―――クロード・モネ
レース場は新造、廃止、復活、移転を繰り返し、その総数を変えていく。
ここもまた、近年生まれたものの一つ。
近年のウマ娘とレースの人気は白熱しており、それを受け、ウマ娘というコンテンツはその界隈を加速度的に膨張させつつあった。
観客席よりなお外側、レース場を一望できる小高い土手で、少年はキャンバスを構えた。
白地のキャンバスが今か今かと、絵を刻まれる時を待っている。
少年は組み立て式の椅子を置いて少女を座らせ、自分は立ったまま、手探りで必要な絵の具などを一つ一つ確認していた。
「こんなところでいいの? センセー」
「みんながいるところだと迷惑になるからね。このくらい遠くても十分さ」
「ふーん」
遠くのウマ娘のレースを眺める少女。
眺められないから、耳を傾ける少年。
これで何を描くんだろう、と少女が思っていると、少年はポケットから目の細かいヤスリを取り出して、何気なく自分の指を削り始めた。
ぎょっとした少女は、反射的にその手を掴んで止める。
「え、な、なにしてんのぉ!?」
「絵を描くんだけども……離してくれないか?」
「いや離さないよ!? なんで自分を傷付けてるの!?」
「指先の皮膚を削って感覚を鋭敏にしてるんだ。皮膚ってなぜ再生するんだろ、めんどくさい」
「ボク皮膚が再生することに文句言ってる人生まれて初めて見たよ」
少女は少年の手を少し見つめ、事情を把握したことで手を離した。
少年の手はやや荒れている。
そして荒れているだけでなく、妙につるつるとしていた。
指紋も見えない、繊細に薄く削られた指先。
拷問で皮膚を剥がした後の肌のような、指先を鋭敏にする加工。
この手では杖や手すりも掴みにくく、日常生活も大なり小なり過ごしにくいことだろう。
少年が杖をしっかりと掴んで保持できず、簡単にどこかに弾き飛ばされてしまった事の理由を、少女は周回遅れに理解した。
「その手、痛くないの? 削ったら風が吹くだけでも痛くない?」
「痛くなければ見えないからね、わたしは」
「……そっか」
「したいことをするためさ。壊れた部分は他の部分で補わないと」
『絵は目で描け、観察こそが絵を作る』と言われるように、目が見えない画家というものは、それだけで車輪の無い車に等しい。
世界で最も有名な画家の一人に数えられるルノワールも、晩年リウマチで筆を持つことすらできなくなったが、筆を手に固定して描き、「絵は手で描くものではなく目で描くものだ」と言っていたという。
全盲の画家は皆、途方も無いハンデを持っている。
盲目の画家ブランブリットという、全盲の画家として最もよく知られた画家の一人が居る。
ブランブリットは指先で触れることで、キャンバスの上の絵の具が何色であるかを理解することができるという。
事実、全盲であるブランブリットの絵画の色彩に乱れはない。
全盲ゆえの独特な色彩感覚から来る、別の色彩が絵画に表れているだけだ。
全盲の画家は日本でも何人かが名を知られており、それぞれが独自の技能を持っている。
彼らの多くは、指先を目の代わりとした。
ある者は指先で触れるだけでその絵の具の色を識別できた。
ある者は指先で尺を測ることで絵を組み立てた。
ある者は指先で描く物に触れ、それがどんな形であるかを知った。
この少年もまた然り。
目の細かいヤスリで指先をじょり、じょり、と削る。
余計な刺激を与えすぎてはいけない。
神経の鈍化や余計な皮膚の再生に繋がってしまう。
血が出るほどに削ってはいけない。
痛くなるからではない。痛いのはずっとそうだ。
血が絵に余計な影響を与えてしまわないよう、緻密に指先を削る。
指先の表皮0.7mmを正確に削り、角質層も合わせた1mm弱を削り落とす。
指先の鋭敏な感覚を"掘り出す"ような彼の作業を、少女はハラハラとした目で見つめていた。
少年は少女の様子に気付き、冗談めかした口調でヤスリと指先を差し出す。
「やってみるかい? ちょっと血が出るくらいの失敗ならわたしもかまわないよ」
「い、いいよ! 怖い! じんじょーじゃなく怖い!」
「ふふ、冗談だよ」
「……もうっ!」
少年は左手の人差し指、中指、薬指に絵の具のチューブから絵の具を乗せ、一度それらの匂いを嗅ぐ。
そしてそれらをパレットに乗せ、いくつかを混ぜ、少し油を加え、また匂いを嗅いだ。
その過程を興味深そうに少女が見つめている。
「わ、一回手に出すんだ」
