目無し足無し夢も無し 心を救う永遠の帝王   作:ルシエド

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「幸福とは 心が充たされること」

「わたしにとって、人生でいちばん大切なことは、心の充足です。
 与えられた運命、自分が置かれた環境に満足して生きることです」

   ―――ターシャ・テューダー


20 ランゲージ・オブ・フラワーズ

 少女は、寮の同室のマヤノトップガンに「いつまで服に悩んでるの……?」と呆れられるくらいの準備時間を費やし、おめかしして出立した。

 少年はリスクマネジメントの観点から早くに出立して館を下見し、それを"楽しみだったから"と六割ほど本当のことを混ぜて言い繕っていた。少女に無駄に気遣わせたくなかったからだ。

 が。

 実際のところ、デートが楽しみすぎて早く来すぎてしまうというのは、彼ではなく彼女の方がやらかしやすい案件であった。

 

 この日、少女がそんなに早く出立しなかったのは、一つ不安があったからだ。

 

「……ボクが待ってる間に、センセーがどこかの道で倒れてたりしたらどうしよう……」

 

 少女が先に行って、うきうきした気持ちで少年を待って、そうして楽しい気持ちで待っている間にもし彼がどこかで倒れていたら……そう思ったらもう、先に行って待っているという選択肢は存在しなかった。

 一度でもそう思ってしまえば、楽しい気持ちで彼を待つことなどできないから。

 

 少女は彼女なりに考え、電車が一本遅れればギリギリになるくらい、限界まで遅く出立した。

 

 仮に、彼が少女より先に出立したとする。

 そして道中で倒れたりしたとする。

 電車やバスの中で倒れたなら誰かが病院に連れて行くだろう。

 最悪になるのは、誰にも発見されず道端や路地裏で転がっているパターンだ。

 

 なら、遅刻しない程度に確実に少年より後に出て、注意深く見渡しながら行けばいい。

 どの交通機関を使うとしても、乗り物を降り、この大通りを行くのが展覧会への最善の道。大通りと脇道を注意深く見ておけば、少年に万が一があった時のケアが可能だ。

 

 デートの待ち合わせに向かう時と言えば、普通はどちらが先に着いているか、どのくらい相手を待ったか、どんな気持ちで行くか、などが重要である。

 だがその日、彼女にとって最も大事だったのは、彼と同じ道を選ぶことと、彼より確実に遅くに待ち合わせ場所に向かうことだった。

 

 何もなければよし。

 何かあれば、運が良ければ自分が助けに行けるかもしれない。

 少女はそう思い、楽しみで仕方ない気持ちをぐっと堪えて、少し遅めに出立したのである。

 

 美術館に向かい、道中"もしセンセーが倒れてたら"と考えながらキョロキョロ、キョロキョロ、忙しなく首をあっちこっちに動かしていく。

 デートに出発する前は一人のことばかり考えていて、デートに向かう途中も一人のことばかり考えていて、デートが始まれば、きっとずっと一人のことばかり考えているだろう。

 そして、少女は気付いた。

 

「……ああ、ボク、本当に最近ずっと、センセーのことばっかり考えてるなあ……」

 

 まだ一度も足を折っていなかった頃、寝ても覚めても夢のこと、レースのことを考えていた。

 今も同じように、寝ても覚めても、一人のことだけを考えている。

 いつの間にか自分の中で『それら』が同じくらい大切なものになっていたことに、少女はふと気付いて、紅潮する頬をぱんぱんと叩いた。

 

 一途で、真っ直ぐで、ひたむきで、純情で、愛情が強い。

 そんな少女だから、一度好きになれば本当にとことん好きになる。

 レースも。

 夢も。

 彼も。

 その熱量が、いつも少女の前に降りかかる『絶望』に立ち向かう力になってくれる。

 

「あれ」

 

 道中で少年を見つけなかったことで、少女はちょっとひと安心。

 さあ中で彼に会おう、と美術館の受付まで入ったところで、知った顔を見つけた。

 

「マックイーン!」

 

「あら……ごきげんよう。こんな所で珍しいですわね、美術館に何かご用ですか?」

 

