家出娘のなつき度が上がった。通い妻に進化した。 作:夜桜さくら
海の泡ぶくに憧れていた。
この体を泡に変えて、空へと昇って、空気の娘になりたい。そう思わずにはいられなかった。
……だけど、海に濡れた服は重くて、浮かぶどころか沈んでしまいそう。
ただ、それも、悪くない。
波の音。月の明かり。海のゆりかご。
ほどよくぬるい、水の温度。
どこか落ち着く、夜の闇。
どうしようもなく嫌なのは、どうしたって、このままじゃいられないということ。
このまま、消えてしまえたらいいのに、と。
そう願わずには、いられないこと。
〈 7月25日 〉
夜は、昏い。
そんな当たり前は、文明の光によって覆されて久しい。
赤黄青の信号ランプ、街灯、24時間営業のコンビニエンスストア、あるいは単純に電気をつけている一般家庭など。それらが、光となって暗闇を照らしている。
夏の季節。
夏だからこそ、夜という時間は特別になる。
月がいくぶんか西に傾いた時間帯。多くの人が、眠りについている時間帯。夜が、深みを増している時間帯。
この時間帯でも、街中を歩いて“昏い”という印象はあまり抱かない。
だから彼は、海へ行く。
この地域で一番夜が濃いのは海である──……彼はそう思っているからだった。
墨汁で染めたのか、と言わんばかりの“黒い海”。
まるで生き物であるかのようにうごめく暗闇の主。
それを見るために、彼は海へ行く。
まるでハイキングへ行くように足取りは軽かった。街路を抜けて、海沿いの大通りへ。
それだけで、もう、海が見える。
遠目に見ても、今日の海は、どこか幻想的なオーラをまとっていた。
街角から海をぼんやり眺めながら、彼は『何故だろう』と考える。少しの間静止して考えたが、答えは出なかった。
まぁいいか、と、より海に近い場所へと向かう。
夜。夜。夜。
人のいない、夜だった。
ときおりエンジン音をともなって車が走り抜けていくくらいで、雑音もほとんどない。
人のいない、静かな、深い夜。
けれど耳を澄ませば波の音が聞こえる。無音ではない、静寂。
アスファルトから砂浜へ。
彼の耳に届く波の音は、わずかながら大きくなっていて。あと数十メートルも歩みを進めれば、波に手を触れることができる。
手先を海に差し入れるくらいの距離感が彼は好きだった。
だから彼は、いつも通りの散歩コースを守るために、波打ち際へと歩を進めようとして──……足を止めた。何故足を止めたのか、本人も把握しきれていなかったが、それはきっと驚いたからなのだろう。
目に映った光景に、驚いていたのだ。
海の中に、ひとりの女の子がいた。
月明かりと海水を、ドレスのように着こなした少女。
ぐっしょりと濡れた白服、同じく濡れそぼった黒髪。
遠目にそれらを見て、彼は、今日が満月であることに気付いた。大きなまあるい月が、空に浮かんでいる。
ムーンライトロード。
海に映る月明かりが、まるで、少女を月へと導く道のように映り込んでいた。
「なんか買ってくればよかったな……」
美しい風景は、それだけで素晴らしいが、夏の夜は暑い。
アイスなり飲み物なり、何かがあると、なおよかった。
そんなことを頭の片隅で思いつつ、きれいだな、と。遠いな、と。ずっと見ていたいな、と。
彼はそんな風に思いつつ、海のほうを眺めていて。
だけれど、数分経っても、少女は海から上がってはこない。
どうしようかな、と彼は少しの間逡巡して、コンビニエンスストアに向かうことにした。
夏の暑さに少しばかりげんなりしつつ、疲れすぎない程度に、早足で。買うものも頭の中で決めてしまう。コンビニエンスストアについて、アイスココアを一つとアイスバーを一つ手早く購入。これまた少し早足で、最後は少し駆け出して、また海へと戻ってきた。
「ん……」
彼が海から離れて戻ってくるまで、徒歩でおおよそ20分といったところだろうか。
その間に、幻想を纏う少女は姿を消していた。
彼はがっかりと気落ちしながら座り込み、ココアを一口。この場を離れなければよかった、と思いながら、あおるように飲んだ。
ぷは、と息を吐きながら、次にアイスに取り掛かる。しゃくしゃくとかじりながら、砂浜に尻をつけ、海を眺めていた。
すると、すぐに気づく。
別に少女はいなくなっていたわけではないことに。
どうやら、海の中に姿を隠していたようだ。息継ぎをするように、海面にあがってきている。まるで人魚みたいだな、と彼は思った。息継ぎをしている時点で、魚というには少しおかしいのだが、そういう風に見えた。
それから、30分ほど時間が過ぎた。
ココアもアイスももう胃の中におさめてしまった。いまはただ、少しふわついた感覚のまま、ずっと海を眺めているだけだった。
