世界救い終わったけど、記憶喪失の女の子ひろった   作:龍流

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翡翠の聖女。そして

「かーっ! こいつぁうめぇ! 生き返ります!」

「そりゃよかったです」

 

 気持ちのいい食べっぷりに、思わずこちらまで笑顔になる。

 

「いやはやどうもどうも。自分、ここ数日、何も食ってねえもんでして……本当に助かりやした」

「いえいえ。えっと……商人さんですよね?」

「へい。しがない行商人をしておりやす。自分の名前は……」

「あ、ごめんなさい。職業だけお聞きできれば大丈夫です」

「へ? そうですかい?」

「はい。ちょっと物覚えが悪いもので。あなたのことは行商人さんって呼ばせてもらってもいいですか?」

「はああ、そりゃあ構わねぇですが……」

 

 名乗りそうになった商人さんの発言を、おれはさらりとキャンセルした。

 今さら説明するまでもないが、おれは人の名前を覚えることができない。それどころか、自分の名前も他人の名前も呼ぶことができない。魔王がおれに遺していった、世界一いじわるな呪いのせいである。

 さすがにもう長い付き合いになるから慣れてきたとはいえ、こうして新しい人と知り合った時は、こんな形で不自由を強いられている。少しばかり辛いところだ。

 

「ところで商人さん」

「へい! なんでしょう!? 旦那!」

「名前よりも先に確認しておきたいんですけど……そのお面は、何か理由があって?」

「ややっ!? やはり気になりますか?」

 

 うん。気にならない方がおかしい。

 商人さんは背負っている背嚢が少し大きい以外は、至って普通の行商人といった背格好だったが、一点だけ普通の行商人っぽくない点があった。

 顔に被ったお面である。

 一言では説明しにくいのだが、それは耳までをすっぽりと覆い隠してしまうような独特なデザインであり、全体が白に染められていて、さらに同じ色合いの白い花のような飾りが添えられており……まあとにかく、白を基調とした色合いの、なんとも言えない不可思議なお面だった。ちなみに、仮面が覆っているのは鼻先までで、顔の下半分は隠れていないので、食事に支障はなさそうだ。

 

「もしかして何か、顔を隠さなきゃいけない理由でも?」

「いやはや、べつにそういうわけじゃねぇんですけどね。コイツぁ、仕事道具の一種でして」

「仕事道具?」

「ああ、聞いたことがありますわね。なんでも、東方の行商人は仮面を被って商売をする文化がある、とか」

 

 と、そこで会話に入ってきたのは死霊術師さんだった。

 さっきも目をキラキラさせていたが、さすが育ちが良くて商売をやっているだけあって博識である。素っ裸でにこにこしていなければ、実に文化人っぽい。さっさと服着ろよ。

 

「ややっ!? こりゃあ姉さん、お若くて美人な上に、随分と博識ですなぁ」

「あらあら、照れますわね。まあ、わたくし、こう見えても会社を経営しておりまして」

「会社を……?」

「個人的に行商人の方と各地の名産品についてお話をするのは大好きなので、こんな格好でなければお茶でもお出ししてじっくりとお話したいところなのですが……」

 

 行商人さんは仮面の下から目をそらすようにして、素っ裸の死霊術師さんを直視しないように横を向いて、

 

「……会社を?」

 

 まったく納得がいかないといった様子で聞き返した。

 うん。そうは見えませんよね。ただの全裸の変態美女にしか見えないですよね。

 とてもじゃないが、最近社長から会長にランクアップしたとは思えない。

 

「旦那ぁ、本当ですかい?」

「いやまぁ……うん。一応、嘘は言ってない、ですかね……」

「失礼ですが、俺ぁてっきり旦那たちは奴隷の販売に出していて、この別嬪なねえさんを素っ裸で侍らせているのもなんというか、そういう趣味なのかと……」

「断じて違います」

 

 最悪の勘違いをされてたよ。だからさっきからこの商人さん、妙に腰が低かったのかよ。

 でもまぁたしかに……死霊術師さんは見た目だけはどこに出しても恥ずかしくない美人だし、そんな美人を素っ裸で侍らせていたら、いかがわしい奴隷商人に見えるのも当然だろう。

