家出娘のなつき度が上がった。通い妻に進化した。   作:夜桜さくら

7 / 12
千夜さん/真魚さん

 

 

〈 1月9日 〉

 

 

 吐息の温度は36℃。気温は0℃。

 白いもやが、空気の透明にとけては消えていく。

 外気と、肺の中身が入れ替わっていく。

 

 冬の朝の空気は、透明度が高い。

 

 そう感じるのはきっと、吐く息が白いからなのだろう。

 

「最近、めっきり寒くなりましたわね。うぅ~、寒いですわ~……」

「礼ちゃん寒いの苦手だもんね」

「こういう日は炬燵でお蜜柑を食べるに限りますわ……」

「炬燵蜜柑いいよね、わかる。ごめんねなんか、買い物付き合わせちゃって」

「いえいえ。真魚ちゃんとのお出かけはわたくしも楽しいですもの。むしろ付き添わさせていただいて、わたくしがお礼を言いたいくらいですわ」

 

 真魚の手には、スーパーの袋が下げられていた。

 礼はそれに目をやって、うむむ……と唸る。

 

「なんというか、もう立派な通い妻ですわね」

「え゛」

「いやだって……料理して掃除してって……付き合ってるようなものではないですか」

「え~……。でも泊まりはしてない、よ?」

「いや当たり前でしょう。まぁ付き合ってるも同然、傍からみれば恋人同士にしか見えないというのはありますが、さすがにそういうのはですね」

「はい……」

「とはいえ、わたくしは正直、どんな関係でも当事者がそれで満足しているなら問題ない──と思っていますので。…………だからまぁ、お互いが望むならいいとは思いますけど……わかるでしょう?」

「まぁ、うん……」

 

 真魚の行動──、そして感情は徐々にエスカレートしている。

 きっかけはどうあれ、小池千夜(こいけせんや)桶内真魚(おけうちまお)の二人の関係において、行動の主導権を握っているのは真魚であることに間違いはない。何故なら家に通っているのは少女であるし、家事に精を出しているのも少女であるし、求めているのも少女であるからだ。

 そしてその結果、恋人のように見えるというのが現実だった。

 一緒に映画を見る。ご飯を作る。同じ空間で同じ時間を過ごす。

 加えて、双方向に悪感情はなく、基本的には好感情がある。

 

「まぁでも別に咎めたいとかそういうのではなくて……」

「いやうんわかってる。言いたいことはわかる。大丈夫だよ。心配してくれてありがと」

「ならいいんですけど……」

 

 はたから見るのと、実際のところのそれとは、大きく異なる。

 礼はおおよそは知っているが、細かな経緯などは知らない。そして千夜も知らない。すべてを知った上で、選んでいるのは、真魚ひとりだけ。

 だから真魚は、実のところ常に悩んでいる。

 

 

 ──恋人に見える、か。

 

 

 どうなのだろう、と真魚は空を見上げる。

 薄雲に覆われた冬の空。光の霞む、冬の空間。

 自分が何を感じているのか、どうしたいのか、真魚にはまだよくわからなかった。

 

 

 

 

「いらっしゃい」

「……お、お邪魔します」

 

 色々と考えごとをしていたからか、真魚は変に緊張してしまっていた。

 声はどもってしまい、彼の顔を直視できない。

 部屋の中にはいつも通り、ココアの芳醇な香りが広がっている。いつも通り。そう感じるまでになってしまった。

 

 この部屋に訪れることへの抵抗感というものは、だいぶ少なくなってしまっている。

 その理由は何故なのかと考えたとき、やはり第一に“彼が嫌な顔をしない”というのが挙がってくる。拒否をする素振りを見せない。それは表面上の話だけでなく、内心でもそう感じてくれているのだと、少女は思っている。

 他人の心を見透かすことなんてできないし、これはただの真魚の想像。

 だけどきっと、そう外れてはいない。

 

