「失敗して利口になる。挫折して強くなる。人生に無駄はないんだな」
―――荒了寛
彼が倒れる、一日前。
美術館でデートをしながら、二人は様々な絵を眺めていった。
「センセー! 見て見てアレ! 青しか使ってない絵! よくわかんないげーじゅつだ!」
「ちょっと待って、これは触れて良いものかな。
うん、触れていいものだ。
……単色系だね。
現代アートだと白しか使わない絵とかも多いけど……
これは……そうか。
触れて盲目の人にも分かるようにしてるから、凸凹がハッキリしてる。
その上でそれを活かして、遠近感の演出を……"遥か彼方の青"を表現したのかな」
「どゆことー?」
「青はね、絵の中に"遠くにある印象"を作るんだ。
遠くにあるものはかすかな青で表現するんだよ。
でも、これは逆かな。
『遠くのものを青で表現する』んじゃない。
『青は遠くにあるものだ』という意図で、遥か彼方の青を表現してるんだと思う」
「そうするとどうなるの?」
「青は遠く彼方に在り、手の届かない価値ある高貴……
そういうものだって言いたいのかも。
三原色にあたる色彩の定義見直しを訴えかけるタイプの現代アートかな? たぶん」
「ほへー、色んな青があるのですなー」
青だけで作られた、青を魅せ、青を再解釈させるために在る、青の絵画。
少年は興味津々に絵を探っていたが、その手にぐりぐりと少女の頭部が押し付けられる。
少女の長い髪は髪留めでポニーテールにまとめられ、髪留めをぐるりと巻く形で、彼がプレゼントした青いスカーフが巻かれている。
青い絵を手先で見つめる彼の手に、青いスカーフが押し付けられて、「こっちを見ろ」という可愛らしい無言の圧力がかかる。
さりげない(さりげなくない)少女のアピールに、少年は温和に微笑んだ。
「ま、センセーの青いウマ娘はボクだけだけどね!」
「……ふふふ、そうだね」
「この青は遥か彼方じゃないから手が届くよ。よかったね、センセー」
"ボクをほっとくなよー"という声無き声が、口に出さずとも聞こえてきそうな、そんな所作。
少年は青い絵を意識から外して、青を纏うウマ娘に手を伸ばした。
「ふふふ、かわいいことを言うなあ、この口は」
「ふわっ……ちょ、ボクの顔はおもちゃじゃないよー!?」
「わたしの青いウマ娘というなら、わたしに可愛がられるのも受け入れたまえ」
「いーやーだー! ボクがセンセーを可愛がる!
この、この、ぬっ、むっ、おのれ、センセーの手の方がボクの手より長い……!」
「はははっ」
少年の両手が、少女の両頬をぐりぐり、ふにふにと撫でるように押す。
少女は口では文句を言うものの、抵抗せず逃げもせず、されるがままに受け入れる。
触れる手から、触れられた頬から、彼の抱く愛おしいという気持ちが伝わってくる。
少女は頬をぐりぐりする彼の手を引き剥がすようなふりをして、彼の手の上に、こっそりと自分の手を重ねた。
なんだかそれだけで、不思議と幸せな気持ちになれたから。
「こほっ」
その瞬間、楽しい流れが消え失せ、空気が凍った。
空気が凍ったことすら"無かったこと"にしたい少年の意思と、少年の意思を尊重してやりたいが無かったことにしたくない少女の間に、逡巡が生まれる。
「大丈夫?」
「ん、大丈夫。息の仕方をちょっとまちがえたみたいだ。ほらげんきげんき」
「……無理してると思ったら、ボクはボクの勝手にするからね」
「たとえば?」
「センセーを病院までおんぶしてく、とか?」
「それは……また、なんとも。わたしの腕力だとあらがえなさそうだね……」
「そうだよ、有無を言わせぬ帝王超特急が火を吹くんだ!」
「超特急が火を吹くんだ……」
楽しいデートの空気が戻ってくる。
それでも、心配する気持ちは消えないから、少女は少年の袖を引き口を開いた。
