目無し足無し夢も無し 心を救う永遠の帝王   作:ルシエド

23 / 25
「与えようとばかりして、貰おうとしなかった。
 なんと愚かな、
 間違った、
 誇張された、
 高慢な、
 短気な恋愛ではなかったか。
 ただ相手に与えるだけではいけない。相手からも貰わなくては」

   ―――フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ


23 必ず、きっと

 もしも運命というものがあり、もしもそれに意思があり、もしもそれに口があるのなら、それはずっと少女に対して囁いているだろう。

 

『運命は不動』

 

『結末は不動』

 

『お前は運命をなぞる』

 

『決められた敗北、挫折、絶望をなぞり、決められた勝利を果たせ』

 

『決められた勝利のための、奇跡を起こすための努力を当然に積み上げろ』

 

『そして、なぞれ』

 

『定められた通りに勝て。如何なる強敵も、お前の前では定められた通りに負ける』

 

『そして、四度目の骨折を経て、引退レースを決めるも、勝負さえできずに引退する』

 

『それまでは、定められた勝負の中で、お前は勝ち続ける』

 

 

 

『必ず、きっと、そうなる』

 

 

 

 

 

 ふと、鏡の向こうから自分自身が話しかけてきているような気がして、少女は鏡を見た。

 

 気のせいだったと思い、(かぶり)を振って自分の中の変な思考を振り落とす。

 鏡の向こうの自分が自分を嘲笑しているように見えるなど、疲れている証拠だろう。

 

 廊下で鈍く反射しているその鏡を見て、少女は何故か既視感を覚えた。

 本日二度目の鏡への既視感。

 一度目は病院、二度目はここで。

 病院で自分の顔を見た時、少女はトレーナーを思い出した。

 期待と諦めが混ざる、ただ祈って待つしかない、そんなトレーナー達と今の自分が同じ表情をしていることに気付いた少女は、半ば折れかけていた。

 

 この家に隠されていた彼の想いを知った少女は、もうその時と同じ顔はしていない。

 凛々しさと強さを取り戻した表情は、トレーナー達とは重ならなかった。

 なら、少女は何に既視感を覚えたのか。

 

「ああ、そっか」

 

 少女はぐるりと辺りを見回し、自分がモデルで描かれた数々の絵を見つめた。

 

 その全てに、彼女が居る。

 

 ここは絵で飽和した家。そして、彼が見た輝く彼女が飾られた家でもある。

 

「ここには、いや、センセーの絵の多くの中には、ボクが居るから……」

 

 病院で、少女が鏡から得た既視感があった。

 その既視感が、少女の心を追い詰め、弱らせた。

 

 この家で、少女が鏡から得た既視感があった。

 その既視感が、追い詰められた少女に奮起と、心を立ち上がらせる気力をくれた。

 

 鏡の向こうには何もない。

 自分自身が居るだけだ。

 弱い自分が鏡に映れば、いつかどこかで見た弱った誰かの顔と重なる。

 いつもの強い自分に戻ることができれば、この家に並ぶ、彼が惚れ込んだ青いウマ娘を描いた絵と、鏡の向こうの自分が重なる。

 

 全ての絵の、全ての彼女が、煌めいていた。

 全ての絵の彼女が、あの少年を惚れさせる魅力に満ちていた。

 だから。

 それらの絵に並ぶ自分に戻ってようやく少女は、それらの絵に描かれていた魅力、強さ、輝き、そして―――『彼女を彼女たらしめるもの』を失っていた自分に気付いたのである。

 

 ただ光を反射するだけの鏡が、絵画という名の真実を映す鏡の存在に気付かせた。

 

 絵画に映し出された己にこそ、奇跡の帝王の真実が在る。

 

 少女が胸を張って、背筋をピンと伸ばして、その眼光に強さが戻った。

 

 愛された絵画(じぶん)を見つめ直すことで、愛された少女は原型の光をより強い形で取り戻す。

 

「そっか。

 これがボクだ。

 こういうのがボクなんだ。

 センセーが大好きになったのは……ボクらしいボク、だよね」

 

 鏡が映す自分を見て、絵画が記した自分を見て、少女は思った。

 彼に悲しみを拭われるだけ、救われるだけの自分は間違いだ。

 彼に媚び、弱さを見せ、彼に寄り掛かるだけの自分も間違いだ。

 彼の死に絶望し、何をしていいか分からず、泣きそうな顔で迷うだけの自分も間違いだ。

 

 強く、かっこよく、前を向いて―――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と。

 

 先程まで、彼が好きになってくれていた自分を見失っていたからこそ、彼が好きになった彼女のことを絵に沢山描き留めてくれていたからこそ、それに気付き、そう思えた。

 

「あ、ちょうどいいところに」

 

「三浦さん。何かあった?」

 

「え、あの……何かあったと聞きたいのは、こちらもですが……」

 

「こっちは何もなかったよ」

 

「……いえ、なんでもありません。気のせいかもしれませんし。それより、見つけたものです」

 

 三浦は少女の空気の変化に戸惑うも、かの少年を探すという主目的を優先し、気になった部分の追求を放棄した。

 

 先程までの彼女とは、何かが違う。

 あの少年の運命を前にして、迷いと悲しみしか抱けていなかった少女とは見違えている。

 『死を受け入れないといけないのに受け入れたくない』という気持ちが、その表情にまでにじみ出ていた、弱さと逃避に蝕まれていた雰囲気が消えて無くなっていた。

 何かが違っていて、何かが変わっている。

 大人ほど強くもなくて、子供ほど弱くもなくて、大人ほど冷めてもいなくて、子供ほど幼稚でもなくて、現実が見えていないわけでもなく、夢を見れないほど情けなくもない。

 

 ただ、彼女の存在そのものに根付く、言葉にし難い何かが。途方もなく、強くて熱い。

 

「我々に心当たりはもうありません。

 しかし手がかりはありました。

 絵を描く道具が今日持ち出された形跡があります。

 乾いていない絵の具の混成試行の形跡もありました」

 

「センセーはここに道具を取りに来てたかもしれないってこと?」

 

「はい。おそらくついでに着替えも。だとすれば、どこかで絵を描いているのかも」

 

「そっか。うん。

 絵を描こうとしてるなら、ちょっとは安心できるかな。

 前は向いてるだろうから……発作がまた起きない限りは、多分まだ大丈夫」

 

「自殺はしない、かもしれません。

 ですが心当たりがもうない。

 彼ならなんだって描けるでしょう。

 もう、どこを探せばいいのか……自分には……」

 

「大丈夫、諦めなきゃきっと見つかるよ。

 今日までセンセーと話したこと、交わしたもの、それを思い出して。信じて行こう?」

 

「……そう、ですね」

 

 この家に来るまで、この二人の行動は三浦が主体であった。

 三浦が語り、三浦が教え、三浦が車を走らせて目的地に向かい、三浦の心当たりからこの家まで辿り着いた。

 三浦が大人の男で、既にあの少年の死を受け入れていた先人だったのもあり、三浦が何気なく主体であることに違和感はなかった。

 

 だが、今は違う。

 二人だけの捜索隊は、いつの間にか主体が入れ替わっていた。

 おそらくは、当人の二人さえもが気付かないままに。

 

「もう少し手がかりを探してみたいと思います。

 彼が今日ここに来たことは間違いないと思いますし……」

 

「うん、そうだね。手伝うよ」

 

「ありがとうございます」

 

 二人で協力し、痕跡が残っていそうな場所を探る。

 あまり時間をかけてはいられない。

 ここに痕跡があるという根拠も無いのだ。

 ある程度探索して何も見つからないならば、切り上げるべきである。

 彼がこの家から道具を持っていった痕跡を頼りにして、その周辺を二人で探った。

 

 ぼそりと、少女の口から言葉が漏れる。

 

「センセーはさ。

 たぶん、怖かったんだよね。

 だから『自分が死ぬのは大したことじゃない』ってずっと自分に言い聞かせてた。

 そう思ってれば、死ぬのが怖いと思っても、大したことじゃないって思えるもんね」

 

「先生もまだ子供です。彼なりの答えだったのだと思っています」

 

 床、壁、天井、棚、引き出し、どこを探っても何も見つからない。

 

 人生であれ、手がかり探しであれ、何も見つからないことが続くと人は不安になり、焦燥から何も見つけられなかったり、間違ったものを見つけがちだが、焦燥に飲まれつつあった三浦は、何か揺るぎない自分を見つけ出した少女の落ち着き払った雰囲気に触れ、冷静さを保っていた。

 

「透明な絵の理由が分かった。

 センセーは色を見たことがない。

 色を知ったことがない。

 想像で色を創るしかなかった。

 でもそれ以上に……センセーは他人の色がどうでもよかったんだよね」

 

「それは……」

 

「どうでもいいなら、他人を嫌いにならない。

 たぶん、めったに好きにもならない。

 自分が大したものに感じられないなら、他人だって大したものじゃないから」

 

 どの色も見たことがない。どの色にも執着しない。どの色も嫌うことがない。主観的に感じた美しさではなく、客観的な美しさを調べ、研究し、それを突き詰めた、透明な絵。

 芸術のための芸術、かつて提唱されたその概念の究極地点。

 他人の心色(カラー)にも興味がなく、ゆえに左右されない。

 長らく彼の絵に、『人のための芸術』の概念はなく、ゆえにこその最高純度があった。

 

「色が無いから透明。でも綺麗。

 それはきっと……センセーは、世界には綺麗であってほしいという願いを持ってたから」

 

 その上で『自分の人生には絶対的に未来も希望もない』という認知を与えたことで、頭の中のどこかのネジが外れて、出来上がったのが彼の絵だった。

 人の気持ちが分からないまま、人より人を理解してしまったエイリアンの同類。

 永遠を目指す透明な自動機械。

 それが変わったのは、彼の絵を、芸術のための芸術から、人のための芸術に引き戻した出会いがあったから。

 

「センセーは、本当は、センセーが死んだらボクがどのくらい悲しむかも分かってない。

 このくらい悲しむんだろうなあ、って過小評価してるんだよね。

 自分が死ぬのは『大したこと』じゃないと思ってるんだろうな、って。

 自分が死んだ時の他人の心の色を、ちゃんと想像で見えてないんだよ。

 じゃあ、さ。

 ボクがどのくらい『大したこと』だと思ってるのかなんて、分かるわけがないんだよ」

 

「……その通り、でしょうね」

 

「センセーは分かってない。

 ボクがどのくらい悲しむかなんて分かってない。

 ただ、ボクがほんのちょっとでも悲しむことさえ嫌がってるだけ」

 

 透明は綺麗だ。

 

「センセーの罪悪感は、ボクを分かってるからじゃなくて、ボクが大好きだからなんだよね」

 

「……」

 

 何も混ざっていないから透明でいられる。

 透明人間であれば、死んでも誰も悲しまない。

 己の死で誰も悲しまないようにするなら、誰の目にも映っていない透明人間になるしかない。

 三浦の前から消えたのも、少年は三浦にとっての透明人間になりたかったから。

 だが、芸術のための芸術から人のための芸術になった時点で、ただ綺麗で在ることなど許されない。綺麗に死ぬことさえ、とても難しくなってしまう。

 

 彼の透明には、とっくに色がついていた。

 彼女の色がついていた。

 透明な飴細工に色のついた光を当てると、その光の色に合わせた色がついて見えるように、彼の透明を、彼女の光が染め上げていた。

 

「その通りです。

 それは自意識過剰でもなんでもない、ただの事実。

 彼は、あなたのことを……まぎれもなく、一人の女性として……」

 

「ストップ。その先は、センセーが言わなくちゃダメなことだよ?」

 

「っと、申し訳ありません」

 

 三浦が焦った様子で頭を下げて、少女はくすくすと笑っていた。

 ありとあらゆる理屈を抜きにして、あの少年の生存と無事を確信し、揺らがない姿勢と落ち着き払った振る舞いを見せる少女に、三浦は冷静さを分けてもらっている。

 

 この少女は今、何か、どこかで、他の人間には絶対に理解できず共感もできない理屈で、あの少年と繋がっている―――そんな、常識的に考えれば錯覚以外にありえない感覚的推測が、三浦の中に生まれていた。

 

「彼の絵は、随分と変わりました。おそらくは、あなたのおかげで」

 

「ボクの? そうかもね」

 

「過去の論評曰く、彼の絵は『努力し頂点を目指したことのある者』に特に響くそうです」

 

「……へえ」

 

 喋りながらも痕跡を探す手を止めず、二人の目は目聡く動き、小さな痕跡も見落とさない。

 

