家出娘のなつき度が上がった。通い妻に進化した。   作:夜桜さくら

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いってらっしゃい/いってきます

 

 

〈 8月9日 〉

 

 

 時刻は深夜零時を過ぎてしばらくしたころ。

 日付自体は変わっているが、ひとによっては「寝るまでは今日だから! 日付変わんないから!」という時間帯。

 かくいう彼も、気持ちとしてはその派閥で、自分が寝るまでは日付が変わっていないものとして処理していいだろうと思っている。だからこうして、外に出ている。別に、夜を満喫することは悪いことではない、と。

 彼が夜をぶらつくのは、久しぶりだった。彼にとっては、だいたい半月ぶりくらいの深夜の散歩。

 

 夜。夜である。

 夜であるにも関わらず、じっとりと暑い。

 以前散歩をした七月よりも、彼の体感ではだいぶ暑いように感じた。

 Tシャツにはじっとりと汗がしみこみ、首筋には玉になった汗が流れていく。

 

「……暑いな」

 

 けれど今すぐに帰ろうなんてことは思わなかった。

 暑いことは、彼も知っていた。家の外に出た瞬間から暑いことは知っていた。

 それでもいまこうして歩いているのは、散歩をするということが好きだったから。

 

 そうして歩くこと、約15分。

 

 彼は砂浜へとたどり着いた。より正確に言えば、砂浜へと降りるための階段までたどり着いた。

 そこで見知った顔を見つけた気がして、彼は目を瞬かせる。

 

 少女が、いた。

 暗闇に馴染むストレートの黒髪、同色の瞳。それとは対照的に、真っ白なワンピースを着ている少女。

 約半月前、海でびしょ濡れになっていて、彼が自分の部屋に上げた少女──……である気がする。

 気がするというのは、正直記憶が曖昧だったからだ。たった1日。半月前。面と向かっていた時間は計1時間あるかどうかというところだろう。加えて現在も、対面しているわけでもなく、やや距離が空いていて、周囲は暗い。

 

 彼は物陰からひっそりと見ていたわけでもなく、空間は開けている。

 であれば視線を注がれる側も気付くことは可能であり、少女も彼の存在に気付いた。

 

「…………」

「…………」

 

 約10メートルの距離を空けて、視線が交差する。

 彼らの思考は、実のところ一致していた。

 すなわち、話しかけるか見なかったことにするか。

 これだけ長い間視線が絡まっていることから、少女が‟あのときの少女”であるという可能性は高くなっており、同様に少女も“あのときのおじさん……?”などということを考えていた。

 

 しかし、だからと言って「こんばんは! 今日はどうしたんですか?」など気さくに話しかけられるわけがない。

 彼は「いや普通に犯罪では……? 10歳年下の女の子に深夜に声かけるサラリーマンってもう犯罪じゃない……?」と考えるし、少女は少女で、「普通に迷惑……。いや、そもそもどの面引っさげていけば? ううん……」と考える。

 

 少し似た者同士な二人は、ぼけーっと、考えごとをしながら見つめ合っていた。

 そして少女は、「これだけ凝視したあとになかったことにするのは無理がある」と判断し、彼に近づいていった。

 

「おじさん、もしかして深夜徘徊が趣味なんですか?」

「第一声!」

「冗談です。すいません」

 

 少女の軽快な台詞に彼は表情をゆるめ、それを悟った少女も安心したように息をつく。

 

「まぁでもそれを言うなら、君のほうもあれじゃない? 深夜徘徊が趣味なの?」

「……いいえ、はい。そうですね。趣味というと語弊があるかもですが、よくふらついてはいますね」

「へー。この暑いのに物好きだね」

「ブーメランの勢いすごくないですか?」

「ぼくはほら……物好きだから……」

「……なるほど」

 

 少女はかしこまった面持ちでうなずく。

 

「実際、こんなあっついのに外ふらついてる人ってそんなにいないよね。なんせ暑いし。正直、地球ちゃんは温度設定を間違えすぎだと思う。あと湿度。まぁ……たまにそれに負けない元気を持った中高生が花火とかしてたり、コンビニの前にたむろしてたりはするけど、深夜にいるのは物好きな人を除くとそれくらいな気がするな」