「ほらほら、ちょーっと耳貸して。ボクの電話番号、忘れられなくなるまで連呼するから!」
「電話番号を? なぜ?」
「いざという時のため! ほらはやくはやく!」
少女は少年の耳元でこそこそ電話番号を囁こうとするが、少年の方が12cmほど身長が高いために耳まで口が届かない。
やむなく、少女は無言で少年の袖を引いて、少年に屈んでもらう。
そして少年の耳元に手を添えて、小声でこしょこしょと囁いた。
「ボクの電話番号はね―――」
耳を可愛らしく特徴的な声がくすぐる。
耳に口元が寄りすぎて、時々少女の唇が少年の耳に触れる。
ピンと張った少女の白い前髪が、少年の耳周りをこちょこちょとくすぐっている。
少女は何度も自分の電話番号を繰り返し早口で囁き、合間合間に息継ぎをして、そのたびに少女の吐息が耳に吹き込まれていった。
衝動的に、変な気持ちになりそうになって、少年は少女を守るべく、自分自身を抑える。
二人はこれまで、たまに連絡が必要になった時は、盲目の人間でも使えるメッセージアプリで連絡を取り合っていた。
少年はかつて通話した内容を病気の苦痛で忘れてしまったという痛い失態があり、通話しながらメモを取るなどの手段も取れず、長年の模索の末に見つけたのが音読機能付きのメッセージアプリで『後で読み返せる連絡』を取るという手段であった。
iPhoneのVoiceOver然り、近年は盲目の人間も使えるように補助機構を組み込まれたシステムがかなり多くなってきている。
一度方法を見つければ、後はそれなりに頑張れば便利なものだった。
なので電話番号はそこまで使わなかったのだ。
だから少年は、少女の電話番号を今日まで知らなかった。
少女はちょっとドキドキしながら、自分の電話番号を彼に教えている。
「センセーが急に病気で倒れた時とか、ボクを頼るよーに!」
もしも、何かあった時。
全身で、全霊で、全力で、全速で、彼の下に駆けつけて、助けられるように。
「はいはい。ふふふ」
「あーもーなんか反応が軽ーい!
そこは泣いて喜んでよ!
何があっても、どんな大事なことより優先して駆けつけるって言ってるんだよ?」
「うれしいけどね。
そこまでしてもらうのは申し訳ないよ。
まずは救急車呼ぶから、だいじょうぶだいじょうぶ」
「申し訳ないとかそういうのはなしなしっ。約束でしょ?」
約束、と言われて、少年は少女が過去にした何気ない約束を忘れていないことに気付く。
■■■■■■■■■■
「すごいなあ、ウマ娘……」
「ふっふっふ、センセーと腕相撲したらボクが勝っちゃうくらい強いんだからね!」
「おや怖い。不良に絡まれた時は守ってもらって、お礼にごはんをおごらないといけないかも」
「まっかせてっ! どんな敵からでもセンセーを守ってみせるからね!」
「ふふふ」
「センセーは安心して健やかに幸せな毎日を過ごすといいぞよ~!」
「ぞよ~」
■■■■■■■■■■
彼と彼女で過ごした記憶は、一つ一つがかけがえのない思い出で、忘れられることはない。
何が相手でも彼を守ると、少女は約束した。
触れれば溶けて消えてしまいそうな彼を守り、共に在りたいと思ったから、そう言った。
「大丈夫。わたしが死んでもお嬢さんが悲しまなくなるまで、わたしは死なないよ」
「おっ、言い切るねセンセー。その約束、信じちゃうよ~?」
「ある画家は言ったのさ。
『明日に延ばしてもいいのは、やり残して死んでもかまわないことだけだ』
ってね。まだまだ死ねないよ、やり残したことがけっこうあるんだ。約束とかね」
彼女の悲しみを全て拭い、納得に満ちた、少女の心に傷を残さない死を迎える。
それが彼の誓い。
今の彼の夢。
だから、それを果たすまでは死ねない。
その想いが彼の命を支えている。
「それに、いざとなればわたしのかけっこは並くらいはあるんだろう?
