家出娘のなつき度が上がった。通い妻に進化した。   作:夜桜さくら

4 / 12
おやすみ/……おやすみなさい

〈11月4日 〉

 

 

 ──今夜泊めていただけませんか?

 

 

 千夜のスマートフォンに、そのメッセージが届いたのは午後10時くらいの出来事だった。

 食事を済ませて、入浴もすませて、適当にだらだらと過ごすか……というときに、連絡がきた。

 

 はじめて少女と出会ったのは7月25日、次に出会ったのは8月9日、そして最後が8月28日。

 そして今日が、11月4日。

 連絡先を交換してから、早二か月が経っていた。

 あの頃はなんだかんだと、一か月程度で三回の邂逅を果たしていたので、記憶に新しい状態が維持されていた。

 けれど、二か月。

 たった二か月と見るか、二か月も、とみるかは人によるだろうが、やはり二か月もまったく音沙汰がないと、仕事や遊び、日常のさまざまなことで記憶は塗り替えられていくものだ。

 

 眩しい太陽も光を弱め、木々は秋色を帯びている。

 それくらいの月日が経っていたから、やはり思うところが少なからずあった。

 少しの驚きと、納得と、心配と。

 彼はメッセージを認識するや否や、特に事情を詳しく聞くこともなく、了承の意を返信した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お久しぶりです。……すいません、夜分遅くに」

「いや、いいよ別に。あがってあがって」

「明日平日だし、お仕事ありますよね? 本当に大丈夫ですか?」

「まぁ……否定はしないけど、実際そこまで困らないっていうのも本当だよ。徹夜で一緒にゲームしよう──みたいなこと言われるとすごく困り始めるけど、徹夜でゲームとかする?」

「しません」

「なら問題ない」

 

 時刻は23時。

 早ければ眠りにつく人もいるだろう、という時間帯。

 深夜、と区分する人間もいる時間帯。

 

 そして今日は木曜日。明日は祝日でもなんでもなく、普通に仕事や学校のある平日だった。

 

 暗い外、薄暗い廊下を通って、明るい部屋に少女を通す。

 部屋の明かりで、少女の姿がよく見えた。暗がりではよくわからなかった部分が、よく見えた。

 長袖の白いシャツワンピース。夜にとけこむ、さらさらとした綺麗な黒髪。同じくきれいな黒い瞳。

 

 それから、()()()()()()()()()()()

 

「……どうした、それ」

「あ、やっぱりわかりますか。まぁ、ですよね。気付かれないかなと思ってたんですけど、無理がありましたかね……」

「殴られた?」

「……」

「相変わらず嘘を吐くのは下手らしい」

「まぁその……はい。そういうわけで、友だちに泊めて、ともちょっと言いづらくて……。変にどこか泊まろうにも、その、怪我してる高校生が……その……」

「うん。なんとなくわかるし、いいよ。いつまででもいていいよ」

 

 なるほど、と千夜は納得をした。

 確かに友達には、あまり知られたくないことなのかもな、と。

 それに、基本的には問題ないだろうが、妙な話になって事態がややこしくなるかも──、という危惧をすることも、わからないではない。

 

「着替えとかは?」

「あります。今日は持ってきました」

「お風呂は?」

「……借りてもいいですか。すいません」

「はいはい」

 

 聞くべきことを手短に聞いて、彼は心の中でため息を吐く。

 女の子の顔に、傷。

 ごく普通の精神をしていて、これを気に病まない男はいないだろう。

 暗がりだと気付かなかった程度、少し腫れている程度、軽傷と言っていい程度だが、それでも女の子の顔が傷ついているのは、それだけで少しクるものがある。

 加えて、当人は、なんでもないことのように微笑んでいる。

 

 少女の心は、傷ついていないわけではない。

 

