目無し足無し夢も無し 心を救う永遠の帝王   作:ルシエド

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「一般人は芸術家が何年もかけ学んできた事を、1日や1分で理解して学びたいと考えている」

   ―――ポール・ゴーギャン



7 ナンテン ■■■■

 学園で学んで、仲間と集まり、トレーニングをして、レースをして、たまに遊ぶ。

 それが"中央"と呼ばれる、エリート達が集まるトレセン学園のウマ娘達の日常である。

 仲間と何気ない雑談を楽しくこなし、仲良くなって、絆を育み、レースのピークに仲間からの声援を受けて限界を超える。

 それもまたウマ娘の奇跡のサイクルの一つである。

 

 日本総大将こと"スペシャルウィーク"は、今日の晩御飯は何か考えながら、チームメイトの元気なマシンガントークに打ち据えられていた。

 

「それでねー、センセーがねー」

 

「なるほどなるほど」

 

「あ、そうそう、センセーはさ、なんかたまにね」

 

「そうなんですね」

 

 会話の途中、何気なく少女の口から"センセー"なる人物の名前が出た。

 スペシャルウィークがその人物について興味津々に聞いた。

 それが不味かった。

 

 出るわ出るわ"センセー"の話題。

 名前も知らない"センセー"の話題のラッシュ。

 次から次へと矢継ぎ早に出て来る"センセー"の話に、日本総大将ウマ娘は完全にノックアウトされていた。

 「そうなんですね」と言いすぎてもう日本そうだね大将である。

 

 しかも、その話題に感覚的なものが多大に含まれていたのだからたまらない。

 スペシャルウィークは知っている。この少女が感覚派のウマ娘であることを。

 その上、その"センセー"という人物がどういう人間か、どういう絵を描いているのか、絵から理解できる人間性がどんなだとか、そういう話は全て感覚的なものであって当然だ。

 芸術家が生み出した感覚で理解する絵を、感覚派のウマ娘が感覚で理解し、感覚派の言語で感覚的に語る。

 

 スペシャルウィークも大概感覚派であったが、このトークには流石についていけない。

 

「だからさー、センセーはさー」

 

「なるほどなるほどそうなんですね」

 

「スペちゃん聞いてる?」

 

「聞いてますよ!」

 

「うんうん、ためになるこーしょーなお話だから、ちゃんと聞いて賢くなるんだよ」

 

「……」

 

 『芸術を理解して賢く高尚な人間になった気分になっている』少女を、スペシャルウィークは冷めきった味噌汁を見る目で見ていた。

 もう話を全部聞き流したくなってきたスペシャルウィークであったが、生来生真面目な性格が災いし、話を聞き流せず真面目に聞くしかなくなっていた。

 今のスペシャルウィークは"アニメ化した○○見てみようかな"と言ったら周りのオタクが敏感に反応し、長文で聞いてないシリーズの解説とオススメを始められた、哀れな一般人の気分である。

 少女は絵もロクに知らないまま、完全にかの少年の限界オタクと化していた。

 

 "絵のこととか全然分かってなさそうなのによくこんな楽しそうに話せるなあ"と、スペシャルウィークは心中無情に思う。

 

 と、同時に、その"センセー"という男性が凄いということだけは、スペシャルウィークは理解していた。

 現代の若者は、現代美術・現代アートというものに多少の蔑視を向けていることが多い。

 ピカソやゴッホの絵を見て『これこんな高く売買する価値ある?』と言う者も多いだろう。

 高尚な芸術というものは、世間のほとんどの人間にとって、理解できないものなのだ。

 なので現代アートなどをバカにする理屈や主張の方が世間に受け入れられやすい。

 

 学の無い人間、正式にアートを学んだことの無い人間に、真に革命的で感動的な絵を見せても、それが難解であれば「ふーん」で終わる。

 前提の知識がなければ理解させることは難しい。

 競馬に全く興味の無い人間に伝説的で感動的なウマのレースの動画を見せても、前提の知識がなければ何も理解できず、「ふーん」で終わるのと同じように。

 真なる芸術とは、今そこにある奇跡の存在と、それを見る人間の中にある前提知識、それらのその瞬間の相互作用――アウラ――によって、生まれる……なんて考えもあるほどだ。

