声が、聞こえた気がした。
歩みが止まり、体が固まる。
タウラスは、頬を一筋の冷や汗が流れたことを自覚した。
それは、絶対に犯してはならない禁忌を破ってしまったかのような、悪寒。まるで、かの魔王の逆鱗に触れてしまったかのような。
タウラスは、意を決して背後を振り返った。
特に、異常は見受けられない。賢者も、赤髪の少女も、倒れたままだ。ほっとして、タウラスは軽く息を吐いた。
食事に混ぜ込んだ毒薬に対して、解毒薬はその致死性を打ち消す程度に調合してある。効きも早い。しかし、一気に複数を服用しない限り、すぐに立ち上がれるほどの劇的な回復は望めない。
あの声と不気味な圧力は、ただの幻聴だったらしい。ならば、あとは……
「は?」
タウラスは、喉から間抜けな声が漏れたことを自覚した。
赤髪の少女が、うめき声の一つもあげず、上体を起こした。
これはいい。あまりにも早い回復だったが、まだわかる。
赤髪の少女が、這うような動きで、倒れたままの賢者に近づいた。
これもいい。仲間を心配する気持ちは、まだ理解できる。
そして、赤髪の少女は、自分よりも華奢な賢者の体を抱き起こし……貪るように口づけをした。
タウラスは、困惑する。
これは、なんだ?
「なにを……!?」
しているのか、と。
そう問いかけようとしたタウラスの口を、少女は視線だけで黙らせた。
乱れた前髪の間から覗く、赤い瞳。それに睨み据えられただけで、悪魔は蛇に睨まれた蛙のように、動けなくなってしまった。
艷やかに、喉の鳴る音がした。
ぎゅっと。賢者の背中を抱く少女の手に、力が籠もる。手のひらが銀髪を鷲掴みにして、支える。
五秒。十秒。十五秒。長い長い、キスが続いて。
およそ、体感で二十秒。それだけの時間を費やして、ようやく少女は事切れたように倒れた。
「……な、なんのつもりで」
魔王の器である少女は、賢者に口づけをしたのか?
その答えは、悪魔の視線の先にあった。
◆
シャナの最も古い記憶。
心の奥底でこびりついたまま剥がれない、小さな思い出。
シャナが最初に増やしたものは、一個のパンだった。
かちこちの、かたくてまずいパン。けれど、食べなければ命を繋げない、大切なパン。
「これを増やせ。シャナ。できたはずだ。もう一度やれ」
村長は、シャナの魔法の性能を、徹底的に調べ上げた。
魔法は、心の力。ルールに縛られない、超常の力。
けれども、魔法には『できること』と『できないこと』がある。
シャナの魔法は、ものを増やす。触れたものを、増殖させる。その基本的な特性と秘められた可能性を、エルフの長は調べ尽くした。半ば拷問に近い形で、まだ年端もいかない少女に対して、魔法の理解を強要した。
増やしたものの、状態は?
増やせるものの、制限は?
生物は増やせるのか? 増やしたものは加工できるのか? 同一のものはなぜ百までしか増やせないのか?
調べ、実験を重ね、実際に魔法の運用で利益を得る中で、エルフの長は確信した。
この魔法があれば、世界を獲れる。
同時に、幼いシャナは疑問を抱いた。
魔法は、心の力。胸の内に宿る、唯一無二の力。
望んだものを、かたちにする力。だから、自然と考えるようになった。
自分の望みは、なんだろう?
ぴかぴかの金塊を、たくさん増やすこと?
ぎらぎらした弓矢を、たくさんつくること?
誰かが長い時間をかけて作った唯一無二の杖を、価値のない量産品に変えてしまうこと?
この魔法は、なんのために?
