少年と少女が出会って。生きて。いつか死ぬまでの話

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よろしくお願いします。


NieR:Replicant 外伝:モモとカグヤ

 

 

 

 鋼が羽々斬る。ずるりとマモノの体が割れて、崩れ落ちた。無残に中身を地に、晒す。それが硬い靴底に踏み躙られ、散らばった。

 ()の名は、天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)。黒鉄の劔は、縦横無尽と踊る。素人ならばこうも自在に振るうことなどまず叶わない。そもそも持つこと、持ち上げることが難しい。常人の腕が支えられる重さを超えている。その長大さ。その分厚さ。その重量。あらゆる面において、これは、凶悪さを誇る。

 故に、これを武器として十全に手繰る仕手は、尋常ではない。

 ダンッ!と肉厚な刃がマモノの体を叩き砕く。渦巻のように刃と体は、ぐんッと廻り、薙ぎ払う。ゾンッと突き出された刃がマモノを複数まとめて貫いた。

 

 「好調のようだな」

 

 「ああ、いつもの通り、絶好調さ。シロ」

 

 マモノの肉片臓物が飛び散る最中であろうと森に生じた鉄火場の最中であろうと白と黒の彼は、輝かんばかりに美しい。眉目秀麗な白髪の青年(ニーア)は、息切れ一つ無かった。マモノを狩るものとして、数えるのが馬鹿らしいほどマモノを殺してきた彼に、この程度、準備運動でしかない。彼の傍らに浮かぶ分厚く、硬い白い本、白の魔導書(シロ)は、いつも通りのニーアの姿に、「うむ」と頷いた。

 その傍から大きく(ページ)を開く。すると中から赤黒い球体、魔法――黒の弾が放たれた。

 子ども程度の大きさをした人と獣の間の子のような小型のマモノの群れを撃ち抜く。濁流のように吐き出される黒の弾の前に、この程度のマモノは、火中の紙切れのように容易く引き千切られる。

 一匹、二匹、三匹――戦いから逃げようとした四匹を追いかけて、頭を砕いた。次々と黒の弾がマモノを駆逐していく。

 すると今のより一回り以上大きなマモノ。全身に、盾やらを身に着けた剣持ちの中型のマモノだ。黒の弾を物ともせず、騒がしい金属音を鳴らしながらニーアへと一気に距離を詰めてくる。それが前左右と挟み込んでくる。上からも小型のマモノが幾匹か覆いかぶさるように襲ってきた。

 

 「シロ!!」

 

 ニーアが叫ぶ――いや、叫ぶより少し早く、槍が天を突く。一つではない。無数の赤黒い槍たちが地面から現れる。シロの魔法の一つ、黒の処刑。枝分かれする槍は、幾何学に伸びるとその矛先で、マモノたちを百舌鳥の早贄、つまり、その場に釘付けにした。

 

 「はぁッ!!」

 

 巨大な鉄の劔を持っているとは、到底思えないほどの速度と身のこなしだ。タン、タンッ。軽いステップ音が聞こえたときには、マモノは、死骸になって転がっている。ニーアとシロの前では、この程度のマモノは、有象無象に過ぎない。

 ズンッ!! 重い足音。血を沈ませ、木々をへし折り、森の闇の中から今までと比べ物にならないほど巨大なマモノが姿を現す。赤茶けた鋼の装甲を全身にまとったマモノだ。おそらくこの群れのボスだろう。ニーアは、思考し、同時に加速する。

 黒の弾を放ちながら距離を詰める。新たに現れた小型のマモノの体を引き裂いていく。しかし、壁のように巨大なマモノを守るように動く小型のマモノを押しのける事ができず、巨大なマモノを中心に、円を描く。

 

 「援護します!」

 

 紫の刃のような閃光が小型のマモノの群れを切り裂いていく。丸い頭、人の髑髏というには、丸すぎ、大きすぎる頭がボロ布を纏い、身の丈ほどある杖を手に浮いている。瞳のような魔法陣を展開した彼は、エミール。ニーアの仲間の一人。

 削り取られていく小型のマモノの群れ。そこへ追撃とニーアも別の魔法、黒の槍を放つ。弾と同じく放つタイプだが名の通り、その先端は、鋭い。螺旋する槍が小型のマモノの壁に突き刺ささって――道ができる。巨大なマモノが奥に見えた。ニーアは、躊躇いなく踏み込む。そこへ狙い澄ましたように、巨大なマモノの衝撃波が放たれた。どうやら意図的に小型のマモノの壁を開けたらしい。犠牲を伴った戦術。小賢しい。ニーアは、天叢雲剣をかざして、ガードする。

 

 「ニーア!」

 

 「うわっ!!」

 

 天叢雲剣と衝撃波が激突する、手前。ニーアの体が横に転がった。柔らかい、白い。まとめ上げた髪が少し解けていて、ニーアの顔を軽く撫でる。咎めるような暗い紫の視線が彼の瞳を穿つ。桜色の唇がきつく横に引かれている。彼女の表情に、ニーアは、とても申し訳なくなった

 

 「ありがとう、カイネ」

 

 「迂闊だ。もっとちゃんと見てから踏み込め」

 

 「……そうだな。すまない。気をつける」

 

 ほんの少しの間、見つめ合って。

 

 「おい、いつまで引っ付いている。下着女」

 

 シロの声が割り込む。と、我に返ったニーアとカイネは、急いで立ち上がる。

 

 「まったく……。ニーアに、悪い虫が感染ったらどうする」

 

 「黙れ。✕※○△☆が。✕※○して、○☆※△〇✕✕※〇してやろうか」

 

 「いつも事だがその口が悪いのは、どうにかならんのか!!」

 

 「ニーアさん! カイネさん!」

 

 小型のマモノの群れに対応していたエミールの叫びに、二人が飛び退いた。巨大な衝撃波が、刃のように通り抜けた。地面に深い亀裂が刻まれる。森に深い傷跡が一直線に引かれた。巨大なマモノが二人を睨んでいる。その巨腕で、二人を指すように振るう。視界一面を覆う衝撃波の弾幕が二人へと放たれた。

 

 「カイネッ!!」

 

 「分かってる!」

 

 死地にこそ、勝機あり。二人は、衝撃波の弾幕へと飛び込んだ。衝撃波そのものは、線だ。空間に大して縦方向に引かれている。つまるところ、躱せる余地が存在する。恐るべき身のこなし。人のものとは、思えない機動で、ニーアとカイネの体が地を疾走り、時に、空を舞う。

 そして、着地――カイネの双剣がマモノの装甲を噛む。砕く。振り切る。咲く火花。散る金属片。奔る青い閃光。煙のような粒子を上げる傷跡。身動ぎ、響くマモノの悲鳴。――する。バックステップ。距離を取ったカイネは、魔法を放つ。青く輝く魔法陣。巨大な魔法弾と追尾弾が巨大なマモノの動きを牽制し、装甲を引き剥がす。

 巨大なマモノを守るべく集まってきた小型なマモノや中型のマモノをカイネの魔法とエミールの魔法が牽制した。

 ニーアは、まだ空中だ。魔法を溜める。力を練る。黒の手が強く握り締められた。手が増える。一つに束ねられる。それは、強烈な力の凝縮。今、この場で、最も強烈な力場。トドメの一撃。

 

 「終わりだッ――――!!」

 

 裂帛の叫びと同時、ニーアの黒の手は、巨大なマモノの頭部を装甲ごと粉砕した。

 巨大なマモノの体が一瞬の痙攣のようなものの後、力を失った。ぐしゃりぐしゃりとそのまま黒の手が粉々にしていった。

 

 ――そこから森が静かになるまで、そう時間は、かからなかった。

 

 「お疲れさまです!」

 

 「ああ、エミールも、カイネもお疲れ」

 

 「ふん……」

 

 「シロもお疲れ」

 

 「これきしのこと。下着女は、随分お疲れのようだがな」

 

 「黙れ、※△〇✕」

 

 「シロ、カイネ。そのへんにな」

 

 虫の声や動物の鳴き声が戻ってきた。ニーア一行は、森の中で小休憩していた。いつものやり取りに、苦笑いしながらもニーアは、頬を緩めてしまう。

 

 「結構、数いましたね。あれでこの辺りのマモノは、全部でしょうか」

 

 「どうだろうな。マモノの気配は、今の所感じないが」

 

 「どうでもいい。出てきても殺せばいいだけだ」

 

 「ああ、そうだな。カイネの言う通りだ」

 

 ニーアが微笑み頷くとカイネは、不機嫌そうにぷいと他所に視線をやった。エミールは、微笑ましげに見守り、シロは、「やれやれ」と言葉を作る。

 

 「日が暮れる前に、行ったほうがよかろう。ニーア、この先に目的地は、あるんだな?」

 

 「ああ、この先、小高い丘の上にある廃墟をマモノが根城にしている」

 

 街の木こりからの依頼だった。二人ほど怪我をして、一人犠牲になっている。ニーアの瞳に、怒りの炎がうねる。憎悪を薪木に強く、冷たく燃える。

 

 「……行こう。ここから距離は、そんなに無いはずだ」

 

 ニーアが歩き出す。それぞれ、その背中に続く。短い坂の上、いつかの文明の残り香が長い年月を経過してもなお残るひび割れたコンクリートの舗装を踏み締めて、程なく件の廃墟の前に、一行は、辿り着いた。

 無機質な灰色の全身に、蔦やらシダやらのあらゆる植物を纏わりつかせたそこは、まだ建物の形をしていた。大きく開かれた口のような、扉の無い入り口の向こうには、昼間でも深く、濃い闇がわだかまっている。人を、獣を、あらゆるものを拒むような暗がりがあった。

 だが三人と一冊、それぞれが目配せすると頷き、躊躇い一つ無く、闇に踏み込んだ。

 

 

 

 +++

 

 

 

 数式に目を落とす。すると数式もまた俺を見返してくる。解いてみろ。理解してみろ。そんな感じに笑ってる。薄笑い。性格の悪そうな笑い方。俺にとっての数学は、いつもそんな感じ。意地が悪い。もう少し、なんとかならないものか。まったく。悪態をつきながらシャーペンで、数式を解いていく。足して、引いて、掛けて、割って。簡単な数式を解き終えたらやってくるのが一番ややっこしい文章問題。

 そらそら。早く解かなきゃ彼女が帰っちゃうぞ。解いたら、話しかけるんだろう? シャーペンが惑う。空中を彷徨う。輪を描き、二つ書く。繋げて、無限になる。ぶれたペン先がちょこんと紙に触れて、黒い点がつく。そのまま、ノートへ静かに転がした。

 

 「五月蝿いよ」

 

 自分にしか聞こえないくらいの小さな嘆息。柱にかかった時計を見る。丁度14時。時間は、まだまだたっぷりある。始めたばかり。まだ息抜きには、早い。それが分かってるからごく自然に、二つ先のテーブルをちらり目やる。それからすっと参考書に目を落とす。参考書を持ち上げて、読みながら……読むふりをしながら二つ先のテーブルをまたちらちらと見る。

 

 「……夢中だな」

 

 女の子が一人。つやつやの黒髪ロングに白い肌。赤縁の眼鏡の奥の瞳が真剣にページを見つめていて、細い指がページを捲る音が微かに聞こえてくる。そう、女の子が一人、本に夢中ってこと。別に、俺があの子にってわけじゃない。

 今日は、黄のカーディガンに、白いシャツ。薄い青のロングスカート。可愛い。向日葵みたいだ。そういういつもの通り可愛い姿で、いつもの窓際の席に座って、ブラインドから微かに差す光に照らされた彼女は、本を読んでいる。

 来る度に、あの席に座っていた。昨日も、その前も、その前は――休館日だったからその一つ前もいた。俺の知る限り、ほぼ毎日図書館にいる。図書館の本を読み尽くすノルマでもあるんだろうか。

 前言撤回。正直に言おう。俺は、今、まったく勉強に集中できていない。何故なら彼女がとても気になっているからだ。恥ずかしいけど夢中になってる。

 どうして? 何故? Why? 気になるよな。分かるよ。ただその話をするのには、まず出会いの話から語らねばならない。長くなるぞ。

 

 ――出会いは、夏休み二日目の午後だった。

 この図書館からもう二駅先にある大きめの図書館にできた人混みに辟易した俺は、どこか静かにできる場所が無いかと思い悩んだ結果、昔、母親に連れてきてもらったここを思い出した。善は急げとやってきてみればガラガラ状態。穴場だやったぜ。勉強に集中できると思っていたら……その実、まったく集中できなかった。理由は、もちろん彼女だ。今と同じ用に本を捲っていた。こっちに見向きもせずに本を読んでいた。それだけだ。ただそれだけだったのに、視線が、意識が向けられるものすべてが彼女に吸い寄せられるようになってしまった。

 おかげさまで、夏休みもそろそろ真ん中になるが勉強は、進んでいない。来なければいいのは、分かってる。別に家でも勉強はできる。ただ、それはそれで気になる。今日は、来ているのだろうか。どんな本を読んでいるんだろうか。そんなことに思考のスペースを奪われてしまう。

 

 これを出会いといっていいんだろうか。俺は、かなり自信がない。かなり一方的な……片思い。まあ、片思いだしな。

 だから毎度来てしまう。来てしまって、ちらちら見てしまう。この視線、バレてないんだろうか。多分、バレてない。気にもとめられてないに違いない。

 

 「うーん……だめだな……」

 

 片手で、髪をくしゃりと掻き回す。硬い髪、なんとなく目につくかなと髪をブリーチしてみた。金金になっている。めちゃくちゃ目立つ。そりゃもう周りの視線が釘付けだ――あの子以外の。肝心な視線を感じることができずに時間だけが過ぎていく。苦手な数学は、苦手まま目を通って、頭に、蓄積されずどこかに空いた隙間から逃げ出していく。やってられない。

 

 「……今日のは、ファンタジーか?」

 

 やってられないので、勉強そっちのけで、あの子の読んでる本の背表紙に目を凝らした。丁度、新しい本を手にとっていた。一瞬で、本に夢中になっているからかやっぱり気づかない。これだけ見て気づかれないのもなんだかなと思いつつ、俺は、荷物をそのままに席を立った。

 

 「〈キミとオートマタ〉、か。オートマタってなんだっけ」

 

 そう目的は、あの子の読んでる本だ。どんな中身か知れればきっと会話の糸口にもなるし、話しかけることもできるはずだ。

 ――というのを一週間ほど前から繰り返しているが、読む速度が違いすぎて、読み終わった時には、三冊ほど先を行かれてる。ただ今回は、読み始めたばかり。俺もエンジンがかなり温まってきた。これならいける。

 なんていう根拠がいまいちな自信を胸に、俺は、検索機から場所を割り当てたらスタスタと怒られない程度の早足で、本棚と本棚の合間に潜り込み、さくっと見つけ手にとった。

 思った以上の重厚感。文庫本とは違う硬い感触(ハードカバー)。手触りの良さには、ちょっとした高級感を感じる。表紙には、少女と少年の絵。タイトルは、あの子の持っていたものともちろん同じで、〈キミとオートマタ〉と印字されている。なんとなくそのまま立ち読みしてみる。このまま持っていくのも少し気まずい気がした。