「彼の絵は透明感の強い、無垢の幻想の世界。

 世界を一度も見たことがない者のみが描ける絵です。

 と、同時に、その裏面には憧れがある。

 彼が憧れても決して手に入らないものへの憧れが。

 芸術にはない明確な勝ち負け。

 夢の熱。

 頑張り、鍛え、己を高め続ける精神。

 頂点を目指す懸命なる者達の競走……絵の裏側にそれらへの尊敬がある」

 

「あるね。センセーの絵は、ボクの絵だけじゃなくて、ウマ娘の絵全部が凄かったもん」

 

「けれど、現代でその絵画特性は必ずしも汎的な武器にはなりえません。

 なぜなら、人は大して頑張っていないからです。

 ほとんどの人は手を抜いて日々を生きています。

 頑張ったつもりで、自分は辛いと主張し、それだけ。

 頂点を目指さない人間が大多数を占めています。

 だから……頂点を目指した者によく響く彼の絵は、人間相手には売れにくかった」

 

「過去形?」

 

「過去形ですね。

 数年前の話です。

 今はもう随分と、違う色合いの絵になりました。

 頂点を目指していない、ささやかに頑張っている人にも、刺さる絵になったと思います」

 

 それは画商の見解。

 教養のあるマックイーンでも持てない視点。

 客観的に世界を見て、時代を見て、民衆を見て、これまでの歴史上どの時代にどの絵が売れたかを研究した者だけが持てる眼。

 あの少年の代わりに見る眼。

 この時代におけるあの少年の絵の立ち位置を言語化した見解だった。

 

「社会で苦しんでいる人が増えれば増えるほど売れる。

 苦しい人が多い国でこそ売れる。

 彼の絵は頑張っている人間へのエールになるものだからです。

 星野富弘の作品が、先生を救ったのと同じ。

 救われない人生から生まれた創作こそが、救われない人生を送る人間の心を救う。

 彼が死んだ後、社会が今よりも幸せでなくなった時、彼の絵は売れると目されていました」

 

「死後に絵が売れる人、結構居るんだっけ」

 

「はい。彼の絵は、救われない人生の反映で、救われない社会で受けるものである、と」

 

 救われない盲目の人生からしか生まれない透明こそが、人の心を救う飲み水となる。

 

 少女にとって、理解もできる、納得もできる、肯定もできる、けれど受け入れたくはない、正しい見解だった。

 

「なので、先生は死後になるまで真に評価されない……

 うちの画廊のボスはまだそう思っています。

 無論、ウマ娘からの受けは非常にいいですし。

 最近の変化が、明確に評論にも影響をもたらしています。

 先生は変わりました。

 様々な変化を得ました。

 それをひとまとめにすると、どういう言葉になるか。

 きっと、『生前に評価される画家になった』と……そう言うんです」

 

 三浦は、少女を全面的に褒めている。ずっと、ずっとそうだ。

 

「死後に評価されるはずだった画家を。

 生前に評価される画家に変えた。

 芸術の世界において……これがどれだけの偉業であるか、分かりますか?」

 

「ちょっと、ボクには分かんないかな」

 

「それでも構いません。

 自分は、この奇跡に感動しているんです。

 誰も起こせなかった奇跡を、あなたは起こした」

 

「奇跡……かぁ」

 

 大勢が見ている中起こして記録された奇跡ではない、たった一人のために起こした、記録されたわけでもない、たった一人を救うためだけの奇跡。

 

「死の運命が変わらないとしても……

 最後の最後に、先生とあなたが言葉を交わせば、そこに何かが……

 きっと、いえ、必ず。あなたなら先生を救えるはずだと、思うのです」

 

 三浦は自覚なく語っている。

 彼も最初はここまで夢見がちなことを語る人間ではなかったはずだ。

 大人として、現実を見て、あの少年の死をどう受け入れるか決めた者であったはずだ。

 それが、これまでの少女が少年に与えてきた変化が、少女が成してきた全てが、そして何より、今の少女が纏う別格の雰囲気が、三浦に自覚なき変化を与えていた。

 三浦は徐々に姿勢を変化させ、いつの間にか少女に大きく"期待"するようになっていた。

 

 いつの間にか少女は、彼にも夢を見せていた。

 

 この悲劇で終わるしかない物語を、結末が決まりきっていたはずの少年の人生を、自分が予想できていない結末(ゴール)に連れて行ってくれるのでは、と。

 三浦は、その背中に夢を見ていた。

 勝利に繋がる夢ではない。

 幸福に繋がる夢を。

 そのウマ娘が夢を叶える未来を、ごく自然に、無自覚に、夢見ていた。

 

「……これ以上時間をかけるのは得策ではありませんね。

 手がかりはなかった、と割り切りましょう。

 一旦、我々の心当たりの場所をもう一度回ってみるべきです」

 

 とにかく、彼を見つけなくては。

 そう思い、二人が家を出ようとした時、少女は青いウマ娘の絵を見つけた。

 日本画の技術を用いた、純和風の絵であった。

 花が咲き誇る池の中、池の真ん中に伸びた一本の橋の上で、青いウマ娘が佇んでいる。

 角度的に、家に入った時には見えない絵。

 家を出る時にしか見えない絵。

 それを目にして、なんでもない背景の一部、花の中を凝視して、少女は首を傾げていた。

 

「なんかここー、文字入ってない?」

 

「……驚きました」

 

「え? なんで?」

 

「それは昔の先生が使っていた独自表現技法です。

 平安時代に描かれた絵画化した文字を入れる『葦手絵』。

 イタリア語や英語の文字列を入れる『カルテリーノ』。

 その二つを組み合わせた難解な、絵に混ざる文字表現です。

 最近先生と出会った人が気付けるようなものではないんですよ」

 

「そうかな? センセーのこと知ってたらなんか気付けそうじゃない?」

 

「……」

 

 三浦は顎に手を当て、少女を見やり、何やら考え込み始めた。

 

「なんて書いてあるの?」

 

「これは……唯一抜きん出て並ぶ者なし(Eclipse first, the rest nowhere.)、ですね」

 

「……あ」

 

「エクリプス……確か伝説のウマ娘で、この格言を生んだウマ娘と聞いたことが……」

 

 探すつもりは無かった。

 探せばいくらでも、彼が彼女に向けた想いを見つけてしまうことは明白だったから。

 今はいい、後でいい、そう思って探していなかったのに、不意打ちで見つけてしまって、少女はむず痒くなって頬を掻く。

 

 一見して美しい風景画に見えるが、その実レースに挑む者へのエール。

 いつか彼女がレース復帰した時にでも、これを贈るつもりだったのかもしれない。

 

「目が見えない者から、目が見える者への挑戦。

 そういう概念も含めた上で、一つの完成された芸術ですね。

 『お前の目は本当に見えているのか?』

 『見えているなら、読んでくれ』

 『気付かなくてもそれでいい。君は花を楽しんでくれ』

 と……そう言ってくるような、深く優しい絵に感じますね、これは」

 

「そっか」

 

 少女は暖かに照らす太陽。

 少年は照らされ癒やす月。

 

 結局、彼は失敗したのかもしれない。

 間に合わなかった。

 だが彼がまだ諦めていないのであれば――少女から学んだ『諦めない』を胸に抱くのであれば――まだ、自分の死が彼女を傷付けないようにしたがっているはずだ。

 彼が、己の死で少女が涙する結末を受け入れられるわけがない。

 

 月が太陽を陰らせる日食(エクリプス)など、あってはならない。そう思っている限り。

 

 されど。

 

 唯一抜きん出る者(エクリプス)を目指す、全てのウマ娘達の頂点であり無敗の最強としてかつて君臨していた一人のウマ娘は―――彼に迎合するだけの存在ではない。

 

 彼女には彼女の考えが、意思が、信念がある。

 

「行こっか、三浦さん」

 

 彼が絵に入れ込んだ文字列から一つの文言を発見した三浦を見て、少女はふと思う。

 

 彼を見つけたいのであれば……()()()()()()()()()()()()、と。

 

 そんな彼女をよそに、何やら考え込んでいた三浦は、一つの結論を出した。

 

「……もしかしたら、貴女にしか彼を見つけられないのかもしれません」

 

「えっ?」

 

「先生は昔から、こういうものをたまに仕込む人でした。

 毎回ではありません。

 たまにです。

 見る人が注視していない時に、そっと仕込むのです。

 だからこそ、真に見る目のある人、真に先生を理解する人にしか分からなかったのです」

 

「見る目のある人と……理解する人?」

 

「今の先生に対し、そういう存在になれるのは……きっと、あなた一人だけです」

 

「!」

 

「自分はノイズだったのかもしれません。

 もしかしたら、自分が同行していなければ、すぐ見つかっていたのかも。

 ……不安になりすぎているのかもしれません。

 しかし、思うのです。

 あなた一人ならば、と。

 信じたい気持ちがあるのです。

 昔自分が全く気付けなかった先生の仕込みを、一瞬で見抜いたあなたなら……」

 

 横で余計なことを言えば邪魔になるかもしれない。少女に余計なことを言って思考を乱してしまうかもしれない。三浦の存在が少女の感覚の邪魔になるかもしれない。

 そういうことを思えば、三浦は同行を選べなかった。

 

 ウマ娘の世界では、"今の自分ではもう彼女についていけないから"と、今の自分とずっと先を行く誰かを比べて引退する者が珍しくないという。

 ついていけない。

 ついていけない自分に気を使わせたくない。

 自分は置いていって、その人には一人で成せることを成してほしい。

 そう思って、引退するウマ娘はそれなりに多いという。

 

 今の三浦は、それに近い気持ちを持っていた。

 あの少年の昔のことしか知らず、今の少年を熟知していない、足手まといな自分を置いて、少女にはあの少年のところに辿り着いてほしいと―――そう考えたのである。

 

「きっと……いえ、必ず、あなたは先生を見つけられます。そんな気がするんです」

 

「そんなにボクのこと、信じられるの?」

 

「はい。走るあなたに夢を見た人達の気持ちが、今なら分かる気がします」

 

「……」

 

「あなたと先生が、許される範囲で最大の奇跡を掴めると、信じたい気持ちがあるのです」

 

 何度挫けても、そのたびに夢は見られる。

 

 目の治療法を探して、希望を持って、否定されて、挫けて。

 病の治療法を探して、希望を持って、否定されて、挫けて。

 幾度となく折れた果て、今死というゴールに到達しようとしている。

 それでも。

 そんな絶望の底でも新たに見られる夢は、あるのかもしれない。

 

 "せめて優しい最後があってほしい"と、画商の三浦は夢を見た。

 

「ノイズになるかもしれない自分は離れます。

 一旦別れて、手分けをして探すんです。見つかったら連絡をお願いします」

 

「……いいの? 一緒に見つけて、一緒に言いたいこと言っちゃおうよ」

 

「もしも、先生が……

 芸術家の理想のような、美しい終わりを迎えられるのなら……

 死は悲劇でないと、証明できるのなら……

 自分がそのノイズとなり、その邪魔をしているのなら……

 自分は先生が終わりを迎えた後に合流します。それが、彼のためになるのなら」

 

 三浦は駅前まで彼女を送り、『自分では見つけられないだろう』という悲しき確信を得て、それでもなお諦めることなく、少年を探して車を走らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年が少女への愛と恋を謳った絵の中には、飾られた花言葉にも、その本数においても、常に少年の謝罪があった。

 

 ごめんね、ごめんねと、絵の中で謝っていた。

 言葉にできない思いが、絵の中にあった。

 

 『好きになってごめんね』と。

 『出会ってごめんね』と。

 『悲しませてごめんね』と。

 

 三浦との離別を選んだ時に彼がそう書き残したことから見ても分かるように、彼は己の病気が原因で他人が苦しむことに対し、いつも心の中で謝っていた。

 

 それこそ、一歩間違えれば"出会わなければ良かった"と言ってしまいかねないほどに。

 

 あの少年が一度もそう言わなかったのは、彼の中でそれほどまでに、少年少女の出会いが価値あるものだったからだろうか。

 

「後悔なんて無いよ。

 出会わなければ良かったなんて思わない。

 ぜったい、思ってあげない。

 だから、ボクはセンセーが嫌だって言っても、そばに居てあげるんだ」

 

 そんな彼の想いを、少女は全力で否定して跳ね除ける。

 

 だが、彼の"ごめんね"を直接言って否定したくて探し回っているのに、見つからない。

 どこを探しても彼が居ない。

 もう少し。

 もう少しで何か分かりそうだと思うも、少女は答えに辿り着けない。

 必要な情報の断片は全て揃っているという確信はあった。

 だから少女は考えているが、分からない。

 

