悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です」
―――マリー・ローランサン(絵画『馬になった女』作者)
中央では行っていない地方のナイター競走などの例外を除けば、レースというものは基本的にリスクの上がる夜間を避け、昼間に行われる。
よって夜に行われるのはレースではない。
レースの勝者、入賞者がレースの後に観客と勝利の喜びを分かち合う、勝利記念祭のようなイベント―――『ウイニングライブ』である。
アイドルのライブのように綺羅びやかに、勝者は踊り歌い、敗者は勝者の健闘と栄光を讃え、観客達は勝者にも敗者にも称賛の声を贈る。
勝利の先。
輝きの舞台。
栄光の視覚化。
"録画をミュートにしても見るだけで心が浮き立つ"と言われる、小さな異世界だ。
人々の歓声と勝ったウマ娘の歌声が響くそこを、盲目の少年が歩いていた。
夜の世界の、ウイニングライブが行われているステージの端の端、電灯もあまり照らしていないところを、少年は歩いている。
そこで夜の闇のせいで前が見え難くなっていた人が、少年とぶつかってしまった。
「あ、すみません」
「いえ、大丈夫です」
互いに頭を下げて、すれ違う。
少年は盲目であるが、その分聴覚が非常に優れていた。
耳を澄ませば人よりも多くの音を拾うことができ、人よりも細かく音を聞き分けられる。
足音に気を付けてさえいれば、他人とぶつかることはまずない。
しかし今の彼は、不慣れなライブの爆音との聞き分けに感覚を最適化できておらず、目と耳を塞がれたがゆえの暗闇の中に居た。
できるだけ他人の邪魔にならないようにうんと壁に近付いて歩き、左手を壁につき、右手で杖を持ち、少し先に何があるかを確認しながら、ゆっくり歩いていく。
誰かに思い切りぶつかって迷惑をかけないように、相手側が少年を避けられるように、少年の存在に気付かないことがないように、杖で床を叩く音を定期的に鳴らしていく。
何も見えず、何も聞こえない世界の中で、少年は階段を見つける。
階段の手すりに掴まり、足先の感覚で階段の形を何度も再確認しながら登り、踏み外さないように慎重に上がっていく。
階段で転んだ時、咄嗟に的確にぶつかりそうな急所を守れるのは、目が見える者の特権だ。
盲目ゆえの運動不足もあり、彼の体は大して打たれ強くもない。
階段を登るたび、彼は"転べば死ぬ"と覚悟して足を運んでいる。
登る時だけでなく降りる時も死の感覚がある階段は、彼の苦手なものの一つだ。
それでも。
「夢の舞台、ウマ娘が目指すもの、勝利の熱の渦中……触れてみないと、分からない」
見ないという選択肢は、彼の中には存在しなかった。
段数の分からない初見の階段を苦心して登っていく少年であったが、階段の途中で一息ついたその時、少しふらついてしまう。
ふらついた時、彼を右側から支えてくれる誰かが現れる。
そのおかげで、足を滑らせるところまではいかなかった。
ウイニングライブの爆音のせいか足音に気付いていなかった少年は少し驚き、すぐに感謝し、反射的に頭を下げる。
手すりを強く握っていた左手の逆側、右手を誰かが握って支えてくれていて、その感触から少年は"気付いて"、感謝の言葉が途中で途切れた。
「ああ、ありが……声がきれいなお嬢さん?」
「あれっ。びっくりさせようとしたのに。手が触れただけで分かるんだ」
「まあ、そのくらいはね」
いつもの彼女だった。
なぜここにいるのか? と聞くまでもない。
彼女がウマ娘であるのなら、ライバルの視察、旧友の応援、仲間の同道、ライブの手伝いなど様々な理由が考えられる。ここに居るのは不自然ではない。
むしろ目も耳も塞がれた少年が無理をしてまで生のライブを見に来ている方が、客観的には不自然であると言えるだろう。
また、いつものように、少女が少年を支え、その手を引いていく。
「ウイニングライブでセンセー見るの初めてだね。何回か来てるの?」
「いや、今日が初めてさ」
「だと思った。うるさいでしょ? センセーの耳が頼りにならないよね、これじゃ」
「すまない。ありがとう」
"夜の世界で出会うのは初めてだ"と、どちらからともなく思った。
いつもは太陽が照らす二人を、人工の灯が照らしている。
「こんなところじゃセンセーの目だけじゃなく耳も……あれ? 他は大丈夫?」
「他の五感は大丈夫だね」
「………………そっかぁ」
「? ああ、今日はリハビリでよく走ってきたのかな。
いつもよりずっと汗をかいてるみたいだね。ティーン向けの香水でごまかせてるけど」
「うぎゃぁー!!」