 

 「どうせ見られてないから関係ないけどな」

 

 自嘲気味な呟きもそこそこに、俺は、開いた本に目を落とす。入ったばかりなのか、あまり触られてないのか。新しい本の匂いがした。乾いたページを捲る。文字の羅列が視界に飛び込んでくる。数列よりは、どっちかっていうとこっちのが俺は、好きだ。

 人ではない人の形をした機械のようなもの――オートマタ。少女と少年は、そういうもので、〈キミ〉は、彼女と彼に従う機械のこと。〈キミ〉は、彼女と彼を助け、守り、記録し続けるのが仕事らしい。

 機械のような淡々とした言葉遣い。一人称で、物語は続く。一つの視点だったものが移る。キミが二つになる。他の視点と共有を初めて、それから――。

 

 「――キミ、閉館時間ですよ」

 

 「……へ?」

 

 「閉館時間です。その本、借りる?」

 

 声につられて、本から目を上げたら目と目があった。本棚の合間、立ち竦んだままの俺の隣に居たのは、見たことある人だった。エプロンを身に着けて、髪を一つ結びにした女性。何回か話したことがある。確か、そう。ここの図書館の職員の人。目をぱちくりする俺に、もう一度、問いかけてきた。

 

 「え、あ……そんな時間……嘘……まじ?」

 

 壁掛けの時計を見ると19時を回っていた。外は、流石に暗い。

 

 「すごい集中力。そんなに面白かった?」

 

 「……そんなところっすね」まだ半分ほど本は、ページを残している。「あ、これと……」シリーズもののようだ。ナンバリングがあった。

 

 「これも貸し出しお願いします」――次の巻を取って、手渡しした。残りは、また今度で良いか。

 

 「はいはい。カードは? ――よろしい。それじゃあ、登録するから荷物をまとめたらカウンターに取りに来てね」

 

 笑みを浮かべた職員さんは、角を曲がると後ろ姿が見えなくなり、スニーカーの足音が遠ざかっていった。まあ、言われた通りにするか。いつの間にか明かりも最低限にされていた。照明は、まばらで、足元を照らす緑の足元灯だけ。

 元いた場所に戻ってみると昼間と同じ状態の机がある。シャーペンと消しゴム。参考書とノート。後、リュック。特に無くなっていない。詰め込みながらちらっと視線を他所にやる。

 

 「そりゃ、当然いないよな……」

 

 彼女の姿はない。影もないし、形もない。今日こそ名前を聞いてみようと思っていたのに――……嘘だ。聞けたら良かったなくらい。

 

 「? あれは……」

 

 何かが残っている。テーブルの上、丸い明かりの中に、ぽつんと手帳が一冊。手にとって見る。生徒手帳だ。校章に見覚えがある。近くの私立高のもの。年上だったんだ……。確かに大人っぽい雰囲気はあった。……いやいや、あの子のものと決まったわけではない。だけどちょっとドキが胸胸してきたな……。生唾ゴクリ。冷や汗たらり。手が震える。いや、別にやましいことをしてるわけじゃないだろ。確認しようと思っただけ。

 

 「中身は見ない。誰のかを特定するだけだから。後は、預けて帰れば――「閉館です」――ッス!!」

 

 ずしんと机に置かれたのは、借りる本たち。職員さんがジト目をぶつけてくる。早く帰れと目が語ってる。帰りたいと訴えかけてくる。

 

 「はい、帰ります! 失礼しまっす!!」

 

 本を抱えて、スタコラサッサ。「リュック、忘れてるわよ」忘れてたので、本を――丁寧に、迅速に詰め込んで、

 

 「失礼しまっす!!」

 

 「図書館では、お静かに」

 

 「っす!」

 

 小声の返事をして、図書館を出て、坂を下り、目の前にある駅の改札をくぐり、丁度やってきた電車に乗って、ようやく俺は、やっと気づいた。

 

 「もってきちゃったな……」

 

 手の中にあるのは、件の生徒手帳。ガタンゴトン、ガタンゴトンと揺れる電車の中で、自分を見ている人間なんて全くいないのに、俺は、なんとなく挙動不審気味に周囲を見回した後、そっとゆっくり開いてみる。

 

 「……〈香久家 姫〉、か」

 

 ここ数日で、瞳に焼き付けた顔が写真にあって、知らなかった名前が俺の頭で、知識になり、彼女と結びつく。

 

 「よし」

 

 そして、俺は、決意する。一世一代の大博打――大仰すぎるな。とりあえず決意した。流れる夜景を横目にしながら呟く。

 

 「明日、話しかけよう」

 

 

 

 +++

 

 

 

 「幸先が悪い……」

 

 翌日、いつもの改札を出ると小雨が大雨になっていた。坂の上まで登るのには、結構、大変そうだ。どうしよう。帰ろうかな……。

 

 「くぅ……眠い」

 

 欠伸を噛み殺す。勉強半分に……いや、そっちのけで、本を読んでしまった。それで夜ふかしした結果がこれだ。帰って、寝直し……いやいや、あの子も手帳を無くして、困っているかもしれない。そう思うと二の足を踏んでいる場合ではない。雨の中に踏み出す勇気ができた。

 

 「……リュックを濡らさないようにしないとな」

 

 中には、大切な勉強道具とそれと同等以上には、大切な手帳が入ってる。借りた本も入ってる。念の為に、ジップロックしてきたから大丈夫だとは思うけど心配は、心配。

 ばさりと傘を広げ、斜めった雨の方へと向けて、雨中に、踏み出す。ざーざーと傘を叩く雨音を聞きながら俺は、踏み出したまま立ち止まった。視線を釘付けにされたんだ。だから動けない。

 駅前のバス停の頼りない雨避けの下、あの子が雨天を見上げて、憂鬱そうにしていた。少し湿った髪と服。透けそうなワイシャツの白の向こうに、透き通った白が見えそうになる。ぐっと顔の方に視線を持ち上げ、俺は、回避する。

 けれど今度は、顔を見ることになる。それはそれで気まずいので、足元を見た。ふわっと長い藍色のスカートが揺れたのが見えた。多分、あれ制服だ。だめだ。まだ気が散る。と回れ右して、背中を向ける。

 

 ――どうする?

 

 あの子が立ち止まっている理由なんて見れば分かった。青と白のボーダー柄をした傘が無残に折れていた。何をどうやったらああなるのか。車のタイヤに潰された? 誰だよそんな危険運転したやつ。許せない。許せねえ。許さんぞ……。俺は、怒りに震えた。

 はい、現実逃避タイム終了。こっからは、絶対時間――くらい強気に出れたら良かったよな。

 

 「決心したばっかじゃないか、ほんと」

 

 昨日のことを思い出す。電車でした決意。無為にするのは、どうにもだ。いい加減、夏休みも終わりが近いんだから勇気の一つや二つくらい捻出してみせろっての。

 「やるぞー……やーるーぞー……!」

 

 小声で、覚悟を決める。ぐっぱーぐっぱー。傘で埋まってない方の手を広げて、開けて。ぎゅっと握って、振り返る――と意を決した表情で、雨の中に飛び込もうとするあの子の姿があった。だめじゃん。濡れちゃうじゃん。つい、走ってしまう。そんなに距離はないからすぐに追いつく。

 

 「あ、あの……!」

 

 濡れる寸前? 多分、間に合った。声をかけて、さっと傘を出したら驚いたような、丸まった目がこっちを見た。俺、頑張れ。頑張るんだ。なんとか耐えるんだ。

 

 「えっと、その……」

 

 しどろもどろ。舌が絡む。あー練習しとくんだった。いや、練習はした。昨日の夜、勉強しながら練習した。全く勉強にはならなかったけど、ある程度自信はついてた。シチュエーションが悪い。こういう急なのは、想定してなかった。考えが甘い。雨なのが悪い。

 

 「えっと」ぷるぷる震えそうになるのをなんとか抑えて「昨日、忘れてて……その、どうぞ」ジップロック入の生徒手帳を渡した。

 

 「あ、別に俺が盗ったとかじゃなくて、拾ったんだけど預ける間が無くて、その……! 返すつもりで今日も来たんだけど……! だから、その……」

 

 一通り言って、頭がぐちゃってしまった。次どうしよう。安っぽいビニール傘を差し出したまま固まって、雨音だけが時間の経過を教えてくれる。

 

 「……と、とりあえず」

 

 つまりつまりで聞けたものじゃない。ただ逃げなかったのを褒めてほしい。言葉を出せただけで俺は、俺自信が偉いと思う。ハードルは、下げていけ。

 

 「図書館、行きません……?」

 

 伺うような言葉、ハの字になった眉。そんな俺の情けない様の前で、その子は、胸ポケットから取り出したケータイをなにやら操作しだした。なんだ? と首を傾げる俺の前に、ぱっと文字が現れる。バックライトに照らされた背景に浮かぶ、デジタルな文字は、こう言う。

 

 『よろしくお願いします』

 

 控えめな微笑みをセットで向けられた俺は、一瞬で、舞い上がりそうになった。ああ、簡単だ……。

 

 「はい……!」

 

 傘の中に入ってくる彼女を濡らさないようにスペースを作る。並んで気づいた身長差。思ったより彼女が小さくて、俺が高い。だから歩幅を慎重に合わせる。置いてけぼりにして、濡らしたら元の木阿弥だ。

 暫し、沈黙。勢いを無くした雨が等間隔で、傘を叩く。相合い傘というだけでひと夏の思い出になってしまいそうだ。並んで歩く。緩やかな勾配の坂を登る。隣に彼女がいる。心臓がバクバク。健康に悪いくらいの脈動が心地よくも苦しい。ああ、幸せだ。小さな幸せ。だけど俺は、思春期的強欲を持ち合わせているので、小さな幸せをもっと集めていきたい。夜空の星を写真に撮ったり、小さな箱に集めたビー玉とかキレイな石みたいな。

 

 「えっと、あの……香久家さん――っとごめんなさい。誰のか確かめたくて中……あ、これも一ページしか見てないです。はい。表紙を捲っただけ……」

 

 尻すぼみじゃだめだろう! もっとこう……気の利いた話をだな……。語彙とコミュ力の不足を嘆く。

 

 『大丈夫ですよ』その六文字にとりあえず救われて、『あ、でも……』後に続く言葉に凍りつく。

 

 「……でも?」

 

 『証明写真見ちゃいました?』

 

 無言で固まった顔で、頷く。

 

 『まあ、ですよね……。映りよくないからあんまり人に見せてないんです。ブスだから……』

 

 「そ、そんなことはない。なかった。なかったです……!」

 

 苦笑いを見て、とっさに出たのは、そういう言葉。本心だ。当たり前だ。当たり前じゃないか。でもまあ言ってしまって、後悔もした。だってキモいだろ。こんなの。つい立ち止まったから香久家さんも立ち止まって、その横の道を自動車が下っていく。ヘッドライトがぱっと通りすがりに俺たちを照らして行った。

 

 『……ありがとう』

 

 「……ッス」

 

 照れたように、はにかんだ香久家さん。俺も顔が真っ赤で熱い。

 

 「行きましょうか。すみません。急に止めちゃって」

 

 『いいですよ。行きましょ』

 

 「あ、その……敬語、じゃなくていいっすよ。俺、中学生なんで」

 

 『……そうなんですね。今まで、年上だと思ってました』

 

 「そんなに老けてます……?」

 

 『髪、綺麗に染めてるし、大人っぽかったから……つい』

 

 大人っぽい。褒められてるよな? 褒められてると思う。そう思おう。

 

 「……今まで?」

 

 『夏休み入ってから毎日見るのは、君くらいだったから嫌でも覚えてしまいました』

 

 「ああ、確かに。そうかもしれないっすね」

 

 呟きを拾われてたのは、ともかく。小さい図書館だし、来館者も少ないから覚えられるといえば覚えられるか……。でも、染めたの正解だったな。こうやって覚えてもらえた

 

 『金髪の人は、あまり周りにいないので……。グレちゃったんです?』

 

 「い、いや、そういうわけじゃないんっすけどね……!?」

 

 そういうわけではない。悪い友達なんてできていない。そんな治安の悪い学校には、通ってない。ごく普通の都立中学だ。強い部活もなくて、人数も普通。そんな勘違いをされたくはないから過剰に反応してしまった。

 

 『冗談です』

 

 「……冗談っすか」

 

 フフと唇の両端を持ち上げて、香久家さんは、笑った。つられて笑う。といっても苦笑い。悪い冗談だよ、ホント。

 

 『でも、黒いほうが良いと思います。可愛いです』

 

 「冗談すよね?」

 

 『ふふふ、どうでしょう』

 

 て、手のひらで転がされてる……!! 