「えっ……え、えと、友達に誘われて、その付き合いで。マックイーンは?」

 

「野暮用、というやつですわ。少々芸術を拝見させて頂いていましたの」

 

「へー、やっぱマックイーンってたまに本物のお嬢様みたいだよね」

 

「たまに? みたい?」

 

 入学当時確かに存在したはずの、マックイーンを教養豊かでお堅い高嶺の花なお嬢様だと思っていたウマ娘は、既に学園から絶滅していた。

 

「今、帰るところだったのですが……

 これも縁ですわ。少しばかり同行して、案内してさしあげましょう」

 

「んー。ちょっとだけだよ? このボクが同行を許そう!」

 

「ふふ。こんな場所を貴女と回るなんて、想像もしていませんでしたわ」

 

「ボクもだよ。そもそも、こういうところあんま興味無かったのもあるけど」

 

 小なり大なり減らず口。なんでか出てしまう挑発的な言葉。相手から自分に向けられる友情、気遣い、親しみを分かっているのに、分かっていないようなふりをして会話する。

 それが、いつものこの二人。

 友達以上と迷いなく言える、仲間でライバル。そんな関係。

 

「貴女を誘うなんて、どんな方ですか?

 トレセン学園には芸術に興味がある方は多くなかったと思いますが」

 

「え゛っ……す、スペちゃんだよ!」

 

「あら……意外ですわね。

 貴女同様に色気より食い気のスペシャルウィークさんが?

 食べられない一億の名画より五千円の食べ放題を選びそうなあの人が……?」

 

「な、なんか、ネットで芸術がダイエットにいいみたいな記事見て興味出たんだって~」

 

「そうでしたの。

 ……あいちトリエンナーレが掲げていた『アートダイエット』を何か勘違いしたのかしら」

 

 なまじ教養があったのと、基本的に人を信じる性格なのもあって、マックイーンはとりあえず素直に信じる。

 

 少女は、反射的に嘘をついてしまった。

 特に嘘をつく理由はない。

 やましいこともしていないし、悪いこともしていないのだから。

 それでも、少女は嘘をついた。

 隠したいこと、知られたくないこと、言いたくないことがあったからだ。

 

 そうなった場合のマックイーンの言動を、少女は正確に予想できていた。

 まず「まあ! 貴女にそんな人が!」と驚く。

 続いて何を言っても「ええ、大丈夫、分かっていますわ」と深読みと邪推をする。

 そして「(わたくし)にも紹介してくださいませ」と言うだろう。

 それが、どうにも、なんとなく、ぼんやりと、嫌だったのだ。

 

「……」

 

「どうかなさいました? (わたくし)の顔に何かついてますか?」

 

「な、なんでもないよ」

 

 少女自身にも明確には自覚されていない、意識と無意識の境界にある想いが、嘘をつかせた。

 万が一。

 億が一。

 兆が一。

 もし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という―――不安と言うには甘酸っぱくて、嫉妬と言うには無垢すぎて、警戒というには穴だらけの気持ちがあった。

 

 少女は彼とマックイーンの両者をよく知り、よく理解していた。

 なので分かる。

 彼とマックイーンは、話せば話すほど仲良くなるタイプの相性抜群だ。

 おそらく、十度会えば親友になれる。

 そのくらいには相性が良い。

 それは彼女が理解しているただの事実であるが、彼女は事実を理解しつつ、不安を抱いて邪推してしまう。

 "その先まで発展してしまうのではないか"、と。

 

 少女は、マックイーンを多大に評価している。

 だから思ってしまうのだ。

 「マックイーンは美人だし」「美人なだけじゃなくかっこいいし可愛げもあるし」「たまーに隙や弱さを見せるのがずるいよね」「普段強くてかっこいい感じだから尚更」「面白い美人のお嬢様って男の子にモテるやつじゃん」「走ってる姿が凄いんだ、皆見惚れるから」「おうちがあれだからレースの外でもファン増えるんだよねマックイーン」「すごいんだよマックイーンは」「ボクが男だったら女のボクよりマックイーンの方を好きになってると思う」―――なんて。

 