 千夜は、桶内真魚という少女のことを、受け入れている。

 ただ、それが何故なのかはわからない。

 

「……どうしたの。立ち止まって」

「あ、いえ。……なんでもないです。洗面所借りますね」

「どうぞ」

 

 真魚はあわてて、洗面所に移動する。外から帰ってきたら手を洗おう! というわけで手洗いである。

 水を出して、石鹸で手を洗う。

 手を洗って、拭いて、居間へ。

 テーブルの彼が座っていて、対面の位置に、マグカップが置いてある。よく少女が座っているあたり。定位置と言っていい場所。

 そこにマグカップが置いてあるという事実が、そういう細かなところが、──『ここにいてもいい』と思える理由になっていた。

 

「はいお待たせ。外は寒かったでしょう」

「年越すと、本格的に冬って感じしますよね」

「うむ……」

 

 真魚はすとんと座って、おなじみの無糖ミルクココアが注がれたマグカップに、手を当てる。あたたかい。

 

「お昼まだだよね?」

「はい」

「よしよし。じゃあ昼はぼくが作ります」

「夜は私が作ってもいいですか?」

「うむ……。楽しみにしておく」

 

 夜は真魚が作る。それについては事前に許可をもらっていた。

 だからスーパーに寄ってから来たわけで、だけど改めて口頭で許可をもらうのは、やはり大事だと少女は思う。

 

「何作るんですか?」

「パスタ。キャベツとベーコン」

「わぁ~」

「わー」

 

 のんびりとした空間の中、ふーふー、と冷ましつつココアを一口。

 熱くて、ほろ苦く、まったりとしている。安心する味。

 これを飲むと、この家に来たという感覚がする。身体に熱が入る。あたたかい。

 真魚は頬をほころばせて、ミルクブラウンの液面を見つめる。

 

 そして、ちらりと、対面についた彼を盗み見る。

 

 落ち着いた表情で、ココアを飲んでいる。

 その所作を見て、なんとなく真魚は、『大人だな』というようなことを思った。

 大人。27歳。真魚の10歳年上。10年ないと追いつけない。

 少女は、ごくごく普通に、届かないな……と感じた。

 

「では本日は過去の名作アニメ観賞会ということで、しばらくの間お付き合いいただきます」

「なんですかその話し方」

「デフォが敬語の桶内さんには言われたくない台詞だな……」

「まぁ……」

「とりあえず今日はグレンラガンから……」

「わぁ~」

「わー」

 

 まず、少し早めのお昼を食べた。

 彼が作ったのは、事前の発言通りキャベツとベーコンの入ったパスタだった。少々オイリーで粗雑な味付けではあったが、“男の人”という感じがして少しどきりとした。

 

 こんな風なことを思うのは、きっと礼が言っていたことが尾を引いているのだろう。

 真魚は心中で、友達のことを責めた。

 昼食の片付けは、真魚がやった。ある種の共同作業だな、と思ってしまった。だんだん恥ずかしくなってきた。

 

 いつの間にか真魚の耳は熱を帯び、赤くなっていた。

 気付かれなければいいな、ともじもじしていたが、彼は気付いていた。

 彼は年頃の女の子だしな、と思った。可愛いな、とも思ったが何も言わなかった。

 

 彼曰く、このアニメはだいたい15年前の作品であるらしかった。

 15年。すごく昔。真魚は17歳であるから、真魚が物心つきはじめた頃合いだった。

 そうなると、彼は中学生くらいだろうか、と。

 そんなことを思いつつ、オープニングを眺める。

 

 地下の生活。閉塞した世界。その破壊。

 それは、まだ自分の運命に気づかぬ一人の男の物語。

 

 15年前ということが信じられないくらいに音も映像も魅力的で、正直真魚から見てもすごく面白かった。

 そして何より、彼が少年のように瞳を輝かせてアニメを見ていて、よかった。

 好意的な感情を抱いている相手が喜んでいるのは、それだけで嬉しい。

 