 

「勇者さんが全裸好きなのは間違っていないのでは?」

「たしかに」

 

 隣でぼそっと賢者ちゃんが呟き、騎士ちゃんが同意する。

 やかましいわ。おれはべつに自分が脱ぐ分には気にしないだけであって、好き好んで誰かを脱がせるような変態ではない。名誉毀損で訴えるぞ。

 

「お聞きになりましたか? わたくしが全裸なのが勇者さまの趣味ですって! 照れますわね」

「うん。少し黙ってようか」

「共通の趣味は、円満な人間関係の秘訣。そうは思いませんか?」

「ないよ」

 

 とりあえず死霊術師さんを師匠の方に放り投げて、おれは再び商人さんに向き直った。

 

「あの人はまぁうちのパーティーメンバーなんですけど……まあちょっといろいろ頭がおかしい人なので、あまり気にしないでください」

「ははぁ、なるほど。身内のゴタゴタでしたか! そりゃ、部外者が首を突っ込んじゃあいけねぇな。こりゃ、とんだご無礼を」

「ああ、いえいえそんな……」

 

 商人さんと互いに頭を下げ合う。なんだかんだ良い人そうだ。仮面を被ってるのがかなりあやしいけど。

 

「あのバカ女のことは置いといて……あなた、さっきの質問に答えていませんよ」

 

 と、鋭い声で次に割って入ってきたのは、賢者ちゃんだった。

 

「へい。かわいらしいお嬢さん。さっきの質問っていうと……」

「とぼけないでください。その仮面を被っている理由です。まだ答えていないでしょう。そもそも、私たちはあなたに食事を提供しているわけですから、最初に顔を見せるのが道理では?」

「おおっと。こいつは痛いところを突かれちまったな」

 

 仮面の上をなぞるようにして、行商人さんは目の横に指を当てた。

 

「しかしねぇ、かわいらしいお嬢さん。俺ぁ、名乗る前にこの旦那から名前を聞く気はねぇって言われちまったもんで。そりゃあつもり……名前を呼び合うくらい深い仲になる気はねえってことでしょう?」

 

 むむ、と。賢者ちゃんの口が真一文字になった。

 

「もちろん、そちらの赤い髪のお嬢さんがさっき言った通り、袖振り合うも多生の縁でさぁ。こうしてメシを奢ってくれた恩もある。俺としちゃあアンタたちとは親睦を深めてぇところだが、そちらさんは最初からお付き合いの距離感を線引きしてるでしょう。それならこっちも、適切な距離感で接するのが筋ってもんじゃあねえんですかい?」

 

 ぐぬぬ、と。今度は賢者ちゃんの眉毛が三角になった。

 なるほど。しかしこれに関しては行商人さんの言うとおりだ。おれはさっき、名前を聞くのを断っている。もちろん、それは例の呪いのせいではあるが、それはあくまでもおれ個人の事情であって。相手からしてみれば、仲良くなろうと名乗るを断れたと思っても、何ら不思議はない。

 

「失礼しました。おれの方が礼儀を欠いていましたね」

「ちょ……勇者さん! 何もそこまで頭を下げることは」

「いいんだよ賢者ちゃん。こればっかりはおれが悪い」

 

 どうどう、と。今にも唸り声をあげそうな賢者ちゃんを制していると、今度は行商人さんの方がバツが悪そうに頭をかいた。

 

「ははぁ。いやはや……なんというか、その様子だと本当にこの仮面について、知らないみたいですなぁ」

「知らない、とは?」

「すいませんでした。旦那たちもこの仮面については、てっきり知っているもんだと……かまをかけて探っているんだと思って、疑っちまいました」

 

 今度は、おれよりもさらに深く行商人さんの頭が下がる。おれと賢者ちゃんは、首を傾げながら顔を見合わせた。

 さすがに行商人さんの態度に溜飲を下げたのか、賢者ちゃんが聞き返す。

 

