目無し足無し夢も無し 心を救う永遠の帝王   作:ルシエド

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「過去の苦しみが
 後になって楽しく思い出せるように
 人の心には仕掛けがしてあるようです」

   ―――星野富弘


22 あなたの為に

「三浦さん、いた!?」

 

「いません! ですが、バスに乗ったのを見た人が居たらしく……」

 

「このあたりにはいないってこと……!?」

 

「車で出ます。心当たりを巡ってみます!」

 

「待ってボクも乗せて! 一人より二人でしょ!」

 

 病院周辺を探してみても、少年はどこにも見当たらない。

 

 焦燥だけが先走る。

 気持ちが体より先に行く。

 冷静にならないといけないと分かっていても、誰かを大切に思う気持ちが、冷静さを食い荒らしていく。

 無駄という怪物が時間を食い潰していく。

 

「バスに乗ったって言っても、ボクらはどう探したら……」

 

「先生に目的地が無く、あてもなく彷徨っている場合。

 あるいはどこかで倒れている場合。

 自分達には見つける手段がありません。

 広範囲を草の根分けて探すのは二人ではどうしても無理です」

 

「っ」

 

「それは無い、と信じて割り切りましょう。

 彼はバスに乗ってどこかに行った。

 あてもなくうろつくなら歩き回っている方が自然です。

 しかしバスに乗っているのであれば、どこか遠くに目的地がある可能性が高い」

 

 三浦がエンジンをかけた車に、少女も急いで乗り込んで、助手席でいい子らしく生真面目にシートベルトを締めた。

 

「警察には連絡しました。

 広範囲の人探しならば彼らがプロです。

 万が一の時には彼らが最速で見つけられるはず……

 病院と警察にはこまめに連絡を取っておきます。

 自分達にできることは、彼らでは見つけられない場所、つまり」

 

「センセーが行きそうな場所に心当たりがあるボク達にしか探せない場所……?」

 

「はい、そういうことです。

 幸い、消える前の先生のバイタルは安定していたとのことです。

 すぐに容態が急変するわけではない……そう、思いたいですが……」

 

 三浦と少女を乗せた車が発進する。

 三浦と少女は互いに心当たりを教え合い、東京都内の彼が行きそうな場所を回りに回った。

 少年の両親の墓、少年が一時期通っていた小学校、少年が子供の頃ずっといた病院、初めて少年の絵が売れた展覧会が開かれたテナント。

 少年と少女が出会った土手、二人がいつも見ていたレース場、二人で見たウイニングライブの会場、二人で行ったあの海、二人で楽しく食事をした定食屋、少女を抱きしめた自動販売機の前。

 

 思い出を一つ一つ確かめるように、三浦と少女は心当たりを探っていく。

 しかし、見つからなかった。

 探し回って、行った先で聞き込みをしても、少年が来て去っていったという目撃情報すらも見つからず、手がかりさえ皆無という状況が続く。

 少女の焦りはどんどん顔に出て、逆に三浦の表情はどんどん落ち着いていった。

 

「センセー……どこなの……」

 

「多少は考える材料も増えたと思いましょう。不安な時間帯も過ぎましたし」

 

「不安な時間帯? そんなのあるの?」

 

「徘徊者や行方不明者が見つかりやすいのは朝です。

 家に帰る道を見失いやすい盲目の人間もそうです。

 夜、外を歩いている一般人はほとんどいないからです。

 反面、朝は人がもっとも出歩いています。

 出勤する大人。

 通学する学生。

 散歩する老人、ジョキングする社会人、陸上部の朝練、警官の巡回……

 病院から抜け出した者が最も見つかりやすい朝の時間帯が、朝にはあるのです」

 

「あ、そっか、そうなるんだ」

 

 一人であてもなくうろうろしている盲目の人間、患者衣で外を出歩いている人間、道端で倒れている少年……どの形でも目立つはずだ。

 まっとうな交通機関の人間であれば報告から通報に移るだろうし、良識ある人間なら見過ごすことはない。警官が普通に見つけることだってあるだろう。

 

