールであった。
国境を越え、しがらみを超え、二つの国の人々は共に、壊れた足で頂点を獲ったグラディアトゥールを褒め称えたのである。
まさに伝説のウマ娘。
事実上、先天的な致命的障害を抱えたまま勝ち続けた怪物である。
先天的に障害を抱えた者達、足を壊して復帰が絶望的になったウマ娘達、その全てに夢を見せる空の星。彼方の光だ。
"奇跡は起きる。それを望み奮起する者の下に"―――マックイーンは幼少期からずっと、グラディアトゥールの存在に、『壊れた後の奇跡は在る』と信じる気持ちを貰ってきた。
生まれつき目が壊れている少年と、もう正式にレースに復帰が望めないほどに足が壊れたウマ娘が、グラディアトゥールの勇壮な絵を見つめている。
二人は互いに対し『このくらいは知っているだろう』という前提で話しているため、互いに説明を述べることなく、言葉少なに共感し、目の前の芸術に集中していた。
「怪我をものともせず不可能を越える、奇跡の人に、
「わかるよ」
「体が壊れても……奇跡は成せると……その姿に、みな心惹かれる……」
二人はそれぞれの瞳で、その絵を見つめる。
本物の奇跡の存在、グラディアトゥール。
片足が完全に動かなくなっても最強で在った伝説。
足が一本動かなくなってもなお三冠になった存在であれば、足が折れてしまっても、繋靱帯炎を発症してしまっても、目が見えなくても、重病を患っても、あるいは勝てるのかもしれない。
生まれた時から抱えた理不尽、どうしようもない運命を、全て跳ね返したウマ娘。
人類史上、人間のアスリートにも、ここまでの規格外な奇跡を起こした者は他にいない。
同族の頂点集団と走って競い、片足で勝った者など他に居るわけがないからだ。
「諦めないことは美徳ですわ。今でもそう言い切れます。けれど、それでも……」
誰もがグラディアトゥールにはなれない。
グラディアトゥールに憧れても、憧れはあくまで憧れだ。
メジロマックイーンには、片足で走って三冠になるなどという異形の偉業を成し遂げられる自信はない。
松葉杖が無くても歩けるようになったものの、レースなどできようはずもないマックイーンの足が、鈍く微かに痛んだ。
「奇跡。それはきれいな言葉だね。
でも実際、奇跡というものは、出会いくらいのものだと思うんだ」
「出会いだけ、ですか。出会いの奇跡は信じて、それ以外は信じていらっしゃらないのですね」
「出会いは偶然だから。
そこには奇跡があると思う。
でも、基本的に奇跡はないと思うんだ。
グラディアトゥールは強かった。
強いから折れても勝てた。
それは別枠に置いておくべきだよ。
本当に奇跡があるのなら、まずウマ娘全員勝者にして怪我も治して、なんて私は思うよ」
「……まずご自分の眼ではなく、赤の他人のこととは。優しい方なのですね、貴方は」
「そうでもないよ。
眼のことはもう慣れただけだから。
でもたぶん、他人が……
……知り合いの同族のウマ娘が夢破れるのを見て、平気でいられる気がしないんだ」
「ええ。あれは当事者としても、聞き慣れるものではありませんわ」
「赤の他人でも、奇跡もなく負けた子の声を聞くのがつらいんだ。
馴れ合ってる画壇みたいにさ、ウマ娘みんな一番でよくないかな? って思ってしまう。
レース聞くたびにそう思ってしまうんだよ。
負けてるウマ娘の声を聞いてるだけで、知らない子なのにつらくてつらくて。
ああいう負けた子に、奇跡がないなら、他の子にも、私にも、奇跡はないんだろうなと……」
「だからこそ、勝利の栄光が輝くとも言えます」
「うん、わかるよ。
その上で……こう、思うのさ。
ウマ娘のきみには、もしかしたら新鮮味のない意見かもしれないけど」
「いえ、そうでもありませんわ」
