目無し足無し夢も無し 心を救う永遠の帝王   作:ルシエド

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「他人を感動させようとするなら、まず自分が感動せねばならない。そうでなければ、いかに巧みな作品でも決して生命ではない」

   ―――ジャン=フランソワ・ミレー


5 イベリス ■■■■

 盲目の画家が絵を描くことができるメカニズムは、ある程度解明されている。

 

 エスレフ・アーマガンは生まれた時から盲目であったが、彼の描いた絵は世界中の美術館で展示されるほどにまでなった。

 彼の脳を調べたところ、絵を描いている時に脳の視覚野が活性化し、彼の脳は目で対象を見ているのと同様の状態になっていたという。

 彼は他の感覚から得た情報を、脳内で視覚として再構築していたのだ。

 

 ジョナサン・Iはアートディレクターであったが、事故で色覚を失ってしまった。

 世界を白黒(モノクロ)という感覚で見ることすらできなくなり、記憶の中の色までもが失われ、思い出の花畑も色がなくなってしまったという。

 後の研究で、大脳視覚野はV1~V5と言われる段階的視覚野を通り、V1、V2を色彩情報が経由し、V4で処理を行われた後、下側連合野に情報が送られることで人は色彩を理解しているのだ……という研究結果が出された。

 ジョナサン・IはV4を損傷したと見られ、アートディレクターとしては絶望的となった。

 しかし彼は描いた。描き続けた。

 その後彼は、白黒のアーティストとして新地平に到達したという。

 ここから、『絵を描くことに必要な視覚野』というものもある程度推定できるようになった。

 

 歴史や記録に名を残した画家は、飛び抜けた天才ではない。

 諦めなかった者だ。

 天才は創り上げた作品によって名を残し、盲目の画家は不屈ゆえに名を残す。

 

 盲目の画家に何よりも必要なのは才能ではない。

 脳に備わった特異構造でもない。

 意志だ。

 描き続ける意志。

 何も見えない絶対の暗黒の中でも描き続ける意志。

 発狂しそうな虚無の中で無限の失敗作を生み出しながらも、いつか『多少は絵に見えるかもしれないもの』を生み出すため、描き続ける鋼鉄の意志である。

 車輪の無い車で走るに等しい不可能難題に、諦めるまで挑み続ける強い意志は、誰にでもあるものではない。

 

 "誰よりも強い意志で挑み続けなければ欲しい物は得られない"という一点において、ウマ娘と盲目の画家は同じ舞台の上に立っている。

 

 

 

 

 

 夏の雲と冬の雲ってなんでこんなに感じが違うんだろう、と思う少女が空を見上げる。

 センセーの影響で風景をよく見るようになったなあ、と思って少女が苦笑する。

 少年が杖を持つ反対の手を取り、いつものように少女は少年の手を引いていた。

 

「今日は曇ってるねえ。センセー、そこ苔むしてて滑るからボクの手を掴んで」

 

「ありがとう。空はひとの顔と同じで、気分次第でよく変わるものだからね」

 

「空よりボクの方が表情豊かだよ」

 

「そこで張り合おうとする負けん気はすごいな……」

 

「むー。センセーは見えてないからボクのファンを魅了する百面相が分からないんだよぉー」

 

「それはよかった。きみの顔が見えたら魅了されて絵を描くどころじゃなかったかもしれない」

 

「えへへ。って、ボクはこんなんで流されないからねっ!」

 

「どこに流されていくつもりなんだ……」

 

 少年は歩きながら空を仰ぐ。

 空を見て歩いていると転ぶ、といった普通の人間の所作の法則は彼に通用しない。

 見えていないがゆえに、上を見ていても下を見ていても同じだからだ。

 見えない空を見えないままに盲目の視線でなぞり、少年は何気なく問いかける。

 

「お嬢さん、今日の雲はどんな感じかな」

 

「どんな感じ……って普通に曇ってるけど……」

 

「よければきみの眼を少しだけ、わたしに貸してくれないかな」

 

「……あ、なるほどー。コンクリートのわたあめ? みたいな?