 ピースが一つだけハマっていないパズルを見つめているような、そんな気分。

 あと一つ。

 あと一つ何かがあれば、答えが見つかるという感覚だけがあった。

 少女はあと一つ、何か必要なことを知ることができれば、それで何かが分かる気がしていた。

 

 三浦が残した"美しい終わりを迎えられるのなら"という言葉が、ずっと少女の脳裏にちらついている。

 

「美しい終わり、か」

 

 その言葉が、ウマ娘である彼女のどこか、魂の奥深いところで、よく分からないままに引っかかっている。

 

 この世界におけるウマ娘は、人間の延長、あるいは平行、かつ異生物という存在である。

 人間とは違うが、その生態は人間に近い。

 

 しかしながらこの世界に存在しない競走馬は、ウマ娘とは根本的に違う。

 競走馬は根本的に動物である。

 その末路も、"動物に対する慈悲"による悲しいものが相当に多い。

 

 レース中に粉砕骨折、その場で安楽死させられたライスシャワー。

 同じくレース中の骨折から予後不良と判断され安楽死させられたサイレンススズカ。

 休養無く走らされ続け、体調不良でも走らされ続け、安楽死処分が妥当と判断されたにもかかわらず、金目的の馬主の強い要望で苦しみの中6度の手術を受けさせられ、蹄が腐り苦しみながら心臓麻痺で死んでいったサンエイサンキュー。

 高松宮杯で骨折した翌日、屠殺され食肉化されたハマノパレード。

 怪我の治りが悪くて二度と勝てないまま引退した馬、レースには勝ったのに子供を残すことすらできず死んでいった馬、一度も勝てないまま空気のように消えていった馬。

 

 競走馬の歴史とは、『美しい終わりを迎えられなかった者達』の歴史である。

 

 『奇跡の帝王』と呼ばれた競走馬もまた、引退レースを決定していたものの、引退レースまでに回復することができず、引退レースにも出られず、引退式を迎えた馬だった。

 それでもまだ、マシな方ではあったと言える。

 その終わりは骨折の悲劇にまみれていても、醜悪ではなかった。

 奇跡の帝王はただ、"最後に約束した勝負のレースができないまま終わった"だけだったから。

 奇跡の帝王がそれまで見てきた馬達の末路の方が、よっぽど美しくはなかっただろう。

 

 "美しい終わりを迎えられるのなら"という三浦の言葉は、ウマ娘の魂のどこかに引っかかる。

 

 『美しい終わりを迎えられるならそれ以上はない』という気持ちが、何故か湧いてくる。

 

 終わりが近い。

 

 その実感がある。

 

 あの日、偶然(うんめい)の出会いから始まった二人の物語の終わりが近付いている。

 

「もし、ボクが、そういうの好きだったなら……

 あの時、引退撤回せず、引退ライブで終わりを受け入れてたのかな。

 センセーの死に悩むこともなく、最後をどう飾るかを考えてたのかな。

 だとしても。ボクが、センセーと出会ってから、思ったことは、得たものは……」

 

 少女は既に、向き合い方を決めている。

 後は最後の選択だけ。

 何をするか。

 どうするか。

 そして、どんな結末を望み、どんな願いを叫ぶのか。

 選択し、彼を見つけ、それを口にして、彼らの物語はようやく最後の幕を上げる。

 

 少年を探しに次の場所へ行こうと、少女が一歩踏み出したその時。

 

 少女の前で車が止まり、中から一人の少女が現れた。

 

「あら。随分とマシな顔になりましたのね。最近は毎日辛気臭い顔をしてましたのに」

 

「え、マックイーン?」

 

「ごきげんよう」

 

 車から降りた優美な私服のメジロマックイーンが、優雅にそこで微笑んでいた。

 

 いつものような優雅な微笑み。

 

 しかし何故か、今日だけ何故か、その微笑みに距離を感じて、少女は少し身構える。

 

「あ、そうだ。マックイーン。

 白い杖の人見なかった?

 髪はこう、普通の黒髪を短く切り揃えてた感じで……

 目が見えないから、ずっと目を瞑ってて、でも表情がずっと優しい感じで……」

 

「ええ、見ましたわ」

 

「そーだよねーマックイーンも見てないよねーってえええ!? ど、どこで!? 教えて!」

 

「教えませんわ」

 

「え?」

 

「今日の(わたくし)は、彼の味方ですもの」

 

「は?」

 

 一瞬、少女の思考が止まった。

 

「彼と約束しましたわ。

 彼の居場所は誰にも教えない。

 今は一人になりたい彼を、(わたくし)は一人にしてあげると」

 

「ちょっと待ってよマックイーン!

 マックイーンは今何がどうなってるか知らないんだよ!

 センセーは持ち直してたから普通に見えたかもしれないけど、病院から抜け出してて……」

 

「ええ。彼を運ぶ車の中で事情は聞きましたわ。

 それと、貴女が聞いていないであろうことも。

 今の彼が発作を起こす可能性も考慮し、打てる手は全て打ってあります」

 

「ボクが聞いていないこと……?

 いや、そうじゃない。マックイーン、どういうつもり?」

 

(わたくし)は貴女が正しいとも、彼が正しいとも思っていない。それだけですわ」

 

「わけわかんないよー! 何がしたいの!?」

 

 少女は、まったくもってわけがわからなかった。

 少年が何を考えているのか分からない。

 マックイーンが何を考えているのか分からない。

 少年とマックイーンが二人で何を企んでいるのか分からない。

 そもそも、少年とマックイーンが何やら仲良さそうというだけで困惑の極みであった。

 

 混乱する少女に対し、マックイーンは会話の主導権を握りに行く。

 

「問答で『勝負』でもしてみますか?

 (わたくし)を言い負かせれば、あるいは彼の居場所を聞き出せるかもしれませんわよ?」

 

「え、勝負って……」

 

「今彼が居る場所は、(わたくし)が教えなければ、いくら外をうろついても見つかりませんわ」

 

「! ……分かった。なにがなんでも教えてもらうからね!」

 

 混乱に乗じて、マックイーンは話の流れを作り、上手いこと少女をそこに乗せた。

 

 他の誰のためでもなく、マックイーン自身の願いのために。

 

 

 

 

 

 少女は珍しく真面目な顔で、凛々しい表情で、マックイーンを問い詰める。

 

 対しマックイーンは柳のような姿勢、涼やかな表情で、少女の威圧をのらりくらりと受け流していた。

 

「マックイーン、センセーと知り合いだったんだね。全部知ってたの?」

 

「さっき知ったばかりですわ。

 中々点と点が線で繋がらなかったものですから。

 まったく、知っていれば早くに(わたくし)も相応の動きをしていたものを……」

 

「……」

 

「貴女が隠していた理由は聞きませんわ。

 それなりに想像もできますもの。

 彼と貴女の日々のことも、かいつまんで聞けましたしね」

 

「そ、そっか」

 

「ふふふっ、でも、貴女がまさかそんな……驚きましたわ。

 もう冬が終わり、春になりますものね。貴女にも春が来たというわけです」

 

「う、うるさいなぁもう!」

 

 くすくすとからかうマックイーンに会話の主導権を握られたまま、少女は顔を真っ赤にした。

 

「なにさ! わざわざボクにいじわるしに来たの!?」

 

「意地悪? (わたくし)が?」

 

「だってそうでしょ!

 センセーの居場所も隠してるし!

 何が目的かも言わないし!

 いじわるで適当なこと言って遊んでるんじゃないの!?

 今ボクそういうことしてられないの! 早く教えてよ!」

 

「意地悪なのは貴女じゃありませんの?」

 

「……え?」

 

 核心をついたような言葉を、冷えた表情のマックイーンが口にして、言葉をまくし立てていた少女が止まった。

 

「彼と出会い、彼を惚れさせ。

 彼を変え、死を受け入れるだけだった彼に希望を見せ。

 なまじ希望と幸福を見せた分、死の瞬間の喪失は大きくなる。

 彼の人生において最大の意地悪は、貴女の存在だったのではないかしら?」

 

「そ、それは……」

 

「ああ、それとも。

 彼が意地悪だったのかもしれませんわね。

 全てを知った上で、繋がりを絶たなかった。

 悲しみを拭うことに失敗してしまった。

 悲しむ必要が無かった貴女が悲しむのは、彼のせいとも言えますわ」

 

「それは違うよマックイーン!

 それだけは絶対に違う!

 センセーは悪くない!

 普通に生まれてたらそれだけで、センセーは誰も傷付けてなかったはずだよ!」

 

「……ええ、そう思うなら、それでいいと思いますわ。

 貴女も彼も悪くない。

 貴女達二人は心を通わせただけ。そこに罪はありませんもの」

 

 マックイーンは穏やかな表情で、会話の流れを作っている。

 話をどこに持っていきたいのか。

 少女に何を言わせたいのか。

 それを分かっているのは、会話の主導権を握っているマックイーンだけである。

 

 会話の主導権をマックイーンに握られたまま、マックイーンとの問答で振り回され、少女はとにかく食らいつく気概で問答を続けた。

 

「それとも、運命のせいにでもしてしまいましょうか。

 運命はいじわるですものね?

 理不尽に起きた悲劇は、全て運命のせいにできますわ。

 ああ、悲劇の運命、悲しき運命、運命に人格があれば、そこに悪態でもついたものを……」

 

「……やっぱ、マックイーン、ボクにいじわるしに来たんじゃないか」

 

「いいえ、意地悪なんてしていませんわ」

 

「どこがさ!」

 

()()()()()()()()()()()みたいですわね」

 

「え」

 

「貴女を悪く言われたら困惑。

 運命を悪く言われても気にしない。

 でも、彼を悪く言われるとすぐに怒って、すぐ言葉が出たでしょう?

 慣れたから、すぐ言葉が出たのでしょう?

 彼とは数回話しただけですが、彼は自分のせいにだけはするタイプに見えましたわ」

 

「あ……」

 

「彼だけは特別。

 分かりますわ。

 同時に、貴女が何もかもを彼のせいにだけはしたくないというのも分かります」

 

 マックイーンの言葉が、彼と彼女の関係、そして二人の関係に根ざすもの、そこから生まれたあまりよくないものを解体していく。

 

 事此処に至るまで、少年と少女の関係性に問題は無かった。

 何一つ歪みもなく、マイナスの効果に繋がるものも無かった。

 しかし、今は違う。

 今、指摘されなければならないものがある。

 今、摘出されなければならないものがある。

 

 この少女に対しそれができるのは、メジロマックイーンしかいない。

 

「だ、だってさ、センセー優しいもん。

 誰のせいにもしないし。

 いつも頑張ってるし。

 何でも受け入れてるし。

 わざわざ悪く言うところなんてないよ。

 センセーのせいにするのだけは間違ってるって。

 たまに何か思うことあっても、ボクはセンセーに何か言えるほど立派に生きてないし……」

 

()()()()()()()()()()()

 

「……え?」

 

「彼も苦労しているでしょうね。

 いえ、どうかしら。

 これは彼に引っ張られてるのかしら。

 彼にとってはこの方が生きやすい面もある?

 それとも、優しい帝王様の気持ちを尊重したのかしらね……」

 

「ちょ、ちょっと、一人で納得して独り言つぶやくのやめてよ」

 

 少女は彼を悪く言うことを許せない。

 

―――……ボクはボクより、センセーの絵とか、描いてる姿とかの方が、芸術っぽいと思うよ

 

 彼自身が彼自身を悪く言うこと、低く言うことすら許さなかったのだ。

 

 誰かが彼を悪く言うことも。

 彼が彼を悪く言うことも。

 マックイーンが彼を悪く言うことも。

 ともすれば、自分が彼を悪く言うことも、少女にとってはとても嫌なことだった。

 

「彼を思いやって。

 彼を気遣って。

 彼に優しくして。

 彼を傷付けないようにして。

 彼と喧嘩にならないようにして。

 ええ、いいことですわ。

 彼は視覚障害者ですものね。

 誰もが無自覚に、無意識に、彼をそうして、割れ物のように扱うのでしょう」

 

「それ、は」

 

 一つだけ。

 事態が此処まで転がって、それでようやく問題になる、彼と彼女の間に存在する問題未満のものがあった。

 その問題がある限り、現れない『叫び』があった。

 

「貴女、彼に一度も本気でぶつかってないでしょう?

