ミック・メル・エギュチークは、人々の羨望を一身に集める、英雄である。
勇者が表舞台から姿を消した、約一年。様々な活躍を重ねて、ミックは冒険者としての名声を磨き上げてきた。
周囲から尊敬と注目を浴びるミックが、ありのままの自分の姿を曝け出せる場所は少ない。
「なあ、カルロ」
「どうした? 大将」
「今回の大会に向けて新調した私の鎧……これすごく気に入ってるしかっこいいんだが……うんこするときめちゃくちゃめんどくさいんだよな。どうにかならないか、これ」
「お前さん、それ口が裂けても絶対に外で言うなよ……」
便所である。
トイレであった。優雅に言うのであれば、花摘み。あるいは雉撃ちである。
勇者との歓談を終えたミック・メル・エギュチークは、パーティーメンバーであるカルロ・モーガンを伴って、用を足しにきた。
俗に連れションとも呼ばれる行為である。今、便所の中には二人しかいないので、会話に気を遣う必要はない。
「どうだった? 勇者のボウズは」
「めっちゃよかった。実物最高。できればやはり、握手をしておきたかったところだな」
「そ、そうか……しかし、魔法使いの身体接触は警戒されるからな。初対面で握手はさすがに厳しいだろうよ」
「残念だ。もしも勇者殿に握手してもらったら、私はもう一生手を洗わなかったのに……!」
「洗え。汚いだろうが」
自分の小さい方を済ませながら、カルロは思わず吐き捨てた。
個室にこもっているせいでミックの表情は伺えないが、声色から緩みきった顔になっているのはなんとなくわかった。それがわかる程度には、カルロとミックの付き合いはそれなりに長い。
「で、我らが大将から見てどうだ? 今回の大会に参加する主要な魔法使いのツラは大体拝んできたわけだが……勝てそうか?」
「ふっ……弓王、カルロ・モーガンが、随分と愚かな質問をするものだな」
便座にどっしりと構え、腕を組み、下半身を丸出しにしながら。
冒険者最強、ミック・メル・エギュチークは、はっきりと言い切った。
「勝てるわけがないだろう」
あまりにも清々しい宣言だった。
冒険者最強と呼ばれる男は、淡々と語る。
「ジオ・バートラムを見たか?」
「ああ」
「すごい筋肉だったぞ。ガルシア・アロンもすっごい筋肉だったし、ディートハルト・バルサザールもめちゃくちゃ厳つかった」
「おう。そうだな」
「私が彼らに勝っているのは、顔だけだ」
「まあ、お前さん顔だけはいいからな」
「ふっ……そうだろう」
カルロから顔面への賞賛だけはしっかり受け取って、ミックは、深く息を吐いた。
「いや……もう本当に、どうするんだこれ。ボコボコにされるぞ、私。こんな強者の蟲毒みたいな大会に放り込まれて、どうにかなるわけがないだろ。私の取り柄、基本的に顔だけなのにその長所が原型なくなるくらいズタズタにされるぞ」
「口先がよく回るのも長所だろう?」
「うるさいなぁ!? でもありがとう!」
トイレの個室の中から聞こえる雇い主兼パーティーリーダーの嘆きを聞き流しつつ、カルロは手を洗う。
ミック・メル・エギュチークは、冒険者最強と呼ばれている。
これは、真っ赤な噓である。
ミック・メル・エギュチークは、とても弱い。本当に、弱い。
細腕で振るう剣は、竜の鱗に弾き返されるだろうし、へっぴり腰で構える盾が、何かを守れた試しもない。
実力を例えるなら、騎士学校の卒業生と五分五分といったところ。モンスターの最上位であるドラゴンはもちろん、上級悪魔と正面から対峙しても、おそらく即死するだろう。最上級悪魔など、もってのほかだ。
ミック・メル・エギュチークのこれまでの名声は、彼のやや特殊な人間関係と、ほんの少しの運によって、奇跡的に積み重ねられてきたものである。
弓王と呼ばれるカルロもまた、彼をひっそりと裏から支え、その名声の積み上げに尽力してきたメンバーの一人だ。がんばってたくさん担いでよいしょしてきた、とも言える。
「そもそも! 私の魔法はまったくもって! これっぽっちも! 戦闘向きではないんだ! ごりごりの単独戦闘に秀でた魔法使いの中に放り込まれて、勝てるわけがないだろう!」
「……なら、参加を辞退すりゃあよかったのでは?」
「できるわけがないだろう! 私はミック・メル・エギュチークだぞ! 私には、今までコツコツと地道に積み上げてきたイメージというものがある! こんなところでその名声を崩せるか!」
