目無し足無し夢も無し 心を救う永遠の帝王   作:ルシエド

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「私の芸術は、自己告白であった。それは、沈没しかけている船の無線技師が打つ、SOS信号のようなものであった」

   ―――エドヴァルド・ムンク


8 オドントグロッサム ■■■■

 まずは電車に乗って、海に近い駅へ向かう。

 

「センセー、センセー、駅弁買ってきたよ! 一番美味しそうなやつ!」

 

「ありがとう。はい、これ二人分のお弁当代にして」

 

「ええ、そんなの貰えないよ」

 

「いいんだよ。久しぶりに電車に乗れてワクワクしてるお礼もあるから」

 

「久しぶり? やっぱり一人だと電車って乗りにくいんだ……大変だぁ……」

 

「補助の人が居ると楽なんだけどね。

 あと、ほら、ははは。

 わたしは臆病者でね、あんまりそういう挑戦をしてこなかったんだ。

 慣れてる人は一人でも電車を日常的に使ってるらしいから、本当にすごいよ」

 

「見えないと怖いよね、ボクならとても……あ、盲導犬って電車大丈夫なんだっけ?」

 

「ある程度はね。

 ただわたしはあんまり肌に合わなかったかな。

 おおきい犬を怖がる人や子供はそれなりにいるからね。

 電車にまで連れこんだりすると、周りの人に不快や不安を与えてしまいそうでいやなんだ」

 

「あー」

 

 優しいな、と少女は思った。

 

 同時に、ボクが支えてあげないと、とも思った。

 

「センセーって目が見えてても生き辛そうな人だよね……」

 

「そうかな?」

 

「そうだよ。ウマ娘には絶対に向いてないから、ウマ娘に生まれ変わっちゃ駄目だよ?」

 

「……初めて言われたなあ、そんなこと」

 

「他人の迷惑を考えすぎる人は競走やレースに向いてないの、勝負の世界だもん」

 

「なるほど。お嬢さんの知見に納得するしかないな」

 

「でしょー?」

 

 ガラガラの電車の片隅で、こっそりと二人きりで座り、駅弁を口に運び、楽しげに話して、二人で笑い合う、幸せを含んだ時間が流れていく。

 

 近年、盲導犬などの『人と人でない動物の絆によって身体能力の不足を補う』システムは、悪意によって穴を突かれつつある。

 よく訓練された盲導犬はともかく、普通のペットの犬は暴れたり・人を噛んだりする可能性が無視できないため、カゴの中に入れておかなければ電車に乗せることができない。

 

 しかしカゴの持ち歩きを面倒臭がる人間、ペットを溺愛するあまりルールを無視して放し飼いにする人間、単に誰かに命令されるのが嫌な人間は、それを無視する。

 彼らは偽造の盲導犬表示を飼い犬に付け、平然と盲導犬でない犬を盲導犬に見せかけ、ルールを破る。

 

 2020年にはとうとう、偽造盲導犬によって女性の盗撮を行い動画サイトにアップロードする人間まで現れ、ただ善良であった不具の者達は、回り回ってその迷惑を受け続けている。

 その『悪意』は、誰かに手を引かれないと電車にも乗れない者達のささやかな幸福を、継続的に奪っていっているのだ。

 

 この少年も多くの困難、多くの社会的障害、またどこかの誰かの気軽な『悪意』を数え切れないほど知っている。

 少女を待っている間、推しのウマ娘が大敗してイラついていた不良に杖を蹴り飛ばされ、少女がやってくる前にずっと杖を探していたこともある。

 だが、彼はそういうことを彼女に話すことはほぼない。

 悪意を受けたことを、彼は彼女に愚痴らない。

 "ただ彼女が不快な気分になるだけの話"なら―――『少女の笑う声が好きな少年』が、少女に対してそんな話をするわけがない。

 

 彼は彼女の笑顔は特別好きではない。

 彼女の笑顔を見たことがないから。

 彼は彼女の笑い声が好きだ。

 彼女が笑うだけで、心のどこから幸せになる気がするから。

 

 盲導犬が盲目の手を引くことさえ悪意によって邪魔されつつある時代、その時代の片隅に、ウマ娘が人間の手を引く善意の光景があった。

 

「盲導犬に手を引かれなくても、わたしには誰より頼りになるきみがいるから不自由はないね」

 

「……ボクは盲導犬でもわんこでもないからね!」

 

