家出娘のなつき度が上がった。通い妻に進化した。 作:夜桜さくら
〈 8月5日 〉
このまま消えてしまえたらいいのに、なんて。
その気持ちを、月に行きたい──、なんて風に言い換えてくれたのを、よく覚えている。
そんなことを思って、彼女は微笑む。
特別な時間、というものが、人によってはある。
それは、人によって違うもの。大切なものは、ひとによって異なるもの。
それは趣味嗜好であったり、思い出によって形作られたりするもので。
夜、夜、夜。
すべてを包む安寧の闇も、やさしく闇を照らす月も、闇を溶かした真っ黒な夜海も。
それは彼女に思い出をくれたから。
彼女のための
だから彼女は、夜が好きになった。
夜の中にいることが、好きになった。
そして、もう一つの、特別。
それは、海。
艶やかな黒髪を夜に溶かした、夜の魚。
彼女は、ゆったりと歩きながら、海へ行く。
「……早く明日にならないかな」
時刻は23時を過ぎたころ。
日付が変わろうと変わるまいと、普段は気にしないのだが、今日だけは、これまた特別だった。
8月5日は、真魚の18歳の誕生日。
だけどそれは特別の理由ではなくて、いやそれも理由の一つではあるのだが、本質的には、違う。
「明日になれば、会える」
そう、それが理由だった。
彼女の恋人は、遠方で暮らしている。
だから、そう気安く会うことなんてできなくて。
明日は、8月6日は、久しぶりに逢える日だった。
デート。日時や場所を定めて、逢引きをすること。
彼らが初めて出会ってから、早一年。
一年経つが、まだ恋人らしい関係になって間もなく、距離も離れていたから、デートらしいデートをした経験というのもあんまりない。
そういう意味で、特別だった。
もちろん誕生日の翌日であるから、そういう意味でも特別で。
まぁなんにせよ、浮き足立つ──という形容がよく似合う、足取りだった。
るんるん、と。
そんな気持ちで、海へ。
「──……」
静かな、深い夜だった。
けれど耳を澄ませば波の音が聞こえる。無音ではない、静寂。
アスファルトから砂浜へ。
彼女の耳に届く波の音は、わずかながら大きくなっていて。あと数十メートルも歩みを進めれば、波に手を触れることができる。
真っ黒な、海。
月明かりを帯びた、夜の海。
それを視界いっぱいに広げて、砂浜の上で、彼女は息を呑んでいた。
驚愕と、確信と、高揚と。
それから、喜色と。
彼女は、頬をほころばせて、波打ち際へと足を運ぶ。
そこには、予想外の、それでいて嬉しいものがあった。
「……相変わらず、深夜徘徊がお好きなんですね」
浅瀬に足を浸した、見知った男性に、声をかける。
振り向いた彼は、一瞬驚いた顔をして、頬をゆるめる。
そこにいたのは、彼女の意中のひと。
たった今頭の中で考え続けていた、千夜だった。
「……相変わらず、第一声がひどいな。久しぶりだね、真魚さん」
「……はい、いいえ。ちょうど一か月ぶりくらいですかね。お久しぶりです、千夜さん」
穏やかな声と、表情と。
夜風と海の香りと、空の月と。
じっとりした夏の熱と、夜の
そういうものに包まれて、特別な情感を、自然と抱く。
「もうこっち来てたんですね」
「あぁそりゃね。今晩着いてないとスケジュールがタイトすぎてさ。朝はやっぱり、ある程度のんびりしたいし」
「典型的な夜型ですもんね」
「こんな夜にほっつき歩いてる真魚さんに言われたくないな……。夜は危ないよ? 何かあったらどうするの」
「それはまぁ……。でも、海が見たくて」
「なるほど」
海。
浅瀬で、彼は素足で、海面をちゃぷちゃぷと混ぜるように、撫でるように触れる。
彼は彼で、海が見たくて、海に触れたくてここに来ていたから、「海が見たくて」と、その言葉を否定することはできなかった。
「帰りはおくってくよ」
「ありがとうございます。……でももうちょっとだけ、ここで立ち話しててもいいですか?」
「いつまでも付き合う──と言いたいところだけど、まぁ、明日しんどくならない程度にね」
「それはもちろん」
真魚は少しだけ考えたあと、片足をあげて、靴を脱いで、靴下を脱いで、素足になった。
そしてもう片足も同じように脱いで、裸足になる。
これもある種の脱衣シーン。
なんだか見てはいけないようなものを見た気がして、少し彼は年甲斐もなく、目をそらした。
