家出娘のなつき度が上がった。通い妻に進化した。   作:夜桜さくら

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私の名前/ぼくの名前

 

 

〈 8月28日 〉

 

 

 蝉の生態について、詳しく知っている者はどれほどいるだろうか。

 『なんとなく』知っている。そういった曖昧な認識をしているひとがほとんどなのではないだろうか。

 もちろんそれは悪いことでは決してない。虫、という括りにしても、一種につき驚くほど様々な違いがあり、かつ虫の種類は膨大だ。

 その中の一つである蝉への知識など、多くの人は持たない。

 

 けれどそれでも、蝉の存在を知らないひとはいない。

 

 ミンミン。シャンシャン。カナカナ。ジーン。ツクツクホーシ。

 夏。蝉たちは大きな声で訴えている。だから誰しもが、その存在を知らないということはない。

 蝉に対する偏った視方が生まれるのも、その存在主張の強さにあるのだろう。大きな声、多数の抜け殻、そして同じく多数の死骸。

 だから『蝉は地上に出てから、1週間しか生きられない』という俗説が信じられる。けれど事実はそうではない。

 

 それは結局、思い込みの問題。視たいものを見た結果の話だ。

 

 ミンミン。

 蝉、蝉が鳴いている。

 昼だった。蝉が鳴くのは、基本的に明るい時間。

 

 夏は夜──などというが、夏が“夏らしい”のは、やはりどうしたって、昼である。

 それを示すかのように、蝉の合唱が大きく響いている。

 そんな、太陽を見上げれば目が焼焦げてしまいそうな、そんな夏の日のこと。

 深夜徘徊は趣味の彼は、太陽が高くのぼっている時間帯に、外出をしていた。

 

「……あづい」

 

 思わず、苦悶の声が口から漏れる。

 夏は暑い。それはもうどうしたって変えられない事実である。

 彼は滴り落ちる汗をぬぐいながら、休める場所に向かっていた。

 

 カランカラン。

 

 喫茶店の扉をぐぐると、入店を示すベルが鳴る。

 昼前であることもあって、店内はなかなかに盛況だった。座れる場所があるかとぐるりと店内を見渡すが、一見して空席はないように思われた。

 待つことがそこまで苦であるわけではないが、やはり少し気落ちしてしまう。

 

 ──ただいま店内満席となっておりまして。恐れ入りますが、そちらの用紙に名前を記入しお待ちください。

 

 そして店員の声にうなずき、ペンをとろうとしたそのとき、

 

「あ」

「……あ」

 

 見知った少女の顔を、店内に見つけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四人掛けのテーブルについた彼は、対面に座る少女を認め、少し不思議な気持ちになっていた。

 これで少女と会うのは3回目になるが、そのどれもが偶然で、その偶然が約1か月の範囲で起こっている。

 しかし取り立てて驚くことではなく、もしかしたら顔を認識するかしていないかの問題で、今までも同じくらいはすれ違っていたのかも──と思ったりして、もしそうだとしたら、妙に縁があるな、とやはり不思議な気持ちになる。

 

「なんかごめんな。相席」

「いえ、別に。……それに、まぁ、店内混んできたし居座るのやめようかなー帰ろうかなーって思ってたところだったんです。相席してもらえて、私もちょっとありがたいなーという打算もですね」

「あぁ……まぁ四人掛けはね。この時間帯ちょっと罪悪感あるよね」

「そういうことです」

 

 ちゅー、とストローで飲み物を吸う少女は、なんでもないような表情をしていた。

 それを見て彼は、『どうやら本当に気にしてないらしい』と思い、肩の力を抜いた。そしてパラ、とメニューをめくり、中身に目を滑らせる。

 

「今日はどうしたんですか?」

「あー、映画見ようと思って」

「そこのモールの映画館ですか? いいですね。何見るんですか?」

 

 彼は今日見る予定の映画のタイトルを口にする。

 少女はピンとこなかったらしく、はてな、と首をかしげる。

 

「……?」

「ホラー映画」

「なるほど。おじさん怖いの平気なひとですか?」

「いや、無理。苦手。かなり無理だな。夜お風呂入るときとか怯えてしまうくらいには苦手」

「……え、なんで見るんですか?」

「真夏に摂取するホラー映画からしか摂れない栄養素というものが世の中にあって──あ、すいません。ありがとうございます」

 

