それは、昔の話である。
シャイロックがその少女と出会ったのは、本当に偶然のことだった。
次の目的地である村への道すがら。旅の装いというにはあまりにも不用心で軽い、白いワンピース姿の少女が、行き倒れていた。
見捨てていくのは簡単だったが、見捨てるのもどうかと思ったので、手近な枝をひろってつついてみたところ、きちんとうめき声があがった。
「ごはんを、ください」
少女、曰く。お腹が空いて動けないらしい。
そんなバカな、とシャイロックは思ったが、いくらか食料を恵んでみたら息を吹き返したので、どうやら事実らしかった。
少女は、シャイロックが持ち歩いていた携帯食料を冬眠前のリスのように頬を膨らませて、一通り食い尽くした。べつに食料を恵んでやる理由はなかったが、見ていて不思議と気持ちがよくなる食べっぷりだった。
「ふぅ。ありがとう。助かったわ。お兄さん」
「ああ。どういたしまして」
「助かったついでに聞きたいのだけれど、まだおかわりってあるかしら?」
「お嬢ちゃん、意外と図々しいな」
今から思えば。
最初に出会った時から、花のように微笑むくせに、暴君のように振る舞う少女だった。
「お兄さんは、何をしている人なの?」
「オレは魔導師だ。名は、シャイロック」
「シャイロック? シャイロックって、あの!?」
いやいやながらに名乗ると、少女の瞳はあからさまに輝いた。
ただの女の子ではなさそうだ、とは思ったが、どうやら魔術の知識が多少はあるらしい。少なくとも、シャイロックという名が始祖の大賢者のものであることを知っている程度には。
「うれしい! わたし、あなたに会いたかったの!」
「オレに? 悪いが、この名前に憧れられるのは、あんまり好きじゃないんだ。オレは、お嬢ちゃんが期待しているようなすげえ魔導師じゃない」
「自分の名前、きらいなの?」
「……」
ぺたん、とした女の子座りのまま、こちらを見上げて少女はそう聞いてきた。
あまりにも真っ直ぐに。そう問われたものだから、シャイロックは逆に戸惑った。
気まずさを誤魔化すように、頭をかいて。地面に座り込んだままの彼女に目線を合わせるために、膝を折る。
「……そうだなぁ。特別な名前だからな。時々、重いと感じることはある」
「そうなの……でも、大丈夫よ。お兄さん!」
名乗ったのに、名乗った名前では呼ばず。
少女は、シャイロックの手を一方的に取った。
「人の名前に、意味なんてないわ」
今から思えば。
最初に出会った時から、たった一言で人の心を掴む少女だった。
「わたしは、あなたのことを知りたいの。だから、教えて?」
魔王と賢者の、昔の話だ。
◇
エルフの村で勇者パーティーとやり合うのは簡単だったが、シャイロックは撤退を選択した。
理由は、ある。
「タウラスを見殺しにしたそうだね。シャイロック」
「ひでぇ言い草だ。そっちだって、あの全身バケモノ聖職者にこっぴどくやられてきたんだろ? トリンキュロ」
まだ濡れた髪が乾ききっていないことを見透かされて、現れたトリンキュロ・リムリリィは頬を赤らめながら、髪を指先でいじった。
シャイロックがトリンキュロから受けた依頼は、勇者が乗る船を落とすこと。
それ以上の仕事は、依頼の範囲外だ。むしろ、ハーミア・パック・ハーミアやムム・ルセッタとやりあった時点で、依頼以上の仕事はこなしていると言える。
「うるさいなぁ! ボクの場合は戦略的撤退ってヤツだよ! わかるだろ!」
「なら、こっちも戦略的撤退ってことでよろしく頼みますよ、依頼人。なんせ、相手はハーミアのババアとムム・ルセッタだった。正面から仕留めるのは、いくらなんでも骨が折れる」
「バカな言い訳はやめなよ。キミの魔法を全力で使えば、消耗した勇者なんて簡単に殺せただろう?」
それこそ、馬鹿な指摘だ。
シャイロックは、トリンキュロの言葉を鼻で笑って返した。
「冗談はやめてくれ。もしもオレが勝手に勇者を殺したら、オマエがオレを殺すだろうが」
「おお! さすが四賢! よくわかってるねぇ! 頭が良い!」
「それもやめてくれ。オマエに頭が良いって言われると、途端に自分が馬鹿になった気がする」
「おぉん!?」
目を剥いて食って掛かってくるロリッ娘を、軽く流す。
苦笑しながら、シャイロックは手品のようにタバコを取り出し、火を点けた。深く煙を吸い込んで、一服。吐き出した煙が、吹きつける風と一緒に抜けていく。
言葉が途切れたタイミングに示し合わせたように、トリンキュロは華美なフリルドレスが汚れるのも構わず、地面に腰を下ろして、遠くを見た。