 逆説的に言えば、盲目の人間が病院から移動するのに使うような、一定以上に人が移動しやすい経路であるならば、その道中のどこかであの少年が倒れていた場合、誰にも見つかっていないという可能性はかなり低い。

 少年が病院を抜け出した後に、道半ばの発作で倒れ死にかけているという可能性は、これでかなり低くなったということだ。

 また、少年が目指した目的地であるどこか、そのどこかを見つけられれば、そこで少年を見つけられる可能性も高くなった。

 

 三浦はほっとした様子で、少女はちょっとした疑問を持った。

 

「なんだか……三浦さん、変なことに詳しいね」

 

 三浦はきょとんとして、苦笑した。

 

「あまり、分かってもらえない話だと思います。このあたりは」

 

「?」

 

「先生は、一人で生きたがっていたんです。盲目であるというのに」

 

「一人で……?」

 

「ええ。

 親の補助をなくした盲目の子供にそんなことができるはずもないのに。

 実際、最初は食事さえままならないようでした。

 自分がヘルパーを呼んで最初はどうにかなりましたが、それも途中で辞めさせてしまって」

 

 車で回って、少年が昔よく行っていた公園なども確認しに行くも、見つからない。

 

「親をなくして、先生は『大切な人をなくして一人になる気持ち』を知りました。

 絵に没頭して、なんとかそれを乗り越えたように見えます。

 だから……先生が死んだ時に、誰かが悲しむのを嫌がったのだと、そう思います」

 

「……あ」

 

「一人ぼっちを選んだのです。

 どんなに苦しい道だとしても。

 一人になれれば、先生が死んでも悲しむ人は居なくなるから。

 彼は……先生は……自分が死ぬことで大切な人が涙を流すことに、耐えられなかったのです」

 

 今、思い返せば、あの少年はこの少女以外の手助けをほとんど受けていなかった。

 ならば、少女と出会う前はどうだったのか?

 決まっている。

 一人でずっと生きて、一人でずっと描いていたのだ。

 

 そう生きて、そう死ぬつもりだった少年を、たった一つの出会いが、救ってしまった。

 彼は、一人ぼっちを選べなくなってしまった。

 "この人と一秒でも長く一緒にいたい"と、思ってしまった。

 

「だから、あなたの存在を知って驚きました。

 先生がまた、大切な人を作り、その人と一緒に居る。

 あなたが先生を根本から変えた。

 あるいは、先生に生き方を曲げさせた。

 嬉しかったんです。

 先生はおそらく、あなたに出会うことで、一人ぼっちをやめたんですから」

 

「ボクと、出会ったから……」

 

 車を走らせ、車内で三浦は少女に己が知ることを語る。

 

 それが、あの少年を救ってくれた少女への礼儀だと思ったから。

 

 この少女には、あの少年のことを知る権利があると、そう思ったから。

 

「心配だったんです。先生は、目を離したら、どこかで溶けて消えてしまっていそうで」

 

「うん。分かるよ」

 

「だから、彼の親代わりになれればと、そんな風に思ってしまったんです。

 その目が治らないとしても。

 その病が治らないとしても。

 彼が描く絵が。

 その絵を生み出す心が。

 綺麗だと、長く残ってほしいと、そう思ったから……

 何かしてあげたかったんです。先生を救えないとしても、何か、自分にできることを」

 

「そうだね。その気持ち、すっごくよく分かる」

 

「それが余計だったのでしょうね。自分の前から、先生は消えてしまいました」

 

「……」

 

「『ごめん』などと、書き残して。謝る必要など、どこにもないのに……」

 

「センセーは……自分の死で三浦さんも悲しませたくなかったんだよ」

 

「分かっています。

 ですが、失敗だったとは思っています。

 彼から預かっていた絵を売り、彼の口座に振り込み続けていました。

 それがどこからか引き落とされていたから、彼が生きていると分かってはいました。

 それでも。

 病気の件があったから、ある日引き落としが止まってしまう日が来るのが、怖かった……」

 

「それで、朝に見つかりやすいって知ってたんだ。……心配だったんだね」

 