心配ないよ。まだそのくらいに走れる程度には、体力がのこってるってことだからね」
「そっかぁ。あ、自動販売機の時の話。そういえばさ、あの日の帰りにね―――」
少女は忘れていた。
いや、気付いていたけれど、直視できなかったのかもしれない。
彼の言葉には、何の根拠もなく、少女を気遣う気持ち以外に何も無かったことを。
彼に電話番号を教えた夜、少女は自室でスマホを見つめていた。
今日、電話がかかってくるかもしれない。
緊急事態以外でも、何かかかってくるかもしれない。
ちょっと声が聞きたかったから、とかけてくれるかもしれない。
寂しいから話したくて、なんて彼らしくもないことを言ってくるかもしれない。
悩みがあるからお嬢さんに聞いてほしくて、と頼ってもらえるかもしれない。
星を見ながら話さない? なんて、ロマンチックなお誘いがあるかもしれない。
全て妄想だ。
実現の可能性は低い。
しかし、可能性は0ではない。
だから少女は、想像の翼を羽ばたかせて、楽しそうにずっとスマホを見つめている。
子供らしく、少女らしく、乙女らしい。
そんな心の動きがあった。
「んふふ」
ベッドの上でスマホを見つめて足をバタバタする奇行を、少女は繰り返す。
スマホに夢中になりすぎて、奇行を繰り返す少女をマヤノトップガンが撮影してウマスタetcにアップロードし、はちゃめちゃにバズっていることにも、少女は気付いていなかった。
ハッシュタグは『#今日のトウトイテイオー』。
「んふふのふ~」
楽しそうで。
幸せそうで。
見ている方まで楽しく、幸せな気持ちになってしまう。
そんな笑顔を浮かべる少女を見て、マヤノトップガンもまた楽しそうに微笑んでいた。
少女はスマホを見つめて待つ。
なんでもよかった。
どんな用件でもよかった。
"今、話したいなあ"と思っているのが自分だけじゃなくて、彼もそう思っていてくれたら、その気持ちを共有して確認できたら、それだけで幸せだった。
ただただ、彼と話したい。
そんな夜だった。
待つだけのことがこんなにも楽しくて、天にも昇るような気持ちになるだなんて、少女は知らなかった。
そして、今。
彼女の望んだ通りに、望んだ形で、電話番号は使われた。
少女は少年の死に間に合わないという最悪を回避し、マヤノトップガンに学園と寮長への連絡を任せて、遮二無二急いで病院に一人駆けつける。
時は夜。
空に形の欠けた、少し壊れたようにも見える月が輝いていた。
少女は自身の『ウマ娘としての知名度と社会的信用』、美術館で知った彼の名前、今日までの間に知った彼のプロフィールを語り、他人ながらに治療室の前まで案内される。
事実上、家族と同じ扱いをされていた。
集中治療室の前の長椅子で、少女は治療室の扉を見つめる。
病気が、少女の大切な人を殺そうとしている。
少女の大切な人が、それと戦っている。
少女は見ているだけ。
結果を待つだけ。
何もできない。
何も守れない。
「センセー……」
バタバタと人が入れ替わり、人が入って、人が出て、新しい人が来たと思えば、まとめて数人がどこかに行く。
ウマ娘の優れた聴力が、廊下の向こうの会話、完全に閉められていなかったドアから漏れる医者の声、廊下に出て固定電話で誰かと話している遠くの誰かの声を、拾っていく。
「なんだあれは、どうして生きている」
「このカルテを見てくれ。記録を見る限り、ありとあらゆる治療を試しているレベルだ」
「この安定度……この発作を乗り越えれば数ヶ月は確実に生きられるんじゃないのか?」
「分からん。どうなってるんだこれは。繰り返した各種治療と気力が噛み合っているのか?」
「この患者、聞いたことがある。病気の複合による、前例の無い奇病だ。治療例が無い」
「手を尽くそう。手術はできない。切開は避けてAEDと投薬準備を」
「集中治療室担当だと外科は今回出番無さそうですね。集中治療部と薬剤部が忙しくなる」
「部屋移して別の処置した方がもしかしたら良いかもしれん」
「とにかく生かせ。それと過去にあの少年を担当した医師全員に連絡を取るんだ」
「最近の中では一番どうしたらいいか分からない急患ですね……」
不安、絶望、悲嘆、苦痛、そして何より無力感。
手を合わせて、弱々しい表情で、笑えなくなった少女が祈る。
「……お願い、お願い、お願いだから……
残酷な運命の神様なんてものがもしいるのなら……
