―――アンディ・ウォーホル
翌日。
日本ウマ娘トレーニングセンター学園、通称トレセン学園。
全国最大のウマ娘養成機関であり、指では数え切れないほどのウマ娘が日々を過ごす学舎。
昼休みの時間帯には、皆が思い思いに誰かと話し、色んな場所を歩き回って、学校のそこかしこが楽しげな空気でにわかに沸き立つ。
昼休みの中庭で、少女は彼から貰った絵を眺めていた。
彼が彼女の前で描いていた絵ならある程度その"
ウマ娘とレースの絵であるからだ。
対し、この絵は少年が少女に会う前から完成していた絵であり、少女には理解できない歴史の厚みと、少女には分からない題材が用いられている。
なのでよくわからない。
だからただ、"綺麗だな"と思って眺めていた。
「不思議な絵だなあ」
黒い花と白い花、控えめな色合いの壺だけで構築された絵画が、太陽の光を受けて不思議な光の反射を構築している。
吸い込まれそうな色合いだった。
紙の上にあるただの絵だとは思えない、透明感の向こう側に一つの世界があるような、キャンバスの向こうが感じられるような一枚だった。
ほのかにいい香りがして、すんすんと少女の鼻が嗅ぐ。
香りの名前も、どの色がどの香りをしているのかも分からなかったが、安らぐ香りに少女はふにゃっと表情を和らげた。
「花の香りがするや。鼻のいい人ならもしかして匂いだけで絵の形も分かるのかな」
少女が貰い物の絵を眺めていると、それを後ろから覗き込むウマ娘が居た。
「絵を眺めていらっしゃるのは珍しいですね~?」
「わっ。あ、えっと、スーパークリーク……だったよね?」
「はい。こんにちは~」
ふんわりとした笑顔の女性が、"スーパークリーク"と名を呼ばれる。
少女は"少女性"の具現のような可愛らしいウマ娘であったが、スーパークリークは絵に描いたような美女で、可愛らしさより美しさが先行するウマ娘であった。
少女が持っている貰い物の絵を見て、スーパークリークの眼が細まる。
スーパークリークは、最初は「絵を見てるなんて珍しい」と言い、「いい絵ですね」と話題を繋いで、絵の話題で『皆の憧れ』であるその少女と話すつもりだった。
だが、予想を超えた絵の出来を見て、思わず拳で口元を隠し考え込んでしまった。
スーパークリークの瞳が、少女が持ったままの絵をじっと見つめる。
「うわ……これ何……ちょ、ちょっとすみません。
遠くからも見たいので、持ったままここに立っていてくださいますか~?」
「? いいよー」
少女が絵を抱え、スーパークリークが絵を見つめながら遠く離れたり、近付いて凝視したりして『絵に仕込まれた魔法のようなギミック』を吟味する。
「……やっぱり。
かなり遠くから見ると夜空に流れる天の川に見える絵。
でも少し近付くと川が流れ出る壺が微かに見えるんですよね。
だから壺から夜景にミルクが流れ出てる絵だったんだ、って思い直すんです。
でもそれも違う。
うんと近付いて見ると天の川やミルクに見えたのが花だって気付くんです。
天の川やミルクに見えたものは密集した白い花だって分かるんです。
夜空は密集した黒い花だったと分かる。
星に見えた粒のような粗さは、近付かないとわからないようにした花で……わぁ……」
「どうしたの急に」
「うわ~、うわ~、これどこのお店か画廊で買われてきたんですか~?」
「えっ……知り合いに貰ってきたんだけど……」
思った以上にガツガツした反応に、少女は少し戸惑っていた。
"そんなに大騒ぎするほど凄いかな?"という芸術が分からない少女らしい感想があり、"そうだよね、やっぱこの絵いいよね"という素直な感想があり、その二つの感想が混ざっていた。
「……調べてアカウントから辿れるかな。ウマッターとかやってる方ですか~?」
「SNSはやってない人だと思うけど」
「ええ~? む~、気になります~。
光の反射具合が凄いんですよね~。
凸凹と独特のタッチによる色の置き具合~?
デジタル全盛期の今には見ないタッチですよね~?