 けれど痛みというものは、我慢ができてしまうものだ。

 許容限界値は人によってさまざまであろうが、少女の自然にも思える微笑みからは、少女の許容限界値が高い位置にあることが窺える。

 そして、そんな少女から、赤の他人と言っても過言ではない彼まで連絡がきたという事実が、また痛ましい。

 そこしか、もう頼れなかったのだと。

 その事実が何より、彼には心苦しかった。

 

「……とりあえず、いま追い炊きしはじめたけど……。そうだな、またココアでも飲む?」

「……ええと。はい。いただきます。ありがとうございます」

 

 キッチンに向かおうとして、はた、と彼は足を止める。

 

「…………いや待て。違うな。ちょっとぼくも混乱しているらしい。風呂とか飲み物とかより先に、手当てが先か」

「大したことないですよ。ちょっと腫れてるだけですし」

「えぇ……いや、だめ。だめだよ。血は?」

「えーと……口の中が少し切れてますかね。でも、もう止まってるので……」

「そう? そうか……」

 

 彼は、口元に手を添えて考え込む。

 しかし、混乱しているときというのはやはり、考えがまともに定まらないもので、今回も例にもれなかった。

 

「とりあえずいったんソファ座って、ゆっくりしてて」

「はい」

 

 彼は手早く氷枕を引っ張り出し、トタパタと動いて、枕にタオルを巻いて、少女のもとへ。

 ソファにちょこんと、借りてきた猫のように縮こまって座っている少女に、「はい」と渡す。

 

「……ありがとうございます」

「気楽に──って言っても難しいだろうけど、まぁ気楽にしてくれると嬉しいな」

 

 ちべた……と。

 そんなことを呟く少女を横目に、彼は迷いを継続していた。

 何を迷っているのかと言われれば、傷ついた少女への対応方法である。

 心というのは繊細で、触れ方を間違えれば、簡単に傷が入るものだから。

 特に、すでに傷心だというなら、傷口に塩を塗る行為へと簡単に発展してしまうだろう。

 

「…………」

「…………」

 

 少し考えて、彼は、過度に触れないことを選択した。

 触れれば傷つくなら、触れないのが一番いい。

 傷には薬を塗るものだが、心への特効薬なんてものは簡単に用意ができない。

 なら、変につつかず、安静に、穏やかに。

 大袈裟に拒否するでもなく、歓迎するでもなく、ただ普通に過ごそう、と。

 きっとそれが一番だろうと、彼は思った。

 

 ピー。

 

 そんなことをしていると、電子音が鳴った。

 どうやら湯船の準備が整ったらしい。

 

「着替えは持ってきたって言ってたっけ? バスタオルは?」

「……すいません、忘れてました……」

「じゃあちょっと待って」

 

 彼はまた、トタパタ、とバスタオルを持ってきて、少女へと。

 

「ぼくは割と、何もなくても深夜まで……二時くらいまでは起きてるタイプだし、別に時間は気にしなくていいから」

「……ええと、はい」

「深夜徘徊の実績は伊達じゃない。嘘じゃないよ」

「……じゃあ、ちょっとだけ、長いこと入っててもいいですか? 髪の毛乾かすとかも含めると、たぶん、一時間半くらいはかかっちゃうかなって……」

「ああうん。余裕」

「……ありがとうございます」

 

 彼が微笑むと、少女は、目を逸らして逃げるようにバスルームへと足を運ぶ。

 千夜は後ろ姿を見送って、ため息を一つ、ひっそりとこぼす。

 

 

「──……念のため、日用品買い足そうかな」

 

 

 次のさらに次があるかわからないが、少女用のバスタオルや毛布などは、置いていてもいいかもしれない。

 もし次のさらに次が訪れなくても、それ自体は平和の証とも言えるし、それに自分用の予備としての役割は果たせるので、悪くはないアイデアのように思えた。

 今日のところの寝具をどうするかは悩みものではあったが、ソファは簡易ベッドとして使用可能ではあるし、暖房と加湿器さえつけていれば、夏用の掛け布団でいいと思える。

 千夜のベッドに寝てもらい、彼がソファで眠るという選択もあるにはあるが、あの少女はそれを是とする性格でもないだろう。

 