 ()()()()()()()()()()()()()()意見をぶつけ合ってすらいない。

 全力で彼の何かを否定する言葉すら発していない。

 (わたくし)に対しては、(わたくし)の想いも、夢も、願いも、叩き潰す勢いでぶつかれたのに」

 

「……あ」

 

「自分の心の底まで見せ合える。

 相手が心の底まで見せてくれる。

 そんな関係まで行っているのに宝物を扱うようにしか触れない。

 "そんなこと言わないで"と大声を上げたことすらない。

 そんなだから、いつの間にか彼の願いや望みに引っ張られ、流されるのですわ」

 

 マックイーンは、二人の関係を否定していない。

 二人の関係が生んだものを否定していない。

 素晴らしい関係だと、そう素直に思えている。

 

 だからこそ、その関係が、最後の最後で一つだけ間違えて台無しになってしまうことを、マックイーンは許せない。

 許せないものに立ち向かい、勝つ。それがメジロマックイーンだ。

 

「気持ちは分かりますわ。

 死は絶対。

 不治の病は治せません。

 レースの中で諦めないことと同列に語れるものではありません。

 諦めなければ治るものでもないのですから。

 迂闊な提案が死に繋がることさえあります。

 それは(わたくし)達が負った怪我よりなお理不尽で救い難いものでしょう」

 

「……うん」

 

「今日まで随分と苦悩したでしょう? それを否定はしません。貴女は優しい子ですもの」

 

「マックイーン……」

 

「でも、貴女が最大限彼に優しさだけを与えるから。

 彼は貴女に最大限に優しさだけを与えるしかない、そういう面もあるのです」

 

「―――」

 

「貴女が彼を強く否定しないから。

 彼も貴女を強く否定できない。

 だから彼は、貴女を尊重し続けたのです。

 貴女の意思を尊重しながら、貴女の悲しみを拭おうとしたのです。

 貴女の泣きたい気持ちを尊重しながら、自分が死んでも貴女が泣かないように、と……」

 

 それは矛盾である。

 矛盾を孕んでいいなら、方法はいくらでもあった。

 何かを妥協すれば、方法はいくらでもあった。

 少年は子供であってもバカではなかったから、選ぶ方法はいくらでもあった。

 

 だが、『でもそれじゃ彼女の人生にとっての最善じゃない』という思考が、ひたすらに選択肢を殺していった。

 

 二人が互いが無傷であることを望んだ。

 無傷であること、幸福であること、それをひたすらに祈っていた。

 

 少女にはいつも本音で話しつつ、口に出さないようにしていたことがあった。

 それは、少年も同じ。

 少年には愛する人の最善の未来のため、選べないものがあった。

 それは、少女も同じ。

 

 今日までの何気ない会話の一つ一つ、その全てが、少年を想う少女と、少女を想う少年の、相手のためを想う気持ちに満ちている。

 

「彼の心は、パンクしました。

 そして倒れてしまいました。

 彼は今、絵を描きながら言い訳を考えています。

 貴女に心配させないために。

 貴女の意思を尊重するために。

 貴女に涙無く彼の死を受け入れさせる、彼の理想の結末、その未来に繋げるために」

 

「……センセー……」

 

「それが彼が隠れている理由ですわ。

 貴女に会いたくないのです、彼は。

 貴女のために。

 貴女が泣かない未来のために、言葉を考えているのです。

 本当に……言葉がありませんわ。心底呆れて、心底尊敬しています」

 

「……センセーはさぁ。ホント、なんだろうね。……いや、ちゃんと面と向かって言わないと」

 

 その時、少女が浮かべていた表情を見て、マックイーンは背中側に隠した拳を強く握る。

 

 人知れず固められた、マックイーンの覚悟があった。

 

「『愛』と言ったら陳腐ですが、『愛』以外に表現する言葉が見つかりません」

 

 少女の目と、マックイーンの目が合う。

 

「死は運命。けれど、それでも、運命を無言で受け入れる責務など、誰にもありませんわ」

 

「―――」

 

「貴女に問います。

 貴女の最大のライバルとして。

 貴女の全ての叫びを受け止められる者として。

 貴女は彼がこのまま死んでしまって、平気なのですか?」

 

 ライバルの目が。

 声が。

 言葉が。

 意思が。

 問いかけが。

 ここまでの会話の全てが。

 かの少年の絵が蘇らせた、少女の強さと熱さ、そして滾る感情が。

 

 ようやくその言葉を、その少女から引き出した。

 

 

 

「―――平気になんてなれるわけ、ないじゃん!」

 

 

 

 感情のダムが決壊し、次から次へと言葉が溢れる。

 

「好きだよ!

 好きなんだ!

 どうしようもないくらい!

 好きじゃなくなれば平気になるかもしれないって!

 そう思って好きを捨てようとしてたのに、次の日にはもっと好きになってた!」

 

 それは想い。溢れる想い。今日までずっと積み上げられてきた想い。

 

「センセーはさ、ボクのこと好きすぎだし、信じすぎ!

 それでいて、その信頼は正しいんだ!

 センセーはボクのことちゃんと分かってるから!

 ボクの強さをボクより分かってくれてるから!

 乗り越えられるって理解したから、納得させようとしてるセンセーは正しいよ! けど!」

 

 どんなに押し込んでも、どんなに抑えようとしても、消えて無くなることのなかった、少女の中の不滅の想い。永遠の恋で、永遠の愛だ。

 

「センセーが死んで、そりゃ乗り越えられるかもしれないよ!

 辛いことだって、頑張れば乗り越えられる!

 ボクは知ってる!

 だってそう生きてきたんだから!

 皆が居るから!

 居てくれるから!

 ボクが頑張れば、センセーが死んだって乗り越えられる……けど!」

 

 それは、愛であり。

 恋であり。

 怒りであり。

 不満であり。

 けれどやっぱり、愛だった。

 

 

 

「乗り越えたくなんてないんだよ! 大好きなんだから!」

 

 

 

 センセーはズルいと。

 でも悪いズルはしてないと。

 事あるごとに、少女は言っていた。

 

「なんでボクの悲しみを削ろうとするの!

 ボクはセンセーが大好きだから悲しいのに!

 なんでボクを納得させようとするのさ!

 ボクは納得なんてできないのに!

 なんで……ボクの心配だけしてるんだよ!

 死ぬのはセンセーなのに!

 ボクのこと思ってるみたいな顔されたら……拒めないじゃん……ずるいよ……」

 

 マックイーンは知っていた。これを抱えたまま、これを口に出さないまま、何かの結末を迎えたとしても―――その先に、幸せはないと。

 

「ボクのこと好きなら、ボクのこと悲しませないでよ!

 ボクのこと好きなら、ずっと一緒にいてよ!

 ボクのこと好きなら、ボクのこと隣で一生幸せにしてよ!

 ボクのこと好きなら! 絵だけじゃなく口でもっと言えー! 恥ずかしがり屋ー!」

 

 叫ぶ。

 

「こんなこと思ってて、思ったこと口に出したら、センセー困らせるだけのボクも嫌いだ!」

 

 叫ぶ。

 

「センセーをいじめる、何もかもが、嫌いだ……!」

 

 泣きそうな声で、叫ぶ。

 

 強い意志をもって、叫ぶ。

 

「ボクはセンセーを守りたいんだよ、何もかもから」

 

「ええ、知ってますわ」

 

 マックイーンは何一つ笑うことなく、真っ直ぐな瞳で、それを見つめていた。

 

「ねえ、マックイーン。ボクはこんなにも無力感があるの、初めてなんだ」

 

「ええ、分かります。

 今の(わたくし)も、足が壊れた時より大きな無力感を覚えています。なので」

 

「なので?」

 

「だからこそ(わたくし)は、(わたくし)の信じるもののために動いています」

 

「マックイーンの、信じるもの?」

 

 薄紫の長い髪をかき上げ、真摯な表情で、マックイーンはすぱっと言い切る。

 

「奇跡は起きます。それを望み、奮起する者のもとに、必ず、きっと」

 

 迷いの無い言い切りだった。

 

「―――ああ。マックイーンは、本当にマックイーンなんだね」

 

 奇跡を見せる少女と、奇跡を信じる少女。二人は永遠に対等である。

 

「貴女が貴女である限り、(わたくし)は奇跡を信じています。いついかなる時も」

 

 その言葉に感情を動かされ、そして、少女は気付く。

 

 メジロマックイーンは、彼の病気の完治という、奇跡の中の奇跡を目指していることを。

 

 長い薄紫の髪をかき上げて微笑むマックイーンは、揺らがない信念に生きていた。

 

「心のどこかに諦めがあって、難病を乗り越えた者など居ませんわ。

 この世でただひとり。

 ほんの僅かな可能性でも、彼を救える可能性がある者……それが貴女なのです」

 

「ボクが……?」

 

「ええ。

 貴女の尻を叩いているのもその一環ですわ。

 貴女が貴女で在ればいいのです。

 ただそれだけで、貴女の周りの人間は、心を強く奮い立たせますから」

 

「……センセーは今日まで、どの治療法でもどうにもならなかったって言ってたよ?」

 

「それでも、地球上の医者全てをあたったわけではないでしょう?」

 

「!」

 

(わたくし)(わたくし)が信じる者を拠り所としています。医療はまず管理ですわ」

 

 マックイーンが、ぱちんと指を鳴らす。

 

 すると、マックイーンが乗ってきていた車から、ぞろぞろと謎の人間達が現れた。

 

「理学療法士!」

「理学療法士です」

 

「鍼灸師!」

「鍼灸師です」

 

「シェフ!」

「シェフです」

 

「パティシエ!」

「パティシエです」

 

「主治医!」

「主治医です」

 

「そんじょそこらの大病院より優秀な人間を集めたメジロの総力をもってあたりますわ」

 

「わああああああ全員来てるううううううううう!? あ、センセーの発作対策この人達!?」

 

 以前、少女やマックイーンが怪我するたびに名家メジロ家で見た、名前もよく分からない推定優秀な人間達がずらっと並んだ。

 

 富豪の家付きの主治医などの場合、最も多い者は二種類存在する。

 先祖代々の仕事や親の代からの付き合いなどで、実力関係なく名家に雇われている者。

 大病院などで活躍して有名になり、大病院よりも良い待遇で名家に引き抜かれた者である。

 どうやら彼らは後者であるようだ。

 

 ウマ娘と人間は基本的な身体構造が共通である。

 ウマ娘が人間を遥かに超えた力を出せることが不思議がられるほどに、その身体は近い。

 彼らにとって、治すという点においては、人もウマ娘も限りなく近しいようだ。

 

「主治医、現状を」

 

「はい、マックイーンお嬢様。

 細かい専門用語で説明しても冗長になります。

 なので、一言でまとめます。

 現状、お嬢様の望む彼の完治は、非常に難しいと言わざるを得ません」

 

「あら……絶対に治らないと彼に言った医者も居たそうだけど、絶対とは言いませんのね」

 

「医者は"絶対"を使わず、詐欺師は"絶対"を多用する。医療の戒にございます」

 

「そう、ありがとう。下がって構いませんわ」

 

「お嬢様」

 

「何?」

 

「救えなかったとしても、延命にはなります。

 お嬢様のお気持ちに応えるべく、一同、全力を尽くします」

 

「……ありがとう」

 

 ぞろぞろと全員車の中に戻っていく。

 

 巣に帰るアリを眺める気分でそれを少女が見ていると、フッ、と不敵に笑ったマックイーンが明後日の方向を見つめる。

 

「ちょっと手詰まりですわね。

 彼が会話の中で何かいい感じの手がかりを口にしてませんでしたか?」

 

「もう万策尽きたの!? ……そんなもの覚えてたら、病院で真っ先に言ってるよ」

 

「そうでしょうね。

 でも何かあるかもしれませんわ。

 1%助かる、99%死ぬ。そのくらいの話で構いません、何かありませんこと?」

 

「だからボクがそんな話聞いてたら真っ先に……話し……て……」

 

 その時。

 

 マックイーンの何も考えていない発言が、ピンポイントで少女の記憶に刺さり、ほとんど忘れかけていた記憶の一部が、蘇った。

 

 それは、彼が余命僅かということが判明した帰りの電車でのこと。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「生まれつき眼が見えなかった。小児癌にかかってしまった。それから体に色々あってね」

 

「治せないの? ほら、手術とか!」

 

「『99%死ぬ手術なんてできない』と、お医者さんには言われてしまったよ」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 彼はいつも、自分が絶対に助からないという口ぶりで話していたが。

 あの時だけは。

 『1%助かる方法がある』と―――そういう言い回しをしていた。

 

 数え切れないほど会話してきた二人の会話において、たった一回だけ出た発言。

 おそらく、言い回しの綾ではない。

 そういう言葉の隙を生むタイプの人間ではないと、少女は彼をよく知っている。

 実際にあったのだろう。

 そういう治療法が。

 99%死に、1%助かるようなものが。

 

 あの時の彼は罪悪感に飲まれていた。

 "ごめんね"の気持ちで、らしくない行動も少々取っていた。

 だからうっかり、罪悪感に冷静さを剥ぎ取られ、うっかり漏らしてしまったのだろう。

 彼の余命の話を聞いて、その日の会話の細かいところの記憶が全て吹っ飛んでいたため、マックイーンに記憶を刺激されるまで完全に忘れていた少女だけは、彼のことをとやかく言えないが。

 

 閉塞感に満ちた現状の突破口は、彼の罪悪感と"ごめんね"の中にあった。

 

 酷くか細い、蜘蛛の糸のような希望。

 

「……怖いなぁ、これに懸けるの」

 

「そもそも、今もできる処置なのかは分かりませんわ。

 それでも調べてみる価値はありそうですわね。

 1%は比喩なのか、事実そうなのか、今もその処置ができるのか……

 希望を抱けば裏切られた時にその分の痛みが返ってくる……とはいえ、信じたくはあります」

 

「うん、希望が……」

 

「見えてきたわけではありませんわよ?」

 

「え」

 

「彼は過去にそれを選ばなかったということでしょう?

