何故なら、彼女には秘密があったから。
――私は呪われている。
「改めて初めまして、俺が君を担当するプロデューサーだ。よろしく」
「……初めまして、北沢志保です」
そう言って信用ならない笑顔を向けてくるのは、20代後半のスーツ姿の男性。第一印象は軽薄そうな人。年輪をそこまで刻んでいない顔はあまり苦労を知らないように思えた。
芸能事務所、そのソファの上で私は隙のないように表情を固めて臨んでいる。お母さんが信じた人らしいけど、私はこの人を全く知らない。そして現在、信じられる気がしない。
徐にタバコを取り出し、火をつけた。ほら、こっちに確認すらしない。これだけでいい印象なんてない。そもそも私はアイドルになる気もないのに、なれるはずないのに、どうしてお母さんは……
「さて、俺が君に期待するのは完璧な仕事だけだ。俺と親しくする必要はどこにもないし、俺もする気がない。はっきり言って迷惑だ、必要以上に話しかけるな」
「…………」
予想以上にひどい言葉に思わず表情を変えそうになった。でも、これで私も態度を固定できる。
「君はこの事務所のアイドルとして売り出される商品だ。商品に懐かれたところで何の得もないし、そんな情動があれば仕事に支障を来す可能性がある。ま、最初に言ったとおり、君は俺の言うとおりに仕事をこなせばいい。その代わり――俺は君の要望には応えよう」
要望、私が今ここにいる理由の一つ。きっとお母さんが話してしまったのだろうしそれに対してとやかく言う気はない。でも、どうしてお母さんは、諦めようとしていたそれを掘り起こして、そして他人に委ねてしまったのだろう。
私を担当するというこのプロデューサーは、仕事は主に芝居・演技に関してのものを揃えるそうだ。私が密かに望み、憧れ、そして諦めた世界を用意するというのだ。
悔しい。
私がどんなに望んでも叶えられないと思ったそれを、この人はすぐにでも用意できるという現実。そしてそれを少しでも喜んでしまった私。叶わない夢のはずなのに、いざ目の前に差し出されると未練がましく縋りたくなる。だからそんな心に抵抗して、表情は微塵も変えたくない。
「明後日。明後日の木曜日から仕事に取り掛かる。最初はCMだ。若干希望と外れているかもしれないが、無名のタレントを取り上げてくれるんだ。全力で当たれ」
そしてこの人は組んでいた足を代え、どっかと背もたれに寄りかかった。完全に見下した態度、だけど今の力関係ではそれが正しい。それくらいはわかるから、私は何も言わなかった。
「質問は?」
「辞退は可能ですか?」
思わず反射的に出てしまった。お母さんが勝手に決めたこの話、できるなら断ってしまいたい。でもお母さんの真意はわからなくて、そして私にも利益があるからこそ、私は今ここに来てしまっている。でも辞退できるのなら、それが正しいと思った。が、契約書の中には最低雇用期間というものがあるらしい。私の場合、即日退所は不可能なのだそうだ。
「……ふぅ」
わかっていたことだが、僅かに吐息は洩れた。それに気づいたかどうかは知らないけれど、プロデューサーは次を促してくる。そして次の問いは当然家族のことだ。
お父さんがいないから、お母さんが遅い時には弟は一人きりだ。そんな時、私は学校が終わり次第家に帰って弟と過ごしている。寂しい思いをさせたくないから、姉である私はそうするのが当たり前で、そして私自身がしたいことなのだ。仮にこの仕事でそれができなくなるのなら、違約金を払ってでも辞めるべきなのだろう。
「親御さんがいない間の弟の世話、だったか。それは極力考慮しよう。想定外のトラブルがない限りは、君の家族関係に迷惑をかけないことを約束する」
だが、それも保障すると言う。もしかしたらお母さんが既に条件を出していたのかもしれない。それなら、私が懸念する一番の材料は解消されたことになる。なるけれど……
「君が完璧な仕事をすればするほど家に金が入っていく。それは君も望むところなはずだ」
つまらなそうに呟いたそれは、理由として十分すぎた。これが間違いようのない事実で、お母さんももしかしたらそれを望んだのかもしれない。お母さんの負担を和らげ、弟にも辛い思いをさせないのなら、私はこれを了承するべきなのだろう。それなのに私は迷っている。自分のことで悩んでいる。
逃れられない、私の呪い――
「……学校に行く時間は取れますか」
「当たり前だ。どこぞのブラックとは違うんだよ、うちは」
悪あがきのような言葉に自嘲する。もう結論は出ているのに、どうしてそう怖がっているのか。いや、事実怖いんだ。私は、今の生活が変わってしまうのが何より怖いんだ。でも、もうこの流れは止められない。だから最後は、何も考えずに思いついたことを尋ねた。
「私は、あなたを信じていいんですか?」
「信じるな。そんな希望的な感情はいらない」
タバコを消して歪に笑ったその顔は悪役そのものだった。
こうして地獄に落とされるような感覚で、私はこの人と関わりを持った。
呪われている、私が――。