「まぁ、どうとでもなるか」

 

 でも過度な干渉はしたくないとはいえ、もう少し負荷をかけない形でどうにかできないか──、などとやっぱり考えてしまったりして。

 ただやっぱり、人の心に触れるのは難しい。

 

 直接の言葉を投げるには、心の距離が遠すぎる。

 なら、間接的になら、そういう触れ方なら、刺激も少なくていいんじゃないか──、と。

 

 最善ではないけれど、次善ではあるかもしれない。

 千夜は、机の上に置いてあるメモ用紙と、ペンに、目を落とす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、1時間と少ししたころ。深夜、1時。

 ドライヤーの音が止んで、少女が居間へと入ってきた。

 

「──……」

 

 彼は、居間の大きなモニターで、アニメ映画を見ていた。

 少女は、ぴた、とドアを開けたところで静止して……。

 そろりそろり、と。

 物音を立てないように、という足取りで、動く。

 そんな少女を、彼は床に直座りしながら、一瞥する。

 

「や。思ったより早かったね」

「そう、ですか?」

 

 モニターの映像は動いていて、音声は流れ続けている。

 彼はそれに頓着することなく、モニターではなく少女を見て、話していた。

 

「髪乾かすのとか、まぁ色々。もっと長くかかるかと思ってた……。ていうか、ちゃんと乾いてる?」

「……まぁ……はい。ある程度は」

「……」

 

 じ、と彼は少女の髪を見つめる。

 お風呂上がりの女の子。

 心なしか、目元が腫れている気がする。気がするだけかもしれなかった。

 それから、ほかほかと、肌がしっとりしている……のは良いとして。

 少女の、夜に濡れたような髪は──……まだずいぶん、水気を含んでいるようにも見えた。

 髪が長いと、それ相応に乾かす時間も必要だろう。けれど、人の家で、深夜で、やっぱり時間は気になるだろう。だから時間を使うに使えなくて──と、そういう結果の話だった。

 

「ぼくは見ての通り映画見てるし、別に時間とか気にしなくていいよ。……あぁ、一回見たことあるやつ適当に流してるだけだから、音も気にしなくていい。半分くらいは見てないし」

「……ありがとうございます」

 

 そう言って、少女はまた、洗面所へ。

 やがてドライヤーの音が、また聞こえ始めた。

 

「……」

 

 彼はひっそり、吐息を一つ。

 映画を流し始めたのは、良かったのか、悪かったのか。

 彼が就寝の準備を始めていれば、気を遣わせるだろう。けれど映画を見ていれば、それを邪魔しないようにと、それはそれで気を遣わせるだろう。

 結局どうなるにせよ気を遣わせるのであれば、何が正解なのか……と。

 彼は、そんなことを思っていた。

 

 

 そして、幾ばくかして。

 

 

「すいません。終わりました……」

「ん。何か飲む? 水とか」

「ええと……大丈夫です」

「そ。まぁのど乾いたら、冷蔵庫にあるものは好きに飲んでもらっていいし、コップも何使ってもいいし」

「ありがとうございます」

 

 少女は、少し目を泳がせたあと、そろりそろり、とソファにすとんと座った。床に直座りしている彼からは、幾分か離れた位置。

 

「……それ、『秒速5センチメートル』、ですか?」

「ん。知ってる?」

「はい。えーと、前に放送してるのを見たことがあって」

「なるほどね?」

「……好きなんですか?」

「うん」

 

 少女は静かに、納得したように頷いた。

 秒速5センチメートル。

 その物語の形は、結末は。

 あぁ確かに、前に聞いた話を踏まえると、彼が好きそうな雰囲気ではあった。

 