 センセーがマックイーンを好きになっちゃうかも、という不安があった。

 それはとても子供らしく、甘酸っぱい気持ち。

 それは嫉妬というには、あまりにもマックイーンへの悪意や敵意がなかった。

 "ボクをさしおいてマックイーンに恋することもある、というかそれが普通かも"という、マックイーンへの高評価が生む納得さえあった。

 

 そのくせ、警戒は適当にもほどがある。

 その場限りの先送りにしかならないようなこんな牽制に、何の意味があるのか。

 マックイーンがちょっと疑問に思えば、こんな嘘はそこで終わりだ。

 本当の恋愛上手なら、もっと上手く彼とマックイーンが知り合わないよう、知り合っても彼と付き合わないよう、もうちょっと上手い牽制をするだろう。

 

 焼き餅はある。

 嫉妬はない。

 尊敬はある。

 劣等感はない。

 

 そんな、混ざり混ざった、淀みなく人間味に溢れた春風のような気持ち。

 ここに生来の負けず嫌いが混ざることで、彼の存在をマックイーンに教えたくないという、少女の気持ちが出来上がる。

 

 他のウマ娘だったらこんな心配はしていない。

 実際、スペシャルウィークには全て話して、長話でスペシャルウィークをぐったりさせていたのだから、他のウマ娘には普通に少年のことを話せるのだ、この少女は。

 マックイーンだから言えない。

 「スペちゃんなら大丈夫」という気持ちがある。

 「マックイーンなら、センセーも好きになっちゃうかもしれない」という気持ちがある。

 マックイーンを信じていないからではなく、マックイーンの魅力を信じているから、マックイーンを尊敬しているから、不安になるのだ。

 

 メジロマックイーンは、いついかなる時でも、この少女にとっての特別である。

 

 その特別は、特別な相手だから負けを素直に受け入れられる、という意味での特別ではない。

 『特別な相手だから負けられない』という意味での特別だ。

 レースの一番はボクだ、と少女はいつもマックイーンに張り合ってきた。

 今は、『センセーの一番はボクだ』という気持ちで張り合っている。

 恋に負けず嫌いが混ざるのが、彼女の抱える子供っぽさ、少女性であると言えるだろう。

 

 "とりあえず後でスペちゃんに口裏合わせておいてもらわないと"、と少女は思った。

 

 こういう時、一切警戒されないのもまた才能である。

 持ち前の善良さや素直さで、どんなウマ娘の恋人と二人で歩いても誤解されることがない。

 少女がマックイーンほど警戒せず、彼のことをバリバリ話せる。

 スペシャルウィークは、そういうウマ娘であった。

 

「ボク待ち合わせがあるからあんまり一緒に居られないんだよね。

 ぱぱーっと、マックイーンの一番のオススメだけ見に行って紹介してみてよ」

 

「そうしますか?

 一番のお勧め……そうですわね。

 歴史に名を残す画家の一品もありますが、今日は奇縁もありましたし、そうしますか」

 

「?」

 

 今回の展覧会は当たりで、マックイーンが一番のお勧めに選べるものはとても多かった。

 

 マックイーンはその中から、ちょっとした気まぐれで一番のオススメを選んだ。

 

 "これも何かの縁ですわね"と、『彼』のことを宣伝するくらいの気持ちでそれを選んだ。

 

 少女は『彼』のことをマックイーンに知られないように嘘をついたが、マックイーンは『彼』を少女に知ってほしいと思い、その絵の前に連れて行った。

 

「これが、今回の展覧会における(わたくし)の一番のお勧めになりますわ」

 

「……え」

 

「タイトルは『想いを育てるもの』。作者名はその下に描かれていますわね」

 

「これ……」

 

「一際目立つでしょう?