「それで? 一体、その仮面がなんだというんです?」

「へい。コイツは、近くにある村に入るために必要な通行証のようなものなんです」

「通行証……? え、ていうか近くに村あるんですか!?」

「ええ。ございやす。メシの恩義というには細やかかもしれねぇが、よければご案内させてくだせぇ」

 

 賢者ちゃんは、困り顔でこちらを見上げてきた。

 

「どうします? 勇者さん」

「進路的にはどう?」

「寄り道どころか、むしろここを抜けていけるなら、早く聖職者さんのところに行けそうです」

「それはいいね。まあ、村があるなら立ち寄らない理由はない、か。おれたち、装備も旅支度も何もないし」

 

 せめて多少の食料や衣服……生活用品くらいは確保しておきたい。

 

「でしたら、この俺が責任を持ってご案内しましょう。ご安心くだせえ! ご覧の通り、俺は行商人ですから! みなさんの分の仮面も、きっちりご用意させていただきやす!」

 

 背嚢からずらりと。色とりどりの仮面を取り出して、行商人さんは胸を張った。

 

 

 

 

「月並みな表現になるけれど……人間っていう生き物はさ。みんな、ありのままの心に仮面を被せて、それを自分の顔みたいに見せかけて、生きていると思うんだよね」

 

 トリンキュロ・リムリリィは、膝を折るランジェット・フルエリンに向けて、ゆったりと語りかける。

 周囲には、激戦の跡があった。木々は折れ砕け、山肌は抉れ落ち、大地には破壊の爪痕が刻まれている。両者の戦闘がそれほど苛烈で、拮抗したものであったことは、想像に難くない。

 四天王第一位は、編み込んだ髪をいじりながら言葉を紡ぐ余裕を残していた。

 聖職者は、肩で荒い息を吐き出しながら、立ち上がる気力すら残されていなかった。

 今、この瞬間。対峙する二人の状況が、そのまま戦闘の結果だった。

 

「きみの仮面は上等だった。でも少しだけ、ボクと踊り続けるには、その厚みが足りなかったようだ」

 

 ランジェット・フルエリンの魔法は、たしかに強力だ。

 数多の魔物に変身し、特性を使い分けるその多様性は、同じように数多の魔法を使い分けるトリンキュロの『麟赫鳳嘴(ベル・メリオ)』に匹敵する。

 しかし、匹敵するだけだ。

 足りなかったのは、持続性と肉体。

 単純に言い換えれば、スタミナ。

 もとより人を超えた身体能力を誇る怪物の最終到達点……悪魔であるトリンキュロと、人間のランジェットでは、変身する前から、基礎的な能力値に埋められない差がある。

 その差を埋めるために、ランジェットは『翠氾画塗(ラン・ゼレナ)』による変身を繰り返してきた。

 しかし、いくら薬で誤魔化したとしても、いくら精神的な高揚で誤魔化したとしても、()()()()()()()()()()()()()()()()行為に、心と体が耐えられる保証はない。

 ランジェットは、トリンキュロと対峙した瞬間から、ずっと己の体に嘘を吐き続けていた。

 そのリスクと負担は毒のように蓄積され、体を蝕むには充分過ぎるものだった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()から、勇者はきみをパーティーから外したんだろうね」

 

 単純な指摘。

 事実に基づいた何気ない単純な指摘だからこそ、トリンキュロの一言はどこまでも残酷にランジェットの心へ、指をねじ込んだ。

 

「きみは自分のことを神様だと言ったけど……でも、ボクのようなバケモノからすれば、相手に合わせて変わろうとするきみの在り方は、ある意味どこまでも人らしいよ。多くの人から好かれるために。多くの人から尊ばれるために。望まれた姿に変わろうとするきみの献身は、とてもいじらしい」

 

 仮面を被ろうとする人間の心を、トリンキュロは否定する気はない。

 好かれたい。望まれたい。愛されたい。

 人間はどこまでも脆弱な生き物で、親の腹から生まれ落ちた赤ん坊は、決して一人では生き残れない。他の動物とは明らかに違う。それは、人がこの世界に生を受けた瞬間から背負う、宿命のような欲求だ。