「最初の台詞が好きなんだよね。……なんだっけ。さっき見たのにもう忘れたな。桜の花びらの落ちる速度が秒速5センチとか言ってるあたり」

「……『ねえ、秒速5センチなんだって。桜の花の落ちるスピード。秒速5センチメートル』……ってところですか?」

「……よく覚えてるね」

「まぁ、一回見たので。……その、記憶力はいいほうなんです」

「へー」

 

 彼は少女のほうを、感心したように見つめる。

 そして少女は、バツが悪そうに、身をすくめた。

 

「まぁでもその、いま言ってくれた台詞が好きでさ。その台詞に映画の魅力の半分は詰まってるなーって思う」

「……?」

 

 もちろん異論は認める、と彼は言いつつ、疑問符を浮かべる少女に向かって、付け加えるように言葉を続ける。

 

「桜の花びらの落ちるスピードって、秒速5センチじゃないんだってさ」

「え、そうなんですか?」

「そうそう。だからこの映画好きなんだよね。本当は秒速5センチじゃないらしい」

「へー……」

「そう、秒速5センチっていうのは、本当のことじゃなくて。けど本人がそう思ってるならそれが本当なんだろうなって思えたりする。言わなかったこととか、言えなかったこととか。未練があるとかないとか。そういう……なんていうのかな。すれ違いとか? ちょっと言葉に迷うけど、人の未完成な形がきれいな映画というか。で、なんできれいなのかなって思うと、それはやっぱり、桜の花の落ちる速度が、秒速5センチだからなのかなって」

「……小池さんって」

「……はい」

 

 彼の言葉を聞いて、少女は、少し、驚いた。

 少女は基本的に、一度目にしたもののことは、覚えている。経験したことを忘れることはない。だから、今話している映画の内容についても、ごくごく普通に記憶している。

 基本的には、男の未練の話だと。未来を向くに向けない男の、長い時間をかけた失恋の話。

 少女自身、別に、あのような話が苦手なわけではなかったが、煮え切らないような感情は抱いていたから。

 まるで、光が瞬くような。

 少女は、そんな気持ちで、息を吐いた。

 

「小池さんの選ぶ言葉って、なんだかやっぱり、変わってますよね」

「……はい」

「あ、えと、褒めてます。面白いなって意味です」

「え、ほんと?」

「はい」

「だいたいこういうこと言うと気持ち悪がられるから、新鮮なリアクションだ」

「まぁ……この映画が苦手ってひとの気持ちもわかるので……。大半のひとはそういう反応になるんでしょうね」

「そうだなぁ」

「私も、もうちょっとこう……手紙とかメール、頻繁に出せばいいのに、みたいなことを思った記憶があります」

「まぁ……出せなくなっていく気持ちもわかるんだけどね。出したくないというか、出したいけど躊躇われるみたいなのは誰でも思うところな気がする」

「それはそうなんですよね」

 

 少女は、ううん……と、唇に手を添えて、少し考える。

 遠方への引っ越し。物理的に離れ離れなった少年少女のつながりは、手紙という形でしかなくて。

 だけれど、顔も見えず、本音も書けないのであれば……徐々に心が離れてしまうのは仕方のないところもある。

 

「でも、もらうぶんには……もらうぶんには気にならない気はします。出すのは確かにまぁ、思うところがあるのはわかるんですけど」

「時間と距離が空くとどうしてもね」

「一般論としても、遠距離恋愛っていうのは難しいでしょうしね。それに、子ども同士ですし」

「まぁ大人同士なら、またちょっと違う話にはなるだろうけど」

「……ですね。……なんだか変な方向な話持ってっちゃって、すいません」

「いやいいよ。はじめから中身のある話はしてないし」

「なら、いいんですけど」

 

 モニターにはなおも映像が流れ、音が響いている。

 しかし、もともと彼は間をつなぐために流し始めたものだったから、そこに対して、あまり注視はしていなかった。

 ぼぅ、と。

 眠気などで少しふわついた頭と、少し浮いたような視界。

 ねむたいな、という感情。

 そういったことを思っているのは、彼も少女も同じで……だからぼんやりと、滑るように空間を走る音と映像を、漠然と捉えるだけになっていた。

 