同チームの仲間がふざけて少女に吹きかけていった香水のおかげでギリギリセーフ。なのだが、ギリギリアウトに感じてしまうのが乙女心。
「ごまかせてるのならいいんじゃないかな。女の子らしい範疇だと思うよ」
「いや……このっ……センセーはさぁ!」
「ふふふ。ごめんごめん」
少女が手を引き、少年の代わりに観客席を見渡し、よく見える・よく聞こえる場所の中で人が少ない方に二人で移動し、少年の手を手すりに掴まらせる。
少年が少女に心底感謝した回数が、一つ増えた。
夢の熱を見えない目でぼうっと眺め、整列した爆音が旋律と化す中、少年はウイニングライブと勝者に対し見えない目を傾ける。
少年の横で、少女は勝者の一人を指さした。
「今あそこの真ん中に立ってる子……あの子はさ、初GIレースで初勝利が夢だったんだって」
「そっか。夢が叶った、ということなのかな」
「うん。ボクも学園でちょっと話したことがあるくらいなんだけど、夢が叶ってよかったなぁ」
小さな夢かもしれない。
大きな夢ではないかもしれない。
しかしそこには、確かに叶った夢があった。
今ステージの上にいるそのウマ娘は、これから先"夢を叶えた後の人生"を生きるのだろう。
少年と少女は、夢が叶った嬉しさに満ちたその空気を、じっと肌身に感じていた。
その内心は、彼と彼女以外の誰にも分からない。
「夢って、再走できないんだよね。ボクはデビューしてからしばらくは知らなかったんだ」
「ああ。そういうものだからね」
「夢は終わったら終わり。やり直しは利かない。諦めなくても、負けたら終わりなんだ」
「お嬢さん……嫌なことを思い出すなら、話さなくてもいいんだよ」
「ううん、大丈夫。なんか今日なら、センセー相手なら、気軽に言えそうな気がするんだ」
ライトが勝者のウマ娘を照らしている。
敗者が悔しさと称賛の入り混じった声を上げ、手持ちのライトを降っている。
ファンが振る多様な彩りの光が全てを祝福している。
夢の成就を祝福するような、光の群れ。
空の彼方の星を見上げるように、少女はそれを眺めていた。
「ボク、憧れた人が居たんだ。
無敗の三冠ウマ娘、シンボリルドルフ。
皇帝って呼ばれた凄い人。
あの人のレースを見て、あの人みたいになりたくて、ボクは走り出した」
「きみの夢か」
「うん。叶う直前で駄目になっちゃったんだけどね。その時ボクの足も折れちゃってさ」
『今、此処に在る、目には見えない特別な何か』がアウラであるのなら。
『かつて、其処に在った、目には見えない特別な何か』はなんと呼ぶのだろうか。
どんな芸術家も、まだ"それ"に名前を付けてはいない。
"それ"の残骸は、いつまでも心に残り続ける。
人もウマ娘も、その一生は"そういうもの"との戦いの繰り返しだ。
「三冠どころか三回折れて、それで今回四回目。笑っちゃうよね」
「笑わない」
「……」
「頑張ったから辛いんだ。頑張ったから折れたんだ。それはきっと、美しいことなんだよ」
「……センセーの言い回しってさ、センセーっぽいよね」
「そうかな」
「そうだよ」
少女がくすくすと笑って、少年が暖かな微笑みを返した。
「不思議と、"ここまででいいじゃないか"って気持ちもあるんだよね、ボク」
「そうなのか」
「心に整理をつける大一番のレースはもうやったからね。あそこがボクのゴールだったのかも」
「無念や後悔がないならいいことさ。夢やぶれて心の整理をつけられなかった者も歴史に多い」
「うん」
栄光の主役は移り変わっていく。
誰かがデビューし、活躍し、引退し、レースで鎬を削るライバルたちは入れ替わっていき、古い世代は消えていき、新しい世代が次代の主役になっていく。
誰かが引退するから、新しい誰かが主役になれる。
過去から未来へ。
そうして歴史は作り上げられていく。
芸術の歴史も、ウマ娘の歴史も然りだ。
少年の芸術のように、連綿と続く"皆が生み出したもの"の繋がりの先に、輝く今がある。
やがて記憶は記録になり、かつて最上の栄光を受けたウマ娘も忘れられていき、過去に成る。
「ボクらウマ娘は誰もがいつかは引退するんだ。だって、不老不死じゃないから」
「老いからはだれも逃げられない。芸術の世界でいつだって主役だったテーマだね」
「うん。ボクも20歳、30歳、ってなっていって、そうなる前にいつか引退するんだ、って……」
少女の足は四度折れている。
それで諦めず走ったとして、すぐ折れたらどうするのか。
折れなかったとして、どうするのか。
折れてもなお諦めず走り続ける道を選んだとして、いつ引退するのか。
一年後? 十年後? 二十年後?