マックイーンは共感し、僅かな痛みをこらえるような顔をする。
マックイーンの脳裏に思い出される、マックイーンが負かしたウマ娘達の泣き顔と、マックイーンが負けた時の気持ちが混ざっていく。
少年は勝者の栄光ではなく、敗者の悲しみに寄り添っている。
夢叶えた者の心ではなく、夢破れた者の心に寄り添っている。
だから。
頑張った敗者に奇跡が無いならば、自分にもそれは無いだろうと思っているのだ。
彼は自分に奇跡が舞い降りることを、これっぽっちも信じていない。
本質的に、奇跡がそんなに都合よく与えられるものだとも思っていない。
それは、この世界中のどこにもいる『奇跡に恵まれなかった全ての人』の心に寄り添う優しさであり、十数年かけてへし折られ続けた心が出した結論であり、彼の目も、彼の病も、何もかもどうにもならなかった彼の人生が出した、唯一無二の答えだった。
それでも。
彼が奇跡の全てを否定していないのは。
少女と出会ったことで、『彼女と出会えた奇跡』だけは、本物の奇跡だと思っていて―――その奇跡だけは、いかなる厭世観でも否定できないからに違いない。
彼は、彼女と出会ったことだけは、奇跡であると信じているのだ。
「ふふっ……優しすぎるとウマ娘には向かないといいます。
貴方はウマ娘には向いていないでしょうね。
これに侮蔑の意味はありませんが、貴方がウマ娘に生まれなくてよかったと思いますわ」
「驚いた。そういうこと言われたの二回目だよ」
「あら? 他のウマ娘が言ったのかしら……」
マックイーンがかの少女と同じことを言い出したので、少年は思わずくすっとしてしまう。
少年の感覚が本質を見抜き、なんとなくに理解させる。
メジロマックイーンも、かの少女と同類。
普通の女の子の延長にいながら、他者の人生を変えかねない『特別』。
彼がその人生で出会った中で、二つ目の
『本物』に数えられる一人だ。
『お嬢さん』ほどの特別となることはありえないが、僅かな出会いと会話だけで少年の記憶に強く残る人間であることは間違いない。
マックイーンは、とにかく少年と会話の拍子が合う少女であった。
「奇跡は無い。
一理はあると思いますわ。
奇跡を諦めてしまう気持ち、分からないとは言えません。
ただ……
「……奇跡を?」
「ええ、揺るぎなく。
この先に何があろうとも。
「……」
「
誰よりも幸運の女神に嫌われ……
誰よりも奇跡の女神に愛された子を知っています。
頷きたいところですが、
「それは、きみのともだちのウマ娘のこと?」
「ええ。……そうですわ、あとどのくらいお時間いただけますか?」
「時間? ちょっとまってね」
少年は手首の新品らしきEONE――盲目の人間用の、表面に触れるだけで時間が分かる、針の代わりに鉄球が動く特殊な時計――に触れ、時間を確認する。
「あと30分と少しくらいなら」
「ありがとうございます。ではこちらが前金です」
「何事!?」
マックイーンがいきなり小切手を押し付けてきたので、少年はかなりびっくりした。
「余計な前置きは無用、まず払えるものの話を。メジロの教えですわ」
「ああ、お仕事の依頼か……いやこれ、0の数多くない……?」
「多くありませんわ。値段を決めるのは
小切手にボールペンで書き込まれた数字を、筆圧の溝に指を這わせることで理解し、少年はちょっと引いた。
「0の数一つ二つ減らしてもいいよ、知り合いだし……」
「少なくしませんわ。それで、あなたにお願いしたい内容なのですが」
「この子パワーあるな……」
少女は取り出した木箱から、更に紙を数枚取り出し、少年に手渡す。
紙は何の変哲もない紙にしか見えないもので、やや大きめのメモ帳程度の大きさだった。
