―――ジャン=バティスト・カミーユ・コロー
"どうせ遠くから見るのが同じなら色んなところから見てみようよ!"と少女が提案し、快く少年が受けたことで、彼らは土手を歩いた。
ぐるりと移動して、レースのスタート地点がよく見える場所から、このレース場でもっともウマ娘の競争が白熱する直線がよく見える場所へ。
初めて歩く場所で彼が転ばないよう、少女はまた少年の手を引いていく。
肌が異常を起こさないギリギリまで表皮を削った彼の手は、肌が薄い分暖かくて、相変わらず多様な絵の具のいい香りがした。
「あ、そこ地面凹んでるよ! 気を付けて気を付けて、全部センセーの敵だからね!」
「ありがとう、お嬢さん」
「いーっていーって、ボクは大したことしてないからっ」
位置を変えて、気分を変えて、少し違う色の熱気に触れつつ、また筆を走らせる。
あいも変わらず実況と解説を頼りに『現実をなぞる絵』ではない『想像で補完した絵』を描く彼の絵は独特で、愉快だった。
黄金の船の擬人化のようなウマ娘と、空に浮かぶ
芝生の色合いはまるで花畑のようで、絵の中のウマ娘達が走り出せば、それだけで色彩の暴力が爆発しそうだと思えるほど、ぐっと押し込められたエネルギーが感じられる。
今日描いている絵もまた、現実を基にして創られた幻想そのものだった。
「絵だから仕方ないけど、走ってる姿じゃなくて立ってる絵が多いんだね」
「ああ、わたしは走ってる人やウマ娘がよく分かってないんだ」
「えっ……あっ、そっか」
「立ってる人間や彫像ならだいじょうぶなんだ。
ふれて形を理解すればいいだけだから。
それをキャンバスの上に落としこめばいい。
でも、走っている途中の人やウマ娘には、触れられないだろう?」
「そっか……大変なんだね……」
「目を大事にするんだよ、きれいな声のお嬢さん。
動いているものを見るというのは、目が見えている者の特権だから」
「うん」
今日の彼の筆の動きはかなり速く、とりあえず一段落に入るまでも大分速かった。
冬の乾燥した空気の中、ウマ娘が芝の上を駆け抜ける音が響き渡っている。
「お疲れー、センセーの集中力凄いよねえ。他のことが全然目に入ってない感じ」
「そうだろうか。描いている時のわたしを他人に見られていたことがあまりないからなぁ」
「あ、ねえねえ、お茶水筒に入れてきたんだ! 一緒に飲まない?」
「ありがとう。……ほう、暖かい。いい香りだ」
「まほーびんだよまほーびん!」
にこにこする少女が小さな紙コップにお茶を入れると、湯気がふわふわと揺蕩う。
目が見えない彼にとって、いい香りと、コップに触れるだけで分かる暖かさと、口に含むだけで落ち着く味わいは、嗅覚触覚味覚を満たしてくれるものだった。
実際の暖かさ以上の暖かさ、優しさ、気遣いが感じられる。
この少女なりに何かしら考えてこうしたのかもしれないし、寒空の下で自分が飲みたいから持ってきただけかもしれない。
少年は今日も背負ってきた大荷物から、一枚の絵を取り出した。
「きのう、帰ってからの話なんだがね。わたしの記憶を頼りにきみを描いてみようとしたんだ」
「え、ボク? 思い出してから描くとかあるんだ、ほえー、芸術は深いんだねえ」
「心にうつった絵を描く段階と、それをきれいにする段階に分けてるのさ。
それで気付いたんだが、君は昨日と今日、どんな色の服を着てたのかな」
「昨日も今日も青だよ青!」
「青、ね。好きなのかい?」
「まあまあ好きー!