諦めなかったとしても、いつか終わりはやってくる。
諦めずに走り続けただけのウマ娘が、レースの最後に敗北を突きつけられるのと同じように。
いつか来る終わりを前にした時、その者は『諦めない』以外の選択肢を迫られる。
「……分かってたのに、分かってなかったのが、昔の夢見てた頃のボク」
少女が珍しく複雑な感情をしっとりと表情に浮かべて、少年がその言葉を聞いている。
"この人が近くに居ると普段言えないことを自然と言ってしまう"と、二人は互いに対して思いつつも、口に出すことは無かった。
とんとん、と少女がおとなしいステップを踏み、少年がその旋律を聴いている。
「夢が叶わないと知って初めて、ボクは主人公でもなんでもない奴なんだって気付いたんだ」
「……強いな、きみは。それでもお嬢さんは走り続けたんだろう?」
「強いのかな。分かんないや。子供の頃に欲しかったものが手に入らなかっただけだもん」
世界に主人公は居ない。
誰もが勝利と栄光を確約されていない。
勝者と敗者、成功者に不具者、誰もが上下に自然と分けられる。
才能、幸運、怪我、努力でどうにもならないものが山のようにある世界を、誰もが懸命に戦い、今を生きている。
そして、誰もが『上』に行く可能性だけは持っているという点においてのみ、全ての者達は平等なのだ。
願いが叶ったウマ娘も、そうでないウマ娘も、それこそ数え切れないほどいるのだから。
「センセーの子供の頃はどんな感じだったの?」
「わたしは……わがままな子だったな」
「へー! 意外! 物分りいい子で好きな女の子にイタズラする男の子なイメージだったよ!」
「こらこらなんだいそのイメージは」
「えへへ」
少年が苦笑して、少女がごまかすような笑みを浮かべる。
二人も気付かぬ内に、少しずつ、二人の間に遠慮は無くなっていっていた。
何気ない会話を、二人は膨らませていって。
「親を困らせてしまう子でね。わたしはあまりいい子にはなれていなかった」
「へー。ボクも泥んこになっては親に『女の子らしくなさい!』って怒られたりしたなぁ」
「みんなが見てる番組を見たいとか。
みんなが話してるマンガを見たいとか。
親にそんなことを言っては困らせて。怒って。親に当たって。本当にひどい子供だったんだ」
一瞬。
少女は息を呑み、目を見開いて、言葉が止まる。
彼にとっては、幼少期の思い出の一つに過ぎないのかもしれない。
彼が親に向ける後悔の一つが、口から滑るように飛び出してきた。
少女が少しだけ少年の心を開かせて、そこから飛び出してきた、漏れ落ちた心があった。
「……センセーのそういう気持ち、普通のことじゃないかな」
「できないことを求めるのは我儘なんだよ。
いつだったかな……
どうしてこんな風に産んだの、なんて、最悪なことを言ってしまったこともあった」
「……」
「親を泣かせてしまってね。それからずっと、無い物ねだりはしないよう心がけてるよ」
そして、少女は。
「わたしの最初の夢はきっと、きれいなこの世界を、いつか見るというものだったんだ」
「―――」
「最初の夢を諦めないと、生きていられなかった。
夢を諦めて初めてわたしは人生を始められた。
世界を見ることを諦めてようやく、私の心は走り出せた。
あれがわたしの最初で最後の夢だったのかな、なんて今は思うよ」
少女は知る。
何故自分が彼を放っておけなかったのか、自分の本能がもうとっくに理解していて、自分の理性がずっと理解していなかった、その理由を知った。
彼の心は夢の残骸を抱えたまま、先の見えない闇の中を走り続けている。
「本当に欲しかったものって、なんでボクらのものにならないんだろうね」
「なんでだろうねぇ」
「ねー」
「お嬢さんも大変だったんだね。よくがんばった。えらいよ」
「センセーが言えたことじゃないでしょー」
少女が笑って、少年が笑う。
笑い合って、少女がうりうりと少年の脇腹を突っついて、少年がその指を優しくのける。
互いの隣が、心地良い。
傷の舐め合いは無かった。
現実逃避の後押しもしない。
