シナヤ・ライバックは、赤髪の少女の反応を待った。
正直なところ、事前の連絡もなしに部屋に押し入ってきた仮面の男に対して、いろいろと思うところはあったが、それよりも魔王の名を聞いた赤髪の少女の反応の方が気になった。
エトランゼ・リア。
この世界におけるタブー。常識的な感性を持つ人間なら、口にすることを躊躇う忌み名。
その名で呼ばれて、彼女はどのような言葉を返すのか。
「あ、人違いです」
あっけらかんと、少女は言い切った。
同時に、ぺしーん、と間の抜けた音と共に、仮面の男の手のひらを軽くはらった。
「あなたがわたしのことをどう思っているかは知りませんが、勝手にわたしの名前を決めつけて呼ばないでください」
シナヤは思わず、目を丸くした。
声音には、目には見えない圧力が存在する。
仮面の男が紡ぐ言葉は、穏やかな思いやりに満ちていた。しかし同時に、この場にいる全員が押し黙り、聞き入るたしかな圧力を伴っていた。シナヤもルーシェも、タウラスでさえも、例外ではない。
それを、はねのけてみせた。
囚われの身のくせに、遠慮なしに出された食事をばくばくと食い荒らすあたり、随分と神経の太い少女だとは思っていたが。彼女の言葉には、固く張り詰めた空気を一瞬で解きほぐすような大らかさと、自分の意志をはっきりと主張する芯の強さが備わっていた。
揺るがず、気圧されず、ブレない。
紛れもない、王の資質。
「──タウラスさん。デザートのおかわりをください」
そして、底無しの食い意地。
シナヤは思った。
この子、見た目が可愛いだけで、ただの無神経な大食いなんじゃないか、と。
◆
タウラス・フェンフは、魔王の最も気高き十二の使徒の一柱。第五の雄牛である。
その位階だけで言えば、タウラスはジェミニよりも高い最上級悪魔だ。
魔王軍全盛の時代の前から、より正確に言えば彼女が魔王と呼ばれるその以前からタウラスは彼女に仕えていた。しかし、リリアミラ・ギルデンスターンをはじめとする四天王や、他の最上級悪魔たちから、信頼されていたかといえば決してそうではない。むしろその逆。幹部の中にはタウラスを軽んじるどころか、そもそも彼の存在を知らない者までいた。
タウラス・フェンフは、平穏を望む悪魔だったからである。
「魔王様。吾輩は悪魔に向いていないみたいなのである」
それを告げた瞬間に、あの主の美しい顔が満面の笑みに歪み、しばらく戻らなかったのを、タウラスは今でもよく覚えている。
「タウラス、あなた最高よ! 最高におもしろいわ!」
「そうであるか?」
「ええ! だってわたし、自分の欲望がそこまで薄い悪魔なんて、見たことも聞いたこともないもの!」
「失礼ながら、魔王様。吾輩は今、あなたの前で呼吸し、あなたにどのように意見を伝えるか思考し、あなたの前で頭を垂れて、今ここに存在しているのである。吾輩の存在を、紛れもない事実として、あなたの瞳と記憶に、刻んでいただきたく……」
「うん、うん! そうね、タウラス。ごめんなさい。たしかにあなたは、存在しているわ。わたしの目の前に、争いを望まない悪魔として存在している」
だから、と。魔の王は、タウラスの顎に指先を触れて告げた。
「あなたの存在が、わたしは堪らなくおもしろいの」
触れる、ということは、ほとんどの魔法に共通する、行使の準備段階。言い換えてしまえば「お前に触れているわたしは、お前をいつでも殺すことができるのだ」という、一つの意思表示に他ならない。
「あなたは、悪魔失格ね」
しかしタウラスは、その指先の冷たさに恐怖することも、唇にかかる吐息の熱さに溺れることもなく、ただ顔を上げて毅然と答えた。
「恐縮である。魔王様」