「はい。

 朝になるたび、誰かが彼の死体を見つけたりする時が怖かった。

 野垂れ死にした彼を誰かが見つけるのが怖かった。

 警察公式サイトの身元不明死者情報ページを一日に一度見ていました。

 彼と似た背格好の情報があれば、不安になって確認していました。

 だから、本当に、本当に……

 あの日の海で、あなたに救われた先生を見て、本当に安心したんです」

 

「センセーはさぁ……

 ホント、他人にいっつも優しいくせに、時々存在が他人に優しくないんだからもう……」

 

 三浦は、ある意味では少女の同類だった。

 あの少年に出会い、仲良くなり、つながりを持って、絆を結び、その運命を嘆き、自分なりに何かをしてやろうとして、そして失敗した。

 少女にとっては、先輩と言えるのかもしれない。

 

 だから、少女は聞いた。

 それは、彼女の中で、未だにどうにもなっていない、未解決の迷いの塊だったから。

 

「ねえ、あのさ、センセーが死んじゃった時、悲しまないでいられる自信、ある?」

 

「ありません。泣きますよ、自分は。耐えられる気がしません」

 

「っ」

 

「先生は望まないと思いますが……自分には、先生の死に泣く権利があるはずです」

 

 それは、少女が聞きたかった言葉であり、聞きたくなかった意思であった。

 

 彼が死を迎えた、その時。

 彼のことを思うのであれば、泣くべきではない。

 笑顔で送るべきだ。

 そうするのが一番、死に行く彼を穏やかに送ることができる。

 少年には逃れられない死しかない。少女が泣いていれば、ただそれだけで少年には心残りが出来てしまい、後悔しながら死を迎えてしまうかもしれない。

 

 けれど、泣く権利もある。

 人が死んだ時、泣くかどうかを決めるのは周りの人間だ。

 自分が死んだ時に誰も泣いてくれない寂しい人間が居るのと同様に、死者には生者が泣く権利を奪うこともできない。

 それを決めるのは、生者だ。

 

 三浦は大人だ。

 少女にとっては先輩で、もうしっかりとした大人の男性だ。

 彼にもう迷いはない。

 彼は少年の死に向き合い、何年もの間苦悩し、自分なりの結論を出している。

 

 だから、画商として走り回っている。

 彼は少年が生きた証を世界に刻むことで、少年の死と向き合った。

 そして、少年が望まなかったとしても、その死に涙することを決めている。

 そういう人間だからこそ、少年は三浦から離れ、三浦が自分を忘れるように仕向け、自分が死んでも彼が気付かないようにしていたのだ。

 

 誰かが死んだ時、その人の葬式で泣いた人間の数こそが、その人の人生の価値であるという考えを、三浦は持っている。

 だから泣く。

 その決断は揺らがない。

 

 三浦はちゃんとした大人として、少年の死を受け入れ、向き合っている。

 彼は少女のように、子供ではないから。

 死と向き合えないほど、子供ではないから。

 

 少女は少年の死を受け入れようとして受け入れられていない自分の現状を突きつけられ、それでもなお迷いが消えることはなく、"死んじゃやだ"という想いは、いつまでも消えてくれなくて。

 走る車の中、少女は服の裾をぎゅっと握った。

 

 

 

 

 

 ある街の一角で、車が停まる。

 

 車から降りた少女と三浦は、そこで一軒の建物を見上げた。

 

 二階建ての、やや大きな民家。

 家の外見はなんてことのないものだが、草が伸びっぱなしの庭、家の外側を這い上がる植物のツタなどがかなり目につく。

 少なくとも、一見した限りでは、誰も手入れしていない廃屋のようにしか見えなかった。

 

「先生は"もうここに用はないから"と言っていたので、最初に外していましたが……」

 

「もうここしか心当たりないんでしょ? 行くしかないよ」

 

「ええ。ここが彼の生家。彼が両親と最も長く、かつ最後に、共に過ごした場所です」

 

 三浦は昔、少年の生活を支えるために彼から預かっていた家の鍵を取り出し、少年期が幼少期を過ごした家に二人で踏み込む。

 