「本音は?」
「勇者殿に一目だけでもいいから会いたかったっ!」
「はぁ……」
ミック・メル・エギュチークは、たしかに弱い。
しかし、勇者を尊敬する気持ちに噓はなく……同時に、新時代の勇者を目指す気持ちにも、噓がない。
そして、竜種の討伐やモンスターの掃討などの実績も……細部に食い違いや勘違いや誇張が含まれているが、一応は本当のこと。
引退を考えていたカルロが、ミックのパーティーに雇われているのは、彼がおもしろい男だからだ。カルロには担ぐ神輿を選ぶ権利があるし、カルロはミックという神輿を選んだ上で、担いでいる。
「で、これからどうするんだい、大将」
「今から体調不良で出場中止というのはアリだと思うか?」
「腹でもいてぇのか?」
「いいや、すこぶる快便だ。料理もとてもおいしかった。あとで料理長にお礼を言いにいこうと思う」
「んなら、腹壊したフリするのはナシだな。つくってくれた料理人の顔に泥を塗ることになる」
「くそぉ! たしかに!」
あと、単純に人が好いというのも、カルロがこの青年に手を貸している理由の一つだったりする。本人には言ったことがないが。
「大会には参加しつつ、名声を損なわない範囲で華麗に敗北を喫する……私に残された手は、これしかない」
「まあ、そうだな。それくらいなら、なんとかなるんじゃねえか。儂だけでなく、イアゴやフィルの嬢ちゃんもいるしな」
洗った手をハンカチで拭きつつ、カルロはパーティーリーダーに言った。
「最強を決める大会で、最高の負け方を考えるってのもおもしろい。儂らはいつも通り、策を練っていくとしよう」
「ふっ……頼りにしているぞ。カルロ」
「じゃあ、先に戻ってていいか?」
「だめ。一人でパーティー会場戻るのこわいからもうちょっと待って」
◇
「とても魅力的なお話をありがとうございました、リリアミラ嬢。その造船計画、ぜひとも我が社も一枚噛ませていただきたい」
「こちらこそ。ご快諾いただき、大変うれしく思います」
「詳しいお話はまた別の機会に。よろしければぜひ食事をご一緒させてください」
「ええ。是非に」
また一人、良いスポンサーを捕まえることができた。
軽く会釈をして、リリアミラは去っていく老紳士の背中を見送った。ちらりと横を見てみれば、勇者は勇者で、ミック・メル・エギュチークという大物をきっかけに、ますます多くの人に囲まれているようだった。
もともとリリアミラとしては、勇者に各地の有力者ともっと関係を持ってほしいという気持ちがある。なので、この展開は願ったり叶ったりというべきか。
さて、次は誰に声をかけようか、と。新たな交渉相手を物色しはじめたところで、
「ひさしいの。ギルデンスターン」
「んひぃ!?」
背後から首筋を撫でられ、喉から漏れてはいけないタイプの声が漏れた。
リリアミラは、冷や汗を流しながら背後を見る。
忘れたくても、忘れられない美貌。耳にこびりついて離れない妖艶な声音。美しいドレスを身に纏った吸血女帝……ライラ・オフィリア・アーズヘイムが、そこにいた。
「勇者は放置して、自分は事業のスポンサー集めか? 社長から会長になったと聞いたが……相変わらず抜け目のない女よな」
「お、おおお、おひさしぶりです閣下ぁ……」
リリアミラ・ギルデンスターンには、苦手なものが三つある。
一つは、武闘家。ムム・ルセッタ。魔法の相性がこれ以上ないほどに悪く、あと単純に性格も合わない。生き方も合わない。気に食わない。
二つ目に、聖職者。ランジェット・フルエリン。やはりこちらも魔法の相性が悪く、なによりもシンプルに勝てない。嫌われてるのがわかる。すごくこわい。
そして、三つ目。吸血女帝。ライラ・オフィリア・アーズヘイム。リリアミラが彼女を苦手とする理由は、最も単純だ。
「直接会うのは数年ぶりになるか。少しは老け込んでいるかと思ったが、肌も変わらずきれいだし……ふぅむ。なかなかどうして……いやいや、これはこれで」
「な、なんでしょう?」
「いや、相変わらずおいしそうだなぁ、と思って」
「ひ、ひぃぃ……!」
昔、吸っても吸ってもなくならない無限血袋として、一生飼われそうになった経験があるからである。
勇者が説得したり尽力したりちょっと戦ったりしなければ、リリアミラはいまだにこの吸血女帝にペットとして飼われていた……かもしれない。
