それは、昔の話である。
まだ、世界最高の賢者が、魔術を磨き終えていなかった頃。
シャナが一般的な教養の履修を終え、いよいよ本格的な魔術の学習に入り、増殖の魔法による多人数での学習にも慣れてきた頃のことだった。
「ふっざけるなよぉおお!」
シャナの師匠は、キレていた。
大賢者、ハーミット・パック・ハーミアは、怒っていた。
もっと有り体に言ってしまえば、それはもうブチギレていた。
「アタシは! かわいいかわいいお前のために! 半年で魔術のすべてを会得できる完璧なカリキュラムを用意した! 百人で学習する前提の完璧な教育課程をっ! あと少し! あと少しで仕上げに掛かれるのに!」
トレードマークである魔女帽すら投げ捨てて、ハーミアは叫んだ。
「なんで一人足りないんだぁあああああ!?」
絶叫であった。あまりにもうるさい声に、シャナは顔をしかめた。
怒りの理由は、ハーミアが口にした通り。
百人いるはずのシャナが、一人足りない。それだけの理由であった。
最初は、誤魔化せると思っていた。しかし、恩師の観察の目を欺くことはできなかった。
簡潔に、シャナは事情を説明した。
昔、勇者が自分を助けてくれたこと。
その時はまだ満足に魔法のコントロールができず、自分が何人に増えたかすらわからなかったこと。
そして、おそらく生き残った自分が、どこかで生きていること。
師の声が大きいのには慣れてきたので、シャナは素直に頭を下げて、重ねて謝罪した。
「ごめんなさい」
「なぜ言わなかった!? 黙っていた!?」
「怒られると思って」
「当たり前だぁ! この馬鹿弟子がぁっ!」
シャナを馬鹿と罵る権利を持っているのはこの馬鹿師匠だけだったので、シャナはその罵倒を甘んじて受け入れていた。
いた。
「まったく! どうしてくれるんだ!? このアタシの完璧なカリキュラムを組み直さなきゃならん! くそぉっ! キリキリ学べよ、お前たち! たかが一人! されど一人だ! 抜けた穴は大きいぞ!」
頭を下げているシャナ以外。
黙々と机に向かっているその他九十八人のシャナに向けて、ハーミアは声を張り上げた。
「あの、先生」
「なんだぁ、馬鹿弟子ぃ!? 言わなくてもわかると思うが、お前の隠し事のせいでアタシはすこぶる機嫌が悪いぞ。質問をするなら簡潔に要点をまとめた上で答えろ!」
「その……怒らないんですか?」
ぶっちん、と。
シャナは生まれてはじめて、人間の血管が物理的にキレる音を聞いた気がした。
「あぁ!? 怒っているだろうが! 現在進行形でっ! 怒鳴り散らかしてるだろうが! これがキレてないっていうなら、何をすればキレていることになるんだ!? アレか!? グーで手でも出してやればいいのか!?」
「でも先生、どんなに怒っても私のこと絶対殴りませんよね?」
「あったりまえだぁ! このボケナスぅ! 生徒に手を出す教師がどこの世界にいるってんだ!? 感情に身を任せた暴力は人間の理性から最も遠い、品性に欠けた行為だろうが! お前はいい加減その理不尽な暴力に慣れきった奴隷っぽい境遇の自己申告をやめろ! 幸の薄さがこっちまで移ってきそうで背中が痒くなるんだよ! そんなくだらん価値観は、さっさと忘れて捨てて改めろっ!」
ハーミアの指導はひたすらに厳しく、一切の甘えを許さないものだったが、それでも彼女は戦闘を交えた魔術の訓練を除いて、決してシャナに手をあげることはなかった。
だから、どんなに怒鳴られようと、どやされようと、物怖じせずに真っ直ぐに相手の瞳を見詰めることができる癖がついたのかもしれない。
「もう一つ質問です」
「おぉい!? どんだけ図々しいんだお前は!? アタシは今、結構キレているぞ!? 本当にしばき倒すぞ!?」
「どうして先生は、ここにいない私を探そうとしないんですか?」
「……」
ぴたり、と。
烈火のようだったハーミアの怒声が、質問一つであっさりと止まった。
「効率を何よりも重視する先生なら、ここにいない私を探し出して、連れ戻して……消して同化して。完璧な形で、百人で学習させようとするんじゃないですか?」
質問は疑問形ではあったが、シャナはそれを確信をもって聞いていた。
なんてことはない。
そうした方が、ハーミアらしい、と。
そう考えられる程度には、シャナも自分を導く師のことを、知るようになったからだった。
「はあ? ふざけんな。どうしてアタシがお前のためにそんな手間暇を割かなきゃならないんだ」
「今もこうして、先生が私のために手間暇を割いて魔術を教えてくれているからですよ」
即答すると、ハーミアは不機嫌な表情をますます歪めた。
「……無駄に賢くなったな、お前」
「先生は、賢い弟子の方がお好きでしょう?」
「……かわいくねぇ教え子だなっ! くそがっ!」
学習活動と平行して、シャナは『
「……まあ、いいか。ちょっと全員、着いてこい」
あれほど効率と時間を重視する師が、この日だけはシャナ達を全員を連れ出した。
まるで呼吸をするように、高位の空間魔術で、ハーミアは九十九人のシャナを全員移動させた。