 三浦はあまり期待していなかったようだが、少女が扉が開いた瞬間"あ、センセーの匂いだ"と、匂いだけで何かに気がついた。

 

 その家の中は、少年が絵の具につけた匂い、嗅ぎ分けるためラベルにつけた匂い、少女に贈る絵につけていた顔料の匂い……少女が大好きな匂いで、満ちていたから。

 

「あれ、なんか綺麗じゃない?」

 

「……時々戻ってきていたようですね」

 

「わっ、絵がいっぱい。どこもかしこも絵だ……」

 

「乾いてから時間が経ってない絵もあるようです。

 つまり、最近先生が描いた絵ですね。

 だいぶ最近までここに入り浸っていたのは確実であると思います」

 

 壁にはところ狭しと絵。

 廊下の隅に平積みにされた大量の絵。

 ダイニングの半分を埋め尽くす絵。

 リビングに置かれた大量のダンボールにはクシャクシャに丸められた絵が放り投げられ、うず高く積み上げられ、それが三メートルはあろうかという複数の塔になっている。

 絵、絵、絵。

 どこを見ても絵。

 絵の上に絵があって、絵の横に絵があって、千切られた絵を集めて作られた絵や、床に描き上げられた絵もあって、天井に貼り付けられた絵もあり、単品で完成している無数の絵が集まって一枚の絵を作り上げるという特殊芸術まである。

 

 息苦しい。

 絵が喉に詰まる。

 空気にまで絵が溶け出していて、絵で窒息してしまうかのような錯覚がある。

 

 これは、普通の人間が当たり前に持つ眼や長生きする権利を、生まれた時から当たり前のように持っていなくて、絵だけが誇りで、その生に絵しかない者が生み出した、絵だけの世界。

 

 少女は上下左右前後全てが絵の世界で、あることに気がついた。

 

「なんか、書いてある文字列が主役の絵が多くない? センセーこういうの描く人だっけ?」

 

「星野富弘さんの真似ですね。昔の先生は彼を一番にリスペクトしていたんですよ」

 

「ほしの……?」

 

「世界的に有名な日本の画家の一人です。

 うちの画廊の人間からは『花の言葉の魔術師』と呼ばれています。

 詩人にして画家。

 花と言葉を操らせたなら、星野富弘が世界一と言う者も少なくはないでしょうね」

 

「……花の、言葉」

 

 少女は、少年が描いたラブレターの絵を思い出す。

 花の言葉。

 太陽に育まれた花の想い。

 少年から少女の向けられた恋と愛、それに負けない感情の全てが乗せられた絵。

 思い出すだけで顔が赤くなりそうになるので、少女はそれを必死に抑える。

 

 今、思い返せば。

 少年が最初に少女にあげて、スーパークリークが反応して、少女が"センセーの絵"を客観的に見てもすごいのだと知った絵は、黒い花と白い花の絵であった。

 星を花に見立てた絵であった。

 星の花に、星野の花。

 彼は最初から、少女に花の魔法を見せていたのかもしれない。

 

「星野富弘は、首から下が動かない画家です」

 

「え」

 

「彼は元は教師でした。

 そして不慮の事故で、頸髄を折ってしまったのです。

 それ以後、彼は首から下が動かなくなってしまいました。

 二年後、彼は口で筆を咥えて詩や絵を描き始め……

 事故から十一年後。

 とうとう新聞に詩や絵が載るようになりました。

 事故から十三年後には理解のある女性と出会い、結婚。

 そして『花の詩画』と呼ばれる彼の作品は、日本で、世界で、有名になっていきました」

 

「……すごいね」

 

「十代で絵画の極みの一つに手を届かせかけている先生は……

 ……既に、星野富弘に匹敵する十年を過ごしたと言えるのかもしれません」

 

 首から下が動かなくても、絵は描ける。詩も書ける。

 恋もできるし、結婚でもできる。

 幸せに、なれる。

 星野富弘は、世界中の障害を持つ者達の希望になった男だった。

 

「センセーはその、センセーのセンセーな人の絵が好きだったのかな」

 

「いえ、絵ではなく、先生は星野富弘の言葉が好きだったんです」

 