 

 「あ、ついたっすね」

 

 雑談をしてるとあっという間だった。二階建ての小さな図書館。のっぺりとした灰色の外観は、雨に濡れて黒くなっていた。。併設してる駐車場もそんなに埋まってない。雨が止んだのを合図に蝉の鳴き声が戻ってきはじめていた。むしむしじめじめな空気が鬱陶しい。頬を伝った汗を軽く拭った。傘をさっと振るって、雨粒を払うと畳んでおく。

 

 『お世話になりました。……今日も、お勉強?』

 

 「え、あ、そっすね。でも、」いつもより重いリュックで、思い出す。「本の続き、読んでみようかなとか思ってます」

 

 『いいね。なんて本?』

 

 どうしよう。誤魔化す……無理だ。向けられたきらきらとした視線に、すんなり折れた。

 

 「……〈キミとオートマタ〉、っす。二巻まで借りてたので、続きを」

 

 『偶然。私もそれ読んでる』

 

 「そりゃ、その奇遇っすね」

 

 『私も昨日の夜、二巻読み終わったところ。続きが楽しみでしょうがなくて、雨の中も走っちゃおうかなって思ってた――君が来なかったらね』

 

 「タイミングが良かったっすね。それは」

 

 香久家さんが「ふわぁ……」と欠伸を一つ。どうやら寝不足らしい。きっといつものように寝るのも時間も忘れてたんだろう。よく見たら目元に薄くクマがある。かなり忘れてたっぽい。 

 

 「お揃いかよ……」

 

 『? お揃い?』

 

 「ほ、本のことっすよ」

 

 『ああ、なるほど。それじゃ、入りましょう――……あっ』

 

 「そっす――ど、どうかしました?」

 

 自動ドアに入ろうとした俺のシャツの裾を軽く引っ張って、香久家さんが引き止めてきた。ドキッとするな……。

 

 『いえ、その、大切なことをしてなかったなって……』

 

 「大切なこと……?」

 

 なんだろう。首を傾げる。何か伝えることでもあったかな。分からない。

 

 『お名前、聞いてなかったですよね』

 

 「そういえばそうっすね。忘れてました」完全に自己紹介したつもりだった「なんか改まってこういうのするの照れますね……。百地 桃矢っす」

 

 すっとごく自然に差し出された手。意味することは、一つだ。右手を出そうとして、ズボンで掌を拭ってから出し直す。すると優しく繋がれた。柔らかくて、細くて、壊れそう。

 

 『香久家 姫です。よろしくお願いします、桃矢くん』

 

 憧れた彼女が、いつも見ている時は、文字に夢中の瞳が俺を見ている。黒い瞳。暖かさの宿った黒が俺を見ている。緊張する。鼓動が早くなる。ああ、悟られてなければいいけど。

 

 『あっ、あれ見てください』

 

 すっと風みたいに手と手が離れていく。名残惜しさを感じながら俺は、彼女が指差す方をみた。図書館の反対側、さっきまで歩いてきた道路を通り越して、山を切り開いた住宅街の向こう側、空の上。空中に散らばる水の中を屈折分散して現れる光学現象。雨の後、よく見られる七色のアーチ。

 

 「――虹だ」

 

 かしゃりとシャッター音。見ると香久家さんが虹に、ケータイのカメラを向けていた。ついでに、俺の方に向けて、ぱしゃり。

 

 『後で、送りますね』

 

 どっちだろう……。とりあえず、俺は頷いて、

 

 「すみません。俺、ケータイ持ってないんス」

 

 『あっ。じゃあ、現像しするね。結構上手く撮れたので、楽しみにしてて』

 

 「あざっす」

 

 どっちを現像してくれるんだろう……。とまで、考えて。

 

 「まあ、いっか」

 

 楽しげにシャッターを切る香久家さんを見ているとそんなことは、些細に思えてしょうがなかった。

 

 

 

 +++

 

 

 

 『もう勉強良いの?』

 

 「本が気になっちゃって。後、詰まっちゃったので。あ、飲み物入ります? なんか買ってきますよ」

 

 『じゃあ、オレンジジュース。あ、お金』

 

 「後で、いいすよ」

 

 へらっと笑って、財布片手に、席を立つ。入り口の方に、自販機が一つあって。飲み物が欲しい時は、そこを使っている。紙パックの飲み物しかないのは、玉にキズだけど撒けないようにという配慮だと思う。

 

 「……ヨーグルトにするか」

 

 もうちょっと身長が欲しいから今のうちにカルシウムをとっておこう。関係ないとか関係あるとか色々言われてるけどまあ、飲んでおいて損はないでしょ。喉が乾いた。ストローをねじ込んで、ずずっと吸うと乾いた喉が潤っていく。甘酸っぱさと冷たさが脳に癒やしをくれる。たまらない。夏のオアシスがここにある。

 

 「あら、休憩中?」

 

 「まあ、そんなとこっす。そっちもです?」

 

 「そんなところ。まあ、毎日休憩みたいなもんだけどね」

 

 「はは……」乾いた笑いを上げながら昨日、本を貸し出ししてくれた職員の人に、俺は、自販機を譲った。

 

 「ありがとう。借りた本、面白かった?」

 

 「え? ああ、面白かったっすよ。結構バイオレンスでしたけど」

 

 「そっち系なんだ。私、恋愛専門なのよ。血が吹き出たりばらばらになったりとか苦手なのよね。毎月自分で――今の無し」

 

 「ああ、……はい」何の話だ……? 正直、この人とは、そんなに仲良くない。昨日、話したのが最初だったから距離感が掴めない。

 

 「何が言いたいかっていうと読めそうにないってこと。それはそうとあの子とも仲良くなれたのね。同じ本借りた介あったじゃない」

  

 オレンジジュースが温くなる前に帰ろ。と踵を返したところだった。あの子、香久家さんのことだろう。

 

 「いや、あれを借りたのは、そういうわけじゃなくて……仲良くなれたのは、運が良かったっていうか……ていうかなんでそんなこと知ってるんです?」

 

 「見てたら分かるわよ」

 

 「さいですか……」

 

 「別に、偶然でもなんでもいいんじゃない? 仲良く慣れた結果が重要よ。後は、野となれ山となれ。ベッドまで一直線よ」

 

 「は、はあ……。ありがとうございます」

 

 「こっちこそ引き止めて悪かったわね。じゃ、ごゆっくり」

 

 がこんと落ちてきたココアに、ストローを刺した職員さんは、肩を竦めて去っていった。カウンターの方じゃなくて、確かあっちは、喫煙室があったはずだ。それにしても、なんていうか。風みたい? というか。

 

 「台風みたいだな」

 

 ていうか歩きながら飲むのいいのか? 図書館の職員的に。席の方に戻りながら俺は、ぼんやりとそう思った。戻ってみるとどういう経緯か分からない光景があった。

 

 「えっと……なんか面白いっすか?」

 

 『おかえりなさい』

 

 「へ? ああ……ただいまっす。これオレンジジュース」

 

 『ありがとう。これお金。お釣りは、とっといて』

 

 「了解っす。あざっす」

 

 もらったのは、150円。ぴったりなのは、内緒にしておこう。ずっと引いた椅子に、腰を落ち着かせる。ついでにヨーグルトを一口。よし、落ち着いた。

 

 『ふふ、一回言ってみたかったの』

 

 「なるほど……。そういうのあるっすよね」

 

 うんうん。と同意して。

 

 「話し戻すんすけど」

 

 『うん』

 

 「俺のノート、面白かったですか?」

 

 『……そんな顔してた?』

 

 行った通り、なぜか俺が勉強に使ってるノートを、その、見間違いでなければいつも本を読んでいる時の表情で読んでいた。ちょっと……いいや、かなり恥ずかしい。恥ずかしさを隠すことで精一杯。

 

 「なんというか、興味深そうな顔でした。水族館で、珍しい魚を初めてみた時の子供の顔とかそんな感じです」

 

 『そんな顔してたかなあ……』

 

 唇を尖らせて、香久家さんは、自分の頬を摘む。白くてほっそりした指腹がぷにっと小さく摘む。

 

 「えっと、それで何が面白かったんです? つまんないですよ。ただの数学の勉強用ノートですし」

 

 『まず勝手に見て、ごめんなさい』謝罪文に、俺が頷くとほっとしたような表情で、ぽちぽちして『失礼なんだけど数学、苦手?』

 

 「そうっすね。現文よりはずっと苦手です。わけ分からないとまで言う気は、無いっすけどどうにも……」

 

 『なるほど。分かりました。では、提案があります』

 

 「提案」

 

 『はい、提案です。えーっとですね。非常におおこがましいお話なんんですが……』

 

 「……?」

 

 誤字してる。それほど動揺するような話なんだろうか。思わず息を呑んでいた。

 

 『お勉強、教えられてみませんか……?』

 

 「新手の勧誘みたいっすね……。数学、教えてもらえるならめちゃくちゃありがたいっす。けどいいんすか?」

 

 『え、ええ? 何が?』

 

 「本、読みに来てるんスよね」

 

 毎日毎日、図書館にやってきて、図書館の本を読み尽くす程の速度で、本を読むくらいの本の虫なのは、見てきたから知ってる。……ストーカーっぽくてやだな。口に出さなくて正解だった。

 

 『それは、君もじゃない? 勉強しに来てるのに、本読んでる』

 

 ………それは、まあ。

 

 「息抜きっすよ」

 

 『私も、今年は、そういう息抜きをしてみようと思ったの』

 

 「今年?」

 

 『毎年、長期休暇は、大体図書館にいるの。暇人でしょ?』

 

 自嘲気味な笑みが顔に、文字列がケータイの画面に浮かび上がる。

 

 「そんなことはないと思うっすけど……。好きなら良いじゃないっすか。俺だって、特にやることがないから勉強してる暇人ですよ」

 

 『部活とかやらなかったの?』

 

 「真夏の糞暑い学校で、皆と熱心に頑張るほどのやる気を見い出せる部活がなかったんすよね。だから文芸部で幽霊部員してます。休みの間は、特にやることないから楽なもんですよ」

 

 『だから図書館で勉強?』

 

 「……そういうことにしてもらえません?」

 

 皆部活に一生懸命で、構ってくれる相手がいないって言うのは、すごくかっこ悪い気がした。言い出せないのが一番かっこ悪いのかもしれない。

  

 『じゃあ、そういうことで。私も迷惑じゃないので、存分に教えちゃいますね』

 

 ふんすと張り切る姿に、今の今まで見えてなかった一面を感じて、俺は、もう勉強どころじゃなくなりそうだったがどうにか参考書の方に、意識を向けた。

 

 「えっとじゃあ、この辺りを……」

 

 『…………これ、中学生の範囲だっけ?』

 

 「中学の範囲っすね……」

 

 『だ、大丈夫!』ばっと参考書をとって、ぱらぱらと目を通し、『問題見てたら思い出してきた! ほんとだよ!?』超高速でポチポチした香久家さん。

 

 「疑ってないっすよ」

 

 『う、嘘だ! 笑ってるもん、君!』

 

 がたんと椅子から立ち上がった香久家さんの指差しは、ばしんっと効果音の聞こえるほどの勢いがあった。それも込みで、うん。大変申し訳無いが……。

 

 「ほんとですよ、ほんと。マジっすマジ。……くくく」

 

 『堪えてるよね……!?』

 

 面白いからしょうがない。落差が凄いんだわ。一昨日まで、クールな美人だと思ってた相手がこんなにも表情豊かとは思ってもなかった。いや、ほんとこれを知れてよかった。

 

 「ふふ、笑ってすみません。いや思った以上に面白くて……」

 

 『もう……そんなんじゃ、勉強教えないよ?』

 

 「いや、すみません。教えてもらえないと困ります」

 

 頬を膨らませて、向けられたジト目に、平謝りする。これはこれでいい経験か? 変態チックなのでやめよう。するとふふっと唇を笑みの形にした香久家さんがケータイの画面を見せる。

 

 『冗談です。それじゃあ、分からないところを教えて下さい』

 

 「ッス。じゃあ、この辺を……」

 

 そうやって、午後が過ぎていった。教えてもらった成果? まじで教えるの上手い。めちゃくちゃ頭いいよこの人……。頭が悪い感想しかでないのは、勘弁してほしい。それくらい分かりやすかった。

 

 「まじで最高の1日だったな……」

 

 図書館の閉館間際まで居て、駅まで一緒に坂を下り、向かいのホームで手を触り合う……アオハルか? 風呂上がりのまま、ぼふんと自室のベッドに倒れ込んだ俺の呟きは、今の心情そのまんまだった。

 

 「明日もまた会える……」

 

 最高だ……。明日は、どうしよう。今日は、勉強したから本を読むかな。きっと明日も良い一日になるに違いない……。

 

 「髪、染め直さないとな」

 

 今度、美容室行こう。具体的には、休館日。そんな感じに、未来の予定を組み立てる。

 

 「……そういえば、なんでケータイで話してるんだろ」

 

 聞くのを忘れてた。というか聞くタイミングを逃していた。まあ、今更聞いても……。しかし、気にならないわけではない。別に不都合はないし。などと考えていればうつらうつらとしてきて、目を閉じて――夢を見た。

 

 短いような長いような、時間の感覚が狂う夢。夢なんてそんなものだろう。ただ、誰かが何かを読んでいる夢だった。読み聞かせ。噛みしめるように、ゆっくりと丁寧に。文字の一つ一つを慈しむように。寝物語だ。温かな薄暗い場所。揺り籠に揺れる赤ん坊の気分。誰かが語っている、誰かの包容の中で、聞くのは、懐かしい物語。それが切なくて、苦しくて。でもそれは、悪い夢じゃなくて。きっと、多分。

 

 「――――ありゃ?」

 

 ぱっと目が覚めた。壁の時計を見ると時刻は、朝7時。ベッドから立ち上がり、カーテンをめくると日差しが目に突き刺さる。天気は、晴天。雲ひとつ無い青空が広がっていた。蝉の鳴き声が窓越しにも聞こえる。しかし、記憶がない。いつ寝たのか覚えてなかった。確か、飯を食って、風呂に入って、そのままベッドに倒れ込んで……――ありゃ。

 

 「なんで、泣いてるんだ?」

 

 ぽろぽろと大粒の涙がいつの間にか寝間着に、黒く染みを作っていた。理由が分からない。痛くなんてない、悲しくなんてない。

 

 「はずなのに……」

 

 何故だろう。理由の分からない涙を止めるのに、数分かかってしまった。今日も会うのに、こんな情けない顔、見せらんないぜ。ま、顔洗えなんとかなるだろう。うん、明るく行こう。

 

 

 

 +++

 

 

 

 それからまた数日後。時間は、大体二時過ぎくらい。

 

 「よく会うね」

 

 いつもと同じのココアを啜る職員さんは、随分と暇そうだった。

 

 「今日が暇なだけ。明日も暇かも知れないけどね」

 

 「頭の中、読まないでください。そりゃぁ……ここが休みの日以外は、毎日来てますからね」

 

 「読んでないよ。君が顔によく出るだけ」

 

 「……まじっす?」

 

 「マジよ。マジ。君、ポーカーとかババ抜き弱いでしょ」

 

 何故それを……。俺は、自動販売機のボタンをポチッとガシャンといつものヨーグルトを取り出そうとして、

 

 「コーヒー牛乳だ……」

 

 茶と白のパッケージ。手元は、ちゃんと見ようという教訓がストローから甘苦く口の中で広がった。まずいわけではない。嫌いなわけでもない。ただ、間違えたことがショックだった。こんなに動揺するってある?

