―――岡本太郎
少女に手を引かれ、少年は駅の売店で益体もなく楽しい時間を過ごす。
点字による解説の類がなくても、楽しそうな少女の声を聞いているだけで楽しかった。
「見て見てセンセー! 海が近いからかアロハシャツ売ってる! 冬なのに!」
「おや。どんな柄かな」
「赤っぽい花と青っぽい花の二色があるね。
花がぎゅーって詰まって、後ろに海があるや。
アロハシャツを生み出したハワイらへんの人は芸術家の才能あったんだろうなぁ」
「アロハシャツは和服だよ」
「あはははっ! 面白冗談だ! またまたー……冗談だよね? 嘘だよね?」
「わたしは聞いたことがあるだけなんだけど、"ググる"って方法があるらしくて……」
「あー。スマホって検索結果点字で出してくれないもんね。ちょっと待って」
少女がスマホで検索して、びっくりする。
「……ホントだ!
和服を日本移民が仕立て直した説……
日本の着物に惚れ込んだ現地人のために着物をシャツにした説……
なんてことだ……あんな浮かれポンチなハワイアンが和服だっていうの……!?」
「『海を渡り生まれた芸術』のひとつだとわたしは思うよ」
「あろーは?」
「あろーはだね」
「記念に買っちゃう? 買っちゃおっか? 買おうよセンセー!」
「買っちゃおうか、ふふふ」
「こういうのは一生着なくてもいいよね、センセー」
「夏くらいは着てあげなよ、お嬢さん」
アロハ・アートは現代でも人気のあるジャンルだが、この少年にはあいにく縁がない。
完全に旅行のお土産のノリで適当なものを買って、二人はまた歩き出した。
「こっちにバス停があるから、誘導をおねがいできるかな。お嬢さん」
「あれ? なんで知ってるの?」
「このあたりは昔住んでいたことがあるから。むかし、むかし、って頭に付くけどね」
「そーなんだ。そういえばセンセーって今はどこに住んでるの?」
「普通の家かな。あのレース場に歩いていける範囲にあるよ」
「家族も一緒? それともヘルパーさんがセンセー助けてくれてるの?」
「普通の家族と一緒に暮らしてるよ。面白いことは何もないから話せることもないかな」
「ふーん。ね、ね、遊びに行ってもいい?」
「最近ちょっと改装中だから、それが終わってからね」
「やたっ」
センセーが身の上を話してくれるの珍しいなあ、と、少女は思う。
彼が引いていた一線を彼女が除けた、その影響だろう。
と、同時に。
彼が踏み込ませていなかった領域に彼女が踏み込んだことで、違和感は強まっていた。
理性的な言葉の分析ではなく、直感的な嗅覚で、少女はそこに何かを感じ取る。
"極めて優れた直感"は、歴史に名を残すウマ娘が総じて大なり小なり持つ特性だ。
だから、気付く。
嘘が上手い、と表現すればおそらく半分は合っている。
他人を騙すのが得意、と表現すればおそらく大間違いになる。
何か、それが何かは不明だが、本当のことを言わないために、彼は言葉を選んでいる。
彼は正直者ではなく、"嘘をつきそうにない人"という印象を周りに与える振る舞いが板についている人なのだと、少女は気付き始めていた。
本質的なところで、彼の発言の真偽が分からない。
それを聞くべきか聞かざるべきか、少女は迷っている。
『誰にも触れられたくないことがある』ということを、彼女はよく知っていた。
「この時間帯だとバス全然無いみたいだよ、センセー」
「そうなのか。また運行変わったのかな。どうしたものか……」
「あ、じゃあボクがセンセー背負って海まで走るよ! それで解決!」
「は?」
思わず、取り繕いのない素の声が出て、少年は露骨にびっくりしていた。
「いやいやいや。わたし40kgはあるよ? 荷物も重いし、足に悪いんじゃないかな」
「うわっセンセー軽っ……そのくらいならへーきだよ?