月が綺麗だった。
月明かりが映る海が綺麗だった。
月明かりと海を纏う少女が綺麗だった。
好きな、光景だった。
暗がりの中で、暗がりの中だから映える光を見ていた。
気付けば、さらに1時間が経っていた。
深き夜がさらに深まって、ねむけも相まって、いい加減帰ろうかな、とあくびを一つ。
彼が重い腰を持ち上げようと気力を振り絞っていると、人魚が陸へと向かってきていた。
彼は、じっと、その挙動を見つめていた。
そしてわかったことは、人魚は人魚でなく、人間の女の子だということだった。
彼にとっては目を瞬く話で、そして、少女にとっては当たり前の話。
──髪も服も足も、何もかも重たくて、このまま沈んでしまいそう。
こんなのじゃどこにも行けはしない、と少女は体を引きずるように、二本の足で砂浜を歩いていた。
ふと、目があった。
彼から見える距離なのだから、少女からも見えるのは至極当然と言える。少女は、離れた位置から自分を見つめる視線に気付いた。
より正確に言えば、視線に気付いたというよりは、人影に気付いたというほうが正しい。
人気のない暗がりの場所で人影を見て、年頃の少女が何を思うか。この少女は、素直に「怖い」と感じたようだった。
少し露骨に、避けるように、遠回りをして、少女は海辺から遠ざかって行く。
その背中を見送りながら、彼は少し肩を落とす。気のせいかもしれないが、自分を避けるような所作を感じた。確かに客観的に見て、自分は不審者そのものだったな、と彼は思う。
「……綺麗だったな」
ぽつりとつぶやいて、波打ち際へ。
押し寄せる波を手で感じる。夏の暑さには心地いいぬるさ。
「……ぬるいなあ」
夜だからとて、特別海の水は冷たいわけではない。冷たいというほど水温は低くなく、熱いというほどでも当然なく、ぬるいという印象。
心地いい、温度だった。
そうして少しの間波と戯れて、彼はもともとの散歩の目的を達成した。
こうして、波打ち際まで来ることがもともとの予定だったのだ。
「もう少し時間をつぶしたほうがいいかな……。そろそろ大丈夫かな」
少女の後を追うような形でこの場を後にするのが嫌だった。ストーカーじみているようにも思えるし、それで不信感や不安を相手に与えることを思うと、できなかった。
けれどもう姿は見えないし、いいだろう、と彼は海辺を後にする。
彼は、濡れた手をハンカチで拭きながら「あの子、全身ずぶ濡れで大丈夫なのかな……」と、考えていた。
当然、大丈夫なわけがない。
彼がそれを知ったのは、彼が少し歩いた先の道端で、少女が座り込んだのを見つけたからだった。
普通に考えて、シャワーを浴びるなりすぐ着替えるなり迎えの車なりなんなり何がしかの考えがあるものだと思っていた。
けれどどうやらそうでもないらしかった。
「…………」
三角座りをして、顔を膝にうずめている。少女が居座るアスファルトは、滴る水で湿っていた。
一見すると、ただのホラーである。
彼も先ほどから一連の流れを見ていなければ、「呪い?!」と身構えていただろう。いや、一連の流れを見ていても、かなり呪いの世界に足を突っ込んだかのような感覚に陥っていた。
つまり、彼はいまだいぶ恐怖を感じていた。
「……あの」
「……」
隠れていた顔が見えた。年頃の、若い女の子のように見えた。
そして顔を見た瞬間に、彼の中からホラージャンルという可能性が消えた。
少女の顔に映っていたのは、恐怖、怯え、辛苦などに類する、マイナスの感情。
「もしかして、家に帰れない、とか?」
少しの逡巡。
そしてその後、小さな首肯。
「…………お金貸そうか。ホテルとか。深夜でも受け付けはしてるだろうし」
「……ええと、はい。お心遣いはありがたいんですが……遠慮しておきます。普通に、私なら大丈夫なので、放っておいていただければ」
会話が成立した! と彼は内心驚いていた。
「いやでも」
「──それに、こんな風体で行ったら……警察とか呼ばれそうで嫌なんですよね。いかにも訳ありって感じじゃないですか。それは、ちょっと」
「あぁ……そういうものなのかな……? まぁ確かに可能性は否定できないか……」
「……」
「…………じゃあ、うち来る?」
無言で見つめ合った後、こくり、と少女はうなずいた。
シャワーの水音。
うら若き少女が、一人暮らしの男の部屋へとやってきて、シャワーを浴びている。
彼に畜生じみたことをする気はさらさらないが、しかしどうにも落ち着かない。
もうしばらくすれば、深夜というより、早朝に近い時刻となる。
「ねむい……」
眠気はピークに達していたが、しかし状況ゆえに、ねむるにねむれない。
