どれもとても面白い作品だったと思います。
それはそれとしてまだ続きます。
「ごめんなさい」
知らない──多分、顔も会わせた事の無い人だと思う。
何故か靄のかかった視界では天井の模様すらハッキリと見えないし、声音だって恐らく聞き覚えはない。
「ごめんなさい」
でも、誰かがいる。
見知らぬ少女が、泣いている。
喉を震わせて、半ば過呼吸に陥りながらも必死になって謝っているのだ。
「ごめんなさい」
何に、だろう。
誰に、だろう。
全く分からない。
手足を動かそうとしても、口を開こうとしても全然上手くいかない。
全身タールに漬け込まれたみたいで、脳味噌がどれだけ指令を出そうとちっとも言う事を聞きやしなかった。
あぁ──何と不甲斐ない。
色白のひょろひょろで1ミリも頼れる要素のないもやしだったとしても、この日本に男として生まれたにも関わらず泣いている女の子1人慰められないとは一体どこまで情けないのか。
畜生。
間抜けめ。
役立たずの意気地無しめ。
叱咤激励、と言うよりは自分自身への罵倒を滅茶苦茶に繰り返しながら何度も起き上がろうとするけれど、結局指1本動かせない。
肝心な時ばっかり、体が動かないんだ。
寧ろ徐々に視界は暗くなりなる始末で、そんな最中にも謝罪はつづいていた。
「ごめんなさい」
誰でも良いから、この声の主を許してあげて欲しい。
彼女の事情は全く知らないけれど、ひょっとしたら彼女が何かしでかしてしまったのかもしれないけれど、真に償う意思のある者が赦されないなんて事は無い筈だ。
それに、こんなに必死になって謝っているじゃないか。
苦しそうに嗚咽しながら、しどろもどろになりながら、何度も何度も謝罪を繰り返しているんだからいい加減に赦してあげたって、罰は────
────なんだって?
いや、そんな。
ちょっと待ってくれ。
それは、それは話が違うだろう。
顔も分からない、でも時折視界にちらつく「赤」が印象に残る彼女は何か悪い事したから謝っているんじゃないのか。
誰にでも起こし得る失敗に、不備に罪悪感を感じているんじゃないのか。
でも、もし違うのだとしたら。
彼女が
赦す赦さないだなんて、僕はとんでもない勘違いを────
「────あ」
得体の知れない切迫感に堪え切れなくなったその瞬間、視界が輪郭を取り戻す。
パッと突然戻ってきた色彩は天井の白、窓枠の灰、そして射し込んでくる陽射しの黄。
あぁ、これは自分の部屋だ、と思い出した途端に思考も再び動き出す。
そう、確かいつも通りに絵を描きに行こうとしたのだ。
晩夏の向日葵、蒸し暑い空気とそれを洗い流すような風、この田舎では然程珍しくないけれど、やはり大切な人の手が入っていない自然。
それらを出来るだけ画用紙の中に収めて、形に残して、「何の個性も無い人間なんかじゃない」と証明しようとして──
「殴られたんだっけか」
そこで我らがスピネル嬢の抵抗にあった。
そもそも僕は付いてこないモノだと思っていたのだが、やれ暑すぎて死ぬだの日焼けしてしまうだのと散々ただをこねた挙げ句に、拳と言う物理的手法で沈黙させられてしまったのだ。
こうなってしまうと彼女の格付けを「我が儘貴族令嬢」から「我が儘暴力貴族令嬢」へとランクアップせざるを得ない。
ランクアップしたから何かある訳でもないし、ただ此方の警戒が強まるだけだが。
しかし思い返してみれば、拳1発で人を気絶させられるだなんて凄まじい馬鹿力だ。
それでいてたんこぶにもなっていなければ、痛みも全く感じない。
ひょっとしてあれか。
スピネル嬢はああ見えて武術──いや、指先で皮膚を裂くとかやるんだから暗殺術かもしれないけれど、そう言った類いの何かしらを修めているのだろうか。
昨日の風呂トラブルとか今日の格好から確認した限りではかなり華奢でそんな筋肉が付いている風でもないし、恐らくはその線が濃厚だと思う。
で、それを「外に出たくないから」で僕に行使した、と。
「いや、やべぇなアイツ……」
いやホント、語彙力がまるで足りないけど間違いなくやべぇヤツだ。
朝食の時も思ったけれど、彼女の母は一体どういう教育を施しているのだと声を大にして問い掛けたい。
見た目からするに僕と同じか少し上位の年齢で、大して賢いとも思えない僕より精神が幼くて、されど武術と知識は桁外れ。
少し触れただけでも分かるくらいにスピネルは歪だ。
「家庭環境、大変とか言ってたもんな……」
昨日、向日葵畑で「家庭の事情」とか語った彼女の様子を思い起こす。
根拠は全く無いけれど、多分その言葉に嘘はない。
単純に僕が信じたいだけでもあるが、スピネルは脅しに使う時でも家庭環境について口に出した時は真剣そのものだったように思える。
付け加えるならば、家族旅行は今回が初めてとも言っていた筈だ。