 お冷を持ってきてくれた店員さんに礼を言いつつ、彼は注文をすませる。

 

「アイスココアと、えー……ミックスサンドください。サイズ普通、無糖で」

 

 かしこまりましたー、と遠ざかる店員さんを見送りつつ、少女に向き直る。

 

「…………おじさん、ココア好きですね」

「まぁね。でも君もそれココアじゃないのか? 大概君も好きだよね」

「や。これは……メニューにココアがあったので……」

「それは好きとは違うのか」

「……好きなのかもしれません」

「はい」

 

 しどろもどろとして目を泳がせる様を見て、彼は表情には出さず、少し驚いていた。

 おそらくだが、様子からして、あの2晩の影響が大なり小なりあって、ココアを注文したのだろう、と。

 好きとまでは言わずとも、印象に残ってはいたのだろう、と。

 

「と、ところで無糖なんですね」

「ん? うん。ぼくはだいたい無糖だな」

「……へー。おいしいんですか?」

「無糖だと甘くなくておいしい。加糖だと甘くておいしい」

「なんか、大人って感じしますね」

「そうかなぁ……」

 

 すごい、と微笑む少女に、「砂糖の有無で大人かどうか決まるわけじゃないけど……」とは思いつつ、彼はほんの少し照れ臭い思いをしていた。

 どんな理由であれ、褒められて悪い気をする人間はあまりいない。それも邪気がない笑みと共に言われたなら、なおさらだった。

 

「ところで、君は今日どうしたの?」

「あぁ、私もモールに用がありまして。……友達とお買い物する予定があって、いまはその待ち合わせですね」

「あ、そうなんだ。ほんとに相席よかったの?」

「それは別に……──」

 

 ちらりと視線を流し、少女は開いていた口を閉ざす。

 トレイを持った店員さんが少し離れた位置にいて、少女につられてよく見ると、トレイの上にはサンドイッチとココアが乗っている……気もする。

 断定するほど近くなく、良く見えない。

 けれど少女の目は確かだったようで、何秒かした後、店員さんがやってきてアイスココアとサンドイッチを置いて行った。

 そして、店員さんが遠ざかっていくのを認めて、少女はまた口を開く。

 

「待ち合わせしてるんですけど。なんでか連絡つかなくて。別にここで待ち合わせしてたわけとかじゃないので、席は別に……って感じです」

「なるほどね」

「私のことは気にせず、食べてください」

「ありがとう。じゃあ……いただきます」

「はいどうぞ」

 

 両手を合わせて食事をはじめる彼を見ながら、少女はまたちゅー、とココアを飲んでいた。

 彼が入店する前からいた少女のココアは、もう底をつきかけていた。

 少女は追加注文しようかどうか悩みつつ、新しい飲み物を頼んだ場合もう少し店内にいることになり、彼が退店するころにはまだ席にいることになる──など、頭の中でぼんやり予定を整理していた。

 すると、少女のスマートフォンに通知が一つ。

 

「あ」

「ん?」

「あぁいえ……噂をすればなんとやらと言いますか……友達から連絡がきたんですよ」

「へぇ」

「親に捕まったとかどうとかで、来れないそうです。困りましたね」

「それは困ったね」

「ね」

 

 サンドイッチをぺろりと一つ平らげ、彼は一息吐く。

 ココアを一口。やっぱり、ココアはおいしいと思うのであった。

 

「おじさんは食べたらすぐ出る感じですか?」

「んー。……そうだな、あと一時間半くらい後ので予約してるから……まぁある程度はのんびりしようかなとは思ってたけど」

「そっか。そうですか。……じゃあ私も少し一緒にいさせてもらってもいいですか?」

「うん」

 

 ぴんぽん、と少女は流れで呼び出し鈴を押す。

 そうして店員さんがやった局面で、少女は迷うそぶりを見せる。彼のほうを一瞥した後に、店員さんに言葉を投げる。

 

「ミックスサンドひとつ。それからアイスココア一つ、サイズは普通で、無糖でお願いします」

 