 今、健康状態が悪化した状態で選ぶとは思えませんわ。

 彼が望まないのであれば、(わたくし)も、貴女も、彼に強制できないでしょう?」

 

「うっ」

 

 二人は善良なウマ娘である。

 彼の生存を望んでいるのは確かなのだが、彼の意志に反したことを強いることはできない。

 二人が彼の家族か何かであれば、あるいは彼の両親が生きていれば、本人が望まない手術や投薬を打診することもできたかもしれないが……現状、それができる人物はいない。

 突破口が見つかったと思ったら、また塞がってしまった。

 希望を得ては、突き落とされる。

 

「彼が恐れるのは、これだったのかもしれませんわね」

 

「どゆこと?」

 

「生きてほしいと貴女が願う。

 彼に99%死ぬ治療法を貴女が望む。

 彼が貴女を尊重して受け入れる。

 彼が死に、貴女が罪悪感を抱いて残る……というパターンですわ」

 

「あー……センセー、そういうのは絶対嫌がるね。だから隠してたのかな」

 

(わたくし)が見た限り、彼は絶対に承諾しません。これは実質不可能な選択肢ですわ」

 

「……もうちょっと、もうちょっと思いつけば、なんかもっと思いつけそうなのに……」

 

 何か。

 もう少し何かがあれば。

 そう思いながらも、その何かが見つからない。

 あがけばあがくほど、状況の閉塞感と絶望感は強くなっていく。

 

「とにかく、(わたくし)はその1%を探してみます。

 一番辛く、苦しいのは彼なのです。

 何の病苦も背負っていない(わたくし)が弱音を吐けませんわ。最後まで全力を尽くします」

 

「マックイーンはマックイーンだなぁ……」

 

「貴女も大概ですわよ」

 

 もし、この二人のどちらかが一人ぼっちでこの絶望と向き合わされたなら、昨日までの少女がそうであったように、どこかで挫けて間違えてしまっていたかもしれない。

 

 けれど。

 二人で向き合っていると、心が萎えない。

 何があっても心が負けない。

 互いの何気ない言葉が、想定していないところで互いを助けてくれる。

 弱音なんて吐いてられない、負けるか、という気分になれる。

 

 だから、まだ戦える。

 相手が、どんなに頑張っても勝てやしない、病魔の絶望であったとしても。

 

「それで、貴女はどうしますの? 他の皆が何を選んだか、その選択肢は出揃いましたわ」

 

「ボク、は……センセーを見つけて、とにかく話したい。

 そこでボクの口から出て来た言葉が、ボクの真実だと思うんだ。なんとなくだけど」

 

「……ふふ。貴女らしいですわね。でも、それがいいのかもしれませんわ」

 

 二月の風がざわりと肌を撫でる中、マックイーンの凛とした表情が引き締まる。

 

「ハッキリ言いますわ。

 この件に限っては正義はありません。

 誰も正しさの保証を持っていませんわ。この(わたくし)を含めて」

 

 そう。

 事此処に至り、正しい選択肢は存在しない。

 全ての主張に正しさがあり、他の選択肢の正しさの分だけ、間違っている。

 此処に在るのは、各々が掲げる正しさだけだ。

 

 正しさは人を救わない。

 病を治すこともない。

 だから、各々が信じるものの反映でしかない。

 

「画壇の著名人は彼の死ではなく、死後に残る絵を見ています。

 彼が抜け出した大病院の医師達は、延命か治療かで意見が割れています。

 彼の絵を有名にした三浦画商は、既に彼の死を受け入れています。

 (わたくし)はどんなに可能性が低くとも、彼の完治を目指したい。

 全員が各々の立場で好き勝手言っています。

 誰も正しくはありませんわ。

 そして、運命が誰の選択を正解として選び置くかもまた、分かりませんの」

 

 彼の絵を世界に広めることが彼の救いだと思う者。

 延命が救いだと思う者。

 根治が救いだと思う者。

 彼の死に涙することが救いだと思う者。

 奇跡が救いだと思う者。

 

 人の命という重いものが失われようとしているこの瞬間、それぞれの信念が浮き彫りになる。

 

「貴女もまた、何かを選ぶことが許されているのです。そして、それに正解保証はありません」

 

「うん。分かってる」

 

「貴女の意思で選んでくださいませ。

 貴女の言葉でそれを語ってくださいませ。

 (わたくし)(わたくし)の信念で動きます。

 ですが同時に、(わたくし)は貴女の味方ですわ。

 できる限りの助力を約束します。

 (わたくし)は貴女のライバルで、友達で、そして……チームスピカの仲間なのですから」

 

「……ありがと! マックイーン!」

 

 激励するマックイーンの微笑みに。

 感謝する少女の笑顔に。

 両者共に、"頑張らないと"と、パワーを貰う。

 

「彼が生を諦めてるから、それに従う。

 彼が死から悲しみを無くそうとしているから、それに従う。

 彼が己の死に悲しまないでと言っているから、それに従う。

 それでいいんですの?

 惚れた男の言い分を全部聞き、その言いなりになってるだけなんて、"帝王"らしくもない」

 

「うん、そうかもね」

 

「一度くらいは彼に怒鳴ってみるといいですわよ。

 なに勝手にボクの幸せを決めてるんだー、なんていいかもしれませんわ」

 

「……あはは、マックイーンがボクの立場だったら、言いそうだね」

 

「ええ、言いますとも」

 

 長い付き合いの少女のことだけではなく、あの少年のことも早くも理解しているマックイーンに対し、少女は安心感や尊敬を覚えたが、同時に危機感や羨望も覚えていた。

 

「ホント、マックイーンとセンセー会わせたくなかったよ。相性抜群だもん」

 

「あら、そうですの? 当事者としてはまだそういう実感はありませんわね」

 

「『わたしが死んでも泣かないでほしい』

 って言ってくるセンセーと。

 『負けても泣かないでくださいます?』

 って言ってくるマックイーン。

 センセーの方が優しいけどさ、二人が仲良くならないわけないんだよ」

 

 マックイーンは目をぱちくりさせて、ちょっと驚いた様子を見せて、やがてとても楽しそうに笑った。

 

「ますます、死んでほしくないと思えますわね」

 

 マックイーンの"向き合い方"に、かつて少女は大きく影響を受けた。

 悲嘆がない。

 その向き合い方に暗さがない。

 奇跡を信じている。

 諦めずに頑張り続けた人間は報われるのだと、言い続けている。

 かつて少女が何度も何度も足を折った時、マックイーンがこの向き合い方をしてくれたことがどれだけ少女の救いだったことか、マックイーンは三割も分かっていないだろう。

 

 かつて少女を救ったマックイーンの性情が、今は少女の大切な人に向けられていることが、少女は心底嬉しくてたまらない。

 あの日マックイーンに自分が救われたように、彼もまた救われてくれるかもしれない……そんな風に、夢を見られるから。

 だから、嬉しいのだ。

 

「でも、良かった。

 マックイーンが味方で。

 ボクが何を選んでも、それならなんだか安心できるや」

 

「? 何を言っているんですの?」

 

「え?」

 

(わたくし)達は仲間の前にライバルですわ。

 貴女が何を選ぼうが構いません。

 (わたくし)は貴女を手助けします。

 けれど最善を尽くすのは、(わたくし)(わたくし)の信じるやり方においてですわ」

 

「え? え?」

 

「言い換えましょうか。()()()()()()()()()このメジロマックイーンですわ」

 

「―――!?」

 

「のろまな貴女は二着以降に甘んじるといいでしょう」

 

「ちょ、ちょ、ちょっとぉ!」

 

「貴女のように恋愛感情はありませんが……

 彼の絵には惚れ込むのに十分な魅力がありますわ。

 できる限り長生きしてほしいと願うのは当然のことでは?」

 

「そりゃボクも願ってるけど!」

 

 ところが梯子を外されて、少女はたいそうびっくりした。

 

 困惑し狼狽える少女を見て笑い、マックイーンは薄紫の髪をかき上げる。

 

「尽くしなさい、想いを。

 尽くしなさい、言葉を。

 全部伝えてしまいなさい。

 (わたくし)が信じているのは奇跡ですが、愛は奇跡では伝わりませんわよ?」

 

「うっ……そ、そうだね……」

 

「今の貴女なら大丈夫でしょう。

 彼の意に反することになりますが、彼の居場所を教えますわ。彼は今……」

 

「あ、待って」

 

 少女への義理を通すため、少年への不義理をやむなく働こうとしたマックイーンを、少女は手で制した。

 

「いいよ、センセーの居場所は言わなくても。マックイーンは約束したんでしょ?」

 

「それは、そうですが……」

 

「大丈夫。

 すぐ見つけるよ。

 だって、ボクはボクで、センセーはセンセーだから」

 

「……理由になっていませんわよ?」

 

「そう? ボクはなってると思うよ。すぐに、絶対に、見つけられる。そういう理由だもん」

 

「ふふっ」

 

 "ああ、彼女はこうだから、いつも奇跡の女神に愛されるのですね"と、マックイーンが本調子に戻った少女を見て思う。

 

 合理的な理屈は全くない。

 そもそも、ここまで見つかってないというのに、どうしてこれから見つけられるのか。

 手がかりは全く無い。だからこそマックイーンを問い詰めようとしていたのだ。

 彼がどこに居るのか、未だに全く見当もついていないのに、少女は自信満々な様子で『マックイーンが彼との約束を守る』ことを重んじた。

 

 "ライバルと話してる内に大丈夫な気がしてきた"と言わんばかりで、常識外れのことを常識のようにこなす少女だからこそ、見ているマックイーンもなぜか大丈夫な気がしてきてしまう。

 

 少女は信じてくれるマックイーンにさよならをしようとして、そこでふと、マックイーンの影響で蘇った何気ない記憶について問いかける。

 

「あ、そうだ。マックイーンなら、黄色、黄緑、緑、青緑って聞いて何か分かる?」

 

「? 並んでいる色でしょうか?」

 

「多分わっかみたいな並びだと思うんだよね、一周したら元のところに戻ってくるみたいな」

 

「ああ、それなら―――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年はその絵の前で、解説を繰り返し聞き、ひたすらに高精度の構図を脳内に作っていった。

 骨伝導イヤホンから解説が流れている。

 盲目の彼のため、視覚情報に等しい聴覚情報を流し込んでいる。

 それを頼りに、少年が絵を描いている。

 絵を描きながら、あの少女を幸せにするための言い訳を考えている。

 

 骨伝導イヤホンによる解説を聞いていたがために、外の声がちゃんと聞こえる彼の耳が、近付いてくる足音と声を捉えた。

 

「奇跡ってさ。

 それを望み、奮起する者のもとに、必ず、きっと、起こるんだって。

 マックイーンがそう言ってた。

 あれ、素敵な褒め言葉だなって思ってたんだけど……

 それを望まず、奮起してない人は、救えないのかなって最近は思えてきたよ。ボク」

 

 とても、聞き覚えのある声だった。

 

 少年は驚き、姿勢を正して向き合う。

 

「救われたいと思わせないといけない。

 ちゃんと奮起させないといけない。

 そうじゃないと、どんなに頑張っても救えない。

 いい言葉に見えるけど、厳しい言葉なのが、マックイーンらしいなって」

 

 少女が苦笑しながら言うその言葉が、少年にはとても重い言葉に感じられた。

 

「センセー、見つけた。最初の、ちっさな奇跡かもね」

 

「お嬢さん……」

 

 あの少女が自分を見つけられるわけがないと、少年はそう思っていた。

 でなければこんなところでのんびり絵を描いているわけがない。

 少女が死に悲しまない結末を作るため、そのための言い訳を編み出すため、必要な時間を稼ぐべく、少女が来ない場所で絵を描いているつもりだった。

 

 だが現実に今、彼は少女に見つかり、逃げようのない状況に追い込まれている。

 

「どうしてここが? メジロマックイーンさんが教えたのかな」

 

「マックイーンは最後まで約束を守ったよ。マックイーンは約束を守るウマ娘だもん」

 

「そうなんだ。いま一瞬でも疑ったことを、あとで改めて謝らないといけないな」

 

 マックイーンが、何気ない会話を通して、少女のおぼろげな記憶を刺激した。

 そして、最後の知識のピースを嵌めた。

 ただそれだけでよかった。

 それだけで全てのピースは繋がった。

 三浦がそう期待した通りに、少女は今この地球上でただ一人の、今現在のこの少年を完全に理解し尽くした、最大最高の理解者となったのである。

 

「センセーの絵、メインの色があるよね。

 それで、その色がローテーションしてる。

 知らなかったんだけど、色相環ってのがあるんだって?