 だからこそトリンキュロ・リムリリィという悪魔は、その仮面を剥がして心を丸裸にする瞬間に、これ以上ない喜びを抱く。

 その気になれば、いつでもへし折れる白い首筋。そこに指を這わせる感覚を楽しみながら、トリンキュロはランジェットの体を、片手で持ち上げ、締め上げた。

 飛び散る汗が、地面に滴り落ちる。

 あえぐ喉笛が、か弱い音を鳴らす。

 

「ちが……ランジェは……」

「違わないさ。きみは、所詮どこまでいっても人だ。信じられたい。好かれたい。愛されたい。そういう浅ましい欲求を隠しきれない、人間だ」

 

 人の心を理解する。

 その先にある感情を、貪り尽くして、模倣する。

 己の中に眠る第一の魔法『意心伝心(ハルトゴート)』を発動させた最上級悪魔は、唇を舌先で湿らせて。

 

「では、いただきます。神様」

 

 いっそ皮肉なほどにやさしく、聖職者と自分の口元の赤色を重ね合わせた。

 

 

 

 

 

 

 それは、昔の話だ。

 

 あなたを人間に戻せば、おれの仲間になってくれますか?

 

 世界を救う。

 そんな大言壮語を悪びれもせず吐き出し、ランジェットを仲間にする、と宣言した少年は、当然の如く教団に捕縛された。その気になれば抵抗もできただろうに、しかし一度抵抗してしまえばランジェットを仲間にする、という目的から離れてしまうと考えたのか……両手を縄で縛られ、地面に組み伏せられた少年はあり得ない提案を教団幹部に向けて告げた。

 

「あ、わかりました。じゃあ入信します。ランジェット・フルエリンを信仰させてください」

 

 未来の勇者に成り得るかもしれない、と噂されていた少年の実態は、どこまでも破天荒で、どこまでも狂っていた。あるいは、ただの命乞いだけで入信を申し出たのなら、口先だけの詐欺師で済んだだろう。

 しかし、彼は誰よりも献身的に身を粉にして働き、誰よりもぼろぼろになって魔物たちから信者を守り、僅か一ヶ月ほどで幹部たちの信頼を勝ち取っていった。

 それほどまでの無茶な働き。

 何かの螺子が外れているとしか思えない犠牲の献身。

 負傷し、傷ついた彼をランジェットが優先して治療するようになるまで、かかった時間は僅か一ヶ月ほどだった。

 

「ランジェさんはさぁ……いつも神様みたいに振る舞ってて、疲れないの?」

 

 部屋で、二人きりになる治療のタイミング。

 そういう時間を、何の制約もなしに設けられるようになるまで、一ヶ月ほど。

 

「……あは〜。そりゃあ、疲れるよ〜。肩凝るしダルい〜。治療もめんどい〜。やらなくていい?」

「いや、それは早く治してください。おれが死んじゃいます」

 

 そのたった一ヶ月で、ランジェットが『素の自分』を見せてもいいと思える程度には、少年は人たらしだった。

 

「いくらランジェの魔法があるからって、働き過ぎ無茶し過ぎ馬鹿やり過ぎ〜。ちょっと、無謀が過ぎるんじゃないの〜?」

「大丈夫ですよ。おれ、魔法のおかげで硬いんで」

「ウケる〜。そういうことじゃないんだけど〜」

「だって、おれがどんなに死にかけてもランジェさんが治してくれるんでしょう?」

「……あは〜。きみってほんと人たらしだよね〜」

「え? ランジェさん人だったんですか?」

「間違えた〜。神たらし〜」

「そんな言葉あります?」

「今作った〜」

 

 ランジェットは、ひさしく忘れていた。

 ありのままで偽りなく、人と言葉を交わすのは、こんなにも心地が良いことなのだ、と。

 しかし、同時にこうも思う。

 ありのままの、偽りのない自分を、この少年はどのように感じるのだろうか、と。

 

「ね〜ね〜」

「なんです?」

「ランジェのこと、どう思う?」

「……どう、とは?」

 

 ほんの少しだけ、狼狽えた気配。

 その狼狽を楽しみつつ、さらに体を寄せ込んでいく。

 