***
生憎の雨模様は私の心を表しているかのようだった。事務所からの帰路は予想以上に長く、その理由に思いついて苦笑する。私はきっと、明日が怖い。だから少しでも今日が長くなるようにと歩みが遅くなってしまっているんだろう。
「でも、帰らなくちゃ」
弟が待っているから、私は帰らなくちゃいけないんだ。こんな欠陥品の私を好きでいてくれるあの子のために、私は良い姉でいたいんだから。
家に着いてからも雨は止まず、弟はつまらなそうにおもちゃをいじくっていた。それを眺め笑う私は、しかしぐるぐると悩み続けていた。
* * *
ナムコプロダクション。それが私の入った事務所。アイドルを排出する大手事務所として芸能界では有名らしい。生憎私は疎かったのでよくわからないが、少なくとも事務員である音無小鳥さんはとても感じのいい人だった。緑がかったショートカットに口元の黒子が愛らしい。
「はいどうぞ、志保ちゃん」
「ありがとうございます、音無さん」
お茶を飲む。専ら所属するアイドルは直接現場に向かうそうで、私はまだ一度も他の人に会っていない。まだ二度目だから当たり前なのかもしれないけれど。
「志保ちゃんは今日はCM撮影ね、頑張ってね」
「はい、精一杯やらせていただきます」
「大丈夫よ。志保ちゃんはプロデューサーが見つけた子なんだからうまくいくわ」
プロデューサー。その言葉に僅かに顔を顰めてしまう。あの人が見つけたから、というのはどういうことなのだろうか。するとそんな私を察したのか、音無さんが困ったように笑った。
「プロデューサーさんは有能だから、って言っても納得しないかしら?」
「納得はします。でも、理解はできません」
「……そうかもね」
音無さんは微笑して戻っていく。きっと私にはわからない何かがあるのだろうけれど、あの態度を見て良い印象は抱けない。そもそもそんなことしなくていいみたいだし。
「お、いたか志保。行くぞ」
「はい」
初仕事、CM撮影。私はうまくできるだろうか。
「馬子にも衣装だな」
「……どうも」
「俺は一服しているから、信用を落とさないように励め」
衣装に着替えるなり貶された私を放置する気満々なのは、プロデューサーとしてどうなのか。とはいえ気が楽なのも確かだけれど。
「わかっています。それでは」
薄ら笑いを浮かべるこの人に背を向けて、私は改めて今回の主旨を整理する。ストロベリーチョコレートのCM、15秒間で甘さと苦味をうまく表現しなければならない。注文としてはそんな漠然としたもので、気負わなくて良いよ、とこちらを思いやってくれるスタッフの方々はありがたい。
震えそうになる手足、これが自分だけのためならば正直逃げ出したいくらい。でも私がこれをやり遂げれば、お母さんが楽になる。そう思えば、震えなんてないも同然だった。
「はい、じゃー本番行くよ」
「お願いします」
何もかも初心者で、経験なんてないから何が正しいのかわからない。望んだ形ではなかったけれど、ずっと夢に見ていた舞台の端っこには立てている。そんな不安と狂喜がない交ぜになった精神状態を他人事のように感じながら、私は――。
「終わりました、プロデューサー」
どこかに消えているかと思われたこの人は、しかし意外と近くにいた。声をかけてみるが反応はない。タバコを持っていたような手で固まり、ぼんやりとしていた。下を見るとタバコが落ちているが、不思議と使用した様子はなかった。何をやっているのだろう。
「プロデューサー、終わりました」
「――――うまくいったようだな」
ようやっと気づいたのか、そんな言葉を投げてくる。というか、既に評価を聞いていたようで抜かりはなさそうだ。この人が有能である、という音無さんの言葉は本当なのだろう。しかし、一体何を考えて呆けていたのやら……
「その調子で気張れ。そうすれば舞台の仕事をくれてやるぞ」
「舞台……」
一瞬――ほんの一瞬だけ、夢を見てしまった。輝く舞台、埋まる観客席、その中心にいる、私。でもそんな華やかなイメージは儚くも散っていってしまった。当たり前の話、私は呪われているのだから。
「とりあえず次の仕事は三日後だ。それまでは基本的なトレーニングに努めろ。トレーナーは手配してある、ここが場所だ」
そんな私を気にも留めず、紙を放り投げて歩き出すプロデューサー。ちょうどいい、情報を眺める名目で視線は向けないようにしよう。私にとってもこの人にとっても、お互いは利用し合う存在なのだから。
* * *
ボイストレーニング、ダンストレーニング。専門のトレーナーさんの指導の下、私は無理のない範囲でそれをこなした。動くのは苦手だから特にダンスはきつかったけれど、それでも少しだけ楽しかったのは事実だ。忘れないといいけれど……
そんなこんなで日曜日、今回は雑誌の特集に載るそうでインタビューだ。正直愛想は良くないけれど、不特定多数が見てくれるのだから精一杯私らしくやっていこうと思う。プロデューサーもわかっているのか、仕事中は一切関与してこないし。
「じゃあ北沢さんがアイドルになろうと思ったきっかけって何かな?」