 なんか、色がわっかの形に並んでるやつ。

 あれをスキップみたいに、間の色飛ばして、時計回りに色を選んでたんだよね?」

 

「よく勉強したみたいだね。えらいよ」

 

「えへへ。

 色相環って勝負服デザインの基本なんだって。ボク全然興味無いから知らなかったんだけど」

 

 色相環。

 美術の基本中の基本。

 色の関係性とバランスを整理した、環状に色を体系化したものである。

 美術を生業とする者が、絶対に触れるもの。

 一般人であれば、美術の教科書でちらっと見る程度で忘れてしまうもの。

 それが、彼を見つけるために必要だった、マックイーンが知り少女が知らないヒントだった。

 

 21世紀においては、佐川工学博士らの研究で、先天的盲目の人間も色相環同様の色彩認識を持っていることが確認されている。

 なまじ賢しい人間、たとえば三浦などが居れば、『盲目の人間が色相環を使うだろうか?』という常識的な判断を口に出して、少女の直感的な正しさを妨害していたかもしれない。

 

 少年はここ一年はずっと、円環状に色が並ぶこれを参考に、メインカラーをローテーションさせて描いていた。

 彼のことが好きな女の子が、ずっと横でそれを見ていれば、少年がそれを秘密にしていたとしても、自然とそれはバレるだろう。

 

「センセーの絵が完成したところで、マックイーンが会ってたって言ってたからさ。

 ボクが最後に見たセンセーの描き終わった絵の色、次の、その次の色。赤描いてるかなって」

 

「うん、ちゃんと色相環が頭に入ってるね。

 さすがにお嬢さんは優秀だ。

 色相環で次の次の色は赤、というイメージができてるなら十分だね」

 

「ふっふっふ、もっと褒めてもいいよ?」

 

「でもそれだけじゃ、わたしがここにいるとまではわからないはずだ」

 

 今ここに、赤色を使った絵はない。

 赤い絵をモチーフにして赤い絵を描こうとしている、などということはない。

 しかし少年の手元の絵には、鮮やかな赤色が刻まれていた。

 

 赤が周りにないのに、彼は赤を描いている。

 

「最近のセンセー、ウマ娘しか描いてないよね?

 風景とかも描くけど、あくまでウマ娘の添え物として力入れてた。

 だから次に描くとしてもウマ娘かな……って、そう思ったんだけど」

 

「うん、正解だ」

 

「この前さ、展覧会でデートした時。

 マックイーンが長々とグラディアトゥールのことを言ってたんだ。

 グラディアトゥールを絵に描く時、ええと。初めて描く人が最初に参考にするのは二つ」

 

「150年前のグラディアトゥールを描いた絵と、ロンシャンの銅像だね」

 

 グラディアトゥールの基礎知識は、マックイーンが改めて叩き込んでいた。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「よくわかんないけどありがと! グラディアトゥールってなんだっけ?」

 

「……学園の授業でも触れたでしょう!?

 というか、テストにグラディアトゥールが出た時、貴女100点取っていたでしょう!?」

 

「あははっ、そうだっけ?」

 

「天才肌はこれだから……いいですか、グラディアトゥールというのは―――」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

「なんか、その時の話で覚えてたんだけど。

 ロンシャンレース場に置かれたグラディアトゥールの銅像、周りに緑が多いんだって。

 だからそれで覚えてたんだ。

 展覧会のグラディアトゥールの絵の周りには、緑がいっぱい描いてあったなあって」

 

 少年と少女が初めて会った日、少年が題材として使ったものの中に、マネがロンシャンレース場を描いたものを元にしたものがあった。

 グラディアトゥールの銅像がある場所であるそこを描いたものが、既にあった。

 

―――これはジョン・コンスタブルの『白いウマ娘』。1821年。

―――これはエドガー・ドガの『観覧席前のウマ娘』。1872年。

―――これはエドゥアール・マネ『ロンシャンレース場』。1867年。

 

 盲目の人間がアレンジした絵を見て、ひと目でその場所がパリのロンシャンレースであると見抜ける程度には、マックイーンはロンシャンレース場についての知識を持っていた。

 当然、グラディアトゥールの銅像の周りの緑についても知っている。

 知っているから、何気なくこの少女に教えられる。

 そして。

 

「それにほら。センセーの絵の緑って、赤色だったなあって」

 

「……ああ」

 

「グラディアトゥールのこの緑に囲まれてる絵をセンセーが描いたら、真っ赤になるかなって」

 

「うん。大当たりだ」

 

 そう、彼の描く樹は、ルビーのような赤に染まる。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

 樹は緑ではなく赤。

 それは彼の目が見えないから。

 ルビーのような樹の下で、宝石の輝きを受ける人がいる。

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 出会った初日、彼が絵を描いているところを少女が初めて見た時、彼は彼女の目の前で、緑の木を赤色で塗りたくっていた。

 それは、その後も同じように行われた表現だった。

 少女はそれを覚えていた。

 そして、点と点を線で繋いだのである。

 

 ここは少女が初めて来た画廊。

 二人がデートをした展覧会に昨日まで飾られていたグラディアトゥールの絵は、今日だけはこの画廊に貸し出す形で移されていた。

 少女が一度も来たことがなく、思い出もないこの場所に居れば、普通は見つからない。

 長居しすぎれば画廊の人間が不審に思い、警察に連絡されてしまうかもしれない、程度のリスクしかない。

 少年はここで、グラディアトゥールと周囲の緑を描いた元の絵を、色相環に沿った色のローテーションに準じて、真っ赤な絵として描いていたのである。

 

 それを少女が読み切って、グラディアトゥールの絵の現在地から一発で当てたのだ。

 

「すごいね。もしかしたら今わたしは、過去最高に君をすごいと思ってるかもしれない」

 

「すごくはないんだ、これ。すごいわけじゃないんだよ」

 

「?」

 

「ボクはさ、好きなもののことはよく覚えてるんだ。それだけなんだよ」

 

 今日まで共に過ごした時間。

 今日まで彼を見つめた時間。

 今日まで彼を理解した時間。

 全ての結実のような、正解だった。

 

 彼のことを誰よりもよく知らなければ、こんなことができるわけがない。

 

 三浦が自分が邪魔であると理解し、歯を食いしばって消えていなければ。

 マックイーンが少女にいい影響を与え、記憶を蘇らせ、知識を与えていなければ。

 今日までの少年と少女の、心を交わすような日々がなければ。

 きっと、少女は少年を見つけられなかっただろう。

 そして少年は言い訳を考えるだけの時間を得て、また崩れない優しい微笑みを湛えて、今度こそ少女を言いくるめて、少年の死に納得させようとしていたはずだ。

 

 それを拒みたいのであれば。

 これが最後のチャンスだった。

 その最後のチャンスに、奇跡のように、少女は少年を見つけ出したのだ。

 

 『今日まで二人で過ごした日々』という、何の力もないはずのものを、双眼鏡にして。

 

「ボクとマックイーンはライバルだから。手を取り合えば、誰にも負けない。運命にだって」

 

「……きみたちふたりが揃ってる時に会っておきたかったな。

 まさかきみたちふたりが揃って話すだけで、ここまで高め合うなんて、思ってなかった」

 

 少年の人生には、ライバルというものがいなかった。

 何も見えない視界の中、戦うべきは自分自身。

 盲目の彼に張り合う健常者など居るわけもなく、彼はその人生で『ライバルが居るからこそ得られる力』というものを、欠片も知ることがなかった。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「メジロマックイーンさんは知り合いなのかな?」

 

「ライバルだよライバル! マックイーンにだけは負けられないんだ! 絶対!」

 

「いいね。うらやましい。わたしはライバルというものを得たことがないから」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 ライバルの存在。

 ライバルがくれる力。

 それが、少年の計算と予測を狂わせた。

 あるいはそれを知らなかったからこそ、少女から逃げ切れなかったとも言えるだろう。

 

 少女はもう逃げられない少年を見据え、口を開いて、大きな声で彼に言葉と想いをぶつけ―――ようとして、言葉に詰まってしまった。

 

「どうしよっかな。

 何言おうかな。

 ボク、言いたいこと……本当にいっぱいあるんだ」

 

「うん」

 

「ああ、なんかボク変だ。

 順番に言えばいいのに。

 胸の中が色んな感情がいっぱいで。

 想いで、胸が破裂しそう。

 何を言えばいいのか、全然分かんなくなっちゃった。ボクらしくもないや」

 

「待つよ。わたしに残り時間がどのくらいあるかは知らない。でも、待つよ」

 

 感情が喉に詰まるような感覚。

 思っていたことが多すぎた。

 抱えている想いが多すぎた。

 言ってやりたいことが多すぎた。

 言葉と想いが、乙女の唇を前にして、交通渋滞を起こしている。

 

「センセー」

 

「なにかな?」

 

「ボクさ、センセーの意思で選んでほしいから、ええと、センセーを、待ってるんだ」

 

 結果、飛び出した言葉は、ひどく曖昧で、中身が無かった。

 

「……わたしは、きみになにか、おねがいされると思っていたよ」

 

「あ……やっぱ分かっちゃう?」

 

「まあね。わたしを分かってもらった分、わたしもきみを分かってるつもりだから」

 

 柔らかで、切なくて、不可思議な空気が、二人の間に流れる。

 

「"生きていたい"なんてささやかな夢すら見ることが許されないセンセーが、嫌だった」

 

「……お嬢さん」

 

「センセーがその夢を見て、その夢を叶えて、生きていくのを見たかった」

 

「無理なんだよ。お嬢さん。それは無理なんだ」

 

「うん。"不可能を可能にして生きてよ"って……センセーに言って良いのか、分かんなかった」

 

「もしかして……わたしの過去の失言に、気づいてしまったのかな」

 

「ね、1%に賭けなかった理由、聞いてもいい?」

 

「わたしは臆病なんだよ。

 きみが思ってるより、ずっと、ずっと。

 99%死ぬと言われたら……試す気もおきなかった。

 若いうちに死ぬことが決まっていても、すぐ死ぬよりマシだと思ったんだ」

 

「そっか。でもそれ、普通だよ。臆病なんかじゃないって、ボクは思うな」

 

「そうだろうか」

 

「臆病な盲目の人は、ボクの上に工具が落ちてきて、危ないのに助けに来ないと思うな」

 

「そう、かな」

 

「普通は、転ぶのが怖いよ。

 落ちてきたものが当たるのが怖いよ。

 あそこは道だったから、車とかだって怖いよ。

 でもセンセー、すごい顔で、ボクのことめっちゃ心配して、助けてくれたじゃん」

 

「うん」

 

「あれさ、本当に嬉しかったんだ。センセーは臆病なんかじゃないよ、ボクは知ってるもの」

 

「……うん」

 

 少女には勇気がある。

 少年には勇気がある。

 凡人と比べればそれこそ天地ほどの差がある、とても大きな勇気がある。

 それでも、1%は選べない。

 99%即座に彼女と死に別れ、彼女を傷付け悲しませる選択を、彼は選べない。

 99%大好きな彼と死に別れ、彼と永遠の別れを迎える選択を、彼女は選べない。

 

