世界救い終わったけど、記憶喪失の女の子ひろった   作:龍流

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蒼黑の剣士

 悪魔の拳が唸る。

 騎士の炎が炸裂する。

 

「ふん」

 

 直撃したはずの炎は、そのまま拳に切り裂かれ、霧散する。拳だけではない。体のいたるところに着弾しているはずの炎は、しかしそのいずれもが悪魔には届かない。

 キャンサー・ジベンの魔法『華虫解世(フロルクタム)』の効果は、極めてシンプルだ。

 その能力は()()()()()()()()()()()()()()()()()()こと。キャンサーはこの魔法を近距離の格闘戦で最大限に活かすために、己の肉体を鍛えてきた。あるいは、外界の影響をほとんど断つことができる悪魔が、己の内を支える筋肉と拳に信頼を置くようになったのは、ある意味必然であったのかもしれない。

 高速で飛来する矢も、どんなに切れ味の鋭い剣も、絶大な破壊力を誇る鉄の砲弾も、すべてが無駄であり無力。自身の体に害をなす異物を遮断する『華虫解世(フロルクタム)』の前では、あらゆる攻撃が無意味と化す。

 

 ──キャンサー。あなたって本当、守るだけなら最強よね

 

 主である魔王は、至極つまらなそうな表情で、キャンサーの魔法をそう評した。

 けれど、それで良いとキャンサーは思った。派手な破壊も、特殊な性質も必要ない。自身を守る。ただそれだけに特化した魔法は、如何にも自分らしいではないか。

 いざという時、あの華奢で可憐な主君を、身を挺して守ることができるのなら。それが叶う力であるのなら、キャンサーはそれ以上を求めようとは思わなかった。

 事実、目の前の敵を屠るのに、これ以上の力は必要ない。

 

「その程度か」

「いやいや、おかしいでしょ」

 

 キャンサーは前進する。イトは後退する。それがそのまま、力の差だ。

 

「なんでなんで? どうして効かないのかなぁ!?」

 

 疑問の声にバックステップを踏み重ねながらも、攻撃の手は緩めず。

 黒のマントの下から、紙片が舞い、まるで数珠繋ぎのように立て続けに爆裂する。一つ一つは小さな炎でもその狙いは正確で、人間を一人丸焼きにするには申し分ない火力だった。

 しかし、それでもなお、キャンサーの体には火傷どころか、煤の一つすら付かない。

 

「無駄撃ちをしていて切なくならないか?」

「無駄とわかっていても、やらなきゃいけない時もあるでしょ」

 

 認めよう。

 イト・ユリシーズの扱う魔術の展開スピードは、極めて早い。あらかじめ魔導陣を書き込んだ魔術紙(スクロール)を戦闘のために併用する騎士は時々いるが、詠唱も展開も挟まず、あるいは本職の魔導師のように杖も用いず。魔術を連射する彼女の戦闘スタイルは、ある種近接戦闘に特化された完成形と言っても過言ではなかった。

 しかし、キャンサーには疑問があった。

 

「騎士よ」

「なになに?」

「こちらからも、一つ問いたい。貴様はなぜ、剣を抜かない?」

「……さてさて、なぜでしょう?」

 

 問答の内に接近。キャンサーは右のストレートで、少女の顔面を打ち抜く。が、固く握りしめられた拳は頬を掠めて空を切って。

 すれ違い様のカウンター。イトがかざした手のひらから火花が瞬き、爆発が逆にキャンサーの胴体を撃ち抜いた。が、至近で炸裂した炎はやはりキャンサーにダメージを与えられず。

 立て続けに振るわれた拳を再び紙一重のところで回避し、イトは距離を取り直した。

 変わらない繰り返しに、呆れを滲ませながらキャンサーは少女を睨めつける。

 

「逃げてばかりだな。儂を殺す、と宣言した先ほどまでの威勢はどうした」

「威勢だけじゃあ、戦いには勝てないでしょう」

「まだ勝てる、とでも思っているような口ぶりだな」

「思ってる思ってる。ちゃんと考えてるよ。あなたを殺す方法」

「無駄なことだ」

 