「くく。冗談じゃ。最近は吸う血には困っておらんのでな。我が新たな臣下には最上級の悪魔もおる」
アクアリウスのことだな、と。
リリアミラはその一言で、ライラの言わんとするところを看破した。
「……人望が篤いようで。閣下のご威光と名声は、ステラシルドにまで届いております」
「其方からの世辞は素直に心地良いな。四天王の第二位ともなれば、最上級の悪魔たちとも面識が深かったのではないか?」
「残念ながら、身内からは疎んじられる性分でしたので。わたくしが親交を深く持っていたのは、第四位のアリエスと……あとは精々、ジェミニくらいでしょうか? まあ、アクアリウスはゼアートによく懐いていたようですが」
「もちろん聞いているとも。我が契約悪魔は、死煌の魔将に尊敬の念を抱いているのでな。しかも、かの老将は勇者とも因縁がある。運命というのはいつもおもしろいものよな」
リリアミラは、僅かに目を細めた。
魔王の最高幹部である、四天王を仲間に引き入れた勇者。
魔王の使徒である人外、十二柱を配下として従える女帝。
勇者と女帝には、そういったところで似通ったものを感じる。
「ギルデンスターン。其方に一つ、確認しておきたい」
「なんでしょうか?」
「其方は、トリンキュロ・リムリリィと繋がっておるのか? あるいは、口遊むシャイロックと手を組んでいる、とか」
トリンキュロとシャイロックが、市街で勇者と一戦を交えたことは、リリアミラもすでに本人から聞いている。
次の質問の意図するところを考えながら、リリアミラは答えた。
「恐れながら、閣下。とても清廉潔白とは言えないわたくしの身の上……疑いの目を向けられる気持ちはわかります。ですが、このリリアミラ・ギルデンスターン、誓ってあの二人と手を組み、シーザァルトを貶めようとする意思はございません」
「噓はないか?」
「重ねて、誓って、ございません」
「くく。本当に其方の腹の中は読めんな。だからこそ、一滴残らず血を啜りたくなるのだが……」
「ひぃ」
「まあ、良い。今はその言葉を信じよう。勇者が近くで目を光らせている以上、其方が何か悪事を働くとは思えんしな。其方、惚れた男に見せたくない一面は隠しておきたい質であろう?」
「あらあら、いやですわ閣下。それではまるで、わたくしが勇者さまの見ていないところで悪企みをしているような物言いではありませんか」
「違うのか?」
「おほほ」
聞かれたくないところは、笑って流すに限る。
「わたくしからも、お聞きしてよろしいでしょうか?」
「なんだ」
「閣下が、なぜこのような大会を催されたのか」
「最強をみたいからだ。それ以外の理由がいるか?」
リリアミラの肩を指先で軽くなぞって、ライラは微笑んだ。
「魔王の亡きあと。勇者が力を失ったあと。最強の魔法使いの称号は、いまだ宙に浮いたまま。誰もが、心のどこかで考え、思い、想像しているはずだ。最強の魔法使いは誰なのか? そして……次の世界の王に相応しいのは、誰なのか、と」
それが回答である、と。
リリアミラに背を向けて歩き出したライラは、そう言っているようだった。
吸血女帝は、そのままの足取りで、悠々とパーティー会場の中心へ。人々の注目を集めるために用意された、舞台の壇上へと登る。
「──ライラ・オフィリア・アーズヘイムである」
一言。名乗っただけで、会場の視線のすべてが、吸血女帝へと集約された。
「前夜祭を楽しむ諸君に、妾からも一つ。余興を用意した」
ライラ・オフィリア・アーズヘイムの魔法は、空色。
魔法の名は『
自分自身に触れたものを『吸収』する魔法効果を持つそれは、貴重品を持ち歩く用途にも向いている。
「これから、其方たちが何を求めて戦うのか。勝ち抜いた末に、何を手にすることができるのか。この大会を主催するものとして、シーザァルトの王として……諸君に、今一度示しておく」
大きく開いた赤いドレスの、胸元。
そこから取り出されたのは、黄金の杯。
「開催に伴って周知した通り……この器には、魔王の魔法が収められている」
一見、何の変哲もないその杯が取り出されただけで、しかし誰もが理解する。
あの杯には、命をかけて奪い合うだけの価値がある、と。
「魔法の名は『
ライラ・オフィリア・アーズヘイムは、高らかに宣言する。
「自分自身と触れたものに『奇跡』を与える、魔王の魔法である」