少しだけ自分の事を話して、少しだけ自分の事を分かってもらうだけ。
それで少しだけ仲良くなって、笑い合っているだけ。
何も変わっていない。
彼女の足は治っていないし、彼の目も治っていない。
何かが改善されたわけではない。
けれど、なんでか、一緒に居て話すだけで、自然と楽しい気持ちになって、笑い合えた。
特別な家族でもなく、特別な友でもなく、特別な仲間でもなく、特別なトレーナーとウマ娘でもなく、特別なライバルでもない。
それは、有史以前からこの地球上に存在していた関係。
描く人間と描かれるウマ娘。
見る人間と見られるウマ娘。
永遠を描き残す人間と、描き残されることで永遠になるウマ娘。
アウラを絵に写す人間と、その生き様にアウラを宿すウマ娘。
かつて描かれた『青いウマ娘』を生み出した関係性と同じようで、どこかが違う彼らだけの不可思議な関係が、ここで少しずつ育っている。
「仲間にはあんま言えないんだけどさ、ボクの本当の夢が叶わなくて、本当に悔しかったんだ」
「それが普通さ。何も変なことはないと思うよ」
「大事な仲間だから、言えなくて。
恩人のトレーナーだから、言えなくて。
いつも対等でいたいライバルだから、言えなくて。
……あはは、なんだか面白いね。
センセーはすっごく特別ってわけじゃないんだけど、なんだかこういうの話しやすいや」
「壁に向かって話す時の方が言いやすい愚痴ってのもあるさ」
「もー、センセーはすぐ自分を卑下するー。センセーはもっとキラキラしてるの!」
少女が少年に飛びついて、からかうように、戒めるように、少年のほっぺたを手の平でぐりぐりと押して、二人の笑い声が重なった。
"この人相手ならなんだって話せそう"と、二人は互いに対して思っている。
「ボクが遊んでたゲームとか、漫画だとさ。
主人公の夢って叶うんだよね。
すごい奇跡が起こってちゃんと叶うんだ。
でも現実は、みーんなすごく頑張ってて、誰の夢が叶うかなんて分からない。
誰かの夢が叶ったら誰かの夢は破れちゃう。
……ボクが主人公だったら夢は叶ってたのかな、なんて思ったりもしたこともあったなあ」
『心地良い優しさをくれて、居心地の悪い気遣いを向けてこない』という確信が、互いへの信頼に類する何かが、二人の間に生まれていた。
『この人は過剰に自分をかわいそうだと扱わないし、自分を気遣いすぎて自分に重荷を背負わせてくることもない』という確信が、気安さに類するものがあった。
『何かを諦めても、諦めなくても、この人は自分を肯定してくれるだろう』という確信が、明確に好感と言える感情が、そこにあった。
だから互いに、なんだって言える気がしていた。
「でもさセンセー。叶わなかった夢は、叶わなかった夢なんだよね。きっと一生、ずっとそう」
「ああ。そうだね」
それは、叶うまでか、叶わなくなるまでキラキラと輝いていて、叶わなくなった後は永遠にその者にのしかかり続ける、夢の残骸。永遠の重石。
10年経っても、50年経っても、叶わなかった夢は後悔となって永遠に夢に見る。
夢の残骸は、夜の夢に食い込み、離れることはない。
その心の中だけに在る、闇色の永遠だ。
「ボクの大切な仲間の一人が言ってたんだよね」
もう二度と無邪気な夢を見られなくなった少年と少女が、夢を叶えたウマ娘を眺めている。
ここはウイニングライブ。彼らが眺める空の星。輝ける夢の結実点。
「見ている人に夢を与えられるようなウマ娘こそが、一番のウマ娘なんだって。センセー」
ライブが終わる。
けれど夢は終わらない。
夢が叶った後の日々が始まる。
そして新しい夢が始まるのだ。
夢見た舞台が、夢を見せ、この先にまた新しい夢が広がっていく。
輝ける光の絢爛の中で、二人きりで、二人ぼっちで、二人だけの光っていない世界に居るかのような不思議な感覚が、二人を包んでいた。
「ね、見えてる? あのステージの上、皆が見てる夢。すっごく熱いのがそこにあるんだよ」
少女が指差す光のステージに、少年の見えない目が向けられる。