「ずっと、演技に興味があったんです。いろんな役を演じている女優の方々を見て、自分もそうなりたいと思うようになったことが一番かと」
「なるほど。じゃあいずれはアイドルとしてではなく役者として生きていこうと?」
「それはわかりませんが……私は、自分自身に誇れるような人間でいたいと思います。その道は、それに一番近いと感じています」
正確に言えば、お母さんや弟、そしてお父さんに誇れる自分でいたい。家族は私にとってかけがえのないもので、だからこそ私は、家族のためならどんなことだって出来る気がする。不出来な私を支えてくれる家族のためなら、私は何でもしてみせる。
「なるほどねぇ……あ、話変わるけど好きなものは?」
「ぬいぐるみです」
「…………」
「……何か?」
そんなに似合わないのかな。
***
「志保、明日は来なくていい」
「…………」
「トレーニングも休みだ。一日英気を養うといい」
「……わかりました。では失礼します」
プロデューサーの言葉に教科書どおりの返答をし、事務所を後にする。
背中で扉が閉まる音を聞いて、ほうと息を吐いた。今日のインタビューは私のできる限りで自分を表現したはずだ。不満もない、良い仕事だったと思う。明日は入所してから初めてのオフ、思う存分息抜きができる。
なのに、私はこんなに心が沈む。
「…………」
わかっている。もう慣れたはずなのだ。いや、慣れるはずだ。私は今日でおしまい、明日はまた違う私が生きるだけ。わかっている。
でも、今の私は今までの私と同じようで、違う。そう、例えば――
「例えば、今どこにいるの? ってところ……」
午後3時47分、ナムコプロダクション前。そんな場所に今まで縁はなかった。なのに今はある。明日もまた、繋がりはある。それがただ不安で、怖い。
「どうして、お母さんは私を……」
本人に直接聞いていないから真相は藪の中。お金に余裕がないのは確かだけれど、そこまで困窮していないはず。じゃあ、一体どうしてこんなことになったんだろう。
「志保ちゃん」
暫くぼんやりしていると音無さんが傍にいた。いつの間に来たのかわからないほどに私は呆けていたのだろう。そんな自分に呆れてしまう。
「すみません、邪魔でしたよね」
「ううん、違うの。ねぇ志保ちゃん、私はね、一つ自慢があるの」
「自慢?」
「そう。私はね、今までナムコプロに来た子達の最初の姿を全部覚えているの。初々しかったり、始めから肝が据わっていたり様々だったわ。志保ちゃんはどっちかと言うと後者ね」
思い返して面白かったのか、音無さんは楽しそうに微笑む。その姿に違和感を覚える。何でいきなりそんな話をするのか。
「音無さん、もしかして――」
「また明後日、ね」
「…………」
「ね、志保ちゃん」
「…………はい、また」
音無さんの笑顔はとても綺麗で、だからこそ二の句は告げなかった。笑顔の中の感情に気づかないように心に蓋をして、私は家路をゆっくりと歩いた。
家に帰ると弟は何も言わずに抱きついてきて、それに心が満たされる。優しい子だと、温かくなる。だから今夜は弟の大好きなカレーにしよう。嫌がるかもしれないけれど、野菜もたくさん。元気に成長してくれることを祈って。
もうすぐ、後一時間で今日が終わる。
ナムコプロに入所して以来、また書き始めた日記には、今日のことが詳しく書かれている。これを理解できるかどうかはわからない。それでも私は今アイドルをしているのだから頑張らないといけない。家族のために、私は頑張ると決めたのだ。
日記を閉じ、表紙を見る。何も書かれていない表紙、タイトルのない日記帳。ここに何かを書く日が来るのだろうか。それはわからなかった。
「嫌だな」
弱音が零れた。眠るのが、怖い。睡眠は人間に必要で、当然私にも必要だ。でも、今日ばかりは睡眠欲よりも恐怖が勝る。
このまま寝ないでいれば何かが変わるのかな。そんなどうしようもないことを考えた。昔に試して諦めた手段を今更になって考えてしまう矛盾。やっぱり私は、弱いままだ。
「神様……どうかお願いします」
信じていない神様にお願いをして、段々と薄くなく意識と掠れていく視界を認識しながら、私は、呪いに身を委ねてしまった。
日曜日が終わり、リセットの月曜日がやって来る。
* * *
いつもの朝。目覚ましが鳴る少し前に起きて、寝ぼけ眼のまま鳴り出したそれを止める。時刻は6時30分、起きないといけない。
「ふあ……」
なんだか身体がだるい。昨日は何かあっただろうか。
「あ、私……アイドルになったんだっけ」
嫌味な顔のプロデューサーを思い出して一気に眠気が醒める。寝癖が微妙についてしまったので手櫛で整えながら机を見やると、見知らぬ冊子が置かれていた。表紙には何も書かれていない。
「何だろ、これ」
捲り、捲り――――そして気づく。
「あはは、はは……っ」
知らない内容の一週間。いや、断片的には覚えている。その残りが記されているだけで――。
「そっか、私……」
また、忘れちゃったんだ。
続きがあったらまたアゲマス。また、一週間フレンズ。の香織とは微妙に症状が異なります。