それらの答えが出る前に、シャナの疑問は村長たちの教育によって塗り潰されていった。
ものを増やす道具に、感情は必要ない。道具は、壊れなければそれでいい。
自分自身を増やせるようになった時点で、シャナの価値は軽くなった。異なる成長過程を試す実験として、数人のシャナは最低限の雑用を任せられるようになった。
地下から解放されて、当たり前に出られるようになった、外の世界。
眩い太陽の光。果てしない青い空。光を浴びる、深緑の木々。
見上げれば、輝くもので溢れる世界の中で。
ふと。
足元に目を落としたシャナは、それを見つけた。
◆
「ごほっ……げほっ……ふぅ。おはようございます。タウラス」
シャナ・グランプレが、起き上がる。
タウラスはたじろいだ。明確に、一歩後退した。
それは、シャナの声の圧力に屈したわけでも、視線の鋭さに恐れたわけではない。
シャナ・グランプレの、白の魔法が……『
「あ、ありえないのである……」
「ありえない? 違いますよ、タウラス。ありえないことを、有り得る形にするのが、魔法です」
んべぇ、と。子どもが挑発するように。赤い舌を出したシャナの口元から、ばらばらと。
魔法を発動させるための条件は、身体的接触。
少女は、口の中に捻じ込まれた丸薬が、溶け切る前に。意識を失ったシャナの口をキスで強引にこじ開け、舌先の丸薬を捻じ込み返した。
彼女は、命を預けたのだ。
シャナが、この土壇場で自分の魔法を取り戻すことを。二人が助かるために、薬を増やしてくれることを信じて。
「まったく……自分の舌で魔法を発動させたのは、はじめての経験ですよ」
咳き込みながらも、口元には笑みすら浮かべて。
「本当に、とんだ傍若無人大魔王です。どうしてくれるんですか。私のファーストキスを」
それでも、シャナの心の中には、深い感謝の念があった。
自分の魔法は、自然の摂理に反している。
剣を増やしてはいけない。剣は刀鍛冶が長い時間を費やして打ち鍛えるものだから。
金塊を増やしてはいけない。金はその貴重性があってこそ、人々の間で価値が生まれるものだから。
人を増やしてはいけない。人間は一人一人、それぞれが違う存在なのだから。
シャナ・グランプレの『
けれど、それでいい。
時に危うく、時に歪み、強く何かを欲するのが、人の心だから。
食いしん坊の強欲少女が、それを思い出させてくれた。
自分が魔法でパンを増やしたのは、飢えて死ぬ人が減ってほしいと思ったから。
自分が何かを増やすことで、誰かの不幸が減ればいいと、そう思ったからだ。
「あなたは選べ、と言いましたね? タウラス」
立ち上がった賢者は、悪魔を見据えて告げる。
自分よりも遥かに高い、その巨躯を見上げて。
己の幸せを維持することしか頭にない、愚かな悪魔をなによりも見下しながら。
「私は選びましたよ。私の心が欲するままに。でも、あなたは結局、何も選んでいない。選ぶ勇気すら持てないから、自分以外の誰かに寄生して、その幸せを啜っているだけでしょう?」
賢者の言葉が、視線が、笑う口元が。
最上級悪魔を、ただただ煽る。
ぎしり、と。
歯を食いしばる音と、拳を握り締める音がした。
「……魔法を取り戻しただけで、随分とご機嫌であるなぁ? 貴様は未だに牢の中。杖もなく、魔術も使えない。吾輩の予想を一つ覆したところで、状況が好転したわけではないのである」
「ええ。まぁ、それはそうですね」
悪魔の指摘を認めて、シャナは檻越しにタウラスの背後を指差した。
「ただ、あなたは私が呑気に会話を回して、時間を稼いだことの意味をもう少し考えるべきでしたね」
扉が蹴破られた。
石畳の床を踏みしめる、硬い音が響いた。
タウラスは、絶句する。大剣の刀身に映り込む、自分自身の怯えた顔を、凝視する。
全身武装に身を固めた鎧の姫騎士は、表情の見えない兜の下から、悪魔を見据えて呟いた。
「最上級、みーつけた」
「ひっ……!」
直後、躊躇なく放たれた炎の渦がタウラスを呑み込み、部屋の半分を消し炭に変えて吹き飛ばした。
「うわっ!? あっつ!?」
「ごめーん。シャナ」
兜の前面のフェイスガードを跳ね上げて、アリアはにっと笑った。
「大丈夫? 生きてる?」
「ええ。生きてますよ。ちょっと死にかけましたけどね」
アリアは鬱憤を晴らすように暴れ回っていたが、シャナの杖と手枷の鍵はしっかり回収してくれていた。相変わらずパーティーの前衛を張る姫騎士はバーサーカーなようでいて、そういうところは抜け目ない。