 

 「そういうとこだと思うよ、私は」

 

 職員さんがくっくっくと楽しそうに、目尻に浮かんだ涙を拭う。そんな笑うとこ? 笑うとこじゃないよね? 抗議の視線を向けると「ごめんごめん」とおもむろに小銭を自販機に入れ、ポチッとガシャン。現れたのは、ヨーグルト。

 

 「これあげるから許してよ」

 

 「他にもあるんじゃないです? 流れるように買いましたけど」

 

 「察しが良いね……。とりあえず聞いてもらえなくてもヨーグルトは、あげるよ。私飲めないし」

 

 「……結構、顔に出ますね。じゃあ、ありがたく」

 

 むう……。と子供っぽい評定をする職員さんからヨーグルトを受け取り、コーヒー牛乳を一気に吸い上げた。空になったパックを潰して、ゴミ箱にぽい。

 

 「それで、なんです? ていうか賄賂なんてもらわなくても聞きますよ?」

 

 「若人の時間を貰ってるからそれくらいするわよ。いやね、ちょっとボランティアやらない?」

 

 「ボランティア? 図書館のボランティアっていうとイベント系の?」

 

 「そんな感じ。いつも来てくれる子らが来れなくなってね。お願いしたいんだけど、どう?」

 

 「言っちゃアレですけど……暇なんじゃ?」

 

 夏休みに入って暫く経つと流石にこの図書館も人が増えていた。子供に、付添の大人。俺みたいな勉強しに来た学生がメイン層だけど。まあ、それでも暇そうだ。忙しいには程遠い。

 

 「言ってくれるね……。暇といえば暇なんだけど私、子供の相手、苦手なんだよね。どう? やってくれない? お願い! またヨーグルトおごるから!」

 

 手を合わせて拝んでくる職員さん。ここ最近で、随分とこの人も気安くなったな……。全然いいんだけど。やりやすいし、融通効くし。……未だに名前知らないけど。

 

 「あー、それはいいんすけど、俺より適任の人いません?」

 

 「君の他?」

 

 「いや、いるでしょ。香久家さん」

 

 「…………君、本気で言ってる?」

 

 職員さんの顔が言葉と一緒だった。つまりこいつマジ?って顔。そんなに問題発言だったか? 分からん。なんだろう。

 

 「え……? いやだって、香久家さん優しいし、子供ときっと相性がいい。読むのは……ところは、見たこと無いけど絶対いいですって。俺の直感が囁いてる。間違いないです」

 

 直感。不確かな答えの導き方だけど不思議と間違い無いと感じる。きっと何よりも誰よりもキレイな声だ。

 

 「あのねえ……。あの子がどうしてケータイで話してるかくらい察しなさい。普通に考えて、常識的に考えて。何とぼけた顔してるの! 冗談じゃないのよ?」

 

 ぐいっと詰め寄ってくる職員さんから思わずぐいっと体を離してしまう。近い。近いって。

 

 「確かに変わってるとは、思っていますけど……」

 

 「じゃあ、聞くけど、あの子が笑った時とか怒った時とか感情が出た時、声が出たことある?」

 

 それは、言われてみれば……。確かに咄嗟の声も出ないってのはおかしい。

 

 「……なかったと思います」

 

 「それが、どういうことか分かる? 声なんて反射やついで出ちゃうものなんだから、一言も漏らさず一緒に居続けるなんてありえないの」

 

 ……いい匂いがする。シャンプー? 柔軟剤? 多分、香水。いやいや、そういう場合じゃない。

 

 「君、聞いてる? わりと真面目なはな、し……」

 

 「? どうしました……あれ、香久家さん? どうしたんすか」

 

 目と目で合ってた視線がすすっと横に逸れたから何事かと振り向いてみれば、キョトンとした顔の香久家さんが居た。今日の香久家さんは、細めの黒のパンツに、1つ目の猫のプリントが入った白いTシャツ。カジュアルな格好も可愛い。

 

 『遅かったから来ちゃいました。どうかしました? 桃矢くんが何かやっちゃいまいました?』

 

 「なんにもやってないすよっ……!?」

 

 音もなくクスクスと香久家さんは、笑う。……言われてみればこれは、確かに変かもしれない。

 

 「……まあ、普通に考えてみなさい」

 

 ぽんと肩を叩くと職員さんは、「ごめんね。ちょっと借りてた」と香久家さんに、軽く謝って、そのまま、カウンターの方に歩いていった。

 

 「あっ、そうそう」立ち止まって振り返ると自分の頭を指差して「黒の方が似合ってるよ」

 

 「そりゃどうも……」

 

 にっこり笑って、サムズアップ。今度こそ職員さんは、去っていった。嵐みたいだ……。

 

 『…………私も似合ってると思います』

 

 「……それは、あざっす」

 

 微妙に気まずい沈黙。別に何もやってないし、すごい嬉しいことを言われただけで何一つ悪いことはないんだけどなあ……! 

 

 『何の話、してたの?』

 

 「えっと、今度、読み聞かせのボランティアを手伝ってほしいって、言われたんス」

 

 嘘ではない。実際、その話が始まりだし。

 

 『いいね。素敵。君の声、聞き取りやすいから良いと思うよ』

 

 「そっすかね……。自分の声とか、よくわかんなくて……」

 

 『じゃあ、そうだ。今日は、勉強をおやすみにして』

 

 「おやすみにして」

 

 『読み聞かせしてください』

 

 そりゃもうとびっきりのにっこり笑顔だ。抗えるわけがない、素直に首肯して、首を横に傾ける。

 

 「別にいいっすけど何読みます?」

 

 『んー……おまかせで』

 

 「そこおまかせで良いんスね……。とりあえず絵本コーナーでも行きましょうか」

 

 『レッツゴー!』

 

 「おー」

 

 ぴょんと控えめに跳んで、ふわっと黒髪を揺らしながらこれまた控えめに拳を上げた香久家さんにつられた俺は、一緒に拳を上げていた。うーん、可愛い。

 

 

 

 +++

 

 

 

 絵本コーナーというかキッズコーナーだろうか。図書館の一角、他より低い本棚に囲まれたそこは、子供向けの本が集まっている。他の蔵書に比べると少なめだけど十分多いだろう。床も他と違って柔らかい素材が敷き詰められていた。図書館に来る回数は、増えたがただ通りすぎるだけで立ち止まったことはなかった。それで、今ここに来ているわけだけど。

 

 「あ、ブラックジャックだ。懐かしいなこの話……」

 

 名作系漫画も結構あるな。はだしのゲンとかドラエもんに、パーマン。こち亀。ブラックジャック……いやいや、そうじゃない。そういうことのために、来たわけじゃない。

 

 「やっぱ、読み聞かせなら絵本だよな」

 

 漫画の読み聞かせは、効果音とか読み上げるんかな。どうでも良いことを考えながら、ブラックジャックを元の場所に戻して、絵本を物色しているであろう香久家さんの姿を探した。探すといっても子供向けの小さな本棚ばかりだからすぐに見つかる。

 

 「ありゃ……?」

 

 つもりだったけどいない。子どもたちがソファや柔らかいフロアクッションの上で本を読んでいるのを横目にして、

 

 「……ああ、なるほど」

 

 香久家さんは、本棚と本棚の間にしゃがみこんでいた。低いところにある本を見ていたらしい。こんな時も集中力が凄い。近寄っても全然気づかない。

 

 『あ、ごめんね。また集中しちゃってた』

 

 「いいっすよ。何かいいのありました?」

 

 『ありました。あったんですけど……うーん』

 

 どうやら複数あったらしい申し訳無さげな顔から一変、眉の合間に皺を寄せて、悩んでいた。

  

 『これをお願いします!』

 

 と思うと今度は、はにかんで香久家さんが差し出してきたのは、綺麗な白髪の少女と真っ白な花、後、怪物の表紙。儚い雰囲気の本。知らない本だ。ちょっと暗め。

 「〈石の怪物と月の乙女〉。なんか結構物騒なタイトルっすね」

 

 『絵本ってそういうところあるよ』

 

 「へえ、そうなんすね」

 

 絵本なんて、子供の頃読んでもらったっきりだから全然だ。

 

 『絵本は、結構好きな人は、大人でも集めてるよ』

 

 「そうなんすね」

 

 純粋に知らなかったから同じことを言ってしまう。知らないんだからしょうがない。

 

 「とりあえず。どこで読みましょうか」

 

 図書館では、お静かに。基本ルールだ。というか館内で読み聞かせするのは、目立つ。恥ずかしい。香久家さんに言えば、きっと笑われるだろう。臆病な俺を笑っておくれ……。

 

 『職員さんに、聞いてみよう。良いところあるかもしれない』

 

 「別れたばかりなのに、また会いに行くってなんか微妙に気まずくないっすか?」

 

 『そんなことないと思うよ? 気にしいなだけですよ、桃矢くん』

 

 「そうっすかねえ……」

 

 カウンターまで向かう道すがら俺は、「あっ」と名案が浮かんだ。そうだ。この手があった。ちょっとうるさいけど。でもこれ以上無いと思う。

 

 「カラオケ、行きません?」

 

 香久家さんが立ち止まった。いつもより文字を打つ速度が遅い。迷ってる。言ってから後悔。ちょっと不躾だったか。

 

 『私、行くの初めてだけど』

 

 「それは、大丈夫。俺、行ったことありますし」

 

 『――――私、』間が空いた『歌えないよ?』

 

 「それも問題ない、と思う。大丈夫、だと思う」

 

 あーやっぱりそうだよな。そうだよなあ……。迂闊、迂闊すぎる。言葉が詰まる。天を仰いでしまいたい。俺は、前を向いて、答えを待ったほうが良いと思うので、そのまま待つ。待つ間、こみ上げてくる後悔。不思議な直感なんて当たりもしないのを自信満々に言ったのを思い出す。顔から火が出そうだ。

 

 『……君が一緒なら大丈夫かな?』

 

 「大丈夫、だと思います」

 

 情けない。あまりに返事が情けないぞ、俺。

 

 『そっか。大丈夫か』

 

 心臓の音が五月蝿い。『図書館では、お静かに』がルールなのを忘れたのかよ、俺の心臓。もっと静かにしてくれ。皆に聞こえてしまう。香久家さんに聞こえてしまう。

 

 『じゃあ、その、よろしくお願いします』

 

 ぺこりと頭を下げながらケータイを俺に向ける香久家さん。ちょっと変な格好だけどそんなことを突っ込む余裕が俺にはなかった。

 

 「こ、こちらこそ……」

 

 急いで頭を下げて――火花が散った。しゃがみこむ。頭と頭をぶつけてた。額がちりちりする。いや、そんなことより。

 

 「す、すみません……」

 

 『こ、ここちらこそせ』

 

 動揺したのか香久家さんのケータイの文面は、ぐちゃっていた。何やってんだかと俺は、苦笑いすると香久家さんもえへへと頬を掻いた。そのまま指を俺に向けた。先端は、ちょっと上の方。どこだ?

 

 『おでこ真っ赤』

 

 「あ、まあ、大丈夫す。香久家さんこそ大丈夫です?」

 

 ちょっと恥ずかしいな……。思わず手で隠す。

 

 『私は、びっくりしただけ。大丈夫? 痛くない? 絆創膏あるよ?』

 

 「三つ目がとおるじゃないんすから……。ちょっと痛いすけど大丈夫です」

 

 しゃがんで、距離を詰めてくる香久家さんからゆっくり離れる。近すぎるとちょっとドキドキしてしまう。また心臓が五月蝿いのは、勘弁してほしい。そのまま立ち上がってみせる。

 

 「ほら、この通り元気っす」

 

 『それなら……いいけど……』

 

 怪訝な表情だ。ここは、なにか安心させてあげなければ。なにせ俺の不注意なんだから。こう、なんだ。どうする。

 

 『カラオケ行きましょうか。頭の打ち所が悪かったのか読み聞かせが聞きたくてたまらないんです』

 

 「……すみません。病院に行きましょうか。俺のせいで、香久家さんがこんなことになったなんて、責任、取りますから」

 

 なんてこった。香久家さんがおかしくなっちまった。すると今度は、香久家さんは、頬を膨らませて、唇尖らせた。

 

 『じゃあ、ここでお願いします。子どもたちに事前に聞いてもらいましょう』

 

 「カラオケのが助かります。お願いします。許してください。一緒に、カラオケ行ってください……」

 

 思わず捲し立てるように言ってしまった。香久家さんは、まったくもうしょうがないとばかりの表情だった。よかった。引かれてない。引かれてたら世を儚んで、身投げしてた。

 

 『はい』

 

 つい小躍りしそうになった。恥ずかしいのと図書館なので自重した。

 

 

 

 +++

 

 

 

 「ごゆっくり~~」

 

 「あざっす」」

 

 『ありがとうございます』

 

 案内された部屋は、黒い革のソファとテーブル、歌詞の表示される大きめのテレビ。少しタバコの臭いがする。まあエアコンが効いてるから許してやろう……。若干薄暗い。カラオケ屋の照明だしな。

 なんやかんやでカラオケ屋にやってきていた。図書館を出て、駅前のカラオケ屋にやってきていた。学生が夏休みだから混んでいるのを覚悟していたが、どうにもここは人がいない。どうやら一駅隣りの大型カラオケ店に、最近、人を取られているらしい。

 何故知ってるか? 入った時、店番のおばさんが愚痴っていた。

 

 『これテレビで見たことあるやつだ。確かこれで入力するんだよね、番号。お、マイクだ。使う?』

 

 「読み聞かせにマイクはいらなくないですか……!?」

 

 『ふふ、そうだよね。じゃあ、早速初めちゃう?』

 

 テンションが高い。何? なんで? どうして? 

 

 「いや、ここワンドリンク制なんで、先にそっち頼んじゃいましょう。メニューどうぞ」

 

 テーブルに無造作に置かれていたた薄っぺらい黒い表紙のA3くらいの冊子を香久家さん渡した。

 

 『ワンドリンク制……! 聞いたことあるやつだ。へえ、色々あるね。これは、困っちゃう』

 

 「そうなんすか? 決め終わったら見せてくださいよ」

 

 その間に、俺は、予習しておこう。まだ本の中身を見ていなかったので、ざっとでいいので読んでおいたほうが読み聞かせもしやすいはずだし。

 

 『え? 一緒に、見ようよ』

  

 ぎしりとソファが小さく鳴った後、肩を叩かれた。見るとすぐ傍に香久家さんが居た。一緒に? いや、それはいいんだけど……。

 

 「へ? あ、はい。いや、近いっす」

 

 肩と肩が触れる距離。このソファ、肘置きがないから近づくとこうなってしまう。え? 意識してるの俺だけ? つら……。

  

 『近いかな? でもこれくらい近づかないと見えないでしょ、メニュー』

 

 「まあ、確かに……」

 

 『あ、パフェだって。美味しそう』

 

 「こういうところのパフェってどうなんだろ」

 

 『頼んだこと無いの?』

 

 「友達と来る時は、大体ドリンクなんかとフライドポテトっすね」

 

 『じゃあ、パフェ頼んじゃおう』

 

 「結構高いっすよ?」

 

 『そう? こんなもんじゃないかな』

 

 ……年上の財力感じちゃうな。

 

 「俺は、じゃあ、カルピスソーダとポテトで」

 

 いつもの通りの安牌なメニューで。これで外れなかったことない。ここ初めてだけど大丈夫でしょ、多分。

 

 『ね、フライドポテト、私も食べたい』

 

 「そうっすか? じゃあ、分けられるように大きめのやつにしましょうか」

 

 『いいね。シェアとかなんかぽい。すごくいいと思う。あ、ジンジャエールある。私これね』

 

 ぽいってなんだ……? と思いつつもとりあえず、頷いておく。がちゃっと受話器を取ると店番のおばさんが出てた。注文内容を伝える。すぐにやってきたドリンクをそれぞれ啜った。ついでに、片手で絵本の中身に目を通してみる。読み始めてから視線を感じた。やっぱりも何も香久家さん。俺の視線に気づいた彼女がにこっと笑う。肩を竦めて、文字に目を落とす。

 

 「明るい話じゃないっすね」

 

 不治の病、不死の病。それぞれ似たような病を患った怪物も少女も月の涙という花があれば助かる。というのがあらすじ。だけどそんな都合よく助かるような空気じゃない。そこらにある暗がり。闇の気配。昼間なのに暗い森の中、踏み入れればずぶりと沈む沼地。奥の見えない路地。五里霧中。閉塞感。

 

 『オートマタもそうだったでしょ?』

 

 「まあ、途中っすけど暗いっすね。人間居ないし、ロボット? しかいないし」

 