 女性の店員さんは、オーダーを聞きつつ、彼のほうをちらりと見る。

 第三者の目から見た彼らは、兄妹のようにも見える。けれどそうではないのだろう、と店員は思っていた。

 入店したときの様子。交わす言葉。距離感。

 その片鱗をつなぎ合わせると、少し見えてくるものがある。

 友達の妹、友達の兄。塾講師と生徒。

 そのどれかはわからないが、それに準ずるような関係なのだろう──、と店員は感じていて。いずれにせよ、「年上の男の人を意識している女の子が可愛い!」と非常ににこにこしていた。

 

 ──すぐお持ちしますね。

 

 妙に嬉しそうな店員の視線の意味を悟りつつ、少女は気恥ずかしそうに口元に手を当てる。

 店員の背を見送って、言い訳がましく口を開く。

 それがまた大なり小なり意識していたという証左になってしまう。それを示すように、少女は頬をほんのりと紅潮させていた。

 

「わ、私もお昼まだだったんです」

「まぁ、まだ12時になってないしね」

 

 彼は彼で、状況をなんとなく察知しつつも、特にからかったりすることもなく、事もなげに流していた。

 

「むしろそれだけで足りるの?」

「その言葉そっくりそのまま返していいですか?」

「ぼくはほら……映画館でポップコーンとか食べるし」

「ポップコーンとか飲み物ありなタイプですか」

「有り無しでいえば、無し。あんまり映画見てる最中に飲み食いするのは好きじゃないなあ」

「えぇ……」

 

 じゃあなんで、と疑問を浮かべている少女の意をくんで、彼は「んー」と考えながら話す。

 

「……別に映画見る人間全員にしろって言いたいわけじゃないし、ぼくも正直あんまり飲み食い好きじゃないし──という前置きをした上で言うと、映画館の売り上げって基本チケットじゃなくて映画館で販売してるポップコーンとか飲み物がメインらしいんだよね。だからかな」

「あぁ……」

 

 少女は納得したようにうなずく。

 

「なんか、おじさんらしい感じですね」

「まぁ別に売り上げに貢献しなきゃ! みたいなことが言いたいんじゃなくて、そういうの聞いちゃうと買わないと気分よくぼくが映画見れないみたいな感じ」

「らしい感じですね」

「そう……?」

「はい」

 

 ふふ、と淡い笑みで少女はうなずく。

 彼は、別にそんなんじゃないのに、とバツの悪そうな顔をする。

 

 ──お待たせしました〜。

 

 そうしていると、にこやかな店員さんが少女のサンドイッチとアイスココアを持ってきた。

 ごゆっくりどうぞ〜、と去っていく店員さんの後ろ姿を見送って、少女は無糖のアイスココアに口をつける。

 ほんのり苦くて、コクがあり、ミルクの味がやわらかい。

 

「これが、大人の味なんですね……」

「どうやら、大人の階段をまた一つのぼったようだな」

「セクハラじゃないですか?」

「まぁ……はい……すいません……」

「はい……いえ、気にしないでください……」

 

 頬の紅潮を冷ますように、少女はアイスココアに口をつける。

 そして、人差し指をぴん、と立てて、彼と目を合わせる。

 

「そういえば、おじさんの名前って小池(こいけ)であってますか? 小池さんですよね?」

「あってるけど……。あぁ、表札?」

「です」

「そう、小池」

「じゃあ、小池さん」

「……なに?」

「いえ、今のは『これからは小池さんって呼びますね』の意味です」

「あぁ、なるほど。何か改まって言われるのかと思っちゃった」

 

 はは、と彼が笑い、少女もはにかむように笑みを浮かべる。

 

「まぁでも、まともに自己紹介もしてないもんね」

「ですね。……ぇと、私の名前は、桶内(おけうち)です。桶内真魚(おけうちまお)。……漢字はこう書きます」

 

 スマートフォンのメモ帳に素早く名前を打ち込んで、少女は彼に画面を見せる。

 

「なるほどなるほど。ぼくの名前は小池。小池千夜(こいけせんや)。えーと、漢字はこう」

 

 同じくスマートフォンを使って、彼も自分の名前を紹介する。

 

