青春ブタ野郎はナイチンゲールの嘘を見ない   作:Aikk

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咲太と郁実の原作とは異なる過去の話です


第一章
彼と彼女のプロローグ


~~ プロローグ:私は、あの人のようにはなれなかった

 

外からの喧騒が遠く聞こえる中学の保健室は、驚くほど静まり返っていた。

カーテンが閉め切られた昼下がりの薄暗がりの中、梓川くんはベッドの端に腰掛け、制服の胸元を無意識に片手で押さえている。

周囲から「妹の事件に怯えて嘘ばかりつく虚言癖の危険人物」だと白い目で見られ、クラスで完全に孤立した彼が逃げ込んできた場所だった。

「花楓(かえで)の身体にいきなり傷ができた」だの「誰も信じてくれない」や、不可解な言葉を並べる彼を、世間の噂や学校の先生たちは一様に「精神のバランスを崩した虚言癖の塊」だと咎めていた。何事にも全力で取り組むべきだと考えていた私も、彼自身の口から本当の事情を聞かされるまでは、その冷たい噂を真に受けていたのが本音だ。

けれど、ガラッと引き戸を開けて、私は静かに部屋へと足を踏み入れた。

「……またここにいたのね、梓川くん」

ベッドの上の彼は、今にも消えてしまいそうなほどボロボロだった。普段の私なら、男子の隣に自分から行くような真似は絶対にしない。でも、嘘つきだと蔑まれて孤立している彼の姿を前にして、どうしても素通りすることはできなかった。だから、努めていつも通りを装いながら、不器用に隣へ腰掛ける。

「隠さなくていいわ。……私は、あなたの言っていることを信じているから」

周囲が嘘つきだと切り捨てる中、彼が震える声で語ってくれた「花楓さんの事件」の真実。誰かを騙すためではなく、ただ傷ついた妹を守ろうと必死に戦っているその不器用な言葉を、私は真っ直ぐに聞いて、信じると決めたのだ。

 

「誰もあなたの言葉を信じない。学校の先生も、あんなに仲の良かった友人たちも、全員があなたを奇異の目で見てる。……でも、私は違うわ。あなたが嘘をついていないことくらい、私には分かるもの」

 

私は、彼の瞳をじっと見つめ返した。私にできることは、ただ、私の持つ実直さのすべてを込めて、彼の言葉と向き合うことだけだった。

「だから、話して。花楓さんのことも、あなたが今抱えている苦しみのことも。私に全部言いなさい。私が聞いてあげるから」

梓川くんは、小さく息を呑んだ。

誰も信じてくれない世界の中で、ただ一人、目の前の私が彼の言葉を真っ正面から受け止めようとしていた。特別な感情があるわけでも、依存しているわけでもない。ただ、彼を見捨てるような不誠実な真似が、私にはできなかっただけだ。

「赤城って、ほんと真面目だな。配置の悪い家具くらい、無駄にきちんとしてる」

「……何よそれ。褒めてるなら、もう少しマシな言い方をしなさいよ」

私が少しジト目で睨むと、彼はどこか拍子抜けしたように、ふっと小さく笑った。

その私の言葉に、彼の張り詰めていた心がどれだけ救われていたか、当時の私は知る由もなかった。ただ隣にいて、誰にも届かない話を聞く。それだけで、彼は確かに世界に繋ぎ止められていたのだ。

 

 

 

――しかし、そんな私たちの距離に、一つの苦い挫折が訪れる。

 

 

(梓川くんはどこかしら…ん?)

数日後の夕方。何事にも全力な私は、彼の心が少しでも晴れるようにと言葉を胸に秘め、七里ヶ浜の海岸沿いを歩いていた。

そこで、私は見てしまった。

砂浜の上、一人の美しい女性の前に座り込み、大粒の涙を流している彼の姿を。

彼がどれだけ傷つき、どれだけボロボロになっても、私の前では決して見せなかった顔。「完全に魂を救われたような、子供のような泣き顔」を、彼はその女性の胸の中で晒していた。

私は、言葉を失って足を止めた。

波の音に混じったその人の名前を呼ぶのが聞こえた。

 

――『翔子さん』、と

それが、牧之原翔子という人なのだと、私はその時初めて知った。

胸の奥に、冷たい楔を打ち込まれたような感覚が走る。

(――私は、あの人のようにはなれなかった)

自分がどれだけ言葉を尽しても、どれだけ真面目に彼の話を聞いても、彼の心の核心を救うことはできなかった。彼を本当に救い出したのは、私ではなく、あの「マキノハラショウコ」という絶対的な存在だったのだ。

夕日に照らされる二人の影を見つめながら、私にできることのなさに唇を強く噛み締めた。

 

この時の「私は本当の意味で彼の力になれなかった」という実直すぎるがゆえの無力感と後悔。

 

その歪みが、峰ヶ原高校に進学し、親元を離れたアパートで一人で暮す、私の心の中で静かに形を変えていく。

 

私の中に芽生えた小さな何か、その「何か」が手の施しようのないほど大きくなってしまうことを、当時の私はまだ知らなかった。

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