「ここに、簡易で構いませんわ。怪我から復帰しようとするウマ娘に向けた絵をお願いします」
「え、それだけでこの値段? 確かに30分以内にできるけど……0の数三つ減らさない?」
「ええ。手に乗る御守りに入れるだけのものなので。0は減らしません」
「がんこだねきみ……うん? これ越前奉書?」
「はい、その通りです」
「重要無形文化財……これに描けとはまた、緊張する……」
「触れただけでそれと理解したのが貴方ですわ。何の心配もしていません」
16世紀には生まれ、後に安く低質な紙に駆逐され、現代においても伝統工芸として保護されている上質和紙。それが越前奉書である。
お守りに入れるということは一見して見えないものになるはずだが、見えない部分にもこだわるあたり、マックイーンは相当生真面目で、かつ完璧を求める精神性があるのだろう。
「そういえば、毘沙門天の姿絵を入れておくおまもりがあるというのは聞いたことがあるね」
「ええ。簡易で構いません。あなたにウマ娘を守ってくれるような絵を描いてほしいのです」
「あと30分だと、多分そんな大したものは描けないけど」
「構いませんわ。これは、
「……まいったな。きみ、わたしのやる気を引き出すのがうまいね」
以前の優美な屍骸作成時以降、少女が描きたいと思った時に貸せるように、常にホルダーに収めていた多色ペン十本を少年は取り出した。
普通の筆では間に合わない。
多色ボールペン、及びその類で描くしかない。
でなければ、この短時間で描き上げる段階まで行けないだろう。
「きみに向けて描くってことでいいのかな?」
「?
怪我をして復帰する予定なのは、
復帰は絶望的だったはずが、どうやら相変わらず、見惚れるほどに不屈だったようで」
「あれ、そうなんだ」
「
彼女とまた走るという、叶うはずのないことも叶いました。
十分にすべきことは成しましたわ。
だから、もっと走りたいという欲はあれど、後悔はありません」
描き始める直前に、ペンがいきなり軌道を変えた。
下書きと線取りを同時に行い、少年は一分で線画を終える。
話しながらも眼は紙から離れず、その手は何も見えていないのに異様に正確に線を引き、手の稼働限界までペン速度を引き上げてなお、脳には会話する余裕がある。
日々"お嬢さん"と喋りながら描き続けた結果、彼の一部技術は、普通ではない飛び抜けた領域へと到達していた。
「じゃあ、その子は怪我にも負けず復帰する子なんだ。すごいね」
「珍しくもなんともありませんわ。
無茶をしたウマ娘が故障を押して出場、そして怪我、そして引退。
よくあることです。だから偉くもなんともないのです。我儘を押し通しているだけ」
「手厳しいね」
「……正直に言えば、応援したいのです。
ですが怪我の状況が、流石に悪すぎました。
次の怪我があれば、日常生活も送れるかどうか……
そういう段階で無理をして、普通の暮らしもできないウマ娘は多いと聞きます」
「ああ、それなら、応援しないことも友情だろうね」
「尊敬はしています。
同時に、心配もしているのです。
グラディアトゥールの絵の前の、横長のベンチに二人は座り、話している。
少年は猛烈な勢いで描きながら。
マックイーンは壊れた足を撫でながら。
「一つ
それは、切実な祈りであった。
先程『自分の眼そっちのけで他人のために奇跡を望むなんて優しい人だ』と、少年に対して言っていたマックイーンの言葉が、無自覚に、そのままマックイーンに返ってきていた。
一つ願いが叶うなら、マックイーンは自分の足の治癒ではなく、友の幸を願うのだ。
一つ願いが叶うなら、己の病気の快癒ではなく、あの少女の足が治ることを祈る少年のように。
「だからおまもりね」
「ええ。神頼みのようで、少し気が引けるところもあるのですが」
