目無し足無し夢も無し 心を救う永遠の帝王   作:ルシエド

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「人間は醜い。されど人生は美しい」

   ―――アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック


24 夢をかける

 少し、前のこと。

 

 少年が病院を抜け出し、絵を描きながら言い訳を考えていた頃、マックイーンは彼を拾って、彼が行こうとしていたグラディアトゥールの絵の前まで連れて行くことを約束した。

 誰にも彼の居場所を教えないことも約束し、それでようやくマックイーンは彼を車で運んで行くことを許される。

 マックイーンが対応を間違えれば、彼は約束をすることも、送迎の申し出を受けることもなかったかもしれない。

 

 そのくらい、マックイーンが見つけた時の彼は荒れていた。

 

 死の間際まで追い詰められ、発作で死にかけ、薄皮一枚まで死が迫り。

 なのに「どうすればいいのかわからないけど自分が死んでも彼女を悲しませないように」という願いは未だにまったく実を結んでいない。

 死の恐怖がどんどん大きくなり、どんどん色を濃くして、どんどんその形を明確にしていっているのが、見えない目に見えるかのようだ。

 

 発作を起こして病院に運ばれ、病院でなんとか命を繋ぎ、病院で目覚めた少年は、直前まで眠っていたにもかかわらずまた眠りに落ちた。

 消耗が激しすぎたからだ。

 そして、迫る悪夢を見た。

 死が具現化して襲ってくる夢だ。

 死に捕まってしまう夢だ。

 

『やあ。ようやく捕まえたよ』

 

 そして、恐怖で飛び起きる。

 飛び起きて、けれど発作に体力を削り切られているため、すぐまた気絶するように眠る。

 すぐに、また、死が悪夢となって彼を襲う。

 

『逃げられないよ』

 

 絶叫を噛み殺しながら飛び起きて、また気絶するように眠り。

 そして、また。

 逃げられない、死がやってくる。

 

『逃さないよ』

 

 寝て、飛び起きて、寝て、飛び起きて。

 悪夢の記憶が次の悪夢に塗り潰され、前の悪夢の記憶が消えて、次の悪夢が刻まれて、ふとした時に前の悪夢の記憶が蘇り、また新しい悪夢を見て。

 数時間の内に、数回の悪夢を見たのか、数十回の悪夢を見たのか、少年は自分自身でも分からなくなってきて、ただただ『死が怖い』という感情だけは、微塵も消えずに積み重なっていく。

 

 身体を動かせるようになったらすぐに、這いずるようにベッドから逃げ出した。

 ベッドから、眠りから、悪夢から、死から、逃げ出すように、病院から抜け出した。

 病院から抜け出そうとする間、少年はずっと"もう自分は死ぬまで悪夢しか見ないだろう"という確信に、蝕まれていた。

 死を24時間恐れるあまり悪夢しか見れなくなる人間というものは、実在する。

 

 そんな状態だったから、マックイーンが見つけた時の彼は荒れていた。

 

 油断すると柔らかな口調が抜ける。

 応対に余裕がない。

 会話の速度から緩やかさが失われている。

 言葉の選択もトゲトゲしかった。

 

 マックイーンは自分なりの言葉で彼を諭そうとしたが、あの少女と同じ『彼が優しくする最大の理由』を持たないマックイーンでは、彼の逆鱗に触れるだけだった。

 

「じゃあ、わたしの病気を治してくれよ! 奇跡を起こしてみろよ! できないだろ!」

 

 かの少女がここに居たなら、驚いていただろう。

 彼が彼女の前で、こんな言葉遣いをしたことはない。

 

 いや、きっと、かの少女がここに居たなら、彼はこんな言葉遣いをしなかっただろう。

 どんなに辛くても、苦しくても、彼があの少女の前で、こんな言葉を発するわけがない。

 

「絵を描くことしかできないわたしが!

 どんな絵を描いても治りはしない病気をかかえて!

 それで、なにをすれば、どう生きたらいいのか、そんなもの、分かるわけが、わけが……!」

 

 メジロマックイーンだからこそ果たせる役目が、メジロマックイーンだからこそ自分に吐き出させることができる想いがあった。

 

「希望のある話がきらいなんだ!

 わたしにはないから!

 希望のある話をするのもきらいだ!

 わたしは最後に希望を取り上げられたことしかない!

 希望を語る人もきらいだ!

 わたしと違って、しあわせそうに生きてるから!

 ……それでも、それでも……彼女が希望を語るなら……叶ってほしいと思うんだ……!」

 

 吐き出す想いはまさしく無数。

 その全てをマックイーンは否定せず、反論せず、マックイーンらしく受け止めていった。

 

 奇跡を信じていない少年。

 奇跡が自分に降りかかることだけは無いと信じている少年。

 なのに、少女と出会ったことで、その出会いを奇跡だと思ってしまったことで、自分の中に揺らぎが生まれてしまった少年。

 

 彼は優しい。それは事実だ。

 彼は綺麗なものが好き。それも事実だ。

 彼は素晴らしい人間を尊敬している。それも事実だ。

 友情、希望、信頼、夢、愛。そういったものが彼は大好きだ。それも事実だ。

 

 されど、迫る死と無敵の病魔は、彼の心の柔らかい部分を、少しずつ、少しずつ、削り落としていっている。

 

「……ごめんね。すこしうろたえた」

 

「かまいませんわ。

 それが自然な人間の反応ですもの。

 もっと大いに感情を出して、言いたいことを吐き出し尽くしてもいいんですわよ?」

 

「落ち着いていないといけないんだ。

 じゃないと、まわりの人が不安になる。

 不安にさせたくないんだ。

 わたしが落ち着いて死を受け入れてないと、みんなが不安になってしまうんだ」

 

「……」

 

「わたしの病気のことで、まわりのひとを不安にさせたくないんだ」

 

 人知れず背中側に回し、隠していた拳を、強く握るマックイーン。

 "こんな人をこのまま死なせていいわけがない"という覚悟を、そうして強く固める。

 

「少し、話しませんか? どうせ車の移動中です。手慰みにはなるでしょう」

 

 そして、マックイーンは彼と話し、少年と少女の物語、これまでの経緯、そして問題となる諸事情の詳細を聞き出した。

 

 少女に対する罪悪感で、つい1%の治療法について口を滑らせてしまった時と同じだ。

 余裕こそが、嘘の質を作る。

 余裕を無くした人間に情報を吐かせることなど、造作もない。

 余裕の無い人間は、全体の整合性を取った大嘘などつけないのだから。

 

 少女は、少年がマックイーンに全て話したと聞き、二人の関係や親密さを疑ったが、その実情はまるで正反対。

 少年は全ての余裕を無くしていたから、マックイーンに対し隠し事をすることができなかった、それだけだったのだ。

 

「なぜ、そんなに綺麗に死のうとするのですか?

 もっと情けなく弱音を吐いてもいいのではないでしょうか。

 死にたくないと思ったら、その時にそう言っていいのですよ

 我慢して、彼女のために……テイオーのために優しく微笑むことだけが正解なのですか?」

 

「好きな子に格好悪いところ見せられるわけがないじゃないか」

 

「―――」

 

「口に出さないでおくべきことというのは、あると思うんだ」

 

 マックイーンは話すたびに、彼のどこかを気に入っていった。

 そのたびに、彼がこういう性格になった経緯に同情し、彼の個性に好感を持ち、そして「それでもこの人は死ぬ」と思うたび、かの少女が今日まで感じてきた絶望を追体験していった。

 

 マックイーンも弱音を吐きたい気分になってきていたが、全員が弱音を吐く状態になっては誰が誰を救えばいいのか分からない。

 "唯一自信満々に堂々としている強い女・メジロマックイーン"を演じ、彼と彼女が救いの道に向かう指針となる。マックイーンは、そう決めていた。

 内心の不安は、努めて悟られないよう努力していく。

 

 彼がこの状態では、彼の方からのアプローチによる解決が望めない。

 マックイーンは彼を見て、そう判断する。

 『彼女に任せるしかない』と、一番肝心な部分をライバルに任せ、彼女の奇跡が彼を救うと信じて、後で彼女にかける発破の形を決めた。

 

 そして、ここで彼にかけるべき言葉を考え始める。

 マックイーンには彼は救えない。

 彼を救えるのは、彼が永遠にしたいと願った帝王の少女、ただ一人。

 それ以外の誰にも彼を救えないということを、マックイーンは半ば確信していた。

 

 けれどそれでも、マックイーンには、マックイーンにしかできないことがある。

 マックイーンにしか言えないことがある。

 奇跡の帝王が彼を救うために、ほんの僅かな一助にしかならないとしても、

 

「一つだけ、(わたくし)から言わせてもらってもよろしいでしょうか?」

 

「なにかな」

 

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「……!」

 

「あなたには絵で何かを伝える才気があります。

 しかし、最後に伝えるべきことを黙っていることは許しませんわ。

 あなたがあなたで、彼女が彼女である限り、あなたにはその想いを口にする義務があります」

 

「……わたしに、テクストの外で頑張れと、そう言うのか」

 

「決めるのはあなたですわ。(わたくし)には強要する権利がありませんもの」

 

 テクストの外は存在しない(il n'ya pas de hors texte)

 

 20世紀、芸術や哲学を中心として行われた大きな思想運動『ポストモダン』に対する一種の批判として、批評家ロラン・バルトらが生み出し確立した概念である。

 主に小説、また絵画や彫刻などの批評に関し、用いられるものだ。

 

 テクストとは、言語・記号・表象が織り交ぜられた『形態』―――すなわち『作品』であり、その外側は無い。そう考える真理的な思想である。

 

 「皆が批判してるから駄作だと思う」?