「……」

「……」

 

 少女は、ただシンプルに、彼の行動に自分の行動を合わせる必要があるから、特に何もすることができなくて。

 彼は彼で、少し迷っていた。

 先ほど話題に出た、手紙というものの扱いについて。

 手紙を出すことが躊躇われるのは、手紙というものが、重たいからだ。口頭で話すのとは、質の違う言葉の重み。

 なぜなら、その言葉を綴っている間は、送る対象のことだけを考えて、言葉を選んでいる。

 口頭よりも、考えて言葉を選ぶということを、より高い次元で行っている。

 けれど。

 

「まぁ、いいか」

「……?」

「実は少し前に、ちょっと変なテンションになって、手紙書いてたんだよね」

「へぇ〜。いいですね。私、LINEとかばっかりなので、ちょっと憧れがあったりします」

「わかるよ。ぼくも昔、若干の憧れを込めてレターセットを買ったんだけど、使いどころがなくてさ。ずっと死蔵してて」

「わ、レターセット。見た目おしゃれなの多くて、いいですよね」

「そうそう。そうなんだよね」

「小池さんが買ったレターセット、どんなやつですか?」

「えーとね」

 

 彼は近くにある棚の上に置いてある、未使用のレターセットをパッと取って、少女のほうへと差し出す。

 深い海色のデザインで、便箋も海の生き物がたくさん描かれている。

 

「これ」

「うわきれ〜……。小池さん、こういうの好きそう……」

「まぁ……」

「わー……」

 

 彼の想像の十倍は、少女の食いつきがよかった。

 目はきらきらとしていて、今日見た中で、一番活力を感じた。

 彼は、おぉ……と少し目を瞬きつつ、これなら意外といけるのでは、と思い始めた。

 

「…………ところで、ちょっといい?」

「……? はい」

「はい、これ」

「……? なんですかこれ」

「桶内さんへの手紙」

「……?」

 

 彼は隠し持っていた一通の手紙を、少女のほうへ差し出す。

 いま少女が手にしているレターセットと同じデザイン。違う点は、封がされていること、中身が伴っていることだった。

 

「……え、と」

「いまこの場で開けられると、紙で文字にした意味がないので、まぁ明日とか、ぼくが仕事行った後とかにでも……──って、そうだ。ところで、明日学校とかはどうするの? 一日で腫れは引かないだろうし、休むのかな」

「えっえっ。明日はたぶん、休む、と思います、けど……」

 

 手紙のこと、明日のこと。

 二つのことを同時に言われて、少女はやや戸惑いの声をあげる。

 

「それこそ日中、家に帰るの憚られるなら、ずっとここにいてもいいし。……でも、そうだな、何にせよ、やっぱりどこに何があるかくらいは、軽く話とこうか」

「……」

「おいで」

「はい」

 

 彼はよいしょ、と立ち上がって、少女を手招きする。

 説明したのは、冷蔵庫の中身、洗面所に置いてあるもの。使ってはいけないものは基本的に存在しないことを、改めて伝える。

 それから、今日少女が寝る場所について。彼が起きる時間について。

 思いつく限り、必要な情報を、すべて伝えた。

 

「──……まぁ洗顔料とか化粧水とか、女の子からすると、男性用のはどうかなーって思うんだけど。……まぁシャンプーとかリンスもそうなんだけど。ないよりはマシだろうし、明日の……今日の朝になったらこのへん使ってくれていいから」

「はい」

「ぐらいかな。何か聞きたいことある?」

「えー、と」

 

 居間に戻りながら、少女に問いを投げかける。

 少女は、てとてとと後ろを着いてきていた足を、ピタ、と止め……目を泳がせる。

 