「客観的に、未来の勇者様から見て、ランジェット・フルエリンはどんな風に見えるのかな〜って。どんな風に、感じてくれているのかなって」

 

 言葉の軽さとは裏腹に、わりと瀕死の状態だった少年を、ランジェットは躊躇いなく押し倒した。

 血液が、白いシーツに飛び散る。

 息遣いが荒くなったのは、きっと気のせいではない。

 少年の指先をやさしく導いて、ランジェットは自分の顔に這わせた。

 

「顔立ちはどう?」

「……きれいです」

「きれいなんだ〜? かわいいじゃなくて」

「いや、もちろんかわいいですよ? かわいいですけど、ランジェさんの顔はどちらかといえばキレイ系かなって」

「そっか〜」

 

 年の割にごつごつとした男の手。そのくせ、触れる仕草はどこか躊躇いがちで、指のひとつひとつに、生ぬるいあたたかさがあった。

 鼻筋に少年の指先を沈み込ませながら、ランジェットは微笑む。

 

「じゃあ……()()()()()()()()()にしてみようかな」

 

 薄皮一枚の、その下で。

 何かが、致命的に歪む感触があった。

 

「え」

 

 軋む音一つなく、砕ける音が鳴ることもなく、鼻筋の骨が変形した。

 その事実に歪む少年の顔を、ランジェットはじっと見下ろした。

 見下ろしながら、問いかけ続ける。

 

「あんまりかわいらしい感じだと、親しみやすさが出過ぎちゃうから〜。だから自分の顔は結構、きれいめに変えてるんだよね〜。鼻筋はもうちょっと低めにして〜頬もちょっと丸くしたら愛らしくなるかな〜?」

「ランジェさん」

「目はもうちょっと大きくしたほうがいいかな〜? 髪質はどうだろうね? ランジェは長いのが好きだけど、少しクセとか付けて、色を変えてみてもいいかなぁ?」

「ランジェさん」

「声はどうかな〜? ランジェ、声は特に気を遣っていてね〜。そこそこ高めでも、よく通るようにがんばって調整したんだ〜。顔は鏡を見ながらイジれるけど、喉を変えるのはわりと大変で……」

「ランジェさん!」

「そんなこわい顔、しないでよ」

 

 かわいた声音で、ランジェットは自分を案ずる少年を、突き放すように言った。

 

「これは、変身だよ」

 

 これが、自分だと。

 これが、自分の魔法だと。

 これが、お前の怪我を治して救う、神に最も近い魔法の正体だ、と。

 ランジェットは、端的にわかりやすく、説明しただけだった。

 

 

 

 

「ごめんね〜。ランジェ、もう自分の最初の顔……覚えてないんだ〜」

 

 

 

 

 そう。変身、してしまったから。

 望まれるままに、変わってしまったから。

 だから自分は、もう戻れない。

 絶句する少年を励ますように、あえてランジェットは言葉を紡ぎ続けた。

 

「もともと、あんまりきれいな顔じゃなかったから……えらいひとに、たくさんイジるように言われてね〜。笑顔の練習とかもその顔でいっぱいしたから、もう戻せなくなっちゃって。忘れちゃって。バカだよねえ」

 

 少年は、戻すと言った。

 ランジェットを、神から人に戻す、と。

 けれどこの世には、神に奇跡を願ったとしても、叶わないこともある。

 

「気持ち悪いでしょう?」

「……そんなこと」

「ううん。気持ち悪いんだよ」

 

 取り繕おうとした否定を、上から言葉で潰す。

 それが、人間としては当たり前の感性だと思うから。

 故に、ランジェットは、それを肯定する。

 

「目は大きい方がいい。鼻筋は通ってる方がいい。声はよく通る方がいい。肌は白くてきれいな方がいい。胸は大きい方がいい。脚は長い方がいい。指先は細く長い方がいい。たくさん、たくさん変身してね。もう、戻れなくなっちゃった」

 

 より良く。

 より良質に。

 より美しく。

 そう望み、そう変わることは、本来は正しいことであるはずなのに。

 信仰の対象として変わり続けたこの身体は、人としては気持ち悪いほどに、正しさを重ねすぎた。

 いいや、違う。

 正しさを塗り重ねていった結果、どんな色が正しいのか、わからなくなってしまったのだ。

 