 結果は何も変わらない。イトの炎は、キャンサーにダメージを与えることができない。

 イトの攻撃手段が魔術である限り、キャンサーの華虫解世(フロルクタム)を突破することは不可能だ。

 

「剣を抜け、騎士よ。結果は変わらないとはいえ、全力を見ないまま相手を屠るのは忍びない」

「そうだねえ。そこまでご所望なら、仕方ない」

 

 ポニーテールが揺れる。黒のマントが揺らぐ。

 細かくステップを刻むことをやめて、足を止める。

 それは騎士にとって、相手の攻撃を真正面から受け止める、決意表明に他ならない。

 

「じゃあ、抜こうか」

 

 

 

◆ ◆

 

 

 

 昔の話をしよう。

 イト・ユリシーズは、幼い頃から快活で才気に溢れた少女だった。イトは体こそ小柄だったが、そのやんちゃっぷりは男子に混じって野原を駆け回り、棒を握って野ウサギを追いかけるほどだった。せめて女の子らしく、かわいらしくあってほしいと両親が整えてくれたポニーテールを、その名の通り馬の尻尾のように揺らして、イトは朝から晩まで遊び場を駆け回っていた。

 イトという少女には、夢があった。

 

「わたし、大きくなったら、魔王を倒す勇者になるの!」

 

 両親は危ないからやめなさい、とか。周囲の大人は女の子には無理だよ、とか。周囲からそんな言葉を重ねられて、イトはいつも頬を膨らませていたが、理解者がいないわけではなかった。

 

「お姉ちゃんならできるよ。だってお姉ちゃん、すっごく強いもん!」

 

 イトには、妹がいた。

 イトとは違って物静かで控えめな性格だったが、妹は頭が良く、魔術の才能があった。外を走り回るよりも、本を読んで物語の世界に耽ることが好きな子だった。

 妹は、姉が勇者になることを信じていた。イトはそれがうれしくて、でもきらきらした視線が少しくすぐったくて、自分より小さなところにある頭を撫でながら、提案した。

 

「そうだ! わたしと二人で勇者になっちゃえばいいんだ!」

「ええ!? 無理だよお姉ちゃん。私、お姉ちゃんみたいに強くないし……」

「何言ってるの! 平気平気! わたしが剣を教えてあげれば大丈夫だよ!」

「何も大丈夫じゃないよ〜」

 

 イトは鍛錬を重ねた。少しずつ、確実に、自身を支える剣技の基礎を磨いていった。とうとう根負けした両親は、腕に覚えがある村の冒険者や、時折訪れる騎士団の人間に、イトの剣の指導を頼むようになった。

 楽しかった。充実していた。

 いつか、世界を救う冒険に出ることを、イトは信じて疑わなかった。

 

「わたしが大きくなったら、一緒に冒険に行こ! 世界を救う冒険!」

「……それ、私も付いて行っていいの?」

「もちろん! 絶対絶対、行こう!」

 

 積み重ねていけば、いつか夢は現実にできると思っていた。

 けれど、積み木が崩れるのは、いつだって突然のことで。

 

 ある日、村が魔物に襲われた。

 行われたのは、容赦のない殺戮と略奪。巨大な魔物が村の中を闊歩し、家を潰し、家畜を貪り、財産を奪い去っていった。

 

「はぁ、はぁはぁ……」

 

 なんとか魔物から逃げきったイトは、それでも重傷を負っていた。左目を潰され、左腕にはひびが入っているのか、それとも折れているのか、自分でもよくわからない。最初は泣き叫びたくなるほどだった激痛も、今は頭の中が麻痺してしまっているのか、じんわりとした熱しか感じない。だから、イトはその熱を堪えて、必死に家まで走った。

 破壊の跡だけが残された家を見て、ズタボロの肉塊に変わっている両親を見て「ああ、お母さんとお父さんはもうダメだ」と。イトはすぐに確信した。それでも、まともに動く片腕だけで瓦礫を掘り返して、手のひらが真っ赤になるのも構わず夢中で掘り進めて、

 

「お姉ちゃん」

 

 ようやく、積み上がった建材の隙間の中に……()()()()()()()()()を見つけた。

 

「あ」

 

 それを見た瞬間に。痛みの熱が、イトの全身からすっと抜けていった。

 妹を瓦礫の中から助け出す? 

