苔よ森よ、真理たれ
そうして──とても長い、ゆっくりとした微睡みの中。
夢と現の狭間、怖いほど優しい安寧から瞼を開く。
──世界にヒビが入る音がした。
それで……私は悟る。
けれど、もう少しだけと虚空を眺めながら余韻に浸る。
私たちは優しい時間に身を置きながら、同じベッドに腰掛けてお互いに肩を寄せ合っていた。
じんわりと染み込むのは、確かな喜び。
満たされている──伝わる暖かさが、私の空虚を心地よい熱で埋めてくれる。
「ふふっ。いろんなことがあって少し疲れたかも……でも、悪くはなかったよね?」
「そうだね。──あぁ悪くないかも」
それさえあれば、どんなことがあろうとも怖くないと思えた。
詰めが甘いとも、肝心なときに上手くいかないのも、痛みと絶望で以て知っている。
そのたびにお調子者の仮面を被って、失敗も後悔も塗り潰したが、澱みはずっと心の底に溜まり続けていた。
本当は逃げたかったことも、泣きたかったことも、あった。
私自身も認めず、弱さだと誰にも見せなかった心。
けれど──
「今なら、その弱さも受け入れられる気がする」
コケちゃんのお陰だよ。
そう言いながら背後から抱きしめる。
甘やかで清爽な匂いが鼻先をくすぐり、芯まで深く吸い込む。
鎖骨の前で指を重ね、もう何処にも行かせないとばかりに強く抱擁した。
こんなロクでもない私が、闇に堕ちることなく光を目指して進めるのは、貴女から貰った数々のもので支えられているから。
心無き人外は獣のまま。
それでは、より強大な力に屈するか討たれるのみ。
Dに抗おうだなんて考えない、あいつに都合の良い駒のまま。
けれど貴女の心が、あの闇から光に連れ出してくれた。
「なら──もう分かっているよね、白ちゃん?」
甘い吐息から一転、悲しげな雰囲気を纏い、腕から抜け出すコケちゃん。
今にも泣きそうに目尻を下げ、この幸せを崩す真実を問うた。
瞬間、ほつれるように景色が歪み千々に崩落していく。
身を委ねていた、泡沫の夢が壊れだす。
──あぁ、そうとも。
理解していた、目なんてとっくに醒めていた。
これが、ただの夢だってことも。
瞬間──奔ったガラスの割れるような音が止めば、見える風景は一変していた。
「こうして無理に繋げられた私に、残された猶予は少ない」
色彩の消えた空間、まるで深海か宇宙のような世界。
眩暈のしそうな膨大なエネルギーが渦巻き、それが集束する中心部。
そこに閉じ込められ揺蕩うコケちゃんがいた。
そして──彼女は真実を語りだした。
「想定外の方法で女神を救おうとした代償とでも言うのかな。私は、システムと深く繋がりすぎてしまった。そのせいで魂がシステムと融合しはじめている。いずれは自我も希釈されて、私が私を保てなくなってしまうだろうね」
そう苦笑する彼女は、その身体に無数のヒビ割れのようなものが走っており、今にも砕け散ってしまいそうな儚さを連想させる。
ヒビ割れから漏れる燐光は残りの時間を示すように、とても弱々しい輝きだった。
「既に分離可能な境界線も越えてしまい、このままでは暴走するシステムの命令に従って死を振り撒くだけの存在に、私は堕ちてしまう。そうなった後に残るのは生命の存在しない星。星は健康な状態に回帰するけれど、誰も居ない静寂に満ちた世界となる。
私自身も例外ではなく、まだ魂が無事であっても無くても星を再生する役目を果たせば、どの道物言わぬ骸として消えてしまう定めなんだよ」
「──そんな、嘘だッ!」
嫌だ。
嫌だ、認めたくない──想いを告げれたばかりなんだ。
まだまだ贈りたい未来も返したい恩も、なにも出来ていない。
そんなの、死んでも嫌だった。