「大切なひとの無事を願っておまもりを渡すのは、神頼みとは違うし、すてきだと思う」
「……ありがとうございます。その言葉に救われます」
「きっとどこかに届くよ。その祈りは」
「あら、奇跡は無い、そう信じているのではないのですか?」
「それは……」
「ふふふっ。
申し訳ありません。
分かっていて、意地悪なことを言ってしまいました。
そうですわよね……奇跡が無いと信じる人は、かつて奇跡を信じたかった人でしょうね……」
「……」
「普通の人は、奇跡が有るとも無いとも言い切りませんもの」
少年のペン先は、止まらず凄まじい勢いで描き上げていく。
そこに、マックイーンは確かな命の煌きを見た。
普通に生きている人間が、決して発することのない命の煌きを。
「ケガしたみんな、グラディアトゥールみたいだったら……いや、なんでもない」
「夢、ですわね。優しく儚い夢です。見る人がほとんど居ないくらいに」
多色ボールペンという子供のお絵描きのような道具で、信じられない色彩を作っていく。
「クレヨンでもなんでも、身近にあるものをなんでも使って絵を描いてみなさい」などは芸大生や芸大志望生によく出される課題だが、これはその先。
どんな道具でも一流の作品を仕上げられる領域の技術だ。
ボールペンの同色筆先一本で、筆圧や紙への擦り方を変えることで、千変万化の色合い・線の太さ・タッチの違いを作り、それを織り上げていく。
色Aをうっすらとした色合いで紙表面に擦り当て、そこに色Bをしっかり乗せて、たった二色で見事なコントラストを作り上げる。
繊細なタッチと神業じみた筆圧の支配で、まるでボールペンが筆より優れた道具であるかのように錯覚させる、そんな絵を描いていく。
小さな上質和紙の上に、人が一人、ウマ娘が一人、背景が一セット。
絵のウマ娘の髪を描く彼の技術を見て、マックイーンは無言で舌を巻いた。
たとえるならば、『~』のような、波打つ髪の毛。
それを迷いなく、ガッと直線を引くような速度で引いていく。
そしてその下に寸分違わず同じ線を引いていく。
隙間も空けず。
ほんの僅かな白い空白も作らず。
波線の下に、1/100mmのズレもなく、同じ波線を引き、それを髪の毛に仕立てていく。
描いた0.28mmの髪の毛の下に、0.28mmの髪の毛をぴったり隣に描き、そのぴったり隣にまた描いて、髪の毛として魅せる十本の波線は、僅かなズレもなく幅0.28mmの線の束となった。
本来ズレて当たり前の波線を、僅かなズレもなく、僅かなミスもなく引き切る。
度胸も技術も並外れている。
その精度は既に精密機械でなければ誰も模倣できない、職人芸の域にあった。
それだけではない。
少年は波線を引くように髪を描きながら、その途中で筆圧とタッチを調整し、描いている髪の毛の質感を絶妙に調整していた。
汎的技術にある、筆で髪の毛を大まかに作り、最後に光沢を調整するというやり方ではない。
髪の毛を、ボールペンの線の無数の集合体で表現しつつ、その線を引く際の繊細な加減を調整することで、非常にレベルの高い質感の表現を成し遂げているのだ。
更に少年はペンで一度線を引いたところを、近似色のボールペンで、ほんの僅かなズレもなくなぞって、色を重ねる。
インクを重ね、発色を調整する。
そうして、ごく自然に、リアルに見える色彩調整を行う。
リアルな色彩、ではない。
リアルに見える、である。
彼は盲目ゆえに、リアルに見える技術を使っても、それで生まれるものはやはり、どこか幻想的でどこか非現実的だ。
ボールペンのインクを薄く擦り乗せ、ボールペンで『空気』を描き始めたのを見て、マックイーンは魔法の世界に迷い込んだかのような気分になってきた。