 無理だ。自分は片手しか使えなくて、そもそも子どもの力でこれ以上重い瓦礫を持ち上げることはできない。

 妹をここに残して、助けを呼んでくる? 

 不可能だ。どこに医者がいるかもわからない。そもそも、妹の怪我はもう医者の力でどうにかなるようなものには見えない。

 

「お姉ちゃん……私のことは、いいから。だから……逃げて」

 

 噛み締めた唇から、血の味がした。

 イトは、勇者ではない。なんの力もない、ただの少女だった。

 

 誰か──

 誰か──

 誰か──

 

 勇者様じゃなくてもいいから、誰か──

 

「こんにちは」

 

 ──応じたのは、鈴の音のような声。

 

 運命はいつも残酷で、なによりも皮肉を好む。

 その村に、勇者はいなかった。

 ただ、魔王がいた。

 

「その子、あなたの妹? 体の右半分が潰れちゃって、今にも死んじゃいそうね」

 

 透けるような白い髪。人形のような冷たい美貌。無色透明な、イトとそう年の変わらない少女は、けれど明らかにイトとは異なる力を持っていた。

 

「あなた、この子を助けたいの?」

「助けて……助けて、くれるの?」

「わたしは助けてあげることはできないわ。でも、助ける手伝いくらいはしてあげる」

 

 その代わり、と。

 魔王はイトの耳元で、交換条件を囁いた。

 

「どう? できる?」

 

 イト・ユリシーズは、勇者になりたかった。

 たくさんの人の笑顔を守りたかった。たくさん人を守るために、剣を振るってみたかった。

 でも、悪いやつはいつも突然現れて、守りたいものを、守るための準備ができる前に奪っていく。

 今の自分に差し出せるものは、ささやかな覚悟だけで。

 

「やる」

 

 その答えに、魔の王は静かな笑みを浮かべた。

 

「じゃあ、決まりね。ジェミニ! こっちにいらっしゃい。前に言っていた実験をさせてあげる」

 

 

 

 

 

 

 少女は、目を覚ました。

 痛い。片方の目が見えない。腕も折れている。痛くて痛くて、涙が出そうだ。

 だが、その痛みに違和感を覚えた。自分が瓦礫で潰されたのは、体の右側だ。それなのに、どうして左側の腕と、左目が痛いんだろう? 

 

「ああ、よかった。上手くいったみたい。大丈夫? 体は、ゆっくり起こしてね」

 

 聞いているだけで、蕩けてしまいそうな知らない声に、そう言われて。

 

「え」

 

 起き上がった少女は、ようやくその異常を認識した。

 

「お姉さんの体の感覚はどう? やっぱり、違和感があるのかしら?」

 

 少女は呆然とそれを見る。

 少女の目の前には()()()()()()()()()()が倒れていた。

 

「あ、え……え?」

「大丈夫? 鏡は必要?」

 

 意味が、わからなかった。

 喉から絞り出した、言葉にもなっていない声は、姉の声音だった。

 突き出された鏡の中で、姉の顔が、見たことのない表情をしていた。

 

「なんで、どうして、私……」

「身体を入れ替えたの。ああ、そうね。厳密に言えば、あなたとお姉さんの心を入れ替えた……と言うべきかしらね」

「心を認識して入れ替えるなんて、やったことがなかったけど、うまくいってよかったよ」

「わたしたちにとっても、貴重な経験になったね! よかったね!」

 

 振り返ると、自分とそう年の変わらない双子が、笑っていた。まるで、実験の成功を喜んでいるかのような、薄気味悪い笑みだった。

 

「お姉ちゃん!」

 