 子ども向けじゃないな、ほんと。……チョイスした人がチョイスした人だった。

 

 『一応、月にいるって話だよ』

 

 「あんまり信用できない情報じゃないっすかそれ……」

 

 『ふふ、まあね』

 

 そうこうしてるとパフェとフライドポテトが届いた。キンキンに冷えたパフェと熱々揚げたてのポテトフライ。矛盾が良い。

 

 『いただきまーす』

 

 「いただきます」

 

 きらきらと満面の笑みで、文字を打ち込んでから手を合わせる香久家さんを見て、律儀だなと思いながら同じ言葉を口にする。

 ソフトクリームにチョコが掛けられてて、ポッキーとかが刺さってるパフェ。横からみたら果物とかクリームが層を成している。長いスプーンが差し込まれた。香久家さんは、小さな口で、一口。二口。もぐもぐ。しばらく、咀嚼した後、サムズアップ。

 

 『美味しいです』

 

 「それはよかったっす」

 

 摘んだフライドポテトをむしゃり。ここのポテトは、細長いやつ。マックとかと一緒。俺は、こういうのが食べやすくて好き。若干、安っぽさを感じなくもないけど悪くない。ジャンクさを求めてるとこがあるので、これでいいのだ。うん、塩かけすぎ。ちょっと辛い。カルピスソーダで流す。

 

 「…………えっと」

 

 俺の口元に、横からスプーンが伸ばされてた。持ち主の口があーんという形になってる。いいのか? いやいや、駄目でしょ。

 

 「えっと、その……」

 

 せっつくように、突き出されたスプーンが軽く唇に触れた。心臓が馬鹿みたいな音をたてた。爆音だ。暴走族の排気音より五月蝿い。しばらく固まる。引く気配はない。まだ待つ。にこやかなあーんが消えない。

 

 「いただきます……」

 

 俺は、弱い。甘い。この甘さは、俺の弱さ。口に残っていたポテトの塩と混ざって、甘じょっぱい。そして、これは、ちょっと、いいや、かなり危険な味だ。

 

 『美味しい?』

 

 「……っす」

 

 『ほら、ポテトシェアするからね。パフェもシェアしないと』

 

 「……ざっす」

 

 『変な顔してるよ? どうしたの?』

 

 「……ないっすよ」

 

 香久家さんは、随分と平気な顔をしてる。高校生は、こういうの普通なんだろうか。普通に、こんな感じにシュアしたり? 俺もいつか普通になるのか? 大人になるってことの一つがこれなんだろうか。俺は、こういう普通が欲しいか? 胸の高鳴りに自問自答する。

 答えは、曖昧だ。もやもやしている。雨間の空みたいな心境。

 

 『じゃあ、やっちゃいますか?』

 

 読み聞かせのことだろう。だけどと俺は、パフェを指差して。

  

 「パフェ、食べた後が良くないです? 溶けちゃうっすよ」

 

 『確かに。天才だね』

 

 「…………やっぱりそれは、どうかと思います」

 

 『シェアだよ、シェア』

 

 「結構、恥ずかしいんですが……」

 

 『誰も見てないよ』

 

 ソフトクリームとチョコレートが少し乗ったスプーンが目の前に差し出された。スプーンと香久家さんの笑顔を往復させて、気づく。長い髪の隙間から見えた耳が少し赤い。白い肌には、赤さが目立った。「それなら」と急に、笑った俺が不思議だったのか香久家さんは、キョトンとした。

 

 「どうぞ」

 

 フライドポテトを差し出す。これでどうだ。これが必勝法。この場を完璧に切り抜ける手段! どうだ。動揺するだろう。食べられまい。他人、しかも男の手から食べ物を口で受け取るなんてできまい。

 

 『フライドポテト、美味しいね』

 

 動揺するのは、俺だったな……。耳が真っ赤になってる。もちろん、俺のだ。

 

 「……パフェも美味いっすね」

 

 大人しく差し出されたスプーンから食べるのでした。敗北者に選択肢はない。気まずくて香久家さんの方を見れない。甘い。しょっぱい。甘じょっぱ美味しい。

 そういうのを味わっているとかつんとテーブルを叩く音。ふと見た先には、香久家さんのグラス。中身は、氷だけだった。からんと崩れた氷がグラスにぶつかった。底に、微かに残るジンジャエールと水の混合物。そこに反射したものを見て、気づいた。 

 

 「新しい飲み物、いります?」

 

 『同じのをお願いします』

 

 「了解っす」

 

 敗北、敗北か……。いやこれは。立ち上がり、受話器へと手を伸ばしながら小さく笑った。

 

 「案外、勝ちかもしれない」

 

 グラスの底には、真っ赤な顔の香久家さんが映っていた。なんだ俺だけじゃないじゃん。

 ……いや、俺は、何と戦ってるんだ。なんて思いながら受話器を取るとワンコールで出た。さっきと同じやり取り。ドリンクが届いて、古いグラスが回収されていった。

 

 『そろそろ初めよ。残り二時間でしょう? あんまり遅くまでいれないしね』

 

 「えっとじゃあ、はい。やりましょうか……」

 

 『……なんか不服そうだけど』

 

 「そんなことないっす。そんなことないっす」

 

 『では、お願いします』

 

 「……っす」

 

 一緒に絵本を覗き込むこの体勢。さっきのメニューの時と同じで、慣れない。シャツ越しの熱とか柔らかさ、息遣い。しんどみがある。とりあえず、読み切らないと終わらないよな。頑張れ、俺。

 すっと息を吸う。学校で、教科書を読む時のことを思い出す。あれよりは、もうちょっと感情を込めたほうが良いのか? 事務的よりは、良い気がする。

 

 「遠い昔、昔々のこと――」

 

 どこかの部屋からか聞こえる歌声をBGMに、俺は、読み初めた。読み上げてみると結構長く感じる。そんなに厚い本ではないのに。

 誰かが二曲、歌い終わるくらいに、俺は、絵本を閉じた。なるほど。大体これくらいか。

 

 「香久家さん、どうでし――香久家さん?」

 

 肩の重みに気づいた。結構集中してたらしい。規則正しい呼吸音が聞こえた。力が抜けている。

 

 「嘘……」

 

 寝てるよ、この人。さらりとした髪が肩から手の方まで流れてきた。いい匂いがする。シャンプー。女の子の匂い――思わず顔を覆った。

 

 「……変態っぽすぎる」

 

 三曲目。誰かの歌い出したラブソングに、呟きは、掻き消された。

 

 『しっかり寝ちゃった』

 

 「そうっすね」

 

 『もう、笑わないで』

 

 「ふふ、すみません」

 

 『笑ってるじゃない……』

 

 唇を尖らせて、黒髪を指に巻く香久家さん。普段の印象より、ちょっと子供っぽい。

 カラオケ屋を出た俺たちは、駅にまっすぐ向かっていた。徒歩数分の距離を少しゆっくり目の歩調。夕日は、分厚い灰色の雲に隠れて見えない。雨の予報じゃなかったと思うけど。

 

 『で、どうだった?』

 

 「どうって……」

 

 『読み聞かせ、できそう?』

 

 「それは……どうっすかね。香久家さんが相手だったからできたところありますし。そもそも寝てたじゃないっすか」

 

 『む、むう』

 

 痛いところを突かれて、言葉に詰まった香久家さんの指がケータイの上でぐるぐるしてる。ぽちっと押して……また迷ってる。

 

 『安心したの……。君の声、聞き心地よくて……つい……」

 

 「それならまあ、多分、読み聞かせもどうにかなるんじゃないですかね……うん」

 

 う、嬉しい……。安眠できるくらいいい声ってことだろ? 嬉し

 

 『明日も練習』

 

 「明日は、勉強っすよ」

 

 『……それもそっか』少し歩いた後、『ごめんね。我儘で振り回しちゃった』

 

 「いいっすよ。楽しかったですし」

 

 『ありがと』

 

 後ろから自動車が通り過ぎて、前から自転車が通り過ぎて、同じように駅に向かう人たちの中を俺たちは、並んで歩いていく。なんていうか、その気まずくはない。どちらかというと心地の良い沈黙だった。静かすぎない。喧騒の中にできた二人だけの沈黙――だった。

 

 「ねえ、なにあれ」

 

 「え? なんだ、あれ……?」

 

 「あん?」

 

 喧騒が静まっていく。皆が上を向いて、目を細めたり、指を刺したりしていた。俺たちもつられて、上を見た。

 曇り空に大きな穴が空いている。曇の隙間から日が差すとかそんなのじゃない。ぎゅるぎゅると雲がうねり、穴を作った先から眩い光が見えた。

 

 「何か、落ちてくる……?」

 

 巨大な何かが落ちてくる。

 

 『巨人……?』

 

 美術室で見たことがある、模写で使う……そう、石膏だ。そんな色をした人みたいなものが降ってきていた。天から地に真っ逆さま。それもすぐに落ちて、ビルの群れに隠れて、見えなくなった。落ちた時の軽い地響きに、体が震えた。続くように白い光が降ってくた。

 地響き、だけじゃない。今のを見てから体の震えが止まらない。蒸し暑い午後なのに、寒気さえしてくる。

 

 「何が……起こってる?」

 

 道は、騒然としていた。誰もが戸惑っている。そりゃそうだ。誰だって、あんなもの見たことがない。俺は、空から目を離せない ――何かが聴こえる。耳を澄ます。

 

 「……これは、何? なんだ……?」

 

 『……――歌』

 

 「歌……?」

 

 言われてみれば、確かに。歌が空高く響いている。ビル間に、俺たちの耳に――響いていた。

 いつの間にか歌が止んでいた。満ちていた光も消えていた。遠くで、小さな爆発音がした後、すっかり元通りの夏模様。蝉がじりじりと鳴くのを再開して、周りの人たちも立ち止まるのを止めた。自動車やバイクに自転車もそう。

 

 「なんだったんだ……?」

 

 『なんだったんだろうね……』

 

 分からない。何が起こったのか、まったく理解できなかった。顔を見合わせた俺と香久家さんは、二人して、首を捻る。

 あまりに一瞬だった。一瞬だけ世界は、普段と全然、まったく違うものに成り果てていた。先行したのは、困惑で、次は、恐怖。後は、好奇心。そう今になって、俺は、興奮してきていた。そのおかげか震えも止んでいた。寒くもない。

 

 「……あっちの方、行ってみます?」

 

 『中々、魅力的な提案だけど……」

 

 難しい顔で腕時計を見せようとした香久家さんが「あっ」と呟いた。俺も似たような事を口にしてた。細い。柔らかい。温かい。どうやら震えが止まった理由は、これらしい。

 

 「あ、あー……す、すみません……」

 

 そっと指を離す。名残惜しい。もう一度握ろうかなんて、頭に過ぎったけど指がピクッとしただけで終わった。

 その後悔を噛み締めながら帰宅した俺は、カレーライスを食べていた。

 

 「なんだ、これ」

 

 一人っきりのリビング。平日は、いつもそうだ。母さんが作り置きしてくれてたチキンカレーを食べる俺のスプーンは、止まっていた。テレビを見すぎて、食事が進まない。一人で無ければ怒られたかもしれない。いや、誰だってこれは、止まるだろ。

 

 『見てください! 今日の十七時三十分頃、東京上空に出現し、自衛隊により撃墜された生物です!!』

 

 「ドラ、ゴン……?」

 

 東京タワー。日本で最も高い塔は、槍のように一匹の生き物を貫いていた――ファンタジーが現実になる足音。興奮が蘇ってきた。

 明日、香久家さんと話そう。ファンタジーも読んでいるのを見たことあるからきっと盛り上がれる。なんてことを思いながらカレーを口に運ぶ。いつもながら母さんのカレーは、美味い。

 ――そういう風に、俺の現実は、変わり始めた。良い方なんて以ての外、只々、悪い方へ一直線に。世界も俺も、香久家さんも誰もが予想しない方法で落ちていった。

 

 

 

 +++

 

 

 

 「緊張してきた……」

 

 『大丈夫だよ。昨日の練習だって、上手くできてたしね』

 

 「……途中から職員さんと一緒に寝てたじゃないっすか」

 

 『君の声が良すぎるのが悪い』

 

 「責任転嫁……!?」

 

 職員さんの申し出を受けた俺は、読み聞かせのボランティアをすることになった。練習を始めてから一週間くらい。今日、八月最初の日曜日が本番となる。

 図書館のいつもの席……ではなく、カウンターの奥にある職員用のバックヤードで、だべっていた。始まるのは、十時。まだ三十分ある。時計を見て、溜息一つ。 ドラゴンが東京タワーに、突き刺さった後も日常は、今の所、普通に続いていた。あれからドラゴンの解体だとかが進んで、あっという間に東京タワーからドラゴンは、いなくなっていた。ニュースは、今の所、ドラゴンや一緒に出現したっていう歌う石像?みたいなのの話題でもちきり。夏休みじゃなければ教室もきっとそんな感じだろう。

 最初は、香久家さんとの話題になったが今では、そんなに話すこともない。最初は、それこそもう熱く語った。が、俺の方が力不足だった。ドラゴンやらへの知見を求められても困る。

 

 「相手が子どもだから余計緊張するんスよ。大人は、気を使ってくれるけど子どもは、そういうの無いじゃないっすか」

 

 『そうかな? 子どもって、ちゃんとこっちのこと見てくれるよ』

 

 「……っすかね」

 

 子どもの相手をすることなんて、俺は、かなり久しぶりだ。兄弟なんて居ないし。年に一回、体験入学にやってくる小学生を見るくらい。こういう読み聞かせ会に来るのは、もっと小さな子、幼稚園とか保育園くらいの子だろう。

 だから今の俺は、めちゃくちゃ不安だった。

 

 『うーん……ちょっと待ってね』

 

 そう言った後、香久家さんは、背中を丸めてケータイに両手を添えるとポチポチ。ポチポチポチポチ。入力が随分と長い。これは、大作だ。待ち時間に復習とテーブルに置いたままの絵本を開く。今日読むうちの一冊、桃太郎。ちょっと親近感を覚えるタイトル。有名すぎて読む前から話の流れが頭に入ってた。何度と読んだ。飽きるほど見た文面に、俺は目を落とす。

 肩を叩かれて、差し出された画面を見た。

 

 『昔、ショッピングモールで、迷子の子を見つけたんだ。幼稚園くらいだったかな。はぐれて、心細かったんだ。凄い勢いで泣いてて、迷子センターに預けても泣いてて。その様子があんまりだったから、本を買いに来てたんだけどそれをそっちのけにして、一緒にいたの。

 もちろん、そのうちその子の親が迎えに来たけどその間、どうしてたと思う?』

 

 どうしてた? どうしてたって……泣いた子どもを他人があやすのは、結構難しい印象。俺がどうだったなんてのも聞いたことはない。ちょっと悩んで。

 

 「……泣きつかれて、子どもが寝た?」

 

 『子どもの体力舐めちゃ駄目だよ。全然、泣き止まないの。迷子センターの人もお手上げって感じ。それでね。私は、こうした』

 

 「折り紙?」

 