 

 だから、スペシャルウィークは"センセー"が凄いということは分かっていた。

 スペシャルウィークにマシンガントークを食らわせているこの少女が絵を学んだことはない。

 芸術の専門的な知識など皆無だろう。

 その時点で、絵で感動させるということは絶望的な難易度であるはずだ。

 しかし、その"センセー"はやった。

 前提知識など何も無い者を感動させる絵を描き、今も次々と描き上げているという。

 

 "不屈の帝王"と呼ばれ、その美麗な伝説で誰も彼もを魅了した彼女をして、『美しい』と迷いなく言わせる絵を描く人物―――その時点で、スペシャルウィークの中の評価は下がらない。

 

「ま、センセーはもうボク無しでは生きられないと見ていいね!」

 

「あの、テイオーさん」

 

「なあに、スペちゃん」

 

 少女が少年の手を引いて行きたいところに連れて行ってあげた話などを聞き、スペシャルウィークは素直に思い、素直に口にした。

 

「テイオーさんのそれ盲導犬って言うんだと思いますよ」

 

「盲導犬!?」

 

「ほら、目が見えない人の手を引いて誘導して……」

 

「盲導犬だ!」

 

「たまに目が見えない人に懐いて擦り寄って可愛がられて……」

 

「盲導犬だ!」

 

「目が見えない人は杖か盲導犬が居ないと公道を歩いちゃいけないんですよね、法律上」

 

「いやセンセーが杖無しで歩いてた時はボクが支えて……盲導犬だ!」

 

「テイオーさんわんこみたいですもんね」

 

「わんこではないよ!?」

 

「そういえば盲導ウマ娘っていましたよね」

 

「いるの!?」

 

 盲導犬の歴史は長く、一説には古代ローマの時代にはあり、19世紀初頭にクライン神父が訓練をメソッド化したことで確立されたと考えられている。

 人間が生殖サイクルの中で常に一定数の身体障害者を生み出す以上、それを動物に補助させる発想が出てくるのはどの時代でも必然である。

 そして、犬以外にさせるという発想が生まれるのも当然である。

 

 ここではない世界で1998年に生まれた『盲導馬』の概念は、馬の賢さと寿命に期待したものであったが、馬の大きさ・食事量・盲導犬にない危険性などがネックになっており、二十年以上の研究を経ても現実的な障害者救済の手段になったとは言い難い。

 その点で言えば訪問介護員と同等の知性を持つウマ娘は、そういった問題の全てが無い理想的な"よき隣人"である―――と、言えるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ウマ娘は生半可な車は簡単に追い越せるスピードで走ることができる。

 よって、ウマ娘は機械による乗り物を利用することはない……なんてことにはならなかった。

 疲れない、勝手に走る、便利、かっこいい。

 様々な理由で車を利用するウマ娘は絶えず、ウマ娘の多くは自分の能力と乗り物の能力を組み合わせて、日常生活をほどほどに便利に楽に生きていた。

 ()()()()()()()()()()であれば、なおさらに。

 

「あら」

 

 車窓から外を眺めていたそのウマ娘は、絵を描く少年を目にした。

 遠目に見える少年は目を閉じたまま筆を走らせ、冬の空の下で一人、遠く彼方のレース場の音を聞き取りながらそれを絵に落とし込んでいる。

 いかにも大御所ではないという風体の、しかし様になっている少年の、絵描き姿があった。

 

 少年の絵描きも、その場所で絵を描いている絵描きも、盲目の絵描きも、いや、そもそもレース場周りに来て描いている絵描きというのも、そのウマ娘にとっては初めて見るものだった。

 ウマ娘の名はメジロマックイーン。

 かつてこの国の其処彼処(そこかしこ)を熱狂の渦に巻き込んだ、薄紫のウマ娘。

 