「いい名前ですね」

「いい名前とか生まれてはじめて言われた気がする。ありがとう。君もいい名前だね。可愛い」

「ありがとうございます」

 

 夜行性だな、と()()は思った。

 人魚だな、と()()は思った。

 この人/この子に似合っているな、と彼らは思った。

 

「……まぁ君も食べなよ」

「はい。いただきます」

 

 両手を合わせた後、真魚はサンドイッチを食べはじめる。

 

「むぐ。……おいひいです」

「良きかな」

 

 そして彼らは、まただらだらと他愛のない話をし続けた。

 じゃあそろそろ映画の時間だから、と千夜は席を立って、合わせて席を立った真魚と二人で退店して、彼らは店の前で、分かれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、一口にホラーと言っても、いくつかに分類されるだろう。

 そもそも“ホラー”というのは要素の一つであって、主題と直結するわけではない。

 ゾンビなどが登場するパニックホラー。

 幽霊などが登場するオカルトホラー。

 人間心理への恐怖を描いたサイコホラー。

 グロテスクな表現を用いたスプラッタ系統も、ホラーに分類されるだろう。

 

 これらの中で千夜が基本的に好んでいるのは、パニックホラーとオカルトホラーに分類されるものだ。

 

 そして今回千夜が見ていたのは、洋もののオカルトホラー。

 幽霊に取り憑かれた男の子がいて、その男の子が、幽霊を体から引き剥がすまでのお話。

 約二時間に及ぶホラーの物語を、薄暗い空間で、じっと見ていた。

 

 心拍数は高いのに、背筋は冷えているような。

 ホラー映画を見ているときの感覚は、筆舌に尽くしがたいものがある。

 いや、そもそも映画館で映画を見るという行為自体、特別なものがある。

 今のご時世、スマートフォン一つあれば、無料で閲覧できるコンテンツがたくさんある。有料にしたって、AmazonプライムやNetflixなどで、月に千円程度で数多の物語が見放題だ。

 それでも映画館で映画を見るのは格別で、だからみんな見に行くのだろう。

 映画を見るために映画館に行って、ポップコーンの香ばしい匂いで鼻腔を満たして、薄暗い空間で明るい大きなモニターを見て、視界を埋めて、──最後にエンドロールを余韻と共に眺める。

 

 これが、満ちるという感覚なのだと、思い出す感覚。

 

 その感覚に浸りながら、千夜はエンドロールを見つめていた。

 エンドロールの合間に、ぱらぱらと立ち上がる人影があるのも、なんとなく映画館らしくて、いい。

 

 余韻。 

 

 千夜は、それに包まれていた。エンドロールが終わり、自分の周囲からほとんどの人が消えてから、立ち上がる。

 よいんよいん。

 自然と、歩幅はせまくなって、歩く速度が落ちる。

 面白かった。面白かったな、と千夜は思う。

 

 そしていつも通り、手元にはほとんど満タンのコーラとこれまたあんまり減っていないポップコーン。

 両手をふさいだまま、入場する前と同じような状態で退場し、千夜は受付前・フードドリンク販売場所前まで戻ってきていた。

 

「……?」

 

 そして、気のせいか。

 いるはずもない人影に、目を瞬く。

 そして、()()()()()()()()()()()()()人影に、近付いていく。

 遠目でもわかる。白色のシャツワンピース。千夜の目に映ったその少女は、つい二時間ほど前に分かれたはずの、真魚だった。

 

「なにしてるの?」

「え、映画を見てました……」

「なるほど?」

「言い訳いいですか?」

「どうぞ──と言いたいところだけど、先座ろうか。両手ふさいだまま立ち話もなんでしょう」

「あ、はい」

 

 いそいそ、と都合よく空いていた四人かけ椅子に腰かける。

 千夜は手持ちのコーラに口に含みながら、「それで?」とうながす。

 コーラは氷がとけていて、ひどく水っぽい。

 

「今日、友達と約束をしてたって話はしたじゃないですか」

「うん」

「……暇になったんです。それで、まぁその、映画もいいかなと思いまして」

「はいはい。いいと思います」

「また顔合わせるのも……と思っていたので、すぐ帰るつもりではあったんですけど……」

 