学校の制服も、最初の勝負服も青っぽかったんだよね。
海も青だし、空も青だし、なんとなーく思い入れがあるんだ」
「……青いウマ娘、か」
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
少年は何かに納得したように頷き、取り出した絵を画架にかける。
取り出した絵には、服の色だけが無かった。
そこに服の青色を落としていくと、絵の中の世界に少女が現れる。
服の色を落とすだけで、まるでその世界に今生まれたかのように現れ出でていた。
「どうかな」
「……センセーからはボクがこう見えてるんだ」
「そうだね」
絵の中にいる少女は、現実の少女とは似ても似つかない。
少女の声、少女のこれまでの振る舞い、少女の性格、少女がこれまで少年にどう接してきたかを反映した、彼の心の目に映る少女の姿がそこにあった。
現実の少女より背が高く、やや大人っぽく、背筋がピンと伸びて凛々しくて、ウマ娘からかけ離れた動物っぽさがあって、力強く、勇壮で、美しく、表情はこの上なく優しかった。
有り体に言って、本物より可愛くなくて、本物よりずっと美人だった。
彼の心の中に居る自分を見て、少女は少し見惚れてしまった。
広がる草原。
輝く空にぶら下がる雲。
その中心に、自分ではない自分が、とても美しく描かれている。
惹かれる心が何かを言おうとして、少女の語彙力が感情の大きさに全く追いつけず、何も言うことができなかった。
「へぇ……そっかぁ……へぇ……ね、ね、これ貰っていい?」
「そのために描いたんだ。もうきみのものだよ」
「よっし! ふっふっふ、こういうのもなんかいいよねっ」
お茶に手を伸ばそうとした少年の指先が熱いお茶に突っ込みそうになったので、少女がやんわりと掴み止め、その手を紙コップの側面に誘導する。
少年がお礼を言い、少女が応え、少女は絵の具がまだ乾いていない絵を高揚した様子で何度も何度も眺めていた。
「青が一つ目の勝負服に使われていたということは、二つ目の勝負服というのもあるのかな」
「そだねー、不死鳥みたいなカラーリングのも持ってるよ。どっちも着てるけど」
「……不死鳥?
ああ。そっか。なるほど。
青いウマ娘、そして不死鳥。
おおきいレースなどで着るもの……という認識でいいのだろうか」
「うんうん、オッケーオッケー。っていうかやっぱり、青いウマ娘好きなの?」
「む……なぜそう思ったのだろうか」
「反応が違うもん。普通青よりは不死鳥の方が大きくなるもんじゃない?」
「たしかに。いや、わたしが思い入れがあると言うと語弊があるのだが……」
「わかった! 青いウマ娘と不死鳥ならウマ娘の方が可愛いからだ!」
「はははっ、面白いね。でも確かに、不死鳥と青いウマ娘なら、青いウマ娘の方が好きだよ」
少年は少し考え込んで、小難しい話からできるだけ小難しい要素を取っ払って話すにはどうしたらいいかを考えた。
この少女と少年が共に過ごした時間は長くない。
それでも少年が理解できるくらいに、この少女は難しい話が苦手そうだったから。
「"人生のための芸術"のお話、おぼえているかな」
「センセーが今目指してるやつだっけ? 芸術のための芸術の逆とかいうの」
「そうだね。それとある程度関係があるものに、芸術年刊誌『青騎士』というものがあった」
「バトル漫画掲載してそう」
「ふふふ、してないよ。
さて、これを創刊した芸術家、『フランツ・マルク』は青が好きだった。
特に青いウマ娘と黄色い牛が好きだった。
マルクは動物とウマ娘をこよなく愛した人でね。
20世紀を代表する動物画家に数えられるんだが……彼の青いウマ娘の絵は、特に評価された」
「へー、ウマ娘を描くのが好きな画家さんっているんだ……」
「マルク曰く、『青は男性的なヒーローの象徴』。
古来、青い顔料は貴金属と同価であるほど高かった。
だから青は男性の貴人の絵にばかり使われていたんだ。
ゆえにそういうイメージがあった。
彼は青い衣をウマ娘に着せることで、既成概念を破壊した。
ウマ娘を力強いヒーローとして色で描く画法を生み出した始祖というわけなんだね」
「! 好きになれそう!」
「そうか、それはよかった」
少女が興味津々に目をきらきらと輝かせ、少年がゆったりと微笑む。
少年の紙コップのお茶が切れていたので少女が二人分のお茶を入れ、暖かいお茶を一緒に喉に流し込み、「「ふぃー」」と二人の声が重なって、どちらからというわけでもなく、笑い合った。