もうこれ以上、ボクから……これだけは、ボクから……奪っていかないで……」
廊下に備え付けられた鏡を見て、少女はそこに既視感を覚えた。
その表情を、どこかで見たことがある気がする。
病院ではなく、レース場で。
そして気付いた。
今の彼女の表情は、少女のトレーナーが、少女のレースの対戦相手であるウマ娘達のトレーナーが、観客席最前列でいつも浮かべていた表情だ。
「ああ、そっか」
ただ無力で、ただ祈るしかなくて、ただ待つしかなくて、『負けて終わった』瞬間に、膝から崩れ落ちてしまいそうな表情。
信じたい。勝つと、成功すると、報われると信じたい。なのに信じられない。
トレーナー達がウマ娘を信じたいのに、信じられない時に浮かべる表情。
少女のトレーナーが、足が折れた後の少女を見守っている時。
少女が最強無敗のウマ娘だった時代、ほぼ確実に負けることが決まっていた対戦相手のウマ娘達を、そのトレーナー達が見守っている時。
トレーナー達は、皆、今の少女のような表情だった。
不安げで、揺れていて、光り輝く未来を信じていたいのに、報われない未来を心のどこかで確信してしまっている、そんな表情。
希望を抱こうとして、心に湧く諦めに負けている。
そのくせ、諦めきれていなくて。
奇跡を願って、祈っている。
祈りに力などないのに、祈っている。
自分のためではなく、大切な一人の幸福のために祈っている。
そしてその祈りのほとんどは叶わずに終わった。
奇跡は起こらず、祈りはどこにも届かなかった。
最強無敗のウマ娘として、数え切れないほどの祈りを踏み潰してきた少女は、そんな無慈悲で妥当な結末の光景を、数え切れないほど目にしてきた。
祈りの無力さを、少女は誰よりも正しく知っている。
少女はかつて、祈られる側だった。
"彼女に報われてほしい"という祈りを捧げられる側だった。
それが今、彼のため、祈る側に回っている。
祈ることしかすがれるものがなくなって、祈ることにすがりついている。
祈るしかない。
祈る以外に何もできない。
祈りは無力で、ただ結果を待つしかない。
勝っても負けても、その結果を受け入れるしかない。
待つだけのことがこんなにも辛くて、地獄に落ちていくような気持ちになるだなんて、少女は知らなかった。
一時間は経っただろうか。
病院は未だに少年の発作を抑え込み、平常な生命活動を取り戻すため、あの手この手を費やしている。
今日は休みだったらしい医者が何人か、休日返上休み無し上等で彼を救うため駆けつけ、入れ替わりに何人かが仮眠室に入っていく。
大病院の優秀な医者が額を突き合わせて急場しのぎの対策、長期的な彼の治療を議論するも、ハッキリ有効だと言える解決策が出てこない。
少年の容態、症状が何度も変わって、そのたびに対症療法で生かし続けるのが精一杯。
途中から現行画壇のそこそこ名の知られた大物の使いが現れ、なんとしてでも期待の若手を生かしてほしいと要望が来て、医療費の一切を肩代わりすると申し出てきた。
少女はずっと祈っていた。
だから、誰が来て、誰が処置に入って、誰が何をしているのかも、まるで把握していない。
祈っているだけの少女は、周りが大分騒がしくなってきていて、かつ深夜ゆえに静かに騒がしくなってきていることに、気付いていなかった。
「あれ、あなたは先生の……恋人じゃないでしょうね。まだ。お友達でしょうか?」
「……え。あ」
「あなたがここに居る理由は……聞くまでもないでしょうね。デートするほどの仲ですし」
「えっと……北赤川の四表さん」
「南青山の三浦です。その節はどうも」
ずっと一人佇む少女に、男が声をかける。
その男に、少女は見覚えがあった。
忘れるわけがない。
あの日、海で突然やってきて少年と親しげに話していた男だ。
この男がきっかけで少年は隠し事のことごとくがバレて、少女に全てを話し、少女と新しい関係に進んだのだから、少女が忘れるわけがない。
「心中お察しします。
自分も同じ気持ちです。
自分の健康と寿命と視力の半分でも、先生に差し上げられるなら、そうするのに……!」
「……そうできたら、よかったのにね」
三浦は人一人分くらいの距離を空け、少女の隣に座る。
そこでふと、少女は気付く。
三浦の手首にある時計に、針がない。
デートの時に少年が持ってきていた、針の代わりに鉄球が動く全盲用の時計と同じ種だ。
いや。
違う。
同じ商品なだけではない。