「マックイーンお嬢様、どうかなさいましたか? ……ああ、最近話を聞く画家の方ですね」

 

 運転手の男が、後部座席のマックイーンに声をかけ、彼女が見ていた少年を見る。

 

「目を閉じたまま絵を……目が見えないのかしら。

 弱視の類なら少しは開けるはずですわよね。

 ちょっと車を寄せて。

 ああ、距離は空けて停めるように。

 目が見えない方にとって車の接近は怖いかもしれないもの」

 

「お嬢様、リハビリに向かう途中ですよ」

 

「どうせレースに戻れないことは分かっているのに、リハビリなんて気休めよ」

 

「……」

 

「……そんな顔をしないで。(わたくし)はやりきった。未練はあるけど悔いは無いわ」

 

「承知しています。どうぞごゆっくり。マックイーンお嬢様」

 

「そんなに長くかけるつもりはありませんわ」

 

 松葉杖をつき、マックイーンは固定具で覆われた足を庇うようにして歩く。

 ゆっくり、ゆっくりと彼に近付いていき、彼の筆が止まる。

 どうやら彼もマックイーンの足音に気付いたようだ。

 しかしすぐに筆をまた動かし始め、気付いていないふりでマックイーンの接近を待つ。

 

 それは彼が"足を悪くしたウマ娘"と最近よく一緒に居たことで、その足音の特徴を覚え、他の足を悪くしたウマ娘の足音も認識できるようになったからだろうか。

 足を悪くしたウマ娘というものを、少年はまるで警戒していなかった。

 むしろ、無条件で親しみを持つようになっていた。

 

 上品な声色で、マックイーンは少年に話しかけた。

 

「少し眺めさせていただいてもよろしくて?」

 

「どうぞ」

 

「ありがとうございます。では少しだけ」

 

 マックイーンは彼の横で、彼が描く絵をじっと眺める。

 独特な色彩。

 乱立する塔。

 非現実的で美しいウマ娘のデザイン。

 爆発するようなパワーを込められたタッチ。

 かと思えば、その中心で走る前の構えを取る四人のウマ娘の周囲は、静寂そのもの。

 視線誘導と組み合わされた絵の中のメリハリが、ウマ娘の走る前の静謐、そしてここから走り出した後の躍動を想像させる。

 『異世界のウマ娘の名勝負が始まることを予想させる一枚』……メジロマックイーンは、そんな印象を受けた。

 

 この絵に類似した絵は存在しない。

 世界を見たことがない画家の絵はこの世界において異端の極みである。

 しかし。

 メジロマックイーンは、名家メジロ家の令嬢である。

 彼女は学者の如き知識のタンクではないが、名家に相応しい教養を備えている。

 機械に詳しい者が、任天堂の最新携帯ゲーム機系列に、受け継がれ継承されたほんの僅かなゲームボーイの特徴の痕跡を見出すように、マックイーンはその絵の元にされた絵の存在を嗅ぎ当てていた。

 

 この少年の絵の構図には、確かな血脈が在る。

 指先でなぞり、微かに感じ、頭の中で再構築し、脳内で見てきた想像上の名画が在る。

 目が見えないままに吸収してきた、太古から続く美の継承をしたものが在る。

 

「テオドール・ジェリコーの『エプソムのウマ娘たち』のオマージュとお見受けしますわ」

 

「そうだね。もっとも、ボクはレプリカに触れたことがあるだけで見たこともないけれど」

 

「目の不自由の苦難、お察しします。けれどそのハンデを感じさせない素晴らしさですわね」

 

「ありがとう。そんなに素直に褒めてくれる女の子、わたしの人生では二人目だよ」

 

「そうなのですか? ふふっ、一人目が気になりますわね」

 