少年はまた、ゆったりとした口調で話し出す。
「マルクはね、世界で一番『青いウマ娘』を描いた人なんだ。
『小さな青いウマ娘』などが特に有名な作品の一つになるのかな。
第一次世界大戦の時にマルクは亡くなられてしまったけど、絵は永遠になったのさ」
「む、小さ……青いウマ娘の運命なのかな、ボクも……」
「?」
「あ、ごめんね、なんでもないよ。続き続き!」
「そうかい? ならいいか。
日本ではマルクはあまり評価されていなかった。
ただ近年は、ウマ娘関連での再評価が進んでいるらしいよ」
「へー!」
「その過程で知名度が少しずつ上がっていったのが、絵本作家のエリック・カール先生だ」
「へ? 絵本作家? なんで?」
「時は第二次世界大戦の頃。
カール先生が子供の頃、彼はドイツでナチスの政権下に居た。
ナチス・ドイツの手によって芸術は大いに弾圧されていてね。
カール先生もまた、"色彩の無い子供時代"というものを送っていたんだそうだ」
「あ、知ってる! 漫画でやってた! ヒトラーが売れない画家だったから嫉妬がうんぬん!」
「……面白い知識の習得の仕方してるなぁ。
そんな時カール先生が見たのが、先に戦争で亡くなられたマルクの"青いウマ娘"だったんだ」
「!」
「当時の美術の先生が、カール先生に見せてくれたんだってさ。
それを見て、カール先生は大いに感動し、絵本作家になった。
39の言語に翻訳され、5500万部を超える部数を記録した。
鮮やかな色彩感覚は『魔術師』と評され、世界中の子供達を笑顔にした。
世界中の子供を笑顔にした絵本には青いウマ娘がいた。
そして巻末にはマルクの青いウマ娘が掲載された……わたしは見てないけど、そうらしいよ」
「わぁ……なんか凄いね! 受け継がれる意思! って感じ!」
「うん、そうだね。
夢というものは受け継がれるもの、らしいからさ。
マルクの魂は絵を通してカール先生に受け継がれて、子供達の中で永遠になったんだ」
「……そっかぁ。うん、分かった。
センセーが青いウマ娘を特別に思うのもなんか分かる気がするよ」
「きみは素直でいいね。だれに学んでもいい教え子になれると思うよ」
「えへへ」
少女が照れて、少年が微笑み、少女がちょっとばかり顔を逸らした。
「青いウマ娘。
それは宗教画なら"青ざめたウマ娘"、『終わり』の象徴。
かつては型に囚われない自由な色彩、『自由』の象徴。
今は『苦しい時に見えた希望』の象徴としても扱われる。それが青いウマ娘なのさ」
「好きなの? 青いウマ娘」
「好きかもね。青いウマ娘」
「ふーん。センセーの好きなものかぁ」
彼が好きなのはマルクの物語、マルクの絵。
そしてカールの絵に受け継がれたもの、カールの物語なのだろう。
青いウマ娘が好きというのはそういうことだ。
決してこの少女が特別というわけではない。
制服、私服、勝負服に青が混ざっているこの少女を、『受け継がれた画家の夢の物語』の主役である青いウマ娘と重ねて、彼が感慨を覚えただけ。
芸術家である彼は、そんなことにも感情を動かす人間だったと言うだけ。
それだけの話。
それなのに、何故自分がほわほわと嬉しい気持ちになっているのか、少女にはよく分からなかった。自分がよく分からなくなっていた。
彼が彼女に向けている感情を、少女の本能はおぼろげに感じ取っている。
「わたしはきみが見えていない。
きみが着ている服も、その姿も見えていない。
きみの姿を見てそれを褒めるというのが、正しく服装を褒めるということなのだろうけど」
「できないならしょーがないでしょ? いいっていいって!」
彼は嘘を言わない。そう、少女は確信している。
「きみが青い衣を身に着けていると聞いて、本当に素敵だと思った。そこに嘘はないよ」
だからこれも本音だと、そう思えた。
不思議となんだかむずむずとしてしまって、少女は何と言って返せば良いのか分からなくなってしまう。
画家が見ることで人生を変え、その後の人生を変えたほどの名画の一枚を語るように、目の前の少女のことを語っている。
少女は彼には見えていないと分かっていたのに、つい反射的に片手で顔を隠して、今の自分の表情が彼に見えないようにしてしまった。
「……んっ、そっか、ボクが君にとっての青いウマ娘だと。そういう感じだ!」
「まあ、そうだね」