 上手いから信じられないでしょうけども、これは目が見えない方が描いたのですよ」

 

 マックイーンが一番のお勧めと言って連れて行った、そこには。

 

 とても見慣れたタッチで描かれた、少女がよく知る色彩の絵があった。

 

「……ね、マックイーン。この絵、どこがどうすごいの?」

 

(わたくし)の解説を聞かずとも、横に簡易な説明文がありますわよ」

 

「マックイーンから聞きたいんだ。マックイーンの目にどう見えたのかが聞きたいんだよ」

 

「そうですか。では、(わたくし)なりの解釈になりますが……」

 

 それは、太陽と花の絵だった。

 太陽を、太陽よりも上から見下ろす神の視点で、太陽に照らされる花々を描いている。

 花々は不思議な模様の石らしきものに囲まれ、整理されている。

 花は一本一本が別々の種類で、普通の絵画であれば組み合わせられないものも隣り合って配置されており、されど画力で互いに引き立て合っているように見える。

 

 真に優れているのは、モチーフの選択ではなく、構図だった。

 この絵を見た時マックイーンは、初めてコミックの遊戯王のコマ割りを見た新人漫画家のような驚愕と感動を覚えた。

 『自分の視線が誘導されているのは分かるがどういう計算でこの構図を作っているのか、まるで分からない』という驚愕と感動。

 太陽と、花と、模様を刻まれた石と、それらの間を埋める背景。

 それらがあるのは分かるのに、どういう間隔でこの絵の構図を作っているのか、マックイーンにはまるで分からないのである。

 

 分からないなりに、マックイーンは言語化を始めた。

 

「絵には情報量が多い部分ほど目を引く、という性質がありますわ」

 

「そなの? じゃあいっぱい描いた方が得なのかな」

 

「描き込んだ数イコール情報量ではありませんわ」

 

「あれ?」

 

「一例ですが、繊細に描き込んだ背景は、

 『素晴らしい風景』

 というぼんやりした印象を残します。

 しかし、一見した情報量は多くありませんわ。

 背景がまっさきに目を引くということもあまりなく、中心に置かれた人間がまず見られます」

 

「なるほど~」

 

 "見た人が素直に感じたものが、わたしの作品の全てだよ"と少女に言い、自作について長々として解説をしないあの少年に対し、マックイーンは素晴らしいものは出来る限り言語化しようとする者であった。

 

「ただし、これは目が見える者の常識ですわね」

 

「んん? 目が見えないからそういうルールに縛られてないとか?」

 

「逆ですわ。

 おそらく作者は、その常識をまず真っ先に理論的に学習したのです。

 知らない世界を。

 見えない視線誘導を。

 目が見える者の感覚を。

 そして、感覚的な自然誘導作り0の、完全に理詰めの視線誘導を構築した」

 

「……それって、すごいの?」

 

「ええ。それはもう。

 もっとも作者の過去の絵を見る限り、最近になって飛躍的にこの技術が伸びたようですが」

 

「……」

 

 死の間際になってようやく、彼がこれまで積み上げてきた技術が噛み合い、新たな領域へと届こうとしている。

 それを、少女は知っている。

 

「まるで、人を学んだエイリアンのようですわね。あ、褒め言葉ですわよ?」

 

「エイリアン? なんで?」

 

「人を知らず、人に共感できず、人の気持ちも分からない。

 そんなエイリアンが、理詰めで人間を研究し、人よりも人に詳しくなる。

 ……そんなSF映画のようだと感じますわ。

 見えない人間が、見える人間の視線の動きを研究し、視線誘導を極める。

 そして、見える人間よりも、見える人間に見えているものに詳しくなる……」

 

「ああ、なるほど。確かにこれ、ちょっと怖いのかもね」

 

「怖気がする出来ですわ。ここ一ヶ月ほど、この作者の絵の評価は上がりっぱなしですわね」

 

 ちらっと見た時、ほぼ全員が同じ一つの花に目をやる。

 続いて、ほぼ全員が同じ順番で一つ一つ花を見ていく。

 見て抱く感想はそれぞれ違う、が。

 ほぼ全員が、"最後の花"が太陽に向かって咲いているのが特に印象に残る。

 その『ごく自然に在るありえない異様さ』が、この絵の持つ力を示していた。

 

「なんか……すごく胸に響くな……なんでこんなに、ボクに響くんだろう……」

 

「花言葉はご存知でしょうか?」

 

「花言葉? ……もしかしてこの花、何かのメッセージになってるとか?」

 