 テオドール・ジェリコー。

 人は彼を『生涯をウマに魅せられた画家』と呼ぶ。

 軍事・ウマ娘ジャンルで特に名を知られた一人であったカルル・ヴェルネに弟子入りし、数多くのウマ娘の名画を描いたと伝えられている。

 自信作を酷評されて心折れ、イギリスに逃げ、当時イギリスで最も人気のある題材の一つだったウマ娘に魅了され、彼はウマ娘を描き続けた。

 ジョン・コンスタブルの影響を大きく受けた彼の絵は、見た者が目を離せないほどの質感で、疾走するウマ娘をキャンバスに招いたという。

 最期には熱と愛があるあまり興奮したウマ娘との衝突事故によってこの世を去ったが、その最期まで含めて、少年のお気に入りの画家の一人だった。

 

「こちらは……」

 

 メジロマックイーンは彼が描いている絵だけではなく、彼がいつも背負っている大荷物の中に、絵の具が乗っていない――しかし細かく書き込まれている――絵がいくつもあるのを見た。

 どれもまだ完成に向かっていないが、構図の時点で光るものがあることがひと目で分かる。

 

「ああ、それは下書き。

 ミントの香りのラベルを貼ってるのが元ネタ無しのウマ娘さんの絵。

 グレープの香りのラベルを貼ってあるのがむかしの名画を参考にしたウマ娘さんの絵だね」

 

「下書きでここまで書き込んでいるとは、几帳面な方ですわね」

 

「ははは。部屋はけっこう散らかってることが多いんだけどね」

 

「拝見してみてもよろしくて?」

 

「一枚くらいなら持っていってもいいよ」

 

 執着心のない方ですわね、とマックイーンは思った。

 元ネタがある方の絵に手を伸ばし、マックイーンはそれらの絵を記憶にある元の絵と比べ、異次元の技術継承に内心舌を巻く。

 ウマ娘を書いた画家は歴史上多く、それをモチーフにした絵が多くあるのが見て取れたが、観客と風景をしっかり書き込むマネやドガなどを参考にしたものの画調が特にオリジナルと違う。

 日本のウマ娘レースの音・声・応援を聞き、それを脳内で映像に変換した『幻想の観客』に入れ替えられている。

 現実のレースが、神話の競走に昇華されていた。

 

「これはジョン・コンスタブルの『白いウマ娘』。1821年。

 これはエドガー・ドガの『観覧席前のウマ娘』。1872年。

 これはエドゥアール・マネ『ロンシャンレース場』。1867年。

 ……なるほど、同時代のウマ娘絵を固めて描いているのですね。

 伝統のやり方を無視した、自由な新技法の創出はマネそのもの。

 技術ではなく生き方を模倣した絵画。

 目が見えないからこそ模写ではなく、原型が分かるのに完全な別物になっていますわ」

 

 少年はウマ娘にアスリートのイメージを持っていた。

 つまり、評論家から遠いイメージを持っていた。

 何も知らない子供にも理解できるものが理想の芸術であると思っていた。

 画家が1000考えて描いた絵の内、100伝われば十分であると思っていた。

 しかし、マックイーンは1000考えて描けば900は読み取ってくれている。

 ウマ娘に必要な知識でない以上、これは間違いなく彼女自身の教養だ。

 少年は驚き、分かってもらえたことに、嬉しい気持ちになった。

 

「これは驚いた。今時の子とは思えないくらい詳しいね。いい家族に恵まれたのかな」

 

「? いい家族……ですか?」

 

「知識は才能ではなく教養だからね。

 教養は一生を豊かにする栄養素だ。

 周囲からの目を決定付けるものでもある。

 親が子の幸せを願えば、子には相応の教養が備わるものなんだよ」

 

「あら……素敵なことをおっしゃりますのね。女性を泣かせてそうな口の上手さですわ」

 

「ははは」

 

 目が見えないまま、乾いた絵の具を指でなぞって形を把握し、それに沿って筆を走らせ、自分の頭の中にしか存在しない光景を形にしていく。

 その何気ない所作に込められた神業に、マックイーンは心底感嘆する。

 少年は話しながらも筆を止めてはいなかった。

 

「芸術の教養は1日や1分で理解して学ぶことはできないから、それはきみの財産なのさ」

 