 違う、テクストの外には何も無い。

 外野の声は作品の評価に無為である。

 

 「人の数だけ作品の解釈と真実が生まれる」?

 違う、テクストの外には何も無い。

 観測者の数で作品の本質が変わることはありえない。

 

 「作者の性格がクソだから作品も楽しめなくなった」?

 違う、テクストの外には何も無い。

 作者などというものは存在しない。

 作品は単品で評価されなければならない。

 

 「この作品には作者のこういう意図がある」?

 違う、テクストの外には何も無い。

 作者の意図などなく、それを推測することに価値はない。

 作者の意図を好意的に解釈することも、邪推することも邪魔でしかない。

 作品の外側に在る『作者の言いたいこと』などというものを考慮しては、作品自体に存在する『絶対の真』を見逃し、惑わされ、大切なことを見失ってしまう。

 だから、テクストの外と内は分けて考えなければならない。

 

 テクストの外には何も無い。

 

 無かったことにされていいのか。

 

 テクストの外側にある『彼が彼女にまだ伝えていないこと』を、無かったことにしていいのか。

 

 絵に描きこんできた想いの他に、伝えたい想いはないのか。伝えるべき想いはないのか。

 

 彼女のためとのたまって、絵の中に入れ込んでこなかった想いはないのか。

 

 テクストの内だけで伝える何かで―――本当に、後悔はないのか。

 

「……」

 

 テクスト論とは、『作品は作者の心と思想の鑑である』という思想や解釈を一度否定し、芸術を見直すためにある。

 彼が今日までかの少女に見せてきた絵には、彼の『言いたいこと』が確かにある。

 彼はそれをテクストの内に収め、彼女にちゃんと伝えてきた。

 だが、彼が自分の全てをテクストの内に収め、自分の全てを彼女に見せてきたかと言うと、僅かに疑問が残る部分もある。

 

 彼が彼女に隠したかった気持ちも、彼の中にはあるのではないか。

 彼が絵にしてきた気持ちだけが、彼女が目にしてきた彼の気持ちなのではないか。

 彼が隠していて、絵にはしていなくて、だけどあの少女とマックイーンが薄々存在に感づいているような想いが、あるかもしれない。

 

 それをちゃんと大事な人の前で口にしろと、マックイーンは言っている。

 

 目は無くても、言葉があり、絵がある。伝えるならば、全部使って、全力で。

 

(わたくし)はだいぶ身勝手ですわ。

 貴方に随分と押し付けをして、不快な想いをさせる気がします。

 だから貴方に否定されれば、何一つ反論できませんわね。

 "生きろ"という(わたくし)の提案に意味が宿るのは……

 貴方がこの先、生きたいと願い、諦めないことを選んだ時のみ」

 

 人は誰もが影響を与え合う。

 

 少年が少女に、少女が少年に。

 かつては少女がマックイーンに、マックイーンが少女に。

 そして今、あるいはこれから、少年がマックイーンに、マックイーンが少年に。

 影響を与え、その生き方に僅かなりとも変化を生じさせる。

 

(わたくし)はあの子を信じます。

 奇跡を起こすあの子を。

 奇跡を繋ぐあの子を。

 そして……貴方が愛し、貴方が信じ、貴方が心の底で頼りにしている、あの子を」

 

 そして。

 

「貴方の心の叫びが、彼女の背中を押してくれれば……などと、思ってしまいますわね」

 

 マックイーンの願いが、どこに届いたかも分からないまま、青き少女は走り出した。

 

 少女の腰に固定されたお守りを見ながら、マックイーンは空に祈る。

 

 女好きでウマ娘好きの『最後の放蕩王』、エドワード7世。

 その加護をマックイーンは求める。ささやかでもいい。育てたウマ娘の足が折れたかの偉大なる王が、青いウマ娘である彼女の足を、ささやかにでも守ってくれることを願う。

 既に故人である誰かに祈ってまで、強く強く、"報われてほしい"とマックイーンは願う。

 空に祈るマックイーンのその想いは、雲の上の今は亡き偉人に届くのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 右回り芝2000、天候曇り、馬場状態・稍重。部分的に良。

 

 運命の壁は、過去の記憶の姿をとって、少女の前を走っていた。

 

「くっ……!」

 

 幻影が見える。

 過去の自分が。過去の帝王が。過去の最速が。

 確かに見える幻となって、少女の前を走っている。

 

 最強最速、無敵の帝王。

 長い長いウマ娘の歴史の中で、天才が記録を作り、もっと凄まじい天才が記録を塗り替え、新たな天才がまた記録を更新し、その繰り返しで作り上げられる、頂点の記録。

 レコードとは、そういうものだ。

 その時代の最強の指標ではない。

 全時代の最強の指標であるものの一つ。

 レコード更新とはその時代最強のみならず、それまでの過去全てを凌駕した証明であり、過去の少女がそれを記録したということは、過去の少女がそれほど飛び抜けていた事を意味している。

 

 先を走る幻影が速い。

 過去の自分の幻影が速い。

 スタートがそもそも昔の少女の方が上手くこなせており、スタートの時点でつけられた差が、序盤から更に広げられていく。

 

 幻影と実体、二人の帝王の一騎打ち。

 

 されどその速さにおいて、実体は幻影に及ばない。

 

「ぐっ……!」

 

 速さが足りない。

 偶然の通り雨のせいで馬場が悪い。

 僅かに濡れた芝が滑る。

 足の骨が折れる恐怖が、いつまでも少女の足を引っ張っている。

 幻影と少女の差はどんどん、どんどん、広がっていった。

 

「負けるかっ……負けるかぁ……! 昔のボクなんかに、負けるかぁ……!」

 

 スタートからほどなくして、幻影と少女は第一コーナーを迎える。

 歪んだ円の、最初の曲がり角だ。

 先を行く幻影がいい位置取りをしながらコーナーを曲がるのを見ながら、少女は肺が破れる勢いで距離を詰めようとして、ふっ、と、背筋に冷たいものが流れる。

 

 "ここで折れる"、という感覚的恐怖が湧いてきた。

 

 このレース場は右回りだ。

 当然、コーナーでは右に曲がる。

 するとどうなるか。

 遠心力も相まって、左足に大きな負荷がかかるのだ。

 車が右に曲がる時、左側の太く強固なタイヤがぐにゃっと潰れるように、右に曲がる時、ウマ娘の左足にも同様の負荷がかかってしまう。

 ウマ娘は並の車よりずっと速い。

 当然のように、脆い足はそのまま折れる。

 

 一つ不安が芽生えれば、一瞬でいくつもの不安が芽生えてくる。

 少女の優れた目と並外れた思考瞬発力が、コーナー周辺の馬場状態が明確に悪いことに気付いてしまった。

 芝が濡れ、通り雨の排水状態が悪い。

 このままだと良くて想定以上の減速、想定したラインからの逸脱は間違いなく、低確率でそのまま転倒、最悪足に変な力がかかって足がそのまま折れてしまうかもしれない。

 

「ボクは……ボクはっ……!」

 

 その時、ふと。

 何気ないことを、少女は思い出した。

 今思い出しても、何の意味もない記憶を思い出した。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「今はこんなものしかないけど、これですこしお願いしたいことがあるんだけど、いいかな」

 

「ええっ!? 貰っていいの!? あ、何か頼まれ事か。何してほしいの?」

 

「またどこかでたまたま会った時は、わたしとお話をしてほしいのさ」

 

「……え、そんなことでいいの?」

 

「わたしが見えていない段差をきみに教えてもらったりするかもしれない。必要なことさ」

 