「察しが良いですわね。この手の作家を他に知っていたりしましたか?」

 

「……い、いやー、初めてだよ。続き続き! どうぞ!」

 

「この花々の花言葉こそが、この絵の本質、心臓と言ってもいいでしょう」

 

「へー、そうなんだ」

 

「多少意訳と、流れを汲んだ花言葉の選択があると思いますが……」

 

 少女とマックイーンには違う世界が見えている。

 教養の差が、違う世界を見せている。

 この絵もそうだ。

 教養の差と、この絵を描いた少年が"誰に向けて描いたか"という要素が、少女とマックイーンにまるで違う絵を見せていた。

 

 花言葉がなんなのさ、と少女はたかをくくって耳を傾ける。

 

「ハーデンベルギアの花言葉は『運命の出会い』。

 視線誘導を計算して、最初に目に入るようにしてますわね。

 最初に相応しい花だと思いますわ。

 そしてそこから、流れるように視線が誘導される花々の流れ。

 アザレアの花言葉は『恋の喜び』。

 アカシアの花言葉は『秘密の恋』『気まぐれな恋』。

 シロツツジの花言葉は『初恋』。

 ふふっ、恋愛小説のような、生まれたての恋の繊細な初動を感じますわね」

 

「―――」

 

 少女が、息を呑む。

 

 マックイーンのちょっとした解説で、絵の見え方がぐるりと変わる。

 

 絵を見直した少女は、何故か出会ってすぐの頃の、彼との日々を思い出した。

 彼と出会ってから、彼に青いウマ娘、フランツ・マルク、エリック・カールたちのことを教わるまでの日々。

 彼にとって自分が特別で、自分こそが『彼だけの青いウマ娘』なのだと知るまでの日々を、なんでか思い出した。

 

「イベリスは『心を惹きつける』『細やかな人情』『初恋の思い出』。

 ここで花の選びに少し変節を感じますわ。

 初恋の花から、初恋の思い出の花への切り替え。

 何かの心境・認識の変化を現したのでしょうか?

 椿は『恋しく思う』ですが、赤椿なら『控えめな素晴らしさ』。

 まるで、一目惚れの後に、その人物の素晴らしさを知ったような――」

 

 少女自身にも、わけが分からない。

 分からないけれども。

 本能が理解できないまま連想して、記憶を蘇らせる。

 

 少女が少年のことを『友達』と呼んで、少年が「本当に嬉しいなぁ」と言って、少女が「夢見ちゃおう!」と言った日から。

 初めてのウイニングライブに行き、互いの夢がとっくに終わっていること、少年が未来に夢見られないこと、少女が再び夢の舞台を目指すことを決めたこと、それを語り合った夜まで。

 思い出が、蘇る。

 

「――いえ、これは深読みのしすぎかもしれませんわね。

 そして、ナンテンの『私の愛は増すばかり』。

 オドントグロッサムの『特別な存在』。

 ヒヤシンスの『心静かな愛』『悲しみを超えた愛』『どうか許して』。

 ホテイアオイの『揺れる心』『恋の悲しみ』。

 このあたりをひとところに固めて置いているのは、きっと偶然ではないでしょう」

 

 そして、海に行こうと決めて、海に行って、忘れられない思い出を作って、幸せなまま帰ろうとして……南青山の三浦に見つかって、真実を知った日のことを、思い出させられる。

 

 この花々は、彼の心そのものだ。

 初恋。

 愛する想い。

 恋や愛を抜きにしても、誰か一人を心底尊敬する気持ち。

 恋の過程で得た変化、感情、そして罪悪感。

 一つの太陽を見上げ、全ての花々(きもち)がすくすくと成長している。

 己の心を、言語化して口に出すのではなく、絵という形に出力して、キャンバスという水面に映し出したのがこの一枚なのだろう。

 

「花の色や種類、画調で示される花言葉が、既に一つの物語。

 この花畑が示す物語は、きっと途中まで、悲恋が前提だったのでしょうね……」

 

「……」

 

「悲恋の理由までは分かりません。

 推測はできますが、作者の個人情報なので、そこは隠しますわ」

 