最悪で最低の自分勝手な最上級悪魔は、しかし昔から人との会話の間合いを測るのが、妙に上手いところがあった。
「ねぇ、シャイロック」
「なんだ?」
「ボクって弱くなったかな?」
シャイロックは、少し咽た。
あまりにも、らしくない。かつて最強を誇った四天王の頂点らしからぬ、弱気な発言だったからだ。
「勇者はさぁ。弱くなったはずなんだよ。魔王様の呪いを浴びて、魔法は使えなくなって。名前も呼べなくなって。本当に弱くなったはずなんだ」
しかし、トリンキュロは負けた。
サジタリウスや、他の騎士団長たちの協力があったとはいえ、またしても敗れた。
「で、キミの言う通り。今回は不本意にもランジェット・フルエリンと一騎打ちして、まあ引き分けだったわけだよ」
「散々だな」
「うん。もう本当の本当に認めたくないけれど、こればっかりは認めるしかない。ボクっていうヤツは、散々な負け方を繰り返してしまったわけなんだけれど」
言葉を繋げて。
トリンキュロの無垢な瞳が、シャイロックを見上げた。
「ねえ。次はどうすればいいと思う? シャイロック」
これだ。
これが、トリンキュロ・リムリリィという存在の、最も恐ろしいところだ。
シャイロックは、また深く煙を吸って、ゆったりと吐き出した。
負けても、死んでも、諦めない。考えることを止めない。歩みを止めない。理解できないものを、理解しようとする、その欲求。
四天王第四位、アリエス・フィアーはグレアム・スターフォードに殺された。
四天王第三位、ゼアート・グリンクレイヴは、勇者の卑劣な策によって、時間切れになってしまった。
四天王第二位、リリアミラ・ギルデンスターンは、勇者に寝返った。
そして、魔王。エトランゼ・リアは、その志半ばで、勇者に討たれてしまった。
シャイロックは、可憐な少女の姿をした悪魔を見下ろす。
コイツだけだ。
この悪意と好奇心の塊だけが、救われた世界の中で、まだ何も諦めていない。
「一人じゃできないことがある。オマエさんは、それを学んだだろ?」
「うん」
「なら、やるべきことはもう決まってるんじゃないか?」
「うーん。勇者みたいなことをやるのは癪だけど、仕方ないかぁ」
かつて、たった一人で暴虐の限りを尽くした、魔王軍四天王第一位。
トリンキュロ・リムリリィが、口遊むシャイロックに向けて手を差し出した。
「仲間が必要だ。シャイロック、ボクとパーティーを組んでほしい」
「目的は?」
「勇者を殺して、魔王様を生き返らせて、世界を滅ぼすこと!」
シャイロックは、口の端で笑った。
これは、悪魔の契約だ。
一度のってしまえば、もう後戻りはできない。
「賢者、騎士、武闘家、死霊術師。勇者のパーティーは、五人。なら、あと三人必要だな。オレを含めて」
こちらを不安げに見つめていたトリンキュロのあどけない表情が、ぱっと輝く。
「それじゃあ……!」
「ああ。よろしくな、トリンキュロ」
「うん! うんうん! うん! 一緒にがんばろう!」
全身が魔法で形作られた凶器のような少女に、ぶんぶんと手を握って振られて触れられて、シャイロックは苦笑した。
「それで、何か他に宛はあんのか?」
「うーん。とりあえず、シーザァルトで魔法使いの武闘大会があるらしいから、そこで良い魔法と仲間集めたいかなって」
「いいじゃないか。じゃあ、決まりだな」
まずは、東へ。
手を組んだ悪魔と賢者は、ゆったりと歩み出した。
「えー? どういうルートで行こっか!?」
「どう行くも何も、オレのドラゴン使えばひとっ飛びだぞ?」
「それは味気ないって! 早く着いてもやることないし、寄り道しながら行こうよ!」
「仲間になった瞬間に注文の多いヤツだな……」
旅のはじまりは、いつだって心が踊る。
何かがはじまる、予感がするから。
◆
シャイロックは、その少女と旅をした。
ついてこい、とも、ついてくるな、とも言わなかった。
ただ当然のように、そこが自分の席だと言わんばかりに彼女はいつの間にかシャイロックの隣にいて、当たり前のように隣で笑っていた。
「お兄さんは、なんで旅をしているの?」
「世界には知らないものの方が多い。自分が死ぬまでに、知っているものはなるべく増やしておきたいだろ」
「たしかに。お兄さんと一緒にいると、知らないものがたくさん食べれるわ!」
「まあ、土地のものを美味く食えるのはたしかに旅の醍醐味か」
不思議な女の子だった。けれど、ちょっと食いしん坊な普通の女の子だった。
「なあ、お嬢ちゃん」
「なに?」