 真魚は、自分の手元にあるポップコーンと飲み物を見つめていた。

 千夜が手にしているそれと同じくらい、中身は減っていないように見える。

 それを見て彼は、ぼくが言ったことを気にしたんだな、と思った。きっと普段は、あまり飲み食いをしないタイプなのだろう、と。

 

「食べきれないなら半分くらいもらおうか?」

「……いえ、自分で食べますっ」

「そ。じゃあお互いがんばろう。いや、結局ぼくもだいぶ残してしまった」

「……いつもそんな感じなんですか?」

「まぁ……そうだなぁ。捨てるのももったいないし、映画はじまる前に食べきれなかったぶんとか飲みきれなかったぶんは、終わってから適当に。捨てちゃうのはちょっともったいないし」

「なんか、おじさ──、こほん。……小池さんらしいですね」

「別におじさんでもいいよ。否定しがたい年齢であることに自覚はある」

「いえ、なんというかその……こういうことを言われると迷惑かもなんですが、あんまり他人っていう気がしないと言いますか、だいぶお世話になったので、おじさんって呼ぶのも失礼かなとか思ったりもしてですね」

「気にしいだなぁ」

「そう、でしょうか」

「いいと思うよ。君──、桶内さんのいいところだ。いい子なのがすごくよくわかる」

「……」

 

 照れ臭そうに真魚は顔をそむけて、ポップコーンをしゃくしゃくとかじる。

 千夜も苦笑して、ポップコーンを口にする。香ばしい。

 

「ところで見てた映画って何?」

「え? ……あぁ、小池さんと一緒です」

「なるほどなるほど。え、じゃあさ、ラストシーンなんだけど────」

 

 千夜は、嬉しそうに好きだった点について話しはじめる。

 演出。台詞。情景。キャラクター。表現。

 今日彼らが見た映画は、とても完成度の高い話であった。

 だからというわけではないが、千夜には話したいことがいくつもあった。というより、同じものを見たのだから、共通の話題として挙がるのが自然だったとも言える。

 そして真魚も、相槌を打ちながら、怖かったシーンのことなどを話し、なんだかんだ、とんとんと話がつながっていく。

 

 二人は、あまり会話に熱を込めるタイプではない。

 

 大笑いをすることはあまりないし、大きく顔をゆがめることもないし、自己主張が殊更強いわけでもない。

 だから二人の会話は、小さく笑って、ぼんやりとしたペースで進んでいく。

 その会話のテンポは、特別楽しいわけではないが、ぬるま湯のような安心感がある。冷たくもないし、熱くもない。そういう、生ぬるい空気があった。

 

「────小池さん、ホラー好きなんですね」

 

 ひとしきり映画の内容について話した後、真魚はしみじみとそう言った。

 

「……まぁ? それなりには……? でもひたすら陰鬱な感じのはだめだな。こう、日本のホラー映画とかは、本当にだめ」

「呪怨とかですか?」

「そうそう。途中で見るのやめちゃう」

「何が違うんです?」

「んー……表現が難しいんだけど、救いがあるか、救いがないか、かな。海外のは傾向的に、ゾンビとかさ、悪魔とか、そういうのを明確に敵として倒して終わってくれたりするからさ」

「今日の結構バッドエンドじゃありませんでした? それは別にいいんですか?」

「それねぇ……」

 

 千夜は腕を組んで、うーん、とうなる。

 真魚から見て、今日の映画はよくできていた、と思う。ホラーがあまり得意ではない少女にも、比較的口当たりが優しく、ただやっぱり怖くて──悲劇的な結末だった。

 いわゆる一般的にはバッドエンドとされる展開のそれを、先ほど彼は『面白かった』と言っていて……ただそれは今言った彼の好む傾向とは異なるように思えた。

 

「すごく言葉にするのが難しいんだけど、悲劇は悲劇でも、有りと無しは結構きっぱり分かれるんだよね。今日のは大丈夫……。あー、綺麗か綺麗じゃないか、ってのは、あるかもしれない」

「……」

「いやごめんね。ちょっとだけ語ってしまった」

「あぁいえ。でもちょっとだけわかります、言ってること。私もあの結末は結構好きでした。……確かに言葉にしづらいんですけど、綺麗でしたよね」

「おぉ。うん。そうそう」

 