「そこはいいよ、うん。ボクも分か……推測してみるから」

 

「そうですか。続けますわね」

 

 少年の特大の恋愛感情と、その裏に隠されていた途方も無い罪悪感を改めて知り、少女の胸の奥がきゅぅっと締め付けられる。

 マックイーンに見えないよう、少女は服の裾をぎゅっと握り締めた。

 

「そして、最後の五本。

 少し間を空けてまとめられたこの五本。

 これこそが、この絵を描いた作者の方にとって、今もっとも大事な部分でしょうね」

 

「もっとも大事な部分?」

 

「ええ。

 ブルースターは『幸福な愛』『信じ合う心』。

 これは、悲恋と罪悪感を振り切った気持ちの主張。

 ブッドレアは『あなたを慕う』『私を忘れないで』。

 これは、おそらく作者の願い。

 ラナンキュラスは『晴れやかな魅力』『輝かしい魅力』『魅力溢れる』。

 誰かに対する、熱烈な称賛の愛。

 パンジーは『慎ましい幸せ』『私を見て』。

 誰かと過ごす日々の中、作者が感じているもの、思っていること。

 そして、エキザカムの『あなたを愛します』『あなたの夢は美しい』。

 この愛の花言葉の物語の最後は、愛の言葉と、夢を応援する言葉で終わるのです」

 

「―――あ」

 

「恋と愛。

 この二種の花言葉こそが、この花の物語に一括するテーマですわ。

 その中で、花の花言葉ごとのイメージを上手く合わせ、己の人生を……

 そう、作者の誇る人生を描いているのでは?

 それが(わたくし)の解釈です。

 どこかで夢を追う誰かと出会ったのかもしれませんわね。

 最後をエキザカムで締めたのは、その人が夢を追うのを応援する気持ちを感じます」

 

 マックイーンの解説を聞いている間、少女の心は、ずっと震えていた。

 叫び出したい気持ちがあった。

 泣き出したい気持ちがあった。

 今ここに絵の作者である少年が居たら、少女は抱きついて、抱きしめて、胸の奥から溢れてくるこの気持ちを全て、言葉にしてぶつけていたかもしれない。

 

「花の本数、種類は、15本。狙ったのか、そうでないのか分かりませんわね」

 

「え、本数にも何かあるの?」

 

「ええ、もちろん。恋愛題材で花と来て、このあたりの本数なら、12本が理想ですもの」

 

「12本……?」

 

「本数の花言葉、というものがあります。

 聞いたことがありませんか?

 バラは本数で伝える言葉の意味が変わる、と」

 

「あー、なんかマヤノがそんなこと言ってたような……」

 

「あれはバラ以外でも同じ本数なら似た意味、同じ意味があるのですけどね。

 とにかく、本数自体に意味があるのです。

 プロポーズ、最上の愛を告げるなら、12本が基本です。

 海の向こうの本場のウマ娘レースが行われる国でも、愛を奉るならば12本が基本ですわ」

 

「へー。あ、じゃあじゃあ、15本にも特別な愛の言葉があるとかそういうやつ」

 

「……いえ」

 

「?」

 

「いい意味が繋がっているのは14本目までです。

 15本の花が持つ意味は『ごめんなさい』。15本が示すのは、謝罪の意ですわ」

 

「……え」

 

「この絵には、一貫して愛と恋があります。

 同時に、好きになったその人への謝罪も。

 一体、何が彼の気持ちを支配しているのか……」

 

 少女には分かる。

 少女にだけは分かる。

 マックイーンに解説されていなければ、少女にもその深奥は理解できなかっただろう。

 少年も、少女がこの絵を本当に理解できるとは思っていなかったに違いない。

 

 この絵を理解するためには、令嬢たるマックイーンレベルの教養と、この世で唯一彼が己の心に踏み込ませた一人の少女の二つが要る。

 その二つが揃わなければ、この絵を理解することはできない。

 

 幸せにしてあげたいと、少女は強く強く拳を握る。

 幸せにしてあげたいのに、死から救うこともできないと思うと、握った拳がゆっくりほどける。

 謝らないで、と彼に言っても、彼は心の中で謝ることをやめることはないだろう。

 ただ、彼女に気を使わせないために、優しく微笑むだけだ。

 