「ですねぇ……。花火とかは怖いなって思います」

「怖い……まぁ怖いこともあるか。ぼくあれダメだな。打ち上げ型の花火、手で持ってひとに向けてる人。こっちにも飛んできそうだし単純に危ないし見てて不安になる」

「ですよね! あれほんと怖くて! 危ないしあぁいう人に限ってゴミも放ったらかしに──……ふー。こほん。熱くなってしまうところでした」

「熱中症には気を付けていきたいよね。なったことないけど」

「私もないです」

「とりあえず塩分と水分摂ってれば大丈夫かな~って思ってそうしてたら大丈夫だったことしかない。知識って大事だよね」

「大事ですね」

 

 あはは、と二人して乾いた笑みを浮かべる。

 その表情は固く、どこかぎこちない。

 

「……」

「……」

 

 彼は、長く引き留めても仕方ないし、とっとと話を切るか、と思った。

 

「……まぁ、変に声かけて悪かったよ。じゃあまた、縁があれば会おう」

「え。あっはい」

 

 彼は会釈し、軽く手を挙げて、少女に背を向ける。

 そして少女は、あわわ……と視線を泳がせ、口をぱくぱくと開閉させる。

 

「あ、あのっ」

 

 ぴたり、と彼は足を止める。

 振り向いた彼の目に映るのは、切羽詰まったような、少女の顔。

 

「ええと……その……ごめんなさい一言だけ言っておきたいことがあるんですけど」

「うん? うん」

 

 彼は、てくてくと歩き、離れた距離をもとに戻して、首をかしげる。

 少女は、叱られた猫のように身を丸めていた。

 

「あの、この間はすいませんでした。お世話になったのに何も言わずに出て行っちゃって。それだけちゃんと謝りたくて。……すいません」

「なんだ。全然気にしなくていいのに。ていうか、メモ書いていってくれただろ? あれ結構嬉しかったよ、ぼくは」

「……そう、ですか?」

「そうそう。正直『(うち)来る?』と言ったのはぼくだけどさ、おじさんが女子高生に声かけてる状況がもう犯罪だし、だいぶ偽善者じみたうざい行動したなぁって思ってたんだよ。だからさ、『ありがとう』って言ってもらえてだいぶ安心したよね。嬉しかったよ、ぼくは」

「……おじさん、変わってますね」

「いや年食うと実感するんだけど、ぼくはなんとかなり普通なんだよね。深夜徘徊くらいしか個性がないんだ」

「だいぶ個性的じゃないですか?」

「……そうかな……そうかもしれない……いやしかし……」

 

 彼が、ううむ、と唸っていると少女はまた、ほっ、としたように胸をなでおろす。

 それを見て、険しい顔をしたりそれがゆるんだり、感情のせわしない子だなぁ、と彼は思った。

 

「ていうかもしかして、今日も帰る家がない感じ?」

「…………あの、いいえ、あの。そういうわけではないですっ。別にそれが理由で呼び止めたわけじゃないですからっ!」

「ないんだ」

「そういうわけではないですっ」

「そっかー」

「そうなんです」

 

 こくこくっ、と少女は首を縦に振る。

 彼はどうしたもんかな、と頭を悩ませる。実際それが理由で呼び止めたわけではないだろうし、かと言ってこの様子だと帰る家はないのだろうし、放っておくのも気が引ける。

 『ありがとう』と『ごめんなさい』が言える時点でこの少女はいい子だ。だから、放っておけないな、と彼は思う。

 

「……あのさ、一個提案があるんだけど」

「……はい」

「アイス買いに行かない?」

「はい?」

「暑い」

「……はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

「ありゃっした~」

 

 コンビニエンスストア店員の声を聞き流しながら、彼と少女は退店する。

 彼が手に持つ袋の中には、バーアイスや缶コーヒー、それからおにぎり、サンドイッチ、ポテトチップスなど……とにかく目についたものを放り込んだ、というようなラインナップだった。

 彼はがさごそ、とその中からバーアイスを取り出し、少女へと差し出す。

 ガリガリ君、ソーダ味。『アイスといえばこれ!』と言っても過言ではない定番の一品である。

 

「はいこれ」

「え……。あの、いえ。結構で──」

「さすがに二本も食べられないし、食べてくれると嬉しいなーなんて」

「……いただきます」

 

 おずおずと受け取る少女を見て、彼は(なか)ば確信を得ていた。

 

 ──この子、押しに弱い!