ボク入学してすぐくらいで200kg持ち上げて鍛えてたし。
力のあるウマ娘は車くらい持ち上げてるし。
センセーと荷物背負うくらいなら、全力で走らない限り壊れないでしょ」
「すごいなあ、ウマ娘……」
「ふっふっふ、センセーと腕相撲したらボクが勝っちゃうくらい強いんだからね!」
「おや怖い。不良に絡まれた時は守ってもらって、お礼にごはんをおごらないといけないかも」
「まっかせてっ! どんな敵からでもセンセーを守ってみせるからね!」
「ふふふ」
「センセーは安心して健やかに幸せな毎日を過ごすといいぞよ~!」
「ぞよ~」
「ぞよ~。さ、ボクの背中に乗って」
少年は少女の背に乗り、その背中の小ささにはっとなる。
彼にとって彼女は太陽だった。
とても大きくて、とても綺麗で、とても力強い太陽だった。
電車で彼女が膝に乗っていた時は冷静さを失っていたため気付かなかったが、彼が思っているよりもずっと、彼女は小さかった。
小さな体で、頑張っていた。
「……こんなに小さかったんだ、お嬢さん」
「センセーの絵の中のボク、綺麗な大人の女性って感じで好きだったよ」
「そっか。あんなに頼りになるのに、こんなに小さかったんだな……」
「小さい小さい言い過ぎ! もー! 背だってちょっとは伸びてるんだからね!」
「ごめん、ごめん。かわいらしくていいと思うよ」
「……もー!」
そして同時に少女も、少年が服で何気なく隠していた体付きに気付いていた。
触れた体が細い。薄い。骨ばっている。
駅弁を食べていた時も、デザートを少女に譲った上で残していた。
おそらく食自体が細いのだ。
肉の感触が薄く、骨の感触が強い。
至近距離で見れば肌の状態も悪く、肌色も悪かった。
体が弱いのかもしれない。あるいは、盲目であるから運動不足で、その影響が体に出ているのかもしれない。
インドアな生業を選んでいる人間だから、などという理屈で到底納得できない体だった。
少女はガラスの宝物を背負うような気持ちで、大事に、繊細に、しっかりと背負う。
予想以上に小さな女の子だったウマ娘と、予想以上に細い男の子だった人間が、駅から海に向かって飛び出した。
彼が贈り、少女が腕に巻いたスカーフが、少女にしがみつく少年の手にひっそり触れる。
「わっ、わっ、速いね、お嬢さん。人を乗せてこんなに速く走れるんだ」
「へへっ、もうちょっと速くできるよ、それーっ!」
「わーっ!?」
川が流れている。
電車が橋を使って渡っている、大きな川だ。
大きな川は海へ向かって流れていく。
川沿いに立ち並ぶ木々の葉や枝が、陽光を反射しきらきらと輝く川の上を、ゆったりと流れていくのが見えた。
「センセー、川がきらきら光ってるけど、ああいうのも絵に書くの?」
「川は生と死の境界線だから、人気のモチーフだよ。何回か描いたことはあるね」
「ほっほー、今度見せて……あ、川が海に合流してるところが見えた! もうちょっとだね!」
「無理せずにね。きみの足が、いや、きみがいちばん大事だから。壊れたら大変だ」
少しだけ、少女の頬が熱くなった。
「……あ、あははは! そ、そだね! そういえばさ、センセーは知ってる?」
「なにをだい?」
「ウマ娘が走るところには、芝とか砂とかあるんだ!
ターフとダート。
あとウッドチップとかオールウェザーとか。
それでね、ダートの砂は川の砂を使ってるのが一番多いんだって。次が海の砂」
「へえ……お嬢さんはもの知りだね。さすがウマ娘さんだ」
「えへへ」
今、おそらくこの少年が世界で一番に、笑っているこの少女を美しいと想っている。
そんな彼にも、少女が今浮かべている笑顔の眩しさは見えていない。
川は陽光を照り返し、眩しい光が少女の横顔を照らし、けれど川の反射光にも負けないほど眩しく、とても楽しそうに、少女は笑っていた。
背中に感じる暖かさが、浮き立つ気持ちを感じさせていた。
「川砂海砂は私も昔使っていた覚えがあるね。フレスコで使った覚えがある」
「ふれすこ?」
「壁画のことだよ。美術の教科書かなにかで見たことがないかな?」
「あー、あー、あるかも。センセーは色々やってるんだねぇ」
「石灰と川砂を2:3で混ぜる。
1:3で教えてるところもあるらしいけどわたしは2:3かな。
そしておもちの米のおかゆを薄めたものを混ぜてクリーム状にする。
それを塗って、生乾きの壁に絵を描いて、二酸化炭素と反応してかたまるのを待つんだ」
「わぁ、なんか大変そー」
「ははは、上書きもできないからね、天才の専売特許だった時代もあったらしいよ。
ウマ娘のレースと似ているところもあるかもね。失敗がこわいたいへんな一発勝負だから」
「色んなところに色んな一発勝負があるんだねぇ、ふむふむだ」