「…………ぁ、ぇ」

 

 言いたいことはあるような、けれど口にしづらいような。

 うめき声にも似た、口から漏れる、わずかな声。

 少女は、口をもにょもにょとさせながら、その場に立ち尽くす。

 

「……」

 

 とりあえず座ったら? とジェスチャーで示すと、少女はすとん、とソファへと膝をそろえて座る。

 

「全然、関係ない話なんですけど……」

「うん」

「嘘、吐く人のこと、どう思いますか?」

「……?」

「今日お父さんと喧嘩して……。今日お母さんいなくて。明日帰ってくるので、私が家にいないのとか、お母さん知らなくて……」

「あぁ……」

「お父さんと揉めた理由とか、そういうの、お母さんには知られたくなくて」

 

 記憶の想起。

 声が震え、嗚咽じみたものが言葉にまじり、瞳は潤んでいる。

 泣きそうで、けれど泣くまいと。

 

「お母さんには、何も知られたくない?」

「……うん」

「……そっか」

「全部話したら、お母さんとお父さん、喧嘩しちゃうと思うから……」

 

 父親と揉めて、母親は揉めたことを知らなくて。

 事実として、殴られていて。

 それを含めた一連のことを、知られずに終わらせたい、と。

 

「……そうだな。君は嘘とか苦手そうだから、ありのままのぼくの本音で話すけど。そのあたりは、正直、ほんとのことを話してもいいんじゃないのかなって思う」

「……」

「だって、泣くまで悩んでて。そこまでの話なら、じゃあ周りに甘えるなり任せるなりしてもいいんじゃないのかなって思う。……ただ」

「……?」

「両親に喧嘩してほしくない──って、理由は、とても尊い。最初の質問、『嘘を吐く人のことをどう思うか』、だけど……素直に尊敬する。嘘を吐いてても吐かなくても、君は立派だよ。頑張ってるね」

 

 彼がそう言うと、少女は、大きく息を吸って、吐いて。

 また息をして、吐いて。

 震えるような吐息を、こぼして。

 だけれど、潤んだ瞳から、涙はこぼれない。

 

「……ふぅ」

「……」

「すいません。落ち着きました」

「それはよかった」

 

 やはり、心というものは繊細で。

 少しふれるだけで、感情がこぼれてきそうになる。

 

「…………お母さんには、何も言わないことにします」

「うん」

「……明日は、学校休みます」

「うん」

「……明日、少しの間、この家にいてもいいですか?」

「いいよ」

「あとそれから……」

 

 少しの、沈黙。

 

「……ココアが飲みたい、です……」

「いいよ。あったかいのでいいかな」

「……」

 

 彼はよいしょと立ち上がって、キッチンへ。

 少女はその背中を見つめ、ハッ、と止めるように手を伸ばす。

 

「ごめんなさいやっぱりいいです変なこと言ってすいません」

「えー」

「もう夜も遅いですし……」

「まぁそれはそう」

「ですよね」

「甘いのと甘くないのどっちがいい?」

「……」

 

 事もなげに、淡々と、彼は作業をはじめていた。

 ココアの缶を取り出して、蓋を開け、軽く香りを嗅いで。冷蔵庫からミルクを取り出して。片手鍋を引っ張り出して。

 それを眺めて、少女は、ただ不安で。

 つらいことがあって、ただそれだけでもしんどくて。他人の家というのは、落ち着かなくて。夜は孤独で、寂しくて。

 だからぬくもりが、ほしくて。

 誰でもいいから抱きしめてほしい──、なんて。

 でもそんなこと言えるわけがないから。

 

「……甘くないほうがいいです」

「よろしい」

 

 ふらふらと引き寄せられるように、手を動かす彼のもとへ。

 狭いキッチンに、体一つぶんほどの距離を空けて、のぞき込むようにして入り込む。

 