 少女は、ついさっきまで自分の体だったそれに飛びついた。

 浅く呼吸をしながら、自分の体は、やはり見たことのない表情でこちらを見上げた。

 それは紛れもなく、自分の顔であるはずなのに。その強がるような笑みは、間違いなく姉の……イトの表情だった。

 

「────。生きて」

 

 自分の口から、自分の名前が、零れ出た。

 

「ちゃんと……ちゃんと、生きてね」

 

 呆然と、ただその言葉を聞く。

 少女は、物語を読むのが好きだった。

 物語の中で、英雄が死ぬ時。最愛の人に手を握られて、これまでの人生を振り返りながら遺言と感謝を述べて、自分を看取ってくれる人物と言葉を交わして……やがて息絶える。

 そういうシーンで、英雄の手を握る人は決まって涙を流していたし、実際に物語のページを捲る自分も、共感して泣いていた。

 でも、だめだ。涙なんて出てこない。言葉なんて紡げるわけがない。頷くことすらできない。

 呆然と。ただ呆然と、姉の手のひらで、自分の手を握り締める。

 自分の命を救ってくれた姉は、剣を握っていなくても、間違いなく英雄であり、勇者だった。

 

 

「──勇者になんて、ならなくていいからね」

 

 

 それなのに。

 勇者になることを誰よりも夢見た姉の最後の言葉は、勇者を否定した。

 それが、イト・ユリシーズが妹に向けて遺した、最後のメッセージだった。

 たったそれだけで、終わりだった。

 

「……お姉ちゃん?」

 

 死体を、見る。

 ついさっきまで、自分だった死体を見る。

 胸に手を当てる。

 ついさっきまで、そこにあったはずの心を探す。

 けれどそれはもう、どこにもない。

 揺すっても、呼びかけても、何の反応も返ってこない。

 

「あ、ああ……」

 

 遅れて、涙が溢れ出た。

 遅すぎる。感情の波に、体が追いついてくるのがあまりにも遅すぎる。

 

「しっかりして。わたしを、見て」

 

 そのまま、少女が壊れてしまわぬように。

 崩れる心を引き止めたのは他の誰でもない、魔王だった。

 

「提案したのは、わたしよ」

 

 粉々に、砕けてしまう寸前で。

 心に、熱が入った。硝子のような脆さだったそれが、どろりと溶け出して。魔王は少女の心を、砕ける前に強引に癒着させた。

 

「だから、恨んでくれて構わない」

 

 染み入るような悲しみを上書きするのは、いつだって燃えるような憎しみだ。

 だから魔王は、一言一句。少女に向けて、言葉を紡いだ。

 

「わたしは、いつでも待っているから。殺したければ、殺しに来なさい」

 

 それは、期待を込めた種蒔きのようなものだった。

 それは、哀れみを重ねた期待のようなものだった。

 けれど、一つだけ。魔王は嘘偽りなく、本心を少女に向けて述べた。

 

「……でも、決めたのはあなたのお姉さん」

 

 魔王が、少女に向けて発したその言葉は、

 

「お姉さんは……あなたのことを、本当に愛していたのね」

 

 楔となって、突き刺さった。

 この日、少女は名前を失った。

 自らそれを捨てて『イト・ユリシーズ』になることを選んだ。

 

 

 

 

 

 

 遂に抜き放たれた刃は、異質だった。

 吸い込まれるような黒塗りの鞘。通常の剣よりも明らかに細く、薄い造り。

 それは一般的な騎士が扱う(ソード)ではなく、片刃の(ブレード)だった。

 

「くだらんな……」

 

 渾身の力を込めて、キャンサーは拳を振るう。

 少女はもう、逃げようとはしなかった。魔術を展開しようともしなかった。ただ、無言のまま構えた刀で、キャンサーを斬るための構えを見せた。

 

「そんな華奢な剣で、何を斬ろうというのだっ!」

 

 少女は嗤った。

 それこそ、下らない問いだと思った。

 

「何を斬る?」

 

 刀で斬れるものは、この世にたった一つだけ。

 

「あなたの、命を」

 