「言葉?」

 

「詩画の芸術家でしたからね。

 それに、背負うハンデも大きかった。

 先生は大きな障害を持った星野富弘の言葉に、大きな共感を抱いたようでした。

 だから先生は絵を描いて、そこに星野富弘の言葉を刻み、飾るようになっていきました」

 

「ここに書いてある言葉、全部それなんだ」

 

「そうです。

 先生は見えなくとも、彼の言葉に囲まれていたかったそうです。

 絵に触れて、文字を指でなぞれば、その言葉が励ましとなってくれるからと。

 ……どうやら、星野富弘の言葉を刻んだ絵も、定期的に新しく描いて飾っているようですね」

 

 数年前に描かれた、絵に星野富弘の言葉を刻んだ絵。

 どう見てもここ一ヶ月以内に描かれた絵肌をした、星野富弘の言葉を刻んだ絵。

 少女は少年を探して家の中を回り、絵に刻まれた"センセーのセンセー"の『花の言葉』を、一つ一つ目にしていった。

 

『川の向こうの紅葉が

 きれいだったので

 橋を渡って行ってみた

 ふり返ると さっきまでいた所の方が きれいだった』

 

「綺麗な言葉だね。センセーが好きなのも、なんだか分かる気がするや」

 

 出来の良い絵に、星野富弘の言葉が刻まれている。

 生まれつき目が見えず、ひらがなも漢字も見たことのない盲目の彼が、指先で文字の形を記憶してそのまま写した、丁寧な言葉の列が刻まれている。

 あの少年が、星野富弘の言葉を大切にしていて、その言葉に囲まれて生きる力を貰っていたということに、実感が湧いてくる。そういう文字主体の絵であった。

 

『辛いという字がある もう少しで 幸せになれそうな字である』

 

「……」

 

 少年の絵をずっと見てきた少女だから、これらの絵を描き、文字を刻んでいる時の少年が、どんな想いだったかが分かる。

 どんな表情だったかさえ、おぼろげに分かる。

 絵の上に、文字を書いていた。

 すがるように書いていた。

 泣きそうな顔で書いていた。

 運命を憎む顔で書いていた。

 どうしようもない自分を叩きつけるように書いていた。

 星野富弘の言葉に共感し、その言葉を自分の言葉として刻んでいるかのように、吐き出せない想いをぶちまけるように、星野富弘の言葉を書いていた。

 

『この道は茨の道

 しかし茨にも

 ほのかにかおる花が咲く

 あの花が好きだから この道をゆこう』

 

「ボクにとっての、会長が……

 センセーにとっては、星野って人だったのかな……?」

 

 壊れた憧れを、少女は絵の中に感じ取る。

 

 茨の絵があった。

 茨の中に青い服の少女が居た。

 茨の道の中に咲く、ほのかに香る青い花のように、少女が言葉の横に添えられていた。

 

『私にできることは小さなこと でも それを感謝してできたら きっと大きなことだ』

 

 口癖のように、彼はありがとうと言っていたことに、少女は今気付く。

 数え切れないくらい、彼はありがとうと言っていた。

 数え切れないくらい、少女はありがとうと言われていた。

 それは、少女が数え切れないくらいに少年を助けてきたことの証明でもあるけれど。

 

 『違う』、と少女は思った。

 『ボクの方がもっとずっとありがとうって言いたいんだ』と、少女は思う。

 彼より多く、彼よりずっと、彼に『ありがとう』を言いたい己の気持ちが、少女の心にゆっくりと芽生えていく。

 

 ふと、少女は、仲間のスペシャルウィークがいつだか、感銘を受けたトレーナーの言葉をパクって自分の言葉にしていたことを思い出した。

 言葉は、他者と自分の境界を越える。

 国語の教科書の文章が、各々の言語に浸透し、"皆が使っている普通の言葉"になるように。

 他人の言葉は、己の内にある固有の部分にくっついて、自然と自分の言葉となる。

 それが自然な人間というものだ。

 

 星野富弘の言葉は、既にあの少年自身の言葉でもある。

 ここに在る絵に刻まれている文字列は、言語に落とし込まれた、あの少年の感情だ。

 

