「────あ」
何かよく分からないけど、滅茶苦茶首が痒い。
そんな曖昧かつ意味不明な感想と共に目が覚めた。
緩慢な動きでベッド脇の時計を見れば、無機質な液晶画面が7時半だと告げている。
ここで一言。
「え……え?7時半?早くない?」
そう、早い。
これまでと比べて明らかに起床が早くなっている。
母に何度言われても、何をされても朝の弱さが改善しなかったこの僕が誰の手を借りる事もなく8時より前に目を覚ましているのだ。
これは最早奇跡と言っても何ら差し支えはない。
何かしら人間的な成長を果たした訳でもないのに、不思議なモノである。
まぁ原因として真っ先に思い付くのはスピネルだけれど、取り敢えず回りを見回しても誰もいないので今日はまだ起きていないらしい。
「……」
と言うか──それよりもアレだ。
マジで首が痒い。
昨日もそうだったが、これは一体何なんだ。
まだ鏡を見た訳でもないので何とも言い難いが触った感じでは腫れているような様子も無し、虫に刺されたのとも違う、非常に表現に困るむず痒さに目覚めた瞬間から襲われてる。
確かにクソ田舎だから蚊やら虫にやらが跋扈してるのはそうなんだけど、痒み止めだってもう塗ったのに全然収まらないって明らかに何かおかしいだろう。
ならダニかなぁと思ってみたりもしたが、スピネルが来た日に天井裏のヤツと合わせて布団乾燥機をかけたから違う筈だ。
1日や2日でこんな強烈なダニが湧く訳あるか。
それに、ただの虫刺されとは決定的に違う点が1つある。
「何か湿ってるんだよなぁ……」
汗とは異なる、ぬめった感触。
拭い取ってみても、粘ついているだけでそれが何なのかは分からない。
しかし何か液体のようなモノが首筋にかかっている事は間違いないように思われる。
正直に言って、不気味だ。
凄い不気味だ。
害は無さそうだが、このまま放置しておくべき問題ではない。
「……スマホで撮ってみるか?」
ならば、直接確認してみるしかないだろう。
そう、虫だろうが何だろうが画面に収めてしまえば同じ事。
正体が分からないから怖いのであって、ゴキブリとか──はかなり嫌だけど下手人を捕捉してしまえば対策も用意だし、スピネルには悪いがこうなってしまった以上はバルサンを炊く事も躊躇わない。
ただ、今この瞬間に打てる対策は全く無い。
勝負は夜、スマホの電池が持つかは分からないが一晩中録画を敢行してから初めて話は始まるのだ。
で、あるが故に────今は現実逃避を兼ねた行動を起こす。
「いや、取り敢えずスピネル起こすか」
勢い良くベッドから跳ね起きて部屋のド真ん中に下ろしっぱなしの梯子に足を掛ければ、ギシリと木の軋む音が朝の澄んだ空気に響いた。
現在、スピネルにはこれを登った先の屋根裏部屋で寝泊まりしてもらっている。
一応扇風機はあるけれど、晩夏の蒸し暑さに太刀打ち出来ているかと言えばイマイチだろう。
そんでもって、下から様子を窺う限りでは今もスヤスヤと寝息を立てている筈。
「……よし。行けるな」
何をしたいのかと言えば、覗き見だ。
勿論起こす、起こすともさ。
ほんの数秒前に口に出した目的を忘れる程の阿呆ではない。
だが昨日一昨日と散々な目に遭い続けているし、彼女は僕を脅して居候している訳だし、ほんの一瞬寝顔を拝む程度の仕返しはきっと許されるだろう──例えスピネル自身が許さないとしても。
下世話だと糾弾する人もいればと愚行と嗤う人もいるだろうが、どうか止めないで欲しい。
残念に思う──かどうかは知らないが、僕とて100人中100人が認めるであろう美少女の寝顔を見てみたいと思う位には欲望に満ちた俗物なのだ。
そんな訳で物音を立てないように気を付けつつゆっくりと梯子を登り、ひょっこりと出入口から顔を出して────
至近距離で思いっきり待ち構えていたスピネルの美貌に、堪らず転げ落ちた。
完敗した。
あぁ、完敗だ。
もう本当に、ぐうの音も出ない程に完全なる敗北だ。
しかもただの完敗じゃない。
転げ落ちてひっくり返っている所を上から見下ろされ、その上ゲラゲラ笑われると言う追撃付きの史上稀に見る屈辱的な敗北を僕は味わったのだ。
許すまじスピネル嬢。
この恨みは100倍にして明後日位に多分返す。
どうやって返すかはこれから考える。
──等と息巻いていたのが約40分前。
結局あれからスピネルに「ざーこざーこ」とインターネット上でたまに見かけるフレーズで以て散々からかわれつつも料理を作り、洗濯機を回して、ついでに掃除機もかけて今──朝食に至った。
何の問題も無く至った、のだが。
砂糖を胸焼けする位まぶしたフレンチトーストやそこそこ厚みのあるベーコン、それにシリアルが並べられた机上に僕は頭を抱えた。
「うんうん、中々美味いじゃない。漸く私の好みが分かってきた?」
「……」
「おい、無視してんじゃねぇよ」
「いや、ダメだ……このままだと我が家の食生活が破壊される……!」
スピネルは御満悦らしいが、此方としては納得し難いモノがある。