たった一言。命乞いですらない、そのつまらないことこの上ない返答を聞いて、魔の王がますます喜んだのは、言うまでもない。
タウラス・フェンフという悪魔は、魔王軍において決して重用されることはなかった。魔王が己に最も近しい十二の使徒を、表立って幹部として重用しなかったように……否、それらの特別な事情を差し引いてなお、最もつまらない閑職にタウラスは追いやられた。あまり発展してない、戦略的な重要性も一切ない、地方の領主として振る舞うという、悪魔にとっては地獄のような日々。
しかしそれが、タウラスという悪魔の魂に平穏をもたらすことを、魔王は見抜いていた。
領主として民衆と交流し、地方独自の文化の発展に尽力し、時には自ら作物や名産品を売り、いつの間にか本来の主である魔王は勇者に倒され……気がつけばタウラスは一地方の領主として相応の力と地位を持つようになり、耳障りの良い人間の言葉に乗せられ、そのまま流されるように王都に進出した。
そして、平穏を望む悪魔は人間の悪意に利用されるだけ利用され、あっさりと地位を失い、都での生活から追い落とされた。賢者とその周辺の政争にいつの間にやら巻き込まれ、もしかしたらちょっと主の敵が討てるんじゃないかな?という愚かな勘違いをして、気がついた時には最悪の形ですべてが終わっていた。
結果は追放である。雄牛の悪魔は人の中に紛れた平穏な生活を試みたが、失敗した。
タウラスは、権力が欲しかったわけではない。特別な地位が欲しかったわけでもない。
朝は、コーヒーの香りを楽しみながら、庭を訪れる小鳥の囀りに耳を傾ける。
昼は、草花を愛でながら、飼い猫の背中を撫でて、共に欠伸を漏らす。
夜は、空の中で輝く月に思いを馳せながら、ランプの光の下で読書に耽る。
そういう、人並みな生活がしたかっただけ。
しかし、叶わなかった。タウラスには地方を治める程度の器はあっても、人の悪意の中で逆に人を操り、人を利用するだけの知略や野望を、持ち合わせていなかった。
だから、もうやめようと思ったのだ。大きな街と交流がない隠れ村に受け入れてもらい、そういった村々を転々としながら、平穏な暮らしを享受しよう、と。
◆
「そう思っていたのに……世界を救った勇者どもがこんなところまで来てしまった。まったくもって、頭が痛いのである」
「そのわりには、わりと楽しそうに料理作ってなかった?」
忌々しそうに吐き捨てたタウラスに向けて、シナヤは軽い口調でそう言った。
魔王の少女とシャナは、すでに牢に戻している。今、部屋の中にいるのはシナヤとルーシェ、それにタウラスだけだ。
「つくったものを美味しそうに食べてもらえるのは、幸せなことであろう?」
「タウラスお前……つくづく良いヤツだな」
「うむ。吾輩、尽くすタイプである故」
可愛らしい少女がそれを言うなら可愛げがあったが、ちょび髭に筋骨隆々の大男がそんなセリフを吐くと、違和感がものすごい。
「それで、お前から見て彼女はどうなんだ?」
「まず間違いなくアタリである。ジェミニとギルデンスターンが好き勝手していたのも、頷けるのである」
「あの子は、魔王の魔法を使える、と?」
「雷撃魔術を扱えるのは、トリンキュロが確認済み。ならば、器は順調に育っていると見て、問題なさそうなのである」
「なるほどね」
タウラスは、心底呆れを滲ませた声で呟いた。
「シナヤ、ルーシェ。聞いているのであるか?」
「ああ、聞いてる。聞いてるよ、タウラス」
「あんまりそういう小言ばっかり言ってると、ハゲるよタウラス」
「吾輩はハゲてないのである。まったくお前たちは……」
タウラスの視線の先で、シナヤとルーシェは軽いスキンシップを取っていた。
