飛べる、ということと、浮けるということは、明確に異なる。
勇者とシナヤが得たのは『
しかし、言ってしまえば、ただそれだけ。世界を救った勇者は、かつて己の武器として使い込んでいた魔法を一つ、魔王の呪いの裏をかくような裏技で、取り戻しただけに過ぎない。
(ま、まるで違うっ!?)
たったそれだけで、こんなにも。
「上にぶっとばす。合わせろ」
「了解」
こんなにも、戦い方が、変わる。
勇者とシナヤは、合図もサインもなしに、軽く言葉を交わしただけで同時に動いた。
タウラスの巨体に、勇者の拳が突き刺さり、打ち上げられる。魔法によって『浮遊』し、空中で待ち構えるシナヤが、合わせた両手をハンマーのように振り下ろす。
「ごあっ……!?」
タウラスの全身の燃焼は、未だに『維持』されている。炎の鎧があれば、あるいは勇者たちはこちらへの打撃を躊躇うのではないかと。そう思った。
意味がない。二人の勇者は、手が焼けるのも意に介さず、容赦なく拳を打ち込んでくる。
当たり前のようなその狂気に、タウラスは恐怖した。
「くそっ!」
それだけではない。
連携の密度が高い。まるで、共に長い間戦ってきたパーティーのように、二人の勇者の攻撃のタイミングは、ぴたりと合っている。
ある意味、当然だ。勇者とシナヤはかつての自分自身。息が合わないわけがない。
「この魔法、基本的には『浮く』だけか?」
「ああ。移動するための速力は『
「くそっ……」
呻きながら、タウラスは膝をついて頭上の勇者たちを見上げる。戦闘を重ねながら、魔法の性能を確認するその余裕に、唇を噛む。
シナヤにとって『
かつて自分が振るった魔法とはいえ、その扱いをこんなにも簡単に。
(落ち着くのである、吾輩。浮けるとはいっても、所詮は空中に足場が生えた程度のもの。自由自在に浮遊できるのも『
「いつまで地面で寝てるんだ、タウラス? 『
「へぇあ!?」
転移する。
地上にいたタウラスと、勇者の位置が、入れ替わる。地面で思考を巡らせていたタウラスを、空中という舞台に引きずりあげる。
転移したタウラスの胸板に触れて、シナヤが叫んだ。
「あっちぃな……
魔法が、かけられる。
しかし、触れられてしまったタウラスの巨体は、奇妙な浮遊感と共に、空中に浮かび上がる。
「っ……ふざけた真似を! このっ!」
「『
「あぁ!?」
今度は、シナヤと勇者が入れ替わり、打撃。
腹に下からの打撃を受けたタウラスは、さらに上空へと打ち飛ばされた。
止まらない。落ちない。その実感に、冷や汗だけが流れて、落ちる。
踏み留まろうにも、踏み締めるための地面がない。殴られた勢いが落ちても、体は重力に引かれて落ちることがない。それはまるで、水の中でもがくかのような、焦燥感。
(お、溺れる! 吾輩が、溺れる!?)
もがくタウラスに、追い込みをかけるように。
空中へ浮かび上がったいくつもの岩塊が、周囲を取り囲んだ。
「岩は俺の足場にする。こいつを地上におろすな。このまま空中で囲んで仕留める」
「了解」
勇者は、シナヤが浮かべた岩塊を足場に。
シナヤは『
一方的に、圧倒的に。
空中から逃れられないタウラスに対して、二人の勇者は連携して攻撃を浴びせかけ続ける。
(反撃! なんとか反撃ぉ!?)
無理だ。
足場のないタウラスは、もはやまともに拳を振るうことすらままならない。反撃の糸口を掴もうにも、勇者が差し込む『
(た、耐えろぉ……耐えるのである! 吾輩ィ! 『
タウラスは、殴られる。飛ばされる。転移させられ、また殴られ、飛ばされ、転移させられ。
蹂躙する側から、蹂躙される側へ。本来、一方的に人間を屠る側であったはずの悪魔の思考は、変わっていく。二人の勇者の完璧な連携を前に、塗り替わっていく。
(落ち着け落ち着け落ち着け落ち着けぇ! がんばれ吾輩! 負けるな吾輩! すべては吾輩の新たなる平穏のためっ! 今は耐え忍ぶのであるっ! そう! この一方的な痛みも悲しみも、新たなる平穏への大いなる飛躍のための試練!)