と言うのも、我が家は──ごく一般的な日本人の朝食は、それに相応しい料理であった。
目玉焼きをメインとして炊きたての白米に味噌汁、煮浸し等の副菜にバナナ1本を加えるバランスの取れた食事である筈なのだ。
それが、何だ。
スピネルのリクエストに応えてスマホを見ながら作ってみたものの、これでは和の要素が1ミリも感じられないただの洋食ではないか。
一目見るだけでも栄養バランスと言う概念の欠如が明白で、その上歯が溶けるんじゃないかと思う位に砂糖をぶっかけられてしまえば食欲減退も已む無しである。
ついでに言えば、食材消費の早さを誤魔化す為に母の目を欺く必要が出てきてしまったのも中々に面倒くさい。
別に大して仲が良い訳でもないし欺く事自体は構わないのだが、その為にこの村唯一の商店まで出向かなければいけないのがげんなりするのだ。
「良いじゃない、別に。美味しいモン食って何が悪いんだよ」
「いや、まぁ、悪くはないけど……」
「そう言う事よ」
────どういう事だよ
と口に出しかけたが、スピネルからすればそんなのは知ったことではないのだろう。
その証拠に、所詮スマホ頼りの付け焼き刃とは言え慣れ親しんだ洋食が余程嬉しいのか満面の笑みでトーストを頬張っている。
……なら、朝食位は見逃しても良いのかもしれない。
うん、きっとそうだ。
女の子が笑ってるならそれに越した事はない。
人情的な「正しさ」ってのは多分そういうモノだろう。
そんな風に気取った事を考えながら、僕は漸くトーストに囓りついた。
「……ホントに、行くのね?」
「うん」
「……ホントのホントに?」
「うん」
最早分かりきっていた事ではあったが、少年を殴り倒したからと言ってスピネルの性根が正された訳ではない。
で、あるが故に──彼女は今日も駄々を捏ねた。
昨日と同じように玄関で、昨日と同じように腕を掴んで。
「いや、あの、嫌だったら付いて来なくても大丈夫だよ?」
「は?私をこのクソ詰まんねぇ家の中に置いてくってか?」
「人の家をクソ呼ばわりするなよ!」
悲痛な叫びを上げる少年の言い分は尤もだ。
嫌だと言うのなら態々同行せずにエアコンをガンガンに効かせた家に籠っていれば良いのだし、城とは比べ物にならないにしても生まれ育った家をクソ呼ばわりされる謂れはない。
挙げ句「明日行けば良い」と当人が言ったにも関わらず1日でそれを反故にされたと言うのなら、苛立ってしまうのも当然だろう。
「あー、ま、何でも良いでしょ?」
「良くない!全然良くない!」
が、しかしスピネルがそれを聞き入れる事は無かった。
それどころか、少年にとっての第一印象──即ち傲岸不遜で得体の知れないイギリスのお嬢様として彼女は振る舞い続ける。
何故か。
少年から好かれる事を望んでいながら、何故敢えて嫌悪感を煽るような行動を取るのか。
原因は、昨晩の行為にあった。
(見えるぜぇ……お前の苛立ちがよぉ……)
そう、欲望の赴くままに吸血を行い渇きを満たした
これによってスピネルが少年を視界に収めている限り、彼が考えている事は1から10まで筒抜けとなってしまっている。
要するに今少年が鬱陶しさを感じている事も、今朝少し下品な欲を見せようとしていた事も、何もかも彼女に伝わっているのだ。
だから、梯子を登った先でスピネルが待ち構えていたのもただの待ち伏せではなく、目覚める前から
あぁ、なんとおぞましいのだろう。
歪んだ独占欲と猜疑心が発現させた、歪んだ愛情表現だが──此処まで来ると最早プライバシーの侵害等と言う領域の話ではない。
更に性質の悪いのが、その
スピネルが少年に仕込んだ魔術は魔術回路を持たない一般人にはまるで気付けないが、ある程度の水準に到達した魔術師ならば一目で看破出来てしまう程雑に刻まれたモノなのである。
だが、これを発見した魔術師は従来の魔術とは異なる形態の「ソレ」に間違いなく恐れを抱くだろう。
何せスピネルの魔術は人類が用いるモノと同一の名を関しておきながら、その根底は
その異常性に賢い者は危険性を悟り、愚か者は手を伸ばしてスピネルに殺される──そう言うシステムが少年の預かり知らぬ内に形成されていた。
つまり、スピネルは傲慢にも「コイツは私の物だぞ」と誇示しているのである。
(あなたは気にしないだろうけど、外に出れば私は────)
だが、そこまでしても彼女の中から不安は拭えなかった。
少年が誰かに見られる。
少年が誰かに話しかけられる。
少年が──そこから先は考えたくない。
次々と思い付く可能性に、スピネルは耐えられない。
そもそもからして美化するならば天真爛漫、ありのままで表現するならば傲岸不遜とも取れる態度を取るのは、彼女が
虐げた時のみ褒められ、残虐性を発露させた時のみ称賛されていた彼女は、正しい愛され方を知らない。
どうすれば他人から好かれるのか知らない。
その果てに「ちょっかいをかけて自分に意識を向けさせる」と言う回りくどいにも程がある手法に出るしかない今がある。
(いや、嫌よ……嫌われたくない……!)