 幸せにしてあげたいと、少女が思っていて。

 この絵を見れば一目瞭然なほど、少年は今幸せなのに。

 少女は泣き出したい気持ちを抑えるのに、いっぱいいっぱいだった。

 

「この絵の作者はこう言いたいのではないでしょうか。

 『この気持ちは、全てあの太陽に育てられたもの』だと。

 この花々こそがこの絵の心臓。

 花々全てが、『あの太陽を愛した気持ち』の象徴ですわ。

 あるいは、花の一つ一つが何かの思い出の象徴かもしれませんわね」

 

 絵が、言葉よりも如実に、言葉にし難い気持ちを形にしている。

 

「この太陽は、人生の中で見つけた希望の象徴……

 物か、人か、あるいは抽象的な何かか。

 とにかく、何かであることは間違いないと思います。

 (わたくし)は誰か、大切な人の象徴だと思っていますが……

 実際のところは分かりませんわ。家族か、恋人か、あるいは片思いの相手か」

 

 彼は想っているのだ。ずっと、ずっと。

 

 死ぬまで、想っている。あるいは、死んでも。

 

「全体としてイスラム調の印象を受けるのは……

 花に添える花壇の煉瓦の代わりに、アラベスクを入れ込んでいるからですわね。

 精神の美を示す幾何学模様。

 "世界は完全で美しい"と示すための美術文様。

 イスラム美術圏における最上の美の表現。何を讃えているのかしら。

 そういえばテイオー。

 テイオーが好んで時々しているバレエの片足立ちも、アラベスクという名でしたわね」

 

 たとえるならば、これは。

 

 『書いたけどあまりにも恥ずかしくて机に隠した』ラブレターだ。

 だから少女は見たことがなかった。

 だから少年は少女に見えないところで描き上げ、画商に任せて売ったのだ。

 この世でただひとり、マックイーンの解説を得たこの少女にだけ分かる。

 これは、展覧会に晒し上げられたラブレターである。

 

 少女にデートに誘われた先で、売り払ったはずのこれが飾られているのを見た少年は、果たしてどんな気持ちだったのだろうか。

 

 少女はちょっと、笑ってしまった。

 

「ふふっ」

 

「? この絵に笑うところがありましたか?」

 

「ちょっとね」

 

 少女は絵の全てを知って、ふぅと艶めかしい息を吐き、一歩下がって、絵を眺める。

 

 絵のタイトルの下に、この絵を描いた少年の名前が刻まれていた。

 

「……センセー、そんな名前だったんだ。いい名前じゃん」

 

 そうして。

 

 少女は、彼の名を知る。

 

 感情の爆発が情緒をかき混ぜる心の一部と、何も考えずに素直に絵から感情を受け取っている凪のような心の一部を両立させながら、少女は叫び出したい気持ちと、静かにこの絵を眺めていたい気持ちが、己の中で共存していることを感じ取る。

 

 絵に夢中になっている少女に、横合いからマックイーンがお守りを差し出した。

 

「その作者の方に協力していただいて、御守りを一つ作りました。受け取ってくださいませ」

 

「お守り?」

 

「貴女がどうか、無事に……いえ」

 

 マックイーンもまた、彼の影響を受け、少女にかける言葉を変える。

 

「復活した貴女がグラディアトゥールを超える者と成ることを、願っていますわ」

 

 少女はきょとんとして、にこっとして、お守りを受け取った。

 

「よくわかんないけどありがと! グラディアトゥールってなんだっけ?」

 

「……学園の授業でも触れたでしょう!?