この二人が目の前でイチャつくことには、もう慣れた。いや、本当は慣れていけない気がするのだが、愛を育むこともまた、自分が望むような人間の平穏の一つの形であると、タウラスは理解している。なので、二人の甘い時間を咎める気はなかった。
とはいえ、勝手も過ぎれば限度がある。
「お前たちの生命を吾輩の魔法で約束する代わりに、お前たちはこの村での平穏な暮らしを、吾輩に約束する。そういう契約であろう? 勇者たちをこの村に呼び込むのは、明らかに契約に抵触しているのである」
「もちろんわかっているさ」
ただ、と。言葉を繋げたシナヤはそこでようやくルーシェといちゃつくのをやめて、最上級悪魔に向き直った。
「元々、厄介事をこっちに持ち込んできたのは、あの仮面野郎だ。オレたちはお前との契約を反故にする気はない。契約を結んだパートナーとして、それだけは明確にしておきたいし、理解もしてほしい」
「もちろんわかっているのである」
タウラスは鷹揚に頷いた。
「ヤツは、とびっきりのトラブルメーカーである故。吾輩もあまり好きではないのである」
「ああ、わかるよ。ただ、アイツの力を借りなきゃ解決できない問題もある」
シナヤは、悪魔の手を取った。
「タウラス。オレたちは、本物になりたいんだ」
「本物、であるか?」
「そう。本物だ」
言葉巧みに人間を操り、陥れて契約を結ぶのが悪魔である。しかし、現在のタウラスは逆。
人間の言葉に対して、真摯に耳を傾ける。
「どこまでいっても、オレたちは魔法によって生み出された存在。オレたちの命は、魔法から生まれたものでしかない。事実、今もお前の魔法で、オレたちは命を繋いでいる。感謝しているよ」
シナヤの言葉に、タウラスは歯を見せて笑った。
「感謝の気持ちは有り難く頂戴するのである。しかし、吾輩にとってもお前たちとの契約は、利益があってのこと。過剰な感謝は不要である」
「それでも、感謝は言葉にしないと届かないものだろ。何度も繰り返し伝えたいんだよ」
「そういうものなのであるか?」
「うん。そういうものなの」
二人が立ち上がって、タウラスの肩を軽く叩く。
タウラスのちょびひげを、ルーシェがつっついた。
少し、くすぐったかったが、悪い気はしない。
「ありがとう、なのである」
「こちらこそ」
シナヤは、今度はタウラスの肩に手を置いた。
「だからこそ、オレたちは本物になりたいんだ。お前の魔法に頼らずに、平穏な生活を過ごすことができる、本物になりたい」
「それは、吾輩の存在が不要になる……ということではないのであるか?」
「いいや、違う」
会話を始めてから、はじめての明確な否定だった。
タウラスは、あまり否定されることを好まない。何かを否定することは、常に他者を脅かすことと繋がっているからだ。
しかし、シナヤは少なくとも自分にとって真摯な契約者である。語る口調には、穏やかさがあった。
「たとえこの利害関係が終わっても、オレはお前にこの村にいてほしいと思っているよ。それが、お前にとっての幸せなら、だけど」
「幸せ、であるか」
幸福とは、積み上げていくものだ。
しかし、せっかく積み上げた幸福が崩れてしまっては、意味がない。土台が揺らぐ不安定な生活を、人は幸せとは呼ばない。
積み上げた幸福は、維持されなければならない。
「……うむ。そうであるな」
タウラス・フェンフの悪魔法『
「吾輩も、お前たちとこのまま暮らせたら幸せなのである」
つまりタウラスは、シナヤとルーシェの命を、今この瞬間も握り続けている。
だからこそ、信頼できる。
だからこそ、居場所がある。
タウラスと、シナヤたちの関係は、そういった利害関係の上に維持されたものだった。
「ところでタウラス」
「む。吾輩にまだ何か用であるか?」