 

 どうでもよければ無視すればいいものを、ついてくる筋合いのないコンビニエンスストアにも、「行かない?」と言っただけで後をとてとてとついてくる。

 おそらく、この子は、臆病ではあるものの、臆病であるがゆえに、押しに弱い。

 そう、彼は感じ始めていた。

 

「ソーダアイス……夏以外にはあんまり食べないんだけど、夏には食べたくなるんだよね。なんていうか、見た目が涼しいし」

「あぁ……わかります。ソーダ色、いいですよね」

「ソーダ色って言い方いいね。そう、あのソーダの水色が好きなんだよな」

 

 しゃくしゃく、とアイスをかじる。

 食べている間は自然と黙ってしまう。けれど少女はそれが気にかかるようで、ちらちらと彼のほうに視線をおくっている。

 

「……とけるよ?」

「! ……はい、えと、い、いただきます?」

「どうぞ」

「……んむ。……冷たいです」

「わかる。おいしい」

「はい」

 

 少女は、ぺろ、とアイスを舐めてそのあと、しゃく、とかじる。

 そして、幸せそうに、笑みを浮かべる。

 

「甘いもの好き?」

「……はい。えと、人並みには」

「そうかそうか。ぼくも人並みには好きだ」

「そう、なんですね?」

「自分にご褒美あげたいときとかは、三個くらいアイス買ったりするなぁ……。食欲は大事だし」

「……まぁ、ご飯は大事ですよね」

 

 一喜一憂の反復横跳びが達者な少女は、不安そうに彼を見つめつつ、アイスがおいしいなと思っていた。アイスは、おいしい。夏場は特に。それは不変の事実である。

 歩きながらアイスというのも、あまり褒められた行為ではないが……目の前の()()がやっているし、そもそもアイスには罪がない。

 そんなことを思いつつ、少女は、抱いていた疑問を口にする。

 

「…………あの、これ、どこに向かってるんですか?」

「ぼくん家」

「……私、帰ってもいいですか?」

「いいよー」

「……」

「……」

 

 帰ってもいいか、と聞いた少女は未だアイスをかじりながら、彼の少し後ろを歩いていた。

 視線が絡むと、バツが悪そうに、言い訳をするように口を開く。

 

「わ、私もこっちなんです……」

「あぁ、そうなんだ。……送ってこうか? ぼくも不審者の一員といえば一員ではあるんだけど、危険度の低いほうだし」

「不審者のかたの送迎はちょっと……お断りさせていただいています……」

「それはかなしい」

「仕方のないことです」

「まぁそりゃそうだ」

 

 少女は、先日見たときと比べるとずいぶんしっかりとした立ち姿、歩き姿をしていた。

 髪も服も濡れに濡れた状態、明らかに普通じゃなかったときと比べるのもお門違いかもしれないが、だからこそ、ギャップがあった。

 背筋も伸びているし、ほぼ初対面であるということを差し引いても、よくしゃべるしよく笑う。

 彼は、自分がわざわざつまらない気を回す必要はなかったかもしれない、とホッと息を吐く。

 

「やっぱりなんだかんだ言って行く場所ないのかもなー、って思ってたから少し安心したよ。いい感じに、ぼく以外の不審者に気を付けて帰ってくれよな」

「…………」

「…………え、何。やっぱり家に帰れないとか言い出す?」

「い、いやー。……そんなことは……ないですよ?」

「君、嘘つくの下手って言われたことない?」

「正直者ですからね。嘘はつかないことにしています」

「そうなの? 正直者なら嘘つかないし安心だ」

「…………いや、嘘つくの嫌いなんですよね」

「そうなんだ」

「そうなんです。こう……なんていえばいいんですかね、嘘をつかないほうが善人っぽいかなって、思うんですよね」

「んー。まぁ例外は多々あれど、そうだね。まぁ他人を傷つける嘘を言わなきゃ、それでいいみたいなとこもあるけど」

 