違う世界に生きてきた二人。
しかし違う世界であっても、同じようにこの空の下で繋がっている。
川の砂で絵を描く者が居た。
川の砂の上を走る者が居た。
人間の筆先に触れる砂があり、ウマ娘の足先に触れる砂があった。
少女は彼を月のようだと感じていて、少年は彼女を太陽のように感じていて、異なる二つが重なることで新たに何かが生まれていく関係は、まるで
違う世界に生きてきた二人がこうした関係になったこと自体が奇跡であり、アメリカ合衆国年度代表ウマ娘に表彰されるエクリプス賞すら上回る奇跡だと、そう言えるかもしれない。
二人はなんでもないことを話し、なんでもないことを教え合いながら、この星で最も大きな青色のもとに辿り着いた。
「うーみだー! ひろいっ!」
「うん、海だ。潮の香りが強い。波の音がとても近いね」
少女は広がる海の光景にテンションが上がり、少年は潮の香りと波の音にテンションが上がり、隣に立つ友人がはしゃいでいるのを肌で感じて、もっとテンションが上っていった。
「ありゃりゃ、流石に冬だと誰も居ないね、センセー」
「冬の海は人が来ないからバスの本数減らされてたのかもしれないね」
「ボクは仲間と冬の海辺でトレーニングとかしてたよ?」
「ははは、ウマ娘は元気だね。さて」
幅の広い堤防の上で、少年は画架を構え、キャンバスを置き、筆を持った。
「センセー目が見えてないから落ちそうでボクめっちゃ怖い」
「堤防の上から踏み外すようならわたしはとっくに側溝で足を折ってるよ」
「そうなんだけどさぁ」
「まあこどもの頃側溝で思いっきり左足折ってるんだけどね、わたし」
「ちょっとぉ!?」
少女はハラハラして思わず少年の服の背中をぎゅっと掴み、心配性な少女に苦笑する少年をじとっとした目で睨んだ。
この危機感の無さと執着心の無さが、芸術家によくあるという『浮世離れ』なのだろうかと、少女は思う。
「というかセンセーも左足折ってたんだね。おそろいだ! ボクも折れたの左なんだよね」
「いやなおそろいだなあ。女の子だし、痛かったろう、だいじょうぶだったかい?」
「おんなじぐらい痛かったんじゃないかな? わかんないけど」
左足骨折コンビは海を見る。
これからあの海を、絵にしてここに落とし込むのだ。
パレットの上で青が踊る。
独特な色彩感覚で、海に最も使われる青色が練られる。
"センセーの青の匂い、好きだな"……と、少女が微笑む。
出会ってすぐの頃は分からなかった絵の具の香りも、ウマ娘の嗅覚もあって、もうすっかり嗅ぎ分けられるようになってしまった。
彼女は彼を知り、彼の絵を知り、彼の色を知ったのだ。
少女がそこにちょっとした優越感を覚えていないと言えば嘘になるだろう。
青い上着の隙間から飛び出た尻尾が、上機嫌そうに左右に振られている。
「センセーが海で描いてるの初めて見るねっ、ねえねえどんなの描くの?」
「きみの影響で、オンラインラジオ形式などでレースを聞くようになってね」
「! へ~」
「四苦八苦してアーカイブから近年のウマ娘のレースを拝聴させてもらってるんだ」
「へ~~~」
「それで収録環境が良いからか、足音を聞き分けてようやく個人が分かるようになって」
「へ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
「ど、どうしたのお嬢さん……」
「いや! 気にしないで! 話し続けて! 続く言葉、ボク分かっちゃってるけどね!」
「えええ……?」
何故か突然テンションが爆上がりした少女に、少年は困惑する。
少女は、上がりそうになる口角を抑え、ちょっとウキウキして、口元で指を絡めて、続く彼の言葉を待つ。
彼がどういうものを描く画家であるのか、この後に彼が何を言うのか、それをかなりの精度で把握できる程度には、彼女は彼を理解していた。
「一番きれいな足音の子がいたんだ。それで、その子を描きたいと思ったのさ」
「うんうん」
「発声や会話などは録音されてなかったけど、実況が名前を呼んでいたからだれかはわかる」
「うんうんうん!」
「海に立つ絵にしようと思っているんだよ。
現実には無い光景。
でも、夢の中ならそういうこともある。
だれかが見た、海に立つ夢を描こうと思ったんだ。
夢を
だから"この世界の普通"から一番離れてる、一番きれいな足音の子がいいなあって」
「うん! そうだよね! いやー、センセーは分かってるなー!」
とうとうこの"なあなあで互いの名前を知らないままの関係"が終わる時が来たかと、少女は感慨深そうに頷く。
最初は、互いに踏み込まれたくない部分があると察していたからだった。