 そうしてそのまま、ちょこちょこLINEでメッセージを送り合ったりして、2, 3話と見進めていく。

 

 

 

 

 …………────。

 

 

 

 

 ぼやけた思考。視界。鈍い体。

 ワンテンポ遅れて、真魚は自分がねむっていたことを自覚した。

 

 悪いことをした、と億劫ながら体を起こして、時間を見る。

 時計は17時過ぎを示していて、想像以上に寝てしまったことを表していた。

 彼がかけてくれたのであろうブランケットから抜け出し、真魚はきょろきょろと周囲を見る。

 

 太陽は大地の奥に隠されてしまっていて、もう外は薄暗い。

 隣の部屋の明かりがついていることに気が付いた。彼の寝室だ。扉は開いていて、彼の様子がうかがえる。

 彼は険しい顔でスマートフォンを見ていた。そして、大きなため息をついている。

 

 

「…………ふぅ」

 

 

 真魚は彼に近づいて、その物音に気付いた彼は気づき、「あぁ起きたのか」と何でもないような顔に戻る。

 

「すいません。私寝ちゃってたみたいで」

「いいよいいよ。食後はちょっとねむくなるもんな」

 

 続き見る? どこまで覚えてる? とにこにこし始めた彼に、ひとまず夕飯の支度をします、と真魚は言う。

 もうそろそろ夕飯時だ。

 真魚はもらったエプロンをつけて、調理を開始した。少し不慣れな手つきで、トン、トンと野菜を切っていく。

 

 そして横目に千夜の姿をうかがう。一見すると普通に見えるが、見えるが。真魚は先の憂いを帯びた表情が気にかかっていた。

 

「何か嫌なことでもあったんですか」

「んー。そう見えた?」

「ということは何かあったんですね」

「まぁ……大したことではないんだけどねえ……」

「ならいいんですけど」

 

 トントン、と材料を切っていく。

 今日のメニューはポトフ。じゃがいもほくほく、寒い冬にぴったりのお料理。

 おいしくできるといいな。煮込むだけ。大丈夫。小池さん何かあったのかな。どうしたんだろう。──色々な雑念があった。

 

「いたっ」

 

 包丁は刃物。指に滑らせれば当然切れる。

 幸いにも深くはなかったが、赤い血が、滲んできた。

 

「……大丈夫?」

「ええと。はい。ちょっとだけ切っちゃって」

「……ひどくなくてよかった。とりあえず救急箱とってくる」

「そこまでしなくても……」

「怪我は怪我の後の、適切な処置が大事なんだよ」

 

 しゅん、と落ち込む真魚を尻目に、千夜は奥へと引っ込んで、すぐに戻ってきた。

 手には小さなプラスチックケース。

 彼にうながされるままに水道で傷を洗い、水気をとる。

 

「はいこれ。バンドエイド」

「……」

 

 丁寧に粘着面を露出し、あとは傷口に巻くだけという状態にして、彼はバンドエイドを差し出す。

 テープを露出した状態で出したのは、片手だとうまく貼れないと思ったから。

 バンドエイドを差し出した状態で止まったのは、指に触れるのは違うと思ったから。

 真魚が指を出したまま硬直しているのは、このまま貼ってくれるのかな、という思考が一瞬よぎったからだった。

 

「……」

「……」

 

 少しの沈黙のあと、血色の箇所に、彼がバンドエイドを巻き付ける。

 固い男の人の指が、少女の柔らかで細い指に、触れていた。

 無言のやり取りが妙な気恥ずかしさを産んでいて、真魚は頬を赤らめて、彼の様子をうかがう。

 相変わらずなんでもないような表情をしていて、少しショックだった。

 やっぱりこの人は私のことはなんとも思っていないんだな、と真魚は肩を落とす。

 

「あと代わろうか?」

「いえ。大丈夫です。やります」

「そ。じゃあ完成楽しみにしてる」

「はい」

 