「ボク、さ。

 無責任に言うのが怖いんだ。

 その背中を押すのが怖いんだ。

 だって、失敗したら何もかも駄目になっちゃうんだから。

 センセーが……死んでしまうかもしれないんだから。

 気軽になんて言えないよ。

 不可能に挑んでなんて言えない。

 ……それでもボクは、センセーに少しでも長くじゃなく、ずっと長く生きてほしいんだ」

 

「それは……」

 

「あはは。ごめんね。勢い付けて、1%に挑んでって言おうとしたんだけど……言えないや」

 

 重い。

 命が重い。

 命を左右する言葉が重い。

 誰も死なないレースであれば、『僅かな可能性に賭けて挑もう』と言えるのに。

 失敗すれば即座に死ぬ医療行為だからこそ、気楽に言えない。

 

 "諦めず挑戦しよう"という、ウマ娘の世界では腐るほど言われてきた一言が、命がかかっているこの場面では、一度口にすることさえ重苦しい。

 

「怖くて言えない。不可能を可能にしたこともあるのに、ボクじゃ言えないや。なんでだろ」

 

「……」

 

「マックイーンと同じ選択、したはずなのに。

 マックイーンみたいに言えないんだなあ、ボク……マックイーンはすごいや」

 

 軽率でも、無責任でも、適当でもない。真剣だ。

 

 精一杯考えて、精一杯苦しんで、今、彼女は彼の命に向き合っている。

 

 彼女にとっては、この星よりも重い一つの命に、向き合っていた。

 

「センセーがあの日言ってくれたこと、嬉しかったよ。

 ボクのしたいようにすればいいって。

 夢に殉じて死んでもいいんだって。

 ボクの願いを尊重してくれて嬉しかった。だから、ね。

 ボクも言うよ。センセーの好きなようにすればいい、って。センセーの人生だから」

 

「! お嬢さん……」

 

「その上で祈るんだ。センセーに、命を賭けて挑んで、生きるための挑戦してほしいなって」

 

「わたしにそう望めばいい。きみの望むことなら、わたしは全力で叶えたいと思うから」

 

「ううん。

 センセーの命だもん。

 ボクがそんなこと望めないし、約束もしてもらえない。

 だって、センセーの『気持ち』を人質に取ってるみたいじゃない?」

 

「……それは、確かにそうかもしれないけど」

 

 マックイーンが言う通り、難病から奇跡の回復を迎えるのに、患者本人の心の力が必要であるのなら、必要なのは少年の心の変革、そして成長である。

 少女が"1%に挑戦してくれ"と願い、少年の生きようとする意思が強まらないまま、少女への恋愛感情だけを理由に頷いたなら、きっとその1%が成功することはないだろう。

 

「これはそうあってほしいな、っていうお祈り。

 センセーが救われる方にいってほしいな、っていうお祈り。

 だからね、決めたんだ。ずっと考えてた。でも、ボクはこれしか知らないから」

 

「お嬢さん……?」

 

 少女の手が、ぎゅっと少年の手を握る。

 

 握った手から伝わる体温は、とても暖かく、優しかった。

 

「ボクはセンセーに何もお願いしないよ。

 センセーも、ボクに何も約束しなくていい。

 ボクはその日、挑戦するんだ。

 そして奇跡を起こしてみせる。

 それを見ててほしいんだ。

 その上で、センセーが信じられたものを……センセーの意思で、選んでほしい」

 

「きみは……わたしに、なにを信じさせたいんだい?」

 

「ボクを」

 

「きみを?」

 

「うん。だから見に来て。

 ボクはやっぱり、ウマ娘だから。

 今言いたいこと、全然センセーに伝わってないと思う。

 センセーの絵、ボクの走り……それだけが伝えるものって、きっとあるから」

 

 そうして、彼らは。

 

 運命の日を迎える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 全ての絵の、全ての彼女が、煌めいていた。

 全ての絵の彼女が、あの少年を惚れさせる魅力に満ちていた。

 だから。

 それらの絵に並ぶ自分に戻ってようやく少女は、それらの絵に描かれていた魅力、強さ、輝き、そして―――『彼女を彼女たらしめるもの』を失っていた自分に気付いたのである。

 

 それは、『諦めないこと』。

 

 諦めないことは、諦めないことでしかない。

 そこに本来、奇跡の力は宿っていない。

 諦めない者に運命の加護があるのなら、SNSの荒らしはそのほとんどが勝っているだろう。

 

 諦めないことが奇跡に繋がる。

 されど、諦めないことの全てが奇跡には繋がっていない。

 諦めなかった者のほとんどは、諦めなかっただけの敗北者である。

 彼らは口々に言う。「早めに見切りつけとけばよかった」と。

 諦めなかった者の大半は、諦めなかったことを後悔し、以後諦めが早くなる。

 "諦めない"とは、所詮その程度のものだ。

 

 諦めないことが、奇跡に繋がることも、繋がらないこともある。

 

 その差異はどこにあるのか。

 

 その答えはどこにあるのか。

 

 誰も知らない。

 

 誰もが知りたがっている。

 

 奇跡の帝王と呼ばれた者すら、それを知らないまま、今に至っている。

 

 その少女が知っていることは、たったひとつだけ。

 

 彼が描いた全ての絵の、全ての彼女が煌めいていた理由―――絵の中の青いウマ娘、不死鳥のウマ娘、その全ては、『諦めない心』を宿していた。

 

 彼が愛した自分は、諦めない自分なのだと、奇跡の帝王は知り、その双眸を見開いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃ、準備できたから説明するね、センセー」

 

「いつもボクらが見てた、このレース場」

 

「実はボクさ、ここのレコード持ってるんだよね。歴史上一番速いってこと」

 

「ボクが一番強かった時。

 一番速かった時。

 一番調子が良かった日に。

 一番場が良かった日に、取ったんだ」

 

「足を四回折っちゃったボクは、あの頃のボクには遠く及ばない。単純に遅いからね」

 

「挑戦したところでこのレコードの更新もできない。昔のボクの方がずっと速いから」

 

「でも……もし、それができたらさ」

 

「1%なんて目じゃない、とびっきりの奇跡だと思わない?」

 

「過去にあったどんな奇跡より、すごい奇跡だと思わない?」

 

「心と意思で、奇跡を起こせるんだって、センセーが思う理由にできない?」

 

「見てて、センセー。ボクはこれから、一人で走って、絶対の不可能に挑む」

 

「正直言って、レコード記録更新なんて出来る気は全然してないよ」

 

「他のウマ娘と一緒に走ってる時の方がウマ娘は速い、なんて言うしね」

 

「でも」

 

「センセーに、『奇跡はあるんだ』って、信じさせたいんだ」

 

「ボクが勝ったら、センセーに何かしてって言いたいわけじゃないんだ。何もしなくてもいい」

 

「ただ、ボクは」

 

「センセーに、信じてほしいんだ。ボクを。奇跡を。……もっと、素敵なものも」

 

 

 

 

 

 もしも運命というものがあり、もしもそれに意思があり、もしもそれに口があるのなら、それはずっと少女に対して囁いているだろう。

 

『運命は不動』

『結末は不動』

『お前は運命をなぞる』

『決められた敗北、挫折、絶望をなぞり、決められた勝利を果たせ』

『決められた勝利のための、奇跡を起こすための努力を当然に積み上げろ』

『そして、なぞれ』

『定められた通りに勝て。如何なる強敵も、お前の前では定められた通りに負ける』

『そして、四度目の骨折を経て、引退レースを決めるも、勝負さえできずに引退する』

『それまでは、定められた勝負の中で、お前は勝ち続ける』

 

『必ず、きっと、そうなる』

 

 

 

 "ウマ娘"。

 彼女たちは走るために生まれてきた。

 時に数奇で、時に輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る。

 それが、彼女達の運命。

 この世界に生きるウマ娘の未来のレース結果は、まだ誰にも分からない。

 

 刻まれた運命の名は『奇跡の帝王』。

 

 その名は三度目の骨折の後の奇跡を保証し、奇跡の後、やがて来たる終わりを保証する。

 

 四度目の骨折は既に迎えた。この後に彼女に保証された奇跡はない。

 

 少年の運命が悲劇を望み、少女の運命が終わりを望んでいる。

 

 抗うことをやめたなら、笑って終わることさえも、きっとできない。

 

 

 

 

 

 少年が病院を抜け出した日から、数日が経過していた。

 

 今、少女が不可能に挑もうとするその姿を、僅か数人が見つめている。

 

「貴女が勝負服を着るの、久しぶりに見た気がしますわ」

 

 マックイーンの落ち着いた声が、今日は何故か乾いて聞こえる。

 

「GIでもなんでもないけど、ボクはセンセーの青いウマ娘だからね。ちゃんと着ないと」

 

 少女は可愛らしく笑い、青の勝負服を見事に着こなしている。

 少女はその腕周りに巻かれていた青いスカーフを外し、マックイーンに手渡した。

 

「マックイーン、これ預かってて」

 

「これは……」

 

「センセーの気持ちがボクについてたら、あっさり過去のボクに勝っちゃうから。

 それだとズルだからね。ちゃんとボク一人の力で、過去のボクに勝たないとさ」

 

「……ふふっ、言いますわね。分かりましたわ」

 

 軽口か、虚勢か。

 いずれにせよ、少女が緊張していないことは確かであるようだ。

 落ち着き払った少女の姿に、マックイーンは内心ホッとしていた。

 受け取った青いスカーフ『馬と不死鳥』を握り締め。

 

「知っていますか? 青いウマ娘を描いたマルクが、絵の裏に何を書いたのか」

 

「へ? 絵の裏? なんか書いてたの?」

 

「『存在するものは全て燃えるように苦悩している』と……そう書いてあったらしいですわ」

 

「……」

 

「胸を張って行きなさい。苦悩する彼を救える青いウマ娘は、一人しか居ないようですから」

 

「うん!」

 

 マックイーンから離れて少女は、心配そうに、苦しそうに、少女を見つめていた少年の横に移動して、そこでストレッチを始めた。

 

「ボクが思うに、くらいの話なんだけどさ。

 美しいウマ娘ってマックイーンみたいな走りをする子のことを言うと思うんだよね」

 

 明るい笑みで話しかけてくる少女に、少年は返す言葉を持たない。

 

「たまにファンに言われた。

 ずっとセンセーに言われてた。

 『君は美しいウマ娘だ』って。

 皆に言われたら嬉しいよ。

 センセーに言われたらもっと嬉しかった。

 だから頑張ってたんだ。

 でもね……ボクはどっちかというと、泥臭いウマ娘だったと思うんだ」

 

 少女にとってメジロマックイーンとは、とても綺麗で、穢れ無く飛ぶ白鳥であり、水面下で足をばたつかせつづけ、水面上で優雅な姿を見せる、そんな"綺麗の極み"だった。

 

「マックイーンが泥もつかず天まで昇るなら、ボクは泥にまみれながら地の果てまで走ってた」

 

 頑張るがゆえに美しく、諦めないがゆえに美しく、反吐を吐きながらでも走り続け、速くなろうとするからこそ、マックイーンは綺麗で美しい。

 

 逆に、芸術の世界でたまにある"若さと美しさを持ったまま自殺した美女"を『綺麗な終わり』と扱うような、終わりを静かに受け入れることを綺麗・美しいと表現するものが、少女にはどうにも肌に合わなかった。

 

「綺麗な終わり。

 綺麗な別れ。

 綺麗な死。

 いいと思うよ、そういうのも。

 否定できないもん。

 ボクもそれに納得しようとしてた。

 でもね。……『それは本当に貴女らしい選択なのか』って、ライバルの目が言ってたんだ」

 

 だから。後者を受け入れかけていた少女は、前者のマックイーンに省みさせられたのだ。

 

「気付いたんだ。センセー。そうじゃなくてボクは……君に、勝ってほしいんだ」

 

 そして、本当の願いに行き着いた。

 

「何があっても。

 どんなに恐ろしい病気が敵でも。

 絶望的に不可能であっても。

 芸術的に死ぬんじゃなくて……病気にも勝って、生きて、ずっと一緒に居てほしいんだよ!」

 

 美しい終わりではなく。生を勝ち取る勝利こそが、少女の望んだもの。

 

「勝手なこと言ってるのは分かってるんだ。

 先生に強いることができないのも分かってる。

 でも、ようやく分かった。

 分かったんだよ。

 ボクが引退しようとした時の皆の気持ちが。

 『諦めないでくれ』って。

 『また勝ってくれ』って。

 そうボクに対して叫んでくれた、皆の気持ちが、ようやく分かったんだ」

 

 "これで終わりなんて嫌だ"と、人は叫ぶ。

 

 少女が引退宣言をした時に叫んだ人々も、彼の死を前にして叫んだ少女も、根底は同じ。

 