 少女は、ん~~、と小さく唸っていた。

 悩むような表情。迷いの表情。

 それは罪悪感から生じたものであり、かつ、自分の中の“善人で在れ”というポリシーに自分が反したことに由来するものであった。

 少しの沈黙のあと、少女は決まりの悪い顔で、口を開く。

 

「…………すいません。帰る場所がないってことはないんですけど、家に帰りたくないというのが実情です」

「正直者~」

「嘘ついてごめんなさい……」

「いや、別に謝らなくても」

 

 しかしやっぱりそうか、と彼は彼で、困っていた。

 ついさっきまでなら見て見ぬふりでもいいかなと、正直思っていた。助けを求められているわけでもないのに口をはさみすぎるのは、よくないことだと。

 いまも決して助けを求められているわけではない。わけではない、が……『困っています』と耳にしてしまっては、放っておけないのが彼だった。

 

「……お金あるの? ないなら貸そうか?」

「お金もらうのはそろそろ本気で犯罪じゃないですか?」

「言うな。ぼくも相当やばいことを言っている自覚はあるんだ」

「じゃあ言わなきゃいいじゃないですか……」

「いやだって……。というか、実際にはどうなの? なんとなく言動から察するに、懐は微妙なのではないかと思っているけど」

「…………」

「正直者だなぁ」

「いえ違うんです。家にはへそくりが多少あるんです。持ち出すの忘れてたんですよね」

「なるほどね?」

 

 憂いを帯びた静かな表情で、ふふ、と少女は笑みを浮かべる。

 

「まぁそんなことはどうだっていいんですけど、私もお金が大事だってことくらいはわかっているので、お金を借りようとかそういうのはちょっとなーってところです」

「……なんか、君、いい子だな」

「ものすごく悪い子でないといいな、とは思いますかね」

「いい子か悪い子かはさておき、ぼくは良いと思うよ」

「もしかしていま私口説かれてますか? ごめんなさい無理です」

「いろはすかよ」

「?」

「もしやいろはすをご存じでない?」

「知ってますけど……。というか、知らないひと、いますか?」

「なるほどね」

 

 一色いろはを知らないということがわかった、と彼はうなずく。

 この人は本当に何を言ってるんだろう……と少女は首をかしげる。

 

「なんかやっぱりおじさん、変わってますよね」

「そうかな」

「そうですよ。例えばですけど、普通は、あの日海で何をしてたとか、そういうことをまず聞きません?」

「普通は、他人が何を思ってどう行動してたとか、初対面で聞かないんじゃないかな……」

「でも正直今更なところありませんか? すでに初対面……正確には初対面ではないですけど、それにしてはいろんなことを話した気がします」

「そう……? 判定ゆるくない?」

 

 でも確かに、彼も自分の口が普段より軽いことに自覚があった。それがなぜなのかは、彼にも明確に解答をすることはできない。

 だが、要因として挙げられるのは、少女がココア程度のものに『ありがとう』を言えるいい子であるということ。それから、アイスを口にして笑みを浮かべたり、悩んでいるときに唸ったり、表情がころころ変わる女の子であるということ。

 きっと、そういう理由で、彼は少女に対して口が滑らかになっていた。

 

「まぁでも、ぼくもなぁ、興味がないといえば嘘にはなるから……君が教えてくれるっていうなら聞きたいかな? くらい?」

 

 少女は、「ん~~」と唸り、彼の顔を、下からのぞき込む。

 その唇は、悪戯っぽく弧を描いていた。

 

「何してたと思います?」

 

 少女も、普段より自分の口が軽いことに自覚があった。それがなぜなのかは、少女にも明確に解答をすることはできない。

 だが、要因として挙げられるのは、彼が置き書き程度のものに『嬉しかった』なんて言ってくれる人だったということ。それから、近すぎず遠すぎない距離感がちょうどよかったのもあるだろう。平たく言えばどうでもいい存在だった。近い人に悩み相談はできない。遠い人にも当然悩み相談はできない。

 遠い存在には、何を思われても傷つかない。だから何を話してもいい──なんて。

 きっと、そういう理由で、少女は彼に対して口が滑らかになっていた。

 

「言わずに解答だけ教えてもらうのはだめな感じ?」

「だめです」

「そっかぁ」

「別に、何言ってもいいですよ」

 