それは、一方的に虐げられる弱者の思考。タウラス・フェンフは、もう冷静な思考を
しかし、だからこそ、というべきか。悪魔が待ち望んだ反撃の糸口は、唐突にやってきた。
「ぐっ……」
シナヤの動きが、止まる。
攻撃を受けたから、ではない。
指先がこぼれ落ちる砂のようにかすみ、色彩が薄れていく。まるで蜃気楼が消えていくようなその症状を、タウラスは知っている。
時間切れだ。
タウラスの魔法によって『維持』されていた、シナヤ・ライバックという存在の、時間切れがやってきた。
「き……きたきたきたぁぁぁぁあああ!」
タウラスは、歓喜した。
「粗悪な
動きの止まったシナヤに、反撃の蹴りが突き刺さる。
その蹴りを移動のエネルギーに変えて、タウラスは空中に浮かんでいた最も手近な岩の足場に着地した。
「天は吾輩に味方した! シナヤぁ……お前の肉体はもはや限界! 崩れ落ちて、消え去るのみ! 残念だったであるなぁ! 吾輩を殺し、吾輩の魔法を奪って生き長らえるというお前たちの企みは! 今! ここで! 打ち砕かれたのである! さあ、自分の存在が跡形もなく消える恐怖に……」
怯えるがいい、と。
そう言葉を続けるつもりだったタウラスは、崩れ落ちるはずだったシナヤの体を、じっと凝視した。
◆
幼いシャナは疑問を抱いた。
魔法は、心の力。胸の内に宿る、唯一無二の力。
望んだものを、かたちにする力。だから、自然と考えるようになった。
自分の望みは、なんだろう?
ぴかぴかの金塊を、たくさん増やすこと?
ぎらぎらした弓矢を、たくさんつくること?
誰かが長い時間をかけて作った唯一無二の杖を、価値のない量産品に変えてしまうこと?
この魔法は、なんのために?
地下から解放されて、当たり前に出られるようになった、外の世界。
眩い太陽の光。果てしない青い空。光を浴びる、深緑の木々。
見上げれば、輝くもので溢れる世界の中で。
ふと。
足元に目を落としたシャナは、それを見つけた。
一輪の白い花。
生まれてはじめて、きれいだと思ったそれを、シャナは心のままに手で触れて、増やした。
なぜ増やしたのか?
誰かに、きれいな花を渡したかったからだ。
昔は、増やした花を渡したい相手はいなかった。
今はちがう。花の可愛さを、共有したい相手が、たくさん増えた。
アリアに花を渡したら、隣に座ってどこで摘んできたのか、笑顔で聞いてくれるだろう。ムムは、いつもの無表情のまま小躍りしてくれるに違いない。リリアミラは、きれいな花瓶に飾ってくれそうな気がする。ランジェットは、他の花を合わせてブーケを作ってくれそうだ。
彼女は?
彼は?