 グレー色してて、ふわふわしてそうだけど、中に水が詰まってて重そうな感じだね」

 

 段々とこの少年のことを理解してきたことで、少女は少年の聞いてきたことの意味を理解することができるようになってきていた。

 彼は、彼女の眼、彼女の世界、彼女が感じるものを借りようとしているらしい。

 それを今日ではない日に絵に活用するつもりであるようだ。

 

「そうか。うん。きみの目に映る世界、参考にさせてもらうよ」

 

「役に立てたら嬉しいかなっ。そういえば今日は道具あんまり持ってきてないね?」

 

「ああ、今日は描くつもりはないんだ。レース場に足を運んでみようと思っていてね」

 

「おおー、今日はお絵かきおやすみかぁ、残念」

 

 何気なく"残念"と言った少女は、無意識に自分がそういうことを言ったのを聞き、自分が思っている以上に『自分が彼の絵を楽しみにしていた』ことに気付き、なんだかちょっと変な気分になってしまって、首をぶんぶんと振る。

 少女のよく分からない挙動に、少年は首を傾げていた。

 

「あまり周りの人に気を使わせたくないんだ。わたしを観客席の外縁に連れて行ってほしい」

 

「むぅ、気にし過ぎだと思うけどなあ。一番前行って良いんじゃない?」

 

「できれば人の"楽しい"を邪魔したくないんだ、ごめんね。

 わたしのわがままで頼み事をしているから、きみに余計な手間をかけさせてしまっている」

 

「なんでもかんでも気にするんだからもー。あ、そうだ。いいこと思いついた!」

 

「?」

 

 少女はレース場を管理している人と少し話し、少年の手を引き、観客席とは別の、レースが間近で見られる野球場のベンチのようなところへと連れて行った。

 

「じゃじゃーん! どうだ!」

 

「ここは……」

 

「取材の人用のとこだよ。

 レース場にいくつかあってウマ娘が近くで見れるし撮れるんだ。

 ほら、走ってるとこがこんなに近い!

 今日はそんなに取材の人多くないから一個貸してくれるって言ってくれたよ!」

 

「これはこれで申し訳ないけど……確かに誰にも迷惑をかけないか」

 

「でしょー! いやー、ボクもよく覚えてたなあ。自分でびっくりしちゃった」

 

「ありがとう。きみは物知りだね。尊敬するよ」

 

「えへへー」

 

 照れる少女に微笑みかけ、少年は少女の評価を内心引き上げていた。

 空いているからと言ってこういうところに一般人が入れるというものではない。

 特に仕事でもなんでもない、レースが見たいだけの一般人であるならなおさらだ。

 事前にアポを取っているわけでもなく、今頼んですぐに受け入れられたというのであれば、少年がまだよく知らないこの少女がどういう者であるか、ある程度想像がついてくる。

 

 一番ありそうなのは、名の知られたウマ娘であるという可能性。

 怪我で一時的に身を引いている有名なウマ娘であれば、このレース場の人間も積極的に融通を利かせることもあるだろう。

 本人に聞けば一発で分かるのかもしれないが、それは逆説的に『彼女に今に至るまでのことを聞いてしまう』ことにも繋がりかねないため、彼女を気遣う少年は自分からは聞かない。

 当然、少女も話さない。

 

 きれいな声のお嬢さん、センセー、と呼び合う関係のまま、奇妙な距離感で二人は絆を深めていっている。

 

「と、そうだ。これを渡すの忘れてた」

 

 レース場に人のざわめきが徐々に満ち、気の早いウマ娘が出走準備前に出てきて、ストレッチを始めていた。

 どうやらもう少しでレースが始まるようだ。

 そんな中、少年は少女に青を基調としたスカーフを手渡す。

 

「スカーフ?」

 

「あげるよ。このまえ話をした時から、きみに似合うと思っていたんだ」

 

「! ありがとう、着けてみていい?」

 

「どうぞ」

 

 少女が嬉しそうにスカーフを巻くと、スカーフの黒が深い群青色の目に合い、白が少女の前髪の白と合い、たなびく紫が少女の流れるポニーテールに合い、青が高貴さを備え、少女の全体的なシルエットによくマッチしていた。

 彼には少女の体の色も正確な容姿も見えてはいない。

 マッチする色を視覚に頼って選んだわけではない。

 彼はこれまでの会話と、視覚以外の五感から構築した幻想の視野にて、少女に合う色合いを選択しただけだ。

 目が見えないだけで、彼の中には確固たる色彩がある。

 

「どう? 似合う? ……って、見えてないか。

 ありがとう、ボクによく似合ってるよ! ボクはそう思うねっ!」

 