「……ココア作るの、結構好きなんだよね。缶からココアパウダー取り出すときの香りも好きだし、ミルクちょこっと入れて、ペースト作るところも、練り物してる感じが結構好き。最後加熱して仕上げるところも、香りがぶわーって広がって好きなんだよ」

 

 二人ぶん。ココアパウダーを、スプーンで軽く四杯。

 ミルクを少々。入れすぎないように。そして、スプーンで練るように混ぜ合わせる。均一に混ざったら、ミルクを継ぎ足して、また混ぜて。

 軽く火にかける。

 芳醇と呼ぶにふさわしい、まろやかな香りが広がる。

 そういう様子を、彼がココアを作る過程を、少女は、浮いたような心で眺めていた。

 

 

「……──と、いうわけで、完成です」

 

 

 彼はマグカップを二つ取り出して、均等に注ぐ。

 

「ここまでやっといてなんだけど、飲む?」

「……飲みます」

「はい」

 

 白い湯気が、立ち上がっている。

 ミルクブラウンの液面は、ややまだらで、白とブラウンが対流しているようで。

 そして、細かな泡が、まるでクリームのように現れては、消えていく。

 

 彼は、目を細めてそれを見て、カップを持ってテーブルへ。

 

 こと、とカップをテーブルの対方向に一つずつ置いた。

 

「……」

 

 ふー、ふー、と彼は、息を吹きかけて。

 ずず、と一口飲んで。

 はぁ〜〜、と吐息をもらす。

 

「……」

 

 少女は、倣うように、ココアを一口。

 (あつ)、と声にならない声をもらして、嚥下する。

 

「……」

 

 モニターに流れていた映画は、いつの間にかエンドロールを終えていて。ずっと空間を満たしていた音が、なくなっている。

 吐息の音。カップが机に置かれる音。衣ずれの音。エアコンの音。夜の音。

 空間を満たすのはそれくらいで、つまりは少女に馴染みのない他人の音だった。

 

「ココア、お好きなんですね」

「ん。一日一回は飲む。……桶内さんは? 好きな飲み物とかある?」

「好きな飲み物……」

 

 少女は、少しだけ考えた。

 自分が好んで飲むもの。いくつかある候補を、思い浮かべる。オレンジジュース、ミルクコーヒー、抹茶ラテ、タピオカ、など。

 そして、その好きなラインナップの中には、自然と入りつつある、いま口にしている飲み物があった。

 

「私も、ココア好きですよ」

「そう。それはよかった」

「甘くないのもいいですね」

「甘くないのは甘くなくておいしい。甘いやつは甘くておいしい。……って、前も似たようなこと言った気もするけど」

「言ってましたね」

 

 彼は目尻を下げて、微笑む。

 それを見て、少女も、ようやく肩から力を抜くことができた。

 今日一日、彼と会ってからずっと、迷惑をかけて負担をかけることしかできなくて。情けなくて寂しくて辛くて、それがまた苦しくて。

 あぁ、だけど、言葉を交わして、自然と笑ってくれるのだというその事実が、やっぱり嬉しくて。

 

「……おいしいですね。あったかい」

「それはよかった」

 

 少女は、マグカップを両手で持って、こくり、と飲んで。

 そして、安堵にも似た、吐息をもらす。

 夏の日に飲んだそれと違うのは、温かいこと。

 熱が、のどを通って、胃まで届いて、お腹の中から暖まる。

 

「これ飲んだら、歯磨いて、寝ようか」

「はい」

 

 しばらく二人で、同じテーブルについて、同じ飲み物をのんで。

 交代ごうたいに、洗面所で歯を磨いて。

 

 消灯。

 

 パチリ。

 

「おやすみ」

「……おやすみなさい」

 

 彼が寝室へ消えるのを、少女は毛布のおかれたソファから、見送った。

 扉が閉まる。一人になる。

 

 

「……──」

 

 