 彼はまた居間に戻っていった。

 真魚も、調理に戻った。

 少し集中力を欠きつつも、あとは特にミスすることもなく、ポトフが完成した。

 

 そして場を改め、食卓。

 

 再三ではあるのだが、やはりこの状況はだいぶ特殊だ。

 友人というにはあまりにも歪で、恋人ではなく、本人同士もなんと呼べばいいかわからない関係性。

 そんな二人が、同じ食卓を囲んでいる。

 恋人であるならば、別に問題ではない。10歳差──学生と社会人という世間体の問題はあるが、本人同士が是としているなら、本人たちにとっての問題にはならないだろう。

 

 けれど、けれど。

 

 本人たちが、この状況を疑問に思うならそれは──。

 

「……どうですか?」

「うん。おいしい」

「よかったです」

「味がしみてていい。野菜がうまい。味付けの濃さが好み。濃すぎなくて、いい。煮物のにんじんってなんか好きだな。おいしい」

「わかります。にんじんいいですよね。色もきれいだし」

「うむ……」

 

 ほっと、安心する味になっていた。

 あたたかいものは心も安らぐ。レシピ通りに作ったそれは、ごく普通においしい出来だった。

 真魚はそう感じていたが、彼もそう思ってくれてよかったと、胸をなでおろす。

 

 好きだな、と思った。

 

 ごくごく自然に、真魚はそう思っていた。

 というより、そう思い始めていたからこそ、いまこうしてここにいて、それを許されているから頻繁に来るようになっていて。

 居心地がいいな、と思ってしまっていた。

 打算があると言われればそうだし、別に純粋な気持ちだけがあるわけではないのは間違いない。

 

 だから恋をしている、と一口では言えないのだけれど。

 

「私、都合のいい女になる才能あると思うんですよ」

「急にどうした?」

「まだ料理とか家事とかは未熟ですけど──」

「そう? 十分じゃない? 頑張っててすごく偉いと思う。というか、今日のご飯もおいしいしケチつけるところが特にないのでは?」

「……」

「話遮ってごめんなさい」

「……まぁ、愚痴くらいは私でも聞けますよという話です」

「愚痴……。あー、わかりやすかった? ごめんねなんか」

「てことはやっぱりなにかあるんですね」

「……」

 

 彼は苦笑いして、じゃがいもを食べる。

 じゃがいもは、ほくほくしていた。

 

「別に楽しい話じゃないしなぁ。ぼくがちょっと失敗したってだけの話」

「いいじゃないですか、失敗しても。私もまぁ……散々失敗してます……」

 

 真魚はバンドエイドの巻かれた指を、ひらひらと眼前に持ってくる。

 

「ぼくがカッコ悪いだけの話だしなー」

「えっ」

 

 真魚の顔は反射的に、聞きたい、という表情になっていた。

 好きな人の欠点を聞いてみたいというのは、ごくごく自然な感情だろう。

 優れているところ、駄目なところ。それら全部を、見て聞いて、感じたい。そういう、心の動き方。

 

「……え、なに。聞きたい?」

「…………はい。聞きたいです」

「トーンが本気なんだよな。怖い」

「こわくないですよ」

「はい……」

 

 まあいいでしょう、と彼は口を開く。

 

「実は詐欺? に遭ってさ~」

「え」

「100万円ほどロスった感じです」

「え?」

「終わり」

「……え?」

「まぁ悲しかったですという」

「思ったよりヘビーでびっくりしました」

「ね。ぼくもびっくりした」

 

 彼は話をそらすように、スープが美味しいね、と口にする。

 少女はそれに対し、いやいやいやいやいや、と手を振る。

 

「それ大丈夫なんですか? 警察とか」

「さぁ……?」

「さぁじゃなくて」

「この話口にしたぼくが悪かった。この話やめよう。ちょっと惨めになってくる」

「……私が口出しすることではないのかもしれませんが、お金のまわりのことはしっかりしましょう。もう一度聞きます。警察は?」

「いや、そもそも詐欺と確定したわけではなく」

「というと?」

 