「そのくらいならいいよ! 目が見えない人が一人で歩いてるの、危なっかしいもんね」

 

「ありがとう」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 その瞬間、奇跡のような帝王のステップが、コーナーを駆け抜けた。

 斑のような地面の良悪を、足先が見切って、地面の『踏むのに理想な部分』だけを少女の足が踏み蹴って、滑る部分やぬかるんだ部分の全てをその足がかわしていく。

 

 少女は足元を見ていない。

 足元なんて見ていたら減速してしまう。

 少女は足元を見ないまま、雨が生んだ地面に存在する不可視の斑模様を、最適中の最適によって駆け抜けた。

 

 まるで、隣人に足元に何があるかを教えてもらって、その通りに走った盲目の者のように。

 見えていない段差だろうと、誰かに教えてもらえば上がっていける盲目の者のように。

 あの日、見えないまま少女を守るため走った盲目の少年のように。

 見ないまま走って。

 見ないままに成功した。

 "センセーはいつも見えてないんだ"なんて声が、幻覚で聞こえてきそうなほど、熱い想いの宿る奇跡の不見走法。

 

「ボクは……運命なんかに祈らない! 蹴っ飛ばして! やるんだぁ!」

 

 最適なコーナリングを行った少女は、先を行く幻影との距離を僅かに縮め、その背中を―――かつての自分の背中を追った。

 

 

 

 

 

 マックイーンの命令で、理学療法士が少年の横についている。

 理学療法士が解説してくれるおかげで、少年は今少女がどういう状態なのか、どこを走っているのか、レコードまでどのくらいか、そういったものも把握できていた。

 走る少女の足音を繊細に聞き分けながら、少年はただ祈っていた。

 

 少年は、ずっと祈っていた。

 だがそれは、少女が少年の運命を知った時の祈りとも、今マックイーンが捧げている祈りとも、過去に多くのウマ娘の後ろでトレーナー達が見せていた祈りとも違う。

 勝利を願っているわけでもない。

 報われることを願っているわけでもない。

 その祈りは、少女がとにかく無事に終わってほしいという願いのこもったものだった。

 

「どうか、どうか無事で……足が折れませんように……」

 

 ただ、彼は心配していた。

 

「まだ彼女には未来がある……折れなければ、なんとか……」

 

 ただ、彼は想っていた。

 

「日常生活だってすごせる、普通の女の子としてすごせる、だから、だから」

 

 ただ、彼は願っていた。

 

「わたしは慣れてる。

 ずっと慣れてたんだ。

 報われなくてもいい、慣れてる。

 すぐ死ぬのもいい、ずっとわかってたことだから。

 なにもないことも、希望がないことも、慣れてる。

 わたしは贅沢じゃないし欲しがってるわけでもないんだ、だから」

 

 ただ、彼は祈っていた。

 

「"わたしのために"なんてくだらないもののために、彼女からなにかを奪わないで……!」

 

 ただ、彼は愛していた。

 

「おねがいします……

 わたしからはいくら奪ってもいいから……

 彼女からはもう、なにも奪わないでください……おねがいします……」

 

 ただ、彼はこの時間が何事もなく終わってほしかった。

 

 

 

 

 

 第一コーナーを抜け、第二コーナーに入るまでは、(うね)った坂路だ。

 右に曲がりながら登る坂の道。

 こんなものがレース場の終盤にあれば、ウマ娘の心臓がそこで破裂してしまいそうだと思えるほどの、曲がる坂。

 少女は先を走る幻影を追おうとするが、過去の帝王は無重力かと錯覚するほど軽やかなステップで、坂を凄まじい勢いで駆け上がっていく。

 

「あっ、くっ!」

 

 この時、過去の彼女はがっつりと逃げに入った先頭を追いかけていた。

 先頭のウマ娘はレースの途中で死んでもいいという勢いでガンガンスパートをかける、スプリンター寄りの中距離ウマ娘であったが、過去の少女はその後に悠々ついていっていた。

 途中までそのウマ娘に"引いてもらっていた"からこそ、その日の少女はレコードを更新できたとさえ言えるだろう。

 だから、速い。

 この坂でも幻影が速い。

 速い奴の後ろにぴったりくっついているから、とても速く、とても熱い。

 "負けるか"という熱意を、幻影が途方も無い規模で発している。

 

 熱意に溢れた幻影に、振り落とされる予感があった。

 少女は歯を食いしばってついていこうとするが、熱が足りない。

 過去の熱に、置いていかれる。

 全力を出しているから足が折れそうだという感覚が、今の少女から酷く熱を削いでいる。

 そう、不安になった少女の脳裏に。

 

「ボクは!」

 

 特に理由もなく、特に何かの参考になるわけでもない、なんでもない日々の記憶が蘇る。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「夢はどう見ればいいものだったかな。わたしはもう、その方法を思い出せない」

 

「……」

 

「すまないね。優しいきみに気を使わせてしまっている。気にしないでいいんだよ」

 

「気にするよ。だってもうボクら、友達じゃん」

 

「……友達。友達か。ははは。嬉しいな……本当に、嬉しいなぁ。わたしもそう思ってるよ」

 

「うん。だからさ、ボクは友達が元気満々になる方法を勝手に考えちゃうだけなんだよ」

 

「ああ……そうか。きみはやっぱり、まぶしいな」

 

「ほらー、もっと熱くなれー! 元気になるんだよセンセー! 夢見ちゃおうっ!」

 

「はははっ」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 "センセーにそう言ってたボクが、そうじゃなくてどうするんだ"と、想いが沸騰する。

 熱が足に伝わる。

 恐れず、熱を込めた足を踏み切る。

 そうして少女は、うねりの坂で加速した。

 

「ボクがぁ! センセーが、唯一夢を見た、ウマ娘なんだぁ!!」

 

 大差がつくはずだった流れが、失せる。

 つくはずだった差が、止まる。

 ほんの少し幻影と少女の差が縮まったが、また差が開いていく。

 

 息の代わりに血を吐き出すような、命を絞り出し走るウマ娘の叫びが、芝を揺らした。

 

 

 

 

 

 少女の走りを見て、マックイーンは祈りながらも、困惑していた。

 

「おかしいですわ」

 

 レコード記録の過去の彼女には及ばない。

 少女が見ている幻覚と少女の間には、かなりの大差がある。

 記録数値を見ているマックイーンの視点からも、それは明白だ。

 少女は過去の自分に及ばない今の自分に歯ぎしりし、もっと速く、もっと速くと自分を叱咤しているが、マックイーンは『遅い』だなどとは思っていなかった。

 

「何故……何故こんな、『速い』んですの……?」

 

 あの少女も、マックイーンも、既に再起不能と判断されるほどに足を壊したウマ娘である。

 あの少女は、足を四度折った。

 マックイーンは、ウマ娘にとって不治の病と言える繋靭帯炎を発症した。

 両者共に、かつてのようには走れないと太鼓判を押されている。

 少年が助からないと太鼓判を押されたのと、同じように。

 

 なのに、速い。

 過去の帝王には及ばないにしても、十分すぎるほど速い。

 そもそも、振り落とされずにいい勝負になっているという時点でおかしいのだ。

 四度折れた足でその速さが出るわけがないのだから。

 

 少年が使った比喩を引用するのであれば、今あの青いウマ娘は、クッキーの足で車と同じ速度を出している。

 足が壊れず走っている今が、あまりにもありえない。

 

 気合いだとか、想いの力だとか、そういうのもあるのだろうが、それだけではない。

 それだけでは『速さ』は生まれない。

 物理的な何かがあるはずだ。

 そうでなければ、ここまで過去の自分に食らいつくことなどできはしない。

 

「足も折れる気配がない……骨に、いえ、体に? 一体何が」

 

「2017年には、

 『医者と患者の関係が良好であると症状が有意に改善しやすくなる』

 という腰部骨格の研究結果があったそうですよ、マックイーンお嬢様」

 

「絆の力とでも言うつもり? (わたくし)もそういうのは嫌いではありませんが……」

 

「はい、理屈に合いませんな。これは一体どういうことなのか」

 

 何か、おかしな空気の中、少女は一人走っている。

 

 その姿を応援したいと思うのが、人情というものだろう。

 

 だが、記録機械の時間表示を見て、マックイーンは眉を顰める。

 

「それでも、レコードにはまだ届かない。テイオー……」

 

 走っているのに足が折れていない奇跡。

 四度折れた足で最強最速の過去に少し劣る程度の速さを出している奇跡。

 状態の悪いレース場で、状態最高時の記録に迫るという奇跡。

 少女は既に三つの奇跡を起こしている。

 なのに、まだ足りない。

 