「ふっふっふ、お目が高いね。何を隠そうボクは! ボクは……」
心がウキウキと上向いて、少女は彼の素敵な言葉に相応のものを返そうとして、『ボクを見込んだのは正解だぞよ~!』と言うために、現代のウマ娘のことを全然知らない彼に、自分の名前と経歴を熱く語ろうとして―――止まった。
過去の自分のことを言おうとして。
昔の自分の栄光を語ろうとする自分に気付いて。
現在の自分のことを言おうとして。
昔の自分と比べて今の自分がどれだけ"落ちて"いるかに気付いて。
褒め称えられた過去の自分を語るか、引退確実と報道されている今の自分を語るか、転落の過程を話すか、話さないまま都合の良い部分だけを語るか。
そう思ってしまった瞬間に、彼女は何も言えなくなった。
少女は足を擦る。
四回折れた足がある。
全力疾走どころかトレーニングですら折れる可能性があると言われた足がある。
繊細なリハビリを行わないとリハビリ中に折れると医者に言い切られた足がある。
画家の命が眼なら、ウマ娘の命は足。
完全に使い物にならない彼の眼と同じくらいとは言えないものの、それに次ぐレベルで、彼女の足も致命的に壊れ果てている。
三度目に折れた時以上に、どうしようもなく折れている。
これからの栄光など語れるはずもない。
彼女が語れるのは、これまでの栄光だけだ。
「……」
「お嬢さん?」
「やっぱ言うのやめた。えへへっ、ごめんね! なんか他の話しよ! えーと、えーとさ」
この少女は意識的に会話を誘導する術には長けていない。
話を誤魔化すのもヘタクソで、そうしようとすればすぐにバレてしまう。
ナチュラルに何も考えずに話せばごく自然に楽しい話題をいくらでも出せるが、話したくない話題を避けるために適当な話題を始めようとするとすぐに話題が出てこなくなってしまう。
明るい振る舞いで誤魔化そうとして言葉に詰まってしまったことで、少女はかえって自分が抱えているものの大きさと重さを知らしめてしまった。
彼女は、嘘が上手くない。
少女が隠そうとして晒してしまった心の地雷に踏み込まず、しかし見なかったことにもせず、少年は人並み外れた『感覚』によって地雷の種を理解し、優しく迂回した。
「過去の話をしても、わたしはきみを見る目を変えないだろう」
「……!」
「過去のきみがいる。
今日のきみがいる。
未来のきみもいるだろう。
過去も今日も未来も、きみは特別だ。
特別なきみと出会い、わたしの筆が生み出した特別なものがある」
絵の具が乾く匂いがした。
花の香が絵から流れて、少女に届く。
青色の絵の具の香りだった。
彼が彼女のために配合した、目が見えないままに色と香りを混ぜて塗り上げた、彼女のためだけの青の香り。
初めて出会った時からずっと、彼の絵には、彼女に響く何かがあった。
その何かが、少女を描いたこの絵においては、何か別の形に変わっていっている。
『芸術のための芸術』ではない、『人生のための芸術』の先にある、『彼女のための芸術』―――その、雛。名画の雛。それが、青を通して顔を出している。
「きみといる時にだけ生まれる絵があるんだ。
それはきっときみが特別だからだ。
わたしの絵を見ていてほしい。
きみが特別であるという理由はきっと、わたしの絵のどこかにあるから」
「絵なんて見ててもよくわかんないよ、ボクには」
「わかるように描くさ。なにせわたしは、目が見えない人にもわかるものを描きたいんだから」
絵が少女の心に響くように、少女の存在もまた、彼の心に響いている。
出会えたことで、二人の間に共鳴するものがあった。
彼には見ることができない、彼女にはもう踏み込むことができない、彼方のレース場に在る夢の熱が、二人を繋いでいる。
「センセーは優しいね」
「きみが優しいから、そんなきみに優しくしたくなるんだよ」
少年は少女と話し、彼女の暖かな光に触れる感覚が好きだった。
少女は少年の絵を見て、絵の良さなんて全然分からない自分が、その絵をずっと見ていたいと思う今が好きだった。
エリック・カール先生は2021年5月23日に亡くなられました。ご冥福をお祈りします。
アートスタジオなどではエリック・カール先生に敬意を払い、エリック・カール先生の真似をして絵を描く子供達を皆、エリック・カールの弟子と呼んだりしています。
絵を通して受け継がれる彼らの夢は今形を変え、世界中のどこにでも在ります。