最悪の想像が思考に追いつき、全身が凍えるほどの恐怖が這い回る。
もはや彼女無しの世界など、想像すら出来ない。
あの夢が、私たちの無意識にある理想を投影して組み上がったものだと気付いているからこそ、私自身の本心も分かってしまう。
隣にコケちゃんが居てほしいと願わなければ、あんな仮想世界にはならないのだから。
「なにか、方法は無いのかッ!?」
「無いよ。もう……どうしようもない」
元の状態には二度と戻れやしない。
もし解放できるとしても、システムとの繋がりを断ち切れば容赦なく死ぬ。
皮肉にもシステムあってこそ紙一重のバランスで持ち堪えているだけであり、そこから分離してしまえば生命維持装置を外した病人ように死人と化すだけ。
逆にシステムを掌握する方向に舵を切ったとしても、総エネルギー量が下位の神格数十柱分にも相当するシステムの方が上位であり、せいぜいがパーツの一部でしかない存在が抵抗したところで無意味だった。
考えれば考えるほど、コケちゃんの状況は詰んでいた。
もう手遅れであり、何か手立てがあるのなら、とっくに行っているし伝えている。
そう最後に呟きながら、彼女は静かに微笑みを浮かべた。
「ありがとう、最期に思い出をくれて。短い夢幻だとしても、ここでの私たちは本物だったから。だからこれで充分……」
瞳を伏せながら一拍区切り、覚悟を滲ませ告げる。
とても残酷な願いを。
「さぁ私を殺して、白ちゃん。此処なら、迎撃機構に邪魔されず直接魂を砕くことが出来るから。この誰にも望まれない戦いを、貴方の手で終わらせて」
「────嫌だッ」
知らない、聞きたくない! どうしてそんなことを迫る。
けれどそんな私の様子を、どこか寂しげな慈愛の眼差しで見ながら諭すように言う。
「お願い、どうか聞き届けて。それしか残された方法が無いのはもう理解しているでしょう?」
これが科せられた罰。
世界を滅ぼす魔神は、明日を生きることは許されない。
もう助からず、ならせめて最期は選びたい。
避けられない結末なら、出来るだけ美しい終わりにして欲しいと微笑んでいた。
「神話のペルセポネのように、冥界の食べ物を口にした者は、そのぶん冥界の住人と化す。食べてしまえば、現世に居場所は無い。
なら、もっともっとと欲しがった者には……いったいどんな代償が待ち受けているんだろうね。永遠に冥界に囚われて、責苦と凌辱を受けるだけで済むとは到底思えない。ハデスに乞うた柘榴はそんな優しい罰を許してくれるほど、甘くはないから」
子供に読み聞かせでも語るように、ゆっくりと彼女は囁く。
自身の末路が、もっと酷いものだと確信しているから瞳に迷いは見られなかった。
「だから最初から間違っていたんだよ。ハデスに救いを求めても得られるのは悍ましい死だけ。
今だけが、真に穢れる前に逝ける最後の機会なの。
全てが手遅れとなる前に、私が私でない存在と成り果てる前に──どう、か、救って……」
紡がれる願いに、嘆きと怒りを堪えられない。
だって、あぁ、そうだとも──
「────そんな救い、私に出来る訳ないだろッ!!」
グチャグチャに顔を歪めせながら、魂が裂けそうなほど絶叫する。
なんだよそれ、冗談じゃない。
極端すぎるし性急だろう、到底受けられないことだった。
「でも──」
「五月蝿ぇんだよッ! そんなこと知ったことかァッッ!!」
現実という理不尽に、
「私がそうしたいからそうする、ただの
だから、抗う。
どんなに馬鹿げていても、現実が見えていないと蔑まれても、決して諦めない。
それが、自分というものを持っている証明だから。
「なん、で……どうして、そこまで言い切れるの……?