 返答。抜刀。納刀。

 たったそれだけで、力の差はなによりも明確に表れた。

 振るった拳が、その中央から真っ二つに裂けて、断ち切られた肉が地面に落ちる。遅れて、切断面から血液が溜り落ちる。

 

「あぁあああああああああ!?」

 

 それは、キャンサーにとってはじめて体験するモノ。

 痛み、だった。

 

「……やっぱり、ワタシ (イト)の魔法はすごいなあ」

 

 自分の魔術では絶対に貫けなかった、その防御を。

 ただの一振りで破断してみせた姉の魔法を、イトは心の底から賛美した。

 

「わたしは、私は……()()()はね? 勇者にならなきゃいけないの。だって、それがお姉ちゃん (イト)の夢だったから」

 

 その剣士は、この世の全てを斬って断つ。

 その剣士は、この世の全てを絶つことで否定する。

 穢れを祓う一振りの刃は、魔王の気紛れによってその在り方を歪められた。

 

 それは、海の底に沈む闇すらも斬り裂く、無情の蒼黑(そうこく)

 

 『蒼牙之士 (ザン・アズル)』。イト・ユリシーズ。

 

 たとえ、その名が偽りだったとしても。

 少女はこの世界を救うことに囚われた、最強の剣士にして、魔法使いだった。

 

「さてさて。それじゃあ、終わりにしようか」

 

 だらりと脱力したまま、イトは真っ直ぐに歩を進める。キャンサーは後退する。

 ありのままの力の差が、逆転していた。

 

「ぐっう……ふぅうぅぅ……!」

 

 キャンサーの額に、脂汗が滲む。呼吸が荒くなる。

 

 ──あなたの魔法がどうしてつまらないのか。教えてあげる。キャンサー

 

 焼け付くような激痛の中で、主の言葉がフラッシュバックする。

 

 ──その魔法に頼る限り、あなたは痛みを知らない

 

 あらゆる攻撃から主を守ることができると、そう考えていた。

 自分に敵はいないと、そう思っていた。

 違う。そんなわけがない。痛みを知らない自分が、主の盾になれるなどと。それは果たして、どこまで不遜な思い上がりだったのか。

 

 ──痛みを知らない戦士ほど、弱い存在はないわ

 

 主の、言う通りだった。

 しかし、それでも。キャンサーは痛みを堪え、歯を食いしばって前を見た。

 自分は今、この瞬間。痛みを知った。理解することができた。

 それならまだ、戦うことができる。

 

「……ッ……ふぅぅ!」

「……なになに? まだやるの?」

 

 あの刃は『華虫解世(フロルクタム)』では防げない。

 ならば、斬撃のみを避ければいい。キャンサーは全神経を賭して、(ブレード)にかけられた手を注視する。

 

「あなたってさ……本当に学習しないよね?」

 

 だからイトは、刀の柄を握る手とはべつの腕で、無造作にキャンサーの足元を指差した。

 地雷のように仕込まれた魔術紙(スクロール)を、踏んでしまったと。気がついた時には遅かった。

 光が、炸裂する。

 それは魔法ではない。特別な武器でもない。一般的な騎士も魔物を怯ませるために用いる、強烈な光を叩きつける目眩ましの閃光魔術。

 だが、それは目を見開いて集中していたキャンサーの瞳に、なによりも強烈に突き刺さる。

 視界が、潰される。目が、見えない。

 

「いつの間に、こんなものを……」

「防御膜……バリアみたいなものを張ってる魔法なのは、撃ち込み続けた魔術の手応えですぐにわかった。足元に仕掛けた最初の地雷も気づいてはいなかったけど、防がれた。それなら、本人の意志とは関係なく、常に発動させているタイプの魔法。となると問題は……何を通して、何を遮断するか、だよね」

 

 答え合わせをしながらも、剣士に躊躇いはない。呼吸をするような自然な抜刀が、キャンサーの右足を膝から斬って捨てた。

 目を潰されたキャンサーに、もはやそれを避ける術はない。

 

「……っ!?」

 

 悲鳴を食い縛るのが、精一杯。

 少女は、声を止めない。

 