 真魚はぼんやりと、一つの物語のことを思い出していた。

 ポップコーンを口に運ぶ千夜を見て、真魚は、少しの期待を抱く。

 もしかして、理解してくれるかも、と。

 

「人魚姫って知ってます?」

「自己紹介?」

「え?」

「いやごめんつい。……ええと、どの人魚姫?」

「あぁ、えと。原作……ですかね」

「ハンス・クリスチャン・アンデルセン?」

「はい」

「ついこの間読んだばかりだ。タイムリーだね」

「ついこの間、ですか?」

「そう」

「なんていうか、珍しいですね? 私が言うのもなんですけど、童話を読もう、ってなる機会ってあんまりない気がします」

「ぼくもそう思う」

「……もしかしてゲームとかですか? FGOとかやってたりします?」

「嗜む程度には」

「なるほど……そうでしたか……」

 

 ううん、とうなずく真魚を横目に、別にそれが理由ではないが口に出すのも野暮だろう、と否定はしないことにした。

 千夜が人魚姫を読んだ理由なんて、彼の隣に腰掛けている少女以外の理由なんてなかった。

 夜、月、海。

 それらを纏う少女が、人魚を彷彿させたと、ただそれだけの、理由。

 もちろん彼も、当時から本気でそう思っていたわけではないし、高尚な理由で少女があそこにいたとも思っていない。

 

「人魚姫いいよね」

「! ですよねっ。人魚姫の結末、すごく綺麗なんですよっ」

 

 人魚姫は、端的に言うと、報われない恋をした人魚の話だ。

 恋をして、気付いてもらえさえしなくて、最後は泡となって消えていく。

 悲劇的な話の、代名詞。

 

「悲しいのも苦しいのも痛いのも投げ出して、泡になって、空気になったんですよ。あの結末がすごく好きで、なんというか……救いがあるなって思うんです」

「いわゆるメリーバッドエンドってやつなんだろうね」

「めりーばっどえんど?」

「ああ。えーと、解釈によってハッピーエンドとバッドエンドが変わる──ってやつ」

「それなら確かに人魚姫は、メリーバッドエンドなのかもしれないですね」

 

 視方が変われば世界は変わる。

 人魚姫は確かに悲劇ではあるのかもしれない。ただそれを不幸(バッドエンド)と捉えるかは、また別の話。

 

「まぁでもそれはそれとして、人魚姫のことに王子様が気付く、順当なハッピーエンドとかも想像しちゃうな。物語の結末として、きれいではなくなるかもしれないけど、でもまぁそういうのもいいよねって思う」

「……それはそうですね。ただ幸せなひとたちっていうのは、見てて、いいなぁって思います」

「ね」

 

 真魚は、少し目をほそめて、笑みを浮かべる。

 悲劇を尊ぶからといって、喜劇を(いと)うわけではない。だけどそれでも、喜びは、悲しみからは遠いものだ。

 

「親身に寄り添う時間はあったわけだし、人魚どうのなくても仲は良かったし、あとは相互理解がもうちょいあれば結末は違ってたのかなと思ったりする」

「かもですね」

「あなたが好きです! みたいなアピールは、ちょっと大げさにやってもいいのかもしれないなぁとか思うよね」

「でもやっぱり難しいところもありますよね」

「それはそう」

 

 人魚姫は声を持たない。

 ゆえに、声を張り上げて主張することができない。

 私はここよ、と。

 曖昧な輪郭に、芯を持たせることができなかった。

 それができたのなら、あるいは結末は違ってきたのかもしれない。

 

「まぁ悲劇は悲劇で完成してるってことに特に異論はないけどね」

「ですね。あの結末は、すごくきれいで、完成してますよね」

「うん」

 

 千夜は、少し感慨深い気持ちになっていた。

 人魚。人魚姫。隣にいる少女が、人魚のようだと感じたあのときの情感。

 その答えに少し触れたような、そんな気がした。

 