あの時少年が手首に巻いていた腕時計は、今彼が手首に巻いているそれそのものだ。
そしてこれは、
日常使いらしい割には丁寧に手入れされていて、いつでも他人に貸せるよう、新品とそう変わらないくらいに綺麗な状態が維持されている。
普通の時計より高く、使い勝手で言えば普通の時計の方がずっと利便性が高いはずなのに、あえてこの時計を身に着けているのは、その裏に明確な意志がある。
"目が見えない人をいつでも助けられる自分でいたい"という、強い意志が。
今更になって少女は、自分がデート前に浮足立って準備を重ねに重ねたのと同様に、あの少年も浮かれに浮かれて、周りの人にデートの相談をしていたことに気がついた。
―――聞くまでもないでしょうね。デートするほどの仲ですし
少女はおめかししてきて、と言った。
少年は少女のはちみつリップを理由に、そのお願いに応えた。
そして、デートは何の失敗もなくありったけ幸せに終わった。それが事実である。
なら、目が見えない彼は『目が見える人にどう見えるか』を考慮するため、目が見える人の手を借りて服装をコーディネートしてきた可能性もあったはずだ。
誰かがあの少年の服を選んであげた可能性もあったはずだ。
それまであの少年が一度も手首に巻いていなかった腕時計を、『盲目の人に貸し出すための腕時計』を、あの少年に貸した者がいた可能性もあったはずだ。
もっと踏み入って、もっと深くまで洞察すれば。
そうしてあの少年を大事に思う誰かこそが、名誉欲の薄いあの少年の代わりにあの少年の絵を有名にするために走り回り、少年が死ぬ前に、展覧会に少年の絵が飾られるところまで持っていったのだということも分かる。
誰も宣伝していない絵は、誰の目にも映らないからだ。
少年の生まれて初めてのデートに助言し、少年の絵を宣伝して売って回って少年の名を売り、少年が死に至る前に、少年の生きた証を残して少年に見せようとする……そんな誰かが居なければ、点と点が繋がらない。
その人が、今、少年を襲う病魔に嘆いていないわけがない。
三浦の痛ましい表情からは、彼があの少年をどう思っていたかが痛いほどに伝わってくる。
「あの……
センセーの傷かな、って思って踏み込まなかったんだけど……
センセーの家族とか親戚の人ってどうなってるの? 来ないの? 連絡した方がいい?」
「先生の両親は事故で亡くなられています。
親戚は目が見えない彼を重荷と感じ、誰もが引き取るのを拒みました。
彼が死の淵にある時、来る親族は一人もいません。
遺産の相続に関わる書類と手続きも、見えない彼の代わりに自分がしました」
「!」
「目が見えない彼ですからね。
上手くやれば、遺産を全て横取りして、先生を孤児院に入れられた。
そうすれば親族は丸儲けです。
なんとか阻止できましたが、盲目の者は無力なのです。
特に、悪意に弱い。
先生はそれをよくご存知です。
彼は親族を誰も信用していません……自分は呼んでも悪影響だと思います」
「……そうだね」
生まれつき、目が見えなかった。
すぐ、不治の病と言っていい病に余命を宣告された。
親は死に、親族は敵だった。
その人生に長らく幸はなく、彼は絵に打ち込むしかなかった。
それでも、綺麗なものも醜いものもその目で見ないでいられたから、彼の描く絵は吸い込まれそうなほどに透明だった。
「センセーの病気……治せないのかな……」
「目も、内臓の方もそうですが……
できる限りのことはしました。
遺伝子治療を初めとした最新の対人医療を片っ端から試しました。
ですが、駄目だったのです。
特に余命には改善の余地も見えませんでした。
医者曰く、明日目が見えるようになる可能性は0ではない。
しかし今現在見えていない以上、この先も見えることはないだろうとのことです」
「……どうして、センセーなんだろうね」
「自分もそれは幾度となく思いました。
しかし、先生は言いました。
『どうしてわたしなんだ、なんて考えてたら、無駄に一日が終わっちゃうよ』と」
「……」
「先生は描く。
自分は売り、宣伝し、知らしめる。
それが自分達の約束。
先生が生きた証を残すための戦いでした。……それももう、終わるかもしれません」
夜の病院は静かで、騒がしい。
寝ている患者を起こさないように、皆静かにしようとして、大声なんて出しもしない。
だが今、死にかけている一人のために走り回り、議論を重ねている。
静かなのに、騒がしい。