 というか、テストにグラディアトゥールが出た時、貴女100点取っていたでしょう!?」

 

「あははっ、そうだっけ?」

 

「天才肌はこれだから……いいですか、グラディアトゥールというのは―――」

 

 マックイーンの講釈もなんのその。

 少女は特に後悔も、気にした様子もなく、マックイーンの話はちゃんと聞きつつ、無邪気に明るく笑っている。

 またふとした時に忘れるのでしょうね、とマックイーンは思った。

 

「うん、分かった。ちゃんと覚えておくよ」

 

「もう忘れてはいけませんよ?」

 

「分かってる分かってる! マックイーンの言ってることはちゃんと覚えてるよ」

 

 にこにこして、少女はマックイーンのお守りをかばんにくくりつけ、マックイーンに向け無邪気なピースサイン。

 

「だって、マックイーンは大切なことばっかり言うもんね!」

 

 この明るさに。

 この無邪気さに。

 このまっすぐさに。

 

 何度救われたか、分からないから―――彼女にはいつも笑っていてほしいと、メジロマックイーンは、心の底から思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、おはよーセンセー!」

 

「やあ、お嬢さん。はやかったね」

 

「時間ぴったりだよ? っていうかセンセーの方が早いじゃん!」

 

「きみと会うのがたのしみすぎて、はやく来すぎてしまったんだよ」

 

「……えへへー、それなら仕方ないかなー、次からはボクの方が先に来るからねっ!」

 

「何を張り合ってるんだ何を」

 

「会うのが楽しみゲージの大きさ! 絶対ボクの方が大きいから!」

 

「ふふふ。なんだい、それは」

 

 そうして。

 

 マックイーンと別れた少女は、一番大きな絵の前で、少年と合流する。

 

 楽しいデートの始まりだ。

 

「実はここ、わたしの絵が飾られてるんだよ」

 

「あー見た見た! もう見ちゃった! びっくりした!

 もー、センセーあらかじめ言っといてよ! びっくりするじゃん!」

 

「びっくりさせたかったんだよ」

 

「センセーはさぁ!」

 

 あっちに行ったり、こっちに行ったり。

 

 今日のために少女が練りに練ったデートプランが火を吹いた。

 

 デートの前の準備は万全。心の準備は不完全。

 

 ドキドキしながら、彼と美術館を楽しく回る。

 

「三周くらいゆっくり回ろうよ! センセーの解説聞きながら回りたいな~」

 

「いいね。ベクシンスキーの所謂『三回見たら死ぬ絵』もあるらしいから、ちょうどいいかも」

 

「ちょっと待って!?!?」

 

「ふふふ」

 

 途中、美術館が置いていたノートを見つける。

 

 『ご自由にお書き下さい by 館主』の言葉と共に、たくさんのイラストや芸術画が、所狭しとノートに書き込まれていた。

 

「センセー! 屍骸だよ屍骸!」

 

「こういうのを優美な屍骸に数えて良いものなのか、ちょっとわからないけどね」

 

「描く? 描いちゃう?」

 

「描いちゃおうか」

 

「よーし! いくよセンセー師匠!」

 

「先生師匠とはいったい」

 

 二人してボールペンを握って、熱々カップルしかしないような、二人で二キャラ描いて仲良く手を繋いで歩かせるというお遊びをしたりして。

 

「うわあなんかめっちゃデブなウマ娘がいる! なにこれ!?」

 

「……性癖かな……」

 

 ルノワールとかいうデブ専の絵に、びっくりしたりして。

 

「あはははっ!」

 

「ふふふ」

 

 楽しい時間を。

 

 幸せな時間を。

 

 かけがえのない時間を。

 

 二人で過ごした。

 

 一生の思い出になるくらい、楽しい時間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 大病院から、少女に連絡があった。

 

 曰く、救急車で緊急搬送されて来た患者が、意識が無いままこの電話番号を連呼していたと。

 その患者は現在、集中治療室で治療中だと。

 患者は気力だけで生きている状態で、気力が切れればすぐに死にかねないと。

 だから、急いで来てください、と。

 親しい方の声が生きる力になるかもしれないから、どうか、と。

 

 電話の向こうの看護婦が、そう言っている。

 

 頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなって、少女は寮を抜け出し、走り出した。

 

 

 

 

 

 




■■■■には花言葉、あるいは花言葉に近似した彼の気持ちが入っています

https://twitter.com/Aitrust2517/status/1413452987461107716
https://www.pixiv.net/artworks/91123704
碑文つかさ様から支援絵をいただきました。ありがとうございます

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