「桶内さんて、結構映画とか小説とか、そういうの見る人?」

「えーと、あんまり? 図書室で本を借りたりとかもするのはしますけど、詳しいってほどじゃないですね。漫画アプリとかで漫画読んだり、Twitter漫画とか見たりするほうが多いかもです」

「なるほどね。漫画でも全然いいし、なんなら漫画が一番好きだから漫画でもいいんだけど、ぼくあんまり詳しくなくてさ。どの媒体でもいいし、古くてもいいし、何かおすすめないかなーって思って」

「なるほど? んー……。普段どういうのを見てるんですか?」

 

 真魚は、こてりと首をかしげて問いかける。

 

「そうだなぁ。最近面白かったのは────」

「あ、それ私もちょっとだけ見たことあります。えーと、────のシーンとか────」

「わかる、いいよねあそこ。そのシーン好きだな」

 

 

「────とか」

「────、──」

「──。────、────」

 

 

 水っぽく、味の薄いドリンク。

 なかなか減らないポップコーン。

 それらがなくなるまで、彼らはあちこち話題を跳ねさせながら、色々な話をしていた。

 

「……すみません。結局最後食べてもらっちゃって」

「いいよいいよ。ちょっと量多いもんね」

「Mサイズを舐めてましたね……」

 

 顎に手を添え、真魚は真剣な顔で『次買うなら……』と考えていた。

 その横顔がやけに面白くて、千夜は、ふ、と吹き出してしまう。

 

「えっ、どうかしましたか?」

「いやごめん。別になんでもない」

 

 えっえっ、と慌てふためく姿が可愛くて、彼の笑みはまた深くなる。

 

「小池さん、やっぱり変なとこありますよね」

「残念ながら桶内さんも大概だよ」

「じゃあお互い様ですね」

「そうなるね」

 

 さて、と席を立つ。

 話が落ち着いて、ごみを片付けて、ようやく映画館を後にするときがきた。

 

「桶内さんはどうする? ぼくはそろそろ帰ろうかなって思ってるけど」

「私は、もうちょっとぶらついてから帰ります」

「そ」

 

 じゃあここでお別れだね、と言外に言っていた。

 

「悪かったね。なんか今日は散々付き合わせるような感じになっちゃってさ」

「いえ、私こそ、今日はお時間いただいてしまって……。邪魔じゃなかったらよかったです」

「邪魔ってことはないよ」

 

 薄暗い映画館から、その外へ。明るい場所へ。 

 ほんの少し一緒に歩いて、はた、と足を止める。

 千夜は真魚の顔を少し見つめ、ふ、と少し目尻を下げる。

 

「でも少しだけ、安心した。初めて会ったあの日はどうなることかと思っていたけど、思っていたより、元気そうで」

「まぁ……はい。その節はお世話になりました」

「うん。それは別にいいんだけど……」

 

 この前会ったときも、今日も、千夜の目に真魚の陰りは映らなかった。

 だから、少し、安心した。

 でもやっぱり心配なところが多々あって、不必要なまでに、口を出してしまう。必要か不必要か、それは彼個人の主観の問題で、憶測でしかない。

 やはりコミュニケーションの基本は言葉であって、聞いてみないと不明瞭からは抜け出せない。

 不明瞭と明瞭、彼らの関係は、未だ不明瞭。

 

「どこ住み? 何歳? てかLINEやってる?」

「LINEはやってます。17です。住所は……ええと、駅の──」

「ごめんぼくが悪かった」

「?」

 

 はてな、な顔をして首をかしげる真魚を見て、彼は片手で顔を覆い謝罪する。

 そして、彼は自分のスマートフォンを取り出して、自分の連絡先となるQRコードリーダーを表示した。

 

「はいこれ。なんか困ったことがあったら連絡して。一人暮らしの不審者を頼るのはなるべく控えたほうがいいというのはさておき……いざってときの逃げ場所、候補は多いほうがいいと思うからさ」

「別にもう、不審者とは思ってませんよ」

「ありがたき幸せ」

「……いいえ、はい」

「どういう意味?」

「返答に困りましたという意味の『いいえ、はい』です」

「なるほどね?」

「はい」

 