「……あ、気持ちいい」
裸足になった彼女は、彼がそうしていたように、浅瀬に足を踏み入れる。
波が引いては押し寄せてくる場所。
足首だけが、浸かる場所。
今日の彼女は、白いワンピースを着ていたから、靴とソックスさえ脱いでしまえば、特に支障はない。
「海入るの、すごい久しぶり。やっぱり気持ちいいですね」
「夏だしね。夜はまだ気温が落ち着くけど、やっぱり暑いものは暑いし……海は気持ちいい。冷たいわけじゃないけど、暑くない」
「ね。ぬるくて気持ちいいんですよ」
手が触れあいそうなところまで、彼女は距離を縮める。
肩を並べて、彼がそうしていたように、陸に背を向け、海と月と地平線のほうへと、体を向ける。
夏の夜の、海の音がする。波の音。無音とは違う、夜の静寂。
「そういえば昔──、……。昔、『月に行きたいのかと思ってた』とか言ってましたよね、千夜さん」
「ん? あー……? あーはいはい。急に言うからびっくりした。言った言った」
「ごめんなさい。つい。懐かしくて」
「いやそれはいいんだけど。……でもあれ? ほんとにほぼ一年前? たぶんそんくらいだよね」
「ん-。ですかね。そうだと思います」
「うっわ……時間が経つのは早いな……」
「ね」
空には半分の月が在って、それが落ちて消えようとしているところだった。
月の明かりが海を照らして、道ができていて。
このまま進めば、どこか遠くに行ってしまえそう。
だけど彼女は、かつてそうしていたように、深みに足を進めることはなくて。
それはきっと、それよりも深い夜が、隣に存在しているからだった。
「月、きれいですよね」
「そうだね。いい感じ」
「私実は、あの言葉、結構嬉しかったんですよ」
「なにが? 月に行きたいってやつ?」
「はい」
「なんで?」
「それは秘密です」
「ふうん……?」
「女は秘密を着飾って美しくなる……らしいですよ?」
「なるほど。通りで」
「……いやあの、つっこみとか……」
「君はきれいだよ」
「……」
「そういうとこだよ」
「……!」
ばんばん、と真魚は千夜の肩を叩く。
そんな彼女に、彼はふき出してしまって、彼女はそっぽを向いてしまう。
「ごめんごめん」
「……最近千夜さんそういうところありますよね」
「えー」
「女たらし……」
「じゃあ言わないほうがいい?」
「それは毎秒お願いします」
「はいはい」
最近──、という話をするならば、彼女も大概だと彼は思った。
少しずつ、砕けてきている。
だからこれは、どちらがどうという話ではなく、お互いに、少しずつ変わってきているのだろう。
あくまで他人だった距離が、そうではない距離に。
「……ところで、最近どう?」
「どうしたんですか? 急に話題に困った親戚のおじさんみたいなことを言い出しましたね」
「……」
「千夜さんはまだ若いと思います。ごめんなさい気にしないでください」
「いや、別に」
「……ま、まぁ、『どう?』と聞かれても特に……普通にいつもLINEしてるのと同じ感じです。心身ともに、健康、です!」
「ならよかった」
なんだかんだと、彼女の家庭は複雑だからずっと心配していたのだが。
本人いわく、「大丈夫。普通に生活できないくらいまでまた悪化したら、そのときは時間かけても、千夜さんのとこ逃げ込みます」とのことで。
逃げる、逃げ込む。他人を頼る。
そういう判断ができる女性だから、ひとまずは信頼をすることにしている。
それに、
「進学ってこっち来るってことでいいんだよね?」
「えぇまぁ。……それがどうかしたんですか?」
どうせ間もなく、居住地も近くなる。
「別に大したことじゃないんだけど。暇なときに物件見とこうかなってさ。大学近くて良さそうなとこ」
「気が早くないですか?」
「……いやでも……もう8月だし……? 半年くらいなら一瞬じゃない……?」
「一理ありますね」
「だよね」
「大学に近いより千夜さんの家に近いほうが嬉しいので、そんな感じで見といてくれると嬉しいです」
「……なるほど?」
「まぁ大学から遠すぎても嫌なんですけど……でも私の志望大学と千夜さんの家、そこまで遠くないんですよね。大学はバスとか電車で通える距離でいいんですけど、まぁ千夜さんの家には徒歩で通えるといいなーって」
「……」
「……え、なんですかその顔」