「ねえ、センセーについてもうちょっと質問してもいい?」
「自分が知っていることであれば、彼が秘密にしたいこと以外は、なんなりと」
少女が聞き、男が答える。
三浦は子供にしか見えない少女にも一貫して敬語を使い、不躾な質問にも丁寧に対応し、答えにくい質問にも真摯に応えていった。
少年の昔のこと。
絵描きとしての少年のエピソード。
まだ絵が下手だった時期の苦悩。
少年が今のように落ち着き払う前の、荒れていた時期のこと。
死を受け入れる前の、少年が死の恐怖に怯えていた毎日のこと。
多くのことを聞き、多くのことを知り、少女は少年への理解を更に深めていく。
それは、恐怖に耐えるための行動だった。
扉一枚挟んだ向こうで、あの少年が死にかけている。
今この瞬間にも死ぬかもしれない。
無言で扉を見つめて待つには、この絶望の夜は長すぎた。
ただ無言で待っているだけで、気が狂いそうになってしまう。
あの少年について語り合うことは、狂気と絶望に耐えるために必要な行動であり、またあの少年への想いを蘇らせることで、この先に希望を持とうとする行動でもあった。
「ねえ」
「なんでしょうか」
「なんでこんなに親身になってくれるの? ほとんど初対面みたいなものなのに」
「先生は自分の推し画家です。
人生を賭ける価値のある画家だと思っています。
推しが同じなら同志です。
まだ名が広く知られていない先生の良さを知る同志。
それだけで、自分から見ればとても好ましいのです」
「……あはは、変な人だね。でも分かった。センセーの絵が大好きなんだね、三浦さん」
「ええ。
どうか先生によくしてあげてください。
自分は、歳が離れすぎていたのもあって、先生の友人にはなれませんでしたから」
「そっか」
二人は語り合う。
同じものが大好きだから。
同じウマ娘が好きなファン同士が一気に仲良くなるように、二人は同じ絵描きを一番に好み、その一人の無事を願った。
祈る。
ただ祈り、待つ。
祈りが無力でも、祈ることしかできないなら、祈って待つ。
気を張り詰めて、張り詰めて、張り詰めて、待って、待って、待って……何時間も待ち続けた結果、精神的に疲弊していた二人は、眠りに落ちてしまった。
そして。
「バカな!? 動けるのか!? 昨日まで危篤状態だったんだぞ!?」
「集中治療室から動かした後なんで誰も見張ってなかったんだ!」
「動けるわけないと思ってたんですよ!」
「夜勤も含めてかなりの数を処置に回し続けた結果、人手が足りなくなってたな」
「あの少年は気力によるところが大きいです、安定した今ならすぐには死なないのでは」
「発作が出たら終わりだと思います」
「患者の一人が見てたようですわ、一人で病室を勝手に出ていったようです」
「夢遊病? 神経の症状の可能性もありますよね、意識の混濁とか」
「生命維持のためとはいえかなりギリギリまで投薬した、事態が読めん」
「とりあえず警察に連絡します。患者衣は目立つので、交番に目撃情報があるかもしれません」
本当に騒がしくなってきた病院の喧騒で、目を覚ました。
目を覚ますなり少女と三浦は頬を打ち、意識を覚醒させ、周囲のてんやわんやになっている人達の会話から、現在の状況を理解する。
一も二もなく、二人は走り出した。
「不味いですよ! 先生は割と心境次第で自殺するタイプです!」
「知ってるよ! ボクは特に! 本当によく知ってる!」
探して、見つけなければ。
何が目的で、あるいは何が起こって、彼が外に出ていったのかは分からない。
だが、昨日まで死にかけていた人間が外をうろついて何かがよくなるわけがない。
少女には、彼に言いたいことがあった。
まだ彼女は迷いの中に在る。
何もかもに迷っている。
されど、せめて彼が死ぬ時は、そのそばにいたかった。
そして、彼に言いたいことがあった。
それは一つではなく、無数に連なる少女の想い、その全てを言葉にしたものだった。
知らないところで知らない内に少年が野垂れ死んでいて、最後に何も伝えられないなんて終わりは、この少女には耐えられない。
「あーもう! センセーはさぁ! ……これ何回ボクに言わせるのさ!」
今の少女が出せる力のギリギリ上限、足がまた壊れない限界値まで力を込めて、少女は辺りを見回しながら駆けていく。
なんとなく。
これが最後の予感がした。
何かが終わっていく予感がした。
終わりが始まったような感覚を、少女は肌身に感じていた。