「ふふふ。きみは、本当に優しいね」

 

「優しいんじゃなくて嬉しいんだよ! それだけ!」

 

 少女が軽やかにステップを踏む。

 巻いたスカーフがふわりと浮く。

 ウマ娘の尾のように、不死鳥がはためかせる翼のように、風になびく稲穂のように、既に彼女の一部になったスカーフが揺らめいていた。

 

「これ『馬と不死鳥』っていうスカーフなんだってさ。わたしも最近知ったんだ」

 

「へー! 青と紫と黒と白がなんかいい感じだね。模様がいっぱいあるや」

 

 エルメスのハイブランド、CHEVAL PHOENIX(馬と不死鳥)。

 少女は見慣れていないためよく分かっていなかったが、オンラインショップで一枚二万円ほどの代物であった。

 青く、馬であり、不死鳥である。

 

「お、レース始まりそうだよ。そこの手すり持ったら足滑らなくて良いとボクは思うな」

 

「ありがとう、お嬢さん」

 

「それにしても……相変わらず熱狂が凄いなあ。あんまり大きなレースでも無いのに……」

 

「『アウラ』の一種かもしれないね」

 

「アウラ……?」

 

「『今、そこに在るもの』さ」

 

 レースが始まり、ウマ娘達が走り出した。

 

 少女は目を、少年は耳を、レースに向ける。

 

「ヴァルター・ベンヤミンは時代の境界に居た。

 写真や複製が芸術をいくらでも増やせる時代に。

 価値有るものがいくらでも増やせる時代に。

 "写真があるからもう絵は要らない"と言われ始めた時代に。

 だから彼は考えた。

 『今、ここに、オリジナルのみに宿る目には見えない価値』があるのだと」

 

「それがアウラ?」

 

「そう。たとえば……そうだね、このレースはテレビをつければ誰でも見れるのだろう?」

 

「ん、そうだね。スマホでも見れるんじゃないかな。ボクもそんなに詳しいわけじゃないけど」

 

「じゃあなんでこんな、数百人どころじゃない人達が観客席に詰めて見に来ているのかな」

 

「それは……あ、そっか。だからアウラなんだ」

 

「そう。『今、そこに在るもの』だ」

 

 テレビで見れる。

 スマホで見れる。

 録画だって見れるし、いつでも記録から見れる。

 それでも皆、今、此処にレースを見に来ている。

 今、此処にしかないものがあることを、皆知っている。

 

 かつてウマ娘は――ここではない世界における『馬』は――『走る芸術品』と呼ばれ、ウマが競い合うレースもまた、芸術品だった。

 時代は流れ、一時は『車』に『走る芸術品』の名前を取られ、その名で呼ばれるのは車ばかりになってしまった。

 しかし復権し、『走る芸術品』はウマ娘と、ウマ娘のレースを指す言葉に戻っている。

 

 芸術であるならば、そこにはアウラが在るのかもしれない。

 

 俗にアウラとは『芸術のための芸術』を否定するものだと、そう語られる。

 

「アウラは今そこにあるオリジナルに宿るもの。

 写真にも画像データにもなくて、本物の絵画にだけあるもの。

 わたしは概要くらいしか知らないけどね、アウラ。

 研究者ほど詳しくもないさ。ただ経験的に感覚的に、そういうものがあることはわかるよ」

 

「今やってるレースとか? ……ボクも感覚的に分かるかな。今、ここにしかないんだよね」

 

「そうだ。わたしは、有名なウマ娘のレースというものを見たことがないけれど」

 

「……」

 

「それを己の目で見に行った人たちが、それを見ておおいに泣いたということは知っている」

 

 少女は知っている。

 記憶の中に今も残るレースで、その時、その場所にしか無かったものを知っている。

 それがその場に居た人達、その時リアルタイムで見ていた人達を、感動と号泣で飲み込んだことを、事実として知っている。

 大昔に名画を見て大泣きした人間達のように、現代でレースという芸術が"それ"を生み出していたことを知っている。

 

 人の人生を変えてしまうほどの感動を生んだレースがあったことを知っている。

 

「だから、アウラはベンヤミンに『共同幻想』とも書かれているんだ」

 

「……共同幻想」

 