「あら、ゴーギャンですか。先人の絵だけでなく言葉にも学んでいる方なのですね」

 

「……素直に感心しちゃうなあ。きみ、レースが本業なんだろう?」

 

「ええ」

 

「本当に教養がある人にはわたしじゃ専門分野でも敵わないんだなあ」

 

「またまた、ご謙遜を」

 

 くすくすと上品な笑みをこぼすマックイーンに、少年はいつもは別の少女を座らせている折りたたみの椅子を差し出す。

 

「どうぞ」

 

「突然不躾に観客として加わった身ですわ。そこまで恥知らずにはなれません」

 

「足が悪いんじゃないか、きみ。立ちっぱなしはよくないよ」

 

 少女はきょとんとして、今日一番に優しい微笑みを浮かべた。

 足音でマックイーンの足の不調を察した。

 それはマックイーンにも分かる。

 ただ、盲目の人間が何時間も描き続ける絵画の作業中に、名前も知らない赤の他人の足を気遣って椅子を差し出すという行為に、マックイーンは『尊さ』を感じていた。

 

 これは自己犠牲ではない。

 媚びでもなく、軟派なわけでもないだろう。

 きっと彼は足を悪くした人間がそこにいれば誰であってもそうする、そんな人間であるだけ。

 少年の雰囲気は柔らかで優しく、その在り方はどこまでも透明だった。

 

「その気遣いに感謝を。ですがそこまで甘えられません。今日は去ることにしますわ」

 

「そっか」

 

「いつか顕彰で会うかもしれませんが、その時は(わたくし)の仲間をお願いしますね」

 

「顕彰……?」

 

「……と、申し訳ありません。早とちりをしてしまったようですわね」

 

 URA――Uma-musume Racing Associationの略称――こと、『ウマ娘競走協会』が管理する『URA競走博物館』には、多くの絵画が並んでいる。

 それは、『ウマ娘の殿堂』と呼ばれる伝統のためだ。

 URAは毎年報道関係者などによる選定投票を行い、3/4以上の得票を得たウマ娘は殿堂入り扱いとなり、顕彰ウマ娘として絵画やブロンズ像などが博物館に展示されるようになるのである。

 

 昭和59年以降、様々なウマ娘が描かれ、様々な画家がその姿を描いてきた。

 それが並ぶのがURA競走博物館だ。

 シンボリルドルフ、マルゼンスキーなどの名だたるウマ娘の名が並ぶ。

 その絵画の下には8000人以上のウマ娘を描いてきた久保田、シンボリルドルフやオグリキャップを描いた絵で最高峰の評価を受ける中川、日本を代表するサラブレッドアーティストである上鈴木などなど大物の名前が添えられている。

 ただ見るだけなら、馬名と彼らの名前で検索するか、URAの公式サイトから移動すれば見れるというのも見たい人間のことをよく考えていて、上々である。

 

 URAはウマ娘とレースを管理する事実上の最高機関。

 そこに殿堂入りとして選ばれるということは、最高のウマ娘の一人として選ばれるのと同義。

 そのウマ娘を描くことを依頼されたということは、それ相応の画家として選ばれるのと同義。

 絵が飾られ続ける限り、そこで永遠で在り続けるだろう。

 

 そんな話を簡潔に、概要をまとめて、メジロマックイーンは彼に教えた。

 

「……なるほど。いいね、そういうのも」

 

「技量は十分だと思いますわ。不自由な目がどう評価されるかは、ちょっとわかりませんが」

 

「ありがとう。お話のお礼に一枚、好きなの持っていっていいよ」

 

「この程度の話で貰えませんわ……と、言いたいところですけど」

 

 マックイーンは薄紫の髪をかき上げ、絵の一枚を手に取る。

 一番完成度の低い下書きのスケッチ(エスキース)ですら、『現実の光景を見てなぞる』のではなく、『脳内にある世界を浮き上がらせる』ものであったためか、不思議な魅力があった。

 