 正確には、折り鶴、兜、紙風船。俺と香久家さんの間のテーブルへ横一列に並んでる。目を逸した時に、折ったのかな。

 

 『そっ、目の前で作ってね。置いてくの。最初は、全然だけど気づいたら見てくれててね。そう、今の君みたいに』

 

 また折り始めた。丁寧な手付き、まっすぐに、斜めに。完成はすぐだった。角張った、縦長い形。

 

 「紙飛行機」

 

 『あの子は、これが好きだったよ』

 

 ひゅんと紙飛行機が空をゆっくりと旋回する。滞空時間が長い。多分、そういう感じの紙飛行機なんだ。距離より時間を取るタイプ。

 

 『一生懸命にすればいいよ。声を出して、子どもの方を向いてさ。そうすれば――「こっち!?」――多分……』

 

 ががががちゃんとそれはもう勢いよく、なんなら壊れそうなまでの勢いで、ドアが開いた。顔を覗かせたのは、目を輝かせた子どもたち。

 

 「そっちは、違うから! 入っちゃ駄目! すみません。失礼します……」

 

 「あははは……」

 

 保護者らしい女の人の謝罪に、半笑いを返した。ドアが閉まる。向こう側から元気な声が聞こえてきた。どうやら小さな怪獣がやってきたらしい。

 

 『大丈夫、かも……』 

 

 香久家さんが俺から目を逸した。どやっとした自信ありげな表情は、ドコにやらって感じ。

 

 「めちゃくちゃ不安だ……」

 

 聞いてもらえるか? あのくらいの子って、元気が有り余っているイメージしか無い。すごい勝手な妄想だ。いや、妄想だった。さっきのが現実にしてしまった。公園で遊ぶ子どものはつらつさとかスーパーで走っている子どもの暴走度合いは、こういう場所でも炸裂してしまう。時間も場所も奴らには、関係がないんだ。

 経験が少ない俺は、不安でどうにかなりそうだった。

 

 「だめだー……」

 

 まったく思い出せないので、パイプ椅子の背もたれをぎしぎしっと全力で軋ませた。

 

 『だめだって思ってるとだめになっちゃうよ」

 

 「それは、そうなんすけど」

 

 『初めてなんだから完璧にやろうと思わなければいいんじゃない?』

 

 「それもそうっすけど」

 

 俺は、俺自身が子どもだった頃、子どもと遊んだこと、喧嘩したこと、笑ったこと、泣いたこと。そういうぼんやりとした経験しか持っていない。はっきり覚えてる人の方が少ないんじゃないか? 聞いたことはないけど。

 これは、対応の経験ではないからあまり役に立たない、と思う。

 ……俺は、こういうところに来た時、どうだったかな。さっきみたいだった? どうだろう。

 

 『じゃあ、あれです』

 

 「なんです?」

 

 『ちゃんとできたら、ご褒美つきならどうでしょう』

 

 「とっても頑張れますね……」

 

 是非もない。ついパイプ椅子のバランスを崩しそうになった。がたんと戻す。アブね。

 

 『何が良いです?』

 

 「そこ俺が考えるんスね」

 

 『男の子って何が嬉しいのか分からないので……。あ、程々でお願いね。こう……あれなのはダメ』

 

 そういう勇気は、搭載してない。非常に残念ながら。誠に遺憾ながら。しかし、ご褒美か。どうしようかな。うーんと眉を寄せて、ぬうと唸り、空中を軽く視線でなぞった後、カレンダーに辿り着いた。今日は、八月の初めの日曜日。赤丸が次の日曜日にある。なんだっけ。答えは、すぐ傍に貼られていた。

 

 「――それだ」

 

 『何か思いついた?』

 

 「夏祭り、ご一緒してもらえません?」

 

 『夏祭り? ああ、そういえばそういう時期だね』

 

 「どうっすかね」

 

 『いいよ。うん、一回、行ってみたかったんだよね』

 

 はなまる笑顔って、こういうののことだよな。うん。間違いない。花が咲いたとかそういうのでいいかな。まあ、何が言いたいかって魅力的だということ。

 

 「じゃあ、頑張ります」

 

 『はい、頑張って。私もいるんだから』

 

 「っす」ふと時計を見て、気づいた。「時間っすね」十時五分前。九時五十五分。

 

 『行きましょうか』

 

 香久家さんに頷いて、絵本を取った。

 

 「やるっきゃない」

 

 ドアを開いた俺と香久家さんは、つるりとした床を靴で鳴らす。館内の奥の方、キッズスペースが少し騒がしい子どもの声が聞こえる。日曜だと言うのに大人の姿が少ない。静かに過ごしたい人たちには、あまり良い日ではないからだろう。仕方がないことだ。

 それに日曜の朝だ。皆大体寝てるし、いつも空いてるからこんなものだろ。

 ……結構いるな。キッズスペースにやってきた俺は、最初にそう思った。小学生低学年から保育園の子までか? 十人? 十五人くらいいる。普段は、全然見かけないのにどこから集めてきたんだ。

 

 「はいはい、お兄さんとお姉さんが来てくれたので皆静かにしましょうね」

 

 職員さんの目配せ。多分、遅いって言ってる。苦笑い。えーっと。視線が集中した。うお……。結構圧がある。俺、思った以上に子ども苦手か?

 

 『笑顔、笑顔』

 

 了解。肩を竦ませて、なんとかこう笑顔を作る。多分、作れてる。きっと作れてる。

 

 「よろしく」

 

 こうして、俺の長い午前が幕を上げた――そして、終わった。

 疲れた。ふらふらしながらバックヤードに戻ってきた俺は、朝座っていたパイプ椅子に、再び腰をかけた。ぎしぎし鳴った。こいつとも長い付き合いだ。嘘。今朝から。

 

 「疲れた……」

 

 読み聞かせそのものはできたと思う。子どもたちから盛大な拍手をもらえたから上手くできたんだろう。

 そこからだ。なぜか外で遊ぶ事になった。午前いっぱい、近くの公園で鬼ごっこ。子どもの体力って無限だわ。ついていけない……。明日、絶対筋肉痛だ。間違いない。俺は、今、心の底から冷房に感謝してる。扇風機で循環する冷風が気持ちいい……。

 

 「ひっ!?」

 

 『はい、ポカリ』

 

 「ふ、不意打ちは、ズル。ノーカン。ルール違反」

 

 キンキンに冷えた缶を首筋に当てられていた。香久家さんからありがたく受け取りながら俺は、ちゃんと抗議もしておく。それはそれ、これはこれ。しかし、香久家さんは、不敵に笑っていた。

 

 『ルール無用』

 

 「くっ……」

 

 ルールを決めてなかった俺が悪い。これは、敗北を…………。

 

 「いや、ルールもなにも無いでしょ」

 

 『まあ、そうだね』

 

 くすくすと香久家さんが笑った。なんじゃそりゃと俺は、天井を仰いだ。白い天井。ちょっと薄汚れている。ここが建ってからの時間を感じた。そして、腹の虫が鳴った。

 

 「……腹、減りましたね」

 

 『そうだね。私もお腹減っちゃった』

 

 ポカリのキャップを捻って、口をつける。喉の乾きと空腹を軽く誤魔化す。冷たくて、甘い。少しすっぱい。染みる。香久家さんもぼーっとポカリを飲んでいる。疲れているのが見て分かった。

 

 「……遅いっすね」

 

 『そうだねえ……』

 

 職員さんが弁当を買ってきてくれるという話だ。公園で別れ、買いに行って、三十分以上経ってた。香久家さんがパイプ椅子の上で、船を漕いでた。限界が近いな。ちなみに俺もだ。かなり空腹がきてる。本を全部食べてしまいそうなくらい。

 ……読み聞かせの感想、聞けてなかったな。忘れてた。でも今は、それよりも空腹が限界値だった。

 

 「ちょっと様子見てきます。駅前の弁当屋でしたよね」

 

 『そうだよ。すれ違わない?』

 

 「大丈夫じゃないっすかね。図書館から駅まで一番早いのは、あの坂ですし」

 

 『それもそっか』

 

 「じゃ、行ってきます」

 

 香久家さんに、手を振替して、俺は、バックヤードから外に出る。裏口からは、駐車場に繋がっている。昼休みで、一時的に休館になっているから駐車場もがらがら。併設されてる駐輪場もやっぱり。

 夏の日差し、午後の日差しは、俺に厳しい。目を細めて、ドアを閉める。エアコンとは、少しの間お別れだ。つらい。歩き始めてから欠伸が出た。自分がかなり疲れているのに気がついた。

 

 「飯食ったら……帰るしか無いな」

 

 勉強は、無理だな。しかし、弁当は、しっかり頂いていく。ボランティアといえどそれくらいの駄賃を貰ってもいいと思う。坂を下る俺の口からまた欠伸が出――! 口になんか入った! ぺっぺと吐き出して、気づく。虫じゃない……?

 

 「しょっぱい……。これは、塩……?」

 

 なんで塩? 海なんて無いし……。塩を誰かが撒いた? どうして? 足を止めた俺に、風が吹いた。熱くて、少し痛い。何かが風に混ざっている。砂? 違う。汗の浮かぶ肌に、張り付いていたのは、白いもの。坂をよく見た。そこらに白いものが散らばっている。坂の上から街を見た。

 

 「……塩だ」

 

 風で散らばった塩は、景色を白く染め上げていた。なんだこりゃ。塩だ。呆然とした俺の中で、冷静な部分が答える。分かってる。街をもっと見えるように、左右を見回し、歩道から車道へ。ガードレールの方に寄ってみる。街の様子は、変わらない。青い空も木々も地面も街並みも白く斑に染まっていた。何かが起こっているのは、間違いない。

 

 「午前中は、こんなんじゃなかったよな……」

 

 分からない。とりあえず、駅の方に行ってみよう。人に聞けば何か分かるかも知れない。何故か早足になる。空腹と疲労を引き摺って、走るのは、とても辛いが頭の方が現状の理解を求めてた。

 駅前は、一面、塩塗れだ。何が起こったのか聞こうにも人っ子一人いない。何かが起こっていることだけが分かった。風が吹く。塩が舞い上がる。良いことが起こっているとは、俺には、思えなかった。不吉な予感が纏わりついてくる。

 

 「誰かいないのかよ」

 

 呟いて、塩塗れの道を歩いていく。駅の中も塩塗れだった。そこら中に塩が散乱している。ツルッとした床にばら撒かれた塩に足を取られて、転びそうになる。

 

 「弁当屋の方、行ってみよう」

 

 静まり返った街。駅の近くにある小さな商店街の方へ俺は、足を向けた。エンジンが入ったまま放置された自動車の中も塩が撒かれていた。自転車は、さっきまで誰かが乗っていたみたいに車輪が空転してた。ここにもやっぱり塩が小山のようになってる。なんなんだ、本当。

 

 「いない、な」

 

 弁当屋の前には、やはり誰もいない。広告BGMだけが元気に鳴り響いているのは、薄気味悪さすら感じた。人気のない商店街は、店の明かりや商品をそのままに人だけまるっと消えていた。猫や犬、鳥もいないのは、流石に変だと思う。

 

 「みんな。どこに行ったんだ……?」

 

 このまま歩き回っても埒が明かない。一度、図書館に戻ろう。溜息を吐いたら今度は、腹が鳴った。ついでに、コンビニが目に入る。

 

 「……まあ、そうだよな」

 

 やっぱり人っ子一人いない。ただ商品はある。しょうがないな。しょうがないんだ。緊急事態だしな。

 

 「万引じゃないっすよ?」

 

 誰かへの言い訳をしてからパンとおにぎり。ペットボトルのお茶を何本かとって、俺は、店を出た。お金をレジに置いてきたから大丈夫だろ。多分。

 シーチキンマヨのおにぎりを齧りながら来た道を戻る。やっぱり誰一人いない。どうなってるんだか……。あっという間に、おにぎりを食べきってしまった。ゴミを袋に入れた。この状況でもポイ捨ては、気が咎めた。

 

 「――あれって」

 

 お茶の入ったペットボトルを掴み損ねた。代わりに、水滴だけが指についてる。ビニール袋がぐわんとたわむ。中でボトルが揺れる。そんなことは、どうでもいい。あの後ろ姿は、間違いない。ここ最近、図書館で毎日見かけた姿だ。反対車線の歩道を歩く姿を俺は、知っている。見つめている内に、その先の路地に続くであろう曲がり角へと職員さんのエプロンの裾がふわふわと消えていった。

 

 「追いかけなきゃ、だろ!」

 

 どうにも尋常ではない様子だった。フラフラとした足取り。虚ろな目。生気のない真っ白な顔。おかしい。絶対になにかがある。あいも変わらず嫌な予感がする。頭のどこかで警鐘も鳴っている。回れ右した方がいいかもしれない。

 でも足は、止まらなかった。歩道と車道を区切る柵を乗り越え、反対側に走って渡り、職員さんが消えた路地に俺は踏み込んでいった。

 薄暗い。左右の建物に遮られて、日が差さない路地は、じめじめとしていて、下水の臭いがした。それでも俺は、奥に進む。

 

 「うん?」

 

 くしゃと硬いものを踏んだ。目を凝らすと地面に何かが砕けて転がっていた。それは、プラスチックだとか金属とかで、元のものを想像するのは、少し難しかった。

 

 「エアコンの室外機か……?」

 

 近くにそれがあったらしいコンクリートと金属の留め具があった。ここもまた無残に粉々。次に、中に入ってる羽が室外機のあったと思われる場所の反対側に突き刺さっていた。何が起きたのかが全く分からない。不気味に思いながらもとにかく奥に進むことにする。

 

 「……いた」

 

 路地の突き当りには、マンションの裏口があった。自動販売機が何台か並び、無機質なドアと鉄の階段がある。壁に取り付けられた室外機の稼働音が五月蝿い場所だった。

 職員さんは、そのドアの前で立ち止まっていた。何をする様子もない。俺の方に背中を向けて、立っている。

 

 「あ、あの……こんなところで、どうかしたんすか?」

 

 ……見慣れた姿なのに、どうしても不気味に感じるたせいか言葉が詰まってしまう。これで何もなかったらビビり損だな。

 

 「…………えーっと」

 

 反応がない。声が聞こえてない? そんなわけないだろう。この距離で、声を結構張ったんだ。聞こえないわけがない。ただ集中していたら他人の声とかは、聞こえないものだよな。と俺は、口を開いて――声を出せなかった。

 

 「っ……!?」

 

 反射的に後ずさった。目の前、眼前。数メートルは、離れていたのにいつの間にか職員さんが居た。青白い顔に浮かぶ、表情の無い目が俺のことをじっと見ていた――やばい。なにがどうやばいのか分からないがやばさを直感的に、感じ取った俺は、回れ右して、来た道を転がるように逃げ出した。

 逃げ出せなかった。回り込まれた。また目と目があう。

 

 「ひっ……」

 