「わたしたちはみな違う。

 みな違うものを好きになる。

 違うものを嫌いになって、違うものを見つめていく。

 なのになぜ……わたしたちは時に、同じものを見て、同じ感動を抱くのだろう」

 

「……」

 

「わたしたちは心の目で、そこにどんな形の共同幻想を見ているのだろうね」

 

 レースを見て。

 誰かが勝って。

 誰かが負けて。

 奇跡が在って。

 必然が在って。

 そこに因縁を、願いを、誓いを、夢を、物語を、ドラマを見て、人々は感情移入し、心を動かされている。

 アウラを宿す芸術を、このレース場に見ている。

 

 アウラは現在の研究では、見るものと見られるものの相互作用であるとも解釈される。

 走り、健闘する、見られる者。

 感動する、応援する、見る者。

 走るウマ娘は夢を見せ、夢を見せられた者達は喉が張り裂けんばかりに応援し続ける。

 

 少年は芸術的知見からこのレース場という小さな世界に存在する『相互作用』を見抜き、それを自分が理解できる概念に落とし込んでいた。

 

「あるいはみな、夢を追って走っている誰かを見て、同じ夢を見ているのかな」

 

「ね、センセー」

 

「なにかな」

 

 少年はここに満ちる熱への理解を進めている。

 夢の熱の実像を捉え始めている。

 それが絵に正確に落とし込まれるのも時間の問題だろう。

 彼は皆の夢というものを分かってきている。

 

 なのに、どこか他人事だった。

 理解はあるのに共感がなかった。

 主観がなく、傍観があった。

 夢の熱量を理解し己が内に取り込んでいるのに、彼はずっとどこか冷めたまま。

 

「センセー、今、夢を持ってる?」

 

「ないよ」

 

 前々から少女は"そうなんじゃないか"と思っていて、今、この問いで確信を持つ。

 

 彼は夢を見ていない。

 何にも夢を見ていない。

 他人にも、周囲にも、世界にも、未来にも、ひょっとしたら自分にも夢を見ていない。

 夢を持たず、他者への期待は薄く、日々の中で希望するものが見当たらず、強い願望が無く、生への執着すら薄い。

 

 目を離したら消えてしまいそうで、触れたら溶けて消えてしまいそうで、生み出す絵は生命力さえ感じないほどの透明感を宿している。

 

「夢はどう見ればいいものだったかな。わたしはもう、その方法を思い出せない」

 

「……」

 

「すまないね。優しいきみに気を使わせてしまっている。気にしないでいいんだよ」

 

「気にするよ。だってもうボクら、友達じゃん」

 

「……友達。友達か。ははは。嬉しいな……本当に、嬉しいなぁ。わたしもそう思ってるよ」

 

「うん。だからさ、ボクは友達が元気満々になる方法を勝手に考えちゃうだけなんだよ」

 

「ああ……そうか。きみはやっぱり、まぶしいな」

 

「ほらー、もっと熱くなれー! 元気になるんだよセンセー! 夢見ちゃおうっ!」

 

「はははっ」

 

 生まれた時から動く目が無かった。

 ゆえに目指すものが無かった。

 自分の人生の行き先にいいことがあるだなんて、夢見ていられなかった。

 たった一つの好きになれたことにしがみつき、絵を描き続けた。

 永遠に誰の笑顔も見れないことが確約された人生の暗闇の中でもがき続けた。

 筆を置く諦めか終わらせる死のどちらかだけが、彼に提示されていたゴールだった。

 

 ウマ娘は誰もが本能的にレースと、ゴールと、勝利を目指す。

 皆が皆目指したいと思う勝利の頂があり、勝利を求めて走る。

 そして勝者と敗者が生まれ、勝者は栄光を、敗者は涙を得る。

 夢を叶えるのはほんの一握りの、残酷な世界。

 

 どちらがより地獄であるかは、それこそ個人が決めることだろう。

 人が抱える苦しみに本質的に上下はない。

 その個人が耐えられるか、耐えられないか。それだけだ。

 夢を持つことなどできない体に生まれる地獄か、夢を持って必死に頑張って夢破れた後の人生を生きる地獄か。

 

 地獄の底を知る二人は、誰かを恨む者になることもなく、ただ優しかった。

 

 痛みを知り、絶望を知り、ゆえにずっと他人に優しかった。

 

 だから、話せば話すほど、目の前の少年/少女の幸せを願うようになっていった。

 

 

 

 

 


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