精密機械に並ぶ精度と、人間らしい柔軟な表現能力。
死が迫る中で獲得した爆発的な速度と、迷いがなくミスもないペン運び。
筆で描く以上に滑らかな質感と、生命力を強く感じる髪のタッチ。
即座に構図を組み立てる、絵画とウマ娘の歴史に対する深い造詣。
精密機械であっても、これを再現するのには相当苦労するだろう。
いつも指先で、マイクロメートル単位のものを正確に知覚し、ほんの僅かな情報から色の違いすら指先で把握する彼にとって、この程度は精密作業の内にも入らない。
今の彼は、描くたびに進化を続ける状態にある。
おそらくは、命と引き換えに。
燃え尽きる過程にあるからこそ、極みに近付いている。
今の彼の能力が、逆説的に彼の残り時間を示している。
「……ジェームズ・ミルンのボールペン画を見たことがありますわ。
2005年の、写真とほぼ変わらない白黒のウマ娘の絵。
あれを見た時も、驚愕したものですが……今はそれ以上ですわね」
「そうかな」
「ええ。ボールペン画の欠点は、色の劣化、色彩の乏しさ、ミスと言いますが……
劣化対策が行われた近年のボールペンインク。
多色化が進む近年のボールペンと、色彩を多様化させるタッチ。
そして、ミスしても描き直せないという前提を無視するその勇気。
欠点がまるで見当たりません。
"ウマのボールペン画"において有名なのはミルンでしたが、貴方もそこに入れそうですわね」
「そうかなぁ」
ミスをしない。
全くミスをしない。
ミスを恐れないからミスしないんだ、とでも言わんばかりに、小さな紙の枠内を走る神速のペンは止まらない。
ボールペン画はミスできない。
ミスをしても描き直せず、最初からやり直しになるからだ。
だから皆、慎重に描く。
なのに彼には恐れがない。
恐れがないから勢いよく、大胆に線を引いていけている。
その感覚でずっと描き続けているために、結果としてミスもない。
幼少期からずっと死の恐怖に蝕まれている彼が、今更何を恐れるというのか。
凄まじい技術を見せながら、少年は平然とマックイーンとの会話を続ける。
「きみがおまもりを渡したいその子は、きみにとって大事なウマ娘なんだね」
「ええ。
「いいことだ、大切なひとを得られる人生は、いいものだから」
「ふふっ……実感のこもった言葉ですわね。やはり、貴方に依頼して良かった」
そして、絵は完成した。
出来上がったのは、顔が見えない高貴な男が、切り揃えられたターフの上で、礼儀正しく膝をついているウマ娘を、褒め称えている一場面。
男の服装が紫地に金の飾緒、緋色の袖、黒帽子と、『当時のイギリス王室の服飾色だ』……と、教養がある者にはひと目で分かるようになっていた。
「あら。『最後の放蕩王』とは、予想していてませんでしたわ」
「流石だね。構図は今思いついたやつを描いただけだから、ちょっと自信無いけど」
「まあ、てっきり前々から考えていたものを使ったものかと……素晴らしいですわね」
『最後の放蕩王』、エドワード7世。
イギリスでは三冠や王の名を冠する賞を目指すウマ娘が現れた時――日本で言えばクラシック三冠や天皇賞を目指すウマ娘が現れた時――には、まず思い出される王である。
エドワード7世は、とにかく美女とウマ娘が好きな王であった。
関係を持った女性の数、実に101人。
育てたウマ娘は王族旗下初の三冠ウマ娘ダイヤモンドジュビリー、現役国王が育てたウマ娘としては初のクラシック制覇ミノル、彼が最初に育てたクラシック勝者タイス、クラシック二冠ウマ娘パーシモン、王室旗下のグランドナショナル初優勝ウマ娘アンブッシュなどが並ぶ。
彼はとにかく美女とウマ娘が好きで、美人よりも優しい女が好きだったという。