「用というか疑問なんだけど……勇者パーティーについて、なんだけどな。彼らは、お前の同胞であるジェミニやサジタリウスをすでに殺してる。だから、魔王の復活とか敵討ちとか、そういうことに興味はないのかなって。少し気になった」
もちろん、答えたくなかったら答えなくても良い、と。
シナヤは契約を結んだ悪魔に対する気遣いを見せながら、そう質問を締め括った。
ふむ、と。タウラスは自慢のひげを軽く撫でた。タウラスはべつに、シナヤとルーシェが好きでも嫌いでもない。ただ、二人で幸せを求めるその姿勢に感じ入るところがないといえば嘘になるし、シナヤとルーシェが互いを尊重し合い、愛しあう様は尊いものだという理解はあった。なにより、ルーシェに対するそれとは比べるべくもないが、人間であるシナヤが悪魔である自分に対して向けてくれる気遣いは、好ましいものであるとは思う。そう、一人の悪魔として、だ。
なので、タウラスは契約者の質問に応じた。
「まあ、賢者に復讐しよう、とか。蘇った魔王様に尽くしてみてもいいかな、とか。ちょっと考えなかったわけではないのである」
「うんうん」
「でも実際は、賢者は吾輩のことを覚えてないとか言うし、魔王さまもなんだか別人みたいだったのである」
「ああ……」
たしかに軽んじられていたよなぁ、と。
シナヤは同情の目で、哀れな最上級悪魔を見た。
「吾輩は、魔王様を敬愛していたのである。ジェミニも、吾輩を見下して小馬鹿にするようなところはあったが……魔王様ともう一度会いたい、という気持ちは理解できるし、なによりその高い忠誠心は、吾輩にはないもの。同じ悪魔として、十二の使徒の一人として、心から尊敬しているのである」
「なるほど」
「しかし、そこで吾輩は逆に疑問に思ったのである」
質問に質問で返すのは、礼を失した行いだ。そう思いつつも、悪魔は聞き返さずにはいられなかった。
「どうして吾輩が現在の生活を捨ててまで、あの二人に報いる必要があるのであるか?」
それは、心の底から溢れ出た、純粋な疑問。未知であるが故の不思議。
「……うん。そうだな。その通りだよ、タウラス」
「つまらないことを聞いてごめんね」
「いや、良いのである。お前たちは、吾輩を理解してくれる数少ない同志であるから故」
繰り返し頷いて、タウラスは部屋を出ていった。
悪魔の背中を見送って、シナヤとルーシェは息を吐く。
「どう思う? ルーシェ」
「うん。こわいよ。悪魔よりも悪魔らしいなって」
シナヤの肩に、ルーシェは頭を載せた。
「契約したタウラスの魔法に頼っている限り……私達に平穏はないと思う」
悪魔との取引は、常に命懸けだ。
今回の登場魔法
『
第五の雄牛、タウラス・フェンフの悪魔法。自分自身と触れたものの状態を『維持』する魔法効果を持つ。腐らない肉を作ったり、冷めないスープを作ったりできる。タウラスの店の商品がずっとピカピカのままなのは、この魔法で状態を維持しているため。やってることが、まあまあすごい。
戦闘面においては、魔術による筋力強化のブーストを『維持』することによって、高い身体能力を常にキープしている。瞬間的なバフを永続にする感じ。魔力による身体強化は人間にとっても戦闘の基礎だが、魔力の量も、強化する肉体も、本来は永遠に続くものではない。最上級悪魔であるタウラスは、自身の魔法によってその常識を塗り替えている。
契約者であるシナヤとルーシェに対しては、時間切れで消えつつあった二人の体を『維持』することで、その命を繋いでいる。最上級悪魔との契約は、その悪魔が持つ魔法効果の一部を借り受けることが可能。悪魔同士ではあるが、前章では条件付きでサジタリウスが似たようなことを行っていた。