「照れ臭いなという顔」
「そうですか」
夜は深く、世界は暗く。
彼らを照らすのは、遠方の街灯と、淡い月の明かりだけ。
近くにいても、相手の表情の変化を正しく捉えることも、難しい。
だけどちゃんと伝わるものがある。だから嬉しい。笑みがこぼれる。
「どうせなら同棲とかも興味あるんですけどね」
「まぁ……」
「お母さんは結構推奨派なんですよね、同棲」
「ぼくの預かり知らぬところで話が進んでいる。……いやまぁ確かに一回挨拶しに行ったときも、大概フリーダムだったけど……」
「そうなんですよねぇ……。曰く、『そういうのを知るのは早ければ早いほどいい』って」
「一理ある。……けどなんか、言い方が怖いですね……」
「そうなんですよね……。なんか、上手くいかないことのほうが多いからうんぬんって最近死ぬほど言われます。最近その関連で、うちの家事がすべて私にまわってくるんですよね……」
「真魚さんって受験生じゃなかったっけ」
「わがまま言うなら全部両立しろと、我が母は仰せです……」
「そんなことなってたんだ……」
「なってるんです……いやまぁ愚痴が言いたいわけじゃないんですけど、つまりは結構家事スキルが高くなりつつあるということなんですよね」
「素晴らしい」
「えへん」
LINEや通話、あるいは直接会ったり。
そういうことは定期的にしていたが、そういう努力をしていたのは知らなかった。
あえて口を噤んでいたのか、特に口にする理由がなかったから言わなかったのか。
細かいことはわからなかったが、頑張っていることだけは間違いがなくて。
千夜は、ごくごく普通に、真魚へ尊敬の念を抱いた。
「えらいね。すごい」
「えへ~」
よしよし、と頭に触れる。
夜に溶ける艶やかな黒髪は、するりと抵抗なく、指が通る。
「頭撫でられるのとか、子どもっぽくてあんまり好きじゃなかったんですけど。やっぱ嬉しいもんですね」
「それならよかった」
相手に触れる距離、パーソナルスペースを限りなく埋める行為というのは、当然だが親しくないとできなくて。
3月の末、それから4ヶ月ほどのインターバルをおいて、彼らはそれらを許容し合うことができるようになっていた。
「…………」
「…………」
お互いを正確に捉えることができない夜の中では、特に距離感というのは縮むものだ。
闇は境界を曖昧にするという、ただそれだけの自然なこと。
だから彼らも、より一層、距離を歪めて、溶かして、……自然と手を絡めていた。
彼からすると、彼女の手はひんやりとしていて。
彼女からすると、彼の手は暖かかった。
「手を繋ぐのってかなりテンション上がるんですけど、やっぱりそのうち飽きるんですかね」
「人によるんじゃない? 歩きづらいとかはあるかもだけど、ぼくは割と好きなほうだし、ずっとこのままでもいいかな」
「じゃあ一生このままで」
「手のひらが洗えなくなってしまうな」
「困りましたね」
「ね」
彼女は繋いだ手に目を落として、これまた夜に馴染む黒い石を目にした。
オニキス。
割と安価に買える、パワーストーンの一種。黒一色で、“夜”が名前にある彼に似合うと思って購入したのをよく覚えている。
今日会ったのは偶然のようなものだったから。
普段からつけてくれていることが窺えて、真魚は嬉しく思った。
「普段からつけてるんですか?」
「ん?」
「ブレスレット」
「基本的にはね。それこそ……海で泳ぐとか? お風呂とか。そういうときには外すと思うけど」
「私、千夜さんのそういうとこ好きですよ」
「……ありがとう?」
ふふ、と真魚は笑みをこぼして、彼の腕にぎゅっと抱きつくように、腕を絡める。
より密着度が高くなって、より熱が混じる。
「千夜さん」
「なに?」
「暑いですね。暑いですか?」
「暑いです」
「帰りコンビニ寄りません?」
「買い食いですか……。言われたらすごいアイス食べたくなってきちゃったな」
「ではそういうことで」
「……でさ、今ふと思ったけど、家に連絡しなくて大丈夫? たぶんだけど散歩行くくらいの感じで出てきたんでしょ?」
「あー……。ですね。連絡しときます」
えーと、と真魚は彼と腕を組みながら、片手でスマホを取り出し、操作を始めた。
「……落とさないようにね。海に落ちたらスマホくんがお亡くなりになってしまう」