「? そうだね、きみはかわいい女の子だね」

 

「んもーセンセーはもーいっつもそんなこと言ってーえへへへ」

 

 少女は話の流れで、スペシャルウィークとしていた話を出す。

 

「でさー、ボクをわんこ扱いするんだよ。スペちゃんの方がずっとわんこじゃないか!」

 

「犬がいやならなにならいいんだい?」

 

「ゴジラ!」

 

「かわいさとかじゃなく強さだけで選んだよねそれ」

 

「やっぱウマ娘なら最強であってこそでしょ! 無敵無敗、最強!」

 

 少女は犬っころ扱いされたことにちょっと納得がいかないようだ。

 

 少年は微笑み、ペットボトルのお茶で喉を潤している。

 

「でも、お嬢さんなら犬より猫だろうね」

 

「猫~? なんで~?」

 

「気まぐれ。

 自由。

 少し生意気なこともするね。

 それと気位が高いところもある。

 勝負事になると負けん気が良い方向に作用するタイプだ」

 

「へー……あー、うん、そうかも」

 

「きみが犬に感じられるのは……

 一途だから。

 まっすぐだから。

 『好き』を曲げないから。

 きみのそういうところをちゃんと見てくれている人は犬に見えるんだと思う」

 

「ああ……そっか、そういう感じなんだ」

 

 人を好きになることで人に愛されるのが犬なら、人から好かれることで人に愛されるのが猫である。きっと彼女は、その両方の気質を持っている。

 

「きみに好かれた人は安心するだろうね。

 きみは犬みたいなところがあるから。

 きみの忠実と言えるほどの好意を疑う人はいないだろう。

 きみを好きになった人は大変だろうね。

 きみは猫みたいなところがあるから。

 きみは自分が好きになったものしか追いかけないから、自由なきみを追いかけるのは大変だ」

 

 詩人が詠うようなリズムで、彼は言う。

 

 この少女を愛するようになるのは簡単で、この少女に愛されるようになるのは難しい。

 この少女を好きになって追いかけるのは大変で、この少女に好かれてから追われるのは楽だ。

 彼女の『好き』は誰よりも自由で、誰よりも揺らがない。

 少年は彼女をそういう者だと解釈している。

 その性情は、少女の可愛げと、王の身勝手な自由が、完全に同一になっているがゆえのもの。

 

「センセー、それ褒めてる? からかってる?」

 

「さあ、どっちだろう」

 

 少女は気安い口調で問いかけたが、本当は彼が涼やかに褒めの言葉を並べていることなど、聞くまでもなく分かっていた。

 

「センセー! センセーは犬派か猫派ですか! 答えやいかに!」

 

「どうしたんだい急に」

 

「やー、ボクもセンセーには感謝してるんだよね。今は友達だしさ」

 

「ん」

 

「センセーの好きな方にちょっと寄せてあげようかなー、なんて」

 

「そういうこと、お嬢さんはよくするのかい?」

 

「んー。したことないなあ。いつもボクはボクだし。でもま、センセーが好きならいいかなって」

 

 少女はからかいの表情で口元に手を添え、にししと笑っている。

 

 天衣無縫。他人の言うことに対して従順なわけでもなく、かといって他人の言うことに反抗しがちな反抗期でもない。

 自由に素直で、自由に決める。

 そんな彼女が、彼の見えない目にはとても魅力的に見えていた。

 

「ピカソという人を知ってるかな」

 

「あ、知ってる知ってる! なんかヘタクソな絵を上手いって言わせるプロな人だ!」

 

「……」

 

「ピカソがどうかしたの?」

 

「あ、ああ。彼が言った言葉で有名なものがあってね」

 

「へー?」

 

「『結局の所、画家とは何だろうか。

  それは、人が好きなものを自ら描くことによって手に入れるコレクターだと思う』」

 

「……?」

 

 少女は、首を傾げて。

 

「わたしが欲しいのはきみだけど、それは普段の魅力的なきみだから、変えられたら困る」

 

「……!」

 

「ありのままのきみが一番きれいだと思うよ、わたしはね。きれいな心のお嬢さん」

 

 その言葉の引用の意味を理解して、少女の顔にさっと赤みが差した。

 

「……うぇ、そ、そーだよねー! ま、ボクは今のままでも無敵の帝王様って感じだよね!」

 

「そういう感じかは知らないけど、やっぱりきみが一番きれいだ」

 

「そ……そっかぁ!」

 