 『かつて最強と呼ばれたウマ娘』に勝つには、奇跡が三つ程度ではあまりにも足りない。

 

 最強無敵の帝王は、追い縋るには速すぎる。

 

 

 

 

 

 第二コーナーを抜けると、そこで急な上り坂は終わる。

 その先に待つのは、第二コーナーと第三コーナーを繋ぐ直線だ。

 軽微な上りになっているこの直線でこそ、身体能力差が如実に現れる。

 能力差ではない。

 身体能力差だ。

 思う存分加速できる直線でこそ、生来の資質、才能の最高速が試される。

 

 そして。

 最強最速の時代の帝王と、足を四度折った帝王では、そこに雲泥の差が生まれてしまう。

 この直線に、その差を埋める小細工の余地はない。

 

「はぁっ……ハァッ……はぁっ……あああああああ!!」

 

 少女は全力で疾走するが、徐々に、徐々に、差が開いていく。

 これまでは坂、コーナーと、ある程度"最高速を出せない理由"があった。

 しかしここは違う。

 ここは単純な直線だ。

 幻影は万全な体で、規格外の最高速を発揮できる。

 過去に走った時も、この直線で先頭のウマ娘を追い越して、そのままの勢いでノリノリに加速して、そのまま一着。そうして彼女はレコードを取ったのである。

 

 追いつけやしない。

 差は開いていく。

 運命の具現たる幻影が走る。

 運命に挑む少女は追いつけない。

 

 現実が、少女の想いを叩き潰しにやってくる。

 

 運命が、『お前の最後の奇跡は終わっている。この先はない』と囁いている。

 

 現実が、運命が、世界が、誰も少女の味方をしない。至極妥当に、夢が終わる。

 

「はぁ、はぁっ、ハッ、ハッ、うっ、あっ、くあああああああああっ!!!」

 

 そんな中。

 思い出が蘇る。

 そして、少女は気付いた。

 なんともなしに気付いて、ふんわりと笑った。

 

 その思い出には何の力もないけれど、ただの記憶には何の力もないけれど。

 

 それを覚えている彼女が、それを心に宿す限り―――どこかから湧いてくる、力があった。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「でも、お嬢さんなら犬より猫だろうね」

 

「猫~? なんで~?」

 

「気まぐれ。

 自由。

 少し生意気なこともするね。

 それと気位が高いところもある。

 勝負事になると負けん気が良い方向に作用するタイプだ」

 

「へー……あー、うん、そうかも」

 

「きみが犬に感じられるのは……

 一途だから。

 まっすぐだから。

 『好き』を曲げないから。

 きみのそういうところをちゃんと見てくれている人は犬に見えるんだと思う」

 

「ああ……そっか、そういう感じなんだ」

 

「きみに好かれた人は安心するだろうね。

 きみは犬みたいなところがあるから。

 きみの忠実と言えるほどの好意を疑う人はいないだろう。

 きみを好きになった人は大変だろうね。

 きみは猫みたいなところがあるから。

 きみは自分が好きになったものしか追いかけないから、自由なきみを追いかけるのは大変だ」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 特に、意味も無いけれど。

 

 目の前の幻影を追いかける気分をやめて、どこかに行ってしまいそうな彼を追いかける気分に、少女は気持ちを切り替えた。

 

 ふつふつと少女の胸に湧き上がる思いが、足に乗っていく。

 どこに行っても追いかける。

 死後の世界になんて行かせない。

 彼を幸せになれない世界になんて行かせない。

 死が彼を連れて行こうとしても、絶対に追いつく。

 絶対に連れ戻す。

 絶対に、絶対に、絶対に。置き去りになんて、させない。

 

 『センセーが死んで後に残される女の子が泣くことを、先生が嫌がる』のなら。

 『センセーを行かせない、センセーに追いつく、センセーを一人にしない』。

 そうする。

 そうしたい。

 少女は、素直な気持ちでそう思う。

 

 追いかけて、追いついて、一人にさせない。

 そう思い、そう願い、そう誓う。

 想いが、足の動きを変えていく。

 

「好きになったから追いかけてるよ、センセー」

 

 そうしたら、何故か、少女の足は、限界を超えて動くようになった。

 

 『心境の変化が走りに出る』―――ウマ娘にはよくあることである。

 それで速くなることも、遅くなることも、特定の時期に無双することも、スランプになって勝てなくなることも珍しくはない。

 だが、"これ"は凡百のそれとはわけが違うものだった。

 

 今、ここで。『四度折った後に何かがあった足』への、走りの最適化が完了した。

 

 歯車が噛み合うように、微細な調整が完了された足が、最強最速を超える速度で動き出す。

 

 少女の背中に隠していた爆弾でも、爆発したのか―――そう錯覚してしまうほどに急激に、幻影の背中を追いかける少女が、加速した。

 

「センセーのっ」

 

 差が縮まる。

 最初は僅かに。

 次に少しずつ。

 直線が終わる直前で、劇的に。

 

 最強最速の帝王が、走れない体になっていたはずの帝王に、追いつかれていく。

 

「センセーのことも知らない過去のボクなんかにぃ―――」

 

 その理由を。

 

「―――負ぁけぇるぅかぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」

 

 語るのは、無粋かもしれない。

 

 あまりにも無茶苦茶な、運命という言葉の対極にありそうな、ありえないの上にありえないを重ねたような、ありえない疾走。

 

 それを見て、マックイーンが、メジロ家の人間達が、物語の中心である少年が、揃って心底驚愕し、各々の声を漏らした。

 

 

 

 

 

 その時、ふと、少年が漏らした、何気ない一言が。

 

「……ああ。そうだ、これだ。お嬢さんの足音が……一番きれいで、すてきなんだ」

 

 "センセーには最高にかっこいいボクを見てほしい"という気持ちを呼び覚まし―――少女は更に加速した。

 

 医学の常識の全てを、折れたはずの足で踏み潰しながら。

 

 

 

 

 

 マックイーンは目を擦る。

 目の前の現実が信じられなかった。

 マックイーンは彼女を信じていた。奇跡を起こすと信じていた。

 しかし実際に奇跡を起こされると、もはや自分の目を疑うことしかできない。

 少女が加速し、レコードラインを超えるまで、あと少し。

 

(わたくし)は……夢を見ていますの? それとも、これが本当に、現実?」

 

「思い出しました、マックイーンお嬢様」

 

「何を? 今この状況を説明できる何かですの?」

 

「はい。骨延長デバイスの特許などで知られるDr.カルメスの狂気の研究があります」

 

「狂気の研究……?」

 

「Dr.カルメスは背骨の骨折を数え切れないほど治してきた医師でした。

 そしてDr.カルメスは狂気の判断を選択しました。

 背骨の圧迫骨折等、整形手術が必要な患者130名に対し、何もしなかったのです」

 

「!」

 

「そして、彼らに『手術は行った』と説明した。

 結果、何もされなかった患者も手術を受けた患者同様の回復を見せたそうです。

 手術をされたと思った。だから治った。

 以前、同様に背骨を折り手術を受けた経験がある患者も、この偽手術を受けていたとか。

 しかしその患者・アンダーソン氏も、偽手術であったことに完治するまで気付かなかったと」

 

「……()()()()()()()()()()()、ということですの?」

 

「はい。そういうことでございます」

 

 少女の損傷は筋や神経ではない。骨格だ。

 かつて観測された事例の通りに、手術が必要なレベルの損傷すら精神状態で回復するというのであれば、四度の骨折の悪影響を踏み倒すこともあるのかもしれない。

 ただし、あくまで理論上の話だ。

 

 足を四度折った後に、精神の力でそのマイナスを打ち消したウマ娘など、人類の歴史上、ただの一人も存在しない。

 存在しない。

 存在しない、はずだった。

 

 ならば今、足が折れもせず平然と走っている奇跡の帝王を、他にどう説明するというのか。

 

「ありえますの? そこまでの希少例が、ここにたまたま実現するなど」

 

「私は今、合点がいきました。点と点が線で繋がった気分です。マックイーンお嬢様」

 

「一体何の話?」

 

「展覧会の前の週、申し上げたはずです。

 マックイーンお嬢様の治りが予想よりも遥かに早く、精神的によい作用があったのでは、と」

 

「……? ……あっ」

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「足、よくなったんだ。よかったね」

 

「ええ、おかげさまで。

 医者からは精神的によい作用があったのでは、と。

 それでもレース復帰はするなと言われていますわ。

 まったく、こんなに生は上手くいかないというのに。

 神、そらに知ろしめす、すべて世は事も無し。ですわね」

 

「もっとよくなることを願ってるよ」

 