「描きかけの絵にすら惹かれている(わたくし)が居ることも、また事実ですわ」

 

「絵はまた描けばいいから。

 その代わり、きみに憶えていてもらえたらいいさ。

 絵はきみの思い出の片隅を間借りする家賃の前払いということで、どうかな」

 

「あらあら、(わたくし)の心に住もうだなんて。図々しい画家さんも居たものですわね」

 

 冗談めかした遠回しな言い回しをしても相手は誤解しないだろうという、互いの教養に対する信頼が、初対面の二人の間に気安げに見える空気を構築していた。

 

 マックイーンはあえて気に入った絵は選ばない。

 ここでマックイーンが描きかけの絵を持っていったならそれは完成せず、マックイーンが完成形を見ることはないからだ。

 気に入った絵は完成品を見て、それを褒めちぎりたい。

 そんな気持ちがマックイーンの内にある。

 なのでそこそこの出来のもの、本当に描き始めのもの、明らかに下書きの時点で筆が乗っていないものを選んで選り分け、その中でも『青いウマ娘』として描かれているものは避けた。

 

 真の芸術が"何の説明もなく人の心に響くもの"であると仮定するならば、彼の絵の中で『その特別なウマ娘』が描かれているものだけが、格別に真の芸術に近かった。

 盲目ゆえに見えず、本物から程遠いその絵がどのウマ娘を描いたものであるか、マックイーンには分からない。

 

「これは貰えませんわね」

 

「どれでもいいけど?」

 

「あなたがこのウマ娘を特別に好きであるということだけは、なんとなく分かりますもの」

 

「……まいったな」

 

 少年が髪を掻き、マックイーンはくすりと笑む。

 

 マックイーンには教養に根ざした確かな審美眼があったが、彼女はそれを一番いい絵を選ぶためではなく、一番よくない絵を選ぶのに使った。

 一番よくない絵でも、十分にマックイーンの心に響くものがある。

 マックイーンは十分に満足し、十二分に感謝の気持ちを抱く。

 少年もまた、芸術への確かな理解と控えめで謙虚な振る舞いを併せ持つウマ娘との出会いに、純然たる好印象を抱く。

 

 重ねて礼を言い、マックイーンは去っていった。

 

「……あ。声がきれいなあの子と話す時のくせで、名前聞くの忘れてた」

 

 二人は互いの名も知らないまま、別れる。

 二人の間にほのかな因縁を残して。

 

「おーい、センセー! おーい! わっしょーい!」

 

「おや、お嬢さん。今日は遅かったね。日曜日はいつももうすこしはやく来るのに」

 

「友達がさー、長話しててさー、最後まで長話してたらちょっと遅れちゃった! ごめんね!」

 

「やさしいね、お嬢さん」

 

「ふふん、まあそれほどでもないかな!」

 

 メジロマックイーンが去ってからしばらくして、彼が待っていた少女がやってくる。

 今日の彼女は、彼が贈ったスカーフを腕に巻き、そこそこオシャレにキメていた。

 

 教養はマックイーンが勝る。

 理解度もマックイーンが勝る。

 話が合う度合いもマックイーンが勝る。

 彼が本気で描いた絵を見て、過不足なくその意図を把握するのもマックイーンならできる。

 この少女にはできないだろう。

 それが、一定以上の家格の親が子に与える福音。教養という名の祝福の差である。

 

 だが、彼がマックイーンに向ける微笑みと、彼が太陽の少女に向ける微笑みは違った。

 誰がどう見ても、後者にのみ存在する特別な感情が在った。

 

 画家にとって命より大事なものは、画材である。

 画材よりも大事なものは、ファンである。

 ファンよりも大事なものは、理解者である。

 理解者よりも大事なものは、運命である。

 

 古今東西、芸術家に『最後の壁』を越えさせるのは、『理解者』との出会いではなく、『運命』との出会いである。

 

「センセーは今日は何を描くの?」

 

「海にいこうと思うんだ。海の青に触れてみたい」

 