そんな風に考えて、花を渡したい相手が、たくさん増えた。
シャナの心の中には、もうたくさんの人の色合いがある。
この世に、同じ花はない。
先生は……ハーミアは、シャナにそう教えてくれた。
地面に生える花と、魔法によって増やした、手の中の花。
同じ色合い。同じ数の花弁。きっと誰が見ても違いのわからない、同じ花。
けれど、ちがう花だ。
咲く場所が違えば、それはきっとちがう花になる。
ちがう咲き方をしていいのだ、と。
そう教えてくれたのは、彼だ。
だから、変わろう。
変わっていこう。
自分を変える勇気も、彼が教えてくれたから。
◆
霞んで、掠れて、消えていくはずだったシナヤの肉体は、しかし崩れ落ちることはなかった。
元通りに、最初から何事もなかったように、もう一人の勇者の肉体は、依然としてそこにある。
「きえ、ない……?」
「はい。もう消えませんよ。彼はもう、私が増やした存在ではありませんから」
タウラスの口をついた疑問への返答は、高く可愛らしい声。シャナ・グランプレからあった。
振り向いたタウラスはシャナの薄い微笑みを見る。二人の勇者に気を取られていたせいで、意識から外れていた。しかし、考えてみれば当たり前の疑問があった。
「お前は……何をしていた!? 何をした!?」
「何をしたと言われましても。ちょっとだけ、自分の心と向き合ってきただけですが?」
「ふざけるな! お前が魔法で増やしたのものは、時がきたら消えてしまう! そ、そういうルールであるはずである!? そういう魔法であるはず!? そうでなければ、これはまるで……」
「はい。だから、変えました」
「か、変え……は?」
世界を救った純白の賢者は、悪魔に向けて静かに告げる。
「私の魔法は……『
シャナ・グランプレは知った。
自分とは違う自分がいることを。
自分とは違う生き方をした自分が、幸せになっていることを。
シャナは、ルーシェではない。
ルーシェは、シャナではない。
生き方が、人をつくる。思い出が人を変える。
元が同じであったとしても、違う生き方を重ねた人は、もう同じ存在ではない。
だから、命は増やせない。もう増やしてはいけない。
シャナは、己の魔法に。己の心に、そんな折り合いをつけた。
「心の在り方が、魔法であるのなら……その色合いが気持ちによって変わるのは、なんらおかしいことではないでしょう?」
「そんなバカな……おまえは、お、お前は……お前はァ!? 自分の心を! 魔法ぉぉを!? 捨てるつもりであるか!? 世界すらも変えられる力をむざむざと! 自分自身の粗悪なコピーを救うために、失うつもりであるか!?」
「はい」
わかりきった悪魔の問いに対して、賢者は即答した。
「生憎、世界なんてものはもう救い終わっているので、そんなに執着がないんですよ」
純白の魔法は、かつて魔王が欲した魔法。
自分自身を
「世界を変える力と、女の子の幸せ。どちらが大切かなんて、比べるまでもないでしょう? 賢い私は、迷わず後者を選びます」
増やすこと、足していくこと、重ねていくことが、人の強さであるのなら。
何かを選び、何かを捨てることも、変わるために必要な強さ。
平穏を望み続けたタウラスに向けて、変わることを選んだシャナは語る。
「ああ、そういえば……あなたさっき、妙なセリフをほざいていましたね? なんでしたっけ? たしか……吾輩の魔法を奪って生き長らえるというお前たちの企み……でしたっけ?」
一言一句、声音まで寄せて、完璧に悪魔の言葉を真似てみせて。
「ばぁーか♡」
賢者は、悪魔を煽った。
「頼るわけがないでしょう? あなたの薄汚れた心に、私たちがこれ以上縋るとでも? 本気でそう思っていたんですかぁ? 二人の幸せをあなたの
煽る。
「ねえ、タウラス。気づいていますか? すべてを維持する力、なんて言えば聞こえはいいいですが……あなたのそれはどこまでいっても他人を省みない利己的な停滞であり、停止です」
煽る。
「あなたの心は、もうそこから動けない。変われない。変わろうともしない。自分でも気がついているんでしょう?」
煽る。
「そうだ。もう一つだけ、答えておきましょうか。増殖の力の一端を捨てた、私の判断。それをあなたは、まるで気狂いの異常者のように語っていましたが、なんてことありません。すみませんが、私はルーシェよりもちょっと性格が歪んでいるといいますか……ほんの少しだけ、自分の心に黒い部分があることを、自覚していますので」
煽って、煽り倒して。
にんまりと。
なによりも楽しげに口の端を歪めて。