「ありがとうございます。嬉しく思いますわ」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

「貴女が生き証人なのです。

 マックイーンお嬢様。

 貴女こそが、彼の絵がウマ娘に与える影響を示す第一例、あるいは第二例」

 

(わたくし)が……なんとも、まあ……」

 

「特異な精神的影響を、テイオー様に与え続けたものがあるはずです」

 

「彼の存在。いえ、彼の絵……ですわね」

 

「はい。

 無論、芸術が全てそんな影響を生むわけではありません。

 そうであれば、医者など要りません。

 絵画鑑賞趣味がある者は全て万事健康でなければなりません」

 

「そう、ですわね」

 

「固有の精神状態が必要なのです。その症状に有効な、固有の精神状態が」

 

 主治医は苦しそうにしながら、医学から外れた疑似科学じみた現象に、なんとかまっとうな知識から理屈をつけようとする。

 

「彼の絵はウマ娘からの人気は数年前から高かったと聞きます。

 そうであれば、数年前から話題になっていなければおかしい。

 画風が変わったことが絵の力を変質させたのでしょう。

 同時に、彼自身が治療効果を持っている可能性も否定できます。

 劇的に変わったのは彼の絵だけのはずですから。

 彼の絵にこそ特異な力が宿っている、と、すれば。

 "彼女のための絵"……そういう気持ちで描いていたものが……真実その力を……?」

 

 彼だけが描く透明な絵でなければならなかった。

 そこに、彼女だけが影響を与えていなければならなかった。

 二人で作り上げる絵でなければならなかった。

 それこそが、『ウマ娘の怪我に対して劇的な治癒効果をもたらす』精神状態を作り上げる、奇跡の画風へと到達した。

 で、あるならば。

 

「だとすれば……彼の絵の効果に隠された、誰もが気付かなかった本質、それは……」

 

 今、ここで。

 

 存在を証明されようとしている奇跡は。

 

 一つではない。

 

 

 

 

「皆自分勝手だったんだよ。

 ボクの引退ライブ、あの時……

 『引退がいいよね』なんて誰も言わなかった。

 『その方が君のためだ』なんて皆言わなかった。

 皆、勝手なこと言ってたよ。

 『君に引退しないでほしくない』とか。

 『寂しい』とか。

 『奇跡は起こります』とか。

 そんなことばっかり、自分の願いばっかり、全力で言ってた」

 

「今、分かった。

 言う側になってようやく分かったんだ。

 皆ずっとボクに言いたかったんだ。

 ずっとボクに我儘を言いたかったんだ。

 でも言えなかった。

 それを言ってもし何もかも失敗したらどうなるかって、皆分かってたから」

 

「ボクのことを想ってくれてたから、言えないことがあって。

 それでも、ボクと見たい未来があったから、ボクにわがまま言ってて。

 ボクのことを想いながら、ボクに『そうあってほしい』っていう、夢を語ってた」

 

「ボクが奇跡を起こせたのは、あの人達の気持ちがあったから。

 皆、ボクのことをちゃんと考えてくれてた。

 皆、ボクに夢を見てくれてた。

 ボクは、皆に夢を見せたかった。

 ボクは、皆の期待に応えたかった。

 諦めて終わりたくなくて……この夢を頂に届けるために、諦めたくなかったんだ」

 

「この夢を……この夢を! 終わらせないために! 頂に届けるために!」

 

「夢をかけるみんなために、ボクの足はあるんだ!」

 

「それがボクの夢でもあるから!」

 

「絶対に、叶えてみせる!

 この夢を! 今見てる夢を!

 破れるための夢じゃない、絶対に叶う夢を!

 ボクが見て、ボクがボクを見てる人に見せる夢を!

 ボクも、ボクを見てる人も、叶ってほしいと願う夢を!

 一緒に生きて、笑い合える未来(あす)を生きる夢を!」

 

「どんな奇跡にも繋がる奇跡を、夢見て、叶えるんだ!」

 

「一緒に行こう! 皆で行こう! 迷わないで! ボク達で! 止まらずに行こう!」

 

「誰も知らない明日へ!」

 

 

 

 

 

 第三コーナーを抜けて、下り坂を一直線。

 ここを越え、第四コーナーを越えれば、ラスト400mの直線。

 そして、ゴールだ。

 

 もはや幻影と実体は、完全に並走していた。

 奇跡のオンパレードで信じられない速さに到達した少女だが、幻影も同じ少女である。

 終盤の爆発力は、どちらの帝王にも備わっている。

 数多くのウマ娘の心を折ってきたレース終盤の爆発力で、幻影は更に加速する。

 

「うああああああっ!!!」

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「そんな時にね、聞こえたんだよ」

 

「聞こえた? 何が?」

 

「きみが聞こえたんだ」

 

「……ボク?」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 無敵の帝王と無敵の帝王。

 二つの最速は完全に拮抗している。

 いや。

 違う。

 今を生きる帝王の方が、ほんの僅かに、差がつかない程度に、速い。

 

 そこに在る僅かな差は、体になど宿っていない。

 幻影と実体、二人の帝王が持つ、思い出の数の差に在った。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「きみに耳を傾けている間、嫌なことを全部忘れられた。

 死にたいという気持ちも忘れられた。

 "ああ、もっと聞いていたい"って思えた。

 そのくらい、きみから生まれる音は全てがたのしそうで、きれいだったんだ」

 

「ふぇっ」

 

「きっと、きみの周りの人なら皆思ってるよ。

 きみがたのしそうなら、こっちまでたのしくなってくるって。

 きみがはちみつの歌を歌ってるのを聞いてるだけで、ちょっとしあわせになるんだって」

 

「そ、そこまでのことは……ないと思うなぁー……」

 

「あるよ。わたしはそう思う」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 リハビリ期間の長さ、現役から離れて長いという前提、本格的な体力作りをまだ再開していなかったという状況。

 それらが、少女に牙を剥く。

 毎日のようにハードなトレーニングを繰り返している幻影はこの程度ではバテない。

 されど少女はまだリハビリを徐々にこなしている程度の状態で、ハードなトレーニングを日常的にこなしていない分、バテるのが早い。

 

 幻影が、少女より僅かに先行する。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「わたしだって生きたかったさ。

 ほしかったものには手が届かなかった。

 でもだからって同情してほしいわけではないんだ。

 わたしは今、手が届かなかった星とはちがう、別の星に手を伸ばしているから」

 

「……」

 

「わたしはずっと沼ばかり見ていた。

 わたしの足をとらえる、おおきくて深い沼だ。

 きみがわたしに空を見上げさせてくれたんだよ、お嬢さん」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 だが、踏ん張った。

 負けてたまるかと、踏ん張った。

 ふらつきそうな体に鞭を打ち、減速した体を再加速して、幻影に追いつく。

 相手も自分。

 自分も自分。

 どちらも帝王。

 だけど、彼を知らない自分にだけは負けられない。

 それが少女の意地だ。

 

 『彼と出会って弱くなった』だなんて、誰にも言わせない。

 『彼と出会って強くなった』と、胸を張って言うために。

 

 彼と出会った自分は、負けてはならないと、自分に言い聞かせながら走る。

 

 『彼と出会ってから無敗の帝王で在りたい』と、突然に自分の内側に湧いてきた想い、願い、夢であるそれに―――少女は、とても楽しそうに笑った。

 

 彼と出会ってから無敗で居たい、だなんて。なんとも少女趣味な夢だった。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「どうか気に病まないでほしい。わたしが生まれて初めて見た太陽は、きみだったんだ」

 

「あ」

 

「きみはなにも悪くない。きみがわたしを救ってくれたんだ」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 第四コーナーを回り切った。

 最後の直線、400m。

 幻影が僅かに先行する。

 ラストの直線、ここの勝負が少女の十八番だ。

 幼く、若く、気が速くて、ちょっとでも早く仕掛けたいという気持ちから、過去の帝王は早めの仕掛けを選択し、幻影もまたそれをなぞる。

 

 少女もぐっと足に力を込める。

 ここが本当のラストスパート。

 ここで勝ったらそれは奇跡。

 負けても妥当、当然のこと。

 そうだとしても。

 他に、負けられない理由、負けたくない理由が多すぎた。

 だから、少女は全力の負けん気でぶつかっていく。

 

 最後の全力を踏み出そうとした、その瞬間。

 

―――わたしには見えない綺麗な世界の中で、ずっと笑っていてくれないか、わたしの太陽さん

 

 かけがえのない思い出が、背中を押してくれた気がした。

 

 

 

 

 