「全身を覆っていて、攻撃……もしくは自分を害する何かに対して、自動で発動する。でも、自分自身が生存して、活動するためには、遮断しちゃいけないものもあるよね? だったら、そういう自動で通すものを攻撃に転用すればいい」

 

 防御のために構えた左腕が、刃に撫でられて落ちる。

 片膝で堪えていた左膝が、突き刺されて割られる。

 

「光まで遮断したら、あなたは目が見えなくなっちゃう。だから、強烈な光の類い……閃光魔術は通じる。あと、空気を遮断しても窒息しちゃうだろうから、炎熱系の魔術をもっともっと連発して、結界の中の空気を薄くしようかな……とか。まあ、いろいろ考えてたんだけど」

 

 両手両足が、すべて切断された。

 地面に、虫のように這いつくばるキャンサーは、辛うじて頭を持ち上げて、少女の声を聞く。

 

「あなたが急かしてくるし、めんどくさくなっちゃったから、やめた」

 

 あまりにも恐ろしい想像が、キャンサーの脳裏を掠めて震わせる。

 もしかしたら、この剣士は……魔法を使わないままに、自分を倒す算段を立てていたのではないか?

 

「悪魔は斬る。魔王も斬る」

 

 潰された視界の中で、その声だけが悪魔の心に響いて木霊する。

 

「あなたみたいな雑魚に、手こずってる暇はないんだ」

 

 勝てない。

 その言葉の奥に秘められた、暗く黒い感情に、勝てる気がしない。

 

「そうだそうだ。二つだけ、聞いておこうかな」

 

 刀の柄に手をかけて、剣士は問いかける。

 

「魔王の居場所とか弱点。もしくは()()()()()に心当たりはない? もしも教えてくれたら、その首だけは残してあげるよ。両手両足は、もう斬っちゃったからさ」

 

 絶対遮断。最強の守りを誇りとするはずの、何も守れなかった悪魔は。

 最後の最後に与えられた選択肢に、歓喜の笑みを浮かべた。

 

「──それだけは、死んでも教えん」

「なら死んで」

 

 一閃。駆ける軌跡が、首を撥ねた。

 そして、少女の周囲を覆っていた結界が、音も無く霧散していく。

 刀を収めて、髪留めを解く。広がった艷やかな黒髪を揺らして、少女は猫が散歩を終えたかのように、緩く伸びをした。

 

「……ん、終わった終わったぁ! 楽勝楽勝! ワタシは……イトは、本当にすごいなぁ」

 

 イト・ユリシーズを名乗る少女は、自分自身の名前を愛おしそうに呼びながら、自分ではない己を褒め称える。

 もうここにはいない、最愛の姉に向けて語りかける。

 

「みててね。イトはもっともっと悪魔を斬って、魔王を倒して、絶対に勇者になるからね」

 

 死ぬことは許されない。これは姉の身体だ。

 立ち止まることは許されない。姉の夢を叶えるまでは。

 普通に生きることなんて、許されるはずがない。姉は自分の代わりに死んだのだから。

 自分は必ず勇者になって、姉の死が無駄ではなかったことを……イト・ユリシーズが勇者に相応しい存在であることを、証明しなければならない。

 だから、少女は思い出す。勇者になる、と。はっきり宣言した後輩のことを思い出す。

 可愛い子だと思った。良い後輩だとも思う。けれど……

 

ワタシ(イト)以外に、勇者はいらないんだよなあ……」

 

 イト・ユリシーズは、決して自分以外の勇者を愛さない。

 勇者になるのは、自分だから。

 イト・ユリシーズは、決して他者を愛さない。

 人を愛することは、時になによりも脆い弱さになってしまうから。

 姉の愛が、自分を救った。姉の愛が、自分の命の原動力になった。そこに疑いはない。

 けれど、姉は自分を愛していたから、死んでしまった。

 才気に満ちたこの体があれば。磨き抜かれたこの剣技があれば。あらゆる悪を切り裂く、この魔法があれば。

 

 お姉ちゃんは、絶対に勇者になることができたのに。

 