もう私たちには未来なんて無い……このまま妄想に浸って、死の間際まで夢を見ても良いのに。 白ちゃんの手で殺されるのなら、貴方だけでも生き残れるのなら……それでも良いと思えたのに。どうして──」
「決まっている──」
涙まじりの震えた声に、力強く答える。
結局、私は最高の自分、最高の結末じゃなきゃ嫌なんだよ。
身勝手でも良い、愚かでも良い。
だって私は弱いから、中身なんて空っぽだったから。
贈られ拾い集めた大切なモノ。それを大事にする事の何が悪い?
何も無かったから大事にするとも、失いたくない──だから助けるんだ。
「大切なんだよ、世界よりも私自身よりも! それが全てで他には何も要らない。そのためなら、極論世界が滅ぼうがどうでもよかった! でも、私は貴女がいない世界では生きられない、意味が無いんだ! なぜなら私は──貴女に恩を返したいだけなんだから!!」
それは、紛れもない本心。
私が貴女を愛して、貴女が私を愛してから、自分が自分にとってどれほど価値あるものになったことだろう。
芯が曖昧で虚無だった私が、どれだけ救われたのか伝えきれないほどだと言うのに。
そうでなければ私は成長できないから、人の美しさなど宿せない。
白織という存在は、コケちゃん貴女無しでは生きられない。
その小さな、けど強い彼女の手を握りたいんだ。
そうだとも──
恩返しという絆こそが全てを結ぶ、私が始めから持っていた唯一の
「──ぐす、うぅぅ…………あは、ははは……っ。
白ちゃんらしい、極端な考えなんだから……吼えたところで、何も解決なんてしていないのに。どう、してかな……胸が熱くて痛くて心地良い……ほんと、ばかっ、だよ……白ちゃん」
目尻に涙を湛え、可笑しそうに苦笑するコケちゃん。
悲哀と歓喜が綯い交ぜとなった表情に、煌めく雫が伝っては儚く虚空に散る。
「解決してない? そうだね、賢しい思考なんてとっくに壊れてる。好きだと自覚した瞬間から」
ああ確かに、諦めの悪い馬鹿で、何の解決策の糸口も見出だせていないさ。
誰かを好きになるとは、理屈や常識なんて放り捨てて盲目的になってしまうものだから。
けど──
「──だから、その前にどうか聞かせてほしい。
コケちゃんの本心を。闇に歪められたものではなく、本当の
それは、きっと──
「大切だったんだろう? 守りたかったんだろう?
それを都合よく捻じ曲げられて利用された。貴女の答えは、それじゃない」
枯死も、終末も、翠魔も──Dがお膳立てした配役に過ぎない。
彼女自身が掴み取った答えでは、断じて無い。
「さぁ──聞かせて」
答えを待つ。
大切な人の、秘せられた本当の想いを。
彼女は唇をわななかせ躊躇いと決意に揺れ動いた後、哀惜を滲ませて声を紡いだ。
「私の願い──聞いてくれる?」
「──ああ」
「この星を救いたい。紛れもなく、私自身の本心からそう願っている。
まだなにも私は、私たちは……この世界に、恩返しが出来ていないから」
人は数多の恩の中で生きている。
誰かに助けられ、誰かに救われ、誰かの愛と共に生きている。
そこに意味なんて無いかもしれない。
顔も名前も知らない誰かが振り撒いた断片でしかないのかもしれない。
けれど、気付いた愛も気付かなかった想いも、私たちの中に絶えず注がれているのだから。
どうしようもない悪党だの、下劣で邪な存在も数多いのを知っている。
世界は悪意に満ちているだなんて、そんな悲しいこと分かっていても言いたくない。
闇ばかり穢ればかりが目につくけれど、そんな極端なものが人の全てでは無いから。
だってそうでしょう──
生きているかぎり、恩と感謝は尽きることは無い永遠だ。
「だから──私、まだ生きたいよっ……なにより大事な、大好きな……白ちゃんにだって、恩返ししていないもの!」