 レコードの記録と今の少女の記録は僅差。

 ほんの少し躓いただけで、ほんの少し気を緩めただけで、ほんの少し足の動きが遅くなっただけで達成不可能なほどのギリギリ。

 少女が見ている幻影と、少女の体は、ほぼ並行している。

 本当に、鼻先ほどの差しかない。

 

 奇跡があった。

 ここまでの全てが奇跡だった。

 奇跡の上に奇跡が重なっていた。

 そして今、数え切れないほどの奇跡が合わさった、最高の奇跡が生まれようとしていた。

 ゴールの瞬間に、それは生まれようとしていた。

 最後の奇跡が起これば、それは生まれる。

 

 いつの間にか、少年の心から、心配などというものはなくなっていた。

 ただただ、少女の記録更新を願っていた。

 少女が過去の自分に勝つことを祈っていた。

 

 過去の自分と戦うレースに魅せられた。それもあるだろう。

 だがそれ以上に、彼は彼女の頑張りに報われてほしかった。

 頑張って走っていた。

 頑張って過去の自分に挑んでいた。

 頑張って限界を超えようとしていた。

 そんな彼女に報われてほしくて、ただそれだけを、少年は祈っていた。

 彼女が報われるゴールが、そこにあってほしかった。

 

 ただ一つの想いが、他の全ての余計な想いを、駆逐していた。

 

 たった一つの想いを込めて、少年は少女の走りを見つめる。

 

「行け」

 

 少年が呟く。

 

 マックイーンも、メジロ家の人間も、少年以外は皆、黙って最後の瞬間を静観していた。

 

「行け」

 

 少年が応援の声を呟くたび、優れた聴力でウマ娘がそれを拾う。

 

 少年が応援の言葉を口にするたび、青いウマ娘は加速する。

 

「行け」

 

 彼が応援してくれているから、誰よりも速く走りたいと、心が先走る。

 最高最速で駆ける心に、体が追いつく。

 幻影の最高速を越え、幻影の先を走り、それでもなお加速する。

 

 風も追い越して。

 音も追い越して。

 光も追い越して。

 誰よりも速く。

 何よりも速く。

 無敗の皇帝、無敗の帝王をも超える、最高の帝王の領域へ。

 

 そして、少年が口を開いて、生まれて初めて、少女の前で大声を上げて。

 

 

 

「行けえええええええ!! "トウカイテイオー"っっっ!!!」

 

 

 

 生まれて初めて、彼に名前を呼ばれたウマ娘が、とても嬉しそうに笑って。

 

 レコードどころではない、世界記録すら飛び越す速度にまで加速して、そこから更に加速して、加速して、加速して―――ゴールイン。

 

 幻影をはるか後方に置き去りにして、青き少女は勝利する。

 

「……ボクの勝ちだぁぁぁ!!!」

 

 少女が浮かべた満面の笑み、天に突き上げたピースサインを見て、メジロマックイーンは人生最高の笑みを浮かべて、拍手した。

 

 少女の声を、マックイーンの拍手を聞いて、少年は微笑み、そして勇気の決断をする。

 

 この奇跡に相応しい自分で居よう、と。少年は、戒めるように己に言った。

 

 

 

 

 

 汗でびしょびしょになった少女を、主治医が見ている。

 今のところ、足に異常はないらしい。

 今回のレースで骨折しなかったということは、もうしばらくは何があっても折れないだろう。

 彼女の足は、ありとあらゆる意味で完治したということだ。

 

「センセー! センセー! これも奇跡にカウントしといて!」

 

「はいはい」

 

 少女はやけに上機嫌で、少年も穏やかな表情ながら同様に上機嫌そうに見える。

 

 少女は勝った。

 運命に勝った。

 1%どころでない不可能の中の不可能に挑み、完璧な勝利を収めてみせた。

 今日彼女が起こした奇跡の数は、もう数えるのがバカらしくなる数になっている。

 

「センセー」

 

「分かってるよ」

 

「……どうするの?」

 

 ひと目で分かるほど緊張した様子で、少女は問いかけた。

 

 彼の答え次第で、全てが決まる。ゆえに緊張しているのだろう。

 

 それを遠くから見て、マックイーンは心底呆れる。

 

 もう、彼が選ぶ答えなど、誰が見ても明らかだろうに。

 

「少し、弱音を聞いてくれるかな?」

 

「! うん、どうぞ」

 

 少年は深呼吸し、"テクストの外"の言葉を紡ぐ。

 

「本当は現実から逃げ出したかった。

 怖くて怖くてしかたなかった。

 今眠れば、次に起きる前に死んじゃうんじゃないかって。

 ベッドに入る度に怖かった。

 朝起きるたびに、かろうじて生きてることにホッとしてたんだ」

 

「……」

 

「きみが救ってくれたんだ。きみと一緒にいる時だけは、怖いのを忘れられたから」

 

「……うん」

 

「生まれた時から光なんて見えなかった。

 死が迫ってきて、もっと濃い闇に呑み込まれた。

 世界も、明日も、希望も、何もかも闇に遮られて見えなかった。

 そんな中、見えた光が、唯一わたしを照らしてくれたのが、きみだったんだ」

 

「うん」

 

「生きていたい。わたしは、生きていたい」

 

「―――! うん、うん!」

 

「きみが居るだけで、この世界は何よりも素晴らしいから。

 きみが笑っているだけで、他にどんなものがあっても、この世界を理想郷だと思えるから」

 

「うん! うん!」

 

 いつの間にか、最初からあったものが消えていた。

 それは『諦観』。

 彼に最初からあったもの。

 二人が出会った時からあったもの。

 二人の物語に、いつもついて回っていたもの。

 

 それが、綺麗サッパリ消えていた。

 

「わたしは……わたしは……この世界に、生きていたいっ……!」

 

「うん! そうだよ! どんなにできそうになくても……生きてよ、センセー!」

 

 心底嬉しそうに少女が笑うものだから、少年もつられて笑ってしまう。

 

「きみが示してくれた道なら、絶対に、信じられる」

 

 笑い合って、口を開いて、同時に言った言葉が、重なった。

 

「絶対は、きみだ」

「絶対は、ボクだ」

 

「……ふふふ」

 

「あははっ」

 

 そして、二人が笑い合うのに合わせたかのように、雲の切れ目から光が差す。

 

「おや……これは……」

 

「昆布の箸!」

 

「ヤコブの梯子ね」

 

 今日はずっと曇っていたはずだ。

 しかし通り雨で馬場が多少荒れたように、今日の天気は大分移ろいやすい。

 妥当な自然の動きと見るか。

 あるいは、"こんなタイミングで二人を照らすように太陽光がピンポイントで差すのは普通に奇跡だろ"と受け取るか。

 見る人によって、だいぶ受け取り方が違いそうな空模様になってきた。

 

「おお……ボクを照らしてる……!」

 

「肌の感触からしてそうみたいだね……これも、奇跡カウントしちゃおうか」

 

「しよしよ!」

 

 雲の切れ間から、本当に細い陽光の線が、少女と少年の居るその場所へと伸びていた。

 

「あーあ、センセーの目が見えてたらなー。

 そしたら今の最高にかっこいいボクが、世界一かっこいい青いウマ娘が見れたのに」

 

「おや、それはなんとも惜しいな。あとで触らせてくれるかい?」

 

「な、なんで!? えっち!」

 

「え、あ、いや、ごめんね。今日を記念して描き残しておこうかなって思って……やめとくね」

 

「あ、ああ、そ、そういうの。こほん。誤解させるセンセーが悪い」

 

「ははは」

 

「もー、軽く流してー。自画自賛だけど、今日のボクは結構かっこいいと思うんだけどなー」

 

「そうだね、こんなに感動させられたんだ、ちょっと見たかったかも」

 

 奇跡は起こる。

 望み奮起する者のもとに。

 必ず、きっと。

 

 

 

 

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 生まれて初めての感覚に、少年は至極戸惑った。

 "見えた"とすら思わなかった。

 "見えた"を彼は知らなかったから。

 ただ、『何か綺麗な一つの色』があると、直感的に理解していた。

 それが『青』と言うのだと、それすら彼は知ることもなく、今日までずっと生きてきた。

 

「え……なんで……目が……」

 

 色彩の無い世界を、かの少年は生きてきた。彼は盲目だったから。

 

 『芸術家になれなかった男』と揶揄されたアドルフ・ヒトラー、及びナチス・ドイツは、各研究家ごとに見解の差異があるものの、大まか皆ナチスに対して「彼らはドイツから色彩を破壊した」と考えられている。

 その時代、ドイツにおける芸術の自由は段階的に殺されていた。

 気に入らない芸術を破壊し、晒し者にし、美術学校は閉鎖されていった。

 