 小さな悲鳴が情けなく出る。異様な威圧を感じていた。職員さんの目から? 顔から? 佇まいから? 気配から? 分からない。分からないけどどうしようもなく怖い。後ずさる。行き止まりだと分かっていても後ろに下がるしか無い。やがて、硬いものが俺の背中に触れた。マンションの裏口だった。後ろ手に、ドアノブを捻ってみる。駄目だ。開かない。硬くて絶望的な感触だけが残った。

 

 「職員、さん……?」

 

 声が震える。色のない視線とまた俺の視線がかち合った。悪寒だ。しゃがんで、横に飛び退った。放置されたゴミ袋の中に飛び込んでしまう。臭い。鼻が曲がりそうだ。けどその意味はあった。なぜならそれで生き残れたからだ。

 破片が飛んできた。真っ白な塵が舞う。壁が砕けた。ドアの真横の壁に、突き刺さってる。

 なにが? そりゃ、その手だよ。誰の? それは、その……。

 

 「何が、起こってるんだ?」

 

 職員さんの腕が、肘まで壁に埋まってる。豆腐の真ん中を指で貫くような気軽さだ。ずるっと嫌な音をたてて、腕が壁から引き抜かれた。

 

 「……なにそれ」

 

 壁の塗装や破片がぱらぱら落ちて、砕けた。一緒に、肌色のものがぱらぱら落ちてきた。肌? 肌だ。どうして分かるか。職員さんの腕だ。肌がない。そこの壁みたいに内側が剥き出しになっていた。白い、そこらに散らばる塩の純白さだ。そして、金属のみたいな質感がある。

 ちなみに、返答はない。ぎゅるんと効果音はないが、そういう効果音みたいな聞こえた気がしただけ。首の骨が無いみたいに動いた。ぎょろついた目が俺を見てる

 ――殺される。あの壁みたいに、粉々にされる。逃げられる? 多分無理だ。じゃあ、どうしたら。

 

 「伏せろ!!」

 

 声。職員さんの目が俺から離れた。俺は、声に従った。ゴミに塗れて、丸くなる。直後、聞き慣れない音がした。鼓膜を貫き、腹の底に響く音。耳障り。耳を塞いでも路地に反響する恐ろしい音が聞こえた。これが何なんの音か何に向けられているか。俺は、見ずとも理解していた。

 音が止んだ。足音が聞こえる。重い足音が複数だ。ゆっくり耳から手を離す。ゴミの中から立ち上がりながら周囲の様子を伺った。

 緑の迷彩服を纏った人たち。銃を持っている。自衛隊だ。銃口は、一点に向けられている。俺じゃない。ドアにもたれかかったまま身動き一つしない職員さん……だったものに向いてる。人の色をしていない。血も出ていない。ただ白くて、どこまでも白い。纏っている衣類だけが職員さんだった証拠。

 今日の午前中まで、一緒に笑っていた人は、もう笑いもしない。ぴくりと動いたところに、銃弾が何度か叩き込まれた。走馬灯のように、思い出が過ぎ去っていく。不思議だ。俺は、死なないのに。ぼんやりと思う最中、見慣れた顔へ弾丸がその原型を無くすくらいに突き刺さっていく。

 ……今度こそ動かなくなった。無数の空薬莢が静かな路地に転がる音が耳に痛いほど。

 

 「何が、起こってる?」

 

 「……無事か、君」

 

 疑問に答える声ではない。けれど俺の身を案じる声だった。自衛官の人に、頷いて――はっとなった。そのまま口に出る。今すぐ伝えるべきことだった。

 

 「他にも助けてほしい人がいるんです」

 

 

 

 +++

 

 

 

 ――塩になる病。塩の怪物になる病。神の呪い。非科学的な響きをした物語の中だけだったものを人は、白塩化症候群と名付けた。それが俺たちの世界を滅ぼそうとしているのを知ってから暫くの時間が経過した。

 在りし日の輝きは、もう俺の手の届かない場所に、過ぎ去ってしまった。

 母さんは、塩になった。苦しかっただろうに、俺は、傍にいられなかった。ただ塩の山が家に残っていた。後悔と憎しみだけが残った。

 友だちも皆、塩になった。また俺は、傍にいられなかった。後悔と憎しみが大きくしていくのを感じた。

 塩の怪物。病の痛みに耐えられず、神の呪いの尖兵となった者たち、今、レギオンと名付けられ、人を滅ぼすべく迫るそれを前にした俺は、増大するだけの憎しみを、唯一、隣にいてくれる人を守ることを言い訳にぶつけることとした。銃を取った。

 どうやら俺は、それなりに適正があったらしい。殺して、生き残り、殺して、殺して、殺して、殺した。これ以上、何一つ失わないように、殺して、いくつものの大切なものを都度失った。

 そうして、何度か季節は、巡った。塩の雪が降り積もり、寒さに震える東京に、俺と香久家さんは、まだ生きられていた。

 まるで、閃光のような日々だった。気づけば世界は、こうして白く染まって、新しい世界がそこにあった。

 認められない世界。世界は、今、白い黄昏の中で、人の赤い血に染められている。詩的になったのは、きっと彼女のせい。あれから随分と本を読む時間が伸びた。

 

 「八月なのに、この寒さか。敵わないな……」

 

 俺は、小さく身震いした。分厚く地味な軍用のコートに、私物の厚手で無愛想な手袋と使い古した白と青の迷彩が入ったヘルメット。この他にも色々着込んでもなお寒さは、肌を貫くよう。吐く息は、真っ白。コートのジッパーを口元まで上げた。見上げた空は、分厚い雲が覆っている。深々と降る塩の雪は、止む気配がない。どうやら今夜は、かなり冷え込みそうだ。積もり始めた雪をブーツの硬い靴底で砕いた。

 

 「……早く帰れると良いが」

 

 誰にも聞こえないよう呟きながら右手の人差し指を抑えた。待ってくれている人を思い出す。

 

 『人差し指に着けると集中力を高めてくれる。おまじないよ。ちゃんと帰ってきてね』

 

 「帰るよ、絶対」

 

 指から手を離し、肩がけにしたアサルトライフルを腕の中で持ち直す。これとの付き合いも随分と長くなってしまった。これを手放す時は、遠くて近い。暗視スコープの位置を直す。これを外せば何一つ見えないほどの闇がわだかまっている。

 同じ部隊の同僚を片目で、追いながら前を見る。そこは、俺の住んでいた場所によく似たよくある街がある。明かりの消えた窓や天井の無い暖かさの失せた廃墟。しかし、いくらかの資源が残っている。長期保存食や各種資材。どんなものであれ資源は、重要だ。

 ここは、先日まで、廃墟ではなかった。小さな明かりと寒さをしのぐ暖かさがあった。それもレギオンたちにより破壊された。子どもも老人も男も女もあらゆる人が殺し尽くされた。前に進もうとして気づく。小さな手が雪に埋もれつつあった。俺は、それを避けて進んだ。すまない。今は、これしか出来ない。歯噛みする。絶えず燃える憎しみの炎が殺せと囁きかけてきた。これからいくらでも殺せる……。

 

 今、俺たちは、ある作戦を遂行中だった。単純な話、この街の奪還だ。一帯のレギオンを掃討し、人のものを取り戻す。いつものことだ。

 こういうオセロみたいなゲームを広く見えて、限りある盤面で、俺たちは、続けている。

 前方からのハンドサインで、立ち止まる。目的地についた。よくある二階建て家屋の廃墟、その外側。誰かが手入れしていた庭の残骸を俺たちは、静かに踏み荒らす。ざくざくと雪にブーツのスパイクを突き立て、待機する。

 この街を襲ったレギオンは、街の中央にある駅に、固まっているのが偵察で分かった。それを囲い、全力の火力で葬り去る電撃作戦。。俺たちもその火力の一端だ。 右耳のイヤホンに、ノイズ混じりの指示がくる。他の部隊も位置についたらしい。腕時計を見る。予定通りだ。問題はない。待機。沈黙がその場を満たしていた。ただ耳元だけが騒がしい。

 そうこうしていると作戦開始時刻まで、秒刻みとなっていた。

 

 『――各位、戦闘準備』

 

 やっとだ。俺の神経が針のように研ぎ澄まされるのを感じた。銃口を持ち上げる。アサルトライフルの様子を確かめる。大丈夫。この寒さでも問題ないさ。いつだって、こいつは、レギオンどもの頭を破壊してきた。

 ――いつものように蘇る光景、職員さんを弾丸が砕く映像。虚ろな瞳が、頬が、鼻が、唇がただの無機物になる様。

 俺は、この憎しみを決して、忘れない。

 

 『作戦開始――!』

 

 疾走りだす。隊列を崩さず、まるで機械のように。俺は、戦闘音に反応して、廃墟から現れた虚ろな塩の化物に向け、銃爪を弾いた。マズルフラッシュが闇を引き裂く。視界に現れたレギオンの頭がぱっと消し飛んだ。左で射撃音。近かった。見ると頭の上半分を失ったレギオンの姿。

 戦友と目が合い、頷く。足は、止めていない。ただただ奥へ切り込んで行く。俺たちは、レギオンを殺すための大きな機械を動かす歯車でしかない。歯車は、与えられた役割を全うする。擦り切れ、割れてしまうまで。俺たちもそうだ。この生の終わりまで、レギオンを殺し続ける。

 レギオンを殺し尽くすのはいつになるか分からない。けれど今この瞬間は、俺は、殺す。新たな歯車が現れないように。誰かが継ぐことなんてないよう。

 撃つ。撃つ。リロード。撃つ。リロード。撃つ。

 

 「丹念に、殺す」

 

 足を失って、転んだレギオンの頭を撃ち抜く。動かなくなるのを見届けず前に、そこを去る。

 

 「殺す」――殺意に塗れた呟きだった。

 

 彼女がこの機械の一部にならないように、俺は、走っていた。誰かの悲鳴だ。散発的に銃声も聞こえる。かなり距離が近い。近くの同僚たちに目配せし、走った。規定コースから少し離れるが横合いから食らいつかれて、他が台無しになるよりは、マシだろう。俺の後に同僚が一人続いた。

 悲鳴のした方、住宅地を抜けて、明かりが消えた街灯と葉を落とした木々の並ぶ通りを横切った。前方から悲鳴。銃声。前方にあるファミレスと思しき店からだ。火花が闇の中で、閃いた。その後、風切り音――何か、いや、腕が飛んできた。

 

 「ッ!!」――俺は、躱せた。頭のすぐ横を真っ直ぐに伸びた腕が飛んでいく。

 

 「がっ!?」――背後から悲鳴。同僚は、避けそこねたようだ。

 

 とりあえず、悲鳴が止んだ。餌に食いつかされたらしい。前からレギオン二体。左右からもレギオンが現れる。間髪を入れず、左右に弾丸を放った。ぱっと頭が大小の破片になったレギオンがどさりと力なく倒れた。ああ、やることは変わらない。

 俺は、また銃爪を弾いた。アサルトライフルの反動が肩を叩いた。空薬莢が舞う軌跡がやけにゆっくりだった。レギオンが襲いかかってくる。その体表で、ぱっと塩が弾ける。穴がいくつも空く。

 鈍い感触が俺の世界を揺らす。灼熱が背中ーー肩か? 分からない。ただ何かが防具とか骨とか肉とか脂肪とかを無視して、内側に入り込んでいた。指だ。首を回すとレギオンの指が第三関節くらいまで入り込んでいるのが見えた。

 

 「……殺すんだ。俺は、お前たちの全てを殺し尽くす」

 

 レギオンの腹を強く蹴りつける。指が抜ける。銃床で叩く。銃爪を引いた。目の前が明るくなった。暗視スコープの視界が僅かに潰れる。レギオンたちへ吐き捨てた言葉には、文字通り、血が滲んでいる。雪が赤く溶けるのが俺の視界の端に映っていた。誰かの声が聞こえる。逃げろと叫ぶ声。駄目だ。駄目だよ。首を横に振る。俺は逃げない。殺すんだ。誰も殺させない。殺す。誰も殺させずに殺す。俺は、レギオンを一匹残らず殺し尽くす。

 そして、帰る。香久家さんのところに、姫のところに、帰る。

 

 「帰る、んだよーー!!」

 

 叫んで、撃った。腹が、熱い。世界が明滅する。

 凄まじい速度で、世界から離れていくーー/黒/白/黒/白/割れて/蜘蛛の巣状/引き裂け/分裂/グロテスクに/彼方へ/遥か先/声が/どこからか/歌?/君は?/NO/NO/ERROR/ERROR/ERROR/ERROR/聞こえない/声/綺麗/破局/嘆き/歌/歌声/願い/虚無ーーーー落ちていく。

 

 

 

 +++

 

 

 

 彼との出会いは、個人的には、とてもドラマティックだった。いつか読んだ恋愛小説とか恋愛漫画とか。そういう色々を彷彿させてくれる素敵な出会い。忘れられない輝きの瞬間だった。

 雨の日。物語の続きに、飛び立った私は、すっかり気分屋な空模様を忘れてしまっていた。うっかりしていた。本を濡らすわけにも私自身を濡らすわけにもいかなかった。バス停の屋根を叩く雨音が憎たらしい。雨に、これだけ嫌悪感を抱くことなんて、この時が初めてだった。

 そんな時に、彼が来てくれた。傘をさしてくれた。今度は、雨に感謝していた。

 気になる男の子。派手な髪色で、ちょっと大人っぽい子。夏休みの途中から図書館で見かけるようになった子。でも喋ってみたら親しみやすいし、それに年下だった。先入観って、いけないな。

 そういう風に、星の瞬きのような代えがたい記憶(タカラモノ)が私の中で、連鎖して蘇る。大仰な言い方。詩的。しょうがない。本ばかり読んできた女だからそういう風に、思考をしてしまう。

 頭の中の星図に、煌めく星座たち。その一つ一つに私は、手をのばす。すると思い出がまた一つ蘇ってきた。

 

 例えば、一緒に勉強した時。ほんと文系って感じで、数学が苦手な彼。まあ、私も正直得意ではなかったけど、これでも年上だったから情けないところは見せられないなって、家で教科書を引っ張り出した。

 例えば、本を選んだ時。図書館にない本を本屋さんに探しに行った時。二人乗りなんていけないのに、とてもどきどきしてしまって、そんなこと言い出せなかった。

 例えば、読み聞かせ。彼、綺麗で落ち着いた声だからすごく落ち着いて、心地いいの。一回寝ちゃったときは、申し訳なかった。でも君が悪いんだからーーあ、そうだ。あの読み聞かせの感想を伝えられてない。

 

 はっと、現実に引き戻されてしまった。カーテンを締め切った薄暗い部屋。小さなライトだけでは照らしきれない闇がわだかまるそこは、彼がいないだけで、少し暗がりに恐怖をおぼえてしまう。寂しい部屋。窓を冷たい風が打ち付ける音だけが部屋の中の唯一無二の音だった。

 ーーああ、夏祭りもいけなかったな。思い出と一緒。これも連鎖的に思い出した。約束したのに、守れなかった。明日、帰ってきたら謝ろう。今になって、思い出すなんて……ほんとだめね。許してくれるかしら、トウヤくん。