 真魚は少し考えた後、自分のスマートフォンを取り出して、千夜のアカウントを友達に追加した。

 LINEのQRコードによる友達追加は、基本的に一方通行である。

 読み込んだ側にしか情報がいかず、読み込ませた側は情報を提供したにすぎないからだ。

 つまりこの状態なら、──別に友達じゃないから! 倫理的にアウトな関係になりたいわけじゃないから! という彼のささやかな心の防波堤を維持することができるというわけだ。

 

「適当にスタンプ送りました。お願いしますね」

「……」

 

 しかし連絡先を交換するなら自然とそうするよね、という真魚の対応により、彼の内に秘めた想いは無残に散ってしまった。

 千夜のスマートフォンの画面には、デフォルメされた鯨が『よろしくね!』と言っているスタンプが写っている。

 

「鯨だ」

「鯨のエールちゃんです」

「そっか……」

「はい」

 

 こんなところも海属性なんだな、と感心する千夜の表情を見て何を思ったか、「かわいいんですよ」と真魚は一言添える。

 

「とりあえず、ぼくはもう帰るよ。じゃあね。楽しかったよ」

「あ、はい。お疲れ様です。私も楽しかったです」

「うん。縁があれば、また会おう」

「はい」

 

 千夜は軽く手を振って、背を向ける。

 真魚は、彼に合わせて手を振って、その場にとどまりながら微笑んでいた。

 

 そして少女は、なんだか友達と遊んでたみたいだったな、と思った。

 喫茶店でお茶をして、映画を見て、見た後に映画の話をして、関係ない話で盛り上がったり。

 それはきっと、仲が良ければ起こりうる、至極普通の出来事で。

 

「……縁があれば……」

 

 二人が出逢ったのは、再会したのは、何の裏もなく本当にただの偶然だった。

 だけど偶然というのは必然に等しい。

 海を好む。風を好む。夜を好む。

 そういう、好みの指向性が少なからず合致したからこそ、二人は必然的に偶然な出会いを果たし、必然的に偶然な再開を果たした。

 けれど、だからこそ、それは選んだ結果。

 

 三度。

 

 少女が彼と出会ったのは、今日で三度目になる。

 そして彼の家を知っていて、彼の好みもなんとなくわかってきて、行動圏内もある程度の当たりをつけることはできている。

 つまり出逢う可能性を高めるも低めるも、少女の自由。

 

 縁。

 

 二度あることは三度ある。けれど、四度目以降は、自分の意思で選ぶ必要がある。

 事実、‟次”に会うときは、偶然ではなかった。

 

 

 

 

 彼らが再び出会うのは11月4日……今から約2か月後のことだった。

 

 

 

 


 

 

 

 

人魚姫 -あらすじ-

 

 ……あるところに、歌声の美しい人魚の姫がおりました。

 ある日、人魚姫は、王子様に恋をしました。

 王子様に恋焦がれた人魚姫は、声を代償に、人間の足を手に入れ、陸に上がることができました。

 人魚姫は一人の娘として王子様と仲良くなることができましたが、王子様はかつて自分を救ってくれた人魚に恋をしており、人魚姫に振り向いてはくれません。

 王子様を救った人魚というのは、他でもない人魚姫のことなのですが、ひれの代わりに二本の脚を得てしまった人魚姫は、もう人魚には見えませんでした。

 声も失っているものですから、王子様の想い人は私なのよ、と伝えることもできなかったのです。

 

 しばらくして、王子様はとなりの国のお姫さまと結婚することが決まりました。

 

 人魚姫は、となりの国のお姫さまと幸せそうに踊る王子様を、心が裂けるような思いで見つめていました。

 そんなとき、人魚姫の姉たちが、一振りのナイフを持ってやってきました。

 なんと、このナイフで王子を刺せば、人魚姫の両足は魚に戻り、海に戻ることができるというのです。

 

 人魚姫は、王子様と花嫁がねむるテントに忍び込みました。

 二人は抱き合いながらねむっていました。幸せそうでした。王子様の心は、花嫁で満たされており、他のことはすっかり忘れてしまったかのようでした。

 

 それを見た人魚姫は、ナイフを波間に投げ捨てました。

 そして、自分の身も、海に投げてしまったのです。

 かくして人魚姫の体は、泡になって……そして、空気の娘になったのです。

 

 

 

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