しかし逆に男が寝ていたほうが、少女にとってはリラックスできていいのかも……と考えたり、彼は彼で、そわそわとしていた。
彼の部屋は、一人暮らしには少しだけ広い、1LDKの部屋だった。
奥の寝室にはベッドとクローゼット。もう一つの部屋にはローテーブル、ソファ、テレビ、ノートパソコン、クッション、本棚。
ソファに座り、どうしようかと頭を抱えていると、ドライヤーの音が聞こえ始めた。
少女の長い髪を乾かすには時間が必要だろうと思われるので、面と向き合うのはもう少し先にはなる。
しばらくして、ドライヤーの音が止んだ。
ひょこり、とやや身を隠すような位置取りで、少女が姿をあらわす。
彼のスウェットをぶかぶかに着ていて、頬は上気したように赤く色づき、髪がしっとりと湿っている。
「あの、すいません。……お風呂、お借りしました。あとそれから着替えも。……ありがとうございます」
「うん。まぁ、服はいま洗濯してる。乾燥もそのあとにするから、まぁ、少しの間我慢してください」
きちんとした検証をしたことはないが、彼の部屋はそれなりに防音性能が高い。
環境音を気にするのが嫌だったとか、周りへの配慮を事細かにするのが面倒だったからとか、会社から補助金が出たとか、色々な理由はあってそれなりの部屋に住んでいるのだが、深夜中の深夜でも周りへの配慮をしなくてもよかった。
だから洗濯機もまわせるし、シャワーも使える。
だからきっと大丈夫だろう、と彼は苦笑しながら、少女に話しかける。
「ところで……ココア、珈琲、水、牛乳、オレンジジュース、野菜ジュース、緑茶。どれがいい?」
「えっ」
「五、四、三、二、一……」
「み、水でっ」
「じゃあ水で。適当に座ってて」
萎縮している少女を置いて、キッチンへ。
ミネラルウォーターを冷蔵庫から出すつもりで──、小さな手鍋にココアパウダーをいれていた。
頭で考えていることと、手の動きが異なってしまう。それが疲労によって引き起こされていた。
あ、間違えた……と思いつつ、それはそのままに、グラスを出して、ミネラルウォーターを注ぐ。
「はい、お水」
「ありがとうございます……」
テーブルに水を置き、彼はまたキッチンへと戻る。
少し遠めに、少女が彼の様子をうかがっている。
彼は落ち着いた声で、話す。
「間違えてココア出しちゃってさ。作ろうと思って」
薫り高いココア粉末を、鍋にいれて、ほんの少しミルクをいれて、ペースト状に。
さらにミルクを足して、希釈。少し火をかけて、加熱。溶けやすいようにして、また混ぜる。
ココアの芳醇な香りが、空間を満たしていた。
チョコレートと似通う、“芳醇”と呼ぶことがもっとも適した、ココアの香り。
普通は砂糖をいれるが、彼は無糖のミルクココアが好きだった。
「…………」
気付けば、少女の視線がこちらに向いている気がした。
少女のほうを振り向くと、びくっ、とあわてて視線をそらす。
かわいいところあるなぁ、と彼は微笑んで、無糖のミルクココアに砂糖を足して、かき混ぜる。最後に氷を足してアイスココアの出来上がり。
そして、新しいグラスを取り出して、先ほどとまったく同じ手順でアイスミルクココアを作った。けれど最後に砂糖は加えず、無糖で仕上げる。
少女のぶんにはストローもさして、二人ぶんが完成した。
「はいこれココア。ちょっと量が増えすぎちゃって、飲んでくれるとありがたい」
「……はい、いいえ。あの……ありがとうございます」
ちぅ、と少女はおそるおそるストローを含む。
ココアの力に彼は少し期待したが、少女の表情は変わらない。
「…………」
「…………あぁそうだ。歯ブラシいるよね。確かちょうどストック切らしてたんだよな。あとでコンビニで買ってくる。」
「え、あ。……ええと、はい。お気遣いなく。別に、大丈夫ですから」
「いや歯は磨かなきゃだめだよ」
「……はい、いいえ。そうですよね。口が汚い女とは嫌ですよね。……お願いします」
「? うん」
はぁ、と鉄を吐き出すように、少女は重たいため息をする。
「じゃ、行ってくる。他なんかほしいものある?」
「あ──」
少女は、目を泳がせ、たっぷり10秒ほど口をもにょもにょとさせた後、言った。
「あの……ゴムってありますか?」
「? ゴム?」
「いえ、まあ、別にないならないで……。どっちでも」
「……あー。あーはいはい。いや何考えてるか知らないけどそういうのではないよ」
「……? …………もしかしてただで泊めてくれるつもりだったんですか?」
「当たり前でしょう。ぼく、大人。君、子ども」
彼は自分を指差し、少女を指差し、身振りで『そういうのは違う』と表現する。