『冬があり夏があり 昼と夜があり

 晴れた日と 雨の日があって

 ひとつの花が咲くように

 悲しみも苦しみもあって 私が私になってゆく』

 

 "センセーをセンセーにしたのはこの言葉達なんだ"と、少女は理解した。

 

 彼が共感し、心の支えとして、"こうなりたい"と願った、首から下が動かない悲劇の画家。

 

 悲劇の画家、されどその言葉には悲劇の気配がない。

 

 あまりにも悲惨な人生から生まれた言葉達は、絶望の人生にも負けない強さと、周囲の人間への感謝と、この世界の全てを肯定するような光輝く想いが感じ取れる。

 

『神様がたった一度だけ この腕を動かしてくださるとしたら 母の肩をたたかせてもらおう』

 

 父も母もなくした後の少年は、星野富弘の言葉に何を思ったのだろうか。

 あの少年のことを何も知らなかった時期の少女であれば、きっと微塵も分からなかった。

 けれど、今は違う。

 少女はその言葉に何を思ったのか、彼がどんな気持ちでこれらの文字を絵に刻んだのか、それら全てが寸分違わず理解できてしまう。

 

 少年が少女に見せなかった、彼の心奥の更に奥。

 苦痛。

 絶望。

 嫉妬。

 悲嘆。

 羨望。

 尊敬。

 憧憬。

 称賛。

 共感。

 その他諸々、数え切れないほどの気持ちが、文字と共に刻まれている。

 

 あるいは、星野富弘のことをよく知る者であれば、何の事前情報も無しに、あの少年にかすかに残る"憧れの残り香"に気付けたのだろうか。

 それとも、星野富弘の言葉を受け、自分なりに考えて答えを出し、自分なりの生き方を作り上げた少年であるからして、それを見ても何も気付かないのだろうか。

 今となっては、語る意味の無いことかもしれない。

 

『黒い土に根を張り

 どぶ水を吸って

 なぜ きれいに咲けるのだろう

 私は大勢の人の愛の中にいて

 なぜ みにくいことばかり 考えるのだろう』

 

 少年は、優しかった。

 何でも許すような人間だった。

 多くを肯定するような人間だった。

 柔らかに他人を受け入れて生きている人間だった。

 

 少女はそう思っていたし、それも彼の一面だ。

 彼が普通の人より優しいことに間違いはないだろう。

 けれど。

 それでも。

 あの少年は、聖人などではなかった。

 

 顔に出さないようにしていた想いがあった。

 抑え込んでいた想いがあった。

 頑張って小さくしていった想いがあった。

 無かったことにした想いがあった。

 

 死が怖い。死にたくない。そんな気持ちも、長らく胸中に居座っていたに違いない。

 

 あの少年の人生とは、そんな自分と戦い続ける日々であり、この文字列はその記録だ。

 

 死にたくない、死にたくないと思いながら、「なんでこんなに自分は弱く、醜いんだ」と自分を嫌いながら、自分の気持ちをぎゅっと押し込んで、小さくする。

 小さくなった気持ちを、表に出さないようにする。

 そうして表向きは平気なふりをして、「死ぬのは怖くない」と(うそぶ)き、「心残りはきみがわたしの死で悲しんでしまうことだけ」と語る。

 そして、優しく微笑むのだ。

 彼女のために。

 

 死が迫る絶望など、大好きな少女に味わわせたくない。

 死という悪魔に苦しめられるのは、今は自分だけでいい。

 その一心で、彼はそうしてきた。

 

 誰にも言わない。

 誰にも語らない。

 ぐっとこらえて、一人で耐えて、自分の想いと重なる星野富弘の言葉を、ありったけの想いを込めて絵に刻んで、溜め込んだ想いを吐き出す。

 そして、昼に少女と会う頃には、本心から平気な自分になって優しく微笑んでいる。

 

 他人の言葉を借りないと、一人ぼっちの部屋で弱音を吐くことすらできない少年に、少女は泣き叫びたい気持ちを抑えきれない。

 