瞬間、世界に深い亀裂が走る。
今の衝撃が、外部から大厄災が阻止されたものだと直感で理解した。
それにより、システムの運行に揺らぎが起きる。
雪崩込んでくる地上での顛末。
ここが星に生きる生物の魂全てと繋がるシステムの中枢、そのものであるからこそ投影され見えてくる皆の心と真実。
──ありがとう、魔王。ありがとう、みんな。
破滅を止めてくれたことに感謝が絶えない。
胸の奥より湧き出す想いが、鼓動を響かせた。
同時に、私より溢れ出た《拒絶》の法が
そして彼女の《魂》の力が、エネルギーに方向性を与えて
内外より加えられた圧力で、システムが不安定となった一瞬の間隙が生じる。
その証拠に彼女を囚える暴力的なエネルギーの渦が、穏やかに凪いでいた。
それを確認して瞬時に彼女を救い出す、か細い蜘蛛の糸を見出した。
分の悪い賭けとさえ言えぬ確率絶無の凄まじい暴挙だけど、魂が砕けかけている彼女を救い出すには
だから──
「コケちゃん、いいや翠星、私の大切な人……
貴女の全てを私が喰らい、そこから必ず助け出すから!」
闇の呪縛を解き放ち、死の運命を覆す。
半ば無形のエネルギーへと変わり果てた彼女を救うためには、私が魂ごと取り込んで新たな器を与えてあげるしかないから。
私の魂をよすがに彼女の魂を括り、同期させることで崩壊を止めるのだ。
けれど代償として、私もコケちゃんの魂に括られる。
どちらかが殺されればお互いに死んでしまうが──構うものか、むしろ一蓮托生で上等だとも。
成功率なんて小数点の彼方だけど、そんな無理難題をやってのけよう。
その程度の不条理を覆せなくて、なにが《拒絶》の力だ。
「信じて。必ずそこから救い出してあげる。一緒に寄り添い助け合って、生きていこう」
驚きに目を丸くして瞠目している。
だが、数秒後には全てを受け留めるようにコケちゃんは両手を胸の前で重ねた。
「…………うん、うんっ。分かった、いいよ……お願い」
そして涙と共に震えながら伸ばされた指先へと、私も指を絡めた。
額と額をそっと合わせ、胸の内を見つめ合う。
二人の間で魂が共鳴しながら、砕かれきった互いの魂を循環して満たしていく。
心が繋がっていく。
高まり合う力と、重なり合った真理が、暖かく鼓動を刻んでいく。
「真理とは、恩返し」
「命の恩人、友に仲間、親と子、自分と世界、私と貴方──巡りゆく命の循環」
「ふと、周りを見渡して……満ちる優しさに気付ければ、それで充分」
「私たちは誰かの恩と共に生き、誰かに恩を返していくのが、生きるということなら──」
すなわち、
それは
「いっしょだね。それが貴女の願いであり私の全てなら……死んでなんかいられない」
私の願いも、また同じだ。
まだ誰にも、恩返しなんて出来ていない。
だから──
重なる想い。
紡いだ絆。
共鳴し合う魂。
「ならば、何度でも──」
「うん、私たちで一緒に。果てるときまで、ずっと永遠に」
自然と手に形成された大鎌と旗槍を、お互いに構えた。
己の魂の結晶。
それを互いの心臓に向けあって──もう二度と離しはしないと抱きしめ合い、互いの背より刃が突き出ていた。
「「私達の
──今、一つになる魂。
無色の世界を染め上げるように、交わした誓いは力強く。
欠けた生命を二人で補い合うように、翠と白が大輪の花と咲く。
翠の乙女は、闇の冥界から白き太陽のもとへ帰還した。
女神の死と再生に纏わるエレウーシスの秘儀が、時代と世界を越えて紡がれる。
重なる想いと辿り着いた真理が、二人を闇の呪縛から解放し、新たな神へと生まれ変わらせた。
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