 彼はだらだら、と冷や汗を流し始めた。

 少女の圧が、強い。にっこりを笑みを浮かべてはいるが、その奥に隠し切れない圧があった。

 

 ちょっと悲しいことがあった、ではもう済まされない流れになってきたな、と彼は悟った。

 これは洗いざらい話さないとダメなパターンに入っている、と。

 

「……あとでもいい? ご飯冷めちゃうし」

「それは……はい」

 

 せっかく作ってくれたのだから美味しく食べたい、と彼は言う。そこに対しては、おいしく食べてほしい真魚は、うなずくしかなかった。

 おいしいね、とまた彼が言って、ありがとうございます、と少女が答える。

 

 そして、食後。

 食器を水につけて、彼の言い訳タイムがはじまった。

 

 

 いわく、加害者とは友人関係であったと。

 状況を客観的にみると詐欺であること。自分にはメリットしかなく、デメリットはゼロ。

 話の流れで、友人の口座に百万円振り込んでしまっていること。

 

 

 そこまでを聞いて、真魚は、重く深いため息をついた。

 

「小池さんって、馬鹿、だったんですね……」

「そうかもしれない」

「その人と連絡は?」

「え?」

「とれるんですか?」

「連絡はとれるよ」

「じゃあ早く連絡とりましょう」

「え?」

「こういうのはスピードが大事なんです。もう手遅れかもですが。本人に連絡とれるならそれが一番いいでしょう。早く、呼び出してください」

「え、今日?」

 

 夕食を終えて、話をして、時刻は20時に迫らんとしているころ。

 千夜は時計をチラリと見て、「さすがに時間が遅い」と言おうとして、口をつぐんだ。

 

「はやく」

「……はい」

 

 いつぞや少女に“押しに弱い!”などと思った彼であったが、逆である。

 押しに弱いのは彼で、人の言うことに従ってしまうのは、彼のほうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 場は、喧噪に包まれていた。

 夜、居酒屋。

 生まれてはじめて足を踏み入れる場所。そして、詐欺。色々な要素が相まって、真魚は非常に緊張していた。

 曖昧な言葉で濁す千夜に代わって、事態を解決しないといけない。そう思っていたからだ。

 

 現れた人物は、井上と名乗った。

 スーツを着た、かっちりとした身なりをした男だった。

 けれど表情は軽薄で、信用できなさそうな人だ、と真魚は身構えた。

 

「よ、千夜。元気そうだな」

「元気そうに見える?」

「事前連絡無しに女連れてくるやつが元気じゃなくてなんなんだよ。……えー、桶内さんだっけ? 聞いてるかもしんないけど、俺、コイツとは高校からの付き合いなんよ。で、今も色々仕事とか…………細かい話はいいか。とりあえずよろしく」

「……はぁ」

 

 井上という男と、千夜は、真魚の目から見てとても仲が良さそうに見えた。

 騙した側と騙された側。何も知らなければとてもそんな風には見えなかった。

 ひとまず生を二杯、ウーロン茶を一杯。

 つまみとなる食べ物をいくつか頼み、ごく普通に飲み会がはじまった。

 

 困惑。困惑、である。

 

 真魚は、戸惑っていた。

 この状況に、である。

 

「ところで今日はどうしたんだよ」

「あぁ、それは……──」

 

 もっと、声を荒げるような事態になると思っていた。

 どんな会話になるにせよ、どんな人が来るにせよ、もっと声を荒げて……あるいは、彼が何も言えない状況が続くのではないかと、そう、真魚は思っていたのだ。

 だけど、そうなってはいない。

 

 千夜は、淡々と、なんでもないような顔と声で、告げる。

 

 

 ──あのときの金って、詐欺かなにか?