「いつも出してる色ならチューブを押す力加減で色も分かるんだけどね。
今日はあまり使わない配合の色だから、出した量を指先で感じておきたいんだ」
「匂い……はそんなに違わないように感じるけど……」
「色ごとに少し違う匂いを入れてるんだ。
出した量が多すぎれば匂いが強くなる。
混ざった匂いの塩梅で出来上がった色が大まかに分かる。
ほら、気を付けて嗅げば、この三つの色は別々の香りがしているだろう?」
「わかんないよ!」
「あれ、ウマ娘の嗅覚は人間の1000倍と聞いてたけど……まあ嗅ぎ分けは慣れないと無理か」
苦労してるんだなあ、と少女は思った。
少年が左手の絵の具をウェットティッシュで拭き始めるが、目が見えない状態で手の感覚を頼りに絵の具をゆっくり拭き取っているのを見て、少女はハッとなる。
「あ、そこ拭いてあげる! そのくらいなら怖くないしね!」
「ありがとう。きみはやはり、やさしい子だね」
「えへへ」
少女が小さな手で見える汚れを吹いていく。
少年の手は、濃い絵の具の香りがした。
絵の表面をなぞるための掌の内側は磨かれたように――削られたように――つるつるとしていたが、手の甲の側はガサガサで絵の具の染みらしいものも多かった。
爪は短く切り揃えられていたが、それでも僅かな隙間に絵の具が沈着しており、針で掘り出そうとしても掘り出せなさそうなほど、肌に食い込んでいる。
少し太めな指は、誰よりも細かく指を使ってきたがゆえに筋肉が発達しているからだろうか。
綺麗な手ではないと、少女は思う。
目が見えなくても懸命にどこかを目指し続ける、欠陥品の画家に相応しい手であった。
「凄いボロボロなんだね。タコも凄いや。なんだかボクの足みたい」
「表面を削ってるのもあるけど、薬品や油でも荒れやすいからね。タコは職業病かな」
ありがとう、と綺麗になった手を小さく振って、少年は少女に微笑む。
声を頼りにして向けた微笑みは、少女の耳の横あたりを通り抜けて行った。
筆を執り、少年は色を絵に変えていく。
「器用に描くねー……本当に見えてないの?」
「細かいところは粗だらけだよ。
わたしの描き方はゴッホよりヴァン・アイクの流れを汲んでいるからね。
あとですこしずつ修正していくんだ。それでようやくきれいにできるのさ」
少年は速乾性の油に顔料を混ぜ、キャンバスに筆を走らせていく。
彼に筆は見えない。
盲目の人間にとって筆とは、自分が見えないところで勝手な動きをする細い暴君、それが数え切れないほど集まった暴れ馬だ。
筆の端の毛が絵の具を乗せたまま外に数本外れていただけでも、絵には取り返しのつかない瑕疵が付く可能性はある。
よって、盲目の人間には指だけで絵を描く者も居た。
それなら全盲でも想定外の一筆が刻まれることは無いからだ。
しかし少年は筆を使い、筆にしかできない表現を、全盲に許された方法で、キャンバスの上に刻んでいく。
ストロングメディウムやラピッドメディウムなどの早ければ数十分で乾燥する絵の具が、よく乾燥した冬の風によって乾き、少年の指先が絵の具の上をそろりと撫でる。
"思った通りに描けた"ことを確認した少年の筆がまた動いていく。
ウマ娘が走っている。
観客席の人々が声を上げる。
ウマ娘のトレーナーが応援で叫んでいる。
実況が語り、解説が語る。
数え切れないほどの音がレース場から溢れ、遠くで筆を握る少年の耳へと届く。
少年は音を頼りに想像でウマ娘のレースを絵に落とし込んでいく。
少女はもう自分に向けられないかもしれない声に耳を傾けている。
キャンバスの上に、想像上の景色が形を結んでいく。
少女は最近色々あって少し落ち込んでいた気分が、その絵を見ていくことで少しずつ上っていく実感があった。
「ねえねえ。なんでウマ娘の夢を見に行きたいー、なんて思ったの?」
少年の絵は、キラキラとしていた。
樹は緑ではなく赤。
それは彼の目が見えないから。
ルビーのような樹の下で、宝石の輝きを受ける人がいる。
空は青。自分の目で見たのではない、誰かから貰ったであろう、誰かが善意で「空はこんな色だよ」と彼に贈ってくれた色彩が鮮やかに輝いている。
現代における"実物のウマ娘"を知らないという彼らしく、ウマ娘が総じて現実離れした獣らしさを過大に備えていて、ウマ娘でもある少女はくすっと笑ってしまった。
現実のそれより獣っぽいウマ娘が総じて力強く、凛々しく、美しく描かれていたので、少女もなんだか悪い気がしない。