 ──勇者になんて、ならなくていいからね

 ──お姉さんは、あなたのことを、本当に愛していたのね

 

 言葉は呪縛。けれど、縛られることを自ら望んだのなら、呪縛は希望にも成り得る。

 何度でも何度でも、少女は言い聞かせる。自分自身の心に説いて、馴染ませる。

 

 勇者になる。それがワタシの生きる意味。

 

 あの日、あの場所で死ぬのは本来、自分だったのだから。

 愛されるのは、勇者になったイト ・ユリシーズ(お姉ちゃん)だけでいい。そこに、かつての自分の存在は一欠片も必要ない。

 

 名前を捨てた少女は、世界を救おうとする勇者の、その在り方のみを愛している。

 勇者という存在が、多くの人々に愛されることもわかっている。

 それでも、イト・ユリシーズは否定する。

 

 ああ、そうだ。

 

 ──ワタシは愛が、最も憎い。




今回の登場人物

イト・ユリシーズ
 勇者を夢見ていた少女。

キャンサー・ジベン
 第七の蟹。仲間の情報だけは守ることができた悪魔。

──・ユリシーズ
 黒髪ロング技巧派帯刀系ドジっ子最強生徒会長(妹属性・お姉ちゃん大好き)。軽口を叩きつつ、冷静に敵を分析しながら淡々と処理するその戦闘スタイルは、誇りを重んじる騎士というよりも、己の獲物を斬ることを至上とする人斬りの剣士に近い。魔術の素養があったため、本来の適正は魔導師の方が近かったほどだが、血反吐を吐くような努力を重ねて剣技を磨き上げた。イトの身体だからこそ、できたことでもあるとも言える。
 身体を失い、名前を捨てた少女。姉の身体と、勇者になる夢を引き継ぎ、それに囚われている。彼女にとって、勇者になることそのものが、生きる意味。同時に、姉と自分を弄んだ魔王という存在への仇討ちでもある。
 姉のふりをしている自分に価値はなく、愛される必要もないと思っている。勇者になった自分が愛されれば、それで良いというスタンス。しかし、外見を褒められることは姉を褒められていることと同義なので、身嗜みには気を遣うし、綺麗だと言われれば喜ぶ。複雑骨折した心を無理矢理くっつけたような精神性。

魔王さま
 ユリシーズ姉妹の村を襲った魔物は、実は彼女の勢力とは別の悪魔が放ったもの。しかし、少女の心が壊れる前に、恨む対象が必要だと考えた。
 自分を倒してくれるような勇者が欲しくて欲しくて堪らないので、同情したり善意で助けたわけではない。それはそれとして、身を呈して妹を救う姉の精神性は、とても美しいと思った。

ジェミニ・ゼクス
 余計なことしかしないことに定評がある双子。奇しくも、この時に使った魔法による『心の入れ替え』の経験が、本編のアレに繋がる。


今回の登場魔法

華虫解世(フロルクタム)
 キャンサー・ジベンが有する固有魔法。自分自身に触れる一切のものを遮断することができる。ただし、イトが弱点を突いたように、本人が無意識に必要だと判断している光や空気は透過してしまう。
 魔王さまにも最強生徒会長にも散々にこき下ろされてしまったが、最上級悪魔の中でも近接戦闘においては並ぶ者がいないほどの戦闘力を保証する魔法。同じ魔法による攻撃以外なら、全て遮断してしまうため、高い攻撃性能を持つ魔法以外の相手なら、圧倒することが可能。相手が悪かった。

蒼牙之士 (ザン・アズル)
 イト・ユリシーズが有する固有魔法。キャンサーの『華虫解世(フロルクタム)』による防御を正面から斬り伏せる能力を持つ。詳細は不明。
 すべてを斬り裂く『蒼牙之士 (ザン・アズル)』と、すべてを遮断する『華虫解世(フロルクタム)』の関係性は、矛と盾のようなものだが、魔法は所有者の心を色濃く反映するもの。最初から守ることしか考えていなかったキャンサーの魔法がイトによって斬り裂かれてしまったのは、ある意味必然であると言える。

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