日英同盟を成立させ、ウィンストン・チャーチルの父親と女を争って決闘を申し込んだとか。
美女とウマ娘が好きすぎて国民が不安視する中即位し、かねてより仲の悪かったフランスやロシアと瞬く間に関係を修復、日本などと連携し、また当時少なくなかった白人から非白人への差別意識にも反対という先進的意識を持っており、『ピースメーカー』とも呼ばれたとか。
そして平和を作りつつ、一生美女とウマ娘の尻を追いかけていたとか。
義務教育の範囲の世界史を知っているだけでも分かる、あんまりにも愉快な王であった。
1909年。
ウマ娘・ミノルがダービーを制覇した時、エドワード7世は貴賓席から駆け下り、ゴール直後のミノルの手を取ってその勝利を讃えた。
ミノルはウマ娘の身に余る光栄、優勝の感動、王の称賛に顔を真っ赤にしていたという。
興奮した観客が数千人、一気に観客席からなだれ込み、これを警官隊が必死に押し戻して王の身の安全を守り、エドワード7世はそれにドン引きしていたと、新聞に記録されている。
少年が紙にボールペンで描いたのは、その時のことを描いたものだ。
語り継がれる、奇跡の三冠馬を育てた王、エドワード7世。
王の期待に応えたウマ娘、ミノル。
後の時代に、レスター男爵は、この時のダービーを「この勝利はおそらく競馬の歴史のなかでももっとも有名なもの」と書き残している。
ミノルは走り続けたが、エドワード7世が政治の激化によって九ヶ月休み無く働き、呼吸器を悪化させる形で過労死したのを受け、主君の死と共に引退を決意し、表舞台から消えた。
エドワード7世は5月6日に崩御したが、死の寸前まで公務を続け、5月5日までずっと息子とウマ娘の話をし、エドワード7世の育てたウマ娘の優勝に心底喜んでいたという。
誰よりも美女と平和とウマ娘を愛した王。
三冠ウマ娘を夢見た不良少女、ダイヤモンドジュビリーに夢を叶えさせた男。
親しみと尊敬とほんのちょっぴりの呆れを込めて、人は彼を最後の放蕩王と呼ぶ。
『可愛いウマ娘なら誰でも大好きなあの王様なら、きっとどんな怪我をしたウマ娘でも守ってくれるだろう』という、女性画家からはあまり出にくい、男性画家らしい発想。
しからば、マックイーンが予想していなかったのも当然と言えた。
名の知られた過去の偉人に加護を求めるのは、学業成就を願うお守りの中に、菅原道真公への請願を書き込んだ木片を入れるそれに近い。
「……ああ、そういえば、エドワード7世が育てたパーシモンも、足を折っていましたわね」
「たぶん、彼は怪我したウマ娘にはやさしいと思うよ。根拠はないけれどね」
「いいえ、きっとそうでしょう。
マックイーンは受け取った絵を様々な確度から眺め、うんうんと満足そうに頷いている。
3分か4分ほど見つめていたマックイーンに、少年が横合いからもう一枚、同じ紙に描いた絵を差し出した。
「それと、こっちもね」
「これは……もしかして、今
「代金貰い過ぎだったし、5分最後に余ったし、二枚目描いちゃった」
「描いちゃった、ってそんなに早く……描けるでしょうね、貴方なら」
「新しいものを生み出したわけではないからね。
記憶してるものをわたしの画風で描いただけだから。
それもおまもりにして、きみが持っておくといい。きみのためのものだから」
「……ダーラナホース」
「うん、きみならわかると思った」
別名、ダーラヘスト。
スウェーデンのダーラナ地方で18世紀初頭に生まれた、独特の形状をした木彫りのウマ娘。
"幸せを運ぶウマ娘"と言われるそれは、北欧を代表するウマ娘芸術の一つだ。
結婚、出産、応援、告白……様々な場面で贈り物として選ばれ、現在ではダーラナ地方の代名詞のような特産物となっている。