 

 

 そして、対面する男の反応もまた、淡々としていた。

 

 

 ──そうだよ。

 

 

 そこからの話は早かった。じゃあ返して、に対するOK。

 来週には100万耳揃えて返す、という言葉。

 騙して金を盗ったということを認めつつも、険悪な空気にはならず、どうでもいい世間話をしているかのような声のトーン。

 ははは、と談笑している二人が、真魚には気味が悪くて仕方がなかった。

 

「……つかぬことをお聞きしますが、もしかして詐欺というのは勘違いで、そういう名称でのただの友人間のお金の貸し借りだったりしたのでしょうか」

 

 おずおず、と手のひらだけで挙手をして、真魚は千夜に問いかける。

 千夜は苦笑して、どうなの、と目で井上に問いかける。

 

 

 ──返せって言われなければ一生返さないもんを友人間の貸し借りって言うならそうなんじゃねえ?

 

 

 井上はへらへらと、そう言った。

 千夜は、それを耳にして、苦笑していた。

 真魚は──、表情を、ストン、と落としていた。

 

 

「ふざけないでください」

 

 

 怒っていた。怒っていた。怒っていた。

 真魚は、怒りで燃え上がりそうなほど、怒っていた。

 善が悪に虐げられているのは許せない。悪がのうのうと生きて、善が困っていることが、許せなかった。

 

「なんで人を騙してそんな笑ってられるんですか。お人好しにつけこんで、良い思いをして、それを恥ずかしいと思わないんですか。あなたは──なんで…………」

 

 唇をゆがめて、真魚は声をしぼるように。

 それを聞いて、井上は面白そうに笑う。

 

「ていうか、金は返すって。この話これで終わりじゃいかんのか? というか、赤の他人にあれやこれやと口をはさむ権利ないと思うんだが」

 

 その言い方はあんまりだろう、と千夜は眉をひそめる。

 さすがにどうかと思い千夜は口を開こうとして、──それよりも先に、真魚が口を開く。

 

 

「私は、千夜さんの恋人です。口をはさむ権利くらい、あります」

 

 

 真魚は、唇をきゅっと結んで。目には強い力を宿して、言い切っていた。

 こんな顔できたんだ──、と千夜は思った。

 井上は楽しそうに唇の端をゆがめながら、「へぇ」と声を漏らした。

 

「じゃあ彼女さん的には、何をどうすれば満足なわけ?」

「謝ってください」

「なるほど。そりゃ最もだ」

 

 怒り心頭──といった様子の真魚を見ても変わらず、やはり井上はへらへらとしている。

 

「ごめんなさい」

「……」

「謝ったじゃん。まだ怒ってんの?」

 

 チクチク言葉。

 他人の神経を逆なでする言葉。

 それをあえて選んでいることがわかって、わかってたから、やっぱり千夜は苦笑する。

 

「なんかあれだよね」

 

 千夜は軽くため息を吐きつつ、口を開く。

 空気が重かった。気が重かった。心なしか、このテーブルの空気にあてられて周りのテーブルもピリついていた。

 

「好きな子いじめる癖、なおってないんだなあ」

 

 この場合の好きな子、というのは彼自身と、その隣にいる真魚を指す。

 

「まぁとりあえずぼくの恋人いじめられるのもちょっと困るので……ううん……どうしたものかな……」

 

 千夜は、隣にいる真魚を見やった。

 ぽかん、と口を開けていて、先ほどと比べるとだいぶ緩んでいるようには見えるが、それでもやっぱり空気は張り詰めているし、表情は家にいたときと比べて固く重い。

 これを引き起こしたのは自分の情けなさであるからこそ、千夜は。

 

「とりあえず今日は帰るよ。また今度会おう」

「ん。おっけー。また連絡するわ」

「はいはい」

 

 ガタ、と千夜は席を立って、なおもぽかんとした表情をしている真魚に、声をかける。

 なんと言うべきか少しだけ逡巡して──……。

 