「ランジェは、人間じゃない神様の方がいい。そっちのほうが……そういう風に在った方が、正しいと思うから」

 

 黙り込んだ少年の体を、元通りに変身させて。

 その体を、傷一つなくきれいに戻して。

 自分から引き寄せて触れさせた指先を押し戻した上で、ランジェットは告げた。

 

「だから、ランジェはきみの仲間にはなれないんだ。ごめんね」

「……ランジェさん」

「ん〜?」

「正直に、言います」

 

 すべての傷が塞がり、活力を取り戻した少年はランジェットの言葉を待たずに、その身体をベッドに押し倒し返した。

 抵抗する間はなかった。

 それは、反撃だった。

 

 

「おれは、胸の大きい女性が、わりと好きです」

 

 

 それは、告白だった。

 

「……んん〜?」

「……正しく伝わってませんか? 実はおれは、おっぱ……」

「うるさい黙れ」

「あ、はい。すいません」

 

 少年は、しゅんと小さくなった。

 股間の方へ視線をやる余裕は、ランジェットにはなかった。

 顔の火照りを悟られないように、あるいは目の前の飢えた獣から身を守ることを優先するために、胸の前で腕を交差させるのが精一杯だった。

 

「でも、おれはランジェさんの胸が小さくなっても、ランジェさんのことは好きだと思うんです」

「……あは〜。おもしろい。死ねばいいのに〜」

「あ、はい。ほんとすいません」

 

 こちらを押し倒しているくせに、少年は小さくなった。

 ついでに、少年の股間に触れてあれも小さく変身させてやろうかと、ランジェットは考えた。

 しかし、少年はランジェットの肩を掴んだまま、言葉を続けた。

 

「でも、そういうことだと思うんです」

「わけわかんない〜。どういうこと〜?」

「戻れないなら、変わり続ければいいじゃないですか」

「……あは〜。なにそれ」

「ランジェさんの魔法は、特別だけど、特別じゃないですよ。だって、人間は死ぬまで変わり続ける生き物だから」

 

 神様は、とくべつだ。

 人とはちがう。人とは、同じではない。

 でも、それは決して特別なことではないと、彼は言う。

 

「顔を変えても、目を変えても、声を変えても、体を変えても……魔法は、ずっとランジェさんの中に、変わらずにあるでしょう?」

 

 とても控えめに。

 少年の指先が決して触れないように、ランジェットの胸の中心を指差す。

 

「変わり続けるけど、決して変わらない。矛盾に満ちた、見えない臓器。それが、心です」

「……かっこつけすぎ。きみの言葉じゃないでしょ。それ」

「あ、バレちゃいました? おれに、最初の魔法をくれた人の言葉です」

 

 照れ隠しに笑いながら、少年はランジェットと手を合わせた。

 強引に、顔の周りを這わせた時とは、違う熱。

 やさしく合わせた、手のひらの温もりが、自然と感じられて。

 

「ねえ」

「はい」

「ランジェがもっと醜くなって。ひどく変わって。原型もないくらい、ぐちゃぐちゃになって。顔も体も、何もかも変わって。そんなランジェを、きみはどうするの?」

「信じます」

 

 神に向ける信仰ではない。

 縋るような信仰でもない。

 それは、生まれてはじめて、ランジェット・フルエリンという人間が受け取った、ささやかな信頼だった。

 

「どんな姿でも……どんな姿に変わっても、おれはランジェさんを信じ続けます」

「……あはっ。なにそれ。意味わかんない」

 

 ランジェットは笑った。

 それを、いくら重ねたところで、ただの言葉である事実に変わりはない。

 それが、嘘なのか。真なのか。

 たしかめる術は、なにもない。

 そのように変わることが正しいのか、自分にはわからない。

 それでも、

 

 

「きもちわるいくらい、人が好きだね……きみは」

「きらいですか?」

「ん〜? ……好きに、なってあげちゃうかもね」

 

 

 信じる。

 そのたった一言が、ランジェット・フルエリンという人間を変えたのは、紛れもない事実であった。

 