キャンバスに綺麗に落とし込まれたウマ娘達の内の何人か――ナイスネイチャなど――は少女の知り合いであったから、それが自分のことのように嬉しくなってしまう。
「真の芸術は、夢を見せてはいけない……そんな風に言われることがある」
「え? そうなの? あれ、じゃあセンセーこれ駄目な参考にしてない?」
"夢"を取り込もうとしていることが、彼の言葉からも、彼の絵からも理解できたから、少女は首を傾げた。
「うん、まあ、そうなんだけどね。『芸術のための芸術』、って言うんだけど」
「んんー?」
「"芸術は芸術のためにのみある"。
"他の何かのためにあってはならない"。
"芸術は教訓のためにあるのではない"。
"芸術は道徳のためにあるのではない"。
"芸術に実利と実用性は必要ない"。
"芸術は芸術のためにある"……だった、かな。そういう教えがあったんだ」
「ほへー」
少女は少年の描き途中の絵を見て、なんとなく彼の絵の性質を理解する。
彼と彼の絵に、一般的にイメージされる現代アートのような難解さは無い。
描きかけの絵を見るだけで伝わってくるものがあって、少し話せばそれだけで深奥まで理解できる、そういう分かりやすさがあった。
彼の絵は、ただ絵だった。
絵以外の何かではなく、何かのための絵ではない。
そこには絵しかなく、本来絵に落とし込まれる不純物が一切無い。
純粋で、透明で、透き通っている。
芸術のための芸術を極めた一枚は、何にも穢されていない形で完成されていた。
この世の幸せなものも不幸なものも、綺麗なものも醜いものも、何もかも、何一つとして見たことがない人間にしか書けない絵。
ぞわりとするくらいに、透明で透き通った印象の絵だった。
どんなに濃い色を使っても、どんなに複雑な絵にしても、どんなにインパクトが強いモチーフであっても、透明にしかならない。
そう確信させる、非現実的な美しさの宿る絵だった。
まるで、この少年の内面を映す鏡のような絵だ。
その絵の中で、場違いなほど力強く、ウマ娘達がその中心に立っている。
「わたしも永らくそういう考えで描いてたんだけど、少し心境の変化があってね」
「へ~。音楽性の違い! ってやつ?」
「それは違うかな……ある人はこの考えに対してこう言ったそうだよ。
『目的の無い芸術を評価できるはずがない』ってね。それもまた正しいんだろう」
「目的……ハッ! 分かった! ボク知ってる! バズりたいってやつだ!」
「ははは。それもまた正しいものかもしれないな」
「ありゃ。じゃあセンセーは違うんだね」
「うん。まあ、そうだね。……『人のための芸術』。それは、描いたことがなかったから」
19世紀初頭、真の芸術として、『芸術のための芸術』が提唱された。
江戸川乱歩の名前の元ネタであるエドガー・アラン・ポーの作品にも登場するくらい、それは世に広く普及した概念だった。
それに反抗し、トルストイ達が唱えたのが『人生のための芸術』であるとされる。
愛する者に贈る芸術。
誰かを勇気付けるための芸術。
子供達を導くための芸術。
生きているのが嫌になった人を救うための芸術。
かつてどこかにあった感動を誰かに伝えるための芸術。
愛する人に贈る絵も、子供達に大事なことを教える漫画も、かつてどこかで誰かを感動させた競馬の一戦をアニメにするのも然り。
そういったもの全てを包括して、『人生のための芸術』であるという。
この少年は、これまでの人生において、そういったものを、ただの一つも生み出したことがなかった。
誰かのために絵を創り上げたことがなかった。
だから、"そういうもの"を生み出すきっかけを求めて、今ここに居る。
「芸術の世界は全員に一等賞がある。
勝負の世界とは違う。
だれもが違うものを好むからね。
みんな違ってみんないい、が尊ばれる。
その代わりにどんな素晴らしい芸術家でも、『頂点』と呼ばれることはないんだ」
「全員が一等賞……」
「わたしたちは全員が一番になれて、誰もが一番にはなれない」
「!」
「ゴールはない。一番になって終わりというものはない。だから、描き続けないと」
完璧がない。
完成がない。
終着がない。
頂点がない。
勝敗がない。
それが芸術。
故障や負け続けることでレースを引退するのがウマ娘ならば、自分で自分の創作能力の劣化に耐えられなくなるまで、永遠にレースを引退しないでいられるのが創作者、芸術家である。