 少女はうっすら笑みを浮かべていた。

 平常時なら、むしろ言及されたくはなかった話題。他人にも友人にも、触れてほしくはない地雷原。

 だけどいまの少女の心は、どこか不思議な領域にあった。

 頭の奥が鈍いような、冷めているような。けれど本当は、夏の熱に浮かされているだけなのかもしれなかった。

 理由はなんであれ、少女はいま、目の前の変なおじさんが何を言うのかを少し楽しみにしていた。自分の話を聞いて、どんな顔をするのか少し、興味があった。

 

「え、ほんとに笑わない?」

「? はい」

「えー……」

 

 少女は不思議そうに首をかしげる。

 何をどうやっても、笑うような展開になる話題ではないという自覚があった。

 

 何故なら、少女が海に身を投げていたのは、“身投げ”──つまりは自殺が目的だったからだ。

 泳ぎに行ったわけではなかったから、服は着たままだった。そして、いま生きているのは、純粋に苦しくて、怖くなってしまったから。惨めになってしまったから。

 

 かなりデリケートな話題であるという自覚があったからこそ、何を言うのかある程度の予測を立てていたからこそ──、

 

 

「月に行きたいのかなって、思ってた」

 

 

 バツの悪そうに言う彼の台詞が、少女にとっては意外なものでしかなかった。

 少女は呆気にとられて、ぽかん、と口を開ける。

 言葉を言葉としてとらえるために、少女は時間を要した。ツキ、月……月。(Moon)。いやそれとも、憑き? だけどやっぱり月のことだろう、と。そういう処理を終えるまで、少女はずっと、目をまんまるにして、口を開けて……幼い子どものような、あどけない表情を見せていた。

 

「月って、あの月ですか? 空にあるあの?」

「よーし、的外れなことはわかった。解答をたのむ」

「いやいやいやいやいや、だめです。もうちょっと詳しくお願いします」

「えぇ……? 詳しくって何。月に行きたいは月に行きたいでしょ。これ以上話すことは特にないんだけど……」

「いやいやいやいやいや、何かあるでしょう。わけがわからないんですけど」

「えー……」

 

 彼は溶けそうなアイスを口に放り込み、飲むように嚥下する。

 氷菓子のさっぱりとした味で口の中をうるおしながら、考える。

 言葉を探している彼を見ながら、少女もしゃくしゃくとアイスを食べ進める。

 二人の口の中は、ソーダ(青い)味で埋まっていた。

 

 

「……なんだろな。遠目ではあったけど、陸地に背を向けてただろう。海のほうをずっと見てた」

 

 

 感じ入るものがあって、思い至る節があって、少女はわずかに声をもらす。

 

「月が海に映って、光の道みたいなのができてたんだよ」

 

 未だ言葉は足りず、説明は説明としての体をなしてはいない。

 けれど、伝わるものはあった。

 彼が何を見て、何を感じて、どう思ったのか。

 月に行きたい──……そう感じたその理由の一端を、自分の心と、少女は重ねて……理解した。

 

「……詩人ですね?」

「だから言いたくなかったんだ……」

「笑ってはないじゃないですか。いや、やっぱりおじさん、今まで私が出逢った人の中で、一番面白いですね」

「それはどうも」

 

 少女は、自分のことを少し理解してもらえた気がして、嬉しそうに微笑んだ。

 彼はやっぱり言わなきゃよかった、と渋い顔をして、そっぽを向く。

 

「まぁでも、ちょっと合ってるかもです。月がどうっていうか、泡になって、風になりたいみたいなことは思ったりしてましたね」

「詩人ですね」

「やめてください。セクハラですよ」

「勘弁してくれ。世の中の成人男性はセクハラという言葉にめっぽう弱い」

「セクハラ~」

「こいつ……!」

 

 人と人が、心を縮める瞬間。

 そのきっかけを明確に答えることができる人は、あまりいないだろう。よほど劇的なことでもなければ、人と人が心を縮めるのは、“なんとなく”であることが多い。

 なんとなく同じ時間を過ごして、なんとなく話すようになって、いつの間にか仲を深めている。

 人間関係というものは、往々にしてそういうものだ。

 けれど、言語化できないだけで、小さなきっかけというものは絶対にある。

 彼と少女にとっては、いま行っている、少しだけ踏み込んだこの会話が、それと等しい。

 夏の夜。ソーダアイスをかじりながら交わした言葉が、彼ら二人が仲を深めるきっかけの一つだった。

 