「でもおじさん、いつからか知りませんけど、私のこと見てましたよね? 砂浜にいたの、そーゆーの待ってるひとだったのかなって」
「おじっ……?!」
ぐあー、と彼は膝から崩れ落ちる。
「……明らかに自分より若い子に『おじさん』って呼ばれるとちょっとクルものがあるね……。まぁ、まぁまぁ……まぁ、ぼくももう26だしな……」
「26……意外と上なんですね。結構若く見えるので、20代前半くらいかなと思っていました」
「ありがとう」
「ちなみに私は16です。ちょうど10個差ですね」
「おお……10年……。10年の差は大きいね……」
「……」
少女は、ずっと能面のような固い表情をしていた。
暗く重い深海に、心を沈めているかのような、そんな表情。
彼はどうしたもんか、とかぶりを振って悩む。
「……まぁいいや。とりあえず好きにしてて。部屋にあるものはどうしてもらってもかまわないから」
「……はい、いいえ。ありがとうございます」
それだけ言って、彼は部屋を出ていく。
そうして、少女はひとり残される。少女は、彼の背中を、不思議そうに見送った。
「あのおじさん、知らないひとを家に置いて行って、怖くないんでしょうか……」
そして、数刻後。
彼が買い物に行って帰ってきたころには、時刻は午前4時になっていた。
「……まぁ、もう朝だもんね……」
彼の部屋にあるソファ。
それに身をあずけるように、少女はねむっていた。すやすや、と穏やかに。小さく丸まって、ねむっていた。
「……とりあえず、洗濯乾燥終わらせとこうかな」
少女に薄手の毛布をかけ、彼はなるべく静かに、少女のためのことをした。
衣類の洗濯、乾燥。それから、ずぶ濡れの靴をなんとか乾かそうと奮闘していた。
それは彼なりの倫理観に基づいた、エゴと呼ばれても仕方のないことでもあるのだが──……
〈 7月26日 〉
朝、8時。
少女が、ぼやけた意識で感じたのは、知らないひとのニオイだな、ということだった。
男の人の、ニオイ。
少女が顔をうずめているソファを代表とした、部屋に染み付いた、彼のニオイ。
「──っ」
跳ね起きて、自分の体をぺたぺたと確認する。……少女が思うに、特に異常はないように思われた。
服にも、体にも、違和感はない。なにも、されていない。
「……おじさん、寝てる」
次に気付いたのは、家主のこと。
何故かベッドに横にならず、隅のほうで壁に寄り掛かるようにしてねむりについている。
最後に、わかりやすいところにおかれた少女の服が、綺麗に畳まれて置いてあることに、気づいた。
「…………」
少女は、ぼぅ……っとしていた。
どうしよう、と思っていた。
けれど、思考が停まっていても、体というものは正直なもの。のどは乾いているし、トイレには行きたい。それがさらに、思考のノイズ。
気持ち悪いな、と少女は自己嫌悪に陥っていた。
ひとまず、彼にごめんなさいをして、少女は色々と間借りすることとした。
トイレを借りて、顔を洗わせてもらって、歯を磨いて。昨日飲みきれなかった水と、ココアを飲む。
ぬるくなったココアは、甘かった。
のどが渇いていることも相まってか、そのココアは、
「……おいしい」
少女がこれまで口にした中で、一番おいしいココアだと、感じた。
……その実、ココアというものは、丁寧にとかさなければならない。
いきなり大量のミルクや水で溶かそうと思っても、ココアの粉はダマになる。
少しずつミルクをいれて、ほぐすように。
手を抜かず、丁寧に。
そうしてはじめて、ムラなく、滑らかな口当たりのココアになる。
「……洗い物くらいは、したほうが、いいのかな」
少女が飲むココアがおいしい理由の一つは、ココアが丁寧に作られたから。
少女が警戒をといてねむってしまった理由の一つは、邪気を感じなかったから。
少女がいま感謝の念を抱いている理由のすべては、ただ彼が優しかったから。
だけど少女が自己嫌悪に陥る理由の一つは、ココアが甘かったから。
少女は自分が許せないと思う理由の一つは、眠ってしまったから。
少女が死にたいと思う理由のすべては、死ねなかったから。
「死ねなかったな……」
少女は自嘲するようにつぶやいて、家主が起きてしまう前に帰ろうとして。
けれど尾を引かれるような思いがあって動けなくて。
しばらくして、少女は机の上にメモ用紙とペンがあることに気付く。
少女はペンをとって、
『色々とありがとうございました。ココア、おいしかったです』
一言だけメモに書き残した。
それからグラス、マグカップを洗って。目につく部屋をほんの少しだけ整理して。
少女は、ひっそりと、彼の部屋を後にした。