「そんなこと言われたら緊張するじゃないですか。落としたら千夜さんのせいにします」
「えぇ〜……」
「まぁ、防水性能は高いはずなので大丈夫だと思いますけど。たぶん落としてもヘーキですよ」
「へぇ〜」
「平気ではないので揺らすのやめてもらってもいいですか?」
「はい」
彼は肩を揺らすのをやめ、彼女はスマートフォンの操作を終えて、スマートフォンをポケットに仕舞う。
「とりあえず連絡はしといたので。まぁ、もしかしたら画面見えたかもですが」
「文面までは見てないよ」
「秒で既読ついてオッケー返ってきました」
「なるほど」
「なので永遠にここに留まってても特にお咎めなしです」
「ご飯……」
「この場で採取します」
「睡眠は……?」
「ウォーターベッドというものを知りませんか?」
「少なくともこの場にはない」
「もちろん結婚式も葬式もこの場所で執り行います」
「そういや、海辺の、ほんとに砂浜とかでする結婚式ってあるらしいね」
「ビーチウェディングですか? ちょっと楽しそうですよね。めんどくさそうですけど」
「へー。意外」
「そうですか?」
彼が海で出逢った彼女は、海が好きだった。
好きな色は青色で。好きな宝石はサファイアで。
今もこうして、海で立ち話をするくらいだから。
「ビーチウェディング? とかに憧れ抱いてそうな感じがしてもおかしくないなとは思った」
「おしゃれだとは思いますけど……別に……普通でいいかなって。なんなら結婚式とかしなくてもいいんじゃないですかね」
「んー……。嫌ってわけじゃないなら、式は挙げたい派です」
「……千夜さんって、結構そういうの大事にするタイプですよね。いや、色々してもらってる側の私が言うことじゃないんですけど」
真魚は、左手の薬指に嵌っている婚約指輪をジッと見つめる。
普段使いにできるようにと、少し落ち着いたデザインに仕上がっている、サファイアのついた婚約指輪。
彼女は、この指輪をもらったときのことをよく覚えている。
6月の中頃、休みの日に一緒に指輪を選びに行った日のこと。
こんなに高いもの受け取れない、とずっと渋っていたときのこと。
──遊びじゃなくて、軽い口約束じゃなくて、ちゃんと本気だってわかってほしいから。だから持っててほしい。
真魚が望むからではなく、千夜が真魚に持っていてほしいのだと。
そんな言葉と共に、左手の薬指に、
「やっぱり千夜さんって結構尽くしたいタイプですか?」
「なにがやっぱりなのかは知らないけど、普通になにかやって、相手が喜んでくれたら嬉しいよね」
「世界平和ですね」
真魚は、彼の腕をかき抱きながら、夜の熱で心を満たしていた。
どきどきするのに落ち着いていて。
浮ついているようで鎮まっていて。
そんな、矛盾しているようで成立している、複雑怪奇な人の心。
恋と愛が同居した、心の熱。
それは、うるむ瞳に、こぼれる吐息に、震える唇に、掴む指先にやどっていて。
触れたところから、相手に熱が伝播する。
そして彼は、そんな彼女の頬に手を添えて、唇を重ねる。
「……ん」
濡れたやわらかな感触。
汗のにおいと、海の香りがして。
夜の闇で二人の境界は、より一層曖昧になっていて。
「……私、あなたのことが好きです」
「何、急に。照れ臭いな……。ぼくも好きだよ。ちゃんと大事にする」
夏の海、月明かりに照らされて。
夜に包まれ、海に揺られて。
彼らは、これからのことに想いを馳せていた。
〈 8月9日 〉
「“夏は夜”──、清少納言の気持ちがよくわかる季節になってきたな」
「どっちかというと、夏は昼には動けなくて、夜にしか外に出れない感じだけどね。私、毎年エアコンを発明した人には毎年感謝の手紙を送りたくなるもん」
「間違いない」
「ね」
夏の夜は、比較的涼しい。
昼間は肌が焼けるほどに陽が照りつけ、過ごしやすい過ごしにくい以前に、熱中症の心配があるほどである。
だから相対的に、早朝や夜は涼しくて、外に出ても問題のない程度の気温になる。
しかし、比較的涼しいとはいえ、あくまで比較的な話。
暑いものは暑い。
だから、夜だからとて外を出歩くのは、暑さを気にしない人か、用がある人か、夏の夜を楽しむ物好きくらいで。
そして
「まさか盆休みにここ来ることになるとは」
「えー、いいじゃない。私、ここ好きだけどなー」