 ……きっと許してくれる。許してなんて欲しくないのに。彼は、優しいから。

 

 それに、忘れてた私だって悪くない。ベッドから立ち上がった私は、窓にかかるカーテンを僅かに開けた。風が塩の雪を運んでいる。大丈夫かな、桃矢くん。私よりずっと丈夫な人だけどそれでも心配なものは、心配だ。

 あんなに強くなる必要はなかった。彼は、優しいだけのままでよかった。だって、私たちの青い春は、もっとずっと続くはずだった。夏の後も秋も冬も春も。その次の夏だって。年中そのはずだった。

 次のデートには、ゲームセンターとかボウリング。その次は、遊園地。周りが手を繋いでいるからどちらからでもなく手を繋いで、照れたように笑う。帰り道の人気のない場所で、最初のキスをして……。なんて恋愛小説でも書かないベタな展開があったはずなのに、気づけば私たちの季節は、塩の純白に染められてしまった。花や木々は枯れ果ててしまった。

 酷い神様。作っておいて、この仕打ち。私たちがどうしてそんなに憎いの? 教えて、私たちもっといい子にするから。悪いところ直すから。ねえ、お願い。

 ……苦笑いが窓に映る。声なんて、届くわけない。私の声は、神様に奪われたのだから。私は、神様に嫌われている。だからこうなのよ。

 

 カーテンを閉めた私は、メガネを外して、ライトを消して、一人だと広すぎるベッドに潜り込む。ベッドサイドの携帯端末を手に取って、慣れた操作をしてから耳に当てる。聞き慣れた声が聞こえる。朗読する彼の声。いつかの朗読。練習中だったかな。録音機能に気づいて、これがあればいつでも彼に会えると思った。こっそりやるつもりはなかったの。本当よ? だってそれはちょっとはしたないと思った。

 けれど結果、こっそり録音していた。言い出せなかったの。これも懺悔しなきゃ。彼が帰ってきたらいつか言い忘れた感想を伝えよう。読み聞かせの感想。ダメ出ししたり、駄目だししたり。だけどきっと最後は褒めている。君の声が好き。いつも聞いていたいって言う。またいつかの春の日みたいに。

 早く帰ってきてーー微睡みが私を迎えに来た。逆らう暇も無く私は、瞼を閉じた。

 

 そして、夢を見た。懐かしい日の追走。穏やかな日々。望んだもの。あまりに眩しすぎて、目を瞑ってしまったーーアラーム。

 

 新しい朝が私に来た。眠気眼を擦りながらベッドの上で、起き上がる。カーテンの隙間から陽差しが差し込んでいた。起き上がりついでに、カーテンを開けた。どうやら今日は、晴れみたい。雪が朝日を受けて、輝いている。忌々しい塩の雪だけれどその時ばかりは、綺麗に見えた。

 予定通りにいけば昼には、彼が帰ってくる。そう思うと私の心は、少し軽くなった。

 仕事も頑張れる気がする。私は、今、父のツテから現状を打開する兵器の開発研究の仕事をしている。私たちからあらゆるものを奪い去った白塩化症候群(レギオン)に打ち勝つための手段を日々、探している。

 

 今日も頑張ろう……! ぐっと胸元で両手を握って、気合を入れた私は、朝の支度をすることにした。

 顔を洗って、すっきりした私は、一つ思いついた。今夜は、晩御飯を豪華にしよう。彼の好きなものでテーブルを埋めたい。何がいいかな。何がいいだろう。悩みとタスクが増えていく。口元が緩んでしまうような内容だけど。

 楽しみしててよねーー私は、届かぬ呟きを彼に送ってからトーストを齧った。そのほんの数分後、私は、コーヒーカップが床で砕けたことに気づかなかったいほどに、呆然とした。

 

 なんとか私と彼で積み上げたものが、私のすべてが崩れ去る音を私は、聞いた。 

 

 彼が負傷したこと。意識不明で、植物状態であること。つまり彼は、動けない。動かない。喋らない。話せない。声を聞くことは、もうできないということ。私は、いともたやすく絶望した。

 それからただ彼の眠る病室に通い続けた。仕事の合間、時間を作り、毎日。

 

 ーーそうして、季節が巡る。

 

 病室で、無数のコードとチューブを繋がれ、機械に囲まれた彼がやせ細っていくのを見続け、憔悴しきった私に、一本の蜘蛛の糸が垂らされた。

 ある日の午後、病室のドアがノックされた。

 

 返事をするか迷った末、本をサイドテーブルに置いた私は、スライドドアを開いた。その向こうに見えた人の姿に、つい笑いそうになってしまった。

 

 「失礼します。百地博士ですね」

 

 『……どちら様でしょう』

 

 現れたのは、黒ずくめに真っ黒なサングラスの男たち。MIB? 都市伝説は、本当だったのかしら。ま抜けた思考。しかし、冗談のような格好だが冗談ではなさそう。冗談を言いに来る雰囲気でもドッキリのような安っぽさもない。いい生地のスーツ。胸元が膨らんでいる。きっと拳銃だ。佇まいから香る暴力を振るいなれている人特有の臭い。そういうタイプの人間を見分ける能力まで身についてしまった。荒れた世界で生き残るための方法。

 

 「わたくしこういうものです。貴方の力をお借りしたく参上しました」

 

 中央情報局(CIA)。実在は知っていたけど正直、洋画や洋ドラ以外で見たことがない存在。……まあこれが本当の身分かどうかは知らないけれど。携帯端末のタッチパネルを素早く操作する。

 

 『……私の?』

 

 「はい」首肯「貴方との現在の状況を失礼ですが調査させていただきました。もちろん、そちらのご主人のことも。おそらくご協力いただくことは、貴方方に大きなメリットをもたらすことになると思われます」

 

 『正直、貴方たちのお役にたてる技術や知識の提供ができるとは、思いませんが……。それで、メリットというのは?』

 

 「ご主人の救済です」

 

 『随分、直接的ね』

 

 ……彼は、大量の出血と酸素の不足、おまけに複数の内臓の破損の重傷だった。運び込まれた時には、心肺停止。今、なんとか生きているのも奇跡的で、脳死寸前の彼を治すことは、もう現代医療の範疇では、不可能だった。スパゲッティ症候群に、罹患した彼を開放できない。私は、このまま弱っていくだけの彼を見ているだけなのか。そういう目下の大きすぎる悩みを目の前の男は、解決するという。

 

 「ええ、迂遠なのは無意味だと思いまして」

 

 はい、その通り。こんなところで仕事の話なんてしたくない。早々に答えを求める文面をサングラスの前に突きつけた。

 

 『そうね。間違いない。では、こう聞きましょう。私に、何を求めるの?』

 

 「叡智を。ゲシュタルト計画。人類の生存のため、機械工学の権威である百地姫博士、貴方の頭脳をお借りしたい」

 

 『叡智なんて大層なものは持ち合わせて無いし、権威っていうのも有名な人がみんな死んでしまっただけ』

 

 溜息混じりに、私は、常套句を並べる。どれも事実だと思っている。数学が苦手な私が機械工学の権威だなんて笑っちゃうよね、桃矢くん。

 

 『それでいいなら、協力します』

 

 だけど私、頑張るよ。だから待ってて。

 

 …………それから千五百年が経過した。眠りから私は、目覚めた。彼は、未だに目覚めない。長い旅路からまだ戻らない。

 私と彼の始まりとなった図書館を買い取った私は、長い年月を過ごす寝床とした。千年以上の眠りに耐えられるようなシェルターを作った。天変地異や地殻変動が心配だけどそれも計算して作った。魔素を用いればそういう回避不可能、制御不可能だったものも掌の上で転がす事ができるようになったのは、革新だった。

 

 「オハヨウ、トウヤクン」

 

 毎日、目覚めてから最初にするのは、彼の顔を見ること。ゲシュタルト体を安置するためのカプセルの中で彼は、穏やかな寝息をたてている。規則正しい呼吸。機器の数値も問題ない。異常は、無い。ゲシュタルトの体は、無機的で味気がない。これもレプリカントの体を手に入れるまでの辛抱だ。

 ただ彼は、目覚めない。何が悪かったのか。何が問題なのか分からない。他の同様な植物状態だった人もゲシュタルト化すると目覚めていた。彼だけが目覚めない。彼だけは、今もこうして微睡んでいる。

 

 「キョウモ、ウタノレンシュウヲシヨウトオモウノ」

 

 起きてから最初に確かめたのは、声が出るかどうか。事前の実験で、身体機能の再生が確認されたから問題はないと思っていたけど長い間寝ていたから心配だった。

 問題ないのを理解したら眠る彼のために、本を読み聞かせ、歌を歌った。腕前は、いまいち。彼には、程遠い。だけど時間はある。彼が目覚めるまでにきれいな声を出せるようになろうと日々特訓。他のゲシュタルトに教えだって請うた。

 今日も君が好きだった本を読む。声を出して読む。いつか目を覚ます君のため、文字を食む。口一つ。口二つ。口三つ。君に届けと、ページを、文字列をゆっくりと指の腹が撫でる。

 日々成長。彼が目覚めるのが待ち遠しい。日々が流れる。もういつ目覚めてもいいようになる。だけど君は、目覚めない。月日だけが無情に流れていく。

 君は、起きない。君は、眠り続けている。君は、君の(コエ)が聞こえない。虚ろ(ゲシュタルト)だけが只々、そこにいる。(ゲシュタルト)がいない。君は、どこ? どこにいるの? ね、教えてよ。

 

 「キミ、ハ、ドコ?」

 

 そこにいる。君は、いる。私の世界に色をくれた人。物語以外の文字をくれた人。モノクロを色づかせてくれた人。文字に閉じこもった私に、色をくれた人。彼に届けるため、唇を操る。

 

 「セッカク、ハナセルヨウニナッタノニ」

 

 指を伸ばす。冷たいガラスが私と彼の間を阻む。起き上がることのない体。毎朝変わらぬ姿。彼は、答えてくれない。屈託のない笑顔は、もう記憶の遥か彼方だ。抱きしめた温かさを思い出せない。辛い。こんなのあまりに辛すぎる。消えない痛みが私の胸を突く。どうにもならなかったということだろうか。私は、彼を諦めるしかなかったということだろうか。

 

 「キミトハナシタイ」

 

 「キミトウタイタイ」

 

 「キミトワライタイ」

 

 外がにわかに騒がしくなる。何事? 私が眉を顰めた時。一瞬で、凄まじい量の情報が流れ込んできた。情報ーー違う。これは、恐怖。他のゲシュタルトの恐怖。

 あれが来る。子供も女も構わず殺すあれがくる。あれが殺しに来る。僕/私/俺/君/彼/彼女/貴方/皆を殺す、あれが来る。逃げる? どこに? どうやって? 戦いたくない。殺したくない。だけど殺されるなら、殺しに来るのならーー気づけばどうしようもないほどの殺意が頭から指先まで詰まっていた。

 その時、私は、理解するーーーーこのゲシュタルト計画は、最初から間違っていた。この計画を発動するべきではなかった。誰も幸福になれない地獄を続けただけだった。

 

 「ダケド、ドウシタラヨカッタノヨ」

 

 後悔まみれの呟きが殺意に飲み込まれた。色濃い絶望が強烈な殺意の本能を/殺せ/生み出す。/私が消える。/殺せ。守るために、/殺せ。/私達の未来を奪わせてたまるものか。/彼と歌うんだ。/殺せ/彼と本を読むんだ。/殺せ/手を繋いで、/殺せ/笑って/殺せ/日差しを/殺せ/浴びるん/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/殺せ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ/コロセ。

 

 

 イキテるモノを皆コロセ。

 

 

 

 +++

 

 

 

 「これで、最後だ」

 

 天叢雲剣をカプセルに横たわるマモノに突き立て、引き抜いた。身じろぎ一つせず消滅していくマモノを一瞥して、ニーアは、頬に飛び散った返り血を手の甲で拭った。

 数は、多かったがそこまで手こずらなかったな。マモノへの感想を漏らす。森にいたような巨大なマモノもいなかった。殺意を剥き出しにして、愚直に突進してくる小型のマモノだけだった。

 だからニーアのマモノへの興味は、すぐに薄れた。特段、気にするべきことがらでないと思ったからだ。

 

 「しかし、ここはなんなんだろうな」

 

 清潔な白い長方形の部屋を見渡した。この部屋を出れば同じような廊下が続き、同じような部屋が並んでいる。内装は、似たりよったりだ。

 廃墟の下、マモノが湧き出てきた方を辿っていった結果、ニーアたちは、この施設に辿り着いていた。ここがゲシュタルトにとってのシェルターであることなど彼らが知るはずもない。

 

 「うむ……。マモノの住処? にしては……」

 

 「そうだな。ここは、なんというかエミールの屋敷の地下、あそこに似ている気がする」

 

 「同感だ。似たような設備があの屋敷の地下にもあった」

 

 「関係があるということか……?」

 

 難しげな表情を浮かべたニーアは、唇に指をあてがい軽く首を捻った。するとシロが笑う。なんだよと抗議の視線をニーアは、向けた。

 

 「なに、お前が考えても無駄だろう。そういうのは、ポポルに任せておけ」

 

 「確かにポポルさんが適任だけど、もうちょっと言い方があるんじゃないか? シロ」

 

 「フン。この古本に、そういった気遣いはできんだろう。ただ古くて喋るくらいしか能のない古本だからな」

 

 「うるさいぞ、下着女。暴力と暴言しか能のない馬鹿女め」 

 

 「お二人共、ニーアさんが困ってるからそのへんにしましょう」

 

 いつもの口喧嘩にいつもの通り慌てたエミールが仲裁に入るとふんと一人と一冊は、そっぽを向いた。思わずニーアは、吹き出してしまう。まるで子どもだ。

 

 「何を笑っている」

 

 「何がおかしい」

 

 一人と一冊。カイネとシロが揃って、同じようなことを言うからエミールとニーアは、顔を見合わせて大声で笑いだしてしまった。

 

 「ふん!! そこで一生笑ってろ!」

 

 「カイネ、拗ねるなよ!」

 

 「拗ねてなどいない!!」

 

 言い争いながら離れていくニーアとカイネを追いかけて、()を竦めたようなシロと苦笑いしたエミールが続いた。声と足音が遠ざかり、そして、静寂が満ちると共に、施設の光が段階を踏んで消えていく。それからしばらくして、闇があらゆるものを包容した。

 

 

 

 +++

 

 

 

 「おかえり、姫」

 

 「…………ただいま、桃矢くん」

 

 「怒らないでよ、俺だって行きたかったけど行けなかったんだ」

 

 「怒ってないよ」

 

 「怒ってない?」

 

 「……ちょっと怒ってます」

 

 「ごめんなさい……」

 

 「……いいでしょう」

 

 「……やっぱりだ」

 

 「やっぱり……?」

 

 「君の声は、綺麗だ」

 

 世界のどこでもないどこかの、塩より白く、あらゆるものより白い場所で、二つの影がようやく重なった。

 

 

 




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