 

 

 

 

 トリンキュロ・リムリリィがまず感じたのは、違和感。

 最上級悪魔としてトリンキュロが……カプリコーン・アインが保有する悪魔法『意心伝心(ハルトゴート)』は、触れたもの、すべてを『理解』する。

 トリンキュロが相手の魔法を奪う際に、唇を重ねるという過程を強引に踏むのは、自身の嗜虐的な趣向を満たすのと同時に……唇を重ねるというその行為が、相手の心に触れるのに最も効率が良いからだ。

 心の理を、口づけのぬるさで溶かして解く。

 思い出も、思考も、すべてを理解して取り込んだ上で『麟赫鳳嘴(ベル・メリオ)』を用いて、心を模倣する。

 トリンキュロ・リムリリィはこれまで、数多の魔法を取り込んできた。

 悪魔の身でありながら、人に至る。

 その欲求にどこまでも正直に従い、貪欲に己の心を変貌させてきたトリンキュロが理解できなかった魔法は、これまで一つたりとも存在しない。

 

「…………おい、なんでだよ」

 

 存在しない、はずだった。

 浸るはずの、その感触に。

 頬を打たれたように、トリンキュロは目を見開く。

 

「なんで、どうして……ちょっとまってくれ。なんなんだ。おい、なんなんだよ、お前……どうして、何が、何を思って、そんなことを考えられる!?」

 

 明らかな、異常。

 理解できない、恐怖。

 組み敷いているのは自分のはずなのに、主導権を握り返されたかのような、致命的な違和感。

 トリンキュロ・リムリリィが次に感じたのは、嫌悪と。

 

「あはっ、ねぇ──」

 

 強い拒絶。

 離した唇と、薄ら寒い熱の残り香に、呆然と固まる最上級悪魔を、

 

 

「──いつまで、くっせぇ口近づけてるの?」

 

 

 人間ではない聖職者が、嗤っていた。

 

「……あっ」

 

 悲鳴を挙げる間すら、許されなかった。

 次の瞬間には、トリンキュロの腕は人ならざる膂力によって引き千切られ、黒い鞭の如き尾で胴を薙ぎ払われ、その衝撃で小柄な体は、岸壁に叩きつけられた。

 

「ぐぶっ……ぉ」

 

 抵抗する力は、もうなかったはずだ。

 指先の一つすら、まとも動かせなかったはずだ。

 頭の中で、回る疑問は尽きなかったが、なによりも。

 その胸の内から湧き上がるような吐き気に、トリンキュロは頭を抑えて、静かに呻いた。

 

「なんで……どうして、理解できない。なぜ、模倣できない!? ボクが、こんな……」

「あは〜。よくわかんないけど……同族嫌悪ってヤツじゃない〜?」

 

 顔を上げたトリンキュロは、明白に言葉を失った。

 聖職者の白く長い指先には、鋭い爪があった。

 聖職者のなだらかな腰の下には、意思を宿してうねる尾があった。

 聖職者のやわらかい髪の間からは、美しく生える角があった。

 そして、なによりも。その変貌を祝福するように。

 

 

翠氾画塗(ラン・ゼレナ)──変天(メタエンド)悪魔化(デビル)

 

 

 聖職者の背には、漆黒の翼が広がっていた。

 対峙するトリンキュロが、なによりも見慣れているはずのそれを見詰めて吐き出したのは、疑問の言葉だった。

 

「なんだ……それは」

「変身だよ」

 

 ランジェット・フルエリンの魔法『翠氾画塗(ラン・ゼレナ)』は、自分自身と触れたものを『変身』させる。

 では『変身』させるための条件は何か?