「ボクは、君に、勝ってほしいんだ。勝利のその先に、生きる未来に行ってほしいから!」

 

 誰よりも応援され、誰よりも勝利を願われた少女が。

 今、誰よりも強く彼を応援し、彼の勝利を願っている。

 誰かに応援されながら走ってきた少女が、誰かを応援するために走ろうとしている。

 

「だけど、お嬢さん。

 わたしは君の足に触れて理解している。きみの足はもう全力では走れない」

 

「―――」

 

「クッキーでできた足に等しい。ゴールまで辿り着けるかどうかすら怪しいんだ」

 

 その叫びを、叩き潰すのが現実である。

 

「ここでやめよう。

 きみの足は、全力を出した最初の一歩で砕けかねない。

 物理的に走れないんだ。

 わたしは……きみの足が折れるところなんて、見たくない。見たくないんだ」

 

「ありがと、センセー。

 心配してくれるの、すっごく嬉しい。

 でもね……ボクはボクに負けないよ。ボクに勝つ。だからセンセーも、勝ってほしいんだ」

 

「っ、君は……!」

 

 自分との戦い。

 無敵の帝王と無敵の帝王。

 無敵と無敵。

 全盛期の彼女と、壊れ果てた今の彼女。

 自身の勝利を揺るぎなく信じていた頃の少女と、絶対に負けられない今の少女。

 夢を追うために走っていたウマ娘と、明日の希望を夢として与えるために走るウマ娘。

 

 環境はかつてレコードを記録した時よりも悪い。

 地面はやや凸凹で、(ターフ)の慣らしも悪かった。

 土壌に混ぜる山砂の質が変わったのか、弾力も下がってしまっている。

 おまけとばかりに、一時間ほど前に天気予報になかった通り雨。

 総じて、あの日よりずっとスピードの出ない土壌に成り果ててしまっていた。

 

 全てが敵だ。

 世界が敵だ。

 運命が敵だ。

 過去が敵だ。

 自分が敵だ。

 足を折るまで無敗であった帝王が、彼女が生涯で最も速かった時期の帝王が、運命の意地悪により速さを失う前の帝王が、記録の数字として立ちはだかる。

 それは、彼女にとっては過去最大最強の敵であると言えるのかもしれない。

 少女自身が無敵の帝王であるがゆえに、少女は無敵の帝王に勝ったことなどなかった。

 

 少女の目に、幻影が見える。

 それはかつての自分。

 過去にそこを走った自分。

 少女の幻が、それまでの最速を塗り潰して走り切り、仲間達の幻に抱きしめられている。

 最速を超える最速を記録したという奇跡が、かつて彼女の誇りだった。

 

 最速の誇りは、今、最大の敵になる。

 

「ね、センセー。応援してよ」

 

「応援なんてできるものか……いますぐにやめてほしい……」

 

「もー、寂しいなぁ。ま、いっか」

 

 いつも、二人で遠巻きに見ていたこの舞台に。

 

 いつも、二人で眺めて、絵に落とし込んでいたこのレース場に。

 

 今は、二人きりで立っている。

 

「見てて、センセー。見えなくても、見てて。

 君を救えない君の中のボクを、過去のボクの全てを、今此処に居るボクが超える。

 君を救えるだけの奇跡を、ボクが掴める奇跡の全部を、君にあげて……ボクはボクに勝つ」

 

 どんなに奇跡に奇跡を重ねても、越えられない絶対の壁。

 

 あまりにも巨大な不可能が、そこにある。

 

 

 

 

 

 レコード記録用の機械を、マックイーンが操作している。

 公式に記録されるレコードではない。

 ゆえに、時間さえ測れればそれでよかった。

 

「主治医、どう見ますか?」

 

「彼の見解が正しいでしょうね。

 数ヶ月前のテイオー様のカルテを見ました。

 スタートの第一歩で足が折れる可能性もかなり高いと見ています」

 

「……テイオー……」

 

「私は完走できると思っていません。担架の準備はできています」

 

「ええ、お願いしますわ」

 

 メジロ勢は見守る姿勢に入っているが、少女が勝つと信じられているかと言うと、そうでもないというのが現状だった。

 彼らは知っている。

 全盛期の少女の速さを。

 今の彼女の脆さを。

 四度足の同じ部分を折っている少女は、限りなく絶望的な足をしている。

 最初に少年と出会った時、少女がどこか冷めた様子だったのは、この足があったから。

 

 おそらく、ちょっとした喧嘩で他のウマ娘にちょっと蹴られただけでもここは折れ、二度と繋がることはないだろう。

 それほどまでに、四度折った部分は極端に弱くなっていた。

 カルテにそう記されている。

 

「彼女が骨折を軽い怪我に抑えられることを祈るばかりです。

 骨折しないこと、それ自体が難しいでしょう。上手く転倒さえできれば……」

 

「彼女が勝つとは思っていないのですわね」

 

「彼の難病を直せるとも思っておりません。

 ですが無駄になるとも思っていません。

 仮に、救えなかったとしても……

 彼が気力で生きている以上、少しでも長生きさせるためには、心に力が必要ですから」

 

「あら、主治医。策士ですわね。そこに話を持っていきたかったのかしら?」

 

「あくまで、個人の見解としては、死力を尽くして彼の延命に当たりたいと思います」

 

「そう」

 

「ですが、マックイーンお嬢様の意を足蹴にするつもりもありません。

 完治を目指し、全力を尽くします。……私とて、奇跡を信じたい気持ちはあるのです」

 

「感謝しますわ。無茶を言っている自覚はありますから」

 

 マックイーンは少女から受け取った青いスカーフを握り締め、祈るように合わせた両手で挟み、空に祈った。

 マックイーンは、神などというものが居るとは思っていないが、それでも今だけは、何かに祈らずにはいられなかった。

 

「本音を隠したままでいいわけがありませんわ。

 どんな形でも、苦難を二人で乗り越えるならば、お互いのことを全て知らねばなりません」

 

 マックイーンの瞳が、押し潰されそうな不安の中、笑っている青い少女を見やる。

 

「そして、挑まねばなりません。

 逃げることも時には有用。

 しかし、逃げてはならないこともありますわ。

 傷付けないため、傷付かないために生きることは、時に逃げることにもなります」

 

「あのお二人のことですか、マックイーンお嬢様」

 

「もうあの二人が、お互いから逃げることはないでしょう。それが肝要なのですわ」

 

 マックイーンの瞳が、擦り潰されそうな不安の中、少女の無事を祈る少年を見やる。

 

「『闘病』という言葉を生み出したのは、誰なのでしょうね。

 病死を『病に負けた』と言い出したのは、誰なのでしょうね。

 患者の彼らは、戦ったのでしょうか。

 病に勝てるのは患者ではなく、医者だというのに。

 病気に頑張って抗って、医者ではなく患者が、病に"負けた"と言われるのです。

 病気の世界に『無敗の帝王』が生まれるはずもありません。

 どれだけ才能に溢れ努力した豪運の者でも病には負けます。世界は残酷ですわ。それでも」

 

 勝ってほしいと、マックイーンは願う。少女に対しても、少年に対しても。

 

「心在る限り。

 (わたくし)達は。

 "何かに勝って"、胸を張るために生きているのです。

 できる限り傷付かずに負けるために生きているのではない。

 彼らだって……運命に負けるために生まれてきたわけではないと、信じています」

 

 彼らが運命の意地悪さえ、蹴っ飛ばして先に進めることを願って。

 

 確実な未来の展望も、明るい知らせも、希望が持てる話も、何もかも無いまま。

 

 マックイーンは、青いスカーフを握り締め、ただ祈った。

 

 祈ることしかできないから、ただ祈った。

 

 

 

 

 

 発バ機に指で触れ、少女がレース場を眺める。

 

 それだけで、少女の身体がぶるりと震えた。

 

 少女の胸に巣食う、途方も無い恐怖があった。

 常人(つねびと)では想像もできない、折れる恐怖だ。

 普通の人間は、全力で走ることに恐怖など無い。

 しかし、人間より遥かに丈夫な足を桁外れの力で折ったウマ娘は、その恐怖を持ってしまう。

 

 『全力で踏み込んだ瞬間に足が折れた感触』を、覚えている。

 『楽しく気持ちよく走っていたらいきなり足が折れた感触』を、覚えている。

 『折れ、地面を転がり、土にまみれて、激痛が走る足にのたうち回った』のを、覚えている。

 一度でも経験すれば、走るたびに途方も無い恐怖がその身を突き刺していく。

 その恐怖は、猛烈な勢いで沸騰する缶に素手で触れようとする方がまだマシ、というほどだ。

 

 少女の足が折れた回数、実に四度。

 名の知られたウマ娘の中でも、トップクラスの回数である。

 彼女はこの恐怖を誰よりも知っていて、誰よりも骨折の感覚を覚えている。

 

 震える体に心中から鞭を打ち、幻覚の痛みが走り始めた足を、少女は平手で打った。

 

「大丈夫、大丈夫、大丈夫、ボクは大丈夫……」

 

「お嬢さん」

 

「え、センセー?

 や、やだなーこんなとこまで来て。

 もう走り始めるから離れてた方がいいよ?」

 

「もうやめよう。きみにつらい思いをさせてまで、欲しい物なんてない」

 

「……センセー」

 

「ここで終わりにしよう。きみの足も折れない。それでいいじゃないか」

 

 痛みと恐れが入り混じり、それを勇気で抑え込もうとしていた少女の表情が、少年への感謝と愛情がまぜこぜになった表情へと変わる。

 そして少女は目を閉じ、表情の一切を消し去った。

 少女が閉じた瞳を開くと、そこには凛々しき帝王の表情。

 

 彼の優しさが、少女を強き帝王に引き戻す。

 折れた足は、もうどこも痛みはしなかった。

 

「ね、聞き忘れてたんだけどさ。

 『青いウマ娘』のマルクが最後に描いた『赤い不死鳥』って、どうなったのかな」

 

「どうなった、って。絵の場面のあとにどうなったか、ってことかい?」

 

「うんうん。確か真っ黒な、絶望とか、理不尽とか、そういうのの象徴と戦ってたんだよね」

 

 『青いウマ娘』と、『戦うフォルム』。

 その二つの絵のことだけは、すっかり覚えてしまっていた。

 

「定説的な解釈では、不死鳥が勝ったということになってる。

 勝者を雄々しく凛々しく描くのが絵画の鉄則さ。

 赤き不死鳥は、黒い絶望・恐怖・理不尽に立ち向かい、勝つ。

 絵の黒い塊は酷い現実の象徴であり、最悪の運命そのものだ。

 勝利のその先に何があったかは誰も分からない。マルクはそれを語らなかったから」

 

「絵にすっごく詳しいセンセーでも知らないんだ。不死鳥の勝利の先のお話は」

 

「そうだね。その先の話になると、未来の話になるから」

 

「未来の話……か」

 

 震えも痛みも無くなった少女が、出走の準備を終える。

 

「センセー。これからその先、見せてあげる。だからちゃんと見てて」

 

 そして、走るその前に、少年に微笑んだ。

 

 

 

「大丈夫だよセンセー。君は夢を描けるよ。これからも、ずっと」

 

「―――」

 

 

 

 その微笑みが見えた気がして、けれど幻視であることに気がついて、少年は目を擦る。

 

 少年のこれまでの人生全ての記憶、その大半を、その衝撃が脇に押しやっていく。

 

 幻覚であっても、心が揺れた。

 

「君は夢を描ける。

 ボクは夢を駆ける。

 ……ここで終わらせたくないんだ。何もかも」

 

 少女の勝負服の腰に、彼が描き、マックイーンが入れたお守りが固定されている。

 彼の祈り。"どうか無事で"という祈りが、その腰で揺れている。

 その祈りを塗り潰すほど大きな祈り、少女の祈りが、溢れ出している。

 ただただ、大好きな男の子のためにある、清廉なる祈り。

 

「君は絶対に助かる。

 君は絶対に死なない。

 君は絶対に生きていける。

 大丈夫、奇跡は起こるよ、頑張ってる君の下に。必ず、きっと。絶対に、絶対―――」

 

 かくして。

 

「―――君が信じられる『絶対』は、ボクだ。ボクを信じて、絶対に生きて!」

 

 少女は走り出した。

 

 過去の自分という、最強最悪の敵と共に。

 

 治らない病気という、最強最悪の敵を見据えて。

 

 壊れた体という、最強最悪の敵に裏切られながら。

 

 その人生において、最大最悪のレースに、奇跡の帝王は果敢に挑んだ。

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。