 

「おいで、真魚さん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 手を伸ばせば届くような距離であるはずなのに、やけに遠く感じていた。

 1メートル。

 真魚と千夜の距離感は、おおよそそのくらい。

 片手を伸ばして届かない程度の距離感を保ちつつ、真魚は千夜の後ろをついていっていた。

 

 彼が歩幅を縮めると、少女も歩幅を縮めて……二人が横に並ぶ状況には、ならなかった。

 真魚の視線は水平よりやや下を向いている。

 応答はできるものの、声にも元気がなく、客観的にも気落ちしているように見える。

 

「……今日は寒いね」

「そう、ですね。ここ最近だと最低気温を記録していたような気はします」

 

 当たり障りのない会話。

 とんとん拍子に言葉がつながることはなく、一つの言葉を交わすごとに、少しの沈黙が訪れる。

 

「……」

「……」

 

 冬の夜は冷たく、少し痛い。

 肺の中身が冷えていく感覚。自分の輪郭が鮮鋭になる感覚。

 外に出て、歩いて。

 真魚は、自分の惨めな心が浮き彫りになるのを感じていた。

 

 だから自然と、距離をとりたくなってしまう。

 歩みが、遅くなる。

 

「ごめんね。今日はなんか。かっこ悪いところを永遠に見せちゃったな。あいつもあいつで人間性終わってるから、気分悪かったろう」

「……いえ、あの。私もなんだか、余計な口はさんじゃってすいません。……たぶん……たぶんというか、絶対私がいないほうが話ややこしくなかったですよね」

「もともと話はややこしくなかったけど……桶内さんがいなかったらそもそも話がはじまらなかったろうし、それはちょっと違う気がするな」

「口では『返す』って言ってましたけど、お金ちゃんと返してくれるんですかね、あの人」

「まぁそこは、嘘をつくような奴ではないし平気だとは思うけど。……まぁなんていうか、人を困らせることが主眼の奴なんだよ。だから一通りからかったらそれで満足……なんだとは思うけど、正直よくわからないな。返してくれないかもしれない」

「そう、なんですか……」

 

 やっぱり警察沙汰の話じゃないのかなぁ、と真魚は思っていた。

 だけど彼にとってはそうではなく、その理由はなんなのか。

 

「騙されてるかも、とか。返してくれないかも、とか。そういうの考えるのがあんまり好きじゃなくてさ」

 

 だからとりあえず信用することにしてる、と千夜は苦笑する。

 そんな彼を見て、少女は少し納得をしてしまった。

 

 

 きっと、この人は誰にでもこうなんだ、と。

 

 

 こんな人だから、合鍵を自然と渡してきたり、出会って間もないころ真魚を一人部屋に残して外に出たり、そんなことをするのだろう、と。

 そしてそれは対象がどんな人間であっても、同じ振る舞いをするのだろう、と。

 私は別に、この人にとっての特別枠でもなんでもないんだと、真魚はそう理解した。

 

「なんだか、小池さんらしい感じですね」

「そうかな」

「そうですよ」

「悪い意味で言われたわけではないと思っておく」

「悪い意味ではないです」

「それは重畳。……それはさておき、らしいらしくないの話とは少しずれるけど、桶内さんが怒ってるとこ初めて見たからちょっとびっくりしたな」

「わ」

 

 わ? と思い、千夜は真魚のほうを振り返る。

 真魚は口をまんまるに開けて、ピシ、と固まっていた。頬には少し、赤みがさしている。

 

「──忘れてください。すでに黒歴史になりつつあります……」

「え、なんで」

「いやだって……普通に……その……」

 

 真魚は吐息をもらしながら、少し上目遣いに、ぼそぼそと話す。

 言葉は夜にまぎれて、消えていく。

 空気は冷たく、肺は冷え、手も足も、冷え込んでいる。

 