『暗く長い

 土の中の時代があった

 いのちがけで

 芽生えた時もあった

 しかし草は

 そういった昔を

 ひとことも語らず

 もっとも美しい

 今だけを見せている』

 

 言葉は、彼の思い出を描いた絵に刻まれていた。

 

『痛みを感じるのは

 生きているから

 悩みがあるのは

 生きているから

 傷つくのは

 生きているから

 私は今

 かなり生きているぞ』

 

 自分の醜さを見つめる言葉は、人が集まる喧騒の絵の上に。

 感謝の言葉は、腕だけが描かれた誰かが少年を助ける絵の片隅に。

 傷つくことで生を実感する言葉は、二人で見たレースの勝者と敗者が描かれた絵の真ん中に。

 

『いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった

 いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった』

 

「あ、ああ、ああっ……センセー……」

 

 その言葉は、青いウマ娘を描いた絵の右上に。

 命より大切なものを描いた絵の右上に。

 青いウマ娘は、太陽と見間違えてしまいそうなほど、眩い笑顔を浮かべていた。

 

 彼がその少女に恋していることが伝わって来るような、そんな絵だった。

 

『わたしは傷を持っている。

 でもその 傷のところから

 あなたのやさしさがしみてくる』

 

「センセー……せんせぇ……ボクは……ボクは……やだよ……! やだよ、こんなの……!」

 

 その言葉は、不死鳥のウマ娘を描いた絵の左下に。

 優しく微笑み、こちらに手を差し出してくれている少女を描いた絵の左下に。

 不死鳥のウマ娘は、女神か何かかと思わされるほどに、優しい笑顔を浮かべていた。

 

 彼がその少女を愛していることが伝わってくるような、そんな絵だった。

 

 少女の涙が、ぽたり、ぽたりと、床に落ちていく。

 

『しあわせが集ったよりも

 ふしあわせが集った方が

 愛に近いような気がする』

 

 少年と少女が二人で食事をしている時の思い出が絵になっていて、そこに文字が刻まれていて、見るだけで心に響くほどの想いが刻まれていた。

 

「絵に気持ちを全部込めたって言うなら……

 絵を見れば分かるって言うなら……

 絵を見れば分かるから口では言わないって言うなら……!

 こんなところに絵を隠さないでよ……! 分かんないじゃん……!」

 

 少年が少女の姿を想像で描いた絵があった。

 少女に触れ、容姿を知り、それをありのままに描いた絵があった。

 海に立つ少女の絵があった。

 優美な屍骸があった。

 蜂蜜の香りがする絵があった。

 

 ここにあるのは、ただの絵ではない。

 想いだ。

 人生だ。

 物語だ。

 残酷なる運命に人生をもてあそばれた少年が、最後に幸福な光を得た物語が、その人生の最後に在ったものが、そこで得た想いが、全て詰め込まれている。

 

 悲劇ではある。

 悲しみはある。

 悲嘆が消え去ることはない。

 されど、それだけではない。それだけではなかった。

 彼の絵に、彼が刻んだ言葉に、悲しみと絶望だけが在ったなら、少女が流す涙は、きっとこんな色をしていなかっただろう。

 

『今日も一つ

 悲しいことがあった

 今日もまた一つ

 うれしいことがあった

 笑ったり 泣いたり

 望んだり あきらめたり

 にくんだり 愛したり

 そして

 これらの一つ一つを

 柔らかく包んでくれた

 数え切れないほど 沢山の 平凡なことがあった』

 

 そして、初めて二人でレース場を見下ろした場所で、いつも絵を描きながら話していたあの土手で、二人並んで草原に座って、笑い合っている絵に、その言葉が刻まれているのを見て。

 

 何気ない日々の一つ一つが、彼にとって宝石だったと、心の底から実感して。

 

 涙が溢れ、もっと溢れ、どんどん溢れて。

 

 溢れた沢山の涙がこぼれ落ちるのも気にせずに、少女は笑った。

 

 彼が好きだと言ってくれた笑顔を浮かべて、泣いて笑った。

 

「センセー……センセーはさぁ……!