 それは、自らの手で、触れたことのあるもの。あるいは、魔法を発動する瞬間に、触れているもの。

 条件を満たすために必要な時間は、十数秒。

 最上級悪魔は聖職者へ、口づけを交わしてしまった。

 

 自分自身を触れたもの()『変身』させる。

 

 それが翠の色魔法……『翠氾画塗(ラン・ゼレナ)』の、もう一つの側面。

 答えは、あった。

 けれど、理解できない。

 知らない。

 わからない。

 人間になりたいトリンキュロは……人間を目指す悪魔は、もはや人ではなくなった『それ』を理解できない。

 

「よかったよ〜。これを見せる前に、調子にのってくれて。あなた、見た目だけはかわいいから、キスくらいはくれてやろうと思ってたんだけど、本当に思い通りに動いてくれたね〜?」

「なんだそれは……そんな……そんなっ!? 魔法でそんなことをして、お前は……人間を捨てる気か!?」

「あは〜。知らないよ〜! これは、はじめてやったし、ぶっつけ本番だし。でも、おかしなことを聞くんだねぇ。トリンキュロ・リムリリィ」

 

 勇者の心と同じ色の翼。

 それを愛おしそうに撫でながら、人ではなくなった聖職者は、語りかける。

 

「あなた、いつも人間になりたいって言ってるはずなのにその口ぶりだと……変わることを、誰よりもこわがっているように聞こえるよ」

 

 ランジェさん、と。

 彼が呼んでくれる名前が、自分を変えてくれた。

 愛とは、信じること。愛とは、些細なきっかけで変わってしまう心の、変わらない強さを信じ抜くこと。

 それでも、もし。人を信じ、心を通わせる変化を肯定するのであれば……彼が奪い、塗り重ねてきた漆黒が変わらずに在り続けたその裏に、どれほどの悲しみがあったのか。旅の途中で消えた自分には、想像することしかできない。

 だから、愛そう。彼がこの身に向ける信仰に、ありったけの慈悲で応えよう。

 

 彼女は、世界を救った勇者を愛している。

 彼に想い焦がれるものが多いのは知っている。

 それでも、ランジェット・フルエリンは、変わり続ける。

 変わっていく自分が、なによりも彼に、変わらない想いを望むこの矛盾を、孕み続ける。

 この身が神に至ったとしても。この身が悪魔に堕ちたとしても。

 なによりも色濃く、胸の内に刻まれたもの。

 そう。だからきっと──

 

 

 ──この愛が、最もおぞましい。




今回登場した色魔法
翠氾画塗(ラン・ゼレナ)
 ランジェット・フルエリンの有する、翠の色魔法。自分自身と触れたものを『変身』させる。『変身』することができるのは、触れたことがあるものだけであり、ランジェットが触れた経験のないものには『変身』することができない。現状の変身のメインのストックは
・ドラゴン
・巨人
・特殊能力を有した魔物
など。ただし、仮に戦闘中でも十数秒の接触時間を満たすことができれば、その相手に『変身』することができる。
 使用者によっては色魔法の中でも凡庸に終わるはずだった能力だが、この魔法を心に宿したランジェット・フルエリンという少女は奇しくも『変身』という言葉への解釈が異様に広く、また深かった。そして同時に、それを悪用するための環境が、ランジェットの周りには完璧に整っていた。
 当然ながら、その特性上、生き物ではない無機物に対して『変身』の魔法効果を作用させることはできない。が、それが弱点にならないほどに、この魔法は万能である。生きるもの、すべての身体を自由自在に、変貌させる。その魔法効果に、聖女は神の可能性を見出した。
・怪我人を元通りに『変身』させることで、肉体の損傷を治癒する。
・自身を『変身』させることで、べつの生物の特性を操る。
・体の一部を『変身』させることで、擬似的に魔物を生み出し、自在に使役する。
・自身の肉体を『変身』させることで、肉体を意のままに造形して、整形する。
・同様に、他者の肉体を『変身』させることで、擬似的な肉体改造を行う。
 その気になれば、人に望んだ容姿を与え、人に望んだ肉体を与えることができ、逆に言えば人を醜い容姿に変え、人の身を魔に堕とすことすら可能。
 ただし、自身の身体を戦闘中に幾度も『変身』させるのは、使用者に精神的にも身体的にも多大な負荷をもたらす。ランジェットは連続する変身による消耗を、いくつかの霊薬の服用で強引に補っている。
 総じて、強力無比。神にも悪魔にも成り得る、生前の魔王が目をつけていた色魔法の一つである。
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