「海! いいねいいね、ボクもついてくよ。センセー一人だけだと溺れちゃいそうだし」

 

「あのねぇ」

 

「あはははっ、へーいっ、海ー!」

 

 冗談めかした表情で、されど少年は深く感謝する。

 

 少女が思う以上に、少年には臆病なところがある。

 彼は頓着がなく、執着がなく、渇望がない。だがそれだけだ。

 『強く欲しがるもの』がないのに、『鬱陶しく思われたくない』と思っている。

 "海にまで連れ回したら迷惑なんじゃないか"と思えば腰が引けてしまう。

 でも"一緒に海に行ってみたい"とも思ってしまう。

 だからいつものようにここで待って、海に行くことを言って、少女の反応を見ながら言葉を選ぼうとする思春期の姑息が、彼にはあった。

 

 少しのズルをした少年に対し、少女はどこまでも真っ直ぐだった。

 即時少年を心配してついていくことを決めて、少年がそれを申し訳ないと思わないよう、友達同士の気安い会話のノリに持っていく。

 盲目の友人を一人で海に行かせられるほど、彼女は冷たい人間ではない。

 冬空の下、青いジャケットを羽織り、青いウマ娘は今日も笑顔で彼の手を引いていく。

 

 彼の繊細な内心に全く気付かないまま、今日も少女はにかっと笑っていた。

 

 太陽はいつでも太陽なのだ。

 

 

 

 

 




【余談】
 アニメでのドーベル、ライアン、マックイーンの食事シーンで飾られていた山の絵は、関係性では日本有数の活火山である有珠山、形状はその側火山である昭和新山を描いたものであると考えられる。
 メジロ牧場は有珠山近隣に存在していたため、過去二度有珠山の噴火の被害を受けており、一度目は牧場が火山灰に飲み込まれ、二度目もドーベルらが避難を行っている。
 メジロ牧場は初期投資を捨てられなかったこと、移転費用が捻出できなかったことなどから移転を選べなかったが、最終的に馬の成績不振と噴火の影響で競馬界からの撤退を選択した。
 有珠山群は『メジロを殺した山』である。

 火山は多くの画家が描いてきたモチーフであり、雷や嵐にも匹敵する『派手な』題材であり、人目を引きやすいため成功しやすいジャンルでもあった。
 街を飲み込み、世界を揺るがす噴火の恐ろしさ。
 人はそこに、神を見た。
 地球の内側に火が存在し続けるがゆえに、太古の昔から人はそれを書き続けてきたという。

 しかしながら、同時に画家達は、『乗り越える者』を描くためにも火山を描いてきた。
 ピエール・ジャックやルイス・ジーン・デプレ、ウィリアム・ターナーやジョン・マーティンらはヴェスヴィオ山の噴火を描いたが、そのいずれにも噴火に飲み込まれず生きのび、火山を見つめる人間達を書き込んでいた。
 噴火を『恐ろしい』では終わらせない。
 そこに『恐ろしいものにも負けない人間』を描くことで、火山を通して人間を描き、後世にまで残る名画を完成させたのである。

 メジロ家に飾られている山の絵は、噴火の絵ではなく穏やかな平時の山の絵であり、メジロのウマ娘達の出身地の象徴であると同時に、鎮山の意を組み込まれているものであると考えられる。
 怒れる山ではなく鎮まる山の絵を飾ることで、"そうで在れ"と願う芸術だ。
 現実のメジロ家は山の噴火によって消えていってしまったが、ウマ娘世界のメジロ家は山の噴火によって滅びることはなく、その象徴があの絵なのではないだろうか。

 絵に意志はなく、力はなく、その絵に込められた想いがあるのみ。無力である。
 しかしながら、人の想いが奇跡を起こすことはある。
 ウマ娘の想いが奇跡を起こすのと同じように。
 "どうか彼女らが無事であるように"と願った誰かの絵が奇跡を起こしたならば、最大の敵が噴火せずずっと安泰なままのメジロ家というものも、存在し得るのかもしれない。

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