これを描いた絵画やイラストも多いため、少年はそれを参考に、ダーラナホース特有の『デフォルメされた花柄のウマ娘達』を紙に何人も描き込んでいた。
マックイーンのために描かれた、何人ものウマ娘達が、ふわふわと楽しそうに漂っている。
「どうか、きみの行き先にも、幸がありますように」
そう言って、少年はマックイーンと別れ、待ち合わせの場所に向かった。
流石に最初の一枚ほどの出来ではないが、それでも十分な出来だった。
そして、どちらの絵にも、速さや上手さの印象を塗り潰すほどの、思いやりに満ちていた。
「罪な人ですわね。あの青いウマ娘の絵を見る限り、あれで一途そうなのがまた尚更に」
暖かな印象を受ける二枚の絵を見て、マックイーンは尊敬の気持ちを顔に浮かべる。
「……あれで余命幾許も無いかもしれないとは、受け入れ難いことですわね」
そして二枚を折りたたみ、取り出した赤いお守りの袋の中に収納した。
「あるいは、奇跡など無いと信じられれば、諦めがついて耐えられるのか……」
その呟きは、どこにも届かない。
ちょっとした時間に一仕事を終え、少年はデートの待ち合わせ場所である、この美術館で最も大きな絵の前に戻る。
巨大な絵を前にして、左右10mはある絵の両端を往復し、少年は見えないままにその大きさに感じ入り、圧倒されていた。
少年は彫刻の方が楽だと少女に言っていた。
マックイーンの依頼による、手の平に乗るサイズの紙に描く絵には神業を発揮できた。
小さいものは、彼にとって楽なのだ。
眼の代わりの指先が、それを把握しやすいから。
普通の人間でも、目を瞑ってスマホの形状を把握するのは容易だが、目を瞑って車の形状を把握するのは困難というものである。
大きな絵には、大きな絵を描く技術が要る。
サシャ・ジャフリがドバイで描いた2000平方メートルのビッグ・アートのように、そもそも目が見えていないと不可能に近いジャンルが存在するほどだ。
大きな絵は、少年が"死ぬ前にやってみたい"と思っていても、おそらく死ぬ前に技術習得が間に合わないジャンルの一つである。
求めても、手が届くことはないだろう。
人は、自分が得られないもの、己が持てないものにこそ、強く憧れる。
「あ、おはよーセンセー!」
「やあ、お嬢さん。はやかったね」
「時間ぴったりだよ? っていうかセンセーの方が早いじゃん!」
「きみと会うのがたのしみすぎて、はやく来すぎてしまったんだよ」
「……えへへー、それなら仕方ないかなー、次からはボクの方が先に来るからねっ!」
「何を張り合ってるんだ何を」
「会うのが楽しみゲージの大きさ! 絶対ボクの方が大きいから!」
「ふふふ。なんだい、それは」
少年が最も強く憧れ尊敬するものが、今、目の前に在る。
彼の中で、グラディアトゥールよりも上に置かれているウマ娘が、そこに居る。
自分では描けない大きさの絵に羨望を覚えていた少年が、絵の大きさではなく、会うのが楽しみな気持ちの大きさを比べている少女につられて、笑って、色々どうでもよくなってしまう。
ああ、彼女の方がわたしよりずっと大きいな、と、少年は思うのだ。
「実はここ、わたしの絵が飾られてるんだよ」
「あー見た見た! もう見ちゃった! びっくりした!
もー、センセーあらかじめ言っといてよ! びっくりするじゃん!」
「びっくりさせたかったんだよ」
「センセーはさぁ!」
楽しそうに笑い合う。
目が見えない彼には、少女が肩からかけている小さなかばんに、赤色のお守りがくっつけられていることなど、分かるはずもなかった。
「三周くらいゆっくり回ろうよ! センセーの解説聞きながら回りたいな~」
「いいね。ベクシンスキーの所謂『三回見たら死ぬ絵』もあるらしいから、ちょうどいいかも」
「ちょっと待って!?!?」
「ふふふ」