「お嬢ちゃんがやさしいのはわかる。でもなぁ、こまってる人間がいたら片っ端から首を突っ込もうとするの、本当にやめないか? オレはさ、穏やかで落ち着いた旅がしたいんだよ」
「でも、助けられる人がいたら助けたいのは当然でしょう?」
「そういうのは世の中でお節介っていうんだ。なにより、オレの身がもたねぇ」
「お兄さん、めちゃくちゃ強いからいいじゃない。それに、顔に書いてあるわ」
「なにが?」
「わたしといると、退屈しなくて楽しいって」
「……」
「ふふっ。図星を突かれると黙り込む癖、ちゃんと直してね?」
少女は気ままで、自由で、いつもシャイロックはそれに振りまわされた。
それが不思議と、心地よかった。
シャイロックは、彼女の名前を聞かなかった。
名前を聞かなくても、名前を知らなくても、旅は楽しかった。
「お兄さんは、わたしと旅するの、楽しい?」
「お嬢ちゃんはどうなんだ?」
「はい、ダメ。減点。質問に質問で返すのは、ズル」
人の幸せに、基準はない。
己の心が、満たされているかどうか。それを客観的に数値化することはできない。
けれどきっと、本質的に人の幸せとはそういうものなのだろう。
明日はもっと良い日になればいいな、と。そう思うよりも。
今日のような日がずっと続けばいいな、と。そう願う。
陽だまりの中でずっと微睡むような、やさしい停滞。
「お嬢ちゃんが隣にいてくれて、よかったと思うことが増えた。これじゃダメか?」
「うーん。ぎりぎり合格」
「なんだそりゃ」
旅は、あくまでも旅だ。目指すべき場所や、目的が必要なものだ。
旅には、終わりがある。
だから、この関係もいつか終わりにしなければならない。
この不思議で食いしん坊で、やさしい少女を、いつか故郷まで送り届けてやらなければいけない。
彼女の名前は、彼女とおわかれする時に聞こう。
シャイロックは、そう考えていた。
「あー、もうびしゃびしゃ」
「ちゃんと体拭いて寝ろよ」
「うん。着替えるから、お兄さん、覗かないでね」
「いいからはやく髪拭け」
ある日、シャイロックと少女は、大きな嵐に遭遇した。山間部にある村になんとか辿り着いたものの、風は強くなるばかりで止む気配はなかった。
天災、と呼ぶに相応しい異常気象だった。風雨はますますその勢い増して、川は増水し、ついにその村の頼みであった堤防は決壊した。このままでは、川の水が低地にある村全体を飲み込んでしまうだろう。
仕方ない。逃げよう、と。シャイロックは思った。
少女は、逃げようとはしなかった。
すべてを守るように、彼女は自分の体がまた濡れるのも構わず、村の入り口に立った。
「おい、何を……」
「『
名前よりも先に、シャイロックは彼女の
かざした指先が、空を突く。
流れ込むはずだった濁流が、
あれだけ吹き荒れていた暴風が、嘘のように静まり返り、頬を撫でるそよ風に変わった。
空を覆っていた分厚い雲が、まるで太陽を隠していたことを恥じるが如く、自ずと霧散した。
奇跡としか言いようがない光景だった。
「……魔法?」
見ればきっと、誰もが確信する。
この世界に中心と呼べるものがあるとするなら、それはきっとこの少女なのだろう、と。
「お嬢ちゃんが、やったのか?」
「……あーあ。お兄さんには、もうちょっと隠していたかったのに。バレちゃった」
陽の光が差し込む。静まった空に、大きな虹の橋が架かる。
少女は、そんな光の絶景を背にして、小さく笑った。
いつもと変わらない笑顔だったはずなのに。
かわいい、ではなく。
きれいだ、と。
シャイロックは、はじめてそう感じた。
知りたいと、思ってしまった。
「……お嬢ちゃん、名前は?」
「わたしはエトラ」
最初に言われた通りだった。
お兄さんとお嬢ちゃん。
名前を知らない、そう呼び合う関係でいれば、ずっと旅を続けられたのかもしれないのに。
「エトランゼ・リア。なりたいものは、魔王。目標は──」
少女は、その道を歩むことを決めてしまった。
「──この世界を救うこと!」
今回の登場人物
魔王様
エトランゼ・リア。くいしんぼう天然美少女。これでシャイロックお兄さんへの恋愛感情はないらしい。本当におそろしい女。
シャイロック
お兄さん。褐色銀髪のイケメン風だが中身がわりとナイーヴ。魔王様に脳を焼かれた人。トリンキュロの誘いはまあ目的同じだし、いざとなったらいつでも殺せるし、乗ってやるかという感じ。
トリンキュロ・リムリリィ
ボクは諦めない!仲間がいれば、必ず夢は叶う!
クソボケのカス
次回から新章。先輩が勇者くんの家に行くお話です