夢叶えたものへの嫉妬ではなく、ただただ、それに対して『素晴らしいものだ』と思う気持ちがあった。
「素敵な世界だね、ここは。ありがとう、お嬢さん。ここに連れてきてくれて」
「いえいえー」
かつて青いウマ娘の装束を纏い人々に夢を見せ、骨折から蘇るにあたり赤き不死鳥のウマ娘の装束を纏い人々に夢を見せた少女は、今はステージに立っていない。
立てるほどに回復できない。
もう一度あの場所に立てるかどうかで言えば、絶望的だ。
かつては息をするように立てたステージが、今の彼女には、あまりにも遠い。
今の彼女にとっては諦めるべき彼方の栄光の場だ。
そんな彼女の横で、何となしに少年が口を開く。
「マルクは第一次世界大戦でこの世を去った。
マルクが最後に描いた絵は青いウマ娘ではなかった。
その話をきみにまだしてなかったね。そういえば」
「え、そうなんだ」
「マルクの人生最後の絵は、『戦うフォルム』。
黒々とした禍々しきものに、赤い鳥のようななにかが立ち向かう絵なんだ」
「!」
「赤き鳥……赤き不死鳥が、黒く禍々しきものに立ち向かう絵が、彼の最後の絵なのさ」
フランツ・マルクは戦争でこの世を去った。
彼は戦争に召集される前、逃れられない運命の接近を肌身に感じていた。
彼の最後の一枚は、彼が愛した青いウマ娘の絵ではなく、黒々とした絶望の象徴に、赤き不死鳥が立ち向かう絵であった。
何度倒れても、何度殺されても、何度でも黒き運命に立ち向かい、勝利する赤き不死鳥。
抽象的な絵であるそれは、運命にも『絶対に』負けない不死鳥の赤を心に刻み込む。
「次にきみを描く時、きみの服は不死鳥の色にしておくよ。
だってきみはまだ、本当は、諦めてなんていないんだろう?」
少しだけ。
ほんの少しだけ。
少年は少女の心に踏み込んだ。
少女の願いをすくい上げて、それを口にした。
"彼女の人生に責任を持てない者の無責任な言葉"か。
"彼女の人生を心配していると思われるための優しいだけの言葉"か。
二つを天秤にかけて、内心迷い、前者を選んだ。
「間違いなんてない。
きみの人生はきみだけのものだ。
きみの願いだけのものだ。
そこに間違いなんてない。
夢に殉じて死んでいい、望みに殉じてその先の人生を捨てていい。
それがきみの願いなら、神さまだってそれを否定することはできない」
「……!」
「これは出会ってすぐの頃の他人としての言葉じゃない。
きみをともだちだと思っているひとりの人間の、つまらない一意見だよ」
レースの途中で転倒して死んでも。
リハビリの途中でまた折れて二度と歩けなくなっても。
もう二度と小さな夢さえ見れなくなっても。
自分で選んだならそれでいいじゃないかと、彼は言葉の裏で言う。
「取り返しのつかないことになったら、不具コンビでも組んで世界旅行でも行かないかい?」
壊れた画家が、壊れたウマ娘の背中を押している。
"やりきって壊れてもそこで人生は終わりじゃないよ"と、壊れた目で少女に言っている。
「……センセー、すごいよ。ボクよりボクのことがよく見えてるみたい。眼、交換しない?」
「ふふふ、わたしもだれかの眼が欲しいと思うことはあったけど、きみが困るからだめだ」
「じょーだんだよじょーだん! センセーだって眼で苦労して頑張ってるんだもんねっ」
ライブが終わって、光が消えていく。
光が減っていく。
輝く舞台がなくなっていく。
うっすらと暗くなった観客席で、星の光に照らされながら、二人は笑い合っていた。
「ボクも頑張らないと。責任があるからじゃなくて、ボクがそうしたいから」
「そっか」
「リハビリ頑張るね!
えへへ、前から思ってたんだけどセンセーの絵、月みたい。
あれ見てると元気が出てくるんだ!
きれいに光ってて、くらーい夜にいつもあって、迷ったら目印にすればいいやつ!」
「きみの心になにかいいものを運べたなら、わたしも絵を描いていた甲斐があったかな」
月の下、星の下、消えゆく光の中。
太陽のような少女と、月のような少年は、互いの行き先を照らし合っていた。