現実に存在する絵を実際に見て初めて伝わる技法……神業……
印象派の"こぼれた植木"の絵画版アレンジ……? 独自研究の技法……?」
「本当にどうしたの急に」
「……正直に言ってくれると嬉しいんですけど~、これプロが描いたんですよね~?」
「うーん、なんか趣味で書いてたまに売ってるだけみたいな感じだったけど」
「神絵師はいつもそうやってマウント取ってくるんですよ」
「本当にどうしたの!?」
スーパークリークが普段見ているいいねの数が人権に直結する世界の理。少女が知らない理で動いている世界の常識が、そこにあった。
絵を見ているスーパークリークの眼がちょっと死んでいる。
「大事にした方がいいですよ~。それ、簡単に描けるものじゃないと思うので」
「うーん、気軽にくれたんだけどなぁ」
ちょっと死んでいたスーパークリークの瞳に、ほんのり好奇心の光が宿った。
「……もしかして、いわゆる『いい人』に貰ったものだったりします?」
「いい人? ……ああ、そういうことね。ないない! そういう感じは全然無いよ!」
「すっぱり言い切りますね……」
が、少女は照れもせず、赤面もせず、バッサリと否定した。
それを見て脈がないということを理解して、スーパークリークはちょっとがっかりする。
この年頃の女子は大人びている子も子供っぽい子も、皆恋バナが好きなのだ。
スーパークリークの場合、性癖が多少捻じ曲がっていたりするが。
「んー。ボクそういう経験無いけど、ああいう男の子はタイプじゃない気がするや」
「本当にすっぱり……」
「変に触れると溶けて消えちゃいそうな男の子はさ、心配が先に来ちゃうんだよね」
少女は好みだから手を伸ばしたのではない。
心配だったから手を伸ばしたのだ。
そのお返しの一つとして、少女はこの絵を受け取った。
少女はこの絵が好きだったし、この絵を描いたあの少年が嫌いなわけでもなかったが、そこに甘酸っぱい好いた腫れたの感情は無いと思っている。
子供の頃、彼女は『皇帝』という憧れの人を得て、夢を見た。
"ああなりたい"という夢だ。
その夢を追いかけて、走って、走って、走ってきた。
夢破れ、新たな夢を探し、夢が叶わなくなってもなお、走り続けてきた。
走ることと、走るためにすべきことだけを、ひたむきにずっと積み上げてきた。
だから彼女はまだ、初恋すらも知らない。
少女の中で、恋すら知らない心が、この気持ちは恋でないと言い切っていた。
少女が日課のリハビリを終え、昨日少年と別れた土手に向かうと、遠目に彼の姿が見えた。
どうやらもう描く準備に入っているようだ。
真剣な雰囲気の彼の背中を見ただけで、少女の歩調が少し浮き足立つ。
"今日は何を描いてるんだろう"と、少女の心がワクワクする。
自然と歩む速度が早まり、少女は自分自身でも気付かぬまま、早足で彼の下に向かっていた。
「居た居た。……そうだ、こっそり近付いて驚かせてやろ、にししっ」
早まる足を抑えて、くすくすと含み笑いをして、少女は少年の背後に回ろうとする。
が、少女がある程度近付いたところで、少年は振り向きもせず少女に声をかけていた。
「やあ、一日ぶりかな、きれいな声のお嬢さん」
「足音で分かるの? センセーはすごいねえ」
「きみの足音は特徴的で魅力的だよ。きみは自覚がないのかもしれないけどね」
「ほほう、ほほう、具体的にどういう感じに!」
「音がきれいだ。リズムが楽しげ。響きがかわいいね。ステップに魅力があるのかも」
「そっかー、そうなんだー、へへへ」
少年は筆を置き、少女に向き合い微笑みかける。
気のせいか、この前よりも正確に少女の顔に向けて話しかけることができるようになっている……ように、少女には見えた。
"自分の足音に聞き惚れている人"というものを少女はこれまで見たことがなかったから、何気ない自分の一部分の美しさを褒められて、不思議な嬉しさを覚えてしまう。
「わたしは音で他人を見ているから、楽しげに歩いているきみはとても美人に見えるんだよ」
「……えへへ。そう? そっかぁ。ふっふっふ、ま、そういうこともあるかもね!」
「あるのさ」
「言い切るんだねえ、センセーは」
少女が小気味良いリズムで彼の周りでステップを踏む。
ウマ娘らしさのある親愛表現だ。
されどウマ娘らしさより、子供っぽさの方が印象として先行するだろう。
子供のようなことをしている少女の足音に、自然と少年の表情が柔らかくなっていく。
「ボクの歩く音が好きなんて変わり者、この世界に君くらいしか居ないかもね?」
「ほかにも居るさ。だってこんなにきれいなんだから」
「いーや居ないね! きっと君しか居ない! ぜったいにぜったいそう!」
「言いきるなあ、お嬢さん」
少年は今日も目が見えていないのに、創意工夫と異様に偏った五感を使いこなし、今日も絵に色を落としていく。
昨日のとは打って変わってより大胆に、より大きく動かす画作りをして、今日はすぐに乾かない絵の具を用いて絵を作り込んでいっている。
遠くにはレースの熱気。
今日もここまで声が響いて来る。
それを少年は絵に落とし込んでいく。
クラシックな技法寄りだった昨日の描き方とは違い、少しアラプリマ技法――勢いをつけた一気描きで『その瞬間』に存在する躍動感を絵に閉じ込める技法――に寄っている。
盲目の彼にはあまり適していないはずだが、彼はまるで見えているかのように描き、普通の目には映らない想像上の景色を描いていく。
彼は筆の毛が暴れて変な色が着いた部分にも気付いていない。見えていないから。
けれど後で指先か鼻先でそれに気付き、それを修正していくのだろう。
どうやら彼も、『昨日まで自分が知らなかったもの』を絵に落とし込むために、様々な技法を試しているようだ。
少女は、魔法のような彼の筆運びが好きだった。
スーパークリークが言っていたような気持ちは無いと思うけれど、そんなものがなくても、心の底から好きだと言えた。
「センセーって具体的に何歳くらいから描いてるの?」
「いつから……いつからだろう? きみはいつから走ってるんだい?」
「いつから……いつからだろ? というか、覚えてないよね?」
「まあ、そうだね。気付いたらしてた気がする。絵が好きだからかな」
「ボクもボクも! 走るのが好きだったから、多分そうなんだよね!」
「二歳で天才画家と呼ばれたローラ・ジェーン。
三歳で200万で絵が売れたアリータ・アンドレ。
四歳でピカソの再来と言われたミハイル・アカール。
天才の中の天才は本当に才能が形になるまでがはやいもんさ」
「わっ、ヤバいねそれ。
あ、でもウマ娘もそのくらいの年齢で才能ある子は分かるらしいね。
三歳とかですごいこと成し遂げられてるの、生物としてとんでもない気がするけど」
「どんな世界でも、二歳三歳で人に認められる生き物はすごいものさ」
「だよねー」
「ねー」
この色彩が、好きだった。