 少女は束ねて流しているポニーテールを顔に巻き、熱がこもった顔を隠す。

 彼に見えてはいないのに。

 見えていないと分かっていても隠してしまう。

 互いへの理解が進めば進むほど、少女は少年に何もかも見透かされている気になって、同時に少年の一番深いところが自分には見えていないような気がしてくる。

 

 この世の『美しいもの』を一つも見たことがなくて、少女よりもずっと多くの『美しいもの』を知っている不思議な彼が、『君が一番だ』と言ってくる。

 それが本当にむず痒くて、恥ずかしくて、嬉しくて、ふわふわとした気持ちになって、髪を盾のようにして顔に巻きつけて、変な声で唸る。

 

「犬派か猫派か気軽に聞いたくらいだったのに……うぅ」

 

「ははは。犬は人と共に歩き、猫は人の膝の上に座るイメージが有るね」

 

「そうだね、ボクもそういうイメージ……あっ、そうだ。いやでも……」

 

「?」

 

「ま、いいや。センセーが悪いよねっ」

 

 少女はぺちぺちと頬を叩いて冷まし、何気なく、自然な動きで、彼の膝の上に座った。

 

 少年の頬味が強張る。

 少女を乗せた体が固まる。

 電車が揺れている。

 がたんがたんと、電車の足音だけが響く。

 次の駅はまだ遠く、アナウンスの声すらもない。

 まるで、二人だけの世界がそこに出来たかのようで。

 

 静寂の数秒の間、少年は動けず何も言えず、少女もまた緊張が顔に出ていたが、目が見えない彼には少女の緊張が見えていない。

 

「え、ちょっと、お嬢さん」

 

「猫は膝の上に乗るんでしょ? セーフセーフ」

 

「きみは猫ではないよね。さ、はやく降りて……」

 

「ね、ドキドキする?」

 

「……あまりからかわないでほしいな」

 

「ね! ドキドキした!? ドキドキしたらボクの勝ちね!」

 

「あのね」

 

「……やっぱボクみたいな子供っぽいウマ娘だと、あんまドキドキしないかな」

 

 誤魔化すような笑いに混ざった少女の言葉を聞き、少年はハッとした。

 

 互いに冷静さを失っている。

 どちらも勢い任せに話していた。

 しかし嘘はない。

 虚勢も既に剥がされている。

 今口から漏れる言葉は本音となるだろう。

 二人は互いが互いに何を考えているか、その心奥の感情に理解が及ばないまま、互いが口に出した言葉を信じるという不文律の上で踊る。

 

 "ボクがもうちょっと大人っぽかったらなあ"という、少女の想いがあって。

 その明るさと混ざった自嘲を否定し、"そんなことはない"と伝えたい少年の想いがあった。

 

「……ドキドキしたよ。きみは魅力的な女の子だから」

 

「! そっかー、そっかー! ボクもけっこうましょーの女だよね!」

 

「まったく」

 

 恥ずかしそうな表情を腕で隠して、少女が降りる。少女が笑って、少年が笑う。

 

 少年が少女に対して引いていた一線があった。

 少年はそれを巧みに隠していたが、それは距離感あってのもの。

 少女に惹かれれば惹かれるほどに、彼の距離感は狂っていく。

 相互理解が進めば進むほど、彼の隠し事に彼女は気付くようになり、彼が彼女に対し引いている一線にも勘付くようになっていくだろう。

 

 その一線を、()()()()()()()―――そんな、実感が彼にはあった。

 彼女がその一線を跳び越えてきて、彼の手を取り、飛び越えさせてきた。

 飛び越えさせない一線を引く少年と、跳び越える少女。

 引いた一線が消えていく。

 

 少女はドキドキさせたら自分の勝ち、なんて甘酸っぱさの混じった負けず嫌いで言うけども。

 少年は初めて出会った時からずっと、この少女に勝てると思えたことがない。

 

「センセーが悪い、センセーが悪い、センセーが悪い! 自分を省みてよね!」

 

「はいはい、わたしがわるい」

 

「返事がぞんざいー!」

 

「駅弁のデザートはきみにあげるから、ゆるしてくれないかな?」

 

「! センセー、かっこいー! イケメンムーブだよ、高得点だよっ!」

 

「ははは」

 

 少女が電車の窓を少しだけ空け、冬の風が入ってくる。

 

 熱を持った二人の頬が、風に当たって冷めていった。

 

 

 

 

 


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