 自然と動きはにぶくなって、少女は足を止める。それにつられて、彼も足を止める。

 

 人気のない冬の夜。住宅街。切り取られた空間で、彼らは向き合っていた。

 

「……私、普通に迷惑じゃないですか?」

「自分のために怒ってくれるひとに、感謝する理由はあっても、迷惑に思う理由はないかな」

「……そうですか」

「そうなんですよ。というか、普通に、逆に、ぼくが幻滅されたんじゃないかなって。今日のあれはどっちかっていうとそっちだと思うんだけどな。本当に桶内さんには何の落ち度もないし、落ち度があるのはぼくなんだよ。本当に情けなくてさ」

「……そうですか?」

「そうなんですよ」

 

 意味がわからない、とでも言いたげに少女は首をかしげる。

 そして、まぁいいか、と二人はまた歩き始める。

 歩調を合わせるために、とててっ、と少し駆けた少女。二人の距離は、自然と少し縮まった。片手で届かない距離から、片手を伸ばせば届く距離まで。

 

「でも、せ──……こほん。名前とか呼んだり、その……こ、恋人とか? 自称しちゃったのはちょっと我ながら痛かったなとですね」

「あぁ……。でもぼくも同じこと言ったしな」

 

 そんなことを気にしてたのか、と千夜は少し思って。

 同時に、そりゃ気にするか、と納得をした。

 

 言葉は夜に紛れていて、その本当の姿を目に捉えることはできない。

 想いは、口にしなければその本当の真意は伝わらない。

 

 だけどそれでも、迂遠でも、伝わるものというのはあって。

 口にすると無粋な想いというのも世の中にあって。

 

「真魚さん」

「?! な、なんですか……?」

「呼んでみただけ」

「……」

 

 たかが名前、されど名前。

 識別だけなら、苗字で事足りることがほとんどだ。名前で呼ぶ行為は少なからず特別なもので、だからこそ、大なり小なり意識する。

 識別以外を目的とした名前を呼ぶ行為は、どうしたって、親愛の念がこもるものだ。

 

「あの。……せ。……せ、背筋が冷えますねっ」

「寒いもんね」

「そうですね。あったかいココアが飲みたいです」

 

 千夜は、真魚の贈ったオニキスブレスレットを身に着けていた。

 暗い、夜の色をした石。

 真魚もそのことには気づいていた。つけてくれていることを、知っていた。

 

「せ──。セバスチャン……家にセバスチャンが一人いるといいですよね」

「そうかな……そうかも……」

 

 恋という言葉をどう表現するだろう。

 愛という言葉をどう表現するだろう。

 手の届かないものに、手を伸ばすことが恋。

 手もとにあるものを、大事にすることが愛。

 

「……千夜さん」

「なに?」

「よ、呼んでみただけです」

「そ」

 

 触れてみたくなる。

 手を伸ばせば届くような距離に、彼の手がある。

 手を伸ばせば、きっと届く。

 だけど触れるなんてとてもできなくて──だからきっと、この想いを恋と呼ぶのでしょう。

 

「千の夜。私、千夜さんの名前……好きです。綺麗な響きですよね」

「いつだったかもそんなこと言ってくれたね。ぼくも真魚さんの名前好きだよ。語感がいい」

「……ありがとうございます」

 

 好き。好き。

 その言葉を反芻しつつ、真魚は視線をあげて、夜に覆われた空を見る。

 雲一つない夜。星月が、空に浮かんでいた。

 自分が何をどうしたいのか、どう在りたいのか、少女にはまだわからないこともあったけれど。

 少しだけ、わかることが増えた気がした。

 真魚は、自分の唇に触れる。

 名前を呼んで、呼ばれて。そういうやりとりを、この口でしたのだと。

 色々な感情が入り交ざって、少女は、小さく息を吐く。

 

 肺の中身は、すっかりと冷え切っていて。

 

 吐息はもう、白くない。

 

 

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