 青い馬/青いウマ娘もまた、センスの欠片もない独裁者に目をつけられた。

 アドルフ・ヒトラーは「青いウマなど存在するわけがないだろう」と断じ、青いウマを退廃芸術と認定し、それを根絶してしまおうとした。

 青いウマ娘の概念は、かつて悪によって滅ぼされる運命にあった。

 

 その時代を、エリック・カールは生きた。

 色彩が殺されていく、モノクロに向かっていく世界。

 センスの無い独裁者によって、芸術がすり潰されていく国。

 「色に乏しい幼少期」と形容された子供時代を、彼は生きた。

 

 そして、エリック・カールは出会ったのだ。

 フランツ・マルクの『青いウマ娘』に。

 色彩が失せていく世界の中で、ただその一枚が、エリック・カールの心を救ったものだった。

 青いウマ娘の絵こそが、彼の人生を変え、彼に画家としての未来を与えたものだった。

 

 色彩の無い世界に生きるエリック・カールを、青いウマ娘こそが救った。

 

 色彩の無い世界に生きる少年を、青いウマ娘は救い、希望を見せた。

 

 そしてエリック・カールが継承し、後の時代に繋いだことで、青いウマ娘も救われた。

 

 悪の迫害により根絶の未来に向かった青いウマ娘を、救われた少年が救い返した。

 

 これまでも。

 

 これからも。

 

 そして、今も。

 

 色彩の無い世界に生きる少年を、青いウマ娘が救う。

 救われた人が、青いウマ娘を苦しめるものから救う。

 

 青いウマ娘ならば、人を救える。

 人ならば、青いウマ娘を救える。

 助け合い、救い合い、愛し合える。

 

 青いウマ娘と、色彩の無い世界に生きる少年というものは、ずっと昔からそうしてきた。

 

「え……見え……」

 

「センセー? センセー? もしかして……見えてる……?」

 

「これ……これが、青……? 初めて見た……これが青なら……青い君が……」

 

 

 

 

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「うそ、センセー、本当に見えてるの……?」

 

「はっ、ははっ、ごめ、ごめん、なんか泣いちゃって、これが、これが世界?」

 

 其は、幾度となく蘇り、立ち向かい、打ち勝つ不死鳥。

 其は、色彩無き世界に苦しむ少年の前に現れ、希望を見せる青きウマ娘。

 其は、彼の太陽。夜明けの青より、夕焼けの赤へと向かう者。

 其は、光。希望の光。此処にある奇跡を、未来の奇跡へと繋ぐもの。

 

「すごい、きれいだ。

 世界が、きれいだ。

 思ってた以上だ。

 きみが、とてもきれいで……ああ、だめだ、言葉にできない」

 

「センセー……よかったね。センセーの嬉しいが、なんか、ボクのことみたいに嬉しい」

 

「ああ。本当に良かった。

 目が見えて最初に見えたのが、きみでよかった。

 生まれて初めて見たものがきみだなんて……これ以上ない幸運だよ」

 

「……あ、あははっ! なんか照れるなー! でもありがとね!」

 

 こほん、と咳払いして、少女は凛々しい表情で少年をまっすぐに見る。

 

 少年も向き合うが、生まれて初めての目と目が合う感覚に、戸惑ってしまう。

 

 見惚れるような美少女が、なんだか楽しそうな顔で、なんだか嬉しそうな顔で、なんだか真面目そうな顔で、凛々しいことしか分からない微笑みで、少年の顔を見つめていた。

 

「ね、センセー」

 

 

 

 

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「ボクはトウカイテイオー。改めて、初めまして」

 

「……はじめまして」

 

 少女が笑って。

 

「君の名前は?」

 

希望(のぞむ)。希望と書いて、のぞむって読むんだよ」

 

 少年が笑って。

 

「いい名前だね。祝福の名前だ。ライスみたい」

 

 笑い合って。

 

「きみの名前もかわいいよ。ずっとかわいいと思ってた。有名人だからすぐ分かったしね」

 

「えへへ」

 

 少年と少女は、屈託なく笑顔を交換する。

 生まれて初めて、少年は誰かの笑顔を見た。

 生まれて初めて見た笑顔が、彼女のものでよかったと、少年は心の底から思えた。

 他の笑顔を目で見たことがない彼にも、素敵な笑顔だと分かるような笑顔は、きっとそんなに多くはないだろうから。

 

「トウカイテイオーさん」

 

「ちゃんがいいな」

 

「……テイオーちゃん」

 

「うんうん。何?」

 

「ありがとう。本当に……ありがとう」

 

「ふふっ、好きでやったことなのだよ、希望くん!」

 

 初めての色、初めての世界、初めての景色に感動し、少年はぽろぽろと涙を流す。

 笑顔を浮かべながら、涙を流す。

 感謝しながら、涙を流す。

 

 そして、ようやく、互いの名前を呼び合った。

 

 ありったけの、愛を込めて。

 

 『今、そこに在るもの』。

 今日までずっと、アウラは在った。

 彼が創り、彼女が見て、そこにアウラが在った。

 だが、今は違う。

 彼女がただそこに在り、それを彼が見て、そこにアウラが存在する。

 『見えた』という今この瞬間にのみ在る奇跡が、ここに在る。

 

 アウラは奇跡に宿る。

 奇跡は、今そこにしか無いものだから。

 今そこにしかない感動だから。

 

 今、此処にあるものが、彼らの全て。彼らの真実。

 

 彼らの辿り着いた結末だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それを、マックイーンと愉快な仲間達が遠巻きに見つめていた。

 

 全員が腕を組み、後方保護者面をしている。

 

「やりましたね、マックイーンお嬢様。……私はこの光景を、一生忘れることはないでしょう」

 

「ええ」

 

 主治医のコメントに、マックイーンはフッと笑った。

 

 そして応援の旗を振るように、テイオーから預かった青いスカーフを、遠くでイチャついているテイオーに向けてぱたぱたと振る。

 

「おめでとう、テイオー。

 恋はダービーと言いますが、貴女一人の独走なら誰にも文句は言わせませんわ」

 

 マックイーンと愉快な仲間達は、レース場の後片付けを初めた。

 レース場を一日貸切というのは、大分無茶である。

 無茶であったが、この演出のためには必要だったとマックイーンも割り切っていた。

 ちゃんと後片付けまでしていかないと、今後無茶を通すのが不可能になってしまう。

 よって後片付けしながら、マックイーンと主治医は"これはなんだったのか"を考え始めた。

 

「まさかとは思いますが、"ピエトレルチーナのピオの奇跡"……?」

 

「主治医。心当たりがあるなら説明なさい」

 

「ピエトレルチーナのピオ。

 通称、ピオ神父。

 多くの人を奇跡で治したと言われる聖人です。

 曰く、ガンを祈りで治し、盲目をも治したとか。

 20世紀後半まで生き、2002年に聖人と認定された、比較的新しい人物です」

 

「胡散臭くありませんこと?」

 

「眼科医の調査では、ピオの影響で治った盲目の少女は、どう治ったか理解不能だったそうで」

 

「……理屈抜きの奇跡。この光景に、それを連想すると? そう言うのですか?」

 

「いえ、私は医師です。

 "奇跡は理解不能"で終わらせることは認められません。

 ゆえに私以外にもそこに合理的な理屈を考えていきました」

 

「たとえばなにかしら?」

 

「たとえば、プラシーボ効果の一種。

 ピオ神父が見せた希望が体に良い影響を与えた、という仮説です。

 プラシーボ効果の仕組みはまだ解明されておりません。

 ここはまだ、医学が足を踏み入れたばかりの部分。

 しかしながら……心に希望を得て治った事例があるというのも、また事実」

 

「心に規格外の希望を与えることで、目の疾患が回復した……?」

 

「だから、この事例はこう言われるのです。『心を救うことで目を治したのでは』と」

 

 其は青の奇跡。

 彼が愛した永遠(しょうじょ)が、彼に返した愛の奇跡。

 全ての医学、全ての常識を覆し、されど前例は存在する、諦めぬ者が起こした奇跡。

 

 

 

 ―――心を救う、永遠の帝王。

 

 

 

 奇跡は少女に微笑んだ。

 諦めなかったその心への報酬だ、と言わんばかりに。

 夢を追い、決して諦めず、自分一人のために走らず、信じたものを最後まで貫き、どんな運命にも負けず、運命を蹴り飛ばした者への、一生懸命への報酬。

 誰よりも奇跡に愛されたウマ娘であることを、少女はその在り方で証明する。

 

「……本当に、尊敬に値しますわね。トウカイテイオー」

 