 ソファのひじ置きに頭をあずけて、少女は暗闇の中、毛布をかぶる。

 スマートフォン一つあれば、夜明けまで、時間をつぶすくらいのことはできるだろう。けれど、そういうことをする気もあまり起きず、素直に目を閉じる。

 誰かと時間を合わせて眠るというのは、どことなく、旅行のような気分で、不思議で、落ち着かないようで落ち着いていて。

 夜。暗闇。静寂。

 頬の痛みも忘れて、少女は、穏やかにねむりに落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

〈11月5日 〉

 

 

 ピピピ、ピピピ。

 軽やかな電子音、ぼやけた視界、重たい体。

 少女はソファで横になりながら、アラームを止める。

 時刻は6時過ぎ。

 彼が起きる、──と先日言っていた時間に合わせて鳴らしたアラームで、少女は目を覚ます。

 

 別に、少女自身は、この時間に起きる必要もないのだけれど。

 

 学校を休むという、やや後ろめたい行為をする予定がある手前、何がしかの基準を守りたいという気持ちがあったから、きちんと起きようと努めた。

 ねむった時間が深夜である上に、寝床が快適と言えるわけでもなかったから、肉体のコンディションはやや低め。

 精神のコンディションは、普通だった。悪くない。悪くないということは、異常がないということで、良いと言い換えてもよかった。

 

「…………」

 

 少女は、彼の眠る寝室をじっと見つめる。

 そろそろ彼も起きて、ドアが開いてもおかしくない。

 少しの間、少女はぼんやりドアを見つめ続けていて、やがて洗面所へと向かった。

 顔を洗って、歯を磨いて、髪をとかして。

 そうして、少女が起きてから、約15分が経過したが、特に寝室のドアが開く気配はない。

 なお、寝室のドアの向こうからは、アラームの後が、鳴っては消えて、鳴っては消えてを、5分おきのペースで繰り返している。

 

 

 ──6時から7時くらいまで、何回かアラーム鳴るけど、寝てていいよ。

 

 

 実際のところ、彼が言っていた台詞はこれで、少女は一番最初の6時に合わせて起きたのだが。

 まぁ、あの言い方だと、7時までに起きればいいのだろう、と少女は結論づけた。

 

「……んー」

 

 寝間着から普段着に着替えてもいいけど、と少女は自分の服をつまんだりして。

 でも変に洗面所で鉢合わせても気まずいし……と、そこで、一つのことを思い出す。

 

 手紙。

 

 彼が、自分のいないところで開けて読んでほしい、と言っていたもの。

 今の時間の使い方として、ちょうどいいかもしれない──、と期待半分怖いの半分で、少女は手紙を開封した。

 ソファに座りながら、便箋を取り出すと。

 取り出すときに、まず、何かが落ちた。

 

 硬質の、小さいもの。

 金属でできた、鍵。

 

 床に落ちたそれを拾い上げて、少女は、手紙を読み始める。

 

 

「…………………」

 

 

 読み進めて、読んで、読み終わって。

 少女は、頬をほころばせる。

 そして、ぽすん、と腰かけていたソファへと横に倒れる。

 にまにま、と。

 そんな形容がよく似合う笑みを、少女は、浮かべていた。

 

 ──あぁ、あの人らしい。

 

 出会って間もないのに、なんだかそんな風に思える、内容だった。

 少女は、思った以上に手紙に喜んでいる自分にやや驚きながら、全身で喜色をあらわにしていた。

 手紙の内容はともかくとして、しれっと入れられていた合鍵と思わしき物体の取り扱いには悩むところではあったが、それを差し引いても嬉しいことが書いてあった。

 穏やかな、ココアを飲んだときのような気持ちになれる、手紙だった。

 

 

「〜〜っ」

 

 

 感謝の気持ち。喜びの気持ち。

 それを彼にちゃんと返したいと思って、少女は跳ね起きる。

 

 モーニングココアでも、作ろう。

 

 彼ならきっと喜ぶ。そう思って、少女はキッチンへと向かった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。