「先生。この転移魔術もあとで教えてください」
「まだ早い。もう少ししたらな」
杖の一振りで百人を一気に移動させる師の魔術に、改めて感動して。
そのせいで、九十九人いるはずのシャナは誰一人として、困ったように笑うハーミアの表情がいつもとは違うことに気づけなかった。
「……きれいな場所ですね」
転移した場所は、庭園だった。いくつもの花が植えられ、手入れも几帳面に行き届いている。中央には、数え切れない小さな石がいくつも並んでおり、それらすべてに花が添えられていた。
「へえ。ずぼらな先生にしては、管理が行き届いてますね。でもこの石、なんでこんなに並んでいるんですか?」
「見てわからないか?」
「わかりませんよ。同じような花ばかり並んでいますし」
「……そうだな。そうかもしれないな」
要領を得ない答えだった。
「らしくないですね、先生。一体、私に何を見せたかったんですか?」
「お前の墓」
「……は?」
簡潔な答えに、九十九人全員が、揃って固まった。
「だから、お前の墓だよ、これは。自我の喪失に耐えきれずに消えてったやつを、一人ずつ弔ってるんだ。まあ、アタシのただの自己満足なんだけどな」
自分の墓、と言われても。
シャナの中には、その実感がまるで沸かなかった。
「お前はさっき、供えられている花を同じと言ったが……ここには、同じ花なんてないんだ。花弁の色も、茎の長さも、葉の付き方も。すべてちがう」
飄飄と指導しながら。
淡々と分析しながら。
「ないんだよ。シャナ。そんなものは、ないんだ」
擦り減っていたのは、シャナの精神だけではなかった。
シャナという特殊な魔導師を指導するハーミアの心も、少しずつ摩耗していた。
「アタシは教師だ。質問には答える義務がある。さっきの質問に、答えようか」
シャナには名前もわからない。すぐそばに咲いていた花を一輪取って、ハーミアは言葉を紡いだ。
「魔導師にならないお前がいても、良いと思った。ここではない場所で、呑気に笑ってるお前がいるなら、見てみたいと思った。アタシに出会わなかったお前に、生きていてほしいと……ちょっとだけ、そう思った。これが、答えだ」
「でも先生、それは……」
「あー、わかってる。わかってるよ。アタシは、お前が目指しているものを否定する気は毛頭ない。アタシのやり方が、間違ってるとも思わない。お前がこの短期間で魔術を極めて、本気で世界を救おうとしているあのバカボウズの力になるためには、この方法しかなかった。勇者のために、魔術の道に進むお前を、これからも全力で指導してやるさ。理由や動機なんてもんは、どうだっていいんだ」
やはりシャナの頭の上に手を置いて、ハーミアは笑った。
「アタシは、お前がアタシを超える魔導師になると、確信している」
それはきっと、一人の賢者として自分に向き合ってくれているハーミット・パック・ハーミアの言葉であり、
「でもなぁ、理屈じゃないんだ。犠牲になったお前をアタシは知っているから。だから、どこかで生きてるお前がいるなら、やっぱり嬉しい」
それもきっと、一人の師匠として自分に向き合ってくれているハーミット・パック・ハーミアの言葉だった。
「笑ってくれていいぞ。いっそ、バカにしてくれて構わない。アタシがやってることは、完璧に矛盾してるからな」
「……バカにするわけ、ないじゃないですか。先生をバカにする権利なんて、誰にもありません」
「そうだなぁ。アタシは最高に天才だからな」
取り出したキセルから、煙が漏れる。
「シャナ。お前の指導は、もうすぐ終わる」
「はい」
「お前のその魔法と、最強のアタシが教えた魔術があれば、魔王だって倒せる。アタシは毛ほども興味はないが、こんな世界でも本気で救いたいっていうなら、存分に救ってこい」
「……はい」
「相変わらずちいせぇ返事だな。やれやれ」
横目で笑うハーミアの髪が、風を受けて揺れる。
「お前に教えられることは大体教えたつもりだが、最後に一つだけ。課題を出す」
「課題?」
「いつか、お前の目の前に。どこかで生きてる、お前とは違う人生を歩んできたお前が現れたとき……もしかしたら、辛いかもしれない。受け入れられないかもしれない。認められないかもしれない」
否定し、否定し、否定して。
けれどその上で、
「でも、逃げるな」
ふっと吐き出した煙が、円を描く。
「そのときが、お前が本当の意味で魔法に向き合う瞬間。自分の心の在り方を問われる、最後の試練だ」
◇
本当に、そのときが来てしまいましたよ。先生。
シャナ・グランプレは、心の中で静かに呟いた。
ルーシェ・リシャルは、一人きりでシャナを待っていた。
まるで、こうして決着をつけることを、最初から望んでいたかのように。
「一人でいいんですか? ルーシェ」
「問題ないよ。シャナ」
交戦の開始に、合図はなかった。
会話すらなく、殺意に満ちた魔術の撃ち合いがはじまった。
杖を振るう。
炎の矢が、水の壁に阻まれる。岩の砲弾が、吹き荒ぶ風によって逸らされる。
撃ち合いながら、シャナは考える。
自分とルーシェの、最大の違いは何か?