 そんなだから……そんなだから……!

 待っててよ……会えたらさ……言いたいこと、いっぱいあるんだからっ……!」

 

 そして、涙する少女が二階に上がり、そこで見つけたのは。

 

 彼が、誰の言葉の真似でもなく、星野富弘の言葉から引用するでもなく、ただただ心から溢れる言葉を絵に叩きつけただけの、絶望だった。

 

 

 

『だめだ わたしは 星野先生には なれない』

 

『憧れるだけで そうなれなかった わたしは 優しくも強くもなれない』

 

『笑って死ねる気がしない でも そうしなければ』

 

『そうしなければ』

 

 

 

 血を吐くような、苦しみに塗れた筆跡だった。

 絶望が整合性を破綻させた、絶望を孕む色彩があった。

 尊敬できる絵描きの言葉を山のように書き写しても、そうなれなかった少年の挫折があった。

 少年は表面を取り繕えても、感情を押し込んで小さくして優しく微笑むことはできても、星野富弘のように強くも、美しくもなれなかった。

 

 あの少年は聖人などではない。ただの、頑張っているだけの子供だった。

 

 少年が絶望から筆を叩きつけたキャンバスを、少女は初めて見た。

 

 それを目にしただけで、流れ出していた涙が、もっともっとたくさん、流れ出そうだった。

 

「誰か……誰かさ……

 『優しい人に憧れる君は優しい子なんだよ』

 って……センセーに、言ってあげる人……居なかったのかな……」

 

 それは彼にとっての夢ではないのだろう。

 なぜなら、彼はずっと夢なんて持てていなかったからだ。

 子供の頃、"他の子供と同じようになりたい"と夢見て、叶わず折れた時点で、彼はずっとずっと夢を見られないまま生きてきたのだから。

 

 これは夢ではない。

 夢にすらなれなかった思いの残骸。

 まともな憧れにさえなれなかった死産の感情。

 

 始まりの夢で、シンボリルドルフを目指した少女。

 先人の言葉を支えとして、いつしかそれを生の指針とした少年。

 

 その二つに共通するのは、"ああなりたい"と願った誰かになれない自分を突きつけられた、どうしようもない絶望だけだ。

 "そうなれない"と理解した時、心に刻まれた傷だけだ。

 少女はシンボリルドルフになれず、少年は星野富弘になれなかった。

 

 少女はまた一つ、彼と自分の共通点を見つけ、互いが互いに優しくなれた理由を理解した。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「本当に欲しかったものって、なんでボクらのものにならないんだろうね」

 

「なんでだろうねぇ」

 

「ねー」

 

「お嬢さんも大変だったんだね。よくがんばった。えらいよ」

 

「センセーが言えたことじゃないでしょー」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 あの時。

 彼が隠し、こらえていた気持ちを、彼女は知った。

 彼女を気遣い押し込んでいた気持ちは、きっとまだ他にもあるのだろう。

 探せばまだここにはいくらでもあるのかもしれない。

 けれど、今はそれよりも探さなければならないものがあった。

 病院から消えた彼を、探さなければならない。

 それは彼の想いを探すことよりも優先されるべきことだ。

 

 彼は少女を弱くも、強くもする。

 

 今流している涙は、彼が与えた弱さによるもの。

 

 この悲しみにも負けないのは、彼との出会いがくれた強さによるもの。

 

 両方とももう、彼女の一部だ。捨てたりはしない。

 

 この先に何が待っていたとしても、どちらももう、捨てたりはしない。

 

 そう決めた。そう向き合うと決めた。

 

 まだ弱くても、まだ迷っていても、そう決めたのだ。

 

「待ってて、センセー。絶対に見つけるから」

 

 隠されていた少年の想いを見つけ、けれどまだ見つけたいものは見つからない。

 ゆえに、探す足は止めず。

 

 少女は、力強く歩み出した。

 

 

 

 

 




 1991年、群馬県勢多郡東村にて、障害をものともせず諦めなかった星野富弘に皆が敬意を表し、村立富弘美術館が設立されました。今年度5月をもって設立30周年を迎えています。おめでとうございます

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