 彼らは、他愛のない会話をしばらく続けていた。

 街灯に照らされた夜道。

 月の無い夜。月の引力が、薄い夜。

 彼は彼の家に、少女は彼にただ着いて行っていて──……それは、海から離れる道のりだった。どこか遠くに行ってしまいたいと思っていた少女の願いとは別方向の、道のりだった。

 

「ところでおじさんって、何してるひとなんですか? 明日月曜ですけど大丈夫なんですか?」

「……? あー、そうか。学生さんはいま夏休みなんだ。そうかそうか。そういえば8月ってそうだった気がする」

「ええと、はい。一応8月末くらいまでですね」

「まぁ夏休みのひとにはあんま関係ないんだろうけど、明日は月曜だけど祝日だから休みだよ。じゃなかったら流石に、こんな時間に外出歩いてない」

「おじさんの深夜徘徊日ってそんな感じに決まってるんですか?」

「徘徊日……。いやまぁうん。前会ったときもたぶんあれは土曜か金曜かだったとは思うけど」

「はー、そうなんですね」

 

 二人分の足音がする。アスファルトを足裏でたたく音、擦る音。普段とは違う、二人分の足音。

 ゆっくりと、彼らふたりのペースで、足が進んで行く。

 その間もずっと話し続けていて、話題は二転三転、色々な方向に進んでいた。

 

「話し戻すけど、君、十六歳って言ってたっけ? 高一? 高二?」

「すごい勢いで戻りましたね。半月前まで戻りましたよ今」

「まぁまぁ」

「……高二です。なんなら最近17になりました」

「へぇ……なるほどね」

「8月5日なので……三日前? あー、四日前になるんですかね」

「えっそうなんだ。ほんとについ最近だ。誕生日おめでとう」

「……ありがとうございます。……しかし、今日ほんと暑いですね」

「ね」

 

 少女は歩きながら手扇でぱたぱたと自分を煽ぐ。

 誕生日を祝われるのがむずがゆいという、少女なりの精一杯の話題そらしであった。

 彼は、それに気づかないふりをして、「暑いね」と相槌を打つ。

 

 そうして街を歩いて行って、彼は、彼と少女は、彼の家まで着いたのだった。

 

「──というわけでぼくん家の前まで到達してしまいました」

「来ちゃいましたね……」

「どうする?」

「どうする、とは」

「うちあがってく? それかホテル代かコミックカフェとかの料金一晩ぶん立て替えようか? それか普通に家に帰る?」

「さっきも言いましたけど、金銭のやり取りはちょっと……」

「だよね」

「…………」

「…………立ち話もなんだし、あがってく? ほら、暑いし」

「……」

「おいで」

 

 所在なさげな少女を手招きして、彼はマンション玄関を通っていく。

 少女は先ほどの軽快な様子とは裏腹に、借りてきた猫のように、おどおどとしていた。

 彼の部屋は賃貸マンションの二階。

 部屋の前まで至るのもほんのすぐのこと。

 

「はい、いらっしゃい。……とは言っても、二度目だけどね」

「お、お邪魔します……」

「一応防音性はそれなりだからそこまで気を遣わなくてもいいけど、深夜だし相応にね」

 

 少女を部屋に通して、彼はさてどうしようと、少女に隠れて苦笑い。

 ひとまずエアコンをつけて、部屋の快適さを上げてゆく。

 

「なんか飲む?」

「お、お構いなくっ」

「まぁまぁそう言わず。……ココアでいい?」

「……ええと、はい」

 

 ──ココア、おいしかったです

 

 あのときのあの言葉が嘘でないなら、これで外れることはないだろうと、彼はキッチンへゆく。

 すると少女は、キッチンを覗き込むように、扉のすぐ近くまでやってくる。扉は開放状態で、彼我の距離は1メートル程度。

 意外と近い。

 彼は、遠慮しいなところはある割に、距離感は近めなのはよくわからないな……と思いつつ、手を動かしはじめる。

 手鍋にココア粉を大さじ4杯、ミルクを少々入れて固練りをする。

 その様子を、少女は興味津々といった様子で見ていた。

 