私は、彼を愛している。
彼女は、彼を愛している。
文字にしてみれば、たったそれだけのこと。
「なかなか、やりますね」
「あなたこそ。病み上がりなのに調子が良さそう」
だけど、それでも。
答えは、直接聞きたい。
さあ、問いを投げよう。
「ルーシェ」
「なに?」
「あなたには、好きな人がいますか?」
「うん。私は、シナヤが好き」
やさしい声音の、即答だった。
好きなもの。恋するもの。愛しているものが、異なるのであれば。
それはやはり、別人ということなのだろう。
「私も、勇者さんが好きです」
「そう。でも私の方が、シナヤのこと、大好きよ」
心なしか。
杖を握る力が、増した。
「……いいえ。私の勇者さんへの好きは、あなたの大好きを遥かに上回ります」
「じゃあ、私はシナヤのこと大大好きだから!」
加速する。
「好きの気持ちを大きさでしか比較できないんですか? かつての私とは思えないほど愚かですね」
「そもそも、あんな勇者の何がいいの!?」
「はあぁぁ!? めちゃくちゃいいですがぁ!? 勇者さんは基本的にめちゃくちゃ良い男ですがぁ!? あんな男に盲目になって正しい審美眼が腐ったんじゃあないですか!?」
「あんな男!? どこからどう見ても、シナヤの方がかっこいいんだけど!?」
「どぉこがかっこいいんですか!? 私の勇者さんの方がかっこいいに決まってるでしょう!」
「なら聞くけど、かっこいいってなに? 具体的にどこがどうかっこいいのかきちんと説明してくれる!? できないんじゃない? ていうか、純粋に顔の良さを言うならシナヤの方がかっこいいから!」
「それを言うなら、そもそも私たちと同じで、あの二人も同じ顔でしょうがっ!」
「ちがうちがう! 笑い方とか、髪型とかこう……とにかく雰囲気が違うの!」
加速する。
飛び交う魔術の苛烈さに比例して。
好きな男を語る舌戦が、加速する。
「それを言うなら勇者さんの方が圧倒的に勝っていますねぇ!? 勇者さんはムムさんのもとでずっと身体を鍛えてきましたから! 筋肉の付き方からしてそっちのシナヤさんとはものが違うんですよ!」
「外見でしか好きな男の魅力を語れないの? 世界を救った賢者サマのくせに、随分と貧相な褒め方しかできないのね」
「先に顔とか言い出したのはそっちでしょうが!? じゃあなんですか!? あなたはシナヤさんの顔がきらいなんですか!?」
「はぁぁぁぁ!? 好きですけど!? いくら眺めてても飽きないくらい、私はシナヤの顔大好きだけど!?」
「なら、私が勇者さんの身体が好きなことに文句付けられる筋合いはないでしょう!? そっちの彼氏の筋肉が貧相だからって、八つ当たりですか?」
「うっさいわね! どうせあなたは、ちゃんとしたキスもしたことないくせに!」
罵倒のスイッチが切り替わる。
より、強く。もっと鋭く。
あけっぴろげに。
赤裸々な形で。
ルーシェはシャナに対して、優位に立とうと、それを口走る。
「私はシナヤと──して、──されて、──しても平気だったもんっ!」
「ひゅぇ?」
あまりにも、あんまりな。
シャナの聡明極まりない脳が、理解を拒む。
それほどの、衝撃。言葉を噛み砕き、理解することを拒むほどの、インパクトワードの数々。
純白ではない。なにが白だ。むしろ、汚れまくっている。
ピンクである。それはもう、どぎついピンク色の告白だった。
「じゃあ、はっきり聞くけど! あなたは勇者と──したり、──やったり、──できるの!?」
「ひょっ……!?」
時がきた。
ハーミアの言葉通り。
シャナは、向き合わなければならない。
今回の登場人物
◯シャナ・グランプレ
わりと前にあとがきに書いた気がするが、Sに見せかけたМ。幼少期の境遇も相まって、本質的にはどこまでも受動的。手を引くより引かれたい。導くよりも導かれたい。
ある意味、そんなシャナに『学ぶ』という能動的意欲を与えたハーミア先生はやっぱりすごいと言える。
◯ルーシェ・リシャル
白じゃなくてピンクだった女。彼氏の性癖に染められるのが好き。
◯シナヤ・ライバック
間接的風評被害と暴露を喰らった男。えぐいらしい
◯勇者くん
コイツもヤバいかもしれない