「いや来たことに不満があるとかじゃなくて。単純に感慨深いな、と」
「そこまで久しぶりってわけでも──……あ、もしかして夏に来るのがってこと?」
「そうそう」
「それは確かにそうかも……? あれ、ほんとに久しぶり? 私の記憶だと、4年ぶりくらいな気がするけど……千夜さんは?」
「真魚さんの記憶力にぼくの記憶力が敵うわけないんだよね」
「えー、そう?」
「そうだよ」
砂浜に続く石階段に腰掛け、千夜と真魚は、他愛のない話をしていた。
かたわらに置いてあるビニールには、空のペットボトルやアイスが入っていて、先ほどまでそれらを口にしていたことがわかる。
「どうせなら花火とか買えばよかったなー」
「あのコンビニ、そんなのあったっけ」
「あったよー。私の目は誤魔化せなかった」
「なら買いに行く?」
「んー。んー……そこまでしなくてもいいかなって気分です」
「なるほど」
「それより海入ろうよ。ね」
「やりたいことの反復横跳びが凄まじい」
「思い出の場所補正があるので……」
「気持ちはわかる」
じゃあ決まり、と真魚は立ち上がり、千夜へと手を伸ばす。
「いやかばんとか……」
「見える場所に置いとけば大丈夫だよ。行こ」
「なるほどね?」
彼は、彼女の手を取り、立ち上がった。
そして砂浜に足を沈めて、波打ち際へと向かう。
手早く靴を脱いで、靴下も脱いで、スカートの彼女はそのままに、彼はズボンの裾をきちんと捲って、海の中へ。
「うーん。こうしてると夏って感じがするね!」
「だいぶ特殊な夏の感じ方だなぁ」
「でもするでしょ?」
「まぁね」
彼らは、波打ち際で足元を遊ばせるのが好きだった。
引いては寄せる波の感触。乱れた砂が、波で戻る。単調な繰り返し。
やがて飽きてしまいそうで、それでもやっぱり飽きない繰り返しの形。
月はいつも空に浮かんでいる。欠けていたとしても、見えないだけでそこにある。
それでもやっぱり月は綺麗だ。それと同じこと。
「あーきもちい」
「真魚さん、ほんと海好きだよね」
「千夜さんも好きでしょ」
「好きだけどさ」
どちらかというと彼は、単純に海が好きというよりは、彼女と海と夜のセットが好き、というほうが近い。
夜の中で、月明かりと海水を纏う、世界で一番きれいな女性。
そんな彼女の左手の薬指には、二つの指輪が重ねてつけられていた。青玉のついた
彼はなんとなく愛しくなって、彼女の手を取る。
指を絡める。
笑みを深めるでもなく、怪訝な顔をするでもなく、なんでもない日常の動作の一つとして、それらは行われた。
「私、夏自体はそこまでだけど、夏の夜のことは、この世で一番愛してる気がする」
「まぁわかる」
「でもココアがおいしい冬も好き」
「わかりすぎる」
「春と秋は特に言うことなく好き」
「過ごしやすいもんね」
「ね」
春夏秋冬を、ずっと穏やかな気持ちのまま過ごすことができる。
そんなありふれていて、だけど、ありふれているからこそ、それを愛せることは尊いことで。
秋の月はひと際美しく、心が奪われるようで。
冬のココアはとてもおいしくて、身も心も温まることができて。
春のしゃぼん玉は、秘めた想いを、いつも煌めかせてくれて。
夏の夜海は、ぬるくて、心地よくて。
だから好き。だから生きてる。だから愛してる。
「すごい当たり前のことを言うけどさあ」
「……?」
「季節にまつわるものって、その季節にしか味わえないから、年一回って思うとすごい希少なんだよね」
「あー」
「仮に80歳くらいまで生きるとした場合、ぼくなんかだと、あと50回ないくらい」
「……あー。そう言われるとすごい少ないね」
「うむ……」
「じゃあ、せっかくだし花火する? 私、線香花火耐久したいな」
「耐久の二文字いる?」
「いる」
ふふ、と微笑み、するりと手をほどいて、彼女は我先にと海からあがる。
海と月に、背を向けて。
「行こ、千夜さん」
そして彼女は、また彼へと手を伸ばす。
手を繋いではほどいて、ほどいては、手を繋いで。
そんなことを、いつも繰り返している。
繰り返して、繰り返して。
かつて歪だった彼らは、ごくごく自然な、仲睦まじい夫婦になった。
──病めるときも健やかなるときも、共に喜び、悲しみ、あなたを愛します。
そんな誓約を胸に抱いて、彼らは、これからも、寄り添って生きていく。