シャナは、タウラスの顔を指差して。
「やすいものですよ、タウラス。あなたの想像を覆して、その間抜けな吠え面を見れるのなら……この程度の代償、本当にやすいものです」
「こんのっ……クソのメスガキがぁああああああああ!」
悪魔は、キレた。
自身が望んだ平穏から、最も程遠く、激昂した。
怒り狂う最上級悪魔は、もう気付けない。
シャナ・グランプレが、シナヤ・ライバックが回復するまでの時間を舌先で稼いでいたことに、気付けない。
ただ怒りのままに、賢者に向かっていくことしかできない。
「愚かですね。私はべつに、自分の強みを捨てたつもりはありませんよ」
杖が、一振りされる。突進する牛の悪魔を迎撃するために、炎熱属性の魔導陣が展開される。
花は枯れても、種は残る。地面から、新しい花として、再び芽吹く。
たとえ変化しても『
望むものを、望むだけ、望むままに。
幾重にも幾重にも、魔導陣の光が重なっていく。
その数、合計百門。
これまでのシャナなら、それで終わりだった。
「……咲き誇れ。
ほんの些細な変化だった。
だが、
これまで限界として定めていた百という数字に、新たな一が足された。
合計、百一門。
絶え間ない炎の矢の連鎖が、タウラスの全身に浴びせかけられる。
「無駄だぁああああ!」
それでもなお、悪魔の屈強な肉体は屈しない。全身に怒りの炎を宿し、攻撃すらも飲み込んで、もはや火炎の濁流といっても過言でもないその流れに真正面から逆らいながら、タウラス・フェンフは大きく叫ぶ。
「いくら増やして、いくら重ねたところで! 今さらそんな通常の魔術でっ! 吾輩の魔法が打ち破られるとでも……」
「何回殴られました?」
「……あ?」
「シナヤさんに、何回殴られたか、と。そう聞いています。愚かなあなたにもわかりやすいように、もう少し噛み砕いて質問してあげましょうか」
それは、タウラスにとって、致命の問いかけ。
「シナヤさんに
「なに、を……?」
「もしかして、あれだけ一方的にぼこすかとやられて、ただ殴っているだけだった、と。そう思ってます?」
既に、盤面は整っている。
二人の勇者が揃った、その瞬間から、勝利の道筋は組まれている。
「残念ながら……うちの勇者さんはバカですが、アホではありません」
変化があった。
これまで屈強なまま維持されてきた、タウラスの肉体に、致命的な変化があった。
体から、力が抜ける。膨らんだ筋肉が萎む。炎の燃焼が、焼かれながらも正常に維持されていた筋肉の繊維を、肌を、骨を、致命的に焼いていく。
「がっ……なぁあああああああ!?」
「お前の『
落ち着いた声が、淡々と答え合わせをはじめる。
悪魔の背後には、勇者が立っていた。
「火達磨になっても、ローストビーフにならないお前を見て、気づいたよ。その魔法は、ダメージや肉体の損傷を、なかったことにしているわけじゃない。お前自身の生命活動を『維持』する。そんな強引な運用と定義で、肉体を無理やり動かしているに過ぎない」
「だからどうした!? なぜこうなる!? 完璧に屈強に維持されてきた吾輩の肉体がぁ!? なぜぇ!?」
「維持してるんだろ? 表面を取り繕って、中身を保つために、ズルしてるんだろ?」
だから、と。
「お前の『維持』という概念を、
全身を焼き尽くす痛みと、炎熱の衝撃の中で、悪魔は慟哭する。
「もう一人のおれの魔法……『
「ぇ……あ?」
最初から本命の魔法は、勇者のかつての武器である『
タウラスを倒すための切り札は、シナヤが勇者から借り受けて運用したそれではなく、彼自身が自分の力で勝ち取った『
「お前が
「あぁぁあああああぁぁぁ!」
炎は本来、燃え続けるものではない。人の身を超えたバケモノも、炎で焼かれて無事で済むはずがない。
肉は溶け落ち、骨を焦がし、火勢は衰え、やがて消える。
百を超える炎の矢を浴びたタウラスは、それでもなお、黒く焼け焦げた足で地面を踏みしめ、灰色の吐息を漏らした。
「吾輩の、平穏を……」
シャナの言葉通り。世界を救った勇者は最初から、シナヤ・ライバックの心に、これ以上の魔法を背負わせるつもりはなかった。
それは、自分の役目だ。
妄執に囚われた、燃え滓に向けて。
黒輝の勇者は、手にした武器を振り下ろした。
「──タウラス・フェンフ。その名と魔法を、貰い受ける」
鎖付きの鉄球が、痩せ細った悪魔の胸を打ち抜き、ただ一撃で粉々に打ち砕く。
「良い武器だ。えっと……ブレイブディアブロ……バスタークラッシャー?」
「……ダサいですよ。勇者さん」
そちらの名前は、もう忘れてしまった。