だから互いに名前を聞かず、互いを個人特定できないようにしていた。
それが互いの見えない傷に触れないための最善だったから。
だが、もうそれも昔の話。
互いへの理解が進み、互いの内側へと踏み込みつつある今、もうちょっと踏み込んだ身の上話をしてもいいかな、という空気が流れる関係が生まれていた。
"触れたくないところにこの人は触れないでいてくれる"ではない。
"触れられたくないことに触れられてもこの人なら許せる"と思えるだけの信頼関係が、すくすくと育っている。
『自分の名』と共に語られる栄光、凋落、夢の終わり、そして新たな目標に向かうまでの物語を彼に聞いて理解してほしいという期待で、少女はちょっとうずうずしていた。
同時に、彼が絵の中に描く自分があまりにも立派なウマ娘だったから、四度の骨折を経た自分が失望されるのではないかという恐怖で、折れた左足が僅かに震える。
彼の心の中には、幻想の少女が住んでいる。
現実の少女を元に作られた、幻想の無敵の帝王だ。
彼の絵の中にいる自分がいつも太陽のように素晴らしいものとして描かれているから、少女は少しだけ腰が引けてしまう。
"高く評価されてから失望される痛み"を、彼女は誰よりも正確に知っている。
それでも。
"彼ならボクに失望しない"と、信じられるから。
"彼の中で一番はボクだ"と思えば、それだけで嬉しいから。
目が見えなくても、この少女が走るところを一度も見たことがなくても、この少女が一番だと言った、彼のこれまでがあるから。
彼が"一番綺麗な足音のウマ娘"として、自分を見つけてくれたなら、自分の名を知ってくれたなら、それをきっかけに、この不思議な想いを、不思議な関係を、変えてもいいと……そう、少女は思えたのだ。
『さあボクの名を言うがいい! いつだってセンセーの一番のウマ娘なボクの名前を!』と内心で叫び、ニコニコしてふんぞり返っていた少女は。
「だから想像の姿だけど、海と一緒に書いてみようと思ったんだ。メジロマックイーンさん」
少年の言葉を聞いて思い切りぶっ倒れて堤防から転げ落ちた。
少女の衝突で砂が派手に舞い上がる。
柔らかい砂をクッションにして落下した少女は、1秒で堤防の垂直壁を駆け上がり、決死の表情で少年の襟を掴んでぶんぶん前後に揺らす。
「なんで!?」
「えっ……なんでって言われても……」
「そこはこう……あるでしょ! 正解が! 正解がさぁ!」
「正解……?」
「ぬあっー! センセー嫌い!」
「おや、ショックだな。わたしはおかえしにでもきみを嫌えそうにない」
「……嘘だよ! もー! 嫌いじゃないよ! くーっ!」
そして少女は、ここまで思考していたことをリセットした。
"今なんか気の迷いで変なこと考えてた!"と、脳内の変な思考を押し流している。
自分でもよくわからない感情でほんのり赤くなっていた頬が、気恥ずかしさと怒りで別の赤色に染まっていく。
海の青。少女の赤。少年は少女の善良さと愉快さに笑っている。
少年が筆を持っているのを見て、少女は砂をはたき落としながら絵を覗き込む。
そして、ハッとした。
ハッとして、少女の顔がまた別の感情で赤く染まった。
「……結局ボク描くんじゃん!」
「ははは」
「はははじゃないでしょ!」
「聞いた中でメジロマックイーンさんの足音が一番きれいだったのは嘘じゃないよ」
「あーもうセンセーはさぁ!」
盲目の身で、沢山の足音を聞いた。
どんなウマ娘の踏むリズムを聞いても、足が奏でる旋律を聞いても、彼は変わらなかった。
一番大好きな生命の音は、一番最初に出会った彼女の足が奏でるそれのままだった。
一番好きな足音が君なんだよ、と彼は心で思って、口にはしない。
口で言う必要性を感じない。
『好き』という言葉では、想いを伝えるにはあまりにも不足していて、あまりにも多くの不純物が混ざりすぎている。
「ボクがミリキテキすぎてセンセーを惑わせてるのがいけないのかな?」
「魅力的ね」
想いは純粋だ。
想いは言葉にすることも大事だが、言葉にしないことも大事だ。
形を変えれば、そのままの形では伝わらない。
想いを言葉に変えた時点で、ほんの少しの変性が入ってしまう。
想いを全て正確に伝えるツールとしては、言葉はあまりにも不自由すぎる。
彼女を海の絵に書き込んで、そこに想いを込めればいい。
それで伝わる。
言葉よりもずっと如実に、正確に伝わる。
彼の想いを、嘘の無い想いを、彼女は受け取ることができる。
だから、彼に隠し事があると薄々気付きながらも、信じられた。
彼は正直者のふりが得意な正直者だと、少女は思う。
だって描きかけの絵を一枚見るだけで、こんなにも簡単に、彼が自分をどう想っているか分かってしまうのだから。