「ソファにでも座ってればいいのに」

「……ええと、はい」

「あー別にあっち行けとかそういうニュアンスではないです」

「はい」

 

 距離をとろうと膝を立てた少女が、すちゃっと再び座り込む。

 

「ちょっと前から疑問に思ってたんだけどさ」

「なんですか?」

「思ったより……なんだろう。なんと言えばいいのかわからないけど、妙にぼくに対してガード緩いのなんで?」

「緩いですか?」

「ガードが緩いって言い方は違うかもしれないな。心を比較的許してくれている……と感じている。けど、その理由にあまり心あたりがないから、不思議に思っている、かな」

「それを言われると、そもそもおじさんも赤の他人を部屋に上げててガード緩いなって思っちゃいますね」

「それはガードの問題ではなくない……?」

「でも前、私一人残して買い物とかいってたじゃないですか。結構無防備だなって思いました」

「なるほど?」

 

 からん、と二つのグラスに氷が入る。

 そして少し熱を持ったココアが注がれ、、しゅわ、と氷が小さくなって、冷えて、混ざる。氷塊を残したグラスをしばらく、ぐるぐると混ぜる。

 ココアのブラウン、ミルクと泡のホワイト、(アイス)の透明。

 熱が落ち着いていくにつれ、すべてが混ざって、綺麗なココアブラウンになっていく。

 

「できたー」

「ありがとうございます」

 

 ココアブラウンが入った透明なグラスを、ローテーブルに置く。

 彼がいる対角線上にまわりこんだ少女へとグラスを差し出して、席に着く。

 

「……おじさんってココア好きなんですか?」

「好きだよ」

 

 少しるんるんとした様子の彼をぼんやりと見つめて、少女は、裏表がわかりやすい人だな、と感じていた。

 

「私がおじさんにあんまり警戒心抱いてないって話、そういうところだと思いました」

「……? まぁココアはおいしいからね。ポリフェノールたっぷり」

「ポリフェノールって、体にいいんでしたっけ?」

「ポリ袋よりはいいと思う」

「でしょうね」

 

 そうして二人して、アイスココアをくぴくぴと飲む。

 馴染むのが早い二人は、やはりどこかチャンネルの合う部分があるのだろう、同じように息を吐いて、同じように少し口角を上げる。

 

「おいしいですね、おじさんの淹れたココア」

「なんせポリフェノールたっぷりだからね」

「ポリ袋よりは体にいいですからね」

「なんとポリエステルと比べても、ポリフェノールのほうが体にいい」

「でしょうね」

 

 彼は、家に帰ってきて、家にあるものを口にして、ホッと一息ついていた。

 大抵の人は、家の中が一番落ち着くものだ。彼もその例にもれず、穏やかな気持ちを強めていた。

 そして、目の前の人間が落ち着いていると、やはりそれだけでも落ち着いてくるものだ。ヒリついている人間がいる空間がヒリつくのと同じように、心穏やかな人間がいる空間は、空気が弛緩する。

 だから少女も、水分を摂って、甘いものを摂って、弛緩した空気を吸って……より一層、固いものがほぐれてきた。

 

「ところで、今晩結局どうしたい?」

「ええと、はい。……やっぱり、もうしばらくしたら出ていきます。……すいません」

「いいよ。見送りは?」

「いいです」

「そう」

 

 彼は、結露で濡れたグラスを持ち上げて、笑う。

 

「まぁ、これ飲み終わるまでくらいはゆっくりしていきなよ」

「ええと、はい。……おいしいです」

 

 そうして彼らは、グラス一杯のココアを飲み終わるまでの短い時間、だらだらと睦み合うように、話をした。

 その光景は、はたから見れば、ごく普通の仲のいい友人のように見えて。

 だから、最後別れるときも、ささくれ立つ様子はまったくなくて。

 

 

 

 

「いってらっしゃい」

「……い、いってきます」

 

 

 

 

 そうして、少女は、彼の家を去って行った。

 

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