とすると──あまり想像したくはない話だが、スピネルの親は俗にモンスターペアレントと言うヤツなのかもしれない。
別に教育に詳しい訳ではないので何か専門家みたいな事が言えたりは全くしないが、親が良かれと思って過剰な締め付けを行った事で逆に子供の精神を歪めてしまうなんて話はテレビとかでもよく見るだろう。
彼女もそんな環境に置かれた子供の1人で、折角初めての家族旅行に来たのにそこでも締め付けに遭って色々と嫌になってしまった──とか、いかにもありそうな感じだ。
なら、どうすべきなのだろうか。
追い出すのは酷だと思うけれど、このまま居候させてもきっとスピネルの為にはならない──ような、気がする。
「……いや、止めとこ」
まぁでも、全部邪推だ。
僕が勝手に想像しているだけで、ホントは好きな物を買ってもらえなかったとかその程度の可能性の方が高いに決まってる。
まぁどんなに長くても後何日かあればきっと落ち着いて、帰る気になってくれる筈だ。
「よっこいしょっ……と」
天井を眺めながらぼんやりと物思いに耽るのも止めだ。
取り敢えずは(何処にいるか知らないけど)スピネルの顔を見に行こうと、上体を起こして────
「あ」
音を立てぬようそっと扉を開こうとしていた彼女と、目が合った。
左手には冷蔵庫から持ってきたらしい大量の保冷剤と、それらを包んだ青いタオル。
「────」
「────」
僕もスピネルも、動けない。
何と言えば良いのか、どうリアクションすれば良いのか。
詰まる所、こう言う間の悪さの極致に陥った時どうすれば良いのかまるで分からないのだ。
ただ。
ただ、もしこれが自惚れでないとするならば。
あの傲岸不遜の擬人化が僕を殴った事に何らかの罪悪感を覚えていたとするならば、ひょっとすると──
「手当て、してくれたの?」
「──ッ!」
恐る恐ると言った風体の問いかけに、スピネルの肩が大袈裟に跳ねた。
どうやら正解らしい。
それに、そうだ。
気絶した人間が一人でにベッドまで歩く訳がないし、僕を此処に運んでくれたのもきっと彼女だろう。
「ぁ、ありがとう」
「──ぇ」
ちょっと吃りながらも率直に礼を言えば、またしても肩が跳ねた。
それどころか今度は視線を忙しなく行ったり来たりさせ、頬を赤らめ、自由になっている右手で自らの赤髪を弄り始めたではないか。
ヤバい、めっちゃ可愛い。
これで殴ってこなかったら惚れてたと思う。
と言うか、正直ビックリだ。
昨日今日の付き合いでこう言う事を言うのもアレだが、スピネルがこんな可愛らしい一面を持っているだなんて思いもしなかった。
他人を傷付ける事を何とも思わないし、自分を中心にして世界は回ってる──なんて本気で思ってそうな彼女が、よもや「うっかり気絶させてしまった相手に罪悪感を感じて萎らしくなる」だなんて、信じられるか?
少なくとも僕は今さっきまで信じてなかったし、昨日の僕に言えば鼻で笑ってしまうような驚きの真実だ。
「ねぇ」
──と、そんな風に観察をしていたら不意に我に返ったらしいスピネルが、意を決したような表情で口を開いた。
「なに?」
「今日はもう、ね?外に出るの、止めておきなさい。殴ったのは、その……私が悪かったから、休んだ方が良い、と思うの。それに昼ももう、過ぎてしまったのだし」
「へ……?」
「な、何だよ。何か、おかしい事でも言った?」
「いや、おかしくないけど」
おかしくない。
そりゃ全然おかしくないさ。
でも本当に、手当てしてくれただけでもビックリなのに自らの非を認めるような発言をするだなんて、一体どういう風の吹き回しなんだ。
これまでの彼女は、非があると悟ってもそれを口に出すような事はしないと思っていたのだが。
明らかに慣れない事をしているのは、一目で分かる。
しどろもどろで、ちょっと喋るごとにつっかえて、灰の瞳を伏せながらボソボソと話す様子は「無理している」以外の何物でもない。
「明日。あ、明日なら付き合うから。絵を描きに行くのも全然悪くないと思うの」
「いや、うん。一旦落ち着こう?」
「昼御飯、作ってみたの。あなたが昨日作ってくれたカレー?とか言うのを真似してみて……」
そんな事を考えている間も目をぐるぐるにしたスピネルの暴走は続くし、制止しても止まらない。
ついでにこっちの話を聞く素振りも無い。
何だ、本当にどうしちゃったんだ。
そもそもからしてスピネルは色々と訳が分からないけど、今はとびきり彼女の事が分からない。
「────ぅ」
と、不意に何か──むずむずとした痒みが湧き上がってきた。
場所は、首。
中心からちょっと右側、縦に2つ。
蚊にやられたかと思って擦ってみるも、特に虫刺されとかそう言う類いのモノが指に触れる感触はない。
でも、何だ?