 永遠のライバル。

 恥ずかしげもなく、マックイーンはそう言える。

 トウカイテイオーというライバルを得られたこと、それが人生最大の幸福であると、マックイーンは迷いなく言えるのだ。

 そんな在り方をするマックイーンに、テイオーも憧れているというのに。

 

「他の人に説明しなければならない時が大変ですわね、これは」

 

「マックイーンお嬢様。全く医学的でない仮説ならば、立てられます」

 

「言ってみなさい。今はなんであれ納得がいく説明が聞きたい気分ですわ」

 

「まず、彼と彼女が出会った。

 そして彼の絵を彼女が見た。

 この時点では彼女の骨への影響などは薄かったはずです。

 初期段階から目に見えて影響が出ていたならリハビリなどで発覚していたはず」

 

「そうですわね」

 

「その絵を見て、まず彼女から彼への感情が生まれたのだと思います。

 彼女の変化により、関係が生まれ……

 二人の繋がりがまずここで生まれた。

 そして彼女の影響で、彼の絵が変化を始めていったと思われます。

 そこからです。

 彼の変化した絵が、彼女の身体を変化させていった。

 身体が変化した彼女が奇跡を起こし、それが彼の身体にも変化を起こした。

 あの二人は、片方が片方を救ったのではなく……

 互いが思い合い、助け合い、変化させ合ったことで、互いの全てを救ったのです」

 

 人の少年の因子と、ウマ娘の少女の因子。

 画家の因子と、アスリートの因子。

 絵で他者を変える因子と、走りで他者を変える因子。

 目無しの因子と、足無しの因子。されどもう夢無しではなく。

 二人の因子が相互に力を与え合って、混ざり合って、継承された想いが、動かないはずの目を、壊れたはずの足を、奇跡の領域まで導いた。

 

 比翼の鳥、連理の枝。そんな表現ですら、きっと過小になってしまうだろう。

 

「まるで、夢を見せられているような話ですわね」

 

「そうです、マックイーンお嬢様。きっと、我々は……」

 

 そう。『テイオーと希望』の物語は――

 

「我々は夢を見せられているのでしょう。あの二人に。そうでなければ、ありえません」

 

 ――『夢を見せる』、物語だった。

 

 夢を見るように、あやふやな可能性に賭けた。

 夢を持つように、危ういほどに高望みをして挑んだ。

 悪夢を見るように、どうしようもないことが積み重なった。

 優しい夢を見るように、優しいものだけが溢れる時間があった。

 望み奮起する者の前に奇跡がやって来てくれることが、まさに夢のようだった。

 

 彼の悪夢は終わっていない。

 死の病はまだ、彼の命を蝕んだままだ。

 まだ本当の戦いは終わっていない。

 

 だが、主治医達は、『こんな奇跡を見せられて"できません"などと言えるものか』……などと言わんばかりに、気力に満ちた仏頂面でマックイーンの前に立っていた。

 

「命じてくださいませ、マックイーンお嬢様。我らは医師として全力を尽くします」

 

「主治医」

 

「1%を100%にしてみせます。必ず、きっと」

 

「……まったく、あの二人に当てられすぎですわよ。ですが……期待して任せますわ」

 

 後片付けを終えて合流に入ったマックイーン御一行だが、マックイーンと主治医達の一団が突然現れたため、テイオーは心底ぎょっとした。

 

「ひええ、なんかお注射持ってる人達が来たぁ!」

 

「主治医です。愛の奇跡を愛の必然に変えろとの、マックイーンお嬢様のご命令です」

 

「マックイーン……」

「マックイーンさん、詩人だね」

 

「それは言ってませんわよ!?」

 

 やんややんやと言っていると、少年が目を擦る頻度が増えてきた。

 視線も周囲の人間の誰かに向いているということがなくなってくる。

 どうやら、奇跡の時間は終わりのようだ。

 テイオーは、少年の視力がまた失われつつあることに気が付いた。

 

「希望くん……」

 

「一時的なものだったみたいだ。でもよかった。

 そのほんの一瞬の奇跡で、たくさんテイオーちゃんのことが見られたから」

 

「……えへへ。なんか、名前呼ばれるの恥ずかしくて、かゆくて、嬉しい感じしない?」

 

「……まあね」

 

 二人してちょっと顔を赤くして、見つめ合って変な笑いでふにゃふにゃしている。

 

 マックイーンは微笑ましいものを見るような顔で見守っていたが、咳払いを一つして、からかい表情と雰囲気を作って、二人に絡んでいった。

 

「仲が良いことで、(わたくし)も少々妬けてしまいますわ」

 

「え!? マックイーン、どっちに!? ちょっとやめてよそういうの!」

 

「独占欲が強いですわねえ」

 

「質問に早く答えるんだよマックイーン! ボクの目を見て!」

 

「独占欲が強い女性と付き合うと将来苦労するらしいですわよ、希望さん」

 

「このくらいかわいいもんじゃないかな?」

 

「……! ほら見てよマックイーン!

 センセ……希望くんはボクにメロメロだからね! 見た!?」

 

「そんなに心配なら名前でも書いておいたらいかがですか? はい、マジックペンですわ」

 

「お、いいね! ボクの名前~、どこに書こっかな~」

 

「わたしが服で隠せるところにしてね……」

 

 希望が困惑しながら、なんだかんだ抵抗しない。

 希望が抵抗しないことを分かっていて、テイオーが自分の名前を書き込んでいく。

 水性ではなく油性ペンを意図的に渡したマックイーンが、愉快そうに笑っている。

 主治医達が車を此方に回して来ながら、こっそり微笑んでいるように見えたのは、気のせいなのか、そうでないのか。

 

「ね、希望くん」

 

「なんだい?」

 

「永遠なんて無いかもしれないけど、死ぬまで一緒に居ようよ。ボク、そういうのがいいな」

 

「……ああ、そうだね」

 

 こっそりと、二人は手を繋ぎ、指を絡める。

 "もう離さない"と、絡めた指が想いを伝える。

 もうきっと大丈夫だと、何もかもに対して、そう思える。

 それがどんなに幸せなことか、二人が忘れてしまうことはないだろう。

 この二人がお互いを離すことは、もうないだろうから。

 

 車に全員を乗せた帰り道、暗くなっていく夜空の片隅を、マックイーンが指差した。

 

「あら……テイオー、希望さん、見てくださいませ。スピカがよく見えますわ」

 

「あ、ボク達のチームの星だ」

 

「ふふふ。もう一回眼が見えないかなあ。星座、見えないし触れないから憧れるんだ」

 

「希望くん、星好きだもんね。あ、ボクとマックイーンがチームスピカなんだよ!」

 

「うん、それは知ってる。

 素敵な名前だね。

 乙女座の一等星。

 つまり、『乙女を一番に輝かせるチーム』。

 意味合いがすてきだし、スピカのトレーナーさんはよく考えてる人なんだろうなあ」

 

「えー、ボクあのトレーナーがそこまで考えてるイメージ無いけど……」

 

 冬が終わる。

 冷たい季節が終わる。

 暖かな季節が来る。

 彼らの人生における冬の季節も、終わろうとしている。

 

 春は出会いと別れの季節。

 雪は溶け、命が芽吹き、春風が吹いて、人生の新しい一年が始まる。

 そう、誰もが皆、春に新たな人生を始めるのだ。

 

「スピカは春の星ですわ。もうそろそろ、冬が終わって春になりますものね。それに」

 

 マックイーンは周りに見えないようにこっそりずっと手を繋いで居る二人を見やり。

 

「スピカはアークトゥルスと合わせて、『春の夫婦星』と呼ばれていますのよ」

 

「「 ……! 」」

 

 うふふと、笑った。

 

「ま、マックイーンっ! 言いたいことあるならハッキリ言えー!」

 

「いいじゃありませんの。スピカのようなお二人を、(わたくし)は祝福しますわよ?」

 

「ぜったいこの後からかうつもりだ! ボクには分かる!」

 

「ははは……二人とも元気だなあ。うん。わたしもがんばって、生きて付き合わないと」

 

 空に輝くスピカを眺めて。

 

 苦難を乗り越えた少年少女達は、笑い合った。

 

 この先に待つものが、よい未来であると信じて。

 

 

 

―――そうして、センセーとボクのおはなしは終わった。

 

―――そして、トウカイテイオーと希望のおはなしが始まるのだ。たぶん。きっと。

 

―――それがなんだか、楽しみだ。

 

 

 

 

 




 次回、最終話


 碑文つかささんのアカウントなどでは掲載されてない光量調節改善版支援絵などを裏でいただいていた(作者特権)のでこっそり使っています
https://twitter.com/Aitrust2517/status/1413452987461107716

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