解毒薬を多めに摂取したとはいえ、毒を体の中に入れてしまった事実に変わりはない。シャナは自分の体に簡単な回復魔術をかけた後、赤髪の少女の体を念入りにチェックしにかかった。
「毒も喰らわばなんとやらですね。丈夫な体でなによりですよ。少し休めば、動けるようになるでしょう」
「……」
「いや、なんですかその目は。睨んでるつもりですか?」
むっすぅ、と。
赤髪の少女は機嫌の悪い赤い瞳を、シャナに向けていた。
「せっかく助かったのに、あなたはなんでそんなに機嫌が悪そうなんですか?」
「賢者さんが、自分を犠牲にしてでも私を助けようとしたからです」
「はぁ……結局あなたのアホな行動で助かったんだから、べつにいいでしょう」
「よくないです! 賢者さん、ちょっとそういうところありますよ!? 自分だけはどうなってもいいとか、自分は死んでも構わない、みたいな。よくないです! そういうの!」
「うるさいですね……私は魔法でいくらでも増えるんだから」
「増えても増えなくてもだめなんです!」
言い訳をばっさりと切られて、シャナはぐっと押し黙った。
いつもニコニコと穏やかなくせに、この少女はこういう時だけは頑固になる。
「そもそも! 私に薬を増やさせるなら、あんな方法じゃなくてもよかったのでは!?」
「あんな方法? なに? 赤髪ちゃん、なにやったの?」
周囲を警戒していたアリアが、振り向いて首を傾げる。
またもやシャナは押し黙った。
キスをした、と。そう言うのは簡単だが、あまり言いたくない。
というか。
シンプルに、とても恥ずかしい。
「でも、上手くいったじゃないですか!? 私がちゅーしなかったら、魔法取り戻せなかったんじゃないんですか!?」
「へ? ちゅー?」
「ちゅーとか言うなっ! キスとか口づけとか他の表現が……ああもう、そういうことじゃなくて」
顔を赤らめ、頭を抱えるシャナとはどこまでも対照的に。
にっこぉ、と。
朗らかさの中に腹黒いものを宿して、シャナのファーストキスを奪った魔王は、薄く微笑む。
「いやですよね? 最初で最後のキスがわたしだなんて。あのまま死んじゃったら、死霊術師さんの魔法がなくても、賢者さんは未練で化けて出てきそうですもんね?」
「な、なな……あ、あなたは……」
「だから、しました。魔法、取り戻せました。二人とも、助かりました。だから、わたしの判断は間違ってません」
とんでもない暴論を展開しながら、得意気な表情と言葉が止まらない。
ああ、やっぱりこの子は魔王だ。
シャナは、赤い顔を隠すためにフードを目深に被り直して、震えた。
「そもそも、弱気になった賢者さんなんて、見てられないんですよ! そんな賢者さんなら、もう賢者さんって呼んでもあげません! 賢者さんなんてもう、シャナちゃんです! シャナちゃん!」
「……うっせぇですね」
「そうそれ! その口の悪さが賢者さんです!」
「う、うざ……」
「うざくないです! やさしいとかあったかいとか言ってくださいっ!」
「結構です。私はべつにそういうやさしさとかあたたかさを欲してるわけじゃないので」
「……ほんと素直じゃない」
「は?」
「あ、なんでもないです」
「今、素直じゃないって言いました? おい、言ったよな? こっち見ろ」
「い、言ってないです! そんなことないです!」
「ぜってぇ言いましたよね!? 大体、あなたさっき、私のこと毒舌だのなんだのとほざいてましたけど、あなただって口悪いですからね!? ナチュラルに失礼なんですよ!」
「そ、そんなことないですから!」
「はっ! そんな風にかわいこぶっていても、いつか勇者さんにボロが出ますからね!」
「んなっ……ボロがでるってなんですかボロが出るって!? わたしがそんな普段から猫被ってるみたいに!」
「被ってるでしょうがっ! なんでもかんでも楽しそうに! ご飯は美味しそうに食べて! はい自分は純粋ですかわいいです〜みたいな顔して歩いてるでしょうが!」
「ご飯を美味しく食べるのはべつにいいでしょう!? 賢者さんがすましたかっこつけキャラ演じてるからって、わたしに当たらないでください!」
ちゅーをした、とか。
魔法を取り戻した、とか。
いろいろと気になることはあったが、すっかり蚊帳の外になってしまったアリアは、ぎゃーぎゃーと言い合いをはじめた二人を見て、小さく笑った。
「仲良くなった……で、いいのかなぁ? これは」