上手く言葉には出来ないけれど変な感じがする。
そう、蚊に刺されたと言うよりは獣に甘噛みされたような────
「おい」
突然頭を掴まれて、力任せにぐいと右を向かされる。
そして視界一杯に
「私の作ったカレーが食えねぇってか?」
「は?」
新たな危機が飛び込んでくる。
そうだ、虫刺されの事なんか考えてる場合じゃない。
この高慢ちきで、見るからに料理をした事の無さそうな少女は何と言ったのか。
聞き間違えでなければ「カレー」と言ったような気がするのだが、空耳だろうか。
いや、寧ろ空耳であってくれ。
頼むから。
片付け増えるだけならまだしも、台所が惨事になっているかもしれないから。
「ごめん何を作ったって?」
「カレーよ」
大変残念な話だが、どうやら神は死んだらしい。
まず最初に、口の中に広がったのは何故か苦味だった。
「ぐっ────!?」
スプーンの上に載った「ソレ」を口に運んで尚悲鳴を噛み殺した少年は、きっと今世紀の誰より称賛されるべきだろう。
何せそれは半固形で、所々黒く焦げ付いていて、滅茶苦茶にスパイスを振りかけられた料理のような何かだった。
普通の人であれば先ず食べないと思われる、食への暴力であった。
──そしてその物体を、少女は「カレー」と呼称した。
「ねぇ、ねぇ。どうかしら、美味しく作れた?」
しかし、「カレー(仮称)」を製作した赤髪の少女は顔を真っ青にした少年の苦境に気付く事はない。
と言うのも、少女──妖精騎士トリスタンは魔力で肉体を構成された英霊であり、人の世とは根本的に異なる世界に生きる妖精だったからだ。
要するに
そして、彼女に染み付いた「かつて」の記憶。
思い出すのも憚れる話だが、その日食べる物も満足に与えられなかった
つまり、トリスタンは料理を知らない。
ノウム・カルデアで赤い弓兵渾身のレパートリーを並べられようと、「美味しい」と感じるだけで其処に凝らされた工夫にはまるで頓着しなかったのだ。
その結果が今、此処にある。
トリスタンが見よう見まねで作ったカレーは、明らかにカレーとしての要件を満たしていなかった。
「美味しい、よ。うん、美味しい……グリーンカレー、かな?」
「あ、何言ってんだお前。どう見たってお前が作ったのと同じモンだろ」
「嘘だろ……」
更に質が悪いのは、余程自分の手際に自信があったのか一切味見をせずに少年の分だけ作った事である。
トリスタンの味覚そのものは正常なのだ。
だから味見をするか、自分の分も作って一緒に食べるかすればまだ異常性に気付けていた筈だが──それを怠ってしまったばかりに、少年は百面相をしながらカレーらしきモノとの激闘を繰り広げる羽目になっている。
「な……何か、やけに上機嫌なんだな」
「あら、そう見える?」
「明らかに上機嫌だろ。朝の自分を思い出してみろよ」
「あれは……外に出るとか言い出したお前が悪いだろ?」
「そうですか……」
しかし──今の彼女は上機嫌なんてレベルではない。
頬杖を突いて少年の食事を眺めるその美貌は嗜虐ではなく慈愛に満ちているように見えるし、机の下では靴下も履いてないありのままの素足を頻繁に組み換えている。
その喜びようと言ったら、さして付き合いが長い訳でもない少年ですら上機嫌だと看破出来る程なのだから普段の彼女を知るカルデアの者達が見れば目を剥いて卒倒するだろう。
そう、カルデアでは体験した事の無い経験だった。
(なんだ──誰かに施すってのも、中々悪くないじゃない)
妖精騎士トリスタンは誰かに物を与えない。
ワガママでサイテーで、徹底的に誰かから奪う事でしか喜べないのが彼女の本性だ。
妖精バーヴァン・シーは誰かに物を与えない。
寂しがりやで曖昧で、徹底的に誰かから与えられる事でしか喜べないのが彼女の本性だ。
けど、そのどちらでもない「スピネル」なら与えられる──のかもしれない。
それが一切思い遣りの無い、卑劣な自己満足だったとしても。
(カルデアより気持ち良い、かも?)
故にこそ、彼女はこの一軒家に居心地の良さを覚えているのだ。
妖精騎士としての自分を脱ぎ捨て、サーヴァントとしての自分を脱ぎ捨て、ただの一個人で居られる事の楽しさを少女は徐々に知りつつあった。
「──?なに?」
「何でも?」
ニコニコと、まるで人が変わってしまったかのように微笑を湛え少女は少年を見詰め続ける。
その異常性に、カレー擬きと戦っている少年は気付けない。
少女自身すら気付いていない。
「お代わりもあるから、じゃんじゃん食え☆」
「あい……」
トリスタンは──否、ただのスピネルは間違いなく上機嫌だった。
キラキラと煌めく灰の瞳は、もう自分すら見ていないけれど。
◯少年
黒髪黒目、特に語る所のない普通の田舎少年。
特に秀でてる所もないし、察しも良くない。
察せるかが今後の鍵。
◯スピネル/妖精騎士トリスタン/バーヴァン・シー
メンタルボロッボロ。
トリスタンもバーヴァン・シーも止めてただのスピネルになれば楽になれるのかな、とか思ってたりする。