「センセーのそれ、どこで終わりになるの?」
「創作活動というものに終わりはない。多分、飽きるか、折れるか、自殺したら終わりかな」
「きょ、極端……」
立ちっぱなしで筆を動かす少年の横で、少女が尻尾をふりふりと振る。
「それで何が手に入るのさ。よくわかんないなぁ、げーじゅつ」
「欲しいものはあるよ。人によるだろうけど、少なくとも私にはね」
「そうなの? なぁに?」
「永遠」
「……えーえん?」
「そう、永遠」
筆は止まらない。
ビー玉のようだった太陽が、段々と光の塊になっていく過程を。
筆が振るわれるたび、キャンバスの中に世界が作られていく流れを。
魔法の杖のように見える筆が、描画という魔法を現に振る舞うのを。
少女は退屈する様子もなく、ずっとじっと見ていた。
「永遠を見つけたい……いや、創りたい。
永遠を残したい。
永遠にしたいものを見つけたい。
永遠に残るものにしたい誰か、なにかを探してる。
わたしが死んで、"それ"が滅びても、いつまでも残るなにかを……」
「ボクにはよく分かんないや」
「いいことだ。芸術に傾倒するのは大体変な人だからね。きみは変じゃないってことだ」
「そーなんだ……」
彼の絵の中で、ウマ娘達が力強く立っている。
その目で見ることもなく、実況と解説だけでそれぞれのウマ娘の姿を想像し、絵の中に落とし込まれたウマ娘達は、それぞれが本当の姿からかけ離れたものだった。
絵と現実で似ているウマ娘は一人もいない。
荒い気性のウマ娘は過剰に大きくたくましく描かれ、黒い刺客と呼ばれたウマ娘は殺し屋のように恐ろしげに描かれ、王者のように語られるウマ娘は王の如く絢爛に描かれている。
彼は目が見えないからだ。
ここに描かれたのは現実を元にした幻想。
現実を模したものはない。
それでも、絵にされて、誰かがその絵を大切にしたら、『永遠』になるのだろうかと―――少女はふと、美術の教科書という永遠の記録を思い出して、そう思った。
「ふう」
少年は筆を置いて、伸びをする。
ただ背伸びをしているだけの人間を見て"倒れたら大変だ"と思ったのは初めての経験で、少女はちょっと戸惑った。
少年は手探りで荷物の中から薄いキャンバスを取り出し、先程まで描いていた描きかけの絵とは違う、完成された絵が描かれたそのキャンバスを、少女に手渡した。
「今はこんなものしかないけど、これですこしお願いしたいことがあるんだけど、いいかな」
「ええっ!? 貰っていいの!? あ、何か頼まれ事か。何してほしいの?」
「またどこかでたまたま会った時は、わたしとお話をしてほしいのさ」
「……え、そんなことでいいの?」
「わたしが見えていない段差をきみに教えてもらったりするかもしれない。必要なことさ」
「そのくらいならいいよ! 目が見えない人が一人で歩いてるの、危なっかしいもんね」
「ありがとう」
少年がふわりと微笑み、少女が微笑みを返す。
少女には見えて、少年には見えない。
笑顔の交換が成立しない、一方的な笑顔のやり取り。
少女はいつも笑顔で、少女の笑顔に周りの人は皆自然と笑顔になっていって、この少女の周りでいつも皆が笑っていた。そういう人生を長らくこの少女は生きてきた。
だからこういう人間は初めてで、少しやり辛さを感じていた。
自分の笑顔を見てもいない者が、ずっと自分に微笑みかけている。
やり辛くはあったが、同時に心地良くもあった。
彼の微笑みは自分の笑顔が返ってきたものではない。
少年の透き通った微笑みが、少女は嫌いではなかった。
少年は遠くのレースを眺め、耳を傾け、その熱気を感じている。
眼が見えていようと見えていなかろうと、目には見えなくて、肌で感じられる熱の渦。
「いい場所だ。わたしは初見だけれども、これが夢の熱というものなのかな」
「そうだよ。皆の中から出てきて、ここに集まって、ぶわーって爆発してるんだ」
少年は初めて知る熱気に心浮き足立ち、少女はよく知る熱気に心落ち着かせている。
その熱が絵に少しずつ入っていくのを、少年の一番近くで少女が見ている。
ここは新しい"人生のための芸術"が生まれる瞬間を眺められる、とっておきの特等席。
「皆、みんな、夢を駆けてるんだ。勝つために。勝利のその先に行くために」
少女が何気なくこぼした言葉が、そこに込められていた複雑な感情が、耳を傾ける少年の心に不思議と引っかかっていた。