しかし、それすらも本音の一部でしかない。
今のスピネルは「もっと縛り付けてしまえ」と嘯く妖精騎士トリスタンと「もっと縛って貰えるようにするべき」と囁く妖精バーヴァン・シーの板挟みにされて自分も満足にコントロール出来ない、されどそんな現状を打ち明ける勇気も無い臆病で哀れな少女なのだ。
だが────
「……」
いっそもう一度殴ってしまおうか。
撹拌される思考の中で、スピネルは不意にそんな事を思い付いた。
そうだ、殴ってしまおう。
また気絶させてしまえば外に出なくて済む。
サウナみたいな空気に飛び込む事も、照り付ける日光に焼かれる心配も無い。
それにベッドに運んでしまえば、また吸血だって出来る。
良い事尽くめね、と心の中で呟いた少女は自分が何をしようとしているのかもハッキリしないまま、左手を拳の形にして────
「あーもうほら!時間無くなるから行くよ!」
「────!?」
その手首を、少年の右手で掴まれた。
掴まれて
「あ、ぁ────!?」
スピネルの白い肌に伝わるは、少年の手のひらが放つ人の温かみ。
フェイルノートで切り裂いた敵から噴き出す臓物の生暖かさとも、吸血の際に口腔を満たす血液の温さともまるで違う、皮膚に隔てられているからこそ感じられる生命の感触。
これが────これがずっと欲しかったのだ。
畏怖もない、嘲笑もない、ただあるがままに触れられるその実感をスピネルは渇望していたのだ。
気紛れで殺戮を行っていたから妖精國では得られず、妖精騎士トリスタンとして振る舞っていたからカルデアでも手に入らなかった「何て事はない触れ合い」を、スピネルは手にしたのだ。
(やった──────!)
訝しげな表情の少年を他所に、スピネルは心中で歓喜した。
正しく狂喜乱舞と呼ぶに相応しい、感情の洪水だった。
それなりに豊富な筈の語彙力は一瞬の内に死滅し、「やった」の一言が彼女の世界を埋め尽くして行く。
そして、それ故に────
「ええ、ええ!行きましょ、何処へでも!」
「何処も何も花畑だからね?徒歩20分だからね?」
花が綻ぶような笑みを浮かべたスピネルは、困惑する少年を引き摺って晩夏の屋外へと飛び出した。
英霊である事を忘れ、見かけ相応の少女として。
「────」
それは、影法師だった。
「────」
それは陽炎の向こうでゆらゆらと揺らめく、吹けば飛びそうな程薄っぺらい人型の「何か」だった。
「────」
そしてそれは誰にも見咎められず、誰かを認識する事もなく消えていく筈の幻影だった。
「────」
だが────道路脇の茂みで静止していた「何か」は、見た。
「ちょっ!?引っ張らないで肩抜けるってホントに!マジでどういう馬鹿力してんだよお前!」
「あはははは!サクサク歩かないお前が悪いんだよバーカ!」
神秘の塊としか形容出来ない、凄まじい魔力を秘めた赤髪の少女を。
軽やかにステップを刻む彼女に手を引かれ、ひぃひぃ言いながら走る平凡な少年を。
────そして彼に刻まれた、如何にも美味しそうな
◯少年
だからアウトだっつってんだろ(憤怒)
なお、当人からしても女の子の手を掴むのはかなり踏み切った行為である模様
◯スピネル
チョロい
信じられない位超チョロい。
カルデアのマスターなら適切な言葉とか称賛とかくれそうだよねって話ではあるけどそもそもからしてぶっ飛んだヤツが多いカルデアで全員と満足にコミュニケーション出来るのは異常な才能だと思うの。
トリスタンはそういう「オンリーワン」な輩からの称賛では満足出来ない、酷い言い方をすれば贅沢な少女である。
加えて今回は自分が「トリスタン」でも「バーヴァン・シー」でもない曖昧な状態である為に気安く相手の心を無視したような行動に走りがち。